大和田光也全集第4巻 
『永き贖罪』

             (一)

 ベランダから差し込んでくる暑い日差しで目が覚めた。自然に目覚めるまで寝ていられるというのは幸せである。長い夏休みが取れる教師稼業の役得にちがいなかった。もっとも名目は自宅研修ではあったが。
 目が覚めたからといって、特に体を起こす必要もない。その気になるまでごろごろしておればよい。私は日が当たらないように寝る位置を少し変えてからニ、三度、大きく背伸びをした。
 妻の直子と一人っ子の昭雄は買い物にでも行ったのだろう、だれもいない。昭雄は長い間、子供に恵まれなかった私たち夫婦に六年前、奇跡のようにできた子である。
 私は大学を卒業して希望通り、教職に就いた。以来、生活指導部長、教務部長、学年主任とさまざまな役職をこなしてきた。今年は学校行事の総責任者になっている。私はそれぞれの立場でかなりの成果を上げたと自負している。また、教育委員会の中にも親しくできる多くの幹部を作ることもできた。さらに、管理職になるための研修会にも何度も出席している。なによりも、これまでの年次休暇は年に平均するとO・5日くらいしか取っていない。熱があろうが、下痢をしようが、とにかく這うようにしてでも学校で行った。言うまでもなく校長への受けはすこぶる良い。間違いなく管理職への道を進んでいると思えた。
 そんな中で気がかりなことがひとつあった。仕事上のことではない。母のことだ。年老いた母は今、大阪府郊外の姉夫婦のそばに独りで住んでいる。姉も義兄も私とおなじく、教員をしている。母のことは四六時中、頭から離れない。それは気の滅入ることだった。だから、時には意識的に頭から消し去るようにすることもある。
孝養がいやというのではない。むしろ逆である。私は人間として母に孝養を尽くさねばならないと思っている、またそうすることが私の生き方にも合致している。
 しかしどういうわけか、私は母と会うと、自分のこれから築こうとしている人生がまるで深い泥濘の中にでも引きずり込まれ、沈められしまうように感じるのだ。仕事に対する情熱も、将来の希望も、生きている充実感も、すべてが重く疲労し、色あせたものになってしまう。母と別れた後に残るのは無意味に呼吸しているだけの自分の肉体だった。そして、いつもいらだたしい気持ちになった。顔を見なくてもいいものであれば見たくない、と実感しながらも、人間として孝養を尽くせないものは教育者として失格だとも強く考える。結果的にどうしょうもない自己嫌悪に陥る。
 これまでの私の人生はほとんど計画通り、信念通りに進んできた。人様よりも少々明晰な頭と、努力の持続で地道ではあるが着実に築きあげてきた。だが、母に関してだけはどうしてよいかは分からない。孝養を尽くせば尽くすほど、私の人生が潰れていくような恐怖感さえあった。

             (二)

 寝ているだけでも暑くなってきた。シャワーでも浴びようと思い起き上がった。その時電話が鳴った。受話器を取ると母の声がした。
「善昭か? 電話が通じてよかった」
 いつもの声の調子と違っているような気がする。
「ついにやられた。新聞ではよく読んでいたが、まさか自分がやられるとは思わなんだ」
 意識がもうろうとしているような話し方である。
「エッ、やられた・・・いったいどうしたのですか」
「入られた。それで・・・何もかもボロボロにされた」
 私は電話を通して伝わってくる雰囲気から、ただ事ではないような気がしてきた。
「今からすぐ、そちらに行きます。そのまま待っていてください」
 受話器を置いてからすぐに出かける準備をした。私の住んでいるのは大阪市内の団地である。母のところまでは車で1時間半ほどで行ける。急用で母の家へ行く、と妻へのメモ書きをテーブルの上に置いて家を出た。
 車を走らせながら、母の言った、やられた、入られた、ということが具体的に何を意味するのかを考えた。だがまったく見当がつかず不安が大きくなった。道路は比較的空いていて、いつもより少し早く着くことができた。
 母は古い文化住宅の二階に住んでいた。姉夫婦の家は一戸建てのかなり大きなものだったが、姉からも母からも同居の話は出てこなかった。
 私は急いで階段を上った。そして母の部屋のドアをたたいた。中から何個もの鍵を外す音が聞こえてきた。ドアが開くまでにかなりの時間がかかった。
「善昭か、よく来てくれた」
 私の姿を見て母はうれしそうに懐かしそうに笑った。私も母の笑顔を見て安心した。しかし、電話の声から感じられた、ただならぬ雰囲気とずいぶん違っているのが不思議だった。
 部屋の中に入ると布団が敷いたままになっていた。薄汚れた煎餅布団である。母はその真ん中に座っていた。おそらく私が来るまでもそうしていたに違いない。
「お母さん、どうしたのですか? やられた、入られた、と言っていましたが、いったい何があったのですか」
 母のそばに座って私は性急に聞いた。
「だから・・・やられたし、入られた」
 母の顔が急に曇った。いかにも言いにくそうである。
「はっきり言ってください。そうしないと、どうしたらいいのかもわかりませんから」
「それなら言うことにする。昨夜、この布団で寝ていたら夜中に泥棒が入ってきた。家のお金を全部持って逃げた。それに・・・体の中にも入ってきよった。証拠に布団をそのままにしておいた」
 母は話し始めるとぼう然とした様子になった。私は電話の雰囲気になったと思った。
「それじゃあ、すぐに警察に行きましょう」
 やはりただ事ではなかったのだと思った。
 母を連れて近くの警察署へ行った。受け付けで簡単に事情説明した。すると別室に案内をされた。しばらく待っていると中年の刑事が入ってきた。私はいいかげんに聞かれたらいけないと思い、まず自分が社会的責任の重い教職に就いている者だということを強調してから事件の説明をした。刑事は私の話を一応聞いてから、母を無遠慮にジロジロと観察しながらさまざまな質問をした。
「とにかく、現場に行ってみないとわからないな。すぐ行こう」
 刑事は母から詳しく聞いた後でこう言って立ち上がった。
 中年の刑事にさらに若い者と年取った者と三人の刑事を母の部屋まで連れて行った。
 三人は白い手袋をはめて、部屋の中を細々と調べた。それから中年の刑事は畳の上や家具の隅などに、落とした縫い針でも探すように這いながら目を凝らせた。年取った刑事は玄関のドアや窓枠を丹念に見て、器具を使って指紋を検出しようとしていた。若い刑事は部屋を出て行って、住宅の周辺を調べたり、近隣への聞き込みをしていた。
 一時間ほど調べが続いた。三人の刑事が再び部屋の隅に寄り合った。そして小声で何か相談をしていた。その雰囲気から私は、どうやら外部から誰かが部屋の中に入ってきた形跡をつかむことはできなかったのではないかと思った。
「ところでおばあちゃん、あんた、その犯人を見たんだろうねぇ」
 中年の刑事は母の方を振り向いて尋ねた。そう言われてみて、私も母の口からそのことをはっきりと聞いていないのに気がついた。母の話し方は当然、犯人と顔を合わせた上でのものになっていたので、それが当たり前だと思い込み、確かめてみようとは思わなかったのだった。
「いや、犯人を見たわけではない。その前に犯人が私の口と鼻に薬を湿した布をかぶせて起きないようにしてしまった。その証拠に、朝、目を覚ましたとき、薬のにおいが部屋中にプーンとしていた。それに何よりも・・・このパンツを見たらすべてが分かる」
 母は敷布団の下に隠していたパンツを躊躇しながら取り出して刑事の前に差し出した。一部分が茶色に汚れているのが見えた。さすがに刑事は顔をそむけた。
「しかし、玄関のドアには鍵があるし、窓にもその跡はない」
 刑事は独り言のように言った。
「そんなことはない。以前、私が買い物に行くとき、鍵を玄関の植木鉢の後ろに隠して出かけたことがある。あいつはそれを知っていて私が帰るまでに鍵を取り出して複製している。だからいつでも部屋の中に入れる。ほんとうは今までにも何度も入られていた」
 喰ってかかるように母が言った。
「それにしても、人が家の中にいる間は内側からだけかけられる鍵もついている」
 また同じように刑事が言った。
「ドアからでなくても、この窓からでも始終、入ってきている」
 母は指先を振るわせながら窓の方に向けた。
「いや、この窓からは人が出入りできない。隣の建物とも随分離れているし、下から上がるにしても足場が全くない。もし入ったとしても、窓枠にそれなりの跡が残るはずだ。今調べたがほこりがそのままになっている。ちょっと見てください、息子さん」
 刑事は私を窓枠のところへ呼んだ。見ると確かに長期間にわたって付着したと思えるほこりが全体に乱れた部分もなくそのままになっていた。私は、いったいどう考えたらいいのか分からなくなってきていた。その時、姉の広恵が玄関に姿を見せた。
「アラッ、善ちゃんにも電話したのね。うちにもお母さんからおかしな電話があったからすぐに行こうと思ったけど、急な用事ができて今になってしまったけど・・・いったいどうしたの?」
 姉は困惑した顔で部屋の中に入って来た。それを見た中年の刑事は潮時だと思ったのか、私と姉を家の外に連れ出した。
「お母さんの言うことは今のところ、どれも事実の裏付けが取れませんねぇ。どうやら寂しいのじゃないですか。年取って独りで住んでいるとこういうことがよくあります。とにかく、犯されたということはとても考えられないでしょう」
 刑事は小さな声で親切そうに言った。母についての客観的な見方であった。母は確かに醜い老婆であった。三人の刑事は引き揚げていった。
 とりあえず母を連れて姉の家へ行った。
「本当に入って来たの?お母さん。これだけ人騒がせなことを言って」
 姉は家に入るなりいらだたしそうに母親を責める言葉を何度も口に出した。その声の調子から私は姉が母の世話をすることを嫌がっていると思った。私は姉の母に対する姿勢に許せないものを感じた。確かに三人兄弟の中で、姉に母を押し付けていることにはなっている。しかし我が身を生まし育ててくれた母親を何があっても大切にすることは人間として当然のことであり、それに反することは人道に背くことであると思えた。
「どうして、わざわざ恥じをかくために嘘をつかなければいけないのか。絶対に入って来ていた。それが証拠に実は私は犯人を知っている」
 悔しそうに母が言った。私と姉は驚いて母の顔を見つめた。
「そうよ、あいつだ。クマが入って来たのよ。見たわけではないが、間違いない」
 母は皺の多い顔を醜く歪ませて言った。それから、疲れたので眠るといって一人で二階へ上がっていった。「見たわけではない」という言葉に私と姉はさらに気分が沈んだ。
 私は姉と今後のことをいろいろと相談した。思った通り、姉の口からは私と兄に対する不満と愚痴が堰を切ったように出てきた。しかし、とりあえずしばらく様子を見ようということにした。その結果、どうしても姉に迷惑がかかるようであれば、私が母を引き取る約束をした。重い気持ちで私は姉の家を出た。
 姉は母の言うことを頭から信じていない。私ももちろん全部は信じられないが、必死に訴える母の姿から、かなりの真実があると思える。とにかく、母が恥辱を忍んで告白した内容をその子が軽く扱っていいものだろうかと思った。

              (三)

 休暇中であることを幸いに、私はその後しばしば母の家を訪れた。そのたびに母は次から次へと新しい被害の状況を訴えた。そしてそれは急激にエスカレートしているようだった。とにかく私は母の心を平安に保つことが大切だと思った。「夜眠ると入って来られるので眠らない」と言うので、私は何晩も寝ずの見張りをして母を安心させて眠らせたりもした。
 お盆の過ぎたころになってようやく母は落ち着いてきた。こちらから侵入者のことを話題に出さなければ、そのことで悩まない様子になった。ただその話題になると母の顔つきは急に変わった。悔しさと憎悪と復讐の念に堪えられないような表情を見せた。それでもどうにか一人にしておいても安心できる状態になったと思った。私は母のところへ行くのをやめた。
 この間、母が大変に苦しい思いをしたのは当然として、私も心身ともに疲れ果てた。これまでは母と少し話をしただけでも生命力を吸いとられる思いさえしたのだから。
 夏休みの前半が母のために潰されたことを思うと、私の疲労感はさらに増した。しかし、子として親に孝養を尽くすことは人間として当たり前のことだ、といらだたしくなる心を抑えるように自分に言い聞かせた。
 母の家に行かなくなってからまた、休暇らしい生活ができるようになった。母のその後の状態が心配でなくはなかったが、私からは母の家にも姉の家にも電話を入れなかった。幸いにも母からも姉からも電話はかかってこなかった。一時的なものだったのだと安心した。
 夏休みも終わりに近づいた。そろそろ学期始めの準備をしなければならない時期になった。その時になって母から電話がかかってきた。
「ここに居たら、頭が変になる。家を変わりたい」
 母の声は人間の温かさが欠落したような響きと調子になっていた。私は電話を切ってからすぐに出かけた。
 今度は先に姉の家に行った。母に会う前にその後の状態がどうだったのかを聞いておいた方がよいと思ったからだ。姉に会って驚いた。姉の顔は憔悴して一回りも小さくなったのではないかと思うほどだった。
「善ちゃんが来てくれなくなってから、すぐにまたおかしくなったのよ。それも今度は急に状態が悪い方向に進んでいるみたい。なんとか善ちゃんに迷惑をかけないようにしようと思って、連絡はしなかったけど。お母さんが電話したのね」
 姉は落ち着かない視線で言った。
 母はその後も何度も警察に通報していた。初めのうちは警察も相手にしていたが、やがて迷惑がるようになり、今度はその都度、警察から姉の家に連絡があるようになった。そしてそれは監督責任を責める言い方になってきていた。
 また、母は「クマという男をかくまって自分にいたずらをさせているだろう」と言って隣近所に怒鳴り込んでいた。それも深夜、早朝にかかわらずやっていた。そして、仕返しをすると言っては、手当たり次第に近所の鉢植えに熱湯をかけて枯らしたりした。さらに、干している洗濯物や布団に残飯を塗りつけたりもした。また、道を歩いている全く関係のない男を例の男の仲間だと信じ込み、跡をつけて行き、その家の自転車を千枚通しでパンクさせたりした。それを注意されると母は今にも噛み付きそうな形相で、反対に大声で相手をののしった。
「もう何度も苦情を言われたわ。その都度、相手の家に謝りに行った。その中には、うちの教え子や主人の教え子の家もあって、PTAでもそろそろ問題になりかけているのよ。それに町内会の役員も、放置しておくわけにはいかない、と相談を始めたみたい。主人もウチも、お母さんに振り回されてノイローゼになりそう」
 姉はガックリと肩を落とした。
 姉の家を出てから母の文化住宅で行ってみた。階段を上がり母の部屋の玄関前に着いて驚いた。ドアに大きな張り紙がしてある。それに曲がりくねった文字で、クマという男への呪いの言葉が所狭しと書き殴っている。私は不安な気持ちでドアをたたいた。
「誰じゃ!」
 中から母の緊迫した声が返ってきた。私が名前を言うと内側からカギを何個も開ける音がした後、さらに、くくりつけた針金を外す音がしてからやっとドアが開いた。
「ああ、善昭か。よく来てくれた」
 母は安心したのか、うれしそうな顔になった。しかし眼光は目に見えないものを見据えてでもいるように沈んでいた。部屋の中は壁といわず天井といわず、口汚くののしる言葉を書いた紙片が魔除けの札のように張られていた。
「毎晩毎晩、クマが入って来る。あいつの体液が体中に染み付いて、もうどうしても取り除けない。善昭、助けてくれる。広恵は何を言っても信じてくれない、怒るばかりだ」
 母は涙を浮かべて私に祈るように言った。私は、母が必死になって訴えているのに警察も姉も相手にしないことを思うと情けなくなった。そして事実をはっきりさせることが母を救うことになると思った。それで母を姉の家に連れて行き、姉に婦人科の病院へ連れていってもらった。
 二人はすぐに病院から帰って来た。医師に事情を話し、犯罪の確かな証拠が欲しいというと、医師は、そんなことは警察からの依頼がない限りできるわけがない、と追い返されたのだった。
「なんとかしてよ、善ちゃん。このごろは主人もろくに話もしてくれなくなったわ。このままいったら、ウチら夫婦も、家庭も崩壊してしまう」
 気丈な姉が涙をこぼした。姉の言いたいことは分かっている。
「それじゃあ、今度は僕がお母さんの世話をするよ」
 私は覚悟を固めて言った。
 確かに姉が母のためにずいぶん苦労をしたことは認める。しかし、孝養の道はある時点で放棄することが許されるのだろうか。もしそうすれば、それまでの孝養は偽物になるのではないか。私は、姉は自分の都合で母親を捨て、人間としての歩むべき道を外したと思った。私には自分を産み育ててくれた母を見捨てるなどということは決してできないと思った。

             (四)

 私は三人兄弟のいちばん下で、長男は東京に居る。兄夫婦も姉夫婦も教員同士の結婚で、現在も共働きしている。私たち兄弟の夫婦のなかで、大学も出ていないし、仕事もしていないのは直子だけだった。私が直子と結婚するとき、母はこのことでずいぶん反対をした。しかし結婚してからは、母は、私の家庭を大切にするには直子も大切にしなければならないと分かっているので、態度がガラリと変わって直子に対して非常に友好的になっていた。しかし、直子は母に対して悪感情を持ち続けていた。
 わが家の家計は三人家族で、大きな過不足もなくやってきていた。そこから母の生活費をねん出することは少なからず無理をしなければならなかった。
「あなたの家族は変わった人間の集まりね。長男が居るのに・・・兄さんはお母さんと生活することを極端に嫌がっている。どうせ奥さんが強いんでしょう。お姉さんの家は収入がたくさんあるのに私たちにお母さんを押し付けてしまう。教員って、非常識な人間ばかり」
 母を引き取ることについて事前に妻に何も相談しなかったこともあって、直子は不満やる方がない様子だった。だが、相談すれば反対されるに決まっていた。
 狭い団地で母と一緒に生活することは無理だった。かと言って、姉のところのように文化住宅を借りるには経済的に苦しかった。それで安いアパートの一室を借りた。大阪市内でも、マンションやビルや団地の周辺に忘れられたように残っている木造のアパートがまだあった。
 私はできるだけ時間を見つけては母の部屋に行った。
「善昭のそばに住むのが一番いい。ここまではクマもやって来ない。広恵は意地が悪い。ずいぶん苦しい思いをさせられた」
 母は決まって、姉の悪口を長々としゃべった。とにかく問題の男は来ないということで安心した。同時に、母の訴えていたことは多かれ少なかれ事実の部分があることは間違いないと思った。
 二学期が始まった。文化祭、体育祭と最も学校行事の多い時期である。私は総責任者として、他の教員の負担をできるだけ軽くするために自分で仕事を背負いこみ、忙殺される日々が続いていた。こういう時に多くの教員に恩義を感じさせるようにしておくと後々、さまざまな面で私の発言力が増すことを知っている。学校全体としての教育実績を築くには全教職員の意思統一が必要で、そのためにはとかく理屈っぽくなりやすい集団だけに人間関係で引っ張っていった方がうまくいくのだった。私の言う事を聞いて動いてくれる教師を何人作れるかが、教育委員会で評価されるような実績を上げるポイントであった。打算的ではあるが、私は勝負どころと決めて遅くまで学校に残って準備をした。
 二学期が始まってからは気がかりではあったが、母の部屋へ行く時間がなくなった。母の方からは気を使って私の家に来たことは一度もなかった。妻の応対ぶりを想像すると来ない方が母のためにもよいと思える。
 文化祭を五日後に控えた深夜だった。母が突然、私の家にやってきた。玄関でわななきながら立ちすくんでいる母の顔は恐怖に引きつっていた。 
「大変なことになった。クマがまた入って来始めた。引っ越し先を調べたに違いない」
 母の目は異様に輝き、せわしく動いていた。一見すると何事もない時のぼんやりとした目つきよりも生きがいがあるように感じられるのは不思議だった。
 部屋に上がってから母は激しくしゃべり始めた。すべて、男が侵入してきてどのような悪さをしたかという内容だった。黙って聞いていると、とどまるところがない。狭い家なので、襖ひとつを隔てて眠っていた昭雄が起きてきて私の膝の上に座り、不安そうに母の姿を見始めた。妻は起きていることは確かだったが、物音もさせず、姿も見せなかった。
「それじゃあ、とりあえず一緒にアパート行きましょう」
 いつまでたっても話が終わらないので、私は立ち上がりながら言った。
アパートの部屋に入ってみると、一面に新聞の切り抜きが散らかされていた。どの記事も事件の内容は悪辣で広域捜査にもかかわらず未解決のものばかりだった。紙面には赤鉛筆で犯人が例の男であることを憎悪の言葉とともに書き殴ってある。
「どうしたのですか?」
「これは全部、クマが変装してやっている。このことを知っているのは私だけだ。クマのやつ、警察に知らされたらいけないと思って、私に対して悪さの限りを尽くす」
 次々と切り抜きを指さしながら母は言った。
「しかし、この部屋には、内側からカギのかかる入り口のドアと小さな窓しかないのに、どこから入って来るのでしょう」
 前の文化住宅と違い今度は誰も入ってくることはできないと思えた。
「それよッ、善昭。不思議に思って調べたら、なんと、トイレの窓から入って来たのだ。それが証拠に、トイレの中に雲子をいっぱいつけている。朝、目を覚ましたら部屋中にも雲子をまき散らして、臭そうてくそうて部屋に居られない。今朝などは炊きたてのご飯の中に雲子を入れられたから窯ごと全部捨てて炊きなおした。悔しくて悔しくて、涙が止まらなんだ」
 無念さを反芻するように言う。
「トイレの窓からですか?」
 部屋の中には半畳ほどのトイレがついていた。私はドアを開けて中を見た。確かに汚物の染みらしいものが所々についている。しかしそれは大便のものであるかどうかは分からなかった。臭いはしなかった。窓を見ると縦幅は人間の頭部がどうにか入るぐらいの大きさのものである。実際にやってみなければ出入りできるかどうか分からないが、まず無理なように思える。
「クマは卑怯な男だ。私一人しか居ないと思ったら好き勝手に体の中に入って来る。善昭が居てくれると、何もようしないくせに」
 母は私の顔を見ずに行った。母は母なりに私と家族のことを気遣っているのだ。母が言いたいことは分かっている。
「それじゃ、今晩はここで見張っていますよ」
「すまないねぇ」
 母は本当にすまなさそうに頭を下げた。その姿が私はうれしかった。
 煎餅布団を敷いて母は横になった。それからすぐにいびきをかき始めた。見ると口を半分ほど分けて心地よさそうに眠っている。夜は気になってほとんど眠られない、と母は口癖のように言っていたが、私などよりもはるかに寝付きが良いのには羨ましい気さえした。私が居るので安心したのだろうか。
 私は壁に背を持たせかけて母が申し訳ばかりに置いている書物を読んで時間をつぶした。ほとんど一睡もしなかった。その間、クマという男が入っては来なかったし、その気配さえもなかった。
「アレッ、私は眠ってしまっていたのか。知らなかった。」
 母が起き上がりながら言った。よく眠っていたにしては憔悴した顔つきなのが少し心配だった。時計を見ると学校には十分に間に合う時間だった。
「誰も入って来ませんでした。安心してください。それじゃあ、学校に行ってきます」
 私は立ち上がって部屋を出ていこうとした。母が急に寂しそうな顔になって私を見上げた。
「毎朝、みそ汁を作ると、その中に入れた卵をちょっと部屋を出たすきにクマのやつに盗まれて、腹が立って仕方がない。善昭には迷惑をかけてすまないと何時も思っている」
 私の顔から目をそらせて、母が独り言のように言った。私はドアに手をかけたまま、しばらく体を動かすことができなかった。仕事か孝養か。私の頭の中で粘りつく鳥もちのような思考が繰り返された。
「わかりました。今日は一日、お母さんに付き合います」
 ドアから手を離して再び私は部屋の中に座った。と同時に、教職に就いてから約二十年の間、持ち続けてきた心の強靭な綱が母親への孝養という刃物によって、もろくも傷つきほころびるのを感じた。年平均消化率0・五日の年次休暇を今年度はこんな形で一日取ってしまうことになった。さらに、今日休むことは文化、体育祭の準備のヤマ場で責任を放棄することになると思えた。今日中に私が決済をしなければ支障をきたすことが非常に多くあった。
「朝食に善昭の好きなかまぼこ入りのみそ汁を作ってやる」
 わたしの気持ちとは逆に母はいそいそと食事の用意を始めた。腹をすかせて待っている幼いわが子のために食事の用意をしてやる母親の、何物にも代えがたい喜びを感じているようだった。私は母のその姿を見て、教育者として、一個の人間の生き方として今日、休暇をとったことが間違ったことではないと確信したかった。しかしどうしても、敗者の慰めではないのかという気持ちをぬぐい去ることができなかった。
 この日、私は一日中、母を車に乗せてあちらこちらと連れて回った。できるだけ緑の多いところへ行った。少しでも気分転換になればと思ったからだ。
「田舎によく似ている」
 母はどこに行っても同じことを懐かしそうに繰り返して言った。その間は侵入者のことも忘れてうれしそうだった。しかし夜になってアパートに連れて帰ると、すぐにまた元の精神状態に戻ってしまった。
「このまま居れば、持ち物を全部盗まれて何もかもなくなってしまう。アパートを変わらなければいけない。一日でもここには居たくない」
 自分に言い聞かせるように母が言った。
「そうですか・・・分かりました。別のところを探してみます」
 私は疲れが一度に出てくるような気がした。
 家に帰ると妻がいた。妻はどうやら私と顔を合わせたくも、話を交わしたくもないらしかった。私は自分で布団を敷いて寝た。

              (五)

 翌日、学校へ行くと、やはり私を見る周囲の教師の視線には非難がましいものが感じられた。迷惑をかけたことを思えば致し方なかった。教頭は何も言わなかったが、病気でもなさそうな私の姿を不審げに見ていた。信頼感を薄めたことは間違いない。私は、私が中心となって自分の構想に従って行事を運営してゆくことを諦めた。各部署の責任者の教師に、今後はそれぞれの判断で進めてもらうように言って回った。これで今回の文化、体育祭は私の力量を示すこととは無関係のものとなった。こんなことは教職に就いて以来、初めてだった。わずかは一日の休みだったが、時期がまずかったと自分を納得させた。
 授業が終わると、すぐに私は学校を出た。遅くまで残る必要はなかった。私が居ない方がむしろやりやすいだろうと思った。
 自宅に帰る前に不動産屋に寄った。そして別のアパートを見つけ、入居の契約をした。そのアパートには部屋の中にトイレはついていなかった。少しでも母の不安がなくなるだろうと思った。月の途中だったので今住んでいる所と新しいところの部屋代を二重に支払わなければならなかった。さらに資金も必要だった。母にかかる費用はわが家の家計からすれば計画外の支出である。その都度、妻に用意させたが、積み立て預金などずいぶん計画が狂ってしまったようだった。妻はこわばった顔をして、金を机の上に落とすと、クルリと背中を向けて口を閉ざした。
 母親を養う費用は世間的には三人の子供がそれ相応に分担すればよいのだろう。しかし、私は母親を義務的な費用で養うべきではないと思った。それは孝養にはならないと思えた。自分を産み育ててくれた母という神秘的な存在を養育費という低次元のものにしてしまってはいけないと思った。私は母に精いっぱい尽くす。兄や姉も真実の孝養の表れとしてすすんで経済的にも尽くすべきだと思った。それが人の子としての当然の姿に違いなかった。しかしそうならなくても私は兄や姉に対して経済的な援助を強要することは絶対にすまいと心に決めていた。それをすれば私の母に対する行為は水泡に帰すと思えた。とはいえ、妻の態度を思うと、内心どうしょうもないものを感ぜざるを得なかった。実際、兄や姉は全く連絡をしてこなくなっていた。
 新しいアパートに変わった。母は嘘のように静かになった。しかし私は安心はしなかった。このごろでは母の精神状態のパターンがかなり、分かってきた。環境が変わるとしばらくは例の男も来ないし、平穏に過ごせるようだった。しかしやがてまた同じような状態になると思えた。
 案の定、一カ月ほど経つと同じようなことを言い始めた。学校では私にとって無意味な文化・体育祭が終わり、中間試験も終わって一段落ついたところだった。私は今度はできるだけ時間を見つけては母の部屋へ行った。
「押し入れの天井から入って来ている」
 母は怖い目つきをし、ヒソヒソ声で言った。
「今、こうして善昭と話をしているのも聞かれている。見られている」
 私に目配せをしながら天井を指さし、さらに声を落として言った。
「上の部屋のやつも、右も左のやつも、みんな、クマの手先になってしまっている。一晩中、壁をどんどんたたいたり、天井でびっくりするほど大きな音を出して嫌がらせをする。それが頭の中でガンガン響き、痛み続ける」
 両手で頭を押さえて言った。私は話を聞きながら、ひょっとすると母は精神病ではないのかという思いが唐突に浮かんできた。精神病について私は殆ど予備知識はなかったし、親しくしている人にも関係のある人はいなかった。だからどういう性質の病気なのか明確にはわからなかったが、今までの母の言動をよく考えてみると、どうも精神的に正常な状態ではないように思えた。
 十数年前に長らく連れ添っていた父が死に、その後、年老いた母が一人で生活しているわけで、寂しさからくる心の動揺は当然である。しかし、どうもそれだけではないように思えてきた。単なる孤独な老人特有の精神状態なのか、それとも病気なのか、はっきりさせなければならないと思った。もし病気でこれほど苦しんでいるのであれば治療を受けさせて楽にしてやるのが孝養の道だった。
「お母さん、頭痛がするのであれば、一度、病院で診てもらいましょう」
 私は少し緊張して言った。母の顔がこわばった。それから他人に接する時のような表情になり、しばらく黙ったまま私の目を見つめていた。
「お前までが私の言う事を信じてくれないのか。善昭だけは味方だと思っていたのに。もう、どうにでもなれ・・・お前が行けというなら病院でもどこでも行く」
 母は肩を落とした。私は少し驚いた。母は私の考えを正確に見抜いていた。「病院」と言っただけで「精神科」とは言っていなかったのに。母は病気ではないかもしれないとも思った。
 また休暇を取った。届を提出すると教頭は無言で無視するように受け取った。私の心が痛んだ。
 午前中に母を車にのせて、精神科へ連れて行った。医者は私から詳しく事情を聴いた後、別室で母を診察した。しばらくしてから医者だけが出てきた。
「被害意識が非常に強いようです。原因はまだはっきりしませんが、かなり根深いものがあります。入院させた方が良いと思います。そうしないと家族の方が疲れてしまうでしょう。一カ月すればベッドが空きますから、それまで薬を飲ませていてください」
 医者は同情気味に言った。私は初めてのことなので医者にいろいろ尋ねた。その結果、母の症状を正確にとらえていると思えた。やり病気だったのかと思った。医者のすすめる通りの治療をした方が良いと思い、入院させる約束をし、薬と書類をもらって病院を出た。精神病などは、私には無縁のものだと思っていたので少々驚きだった。
 母の表情は硬かった。診察結果についてはお互いに何も口にしなかった。母はただ、黙って薬を受け取っただけだった。とても入院せよとは言えなかった。
 午後からは車で母をあちらこちらと連れて行った。母は、こういう時が一番楽しいようだった。しかしアパートが近づくにつれて表情が沈んでいった。部屋に入るとぐったりと疲れた様子を見せた。私は入院のことを言おうか言うまいか迷った。母も何か考えているらしく黙っていた。やがて母が私の顔を見つめ始めた。それから、きちっと正座をして、私に向かって合掌した。
「善昭、頼むから、一緒に住ませてくれ。ここに居たらクマに殺される。クマは、本気になって殺そうとし始めた。・・・都会で年寄りが一人で住むのは所詮無理じゃ」
 母は両手を擦り合わせている。頭を畳に着くまで何度も下げている。小さい、やせた体だった。私は感動した。本来、私が大恩を報ずべき母が自らの非力、無力さをあらわにして私を拝んでいる。私はどんな願いでも聞き入れなければ人間の子ではないと思った。
「わかりました。なんとか家を買って一緒に住めるようにします」
 母の表情が急に明るくなった。
「迷惑をかけてすまない」
 母はさらに深々と頭を下げた。
 家に帰ると妻の直子が一人で新聞を読んでいた。昭雄は寝たところのようだった。食卓には私の食事が置かれていた。
「医者はなんと言っていました?」
 妻は珍しく私の顔を正視して聞いた。私は、診察結果を話した。
「やりそうだったのですか。入院させるのが一番いいわ」
 ほっとしたような表情になって妻が言った。私は母との同居の件を妻にすぐに言った方がよい思った。私は話しにくい思いを痛いほど感じながらも、強いて言った。妻の顔は見る見る不機嫌になった。そして横を向いてしまった。
「私は絶対にイヤよ。昭雄があんなに怖がったじゃないの。どうするの?来年、小学校に行かなければならないのに。第一、ローンを払いながら、食べていけるかどうか分からないわよ」
 妻は壁にでも怒っているように言った。確かに昭雄は深夜の母の話を聞いてから一週間ほどおびえ続けた。夜も昼も玄関やベランダのカギを気にした。開け放しにしておくと、顔色を変えて走って行き、カギをかけた。そして極端に外へ出ることを恐れた。このことは心配ではあったが、母さえ安定すれば何とかなると思えた。
「自分の親をも愛せないような教師が他人さまの子供の教育ができるのか、おれはいつも後輩の先生にこう言っている。おれに教育者として、人間として正しい道を歩ませてほしい」
 今度は私が妻に頭を下げた。妻は黙りこんでしまった。勝手にすればよい、という意味である。

             (六)

 翌日、学校が終わってからまた不動産屋に寄って、希望の物件を探してもらうように頼んだ。
 三日後の夜、不動産屋から連絡が入った。好物件が見つかったので明日の午前中に見てほしい、昼過ぎにもう一人その物件を見たいという客がいるので、是か非か先に決めてほしい、ということだった。
 翌朝、午前半休の電話連絡を学校にした。致し方ないと思った。物件を見ると、私にとっては、少々高額だったが不動産屋が急がせるだけあって非常に良い家だった。鉄骨の三階建てで一階に車庫と一部屋あった。その部屋に母を済ませれば、それほど直子と接触せずに生活できそうだった。私は手付金を打った。これで母の件は根本的に解決できると思った。私とを一緒にいる限り、母の精神の異常さは静まっていたのだから。
 午後の授業の始まる直前に学校へ行った。教頭と顔を合わせるのがつらかった。他の教師の批判がまし視線を浴びるのも心苦しかった。私が休めば私の授業時間に誰かが自習監督に行かなければならない。その教師にすれば大きな迷惑である。私はうつむき加減に自分の机のところへ行って教科書を持ち、授業に行こうとした。その時、机の上に事務所からの連絡メモがあるのに気がついた。至急、電話をしてください、という内容で電話番号と名前が書いてある。その名前に見覚えはなかった。とりあえず授業の前に電話をした。出てきたのは母の住んでいるアパートの家主だった。
「とにかく、これからすぐにアパートの管理室に来てください。その時、詳しい事情はお話しします。そうしていただかないと、警察に連絡して、あなたのお母さんを保護してもらうことになります」
 家主はこう言って一方的に電話を切った。有無を言わせない雰囲気があった。すでに始業のチャイムは鳴り終わった。私は無意識に教頭の席に目をやった。運良く席を離れている。私は急いで午後の休暇届を書いて教頭の机の上に置いた。これで無断欠勤にだけはならない。しかし今の私の授業時間は教室に担当者も来なければ、自習監督者も来ずに、生徒は途方に暮れるだろう。それを後で知った同僚は私を批判するだろう。
 まるで犯罪者が逃げ出すかのように私は職員室を出た。車で校門を後にした時、恥ずかしさと情けなさ、対面の悪さや心の痛みなどの感情が重なり、できうるなら二度と再び校内に足を踏み入れたくないという気持ちになった。
 母の部屋に行く前にまず管理室に行った。管理人と家主とがいた。二人がこもごもに話す内容は母が姉の近くの文化住宅に住んでいた時に起こした問題をさらにひどくしたものだった。
「私もこの二、三日、夜は一睡もできず、心臓が悪くなり、疲れ果てました。アパートに住んでいる人は皆、同じです。苦情どころか、けんか腰になって私が怒鳴られます」
 管理人がおびえた様子で言った。
「お気の毒ですけど一日も早く引き取ってください。言いにくいのですが、お母さんはどうも頭が変になっているのではないですか」
 家主が困った表情で言った。私は、購入予定の家に入居できるまでの間、また別のアパートに引っ越しせざるを得ないと思った。家主と管理人に早急にアパートを出させること約束した。
 母の部屋に行った。母はキョトンとした動物的な顔をしていた。
「善昭か、足元に気をつけて入れ。押しピンを置いている」
 見ると部屋の中央の母が座っている辺り以外は、一面に畳用の長いピンが上に向けて置いてあった。
「どうしたのですか?」
 私はピンを全部拾い集めて母のそばに座った。
「クマとその手下のやつがしょっちゅう入ってくるから、痛い目に合わせている。ところがちょっと部屋を出た間に押しピンの場所を変えやがる。それで自分で踏んで痛くて歩けない」
 母は足の裏を見せた。いたるところにピンの刺さったと思える赤い斑点があった。それに全体が少しはれている。
「夜中に入って来た時には大声を出して、この棒で突いてやる。二階も両隣もみんなグルになっている。間違いない。何回、110番しても警察も来ないようになった。クマの奴は警察にまで手を回した」
 部屋の壁にモップの柄の部分だけが立てかけられてある。そして見ると、壁や天井のいたるところにその棒の先で突いたと思える跡が残っている。
「いい家が見つかりました。三階建てで、独立したお母さんの部屋が取れます」
 とにかく希望のある話題にしたかった。母のレベルで話をしていると、どこまで落ちてゆくか分からないような気がした。私は母がこのことを非常に喜んでくれると思った。しかし母は私の顔をチラッと見ただけで横を向いた。
「よく考えたがやはりお前らとは一緒に住まないことにした」
 母は少し声を落として言った。私は自分の耳を疑った。聞き間違いではないと分かると絶句してしまった。
「お前らのために、一緒に住まない」
 さらに母は付け加えて言った。私は心の中で、私と母とを結び付けていた何かがプツリ切れてしまうのを感じた。この母は私を苦しめるためにだけ生きているのか。この母は私の人生を潰すために生きているのか。私は姉の憔悴し切った顔を思い出した。姉の気持ちが痛いほど分かった。ふと、この母がこの世にいなければ、という思いさえ浮かんだ。
「お母さん、あなたは病気とはいえ、いったい何という人なんですか。人間の母親であれば、わが子が生きやすいように助けてやるのが、世の中の母というものでしょう。あなたはわが子を困らせて喜んでいるのですか」
 感情的になって私は言った。
「だから、お前に迷惑がかからないように、一緒に住まない」
 母もむきになって言い返してきた。私は我慢ができなかった。今まで仕事上で、家庭上で、そして精神的にどれほど迷惑になったか、これまでのことを全部ぶちまけた。長い時間がかかった。言いながら私は、今の言葉に表れているのが実は母に対する私の本心だったのではないか。これまで母に抱いていた孝養心は薄っぺらな観念論ではなかったのか。母に対する原因不明の嫌悪感こそが真実なのではないかと思えた。そしてそれが母に接すると疲労感のみが募る理由のように思えた。
「お母さんは病気なのです。見えないものが見えるのです。聞こえないものが聞こえるのです。臭わないものが、臭うのです」
 最後に私は言った。入院の件が喉元まで出ていたが、それだけはどうしても言えなかった。母はさすがにガックリと肩を落としてうつむいてしまった。
「それほどお前に迷惑がかかっているとは知らなかった。絶対に善昭には迷惑をかけたらいけないと思って、昭雄の顔も見たかったが、直子さんが嫌がると思って、お前の家には行かないようにしていたのに・・・」
 母はしんみりとして言った。
「このアパートはもうダメだ。管理人までクマの仲間になって、勝手に部屋のカギを開ける。ここに居たら寄ってたかって殺されるのを待つだけだ。善昭、すまないが、もう一度だけアパートを捜してくれ。今度は口が裂けても誰にも何も言わない。クマに何をされても黙って我慢をしておく。そうすればお前に迷惑がかからないのであれば。そして死ぬまで同じアパートに居る。だが、クマがいることだけは信じてくれ。でなければ、こんなに死ぬほど苦しんでいる意味がない。何時かはっきり分かる」
 母は涙を流して頭を下げた。私は母の言うことが信じられなかった。また同じ状態を繰り返すと思った。入院させるしかないと思った。そうしないと私の家庭がつぶれてしまう。なんとか入院のきっかけをつかまなければいけないと思った。それにしても母が異常な執着を持っているクマという男はいったい何者なのだろう。今までに何度か尋ねたが、母ははっきりとは答えなかった。
 どちらにしても、とりあえず次のアパートを探さねばならなかった。私は母の部屋を出た。そして三階建ての家を頼んでいた不動産屋には電話で断りを入れた。これで手付金はまったく無駄になってしまった。それから賃貸専門の不動産屋に行って、また別のアパートを捜してもらった。そしてすぐに引っ越しを済ませてしまった。
 疲れ果てて家に帰った。
「アパートの家主さんから学校へ電話があったでしょう」
 直子がつまらなさそうに言った。学校へ電話を回させたのは妻だったのだ。
「家は買わないことにした。やはり入院させる」
 私はこれだけ言った。手付金が損したこと、アパートを引っ越したこと、これまでのアパートの壁や天井の補修費をとられたことなど、詳しいことを知らせる気にはなれなかった。
 一週間ほどして病院でもらった書類を持って裁判所へ行った。そして保護義務者の判決を受けた。あとは病室がいつ空くかと、母をどう説得するかであった。
 二、三日して母になんとか入院を承知させようと思いアパートへ行った。私は母に会うのに恐怖心に近いものを感じるようになっていた。また、新しいアパートでも管理人と顔を合わせると苦情を言われそうな気がして、こっそりと母の部屋に入った。母は完全に狂った表情になっていた。
「このアパートはすぐにクマに見つけられた。引っ越ししたその夜から入ってこられた」
 母は悔しそうに言った。私はやはり同じことになったと思った。壁に立てかけであるモップの棒の先には、今度は出刃包丁が針金で固く結びつけられている。さらにもう一本増えて、それには大きなハサミがくくりつけられていた。
「今まではクマを殺してしまったら、教員をしている子供に迷惑がかかると思って殺さなかった。今度は殺してやる。そうしないと、いつまでたっても苦しみ続ける。それに誰も信じてくれない」
 異様な目を輝かせて母が言った。さらに母は新しいアパートでの状況を細々としゃべった。
 夜通し起きていて誰かが入ってきた気配がすると包丁やハサミのついた棒を大声を出して振り回した。隣で音がすると壁を叩き、二階で音がすると天井をめちゃくちゃに突いた。また、朝、二階の男が仕事に出かけてゆくとき後をつけて、乗った自動車のナンバーを控え、警察に犯人の番号だと言って連絡した。さらに、その人のポストに入っている郵便物から勤務先を調べ、犯罪者をクビにしろと会社へ電話をした。等々。
 母の話は延々と続いた。母は一見、自慢話のような、あるいは恨みを晴らした後の快活さのような雰囲気を漂わせてしゃべった。私は母の話を聞きながら、このアパートを追い出されるのも時間の問題だと思った。他人さまに迷惑をかけるような生き方を自分の母にさせるのは不本意ではあったが、なんとか入院できるまで居れるようにと祈るような気持ちになった。
「ところで、薬は言われた通りに飲んでいるのでしょうね」
 母の話を遮って尋ねた。母の状態が悪い方向にかなり進んできていると思ったので不安になった。
「一回飲んだ。そうしたら一日中、眠ってばかりいた。その間にクマに好きなようにされた。だからそれ以降は飲んでいない。だいいち、頭もおかしくないのにどうしてこんな薬を飲まなければいけないのか」
 母は怒って段ボール箱の中から薬の包みを取り出し、ごみ箱に力任せに捨てた。そして急にむなしく、いたたまれない雰囲気を見せた。私はチャンスだと思った。
「お母さん、どこに行っても結局、クマという男に見つけられるでしょう。これまで随分、悩まされ、苦しまされてきたではないですか。頭がおかしいというのではありません。この辺で一週間でもよいから入院して、クマが来られないようにして、頭を休めたらどうですか。そうしないと本当に頭がおかしくなるかもしれません」
 母は黙って聞いていた。身構えたような気配が消えた。
「このアパートに引っ越してからも、口では強いことを言っても、いつ殺されるか不安で仕方なかった。何日も寝ていない」
 しみじみと母が言った。珍しいことだった。
「・・・善昭の迷惑になるのであれば入院してもいいが、一度、入院するとなかなか出られないらしい。もう年だから一生、入院することになるかもしれん。その前に一度だけ田舎に帰りたい。善昭、なんとかちょっとでも帰れないだろうか」
 入院を承諾してくれたことは非常にありがたかった。肩の荷が下りたような気がした。しかし、故郷に帰るとなると最低でも三日間は必要になる。心苦しかったが、確かに母の言うように一生の間、退院できない可能性があると思い、最後の孝養のつもりで休暇をとる腹を決めた。
「わかりました。明日、学校へ行って休暇届とその間の自習教材の準備をしてきますから、明後日の早朝に出発しましょう」
 母の顔が早くも故郷への懐かしさに緩んできた。母の喜ぶ姿を見るのはやはり私の喜びであった。

             (七)

 午前四時過ぎに大きな荷物を何個も下げて母が私の家に来た。私もすでに起きて準備を済ませていた。外に出ると空にはまだ夜明けを感じさせる兆しははなかった。直子は結局、起きてこなかった。
 車のトランクいっぱい荷物を積んで、出発した。母は飛行機に非常な恐怖心を持っていたのと、不特定多数の人と接すると極端に緊張する性質だったので、楽しい旅をさせようと思えば自家用車で行くしかなかった。
 中国自動車道に池田インターから入った。前後ともに、走っている車のライトが見えないことの方が多いくらい、よく空いていた。兵庫県滝野社インターを過ぎたころ、空が白みかけた。それから急速に周囲が明るくなった。ライトを消した。車の真後ろから太陽光線がさしてきた。真っ青な空をバッグに所々に雲の塊が浮かび上がっている。その東側には朝日が当たり、赤味付いている。空と雲との境界の部分は眩しいほど輝いている。高い山頂も明瞭な陰影を見せて照り映えてきた。夕暮れと見間違いそうだった。
 中国道は全線、深い山中を走りぬけている。山々は紅葉にはまだ時間が必要なのだろうが、全体に赤みを帯びている。時々、山と山との間から川が流れ出し、その周辺に集落が見たりする。
「やっぱり、山がいい、川がいい、海がいい」
 ため息をつくように母が言った。母の頭の中では見えない海も同じ自然の中にあるのだろう。自然に対する思いは私も同じである。私は生まれてから高校卒業するまでは故郷の豊かな自然の中で育った。大学に入学して大阪で生活するようになってからは、故郷の自然を心の中で思い描くことが何よりも慰めになった。都会の人間の中で育った妻にはこういう気持ちがわからないようだった。
 結婚もし、子供もできて壮年になった現在でも、私はよく故郷のことを思う。時には理想郷のように思えてきたりする。それなのに高校を卒業して以来二十数年間、一度も帰っていない。母も同じだ。やはり、わが家を売り払い、故郷とその人間関係を捨てるように出てくると、帰りたくても帰りにくいものである。しかし二十数年を経るとそういう気持ちも薄れる。私は懐かしい故郷に帰りつつあるのかと思うと、子供のように嬉しくなった。母の顔からもアパートでのあの苦悩の表情が嘘のように消え、晴れ晴れとしてきていた。
 私が生まれ育った所は愛媛県の南端、高知県境に近い海辺の町だった。
戦時中に同郷の父と母は結婚し、兄と姉が生まれた。父は終戦を中国大陸で迎えた。復員して故郷に帰り、薬屋に手伝いに行っているときに私が生まれた。父はまじめな努力家だったので、やがて独立して町の中に薬店を構えた。二階建てで一階が店舗だった。幼いころの私の意識に残り始めたのはこの頃からである。
 当時はまだ国民健康保険制度のない時で、病院に行くよりも簡単で安くつく薬店は順調に売り上げを伸ばしていった。店舗を改装するたびに広く立派になっていった。この自宅から通える学校は高校までだった。大学となると、近くなどにはなかった。父は学歴を神話のごとく思っている人だった。子供が社会で成功するためには大学を出ることがまず絶対的な条件であると信じていた。父自身は貧しさと戦争のため、尋常小学校もろくに行ってはいなかったが。
「薬学部を出れば『薬局』と名前がつけられる。自分でいくら勉強しても『薬店』でしかない」
 しばしば父はこう言って残念そうにしていた。当時の制度で大学の薬学部を出なくても一定期間、薬局で見習いをして資格試験に合格すれば、薬屋を開店することが出来た。ただし、その場合、店の名称は『〇〇薬店』としなければならなかった。それだけに子供を大学に行かせることが親としてできる最善のものであると考えていた。それには犠牲的精神さえ伴っていた。
 私が小学校高学年になった時、
「これから、お客の来ない時間にお父さんと一緒に勉強会を毎日やろう」
と父が嬉しそうに言った。父は充分に小学校にも行けなかったが、勉強することが非常に好きであった。様々な書物を買ってきて、独学で広い知識を身に付けていた。実際に勉強会を始めると、実に上手に私に全ての科目について教えてくれた。
「学校の先生より分かりやすい」
と言うと父はこの上なく嬉しそうな表情をした。中学生になってからも続いたが、さすがに英語だけはまったく分からなかった。父は同じ薬屋の仲間で、大学に行き英語に堪能な店主に家庭教師を頼んで私に習いに行かせた。私の学力はずいぶん上がり、いつも学年でトップか二位であった。父との勉強会は下宿しなければならない高校に進学するまで続いた。
 かなりの費用がかかるのは覚悟で、まず兄を東京の大学へ行かせた。次の年には姉を京都の大学へ進ませた。いくら店が繁盛しているといっても田舎のことで、二人の学費を出すと収支はトントンの状態になった。二年後、私の進学の時期になった。父は考え抜いたうえで、土地家屋を売り払い、私の学費を工面した。世間から見れば、いわゆる店がつぶれたのであった。親せき縁者も批判的な眼を向けた。このことについて父は私に恩着せがましいことは死ぬまで一言も言わなかった。しかし私は事情を十分に理解しており、父に対する感謝の念は非常に強いものがあった。
 大阪の大学へ私は入学した。一緒に父も母も大阪へ出てきた。父と母は家賃が不要で給料がもらえるということで、アパートの管理人となった。そしてそのアパートの一室を私のために借りてくれた。父と母は生活費を切り詰めて、私たちの学費を出し続けた。
「ラーメンの臭いをかいだだけで、胸がむかつく」
 母は私と顔を合わせたとしばしば愚痴をこぼしていた。父と母の食事はインスタントラーメンと食パンの耳だけだった。このころから父の心臓病が進行し始めたようだった。もともとは軍隊時代に、心臓を悪くしていたが。
 私たち三人の子供が大学を卒業したころ、ちょうど預金を使い果たした。父の計算通りだった。三人とも就職し、やがて皆、結婚した。父と母は相変わらず、管理室での生活を続けた。十数年前、父は急性心筋梗塞で倒れ、首の太い血管をピクピクさせながら、狭い管理人室で死んだ。私は死に目には会えなかったが、母から侘しい父の最期の様子を聞いた。
 私は父に、報恩がほとんどできなかったことを悔やんでも悔やみきれないと思った。父は故郷を出て以来、結局一度も帰らずじまいになった。帰りたい時があっただろうが、やはり様々の事情や思いのために帰られなかったに違いない。その後、母は管理人をやめて姉のそばへ引っ越したのだった。
 中国道はどこまで走ってもよく晴れていた。三、四カ所のサービスエリアで休憩を取った。四時間半ほどで広島県三好インターに着いた。そこで高速道路を出て、国道三七五号線を南下した。それを下りきったところで、呉市に出た。本州と四国を結ぶカーフェリーの中ではここから出ている便が所要時間が最も短いことはロードマップで調べておいた。
 フェリー乗り場の阿賀港に行き、車を降りると強い潮の香りが顔一面に覆ってきた。それは海のそばで生まれ育った私と母にとっては、自身を形作っている抜き差しならぬものの気配であった。
 小型のフェリーに乗ると私と母は甲板の椅子に腰掛けた。他には誰も出てきていない。船は日常的に、すぐに出港した。寒さを感じる潮風に吹かれて私と母は海と海岸線を見守った。こんなに近くに海と接するのは何年ぶりだろう。なにしろ、家庭と学校との往復の毎日だった。たとえ海に行ったにしても頭の中には常に仕事のことがあった。海を受け入れる余裕などなかった。私は心の中から、長年のわだかまりが消えてゆくように感じた。
「こんなところに居たら、大阪のあんなゴミゴミしたところで苦しめられながら生きているのが嘘みたいだ」
 母が大げさに空気を吸い込みながら言った。
 スピーカーから、売店でうどんの準備ができたという放送が聞こえてきた。ちょうど腹も好き加減であった。私は船室に入った。客はまばらにしか居ず、いずれも常連らしい運転手ばかりのようで思い思いの格好で、長いすに横になっている。売店は船室の後ろにあった。売店といっても一坪ほどの広さで、周囲に雑多なものを並べて囲っているだけである。その中で一人の娘がのんびりした手つきでうどんを作っていた。用具などは家庭のものと変わりなかった。顔をみると、化粧などをしていなくて純朴そのものである。人間関係の希薄な者が大勢集まった都会の中で、意識的に作られた顔の表情とは全く別のものだった。自然と共に生活している人間の自然な表情があった。娘は客に対してまだ充分に挨拶もできないようであった。うどんを二つ、無造作に私の前に出した。私は娘の姿に引き付けられるものを感じた。
――ああ、私もこんな田舎に住んで、こんな船の、こんな小さな売店で、一生、うどんを作っていたら幸せだろうに
 私は限りないロマンを感じた。
 母と私は海を見ながらうどんを食べた。
「やはり、田舎の水はうまい」
 母はつゆも全部飲んでしまった。それは初めから加熱不足でぬるかったが、それでも実際うまかった。
 二時間弱で、愛媛県松山市の堀江港に着いた。車をフェリーから出して四国の地の上に止めた。
「これが愛媛の土か」
 フェリー用の駐車場を行ったり来たりしながら母は何度も同じ言葉を繰り返した。
 松山からは国道五十六号線を走った。片道一車線でカーブも多く、追い越しが難しいので、前を走る大型トラックに従って、ゆっくり走るしかなかった。途中、大洲市を通り、予讃本線の最終駅のある宇和島市まで来た時、すでに真っ暗になってしまった。故郷まであと五十キロほどであったが、宇和島で泊まることにした。二人とも、暗い時にあこがれの故郷に入りたくなかった。私は前夜の寝不足と運転疲れで、布団に横になるとすぐに寝入ってしまった。
 日が昇ると同時に宇和島を出発した。宇和島から故郷までは子供の頃は海岸沿いの曲がりくねった凸凹道で、バスで四時間近くかかり、随分、遠く離れているような記憶になっていた。ところが走ってみると、全線、舗装されている。長いトンネルも何カ所もできている。さらに所々の見晴らしの良い岬には展望台までできていた。車の通行量は少なく、一時間半少々で故郷の近くまで来てしまった。
 国道沿いには故郷のイメージとは全く関係のないマーケットなどができていたりして、様子がよく分からない。のろのろと車を走らせながら母と私はキョロキョロして二十年以上前の記憶にあるそれらしいものを探した。
「アッ、今のところ!」
 母と私は同時に声をあげた。行き過ぎた少し手前のところに国道から逸れる古い道路あった。その道路こそ記憶に残っている道であった。私は急いで車を後退させてそちらの道に入った。故郷の街の中を通っていた道が当時は主要道路であったが、五十六号線はバイパスとなり故郷の町並みをまったく避けて通過していた。
 道の分かれ目は時の分かれ目であった。
 車をゆっくりと走らせた。それに従って私は、再び取り戻すことのできないはずの幼いころの世界に自分が入っていくように感じた。周辺には二十数年前の、いやもっと以前の私の幼少のころの生命に焼き付いている情景がいたるところにあった。自然やそれに連なる道などはまったく違いはなかった。母はしきりに涙をぬぐっていた。
 前方に橋が見えた。
「あの橋だ」
 私は独り言のように言った。幼少のころはずいぶん長くて広い橋と思っていた。町で一番立派な橋だった。それが乗用車がすれ違うのが精いっぱいのものだった。また、下を流れる川は、私が最もよく遊んだところだった。あれほどとうとうとした水をたたえ、深くて恐い淵もあった川が、たいして広いものでもなく、恐れるほどの水量があるわけでもなかった。
 これら幼いころに刻印された故郷の映像と今、壮年になって見る情景とのギャップは私を全く落胆させなかった。いやむしろ、私の感覚を、自然の中で無邪気に遊び回っていた頃のものへと引き戻してくれた。
「駄菓子屋がそのままあります。魚屋もそのままです。あそこには同級生がいましたが、今頃、何をしているのでしょう」
 私は子供のような心になって母に話しかけた。
「本当に・・・二十年前と変わらない。懐かしい。うちの家もあるだろうか」
 感に堪えられるように母が言った。
 車で通り過ぎたのでは惜しいと思い、車を止めて歩いた。新しい家や店は国道沿いに建ち、古い町並みはそのまま残っていた。いかにもさびれていた。わが家があった場所に近づくにつれ、鼓動が激しくなり、二人とも、足が速くなった。町筋とは言っても、狭い道路を挟んで少しばかりの店が並んでいるだけである。それも所々は廃業の状態だった。私と母はすぐにわが家の有った所へ着いた。そしてぼう然と立ち尽くした。お互いにしばし声も出なかった。私が記憶という心の働きができ始めてから高校卒業まで生活した家が、母にとってはおそらく人生で最も豊かな生活ができた家が、建て替えもされずにそのまま残っていた。一階の店舗の部分の作りも変わってはいないが、商売はしていなかった。さすがに家のそばの電柱に取り付けていた薬店の看板はなかった。また側面の壁板はいたるところが外れて赤土の肌が見えていた。それでも、父が知り合いの大工に頼んで作ってもらった、二階の窓から出入りする物干し台はそのままであった。お盆には、そこに果物やお菓子を備え、夜空を見ながら兄弟で美味しい物を食べたものだった。
 少し気兼ねはしたが、懐かしさのあまり、母と私は裏庭へ行ってみた。特に手入れなどはされていない。それだけに昔の面影が残っていた。
 夏には毎晩、ごみを燃やして湯を沸かした。それをブリキのたらいの中に移して湯浴みをした。父は客の合間に裏庭にやってきて、私の小さな体をゴシゴシと力強く洗ってくれた。適当な涼し外気と暖かい湯で何とも言えないすがすがしい気持ちだった。その後、着替えて涼み台で遊んだ。やがて店を閉めた父が来て、夜遅くまで一緒に遊んでくれた。
 頭の中にあふれるように幼い頃の映像が浮かんでは消えていった。

             (八)

 深浦小学校、これがわたしの通っていた学校だった。三歳年上の兄と二歳年上の姉も一緒に通っていた。自宅からはかなり離れていて、岬の突端を埋め立てして建てられていた。教室の窓からは季節や天候によってさまざまに変化する深浦湾を見渡すことができた。
 私は学校から帰る途中に、いつも船着き場の待合所に寄った。そこは浮き桟橋に通じていて、陸地からは行いけない近くの島々や漁村と連絡船が行き来していた。父は、だだっ広くて薄暗い待合所のさらに暗い奥の方に番台のような仕切りを作らせてもらって、そこに薬を置いて店を出していた。父は戦前、漁師や炭焼きをやっていたが、出征する前には薬屋に丁稚奉公に行っていた。戦後、旧満州から復員して、自分で狭いながらも開業したのだった。
 商売は始めは連絡船の乗降客だけであまり売れなかったが、そのうち父は客が居ない時には店を占めて、自転車であちらこちらと薬を持って売り歩くようになった。特に大漁旗を立てて帰ってくる船などを見つけると、その家に必要そうな薬を持っては売りに行った。また、キビナゴの季節になると船団が帰ってくるたびにたくさんの薬を持って船員の家を回って売った。そうしていると待合所に買いに来てくれる客が乗降客以外にもどんどんと増えていった。私が店に寄るたびに棚の上の薬が多くなっていって、こぼれ落ちるのではないかと思われるほど積み上げるようになってきていた。
 私が学校の帰りに寄ると、父はうれしそうにして背負っている鞄を外して棚の上に置き、すぐ近くの村で一軒しかないお菓子屋に連れて行ってくれた。そして私の好きな物を買って食べさせてくれた。また、ちょうど薬の配達に出かける時などは、私を自転車に乗せてあちらこちらと連れて行った。途中でオモチャなどを売っているところがあると、私の欲しい物を買ってくれた。私が子供の中で二歳離れて一番下であったことと、顔つきが可愛らしかったこともあったのかもしれないが、父母ともに私を兄や姉よりもはるかに大事にしていた。さらに、学校では先生から大変に賢いと、よくほめられていたことも両親の気を良くしていた原因のようだった。
「どうして、善昭ばかり可愛がるのか」
 兄や姉は事あるごとにこう言って、抗議をしていた。
 父は仕事に徹していた。店の休みは盆に一日と正月に三日しかなかった。風邪をひいて高熱が出てフラフラしながらでも店に出た。また、台風の時でも配達に行った。商売が繁盛するにつれて、反比例に私と遊んでくれる時間が少なくなっていった。その事を父も気にしているようだった。店が少しでも暇になると桟橋で釣りをしたりして相手をしてくれた。私はとにかく父と一緒に遊ぶのが何よりも楽しかった。
 その後、商売が繁盛して一階に店舗を構える二階建ての家を購入することが出来たのだった。
 懐かしい姿のままの我が家を目の当たりにすると思い出は私の頭の中に次から次へと際限なくよみがえった。どのくらい時間がたったのかわからなかった。
「あの時買ってくれた人がそのまま住んでいるのだろうか」
 母の声で我にかえった。母は自分の家ででもあるかのように裏口の方へ歩いて行きかけた。私はあわてて母を止めた。
「他のところへも行ってみましょう」
 魅惑的な魔力に逆らっている感じで、私は母を連れて家から離れた。
 母と私は思い出の場所を歩けるだけ歩いて回った。母も私もこれ以上の満足はないと思うほど幸せだった。
 まだ夕方には時間があったが、国道沿いのところで、早めに今晩の宿泊先を予約した。かつてはなかった旅館である。
 母が隣村の叔母の家に行きたいというので連れて行った。叔母は母の妹で、二十数年ぶりに会った私が誰なのか、説明されなければ分からなかった。母と叔母は非常に懐かしがって、ゆっくりと話がしたい様子だった。叔母が後で旅館まで母を送って行くというので、私は一人で出かけた。
 ぜひとも行ってみたいところがまだ一カ所あった。それは父が当時出始めたばかりのスクーターを購入した時に連れて行ってもらった場所だった。海の景観があまりにも雄大だったので私の心に強く焼き付いていた。道順はおぼろであったが、記憶をたどりながらどうにかその場所に着くことができた。地元の人もめったに通らないところだった。
 半島の突端である。視界を妨げるような高い立木はない。背後の山肌には黒潮の関係で亜熱帯性の植物が茂っている。陸地は先端から急な断崖となって、はるか下方の海面へと落ちている。無辺際の太平洋が視界いっぱいに広がる。沖の磯といわれる岩礁の周囲には白い波が立っている。天気は良いが海は荒れ模様である。沖を通る、かなり大きいと思える船がミニチュアのように見え、しばしば海中に消えてしまう。海の存在感に対すると船は芥子粒のようだ。あまりにも、不均衡で、あの中に人間がいるのかと思うと心もとなく感じる。時々、からだが揺れるような強い風が吹きつけてくる。
 この自然は思い出のものではなかった。現在の私に対峙している偉大な自然であった。考えれば二十年や三十年、否、百年や二百年の歳月など大自然にとっては変化の節目にはならないだろう。私は自然と一体になっていくのを感じた。大阪での日常生活が別世界のことのように思える。さらに母のことさえもそう思えた。このまま自然のうちに死んでいったとしても何の不思議もないように思える。そう思うと死んだ後も私は自然と共に存在するのではないかという気がした。
 私はいつまでも立ちつくしていた。
 背後のざわざわという物音にはっとした。振り向くと木々の間を数匹の野ザルが移動していた。そのうちの一匹と私の目が合った。サルは、すぐに目をそらせて、特に私を意識するでもなく、山中へ消えていった。日はずいぶん傾いていた。私は車に乗りエンジンをかけた。
 狭い道なので徐行運転で帰っているうちに、ライトをつけなければならない暗さになった。ライトに照らされた道路を走っていると妙に現実感が戻ってきた。幼少年期に懐かしく浸ることから、少々客観的に振り替えることができた。そうすると、気が付いたことがあった。それは私の故郷での思い出がすべて父との関係の中にあるということだった。母の影はほとんどといっていいほどなかった。
 幼少年期の私の記憶にある母の姿はたいていは布団の中で寝ているものだった。それも眠ってはいなかった。いつも映画でも見ているような目つきをして横になっていた。体の具合いが悪いというふうではなかった。その証拠に風邪をひいて寝込んだときの様子とは明らかに違っていた。布団のそばには常に大きなブリキの缶が置いてあった。毎朝、その缶の中には小便がたまっていた。母は起き上がると自分の排せつしたものをしげしげと見てから、寝間着のままブリキ缶を持って裏庭の畑に行き、大事そうにそれをまいた。家に入るとまた布団の中に潜りこんだ。ブリキ缶の内側は小便でボロボロに錆ていた。いやなにおいが常に周囲に漂っていた。
 私たち三人の子供の食事はたいてい父が作っていた。特に朝食の時間に母が布団から起き上がってくることはほとんど無かった。ある朝、私たち三人は大きな鍋に十分に入っているみそ汁で腹いっぱいに食事を済ませ、学校へ行こうとしていた。父はまだ食事をしていなかった。その時、母が珍しく起きてきて憤懣やるかたない顔をして食堂に入ってきた。そして理解できない怒声を発して鍋をひっくり返し、また寝床の方へ戻っていった。父は眉間にしわを寄せ、黙って堪えていた。これと似たようなことは日常茶飯事にあった。しかし父が母に手をかけたり、大声を出したりしたことは一度もなかった。
 このことに思いが至ったとき、私は父が母に対してどのような感情を持っていたのかが理解できたような気がした。母の精神の異常さはすでに私の幼少のころより始まっていたに違いない。父はそれを知っていただろう。しかし当時は精神病といえば普通の病気ではないという偏見があった。おそらく父は一家のために母の病状を進行させないようにと、自らを防波堤として人知れぬ苦労をしたに違いない。
「おまえたちに言ってもわからないことだが、父さんは生涯、母さんに苦しめられた」
 これは父が死ぬ少し前に私に漏らした言葉だった。今になって納得できると思えた。父が死んで防波堤がなくなった結果、母の攻撃の矛先が今度は誰彼かまわずに向けられたのだろう。そして徐々に病状を悪化させたに違いない。
 父は母を嫌悪し続けていた。表面的に波風を立たせなかっただけに、それは心の底に深く根を張っていった。私が母に対して持つ原因不明の嫌悪感は無言のうちに父から受け継いだものだったのだ。母と会うと私の人生がつぶされるように思える恐怖感もまた、父の抱いていたものなのだ。
 それなのに私が母に孝養を尽くさなければならないと思ったのはなぜか。それは何よりも父の恩に報いたかったことと、一般的な義務的な孝養心とからであった。母に対する真実の感情は嫌悪と恐怖感でしかなかったのだ。

             (九)

 日曜日のまだ薄暗い早朝だった。電話がかかってきた。私は前夜遅くまで教育委員会に提出する書類を書いていたので、半分寝ぼけた頭の中で、電話の音だけを聞いていた。妻が出たようだった。
「お母さんからよ、お父さんが倒れたんですって。すぐにアパートの方に来てくださいということです。ただ、今、救急車を呼んでいるのでもう少ししたら病院に行くだろうということです。管理室に来たらどこの病院か分かるようにしておくと言っています。危篤状態のようですよ」
 妻が少し緊張した声で寝ている私を揺さぶりながら言った。私は夢うつつの中で妻の言葉を聞いた。そして狼狽した。人間の心というものは実に不思議なものであった。この妻の言葉を聞けば、普通であれば子供として、しかもおそらく並の子供以上にはるかに世話になり、心配をかけ、犠牲的に尽くしてくれた父親に深い感謝の思いで、すぐにでも飛んで行くのが当然だろう。ところが私はただ狼狽するだけだった。父の危篤に対してどうとらえ、どう対応していいのか皆目分からなかった。あれだけわたしを大事にしてくれた父が今、この世の生を終えようとしている。父の立場を優先して考えれば、生きているうちに飛んで行ってこの世の最後のお別れを感謝の念とともに果たすべきであった。ところが私は、父のことよりもまず自分の立場を考えた。
 父の死に直面するのは怖かった。不安だった。いったいどのように対応していいものか全く心構えができなかった。だから死を直前にした父のそばへ行くことができなかった。父の重大な状況よりも自分の小さな心のこだわりを優先させてしまった。
「今朝は気分が悪い。昨夜、ろくに寝ていないから。もう少し休んで、気分が良くなったら行くからと伝えておいてくれ」
 わたしはこう言って、布団から起き上がろうとはしなかった。そして寝ながら、なんとか父のそばに行けるように考えをまとめようと思った。しかし、必死になって考えれば考えるほどあの父の死に直面できるような自分にはならなかった。語り切れないほど世話になった父親に対して、子供としての自分の姿は何と情けない態度であることかと思った。自分の不甲斐無さを嫌というほど感じた。
 考えれば父は、とことんわたしを守ってくれた。私に気を使わせたり悩ませたりするようなことからは、すべて父が防波堤となって私を守った。だから、私はある意味で言うと父親の本質といえるもの、本体といえるものとは全く接することがなく、父親としての側面のみに接して生きてきた。父親自身も私に対して、自分を隠して象徴的な父親としてのみ接していたともいえる。だから私と父は例えてみれば赤ん坊と母親のような関係だったかもしれない。それは成長してからもまったく変わらなかった。
 父の臨終はすべての外形的な要素を全部振り捨てて、たとえば父親という立場も捨てて、一個の人間として、一個の生命的存在としての認識を私に要求するだろうと思えた。そういう場に私は立ち会う勇気が出なかった。父が今まで一度も私に見せたことのない一個の人間としてのありように接した時、私は戸惑うしかないだろうと思った。もしも幼い子供の目の前で親が事故で死んだとき、子供は自分を育ててくれた親であることを忘れて、むしろその悲惨な親の姿を見て逃げるだろう。私の精神状態はそうであった。父が私をこのうえなく大事にしかわいがり、自分の肉体をも犠牲にしてまでも世話をしてくれたからこそ逆に私は、甘えん坊に育ち、その父の死に直面することから逃避したのだ。
 私はわざと寝過ごした。しばらくして再び電話がかかってきた。また妻が出た。
「あなた、ご愁傷さまです。今病院で、お父さんが亡くなられたそうです。昼過ぎには病院から遺体を葬儀場の方へ運ぶそうですので、できるだけ早く来てくださいということです」
 妻が当然のように言った。私にはよそよそしく冷たく感じられた。
 私は悲しむよりもむしろ、ほっとした。そして、父の遺体であれば対面できると思った。危篤から亡くなるまでの間の時間を考えると危篤の連絡を受けてすぐに帰れば、充分に父の生きているうちに会うことができたはずだった。
 私は昼近くになってからゴソゴソと起き出し、着替えをした。そして重い心と重い足取りで、昼過ぎに妻とともに葬儀場へ行った。
 到着して恐る恐る祭壇へ行った。物言わぬ父が横たわっていた。私は極力、父の死の実感が湧かないように自分を制御した。だから、涙も出ないし、悲しい感情もあまり出てこなかった。
 通夜の時にも極力、私は自分の感情を抑えた。
 翌日は午後から、告別式となった。告別式には平日にもかかわらず、多くの学校関係者が来場してくれた。その時も私はそれほど悲しい顔をしていなかったに違いない。そして式が終わった後、斎場へ行った。最期に焼却炉の中へ父を送った。しばらく時間をつぶしてから、少し早かったが骨上げのため再び斎場へ行った。
「少し時間が早いようですが、できていると思います」
 職員はこう言って、父を入れた炉の前に行った。そして炉の扉を開けた。開いた瞬間に、熱風が顔に吹きつけてきた。私は思わず後ずさりした。引き出された台の上を見ると、胸のあたりがまだ燃えていた。所々に残った骨以外には何もなくなっていた。私は気を失いそうになるほどの衝撃を受けた。あの父がいなくなったのだ。あの父がこの世から姿形も全く無くなったのだ。
 私はこの時、初めて父の死を激しい衝撃とともに実感した。今度はあまりにも強烈過ぎて、涙も感情も出てこなかった。今まで私にとって最も偉大な、最も大きな存在だったものがポッカリと大きな空虚な穴になってしまった。私は残った父の骨を箸でつまみながら、心の奥底から突き上げてくる思いにあわや高温の炉の上に打ち伏せそうになった。
 父は自分の死をもってまで私に人生を教えてくれたのだ。このように感じることができた。
「善昭、人生の行き着く先はこれなんだ。いかなる人間も結局はここがゴール地点なのだ。とするならば、生きている間にどのような生き方をすべきなのか分かるだろう。こうしてお父さんが先にゴールを教えてやったよ。賢い善昭だから、このゴールが必ずくるのであれば、どう生きたらいいのか分かるだろう。これがお父さんとの最後の勉強会だ」
と言っていると思えた。私は父への限りない感謝の思いで涙がとめどもなくて出て来て、骨を拾うことができなくなった。
 父の死を通して私の心に深く残ったのは、生涯消えないと思えるほどの後悔の念であった。
――どうして、子として、最愛の父親に孝行できなかったのか。自分は人間の子として道を踏み外している
 これこそが私の心の奥底で常に私自身を責めている情念であった。私はこの慙愧の念をどうにかして解消したかった。その思いを深くしている時に母から自室への侵入被害の電話がかかってきたのだった。私は無意識のうちに母の存在を父への代償として捉えてしまっていたのだ。ところが実際の母は孝養の対象になるべき人ではなかった。
 このジレンマに私は気づかずに悩んでいたのだ。私が母に対して、時として激しい憎悪や捨て身の怒りを感じるのは理不尽なことではなかった。それは父が何十年も、表に出したくても出せずに、それでいて常に燃えたぎらせていたものなのだった。私の母に対する感情はすなわち父の感情であった。
 私は母に深くかかわり始めてから常に感じていたスッキリしないものが、見事に晴れ渡ったように思えた。
 旅館に着いた時、ちょうど叔母が一人で玄関を出てきたところだった。私は叔母を暗がりに呼び寄せた。
「おばさん、クマさんは元気にしていますか?」
 私は叔母に鎌を掛けた。母が執拗に口にする男はおそらく親戚縁者に関係のある者ではないかと思ったからだ。叔母の顔つきが急変した。それまでの愛想のよかった表情が醜く歪んだ顔になった。
「善昭さんはどうして熊雄のことを知っているの?あなたが生まれる前にすでに死んでしまったのに・・・今頃になってそんなことを口に出すものではないですよ。姉さんがかわいそうだから・・・あなたのお父さんの兄さんは悪い人だったからねぇ」
 叔母は当りをキョロキョロ見まわし、密談でもするような声で言った。私は図星を当てたと思ったが、具体的なことを聞く気はなかった。叔母もこの話には敬遠してそそくさと帰って行った。
 私が名前を知らなかった父の兄の熊雄と、その死。母の横暴と精神疾患。父の生涯にわたる忍耐。これらを結び付けると、私の軽蔑する一つの俗な物語りができることは間違いないと思った。その内容には関心はないが、確かなことは精神的に異常があるにせよ、いまだに母の心の中にその男が強烈な存在感を残しているということである。また、その男が紛れもなく、すでに死んでいるという事実であった。クマという男について母が言っていることは一部にしろ事実ではないかという、私の一抹の希望は完全に消え去った。これで母の哀訴がすべて幻覚であることがはっきりした。入院させる以外に方法はないと強く思った。
 翌朝は、四時過ぎに旅館を後にした
 途中、松山の市街地で少々、渋滞しただけで、あとは順調に走った。フェリーにも待ち時間なしで乗ることができた。
 中国道に入るとずいぶん、故郷から離れてしまったように感じる。同時に故郷を訪れたことが遠い過去のことのようにも思えてくる。反対に、大阪での日常生活の感覚が身に添うように戻ってきた。できれば大阪に近づいてほしくなかった。それなのに車は快調に走った。
 暗くなりかけた頃、見慣れた、無味乾燥な都会の建物が窓から見えてきた。
「また、嫌ないやな、苦しい生活が始まる。帰ってこなければよかった」
 大阪が近づくにつれ寡黙になり、気の滅入る様子を見せていた母が低い声でつぶやいた。すでに顔つきも雰囲気も出発する前と全く同じになっていた。
「せっかく帰ったのに、こんなに早く戻ってきて、面白くもない。善昭が慌てるから。会いたい人がまだいたのに」
 母はぶつぶつと不満を言い始めた。それを聞き流そうと思いながらも聞いているとを、私の心もまた出発前と同じ状態になった。いや、それ以上にもっととげとげしいものになっていた。
「そんな言い方をすれば、親孝行の意味がなくなってしまうでしょう。今までにどれほど、お母さんのために犠牲になったか分からないのですか」
 恩着せがましく私は言った。自分でも実に嫌な言い方だと思った。
「よくも、そんなことが言えたものだ。赤ん坊のころから育ててやったのに。子なら親に、たかがこのくらいのことをしてくれて、当たり前だろう」
 少しの間沈黙した後で母が攻撃するように言った。私は危うくハンドルを切りそこなうところだった。私は母に育てられた記憶はない。母に孝行をしようという気持ちはただ、父に対する思いから不本意に出てきているに過ぎない。そのことが母は全く分かっていない。母はただ、世間の道徳観を自分の都合のよいように考えて、私を縛ろうとしているだけだ。それにしても人間として、これほど私が自分を犠牲にしてまでも尽くしていることが感じられないものか、と怒りとともに情けなさをいやというほど感じた。ハンドルを持つ手が激情にゆれたが、私は何も言わなかった。母もそれ以上は声を出さなかった。まったく暖かみのない二人の関係になったことを感じた。
 中国道を出るとすぐに大阪の日常的な渋滞の中に紛れ込んだ。母のアパートに着いた時にはすっかり暗くなっていた。玄関から少し離れたところで私は車を止めた。今度のアパートの管理人とは引っ越しをしたとき以外には顔を合わせたはいなかった。会えば母の言動を非難され、出ていってくれと言われることは間違いなかった。なんとか入院まで居させないと無駄な労力と費用が要ることになる。
 母は気の進まない子供のように不機嫌に荷物をまとめ、のろのろと車から降りた。
「入院の日取りはまた知らせに行きます。準備だけしておいてください」
 運転席に座ったまま、窓から顔を出して私は言った。
「何を言うか。悪くもない者がどうして、入院しなければいけないのか。無理やり入院させるくせに。それでも、邪魔に思われるよりはいい。入院してやる」
 いかにも腹立たしそうに母は玄関の方へ行きかけた。そしてちょっと立ち止まった。何を考えたかまた運転席のところへ引き返してきた。
「善昭、これで気が済むだろう」
 こう言って母はスピードメーターの上に千円札四五枚を投げつけて、玄関の中へ入って行った。札はヒラヒラと足元のペダルのところに落ちた。その金は私が母に月々渡している生活費だった。私は札を拾う気にもなれなかった。できればその金をバラバラに破いてゴミ箱に力任せに捨てたかった。
 私は嫌悪感の限界を超えるような気がした。こんな気持ちで家に帰り、さらに妻の冷たい態度に接するのを思うと、精神的に堪えられないように思えた。
 私は車を当ても無く走らせた。そうして心の中で、もうすぐ入院なのだ、と何度も繰り返し自分に言い聞かせて心を鎮めた。

            (十)

 病院からは午後に来るように言われた。仕方なく身を切られるような思いでまた年次休暇をとった。母とは、私の家で昼食を一緒にしてから病院に行くことにしていた。食事を共にすることにしたのは母への孝養心からというよりもむしろ、孤弱な一老婆に対する人間としての哀れみの気持ちからだった。強いて私はそう思うようにした。できれば昭雄も一緒に食事をしてほしかったが、直子は朝早く実家へ連れて行ってしまった。前に母の話を聞いてひどい恐怖心を抱いたことを考えると仕方のないことだった。それでも直子だけは私の頼みを聞き入れて昼食の時間には家に帰ってきた。母に対する感情は冷め切ったものがあったが、もしかすると病院で生涯を終えるかもしれない母親の入院を、せめて子供夫婦とでも食事を共にして送ってやるという、世間並みのことはしてやろうと思った。
 正午過ぎに母が小さなハンドバッグだけを下げてやってきた。顔は恐怖と憔悴で縮まったように見える。全く落ち着きがない。何度も急に身をそらせて天井を見上げたり、ふすまや壁の変哲もない張り紙に何か意味を見いだすような鋭い視線を向ける。
 食事は母が来る少し前に近くの中華料理店から取り寄せていた。直子はそれらをこたつ兼食卓の天板の上に並べながら、異様なものでも見るように母の顔チラチラと見た。母の鬼気迫るような雰囲気に直子の頬が引きつった。
「お母さん、ゆっくり食事をして、それから、病院へ行きましょう」
 母は何も言わないし、直子もこわばっているので、空気を和らげるように、私は言った。
「フン、そうか」
 腹を立てたように母が答えた。
 気まずい食事が始まった。なんと下手な料理か、と私は思った。母も直子もできるなら食べたくないというように無理に口を動かせている。食事の半ば、私は、母の荷物が入院するにしてはあまりにも簡単過ぎるのが気になった。
「食事が終われば病院に行って入院しましょう。入院の手続きは済ませていますから」
 私は不安になって念を押すように母に言った。母の動かせていた箸が止まった。それから、きたないものでも投げ捨てるように天板の上に箸を放った。
「入院なんかしない。気がおかしくもないのにどうして入院せねばいけないのか。親をなんと思っている」
 この言葉を聞いた瞬間、私は自分の顔から血の気が失せるのを感じた。大変な犠牲を払って、どうにか漕ぎ着けた唯一の解決の道がいとも簡単に母の気まぐれで無に帰してしまったと思った。私の心の中の温かい人間らしい部分が消え去っていった。残ったのは激しい憎悪の冷たい炎だけになった。
 残念なことに、このとき私は強制的な入院方法に考えが至らなかった。私はどこかでまだ、母を病人とは思はず、健全な人間と思いたかったのかもしれない。
「お母さん、あなたという人は・・・」
 私はこれ以上ものを言うことができなかった。体全体がガタガタと震えてきた。
「どうしても犯人を捕まえてやる。こんなことが世の中に許されてたまるか。狂人扱いするな」
 母は醜く、頑固に言い切った。その頑さに私は恐怖心を抱いた。万が一、今日入院させなかったとしたら、さらにまた、休暇を取る羽目になるに違いない。アパートの管理人からも苦情を言われ、わびしい思いをしなければならない。そしてきりも無く、次から次へと住む所を探さなければならない。そのたびに費用も重なる。それやこれや、私の頭の中で先への不安が激しく渦巻いた。そして行き着くところ、私の人生と私の家族の破滅であった。
 何よりも私は母の存在に対する精神的負担に耐えられなくなっていた。これ以上私の心中に不安定な状態の母の姿を残すことは私らしい明晰な精神の働きの破壊を意味した。
「一体、どれだけ私を苦しめたら気が済むのですか・・・」
 私は母をにらみつけて言った。うなるような声になってしまった。母は不満らしく口をとがらせた。その顔を見ているうちに、私は自分でも抑えることのできない巨大な憎悪の心が命の底から湧き上がってくるのを感じた。許すことはできない思った。母親として、人間として。
 今、目の前に生存している一老婆をこのままにしておくことは人間に対する冒涜になると思えた。しかも生きている限り老婆は自らの冒涜を自覚することはあるまいと思えた。であるなら、私は自分の人生を投げ捨ててでも、この老婆に命を断つという方法で分からせなければならないと決意した。
「入院は絶対にしない。もし、入院するのなら田舎に帰る。それができないのなら、首つって死ぬ」
 母は、眼底のさらに奥から放つような鋭く異様な眼光を見せて言った。
「それほど死にたいかッ!」
 私は喉を絞るようにしなければ声が出なかった。私は料理を置いている天板の両端を両手でつかんだ。天板はこたつやぐらの上に載せているだけのものだった。それを力任せにはね上げた。料理が周囲に飛び散った。直子は箸を持ったまま、ぼう然とした。私は分厚い板を持ち上げながら立ち上がった。そして仁王立ちになって板を頭上にかざした。母は遠い魑魅魍魎でも見るように私の顔を見上げた。私は体中に強大な力が満ちてくるのを感じた。父の怨念が私の体を貫いていると思った。
 このとき私は確かに感情的殺意に身を任せていたとはいえ、天板を振り下ろせばどういうことになるか、よく弁えているつもりだった。母も私も、直子も昭雄も、ただそれだけで残された人生が一変してしまうことを判断する理性は十分に持ち合わせていた。しかし、父の怨念がその一線を乗り越えさせたと思った。
「思い知れッ!」
 私は両腕にある限りの力を込めて天板を打ち下ろした。天板が母の頭部に当たる瞬間、母の眼差しが今までにない様子を見せた。それはすでに遠い昔に忘れ去っていたが、幼いころ、キカン坊の私が欲しいものを買ってくれとおもちゃ屋の店先で泣きわめくの優しくあやしてくれた時の眼差しだった。暖かかった。母親の眼差しだった。故郷に帰った時にも思い出さなかったものだった。
 驚くほど大きな乾いた音がした。直子は叫び声をあげて両手で顔を覆った。母は無言のまま天板の下に打ちすえられた。私は少しの間、すべてが空白のような感じを味わった。それから、全身の力と精神力を出し切ったあとの空しさのようなものを感じてきた。それは子供のころ、自分の思い通りに行かず、かんしゃくを起こして、何か大切なものを力任せに壊してしまった時の心の状態に似ていた。
 私は緩やかに正気に戻った。天板をゆっくりと持ち上げた。着古しの老いた母が飛び散った料理で汚れ、ボロのように転がっていた。衝撃の強さからすれば少ないと思える一筋の鼻血が流れ出していた。私は母を何度も呼び、眠っている者を起こしでもするように体を揺すった。何の反応もなかった。
「すぐに来てください。主人の母が・・・」
 直子が救急電話をかけていた。慌てながらも次の言葉を考えているのが分かった。
「・・・転んだはずみにテーブルで頭を打ちました。意識不明です」
 私に必死の思いのこもった視線を向けながら直子は言った。電話を切ってから散らばっている部屋を急いで片付け始めた。どうやら救急隊員が部屋の中に入って来たとき、母の事故に不審を抱かせないようにするためのようだった。私は母を奥の部屋に移そうと思って抱き上げた。その時、果たして今までにこのように母を抱いたことがあっただろうかと思った。いくら記憶をたどっても思いだせなかった。生まれて初めて母を抱き上げたのだった。思ったよりはるかに軽かった。しかし確かな量感が両腕を通して私の全身に感じられた。この肉体こそ私を産み、育ててくれたものだと思った。
 母を奥の部屋にあおむけに寝かせた。母の肉体の内部からは自発的な筋肉の抵抗感が全くなくなっていた。呼吸をしているとも思えない。私は脈を取ってみた。動きはないように思えた。
 遠くから救急車の音が近づいてきた。
「つまずいて、頭を打ったのよ。昭雄の将来を考えて」
 片付けを終えた直子が私の目の奥をのぞき込むようにして言った。驚くほど重々しい声に聞こえた。直子はそれから部屋を出て、救急車を迎えに行った。
 やがて団地のそばで警報音が止まった。すぐに隊員と直子が部屋の中に入って来た。直子は隊員に作為の出来事を伝えた。隊員はそれをメモに書いていた。私はうなずくしかなかった。別の隊員が母を担架に乗せて運び出した。
「私が一緒に乗ります」
 直子はまた私の目を見ながら言った。たくましささえ感じられた。私の性格を妻はよく知っている。私が病院行けば事実を言ってしまうだろう。
 警報音を鳴らせて救急車が発車した。その音は尾を引きながら長い間、部屋の中まで聞こえていた。やがて聞こえなくなると、私はまるで深夜の静寂の中にいるような気持ちになった。何もすることはなかった。妻からの連絡を待つしかない。時の刻みが永遠に長くなったように感じた。
 電話のベルが鳴った。
「あなた、お母さんは亡くなっていたわ。しっかりしてください。お願いします」
 直子の声は落ち着いていた。私は体中が激しく震えてきた。電話を切ってから泣けるだけ泣いた。自分の精神状態がまた幼児期に退行していくのを感じた。そうして、許して欲しかった。
 物事の極みまで行き着くとある意味で自分を捨てられるものかもしれない。私は落ち着くにつれ、母殺しというこれ以上のことはないと思えることを為してしまった自分は、今後はもう、どうなってもよいと思えてきた。それより妻や子の将来の方が大切に思えてきた。どうせ自分を無にするなら、彼らのために生きられるものなら生きてやろうと思った。それは直子が私に言った「しっかりしてください」という意味でもある。そう思うと、私の最も拒否したい、嘘でも何でも生涯、言い通せる気がした。
 高齢者の家庭内事故死というのが増加していることは知れている。母の死は直子の創作した通りの事故死である。そう思い込むことができた。
 警察の調べがあった。警察は初めから疑ってかかっているように私には思えた。しかし私は淡々と事故の様子を説明した。特に熱を入れて演技する必要も感じなかった。もし事実が発覚したなら、その時には妻や子にもあきらめてもらうしかないと思った。どうしても妻や子のために偽装を見破られてはならないというほどの気力はなかった。幸いにもその後、警察からのとがめはなかった。新聞記事にもならなかった。目立たない事故死になったのだった。

             (十一)

 兄や姉とも相談して葬儀は私の団地の集会場を借りて行うことにした。ただ私は、葬儀は子供たちだけの家族葬にするように強く主張した。自分が殺した母親の葬儀が、職場関係の参列者や町内会の人々で人数が多くなり時間がかかるかも知れないと考えると、精神的に耐えられないように思えたからだ。二人とも、母の面倒を私が見ていたので気を使ってか、家族葬にすることを了解してくれた。
 通夜、告別式と淡々と進み葬儀はすべて終わった。兄と姉はなにか物足りなさそうな様子で帰って行った。
 忌引で休める最後の日の夜、私は母の荷物を引き取りにアパートへ行った。荷物は多くはないので、とりあえず、車のガレージの中へ入れておこう思った。葬儀などでバタバタとして、母が亡くなってからまだアパートには行っていなかった。
 隠れるようにして顔を合わせないようにしていた管理人だったが、今となっては気に病む必要もない。私は初めに管理人に部屋を引き払うためのあいさつをした。
「入院するとおっしゃっていましたが、その後、いかがですか。よくなりましたか」
 丸顔の管理人が心配そうに言った。
「息子さん、あなたのことをお母さんはずいぶん、自慢していましたよ。学校の先生で本当に親孝行な子だと、会うたびに言っていました」
 今度は管理人は笑顔になって私の顔を尊敬するようなまなざしで見ながら言った。
「上品なお母さんですね。部屋は空けておきますから、元気になられたら、いつでもまた借りてください」
 管理人は丁寧に頭を下げた。母が死んだことを知らせると色々と説明しなければならなくなると思って言うのを止めた。
 私は管理人が愛想を言っていると思った。恐らく内心は他の住人から多くの苦情を言われ、一日も早く出て行ってもらいたかったに違いない。それがかなって喜んでいるのだと思った。それにしては笑顔に嫌みがないのは不思議だった。
 母の部屋の前に来た。二度と再び訪れることはないと思うと、あれほどドアを開けるのに気が重かったのに、今は感慨深くさえなった。部屋の中に入って驚いた。荷物はすべて段ボール箱に入れて片付けられていた。小型の冷蔵庫も電源が切られ、中には何も入っておらず、きれいに拭かれている。部屋全体が掃除されていて、いつでも引っ越しができる状態になっていた。
 母は間違いなくに入院するつもりだったのだ。それも簡単には退院できないことを承知していたのだ。それなのに私の家で、入院しないと言ったのは単なる希望を言っただけだったのだ。ハンドバック一つしか持ってこなかったのは、精神病院が身の回りのものすべてを病院側が用意することになっていること母は知っていたからに違いない。何よりも管理人に入院すると言って出て来ていた。私は重大な誤認をしていた。
 動揺する頭の中に、母の精神異常の象徴のように思えた出刃包丁の槍が思い浮かんできた。部屋にそれはなかったが、私はハッとして天井を見上げた。さらにつま先立って天井の隅から隅まで調べた。母は、隣や二階の犯人を懲らしめるために大声をあげて何度も槍で天井や壁を突いたと言った。しかし天井には小さな傷ひとつなかった。さらに隣室との境の壁を見た。それらしい痕跡は全くなかった。私は背筋が凍りつくように感じた。考えればこのアパートでは部屋の傷などを確認してはいなかった。母の部屋に来ると、とにかく管理人や近隣の住人に苦情を言われはしないかという事ばかりが気になり、母の言っている事が事実かどうか確かめる余裕など無かった。まして前のアパートではひどいことを実際にやっていたのだから。
 このままでは済まされなく耐えられない気持ちから、私は隣室を訪ねた。母よりも少し若いと思える老婦人が出てきた。引っ越しの挨拶のような言い方で、それとなく母の言動を尋ねた。
「よくできたお母さんですね。うるさくして迷惑になったらいけないといって、テレビの音はいつもイヤホンで聴いてくれていました。そんなに気をつかうことはありませんと言ったのですが」
 老婦人は感心の面持ちで言った。
 二階の部屋へ行ってみた。会社員風の若い男だった。
「おばあさんには随分お世話になりました。下の部屋でうるさかったら遠慮せずに言ってほしい、気をつけるからとおっしゃっていましたが、居るか、いないか分からないほど静かで、私の方こそ体重があるので迷惑をかけたことと思います。いろいろな物をいただいたりしてありがとうございました。よろしくお伝えください」
 青年は礼儀正しく頭を下げた。
 私は再び母の部屋に戻った。立っていることも、座っていることもできなかった。畳にへたばってしまった。母が「今度は絶対にお前に迷惑をかけない」と言っていたのはまさに事実だったのだ。私に、あたかも異常な行動をしたかのごとく言っていたのは、やりたくても私のために我慢していた内容だったのだ。それを私は浅はかにも真に受けて、今にも人生が潰されるような状況が刻々と近づいているように考え、恐れてしまった。私の方こそ取り返しのつかない被害妄想だった。
 思えば、温厚で人一倍子煩悩だった父が、私を尊属殺人者にするわけがない。母を殺すエネルギーが父の怨念だと思ったのは、私の頭の中で勝手に作り上げられた悪魔のごとき妄想であった。私の人生にとって決定的な障害は母ではなかった。内なる異常な精神こそ私の真の敵だったのだ。
 母が死の直前、私を見た暖かい眼差しを思い浮かべた。あれが真実だったのだと思うと、いたたまれない気持ちになった。このまま生き永らえるにはあまりにも強い懺悔の念に耐えることができないと思った。同じように死ぬこともできないと思った。だが、生きて贖罪の日々を送るしか残された生は考えられなかった。
 贖罪の生、それは警察に自首して刑に服することか。私は刑務所で囚人となった自分を想像してみた。法律の裁きを受けて母を殺した代償として自分を苦しめることは、このまま生きるよりもはるかに易きことに思える。しかし果たして、それが母への真の贖罪になるのか。自己満足ではないのか。人間社会の作った条文に従うことが母の死せる生命と何の関係があろう。
 母の母らしいまなざし。あの母が、可愛くて会いたくて仕方がなかったのに、あまり一緒に遊べなかった昭雄を思う。気を使ってできるだけ顔を合わさないようにしていた直子を思う。私のせめてもの罪の償いは子と妻のために生きる事ではないのか。それがまた母の願いではないのか。
 段ボール箱を開けて母の荷物を見た。インスタント食品があった。どこにでもあるようなギフト用の茶碗が大事そうに包んであった。調味料の使いさしがあった。いずれも取り置くほどのものはなかった。しかし私は小さな紙切れひとつでも捨てる気にはなれなかった。車に全部を積み、あまり離れてはいないガレージに運んだ。それから奥の方に積み重ねたが、車の出入りに支障のないほどだった。
 ガレージを閉めながら私は、母の荷物は私が生きている限り無くすことはないだろう思った。そして、明日から仕事に行かなければならないと思った。
                       (了)


【奥付】
『永き贖罪』
   母に感謝
     1990年作
  著者 : 大和田光也