大和田光也全集第2巻
精神疾患と共に歩んだ五十年
『心の病と楽しく生きよう』【下】 

第Ⅲ章『修行時代』
 (一)進路
 年末が近づいてきた。私は朝から年末のあいさつを兼ねて、これまでに出会った方のところへ訪問に行った。子供たちへの勉強会は区切りをつけて終わらせた。夜は、大学が冬休みなって時間ができた武田さんと一緒に家々を回った。なにはともあれ、武田さんと一緒に活動ができるのが何よりも楽しみになっていた。
 ボランティア活動を通じて、私は、本来は最も不得手であった人間関係を非常に広く結ぶことができた。それは訪問先の相手にとどまらず、ボランティアをする側の人間関係も大きく広がった。ボランティアには老若男女の多くの人々がそれぞれの立場、都合に合わして他人のために尽くしていた。
 私は、幼少のころからの生育過程の影響もあり、親も含めて他人から尽くされることは当たり前だと思うようになっていた。だから逆に、無償で他人のために働く人がこれほど多くいることに驚いた。
 本来人間は、利己的で自分中心だと思っていた。もし利他的なことを言ったり行動する人がいると、それは偽善的であり、似非人道主義者であり、別の目的のために利用する策略であると思っていた。
 ところが、活動を通じて知り合ったボランティアの人々は、特に身構えたたり、意気込んだりすることもなく、日常的な自然体の中で、困っている人の手助けをしてあげようという人間的な心の持ち主であった。また、どの方と話をしてもすぐに心が通じ合うのも不思議だった。
 ボランティアで訪れた人々、同じ活動をする仲間の人々、これらの多くの人々と接するなかで、私は都会や都会人に対する拒絶感が薄らいでいった。冷たく、無味乾燥で、能面のように何を考えているか分からない人間が集まって作り上げているのが都会と想像していたが、現実に都会を支えながら生きている人々に会ってみると、都会に対して妄想を抱いていたことが分かった。
 実際の都会は、仕事はもちろんのこと、経済苦、家庭不和、子供の教育、親の世話等々さまざまな難題に悩み苦しみながら、それでも元気に明るく生きていこうとする庶民よって成り立っているのが実感できた。エリートだとか資産家はほんのわずかで、それらの人は都会の土台の構成にはほとんど影響力を持っていないことも分かった。
 私は実感として大阪とは何か、が分かったような気がした。電車に同乗している人々は、私が恐怖心を抱いたり、敵視するような悪魔ではなかった。汗水垂らしながら必死で働いている庶民だった。
 しかし、このように理解はできても、なおまだ以前ほどではないが他人の目が恐かった。私の存在を脅し否定する凶器のごとき眼光をいたるところに感じていた。これこそ私の精神疾患の根の深さであった。
 各家庭を回ると、年末という時期もあって進路の相談が多かった。特に私たちが大学生ということもあって、高三生の本人や親から色々と相談を受けた。そうしてアドバイスしている私自身も来年度の進路を決めなければならないと思った。武田さんに相談すると、
 「大学に行ける可能性があるのなら当然、行った方がいいよ。ボランティア活動をするのにも大学生の身分は一番動きやすいから」
と言ってくれた。私はボランティア活動は一生涯続けたいと思っていたが、もう少し学生時代が続けられるものなら、活動に打ち込める期間を長く持つことができてありがたいと思えた。ただ父母の経済負担のことが心配だった。そのことを武田さんに言うと、
 「僕は一年の時からずっとアルバイトをして、生活費は全部自分でまかなっているよ。大和田君も、休みの時にはアルバイトすれば少しでも両親の負担を軽減することができるじゃないか」
と力強く言った。確かに私はボランティア活動を通じて、発病して以来、全く無理のきかなくなっていた体が一日中歩き回れるだけの体力に回復していた。あまり体に負担のないアルバイトであればできると思えた。
 私は両親にもう一度だけ最後の学費の負担をお願いしようと決意した。
 武田さんは別れ際に、
 「僕の母は何のために大学に行くのかということについて、『大学には、大学に行けない人のために尽くせるような人間になるために行くのだ』とよく言い聞かせてられたよ」
とさりげなく言った。私はその言葉がきれいごとには聞こえなかった。誰の発言よりも現実的だと思えた。ボランティア活動を通じてそれが分かった。
 私は父が夜勤から帰り、眠ってから目を覚ます頃を見計らってアパートの管理室に行った。うまい具合いに父も目を覚ましたところだった。母の精神状態はさらに落ち着いた状態になっていた。顔の表情にも城辺町で見せていたような異様な雰囲気が薄らいでいた。
 私は大学進学のことをお願いした。体に無理もかからず学費も安い文学部国文学科に進学したいと言った。父は疲れた様子であったが、喜んでくれた。
 「何年かかって卒業してもいい。無理をするな。俺が生きている限り学費はなんとかする」
とも言ってくれた。母は、
 「最近、お父さんの心臓が悪くなってきていると医者から言われた。いつまで生きられるか分からない」
と涙ぐんだ。父は、
 「そんなことを言うな。光也が心配するから」
と手を振って制した。
 経済的には、城辺町で薬店が繁盛していた時の羽振りの良かったわが家とは全く比べ物にならないくらい貧相な状態になっていた。以前の私であれば、この状況は将来を悲観的に考えさせ、生きる希望を失っただろう。しかしこの時の私は、後ろ向きにならずに、アルバイトをして少しでも親の経済負担を軽くして大学に行こう思った。私は、
 「無理をしないように頑張って、必ず四年で卒業するよ」
と言った。母は、
 「コーちゃんは何か変わったね。たくましくなったねぇ」
と喜んでくれた。
 父の心臓は以前から悪かった。旧満州に派兵されていた頃から悪かったのに軍隊でさらに無理をして心臓が肥大していた。私は学費のために十分な治療を受けないことがないようにと祈る気持ちだった。
 進学できると決まったので、次は大学を探した。さすがに国公立は無理と思えたので、国文学科のある関西の私立大学で授業料が最も安い所を探した。それに合ったのは、京都の仏教系の小規模な大学であった。
 私はその大学を見学に行った。大学よりもはるかに広い敷地の寺に隣接して、つつましく校舎が建っていた。その寺は、大学設立の母体となった宗派の総本山であった。大学の発足は、僧侶を養成する目的で建学されたものだった。私はマスプロ的な大学と違ってどこか懐かしさを呼び起こさせるこの大学が気に入った。
 入試準備を始めたが、すぐに年は開けて、試験の日になった。十分な勉強はできなかった。しかし問題用紙を開けてみると、二年間に渡って読み続けた読書のおかげで、語学以外は自信を持って答えられる箇所が多かった。
 私は合格した。入学式の日、一人で行ったが、二つ目の大学に学べることに新鮮な感動を感じながら参列することができた。そして、今度こそ四年間で必ず卒業しようと深く決意をした。

     
 (二)書くこと
二つ目の大学での学生生活は、落ち着いたものになった。通学は時間的には大幅に延びたが、これまでと同じ路線に乗って京都まで行けばよかった。国文学科の学生は全員で三十余名だった。まるで高校の延長のようだった。お互いに顔も名前もすぐに覚えた。
 ほとんどの講義は出欠を取らず、自由参加のようなものだった。ただ、体育実技だけは出席時数が単位認定の条件になっていた。前の大学では医師の診断書を提出して、実技の代わりにレポートを出せばよいようになっていたが、結果的にそれもしなかった。今度は、通院はしていなかったので診断書はなく、普通の学生と同じようにやらなければならなかった。
 私は不安を感じながらも、体操服に着替えてグラウンドに出た。高一の二学期からは体育実技をやったことがまったくなかったので、再び高校時代が来たような気恥ずかしい新鮮さを感じた。実技は、自分の好きなことを、好きなようにやればよかった。適当に体を動かしているだけで単位が取れた。
 それ以外の科目は、専門科目も含めて、講義に全く参加しなくても試験ができれば単位が取れた。試験の問題はほとんどが論述式のもので、これまでの読書の知識で十分に対応でき、容易に答案を作成することができた。
 大学が最も力を入れていた分野はやはり仏教学科だった。書籍も講座も非常に充実していた。私はこの機会に仏教を本格的に勉強しようと思った。それで空いた時間を利用して、登録もしていない仏教関係の講義によく参加した。また、仏教書も多数読んでいった。
 両親への経済負担を軽くしたい気持ちから、長期の休暇中には必ずアルバイトをした。いずれも体力を使うものではなかったが、それにしても自分の肉体が、予想を超えて元気になってきていることは自分でも驚きだった。
 第二の学生生活はこのように表面上は順調であった。ところが内面的な精神の状況は激動を繰り返していた。
 特にこの時期、魂が自分の肉体から抜けてしまうのではないかという不安に駆られ続けていた。少しでも油断をすると、私の体から抜けた魂が大気圏はおろか、宇宙のかなたにまで飛んでいって帰ってこなくなるように思えた。
 魂の抜けた私は、人間でも動物でもなく、感情のない無用な抜け殻だった。抜け殻は踏みつぶされて粉々になったとしても、仕方のない存在だった。もしそうなったら、再び魂が帰って来ようとした時に宿るべき肉体がなくなり、私の存在は消滅するように思えた。
 それはちょうど、断崖絶壁から飛び降りた時、肉体から離れた魂が、死の底へ落ちてゆく肉体を客観的に見ているような恐怖だった。
 夢の中でよく、凧となった魂を強風の中、切れそうな糸を必死で操りながら上げている場面が出てきた。ちょっとした油断で、凧糸は切れてしまい、凧は糸を引きずりながらはるかかなたへ飛んでいく。私はその糸をつかもうとして走って追いかけて行った。ところがなかなか掴められず絶望的な気持ちになった。そうして目が覚めた。
 ボランティア仲間や学友と話をしていても、急にふっと魂がどこかに行ってしまうような気分になることがしばしばあった。友人からは、
「時々、急にボンヤリしてしまうことがあるね」
と言われていた。私の魂は四六時中、スキさえあれば、私から抜け出すことを狙っていた。少しでも油断をするとあっという間にはるか宇宙のかなたに飛び出して行った。私は寝てもさめても油断なく魂を肉体にとどめておく努力を持続しなければならなかった。
 魂をとどめておく方法はいろいろあった。一つは、肉体に痛みを感じさせることだった。魂がフラフラし始めると、私は手のひらで自分の太ももを強くたたいた。また、頬を指でつねった。その痛みの実感によって、魂は再び肉体に定着した。
 二つ目にはボランティア活動だった。何としても相手の役に立てるようにしようと必死になっている時には、魂も肉体も集中して事に当たるので、分離する余裕もなかった。活動している時は不安なく過ごすことができた。
 そしてもう一つ、魂を留めておく方法は、文章を書くことだった。心の中では嵐のように様々な想念が渦巻き、その想念を作り出すエネルギー元である魂は、いつも肉体から飛び出そうとしていた。
 心の働きを現実から切り離して、好き勝手にのさばらせると、途方もなく巨大化してついには自分で自分の心をどうすることもできなくなってしまい、肉体から抜けてゆきそうになった。そういう時、心の中に激しく行き交う情景や情念を文章にして表現すると、観念から現実へと引きずり下ろすことができた。
 心の状態を文章に定着させることは、想念を現実化させることであり、暴走しようとする自分の心を現実の世界に引き留めておくことだった。自分の魂が、心が現実である自分の肉体から離れていくことは、非常な不安と恐怖を感じさせた。それを抑えるためにも私は必死になって書いた。
 観念は瞬間々々激しく変化するが、手書きの文章の速度は当然それに追い付かない。この時間差が私の精神を現実化させる働きになった。
 私はさまざまなものを縁にして、物語りを作ってしまう性癖も激しかった。電車の中でふと肩を落とした壮年を見かけると、頭の中でその壮年がこれまで生きてきた人生を作り上げてしまった。
 またある時、幼い女の子が夜遅く、街灯に照らされた自動販売機の前でお金を入れて手を合わす姿に出合った。その自動販売機は、一個買うごとにルーレット風の光が回り、当たりが出ると、もう一個無料でもらえるものだった。こんな光景に接し、私は少女の現在の生活状況と未来に歩むだろう人生の物語りを創作した。
 さらにある時は、片足が不自由で歩きにくそうに自転車を押している小柄な婦人を見た。後ろには自転車の荷台に片手をかけて付いてくる小学生低学年くらいの男の子がいた。男の子の服装は、季節にしては肌寒そうだった。クリスマスイブの夜だった。二人は、老夫婦が自家製のパンを作って売っている古ぼけた店の前で止まった。その時、男の子が母親を見上げて何か言った。母親は口をにがにがしく曲げて、
 「それだったら、もう何も買わずに、帰るのか」
と潤いのない声で言った。それから自転車を再び動かそうとしてよろけた。男の子は荷台を両手で持って動かなかった。母親は自転車のスタンドを不機嫌に立てて、店の中へ入った。男の子は元気もなく後についていった。
 私は少しだけ店の中を覗き込むように見てからそのまま歩いて通り過ぎた。その瞬間、頭の中にはこの親子の物語りが激しくわき上がってきた。
 地方から一人で働きに出てきていた母親は、自分のことを理解し、共に人生を生きようという男性が現れて、幸福感に満ちて結婚をした。男の子も一人生まれた。ところがやがて夫は妻に不満を抱き、夫婦はいがみ合って離婚した。我が子を育てるために母親は必死で働いた。
 足が不自由なため、職種は限定され、働きやすい職場には恵まれなかった。この日は、職場でいやな事を言われたが、我慢して働いて仕事を終えた。帰り道、学童保育に預けていた男の子を迎えに寄った。自転車には一人では乗れるが、子供を乗せては足に力が入らず乗ることができなかった。それで二人で歩いていた。クリスマスイブで、子供はケーキを欲しかった・・・
 私はこの母子の物語りを三日三晩、作り続けた。それは二人が生まれてから死ぬまでの人生だった。頭の中での話の展開があまりにも早過ぎて、書くのが追い付かない状態だった。
 書かなければ、物語りは観念の世界で次々と飛躍してゆき、現実を無視してしまう。そして、その中に私自身が入っていってしまう。それは観念の世界が私の日々の現実になってしまうことだった。やがて、観念の世界そのものが私から離れていってしまう予感におののかされる。そうさせないためには、とにかく少しでも速く文章に書き留めることでだった。
 私は、いつでもどこでも大学ノートを持ち歩くようにした。そしてボランティアで訪問先の人と話をしたりしている時以外は、思い浮かぶことをその場でノートに書き留めた。最初はボールペンで書いていたが、サインペンの方が速く書きやすいので、インクが無くなった時のために予備のものまで持ち歩きながら書いた。
 ある時、間違えて赤のサインペンを買ってしまい、それでノートを真っ赤にしながら書いた。向かい合わせに座るようになっていた電車の座席で、私が赤のサインペンで必死で書いていた時、前に座っていたら母娘らしき二人連れが危険と感じたのか、頬を引きつらせて逃げて行った。
 一冊の大学ノートはすぐに書き終えてしまった。短期間で何十冊も溜まっていった。こうして日々刻々、全く油断できずに、私は自分の精神を、心を、魂を肉体に、現実につなぎ留めておくことに必死になっていた。

   
 (三)小説家志望
 私が大学二年生になった時、武田さんは留年することもなく卒業した。そして、電動モーターを製造販売する会社に就職した。仕事は営業で、外回りを中心にして各種のモーターの販売推進と販路拡大だった。
 私が考えると実につまらない仕事だと思えた。しかし武田さんはたいへん楽しく仕事をしていた。その姿に私には到底まねのできない、人間的な境涯の広さを見させてもらった気がして感服した。武田さんは仕事が終わると、空いた時間は全部ボランティア活動に充てていた。私は一緒に活動できる時間がずいぶん長くなったのでうれしかった。
 武田さんは給料をもらえるようになったこともあり、会社に近い大阪市内のアパートに転居した。ボランティア仲間が集まって、さまざまな打ち合わせや協議ができる場所を確保するためでもあった。
 私も近くに引っ越ししたかったが、今より多く経済的負担を親にかけなければならなくなるので諦めた。それでもいつも、適当な駅で待ち合わせをして時間のある限り二人でボランティア活動に出かけた。
 今度の大学の単位修得は、順調に進んだ。ボランティアと文章を書くことによって心身のバランスをとりながら生活ができた賜物であった。四年生になった段階で、登録した全ての科目を修得できていた。卒業に必要な科目以外の、教職科目までも修得できた。
 教職科目はボランティアで子供たちに勉強を教えている中で教育者の喜びのようなものを感じたので、もしも、教職に就きたいと思うことがあった時のためにと考えて登録したものだった。
 四年生になると私自身も本格的に就職のことを考えなければならなくなった。この頃、私は武田さんのアパートによくお邪魔して長時間、仕事のことなどの話をした。武田さんは、
 「今この世に生まれて生きているということは、必ず何らかの意味があるということではないだろうか。生物学的にいえば今この世にぼくらが人間として生を受けており、しかもこうして、僕と大和田君が顔を合わしているということは、これはもう奇跡中の奇跡であり、ほとんど不可能といっていいほどの出会いなんだ。とすると、何らかの意味があるからこそ、今二人とも存在しているんだと思う。だから何らかの意味があるんだと決めて、その意味とは自分にとっては何なのかを追及していくなかで自分にとって最もふさわしい仕事を見つけることが大事ではないかな。僕はどんな仕事でも生活ができればいいと思っている。そしてボランティア活動ができるのが最高の喜びだ。だけど、大和田君は性格的にも人生がかけられるような仕事を見つける方がいいのじゃないかなぁ」
と確信のある声で言った。私は心から納得できた。
 私は頭の中を嵐のごとく吹き荒れている想念の中心に、この世で私の使命のある仕事は何かを発見することを大きな柱として据えた。そして明けても暮れてもそのことばかりを思索するように自分の心を集中させた。これはどこかに飛んで行こうとする魂を現実に引き留めておく働きにもなった。
 何カ月か過ぎた時だった。ある日、時間潰しに喫茶店に入っていた時、そこに置いていた週刊誌を何気なく手に取ってみた。そして最初のグラビア写真を見た。ちょうどベトナム戦争が激しい頃で、特集で写真が掲載されていた。何枚かある写真の中で、私の目を釘付けにしたのはその内の三枚だった。
 一枚は、銃殺刑にされる直前と思える写真だった。何人かのベトナム兵が一本のくいに一人ずつ後ろ手に縛られ目隠しをされていた。それが何人か同じように並べられていた。
 そして写真の手前にはアメリカ兵が銃を構えて今にも引き金を引きそうな気配だった。それがつくられたものではなく、事実の現場の写真であると思えたのは、つながれて目隠しされたベトナム兵の顔の表情だった。それは人間というよりもむしろ、殺される前の動物の表情だった。
 またもう一枚にはメコン川を数珠つなぎにされて殺されたベトナム兵が川の上をプカプカと浮かびながら流れているのが写っていた。その近くを観光船のようなデッキのある船に多くの人が乗って、流れている死体を見ていた。
 さらに最後の一枚は、これは世界的にも反響を呼んだ写真だが、アメリカ兵がベトナム兵の、首の切り傷も生々しい頭部の髪の毛をつかんで立っていた。自慢らしい表情だった。足元の後ろにはベトナム兵の死体が何体か転がっていた。
 私はこれらの写真を見続けていると、徐々に、まるで体が金縛りにあうようになってきた。体がこわばって、全く動けなくなってきた。目に見えない何かの力で体全体が押さえ付けられているように感じられた。
 私はこれが人間の宿命的な愚かさだと思った。人間がこの地上に発生して以来、確かに、発展してきたというかもしれないが、その結果の集約がこの写真であると思えた。
 このベトナム兵の家族がこの写真を見たらどう思うだろうか。また、このアメリカ兵の家族がこの写真を見たらどう思うか。私は今まで経験したことのない状態の中で、こつ然と一つの考えがわき上がってきた。それは、
 「この人間の愚かさの本当の意味を全世界の人々に知らせていくことは素晴らしい仕事ではないのか。それによって、たとえいかなる背景や理由があるにしろ、こういう愚かなことが為されることを減らしていけるのではないか。それが私のこの世で出来る使命ではないか」
ということだった。
 さらに、それを実行する具体的な方法は何かと考えた。その結果、私の能力の中でそれができるものは、小説による表現しかないと思えた。二年あまりの徹底した読書のなかでも、特に小説の表現形式の無限の広がりや深さに感嘆することがしばしばあった。小説形式こそが私の表現したい内容を最も的確に伝えられるジャンルであると思えた。
 私は自分のこの世での生きる意味、なすべきことを悟ったと思った。そうすると、心の深いところから何とも言えない喜びがこみ上げてくるのを感じた。すると、今まで硬直していた体がまるで氷が暖かさに溶けるように自由に動くようになっていった。

   
 (四)就職
 私の生活パターンが少し変わった。平日の昼間はこれまでは、大学の好きな講義に顔を出していたが、それをやめて徹底して小説を書いた。平日の夜と休日、祝日はボランティア活動に全力を注いだ。ボランティア活動と創作活動とは全く対立するものではなかった。ボランティア活動で得た知識や感じた感動は創作活動の大きなエネルギーとなった。
 ベトナム戦争のグラビアを見て以来、私にとって小説を書くことが生きている意味になった。逆に、小説を書かないのであれば生きている意味はないと思った。小説と私の命は同じ重さに感じられた。どうしても原稿用紙に文字が書けなくなった時、ナイフを持ってきて自分の腹をチクチクと刺した。鋭い痛みとともに何筋かの血が流れた。私は自分に、
 「どうだ、ほんのわずか、これだけ刺しただけでも痛さと恐怖に耐えられないだろう。このナイフをこのままブスリと差し込んで横に引き切って腸を引きずり出せば、どれほどか痛く怖いことだろうなぁ。原稿を書くことと腹を切って死ぬこととどちらを選ぶんだ?」
と問いかけた。私の心の中に居るもう一人の私が、
 「これは冗談でもパフォーマンスでもない。今までに何度も本気に死のうとしたではないか。原稿を書かなければおまえは本当に自分の腹を突き刺すだろう」
と説得してきた。私はひたすら書き続けるしかなかった。
 私の偏執狂的な性格は、思い込むとどこまでも突き進んで行くものだった。良くも悪くもその性格から、命をかけて小説を書き続けた。
 私は多くの出版社の小説原稿募集に応募した。応募したところを覚えられないくらいだった。ところがどこも一次選考の通過さえできなかった。しかし私は全く消沈することはなかった。この世での生きている意味であると確信していたので、出版社の社員がどのように評価するかはあまり関係ないと思っていた。
 四年生の新年を迎え、あと三カ月で卒業になる段階になった。国文学科の学友はほとんど、進路として大学院や就職先が決まっていた。私は全く就職する気はなかった。
 小説を書くこと以外に私の進路は考えられなかった。そうは言っても、これ以上は両親に経済的な負担をかけることはできないと思っていたので、卒業したならば、午前中か午後か、できるだけ短時間のアルバイトをして食っていけるだけの金を稼いだならば、あとはひたすら小説を書き続けようと思った。
 この状態をたいへん心配してくれたのはやはり武田さんだった。武田さんは、私が小説家を目指すのは大賛成であったが、そのためにはしっかりとした生活基盤がなければ、長続きもしなければ、目標達成もおぼつかないと考えていたようだった。
 一月の末ごろ、武田さんから、自室に出版関係に詳しい人が来るから一度会ってみたらどうかと連絡があった。私は少し身構えながら武田さんのアパートへ行った。待っていてくれたのは山脇さんという五十歳近い人だった。この時にはボランティアの事務局の職員をしていたが、それ以前には出版関係の会社に勤めていた人だった。
 私は話をし始めるとすぐに山脇さんは信頼できる人だと感じた。そうすると緊張感も解けて、私の正直な考えや気持ちも全部話すことができた。
一時間近く話をした後で山脇さんは、
 「大和田さんの気持ちはよく分かったけれど、小説を金を出して買ってくれる人のほとんどはサラリーマンでしょう。現実の中で苦しい思いをしながら生きているサラリーマンが、そんな厳しさ苦しさを知らない学生のような作者が書いた作品を果たして買って読むでしょうか。他人に読んでもらわなくてもよい、自己満足のためだけに小説を書くのであれば、それは好きなように書けばよいと思う。でも、他人に読んでもらって感動を与えたいのであれば、誰よりも現実の中で苦しい生活に呻吟しながら、それでも書き続けた小説に人々は心が引かれるのではないだろうか。だから大和田さんもサラリーマンの苦しみを嫌というほど体験することが、読んでもらえる作品を書ける必須条件になると思いますよ。それと、小説の主人公をどこかに求めて書くのではなく、誰かが大和田さんの人生を見て、『あなたの生き方を見ていると小説にしたくなる』と言われるような人生を歩むことです。小説を書くより、小説に書かれるような自分になることが大切なのではないですか」
と筋道立てて話してくれた。
 私は山脇さんの話に感服させられた。目が覚めるような思いがした。これまで多数の応募した原稿が一次選考も通過しなかった理由が分かったような気がした。
 私は就職する決意をした。ところが就職活動の時期はとっくに過ぎ去っていた。それでも、仕事とボランティアとその上、小説も書けるような職場はないかと考えた。最適なのは長期休暇のある教員だと思った。もちろん公立の採用試験は前年中に終わっていた。それでダメで元々と思って、大阪私立学校連合会の事務所に高校国語の教員の採用はないかと行ってみた。係りの人は、
 「おそらく来年度の人員配置は、各学校とも終了していると思いますが、特別な事情があった場合には採用することがありますので、申込書を出しておいてください」
と言った。私は一縷の望みをかけて、書類を提出しておいた。
 一週間ほどして、A学園の校長から一度面接に来てみないかという電話が入った。私は非常に喜ぶと同時にこの機会を逃がせば後がないと思いたいへん緊張もした。
 翌日、身が引き締まるような思いでA学園に行った。A学園は下宿の近くの駅から電車に乗れば、乗り換えなしで三十分ほどで最寄り駅に着く所にあった。ただ、駅からは二十分ほども坂を上った丘の上に建っていた。A学園については私はこれまでわずかに名前だけを耳にしていた程度だった。設立母体は、世界的な宗教団体だった。
 校舎は授業中で、妙に静かななかを校長室に入った。校長は小原という小柄で穏和な人だった。国語科の一人の教員が体調不良で急に退職することになったので、その後任を探しているということだった。
 校長はいろいろと質問をしてきた。私はボランティア活動のことも含めてありのままを話した。話をしているうちに授業の終わりのチャイムが鳴った。鳴ると同時に学校全体が急に息を吹き返したように騒がしくなった。高校生時代の懐かしい感覚がよみがえってきた。
 休み時間中に職員室の方に行き、国語科の教科主任やその他の先生ともお会いした。私が最年少だったこともあるのか皆、親切に声を掛けてくれた。
 再び校長室に戻ってから、校長は私の目をしっかりと見据えて、
 「自分や家族の為に生きることも大切ですが、それだけではちっぽけな人生ですね。どれだけ多くの人々の幸せのために尽くすことができたのか、これが人生の最高の評価軸です。私は宗教者として人々の幸福と社会の平和のために実践しております。あなたは若いし、時間があれば遊びたいだろうに、ボランティアとして自分のことを犠牲にしてまでも他者へ尽くしている。口先だけの平和論者よりも、どれほど社会のために平和のために役立っているか分かりません。私とあなたは根っこは同じです。採用するかどうかは国語科の先生方と相談して後日連絡しますが、採用が決定した時には、私たちと一緒にがんばってください」
と真剣な表情で言った。
 私は下宿へ帰る道のりで何度も校長の最後の言葉を反すうした。そのたびに感動がこみ上げてきた。
 さまざまな理想的なことやきれいごとを口先で言う人間は多いが、その人間の本質を見れば結局のところ自分の利益と権勢欲を満たすために仰々しく言っているに過ぎないものがほとんどだと思えた。
 まさに「巧言令色鮮なし仁」の人間が多い中で、校長は人間の価値基準をしっかりとわきまえている数少ない人だと思えた。特に私自身が、「行動無き信念、煙の如し」という思いを強く持っていた時期だっただけに、校長の言葉が心に深く刺さった。
 翌日、校長から、
 「採用が決まったので、四月一日より出勤しなさい」
との電話連絡を受けた。

   
 (五)勤め人
 教員としての勤務が始まった。私は始業時間のずいぶん前に登校した。そして職員室の自分の席に座って授業の準備などをした。そうしているとしみじみと幸せを感じた。高一の時に発病して以来、ほとんど自分の人生を諦めざるを得なかった状態であったことを考えると、教員という立場を得たことが、奇跡のように思えた。
 最初に給料をもらった時、学校の帰りがけに両親のいるアパートの管理室に寄った。給料を見せるとその多さに父母ともに驚き、喜んだ。父は、
「やはり、大学を卒業していてよかった」
としみじみと言った。私は両親にそれぞれ小遣いを渡した。母は、
 「コーちゃんから小遣いをもらおうとは思ってもみなかった」
と大きな声を出して笑い、涙をぬぐった。
 父の心臓の機能は徐々に落ちてきていた。私が勤め始めるとすぐに夜警の仕事を辞めて、夫婦でアパートの管理だけをしていた。母は、
 「時期がちょうどよかった。お父さんの心臓も貯金も限界になったところだった」
と言った。父は、
 「光也が心配するから、余計な事を言うな。俺は百歳まで生きるぞ」
とうれしそうに言った。
 勤め人になってから初めての夏休みが来た。A学園は大学進学を目標にしていた学校だったので、八月の初旬までは毎日、補習授業があった。それを終えると、教員も夏休みになった。
 私は小学校ごろの夏休みを迎える時のワクワクした気持ちが心の中に蘇ってくるのを感じた。一学期間は、何もかもが初めてのことで緊張の連続で、ゆっくりと考えたりする余裕もなくドタバタしながら終わった感じだった。
 夏休みの期間、私は高校以来もっとも休暇を楽しんだ。体力が回復してきたこともあって、一人でフラリと自由な旅にも何度か出かけた。青春を取り返しているような気分になった。
 この間、ボランティアも休み、武田さんと会うこともなかった。私は、もしかすると、この調子で、ボランティア活動をやめても、順調な人生が歩める精神と身体になったのではないかと喜んだ。
 ところが、二学期の始業式が近づくにつれて、私の心身に変化が出てきた。体がたとえようもなく重くだるくなってきた。心はなんとなく憂うつになり、何をしても面白くなくなった。始業式の前日の職員会議が教員には二学期の最初の仕事だった。私は職員会議に出るために出勤したが、一学期では考えられない、粘りつくような倦怠感のある登校になった。
 翌日の始業式からは通常の勤務になった。私は、ひどい倦怠感は夏休みの反動だろうから一、二週間もすれば一学期のように機嫌よく出勤できるようになると思った。ところが、体調は一月経っても元に戻らなかった。それどころか逆に日を追うごとに辛さが急激に増幅してきていた。
 まず、朝が起きられなくなった。目覚ましを二つも追加してなんとか起きられた。しかし、その日の一日の事を思うと、ずっしりと私の限界を超えて手も足も出ないような問題の塊が行く手を覆っているように感じられた。布団から身を起こしても、しばらくの間、座ったままで、次の行動を起こす気力を整えなければならなかった。洗面もまるでスローモーションのようにゆっくりとしかできなくなった。
 朝食は食べられなくなった。無理をして食べるとすぐに戻してしまいそうになった。下宿の玄関を出る時には非常な警戒心が出てきた。誰かに見られていないかという心配だった。私はドアを少し開けて外の様子をうかがって誰もいないことを確認してから走るようにして駅の方へ向かった。
 電車に乗ると周囲の乗客の視線がすべて私を厳しく非難するように突き刺さってきた。私は誰とも決して目を合わさないようにうつむいて自分の靴先を見るか、目を閉じていた。すると列車の揺れで乗り物酔いをしたようになりムカムカとしてきた。同時に車内が自分の自由や存在を消滅させるような強制的に閉じられた空間のように感じられて息苦しくなってきた。何度かは、途中の駅で降りて一休みしてから次の電車に乗ったこともあった。
 校門に着いた時には、ひと仕事もふた仕事もしてきたように疲れ果てていた。校舎に入ると生徒たちが私に殴りかかって来ないかという恐怖心が頭いっぱいに広がり、生徒を避けながら廊下を歩いた。
 職員室に入ると、あれほど幸福感を味わった私の席が、死刑執行の電気椅子ように感じられた。周囲の教員が皆、死刑執行官でヒソヒソと相談をしながら、いつ死刑にしようかと虎視眈々と私のすきをうかがっているように見えた。
 授業で教室に行く足が果てしなく重かった。毎回、このまま教室に行かずに校門を飛び出して、どこか遠くへ行ってしまいたいと思うばかりだった。
 なんとか一日の仕事を終えて下宿に帰ると、倒れるように布団の中に入った。そして明日の仕事のことを思うと、巨大な岩に体が押しつぶされるような感覚になった。
 私はこんな状態になりながらも歯を食い縛るようにして出勤を続けた。仏教の中に『無限地獄』という言葉があった。人間にとって心身共の最大の苦痛がいつ果てるともなく永遠に続く苦しみを表したものだ。
 私は自分の置かれた状態がまさに無限地獄だと思えた。普通の健康な人なら当たり前にできることが、私にとっては百倍千倍も苦しい思いをしなければできないと思えた。私はふと、世の中にこんな苦しい思いをして出勤をしている人は他にいるのだろうか、とさえ思った。そういう人がいないとすれば、私の気持ちを理解してくれる人も世の中にはいないだろうと思えた。
 これまでの苦しみもその時々において耐えられないようなものだったが、この時ばかりは、いままでの苦しみが今回のための準備体操のようにさえ思えた。
 私はあまりの苦しさに、武田さんに電話をして久しぶりに会う約束をしてもらった。アパートに行くと武田さんが心配して山脇さんも呼んでいてくれた。
 私は、ボランティア活動や武田さんからしばらく離れていた間のことを素直に全部話して、今が最悪の状況であることを訴えた。正直に自分の今の苦しさを話し、聞いてもらうことによってずいぶん心が楽になるような気がした。だれにも理解されないと思った自分の苦しみを分かってもらえる人もいるんだと感謝する気持ちにもなった。
 三時間以上も色々と話ができた。私が、学校を明日にでも辞めたいと言った時には、山脇さんは、
 「辞めるのは、いつでも辞めれますよ。ただ、それが人生の負けにならないようにすることが大事ではないですか。負けて辞めていけば、次にまた同じような状況を繰り返すのが普通です。十年が勝負だと言われています。どんな職場でも十年勤めてみなければ、その仕事の本当の良さも悪さも解らないものです。十年を目指して頑張りましょう」
と激励してくれた。また武田さんは、
 「大和田君、また、ボランティア活動をしようよ。人の幸せのために自分には役立つものがある、と感じて行動できることが最高の幸せだろう。今の君の、誰よりも過酷な苦悩を乗り越えて行くならば、同じような苦しみを感じている人の心が分かってあげられるじゃないか。そしてその人の心に響く激励ができるじゃなか。すごいことだよ。そのためにも負けないようにしよう」
と温かく激励してくれた。
 帰りがけには武田さんがうどんを作ってくれた。入れる具がなかったので、マヨネーズをたくさん垂らした。混ぜると卵うどんのようになり、三人でおいしく食べた。
 アパートを後にしながら私は、もう一度頑張ってみよう、という気持ちになっていた。

   
 (六)試練
 私は住居を変えた。武田さんのアパートの近くに引っ越した。武田さんと同じアパートにと思ったが、空室がなかったので、近くのアパートにした。学校からは遠くなったが、ボランティア活動をするには、武田さんのアパートがちょっとした拠点になっていたので、たいへん都合がよかった。
 再びボランティア活動に力を入れるようになった。そうすると学校での絶望的な状況を少しずつ乗り越えることができた。ボランティア活動をしなかった時は、その日の学校での精神のダメージがそのまま翌日に連続して持ち越されて負の増幅がなされた。
 ところが夜、ボランティア活動をすると人間の温かみのようなものを取り戻すことができて、心をリセットすることができた。そうすると翌日は、少しなりとも新鮮な心で出勤することができた。これを毎日繰り返していくと徐々に精神の状態が、人間的な平穏なものへと変化していった。さらに、私が教員になったということで、ボランティア活動の領域が広がり、多くの方々から訪問希望が寄せられるようになった。
 私は武田さんや山脇さんのアドバイスのかげで、危機を脱出することができた。新任の一年間をどうにか投げ出さずにやり通すことができた。
 二年目になった時、新入生の担任を持つことになった。私はボランティアで身にしみて感じていた対話の大切さを、そのままクラスの生徒にも当てはめた。クラス運営の中心に一対一の対話をすえて、時間があれば生徒と話をしてお互いの心が通じ合うようにした。
 それはしばしば生徒にも私にも楽しい会話となった。また、一度は必ず保護者と顔を合わせて対話をすることにした。こうして保護者と顔見知りになっているとさまざまな場面で保護者とのやりとりがスムーズにいった。学校で行う保護者懇談会に来られない親については放課後、私が生徒の家にまで出向いて顔を合わせた。
 初めての担任だったが、順調に良い雰囲気のクラスを作り上げていった。クラスの生徒は明るく、ほとんどの生徒が学校が楽しいと言っていた。私はますますやりがいを感じながら一学期を終え、夏休みに入った。
 二学期が始まった。今度は前年の失敗を繰り返さないようにボランティア活動で気力を保ちながら始業式を迎えることができた。
 涼しい風が吹き、草むらで虫が鳴くような季節になった時だった。また、つまずいてしまった。どうやら私は季節の変わり目に精神のもろさが顕著になるようだった。
 その引き金となったのは、同じ国語科の女性教諭が、
 「大和田さんの授業は自己陶酔型らしいねぇ。生徒がみんなそう言っているわ」
と面白そうに言ったことだった。この言葉を聞いた瞬間に私は、顔が引きつるのが自分で分かった。
 その女性教諭の雰囲気からして、冗談半分、からかい半分で面白く言っただけのことだとは分かっていたが、その言葉は私の心の奥深くに突き刺さり傷つけた。同時に張り詰めていた何かがぷっつりと切れた。私がこれまで学校で一生懸命にやってきたすべてが否定されたように思えた。
 「生徒が信頼してくれ、喜んでくれていると思っていたことも全部、客観性のない自己満足な思い込みに過ぎなかったのだ。私は恥じさらしな裸の王様だったのだ。これは紛れもない真実だ」
 こんな自己否定が心の中にいっぱいに広がり、どうしようもない自己嫌悪に陥った。そして、居ても立ってもいられない気分になった。私は青ざめた顔でその日の残された授業を終えると、逃げるように校門を出た。
 アパートに帰り着いても自己否定の思いは収まるどころか、ますます増幅していった。私は何もする気が起こらず、すぐに布団を敷いて頭からかぶって寝た。なかなか寝付かれなかったが、眠ることが今の自分の状況から脱出する唯一の方法だと思えた。眠ってしまえば、外の世界との関係性も、目が覚めている時の自己の現実からも無関係になり、救われると思えた。
 私は必死で眠ろうとした。そうすると夢と現実の混濁したような状態になった。何回も目が覚めたような気がしたが、その都度また、必死で眠る努力をした。
 とりあえず目が覚めた時は翌日の昼前だった。無断欠勤になっていた。私はアパートの管理室の前にある電話から欠勤の連絡をした。教頭は「ハイハイハイ」と冷たく言った。教頭が「ハイ」を三回言う時は、不機嫌な時か呆れた時であった。
 電話をしてからまた布団にもぐり込んだ。よくこれほど眠れるものだと自分でも感心するくらい眠った。結局、次の日も連絡せずに休んでしまった。あまりにも寝過ぎて今度は夜が眠られなくなり、三日目は早朝から眠ってしまって、さらに欠勤を重ねた。
 四日目は一睡もせずに朝を迎えて、眠りそうになる体にムチ打つようにして出勤した。校門が近づき校舎が近づくにつれて、殺人を犯した人間が自首する時にはこんな気持ちではないのかと思えた。「死んだほうがまし」という心境を身にしみて感じた。
 職員室に入ると、多くの教員が私をトゲ刺すような目でチラリと見て、後は無視した。私は教頭のそばへ行って謝った。「ハイハイハイ」とこちらに顔も向けずに迷惑そうに言った。自分の席に座ったが、「針のむしろ」という例えは、現実に存在していたんだと思えた。
 一時間目の授業は私の担任のクラスだった。四十数名の生徒がどれほどか私を非難中傷のまなざしで見つめ、白けた暗い空気になることだろうと思うと、一歩の足を動かすのに気分が悪くなるほどの緊張と計り知れない力を入れなければならなかった。
 私はうつむいたまま教室に入った。そして決して生徒の方は見ずに、教科書を広げて授業をしようとした。だが、出欠を取らなければならないのに気がつき、動悸を感じながら生徒の方を見た。私は戸惑った。どこにも悪意に満ちた視線はなかった。皆、心配そうに私を見ていた。一人の生徒が、
 「先生、大丈夫?」
と声を掛けてくれた。そうすると別のユーモアのある生徒が、
 「もっと休んでくれてもよかったのに」
と面白そうに言った。教室全体に笑いが広がった。私も思わず笑ってしまった。教室はいつもの楽しい雰囲気になっていた。私は生徒たちに心から感謝した。
 このつまずきから私はなかなか立ち直ることができなかった。教員を辞めよう、と思ったことは数え切れないほどあった。しかし、その都度、面接の時の校長の言葉、山脇さんの「十年頑張れ」という激励、そして何より生徒たちの純粋で温かい心を思うと、あと一日頑張ってみよう、と自分を叱咤しながら勤め続けた。
 ただ、朝起きられないことがしばしばあり、遅刻や欠勤が非常に多くなっていた。それでも踏ん張りながら、なんとか三年間、担任を持ち続けることができた。
 そして教員になって初めて担任として三年生の卒業式を行うことができた。体育館で、クラスの卒業生一人ひとりの名前を読み上げながら、涙が出そうになるのを抑えるのに苦労した。
 卒業生と共に、私もどれほどか卒業したかった。ある意味で卒業生がうらやましかった。

   
 (七)父の死
 日曜日のまだ薄暗い早朝に電話が鳴った。この頃にはアパートの自室にも電話を取り付けていた。私は前夜遅くまで小説原稿を書いていたので、半分寝ぼけた頭の中で、受話器を取った。母からの電話だった。母は、
 「コーちゃんが心配したらいけないと思って言わなかったけど、お父さんの調子が悪くて、入院していたのよ・・・今、お医者さんから危篤だと言われた。仕事で疲れていると思うけど、病院の方に来てね」
と弱々しい声で言った。私は夢うつつの中で母の言葉の意味を理解しようとした。少しして、父の死という実感がわずかなりとも身に迫ってきた時、非常に狼狽した。
 私の心の働きは自分でも実に不思議に思えた。この母の言葉を聞けば、普通であれば子供として、しかもおそらく普通の子供以上にはるかに世話になり、心配をかけ、犠牲的に尽くしてくれた父親に厚い恩を感じて、すぐにでも飛んで行くべきだった。ところが私はただオロオロするだけだった。
 父の危篤をどのようにとらえ、どう対応していいのか皆目分からなかった。それが分からない限り、身動きが取れないように思えた。父の立場を優先して考えれば、あれだけ私を大事にしてくれた父が今、この世の生を終えようとしているのだから、当然、生きているうちにこの世の最後のお別れを感謝の念とともに果たすべきであった。ところが私は、父のことよりもまず自分の立場を考えた。 
 父の死に直面するのが怖かった。不安この上なかった。父の死をいったいどのように受け入れればいいのか全く分からなかった。とても、死を直前にした父のそばへ行く勇気が出てこなかった。
 私はしばらく考えてから、
 「今朝は気分が悪い。昨夜、ろくに寝ていないから。もうすこし休んで、気分が良くなったら行くから」
と答えた。母は、
 「そうだね。無理しなくてもいいから気分が良くなったら来ておくれ」
と心配そうに言った。私はこの言葉を聞きながら、重い父の死と軽い私の気分とを天秤にかけて、母は私の気分を重く考えてくれていると感じると、なんと私は甘やかされた人間なのだろうと感じた。
 私は電話を切るとまた布団にもぐりこんだ。そして時間が経ってもなかなか布団から起き上がることができなかった。私は横になりながら、病院に行って父のそばに行けるように考えをまとめようと思った。
 しかし、必死になって考えれば考えるほど、あの父の死に直面することができるような気分にはならなかった。そして、語り切れないほど世話になった父親に対して、子供としての自分の姿は何と親不孝で情けない態度であるのかと思った。
 考えれば父は、徹底して私を守ってくれた。私を心配させたり悩ませたりするようなことからは、すべて父が防波堤となって直接、私が波をかぶらないようにした。父は私に接する時には、常に庇護者としての一面のみに徹した立場を守り通した。
 だから、私はある意味で、父親の本質といえるようなもの、本体といえるようなものとは全く接することがなく生きてきた。父自身も私に対して、自分を隠して私自身に接していたともいえる。例えてみれば赤ん坊と母親のような関係だったかもしれない。
 臨終は父自身がすべての外形的な要素を全部振り捨てて、たとえば父親という立場も捨てて、人間として一個の生命的存在になってしまうことだった。今まで一度も私に見せたことのない、父の一個の人間としてのありのままの姿に接した時、私は戸惑うしかないだろうと思った。そしてそんな自分の姿を周囲の者に見せられないと思った。そう考えると私は父の臨終に立ち会う勇気が出なかった。
 幼い子供の目の前で親が事故で死んだ時、子供は自分を育ててくれた親であることを忘れて、むしろその悲惨な親の姿を見て逃げるだろう。私の精神状態はそれに似ていた。私は自分の都合を優先させて、離れたところで父が死ぬのを待っていた。
 私はわざと寝過ごした。昼近くなって、今度は葬儀社の係りの人から電話がかかってきた。
 「ご愁傷さまです。お父様が亡くなられました。間もなく病院からご遺体を葬儀場の方へ運びますので、できるだけ早く葬儀場の方に来てください」
と事務的に言った。私は悲しむよりもむしろ、ほっとした。そして、父の遺体であれば対面できると思った。危篤から亡くなるまでの間の時間を考えると危篤の連絡を受けてすぐに帰れば、充分に父の生きている間に会うことができたはずだった。
 私はゴソゴソと起き出し、着替えをした。重い心と重い足取りで、午後になって葬儀場へ行った。
 到着して恐るおそる棺のそばへ行った。もの言わぬ父が横たわっていた。死因は心筋梗塞だった。私は極力、父の死の実感がわかないように自分を制御した。だから、涙も出ないし、悲しい感情もあまり出てこなかった。
 通夜の席には武田さんや日ごろボランティアで付き合いのある人たちがたくさんやってきてくれた。そして、私に悔やみの言葉と同時に激励をしてくれた。何を考えていいのか何をしていいのか分からない私には大変ありがたかった。
告別式にも平日にもかかわらず、多くの人たちが参列していただいた。授業中だったのにクラスの生徒の代表も来てくれた。
 式が終わった後、斎場へと行った。それから炉の中へ父を送った。しばらく時間をつぶしてから、少し早かったが骨上げのため再び斎場へ行った。職員が、
 「少し時間が早いですが、おそらくできていると思います」
と言って炉を開けた。扉が開いた瞬間に、熱風が顔に吹きつけてきた。私は思わず後ずさりした。引き出された台の上を見ると、胸のあたりがまだ燃えていた。所々に残った骨以外には何もなくなっていた。
 私は気を失いそうになるほどの衝撃を受けた。あの父がいなくなったのだ。あの父がこの世から姿形も全くなくなったのだ。私はこの時初めて父の死を激しい動揺とともに実感した。今度はあまりにも強烈過ぎて、涙も感情も出てこなかった。今まで私にとって最も偉大な、最も大きな存在だったものがポッカリと大きな空虚な穴になってしまった。
 私は父の残った骨を箸でつまみながら、心の奥底から突き上げてくる思いにあわや高温の台の上に打ち伏せそうになった。
 少し落ち着いてくると、父は死をもってまで私に人生を教えてくれたんだ、と感じられた。
 「光也、人生の行き着く先はこれなんだ。いかなる人間も結局はここがゴール地点なのだ。とするならば、生きている間にどのような生き方をすべきなのか分かるだろう。こうしてお父さんが先にゴールを教えてやったよ。賢い光也だから、このゴールが必ず来るのであれば、どう生きたらいいのか分かるだろう。これがお父さんとの最後の勉強会だ」
と父が言っていると確信した。
 行き着く先が灰だからこそ命を無駄にせずに、より多くの人に尽くせる生き方にしなければならないと思った。以前の私の後ろ向きな生き方とは百八十度変わって前向きに捉えられるようになっていた。
 父は懐かしい故郷へ、大阪に出てきて以来、一度も帰ることなく生を終えてしまった。
 私は父への限りない感謝の思いで涙がとめどもなくて出て来た。

   
第Ⅳ章『教員時代』

 (一) 結婚
 学校での勤務はどうにか続けられていた。他人からは分からなかったが相変わらず内面の壮絶な闘いの上に成り立っていた日常生活だった。毎日が自分の限界との挑戦だった。そして、しばしば限界を超えて自分に負けることもあった。
 そんな時は、一日とか半日、欠勤したり遅刻したりしながら学校へ行った。出勤しても、授業の無い時間帯には、職員室の休憩用のソファーで眠ったりした。時には寝過ごして次の授業にも行かなかったこともあった。また、空き時間が続く時には、ブラリと校門を出て喫茶店に行ったり、散歩に出かけたりもした。
 私の勤務態度は、非常に悪いものだった。当然ながら、あちらこちらから批判が多く出てきた。私は、自分自身の勤務状態が悪いのは精神的疾患によるものであって、決して一般的に見られる怠惰のせいではない、ということは一切言わなかった。
 そういうことで、同情的に見られたり、配慮を受けたりしたくなかった。もしまた言ったとしたら、医師の診断書を出せ、ということになるだろうから、今さら病院に行って治療を受ける気には全くならなかった。
 苦しい日常を耐えて生きるために、私はまた空想の世界を広げていった。学生の時、苦しさのあまり故郷の生活に「赤ちゃんがえり」をするようにして自分を慰めたのとは違って、思うにまかせぬ現実から離れて、自分の理想の世界を作り上げることによって耐えようとした。観念の世界で満足できる成果を上げることによって、現実の自分を慰めた。
 私は時間さえあればコツコツと気に入った観念世界を築き上げた。それは職場であれ、通勤電車の中であれ、トイレの中であれ、食事中であれ、場所を選ばずにちょっとした時間にも頭の中に描いていった。特に、常に寝付きが悪かったが、布団に入ってから眠るまでの間に激しく頭が働いた。
 母が精神状態の悪い時、目は覚ましているのにいつまでも布団の中に入ったまま、どこか遠くを見つめるような目をして起き上がってこなかったのは、私と同じだったのだと思えた。とにかく私は、観念世界をできるだけ大きく、できるだけ詳しく、できるだけ長く、神経をすり減らすようにして作り上げていった。そして、頭がヘトヘトに疲れ果てた時、どうにか眠ることができた。
こうして創った私の世界は、膨大な数と量に上った。
 例えば、住んでいた四畳半一間のアパートに、ボランティア仲間がよく来てくれるようになっていた。壁一つで隣の部屋だった。気兼ねをせずに十分に話をすることができなかった。
 私は何時、誰が来ても大きな声で自由に会話ができる自宅が欲しかった。そんな時、気に入った自宅を何百軒となく頭の中で作り上げた。一つの部屋の腰板の幅や材料、コンセントやTVケーブルの位置などまで、事細かに描いていった。時には一軒の家を作るのに十日間をかけることもあった。
 また、学校は生徒の可能性を伸ばすべきであるのに、現実には抑圧をする要素が多いことをいつも不満に思っていた。その不満を解消するために、私は自分の気に入った学校を頭の中で作った。それは幼稚園から大学院までの一貫教育になり、卒業生が世界で大活躍をするところまで積み重ねた。
 さらに、世界で殺し合う紛争地域をなくすために、民衆同士の、また他民族同士の融和と協力の心を創り出す方法をさまざまに考えた。紛争は一握りの権力を持った人間によって扇動されているものだから、その扇動者を排斥する民衆の強さを育てるために教育に力を入れることを考えた。そして、紛争が起きないように国境あるいは境界という人々を断絶する国家や民族の構造を変えて、地球を一つの国にするために観念の世界で粉骨砕身した。
 こんなことで頭が飽和しそうになるのを抑制して、現実にしっかりと足を踏んばらせてくれたのは、やはりボランティア活動だった。相手の人の千差万別の現実の問題に直面する時、観念の世界はその本性を私自身に見せてくれるような気がした。
 武田さんは一年ほど前に結婚していた。奥さんは近くに住んでいる同じボランティア仲間だった。また、仕事は電動モーターの一般企業を辞めて、ボランティアの事務局に専任で勤めるようになっていた。住居は、奥さんの実家には母親しか居なかったこともあって、そこに同居していた。古いが広い一戸建ての家で、夜遅く訪ねても気を使わずに打ち合わせや話をすることができた。
 私は結婚など全くする気がなかった。教員とボランティアと原稿書きを精神の暴走に呻吟しながら必死でやり抜いていた。結婚を考えたりする余裕はどこにもなかった。
 ところが、武田さんの家にボランティアとしてよく出入りしていた一人の同年代の女性と会話を交わすと、荒れ狂う私の心が静かに凪いでくるのが感じられた。その女性は里美さんといった。私と性格はまったく逆であった。精神作用はのんびりしていて、何が起こっても驚くことはないのではないかと思えるほどだった。
 また、将来や未来のことについて深刻に考えたりせずに、現在の状況の中で平々凡々として満足して生きていける人だった。何よりも私がどれほどイライラした精神状態であったとしても、それに影響されて彼女の心に波風が立つということは全くといっていいほど無かった。ある面でいえば、私の観念の無力さを体質的に知っていた人であるとも思えた。私は心が引かれた。
 ある時、私は彼女に自分のこれまでの人生とこれから先の小説家志望の目標を話して、一緒に人生を送るための理解を求めた。彼女は全く動揺することはなかった。彼女は、
 「いいじゃないですか」
と言って握手をしてくれた。
 私は彼女と結婚した。結婚式には、ボランティアの仲間や教員も多く参加してくれた。職場代表のあいさつの中で同じ国語科の同僚は、
 「新婦にはぜひとも、新郎を朝起こすことを最大の役割と考えて、遅刻と欠勤をさせないようにお願いしたいと思います」
と真剣に言った。妻は冗談半分だろうと聞いていたようだが、一緒に生活をしてみると事実であるのが分かり、驚いたようだった。妻は必死になって朝起こそうとしたが、私は相変わらず、遅刻と欠勤を克服することができなかった。
 結婚して日が経つにつれて妻の性格もよく理解できるようになった。妻はやはり私とはまったく次元を異にした人だった。だからこそ私はありがたかった。もし私と同じような性格の女性と結婚していたとしたら、数日後に破綻したのではないかと思われた。
 住居は、若手のボランティアが相談や打ち合わせによく来るようになっていたので、あまり周囲に迷惑のかからない小規模のコンクリート造りの集合住宅を借りた。ボランティア活動は夫婦で動くことも多くなり、さらに活動の範囲が広がっていった。

   
(二)新人賞
 A学園に勤めて七年が経った。表面的にはどうにか勤務できているように見えたが、毎年薄氷を踏むような状況だった。年度末になると必ず私を辞めさせようとする声が大きくなった。
 それも道理だった。常習的な欠勤、早退、遅刻、さらに就業時間中に抜け出す中抜け、授業の無い空き時間にはソファーでの居眠り等々、すこぶる不真面目な教師だった。他の教員からは、真面目な教員のやる気をなくさせる癌的存在だと言われた。生徒にも生活指導上、悪影響を及ぼす教員として迷惑がられた。
 これほど嫌がられてもなぜ辞めなかったのか。それは面接の時に小原校長が私に言ってくれた言葉と山脇さんの、「十年頑張れ」という激励を常に心に反芻していたからだ。ただ、もし校長に迷惑がかかるようなことがあれば不本意なことになるので、直接、校長には言えなかったが、教頭にははっきりと、
 「校長先生が私に辞めよと言うならば、何時なりとも従うつもりです」
と意思表示をしておいた。私の正直な気持ちだった。この時は教頭は、「ハイ」とだけ言った。
 教職員としては、不適格者に近い勤務態度だったが、意外なことに生徒はずいぶん好意的に受け入れてくれた。いっしょになって楽しい思い出をたくさん作ることができた。今でも当時の学校行事の写真を見ると心が躍るような気持ちがよみがえる。私が教職を続けられた根本には、校長や山脇さんの激励はもちろんだが、生徒との掛け替えの無い結びつきがあったからこそである。
 私の精神状態は、理想郷を夢見ることから、破壊を指向する方向になってきた。日常的に当然継続すべき状況が、一瞬にして崩壊してしまうことを願った。私は交通量の多い陸橋の上から、一升瓶に入れたガソリンに火をつけ落下させ、車道で割れて炎が上がり、それによって車両火災が起こり、燃え広がることを空想した。
 またリュックにガソリンを入れた一斗缶を背負って、ラッシュ時の電車に乗り、車内でガソリンをまいて火をつけることも考えた。さらに、水道の蛇口に高圧ポンプを取り付けて、毒物を逆流させて大量に人々を殺害することも考えた。果てには、農業用の無人ヘリコプターに病原菌を繁殖させた培養液を載せ満員の野球場に振りまくことまでも考えた。
 そして次には、破壊された後に自分だけが生き残ることを想像した。船の沈没、航空機の墜落、大地震などに遭遇しながらも自分とほんのわずかの気に入った者だけが生き残る状態だ。終りには、世界の人々が核戦争によって死に絶えたなかで私一人が生き残ることまでも考えた。
 これらのことを四六時中考えながら、単なる想像から現実にできるような形に事細かく計画を作っていった。それを実現するためにこれまでに得た知識や知恵をすべて注ぎ込んだ。
 やがて私は、次々と洪水のように暴走する想念のなかでも、もうひとりの自分が、観念の世界に振り回されている自分を冷静に見つめているのを感じることができるようになってきた。この傾向は以前にもあったが、もう一人の自分がより明確に確立された存在になっていた。その自分は、さまざまに空想をしている内容は、すべて、現実の社会が自分の思うようにならないことから、その代償作用として出て来ているのだと考えていた。
 私は冷静なもう一人の考えに従った。
 「それじゃ、現実から逃げずに四つに取り組んで、現実に実証を示せるように全力で努力すればいいじゃないか」
と腹を決めた。そうすると、どうしても小説家志望が人生を中途半端にさせ、現実への取り組の邪魔になるように思えた。
 現実に実証を示すとは、生徒たちの成長のために全身全霊を注ぐことだった。当然ながら勤務態度も改善させることは必須条件だった。その為にはある意味で、現実逃避と自己正当化の言い訳になっていた小説家志望の道を断つ必要があると思えた。
 「自分の真の姿は、小説家になって世界平和に尽くす人材だ。教員は仮の姿だ。少々いいかげんになったとしても許される」
 こんな一念が無意識のうちに、心の根っこにできていた事は間違いなかった。これはまた、少年時代に植えつけられた過剰な自我意識と優越感に通じるものだった。そして、精神疾患の元凶でもあった。
 小説の創作は私のこの世に生きている意味だった。小説と命を天秤にかければ、小説の方が重かった。結婚してからもこの思いは変わることがなく、時間を作っては書き続けていた。私にとって小説は人生最大の執着心を持っているものだった。
 しかしここに至って、小説家を諦める、という私にとってはこれまでで最も重大な決断をした。そうしなければ、中途半端な教育者になり、生徒の人生に大きく影響を与える立場として申し訳ないと思った。
 小説家を諦めるにあたり、私は作家志望の人生の、この世の思い出に最後の作品を書き上げることにした。この頃、私が小説を書く上で、一つの動機にしていたことに、「私は他人になりきることができる」ということがあった。それは経験則ではなく感覚であった。
 例えば、一人の特定の少女になり切り、その少女がこれから出会うだろ状況に直面して、どのように感じどのように行動するかが、自分のこととして、手に取るように分かるような気がした。最後の小説には、この感覚で殺人者になってやろうと思った。
 テーマには、これまでは当然、書きたい内容を書いてきたが、最後には悔いを残さないように、逆に最も書きたくないものにした。それは性の歪だった。私の心の奥底にある触れられたくない暗部であった。それをさらけ出せば、それ以上の、小説のテーマにすべきものは自分の中にはなくなると思えた。
 私は、『ある殺人者の告白』と題した小説を短期間で書き上げた。主人公の《私》は、心の中のいびつな性の歪にほんろうされ、徐々にいかがわしい行動がエスカレートしてゆき、ついには、殺人を犯すまでに至るというものだった。
 私は書き上げて、小説家を目指す原点になったソンミ村虐殺事件に、この小説がどのように関わり合うのか考えてみた。全く別次元の小説のように思えたが、人間の根本的な愚かさを表出するという点においてはつながっている、と自分を納得させた。
 書き上げた原稿をどこにも投稿せずに、そのままにして置くのは寂し過ぎるような気がした。これまでに書いた原稿はほとんど、どこかの出版社の公募に出していた。結果的には、予選にせよ一度たりとも名前が出ることはなかった。『ある殺人者の告白』も百パーセントダメだと思ったが、自分を納得させるために応募しようと思った。
 それで書店に行き、現在募集中の文学賞はないかと雑誌を調べた。すると、一社の月刊小説雑誌がちょうど新人賞の募集中であった。私はどこでもよかったので、その雑誌社に原稿を送った。その後は中間発表なども全く見なかった。
 半年が経って、その雑誌社の編集部から候補作になりましたと連絡を受けた時は、応募したことも忘れていたので、非常に驚いた。そして、数日後の最終選考会で受賞が決まった。私は三十三歳になり、小説を書き始めて十年を超えていた。
 私は受賞を契機に本格的に小説を書こうという気にはならなかった。けじめを自分でつけた以上、受賞は過去の記念碑として置いておき、教育活動とボランティア活動に専念しようと思った。
 私の決意は、精神状態にずいぶん良い方向に働いた。これまで持ち続けていた心の重いしこりのようなものが取り払われ、心身ともに軽い状態になった。
自分の命と同じかそれ以上の重さに考えていた小説家志望を他人の幸せのため、教育のために犠牲にし、捨て去ったことが私の心をダイナミックに変えたことは間違いなかった。
 もちろん、自己否定、自己嫌悪、罪悪感、鬱状態、妄想など、心は目まぐるしく変化するが、基底部分に以前とは大きく違って、他人のために生きていこうとする力強さのようなものが崩れない土台として築かれていた。
 《死して生きる》
 この言葉が実感を伴って心に広がっていった。
 その後、私の勤務状態はずいぶん改善されてきた。年を追うごとに、遅刻も欠勤も少なくなっていった。学校に行くのに心身の負担がずいぶん軽くて済むようになった。それだけ教育活動に力を入れることもできた。
 私は生涯、教育者として生きていくのなら、さまざまな学校を経験しておきたいという気持ちになった。ちょうどA学園に勤め始めて十年を過ぎていた。山脇さんから、「どんな職場でも十年頑張れ」と激励された年数も超えたことになった。何よりも小原校長が、そろそろ退職して残された人生を宗教者として生きたい、との意向を口に出していたことが私の決断を促した。
 私は私立高校を経験したので、今度は公立高校に勤務したかった。それで大阪府の採用の年齢制限を調べると私の年が上限であった。私は最後のチャンスに間に合ったと喜んで、採用試験を受けた。結果は合格で、希望通り公立で教鞭をとることになった。
 公立に転勤することを小原校長に言った時、
 「君を辞めさせよ、という声は至るところからありました。しかしその都度私は、必ずしっかり勤務できるようになるから長い目で見てやってくれ、と抑えてきました。多くの先生方も、それではしばらく様子を見ましょう、と理解を示してくれた。君は期待通りこの数年来非常に勤務態度が良くなってきていたので、うれしく思っていたのですが・・・転勤するか・・・まあ、いいだろう。まだ若いし、教育者として様々な現場を体験することは今後の役に立つでしょう。しっかりやりなさい。私も来年度くらいには退職して、人生の総仕上げをしますよ」
と少し残念そうにしながらも激励してくれた。
 私はA学園には心から感謝した。客観的に見て、私のような勤務態度の人間は、一般企業であればもちろん早々と解雇になっているだろうし、長期休暇のある学校でも普通であれば、辞職することになっていただろう。
 私が本来すべき仕事をしなければその分、誰かが負担をかぶらなければならなかったのだから、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。まして、私は精神科の病院にも通院していず、精神疾患を客観的に証明するものは何もなかったことを考えると、深く頭が下がった。
 A学園は生徒を立派に育てるだけでなく、私のような社会生活に不適応な教師までも一人前な教育者に成長させる学校だった。

   
 (三)同士の死
 大阪府立高校への勤務が始まった。勤務状態は、他の教員と同じ程度で、欠勤も遅刻も目立つことはまったくなかった。A学園に勤め始めた頃の、朝起きて出勤することに気の遠くなるような努力が必要だったことを考えると、格段に負担が軽くなったのが嬉しかった。
 やがて長男と長女が生まれ、四人のにぎやかな家庭になった。高校時代から病気のためにつまずき始めた人生を考えると、このような平凡で幸福な生活が夢のように思える時もあった。
 日々の勤務や生活に安定感が出てくると、ボランティア活動にはより多くの時間と力を注ぐことができた。この頃、特に力を入れていた活動は、日常的に地域にセーフティーネットを構築しようとするものだった。もちろん行政の取り組みとも協力しながら、地域の人と人との、利害関係を抜きにした結び付きを広げていくことによって、安心安全な生活と子供の教育環境を造ろうとするものだった。
 《類は友を呼ぶ》というのか、私が訪問したり会ったりする人の中には、精神疾患で悩んでいる人が多くいた。病気の人の苦しみは、同じ病気の人でなければ本当の苦しみが分からない、というのは確かにひとつの真理だ。話を重ねていると、相手の心のひだまではっきりと分かるような気がした。何よりも話が弾んだ。何時間話をしていても飽きることはなかった。話し合いながらお互いの心が共鳴し、慰められるのを感じた。
 その人たちはほとんど、精神科に通院していた。何度も入退院を繰り返している人もいた。また、何度か良くなって治療をやめ、やがて再発した人もいた。私と長い付き合いになる人も多かった。
 そんな中の一人に岩井君という青年がいた。彼が高校三年生の時に、別の訪問先の方から、
 「進路のことで悩んでいるようだからぜひとも行ってあげてください」
と言われて岩井君の家に訪問したのが初めての出会いだった。背のヒョロリと高い、誠実な表情をした好青年だった。
 岩井君の父親は、彼が幼いころ家族を見放して家を出ていってしまった。母親が女手ひとつで彼と姉を育てた。母親は彼を高齢で出産していた。年の離れた姉はすでに会社員として働いていた。母親と姉で彼の大学の費用を出してやることになっていた。
 彼から色々と話を聞き、成績の資料なども見せてもらったが、よほど難易度の低い大学でなければ合格は無理だと思えた。しかし、彼はプライドが高く、難関な大学でなければ進学するつもりがなかった。私は、
 「それだったら、全力で挑戦するしかないね」
と無理とは思いながらも励ました。
 結果的には受験した大学はすべて不合格だった。母親や姉の勧めで浪人することになった。経済的負担をあまりかけてはいけないという彼の思いから、予備校にはいかずに自宅浪人をした。私はこの間に何度も彼の家に行って、悩みを聞いたり激励をしたりした。彼なりに一生懸命に勉強に取り組んではいたが、学力が上がっているとは思えなかった。
 一年が過ぎて、二回目の受験にもまた失敗した。母親や姉は二浪してもいいと言った。彼は親や姉に迷惑をかけることを痛みに感じながらも、二浪させてもらうことにした。私はまた何度も彼の家に通ったが、一浪の時と同じで不思議なほど学力の向上はなかった。
 入試を数カ月後に控えた晩秋のころから、彼の様子が変わった。次から次と体調の不良を訴え始めた。初めは腹痛から始まり、腰や背中の痛み、さらに、鼻、耳、歯、目などの不調を言い出した。その都度、病院に診てもらいに行ったが、特に悪いところはなかった。やがて彼は、
 「なんとなく体全体がだるくて動けない」
と言うようになった。調子の悪い時には部屋に閉じこもって家族とも顔を合わさなかった。ただ、私が行くと部屋の中に入れてくれ、長時間、体の不調について時には涙ぐんだり興奮しながら訴えた。私は話を聞きながら、肉体の病ではなく、精神の病になりつつあるのではないかと思った。母親と姉もそれが分かったようで、精神科の診察を受けた。診断は、鬱状態ということだった。この時より彼の精神科への通院が始まった。
 彼はまじめな性格だったので、言われた通り通院治療を受けた。それ以上に、薬を変更した時などは、数日飲んでも効果がないと、予約日でもないのにすぐに病院に行った。
 投薬治療を受けながら、三回目の大学入試を迎えた。この時は体調や将来のことも考えて、難易度の低い大学も受験した。ところが、結果はすべてダメだった。これで彼はほぼ大学進学を諦めた。私は彼の気持ちが痛いほど分かったので、できるだけ足しげく彼の家に通うようにした。
 彼の生活は、浪人生でもなければ、仕事を探すわけでもなく、中途半端な日々になった。毎日、薬を飲み、予約日には病院に行くというだけの生活だった。
 彼の精神状態は徐々に悪化していくように思えた。客観的にはどうでもいいようなつまらないことで、例えば母親の何気ない一言などで、心にダメージを受け、自己嫌悪に陥った。そして、外界の世界との関係性を断ち切るために、医師から処方されている睡眠剤を一度に口いっぱいに飲んだ。それに気が付いた家族が救急車を呼んで、病院で胃洗浄などの手当てを受けた。
 こんなことが何回も続いた。さらに、処方された薬では足らなくなると市販の睡眠剤を購入してきて、それも一緒に飲んだりもした。そのうち、飲んだ量を家族が調べて命に別条のない状態であれば、自宅で数日間眠らせて、目が覚めるのを待つこともあった。
 遊び半分のようにも見えたが、彼は私に、
 「毎回、二度と再び人間と関係を結ばなくてもいいようになることを願って飲んでいる。そのまま死ねるのなら死んでも良いと思っている」
と真剣に語った。もちろん医師には家族から状況が報告され、睡眠剤の一回に渡す量などを制限されていた。
 ある時などは、市販のものも含めて睡眠剤を多量に飲んでから、フラフラしながら近くの駅に行った。電車が入って来た時、飛び込むつもりでベンチから立ち上がった。危なく、ホームから落ちる寸前のところで倒れて眠り込んだ。駅員が救急車を呼んでくれて事なきを得た。
 こういう行動を繰り返すことが何年も続いた。彼にとっては、「運良く死ねれば、それでよい」という気持ちで睡眠剤を飲んでいた。
 私と岩井君とはお互いに精神疾患で苦しんでいる者同士として非常に話が合った。話し始めると三時間四時間と続くこともあった。私の家にもよく来てくれるようになり、そんな時には徹夜で話をしたことも何度もあった。私はとにかく、「何があっても死なないように」ということだけは言い続けた。
 彼が精神科に通い始めて十数年になった時、婚期がずいぶん遅れていた姉が結婚できて家を出た。自宅には母親と彼の二人だけになった。ささいなことで親子喧嘩が絶えなくなった。ある日、母親がガスの火を止めるのを少しの間だけ忘れていた時があった。彼はそれを見て、火事になったら危ないのにと言って怒った。母親がそれに対して
 「この子は細かいことを言うねぇ」
と応じた。彼は怒りを抑えられず、母親の腰を蹴ってしまった。立てなくなったので病院に連れて行くと腰の骨が折れていた。入院して手術することになったが、医師からは、
 「こういう状態でよく、寝たきりになる人がいる」
と言われた。
 私が家庭訪問してみると、未だかつてないほど彼は落ち込んでいた。彼は、
 「言葉で言えないほど恩のある母親に暴力をふるってしまった。しかもひょっとしたら寝たきりになるかもしれない」
と自分を責め抜いていた。この時ばかりはいくら私が慰めても気の晴れる様子はなかった。
 数週間後だった。母親はまだに入院していた。結婚した姉から私に電話があった。姉は、
 「弟は焼身自殺をしました。色々とお世話になりありがとうございました」
と手短に言った。私は一瞬、信じることができなかった。また何も言うことができなかった。
 葬儀は家族葬で行うということだったので出席はしなかった。一週間ほどして遺骨の置いている姉の家に行った。姉は気丈に、生前に私に世話になったことの礼を言ってくれた。帰りがけに、岩井君が死ぬ前に書き残していたというメモを見せてもらった。
 いろいろ書いている中に、「大和田さんの心の病気が早く治りますように」と書いていた。私は涙が吹き出すように出てきた。そしてしばらく顔を上げることができなかった。
 岩井君を失ってから数年間、私は携帯電話に彼から電話かかってくるような期待を持ち続けていた。
 私は岩井君以外に、精神疾患の知人を四人も自殺で失った。そのうちの一人に義母もいる。義母は首を吊っているロープから私がおろしてあげた。また、私と同じようにバセドー氏病を併発していた親友も自殺した。
 さらに、自殺を決行する数分前に私に電話をかけてきた友もいた。その時、運悪く私が忙しくしている時で、いいかげんな受け答えをしてしまった。今でも、悔やんでも悔やみ切れない気持ちだ。

   
 (四)母の病気再発
 母は父の死後、私の家の近くの文化住宅に引っ越していた。経済的には、父が軍人恩給を受給していたので、その遺族年金に当たる扶助料を受けていたから、生活に心配はなかった。また、精神的にも田舎から大阪に出てきて、環境の変化が幸いしたのか、落ち着いた状態だった。
 ところが父が亡くなって七年ほどした頃から徐々に精神的に不安定な状態になってきた。ボランティアで知り合った、夫に先立たれた高齢の人たちの話を聞くと、亡くなって数年間はそれほど寂しさを感じないと言っていた。その間はまだ心の中に夫の存在が感じられて安心感があった。ところが、五年あたりを過ぎると、独りになったという寂しさがしみじみと感じられてくるということだった。母も長年連れ添った父の存在感が七年ほどして失われたのかもしれなかった。
 母の異変の発端は、
 「泥棒に入られて犯された。犯人はクマだ」
と突然、私の家に訴えてきた時からだった。私は驚いてすぐに警察に連絡して鑑識係りや刑事に来てもらい、細々と調べてもらった。結果はその痕跡は全くなかった。犯人のクマという人物は母の観念の世界の人間だった。このことがあってから次々と騒ぎを起こしていった。
 母は、
 「クマという男をかくまって自分にいたずらをさせているだろう」
と言って隣近所に怒鳴り込んでいた。それも深夜、早朝にかかわらずやっていた。そして、仕返しをすると言っては、手当たり次第に近所の鉢植えに熱湯をかけて枯らしたりした。さらに、干している洗濯物や布団に残飯を塗りつけたりもした。また、道を歩いている全く関係のない男をクマの仲間だと信じ込み、跡をつけて行き、その家の自転車を千枚通しでパンクさせたりした。それを注意されると母は今にも噛み付きそうな形相で、反対に大声で相手をののしった。
 また、犯人を見つけた、と言ってはしばしば、警察に通報していた。
 ある時、母の文化住宅に行ってみると、玄関ドアに模造紙で大きな張り紙がしてあった。それには曲がりくねった文字で、クマという男への呪いの言葉が所狭しと書き殴っていた。
 ドアを開けてみると、母はキョトンとした動物的な顔をして部屋の中央に座っていた。私の顔を見ると、
 「コーちゃんか、足元に気をつけて入れ。押しピンを置いている」
と無感情に言った。言葉遣いも刺々しいものになっていた。見ると部屋の中央の母が座っている辺り以外は、一面に畳用の長いピンが上に向けて置いてあった。私は、
 「どうしたの?」
と言いながらピンを全部拾い集めて母のそばに座った。母は、
 「クマとその手下の奴が勝手に入ってくるから、痛い目に合わせている。ところがちょっと部屋を出た間に押しピンの場所を変えやがる。それで自分で踏んで痛くて歩けない」
と今度は苦痛で顔を歪めた。母は足の裏を見せた。いたるところにピンの刺さったと思える赤い斑点があった。それに全体が腫れていた。母はさらに、
 「夜中に入って来た時には大声を出して、この包丁で突いてやる。二階も両隣もみんなグルになっている。間違いない。何回、110番しても警察も来ないようになった。クマの奴は警察にまで手を回した」
と悔しそうに言った。部屋の壁にモップの柄の部分に包丁を針金で結び付けて槍のようにした物を立てかけていた。そして見ると、壁や天井のいたるところにその包丁で突いたと思える跡が残っていた。
 私はこのままの状態で母を置いておくのは、非常に危険だと思った。自傷行為ならまだしも、他人に対して危害を与える可能性が十分にあった。すぐにでも精神科に入院させなければ取り返しのつかないことになるかもしれないと思った。
 私は精神科で入院のできる病院を電話帳などをもとに探した。母の性格から考えると、あまり大きくない個人病院の方がよいと思えた。何軒か電話をかけて探している中で、大阪北部の緑の多い地域にある一軒の病院が見つかった。私は車で下見に行った。それは田んぼや畑のそばに建っていて、小規模ながら感じのよい外観の病院だった。
 玄関を入ると受け付けや薬局のある、適当な広さのホールになっていた。そこには十人弱の患者や看護士がゆったりとした雰囲気で動いたり座ったりしていた。私はこのホールで不思議な感覚に包み込まれた。何とも言えない安堵感に心が解き放たれ、何も気をつかうことのない安住の場所のように思えた。同時に日頃の私の生活は四六時中、誰かの目を気にしながら生活しているのが自覚できた。常に自分が他人からどのように見られるのか、他人にどのように思わせる為にはどのような言動すべきなのか、ということを意識しながら細心の注意を払って生きているのが分かった。
 このホールに居る患者の方々を見ると、私と同じ心の状態で悩み苦しんでいる気持ちが黙っていても相通じるように感じられた。昔から目に見えない糸で結ばれた同類同志のような親近感を持つことができた。お互いの心が分かり合えているからお互いを取り繕ったり隠す必要がなかった。ありのままの自分を出せばよいと思い、心が軽く楽になった。また、世話をしている看護士も患者の心の動きをわきまえていて、身構える必要のないように配慮しているように思えた。
 古い世代に生きてきた母は精神科の病院に入院することに対して、差別意識や偏見が非常に強かった。それをなんとか説得してこの病院に入院させた。私はしばしば見舞いに行った。母は、
 「やっと、クマに入られることを心配せずに生活できるようになった。夜も安心して眠れて楽になった」
と喜んでいた。私は医師とも親しくなり、母のことだけではなく自分の精神状態のことも相談したりした。医師は、
 「現在は副作用の少ない良い薬が日進月歩で開発されていますから、無理をして辛抱するよりも服用した方がよい場合がありますよ」
とアドバイスしてくれた。
 半年ほどした時、見舞いに行った帰りがけに母は、
 「盗聴されているから口では言えないが、これを家に帰ったら読んでくれ」
と言って、こっそりと小さな紙を私のポケットに入れた。家に帰ってそれを見ると、細かな字で病院や医師、看護士の不正と悪徳ぶりが所狭しと書かれていた。最後に、
 「ここに居たら、殺されるから早く退院させてくれ」
とこの部分は大きな字で書いていた。
 私は母が書いているような悪い病院ではないと思ったが、母の希望をかなえてやりたいと思った。ただ、退院させて以前と同じように借家に住ませることは無理だと思えたので、老人専用の病院を探した。引き受けてくれる病院を見つけることは予想した以上に困難だったが、どうにか京都の嵐山に近い所にある病院に入院できることになった。
 新しい病院に入院すると母は非常に喜んでくれた。私はまた、初めのうちだけだろうと思っていたが、一年近くたっても全く退院したいとは言わなかった。病院では、体が動いて認知症が進んでない人は自由に外に散歩に出ることもできた。私が妻や子供を連れて見舞いに行くと、一緒に嵐山の川べりをゆっくりと散歩した。母は、
 「ばあちゃんは幸せや、ばあちゃんは幸せや・・・」
と何度も繰り返しながら孫の手を引いてニコニコしながら歩いた。
 七年近く入院して母は亡くなった。亡くなる直前に、
 「コーちゃんには、何回も命を救われたね」
としみじみと言ってくれた。

   
 (五) 入院
 私は五十代に入った。学校では年々、責任が重くなる立場になっていった。そうなればなるほど、さまざまなトラブルも多くなった。
 私はついつい先々のことを必要以上に心配して、取り越し苦労をすることが多かった。いつも、最悪の事態を想定して大変な労力を使い、対応するための様々な根回しや資料などの準備をすることも多かった。いつも何かに追いかけられ、追及されているような精神状態が続いた。
 また、交通死亡事故や殺人などの新聞記事を見ると、自分が被害者になったような気分になった。それも、単なる気分だけではなく、実際の被害者と同化したような感覚が体の中から出てくる気がした。さらに、世界的なテロ事件や紛争地域における殺りくの報道においても同じように殺される側の人間の感覚に陥った。
 特にテレビ報道で、殺人現場の血痕などが映されると貧血を起こした。立っているとクラクラとして倒れそうになった。座っていても顔から血の気が引くのが感じられた。食事の時などに見てしまうと食欲は全くなくなった。また、楽しい一家団らんの時などにテレビでこのような報道が映し出されると、画面をチラッと見ただけで、恐怖心が走り憂うつな気分になった。妻や子供は、どうして私が急に不機嫌になったのか、理由が分からないことがよくあるようだった。
 学校で会議などをしている時にも、実際に報道に接しないにもかかわらず、以前の報道が突然に頭の中に蘇ってきて、体がこわばってしまうこともしばしばあった。同席の教員の中には、私の表情の変化が議論している内容と関連があると思った人も多かったようだ。
 私の精神は、明るい楽しい気分から一瞬にして暗い恐怖心へと目まぐるしく変化した。徐々に楽しい気分の時間が短くなり、恐怖心のしめる割合が長くなっていった。やがて、ほとんど一日中、命が危険にさらされるような強迫観念に覆われた。私は常にいつ殺されるかもしれないという恐怖心と共に生活しなければならなくなった。
 あまりにも恐怖心が募るので、私は逃げる場所を考えた。もっとも安全で安心ができる場所としてあこがれたのは、刑務所だった。刑務所であれば二十四時間、殺人犯から守ってくれるに違いなかった。もし刑務所に入れればどれほど幸せだろうかと本気に思った。できるだけ他人に迷惑をかけない軽微な犯罪を繰り返して起こすか、重大犯の冤罪で、長期間刑務所に入っておくことができれば理想的だと思えた。ただ、実際にはできそうにないことであった。
 私は以前に、母を入院させた精神科の病院に行った時に感じた、何とも言えない安堵感を思い出した。刑務所も二十四時間守ってくれるが、精神科の病院も専門のスタッフが昼夜を分かたず守ってくれることに違いはないと思えた。
 学校が長期休暇に入った時、特別休暇と年次休暇を組み合わせて二週間の休みを取った。私は例の病院に行き、知り合いになっていた医師に会い、事情を話して一週間入院させてもらうように頼んだ。医師は、
 「分かりました。でも今は、閉鎖病棟の方しかベッドが空いていませんが、それでもよければどうぞ入院してください」
と言ってくれた。
 私は体験入院のような気持ちで閉鎖病棟に入った。設備は私の望んでいた通りのものだった。閉鎖病棟全体が出入り口で施錠されており、誰も勝手に入ることはできなかった。部屋の様子はいつも看護士の詰め所から見えるようになっていた。これで外部から殺人者が私に襲いかかってくる心配は全くなかった。常に心の中に張り詰めていた、目に見えない殺人者との緊張関係が解きほぐれた。
 また、気を使わなければならないだろうと思っていた周囲の人との関係は、最初に病院に来て感じた安堵感がそのまま病室の雰囲気にもなっているのが分かって、全く気にせずに自分のありのままの姿でおればよかった。私が新しい入院患者として六人部屋の部屋に入っていっても、他の五人の患者はまったく気にする様子もなかった。
 入院した以上、医師の指示通りに薬も飲まなければならないと思った。三十年ほども前に止めた精神科の薬だった。
 薬を飲むと不思議な気持ちになった。飲む前は、私の頭の中には、退院してから学校でしなければならないことや、それに付きまとうだろうトラブルなど、また今後のボランティアの予定などが、実行する時と同じような緊張感を伴って交錯していた。ところが薬を飲むと、酒を飲んで先のことを一時的に忘れるのとは違って、やらなければならない事柄はしっかりと頭の中に入っているのに、それに伴う緊張感だけが煙のように消えていった。
 何か客観的な他人事のように考えられるようになった。今後のさまざまな予定が、ストレスとなって悩みの種になる性質のものとは違って、気軽にできるもののように思えた。もちろん、殺人者の姿は、跡形も無く消えた。さらに、不眠症気味のはずなのに夜はよく眠った。寝過ぎるのではないかと思うほど目が覚めなかった。
 私は未だかつてない程、平和な心になった。苦悩する精神の働きが取り去られて、ベッドに座っているだけでなんとなく嬉しくなり、鏡を見ると口元に笑みが浮かんでいた。
 しかし、幸せは四日ほどしか続かなかった。五日目ごろなると私は入院生活が苦痛でたまらなくなった。その最大の原因は他の患者との人間関係にあった。ただ、人間関係といっても、他人との利害関係や思惑や性格の違いによって悩むのとはまったく違っていた。もっと根本的なところで、人間関係そのものが成り立たないことが苦悩であり苦痛になったのだ。
 病室の患者を見ると、それぞれが皆自分の世界に閉じこもって他人に対して全く興味を示さなかった。初めは、人間が怖い私にとって理想的に思えたが、数日経つうちに無味乾燥で、つまらない患者同士の関係に耐えられなくなってきた。
 話しかけても対話にならなかった。ほとんどの患者が自分以外の人間に目を向けなかった。ひたすら自分のことだけを考えていた。私は他の患者と一緒にいるにもかかわらず、荒野に一人ぼっちで取り残されたような孤独感を味わった。入院を続ければ侘しさが耐えられないほど積み重なるような、一種の恐怖心さえ感じられるようになった。
 武田さんがよく、
 「結局、人は人の中でしか人の幸せを感じられないものだ」
と言っていたことが身にしみて感じられた。
 確かに殺人者の襲ってくる心配は無くなったが、今度は、外からの働きかけがなくなると同時にこちらから外への働きかけもできなくなった。何かに挑戦して自分自身を向上させるという土壌がなくなった。さらに、不眠症に悩まずに眠られるのはいいが、今度は起きている時でも半分眠っているような気分が続いた。
 私は安心、安堵、幸福などということについて自分なりに一つの結論を出した。幸せというのは、何の波風も立たず、苦悩もなく人生を生きるということではない。たとえ、どんなに苦しいことや試練があったとしても、何があろうが苦難に立ち向かう勇気を奮い起こして、それを悠々と乗り越えていける自分になることだと思った。むしろさまざまな困難があるからこそ、それをエネルギーにして幸せを確立できる自分になれるのだと考えた。
 そう思えば無意味で、反価値な妄想の苦しみも、自分の生き方に役立っているようにも思えた。精神疾患を持っているからこそ自己変革への、苦しいけれども希望を持つことができると考えられた。恐るべきはむしろ、外から内への働きかけも、内から外への働きかけもまったく無くなってしまう事だった。
 入院の成果は、このことを体験することができたことかもしれない。短い期間だったが、私の人生において、ボランティア活動とともに大きな基盤となる経験をすることができた。
 予定の入院期間を半分以上残して私は退院した。薬も処方してもらわなかった。
 わずか五日間ほどの入院だったが、退院して数日間、薬の副作用は少ないといわれたけれど、不眠とすさまじい妄想に襲われ、ひたすらじっと耐え忍ばなければならなかった。

   
 (六)心筋梗塞
 夜遅く、ボランティアの打ち合わせの会場で、ひどい胸痛に襲われた。胸が締め付けられるように痛く苦しくなり、それが少しずつ範囲を広げていった。やがて首から歯茎の方まで進んできて、歯全体がまるで浮き上がったような感じになった。
 今までに何度も人間ドックに入って、健康状態を調べていた。さらに毎年、職場では健康診断が行われていた。ところが、今までに心臓が悪いという結果が出たことは一度もなかった。だから、この発作が起こった時、心臓が悪いということには全く気づかなかった。
 胸の苦痛は部屋でしばらく横になっていても、一向に収まらなかった。それどころか、徐々に激しくなり、しかも今までに経験したことのない異常な痛みになった。私はただごとではないと思った。
 三十分程してもいっこうに収まる気配がなかったので、救急車を呼んでもらった。救急車が走り始めると内臓が揉まれるような横揺れや、加速減速の気分の悪さで少しずつ意識がもうろうとしてくるような気がした。そんな状態でも、胸の苦しさは一段とひどくなっていった。こんなに苦しいのなら死んだほうがましだと思えた。
 病院に着くとすぐに集中治療室に入れられた。超音波で心臓の動きを調べていた医師が、
 「九十%以上の確率で急性心筋梗塞でしょう。すぐに循環器の医師を呼びましょう」
と言った。私は耐えられないような苦痛にさいなまれながらも耳だけは不思議と良く聞こえた。
 心筋梗塞という言葉を聞いて信じられないような気がすると同時に、大変なことになったという気持ちがした。同時に父を思い出した。父もこんな苦しい思いをして死んでいったのかと、いとおしさを感じた。また、親子の宿業のようなものも感じられた。
 このあたりから私は時間の観念がなくなっていた。それと目が開いてはいたのだろうが、目に写る映像の記憶も全く飛んでいた。ただ、妙にはっきりと聞こえる言葉だけで自分の状況を判断していた。
 緊急手術をすることになった。服を抜かされたり、点滴を打たれたりしているうちに、だんだんと意識が薄れていった。それにつれて痛みも少なくなってくるようだった。どうやらあまりの痛さに、自己防衛的に意識を失いかけているようだった。やがてほとんど痛みも感じなくなった。それどころか妙に平安な、静かな気持ちになった。私は、
 「嗚呼、これが死というものだろうか」
と思った。しかしそれは、いかにも自分自身として信じがたかった。まさかこれで生を終えるとは信じられなかった。だが、それからますます心が静まっていって、今置かれている状況との関係が遠いかなたのもののように感じられてきた。逆に、私のこれまで生きてきた人生が急速に近づいてきて振り返られた。
 父や母に守られて、何の不安もなく育った幼いころ。あの懐かしい、またすばらしい城辺町の山、川、海。そして旺盛な好奇心から作ったさまざまな工作とその喜び。悩める青春時代。仕事のこと、家族のこと。生涯を通じて苦闘した精神疾患のこと。これらのことが人間としてのこの世の思い出として、宝のように豊かに慈愛深く思い出された。
 同時に、これほどまでも積み重ねてきた大切な体験や知識が死によって無くなってしまうのかと思うと、本当にもったいなくまた残念なものだと思った。
 手術は、とりあえず命を取り止めるために、ほとんど詰まっていた血管の一部をカテーテルで開くものだった。手術中、私は夢うつつのような状態だった。
 手術は明け方近くに終わり集中治療室に戻った。胸の痛みはよほど楽になった。まだ、ぼんやりとした目に、妻や子供や武田さん、さらに親しい友人が駆けつけてくれている姿が目に入った。皆が、
「回復を祈っていますから、元気を出してくださいよ」
と言って手を握ってくれた。体中、管だらけになりながらも、私はまだ生きることができるのだと思った。来てくれた友人や家族に心から感謝した。この人たちが私の命を救ってくれたような気がした。
 後から妻に聞くと、私は病院に運ばれた段階で緊急の重症患者になっていたそうだ。後日、医師に自分の心臓の映像を見ながら説明をしてもらったが、まさに、九死に一生を得たものだった。発作を起こした場所、手術のできる病院に来るまでの時間、これらがほんの少しでも噛み合いが悪いと、すでにあの世に行っていたに違いなかった。
 その後、私は四回のカテーテル手術を受け、一年間、入院や自宅療養を続けながら回復に努めた。そして、心臓の筋肉の三分の二以上壊死してしまい、機能は健康な人に比べると格段に低かったが、安定した状態になった。体力的に無理のない仕事であれば復職できる段階になった。救急車で運ばれた時のこと考えると夢のような気がした。
 私は重病を患って今更のように、自分というものがどういう人間だったのか分かったような気がした。大変に多くの人から激励をいただいた。その中には私の方は、それほど親しいとは思っていなかった人もたくさんいた。そういう方からも、親身になって心配をしていただき、早く良くなるようにと真心の言葉をいただいた。元気な時には自分では気づかなかったが、多くの人たちに支えられて自分が生きていたというのがよく分かった。
 私は、自分の命ではあるけれども、その命は多くの人々とのつながりの中に存在しているのだと思った。
 利己主義というのは人間が勝手に考えたことであって、真実は、命は周囲の人々と何重にも重なり、お互いに関連し合って力を発揮している、共存すべきものなのだと実感できた。
 だから、命のレベルでは利己主義などないのだ。だれでも皆、助け合い、励まし合い、ともに手をつなぎ合って生きていくしかないのだと思った。武田さんがいつも言っていた、
 「暗闇の中で他人のために灯をともせば、自分の足元も明るくなる」
という言葉が身にしみて感じられた。人はお互いに他人の幸せのために尽くしていく生き方が無限に連なって、誰もが幸せを感じられる生き方ができる世の中になるように思えた。
 復職してから定年までの数年間、私の心臓に負担がかからないようにと職場において数知れない配慮をしていただいた。まず授業時間を減らしてもらった。私が持ち時間を少なくするということは、私に代わって誰かが持ち時間を増やさなければならなかった。
 授業時間が多くなることは、現場の教師にとっては大変に負担が大きくなることだった。当然だれでも、できるだけ持ち時間は少なくしたかった。それを嫌な顔もせずに引き受けてくれた。
 また、階段の上り下りは心臓に負担がかかるだろうと、職員室は二階にあったが、私の教えに行く教室をすべて二階にしてくれた。もし、これらの配慮がなかったとしたら、間違いなく復職できずに退職していたに違いなかった。
 私は周囲の人々に助けられて、体力の限界には近かったが、どうにか、けじめの定年まで勤め上げることができた。私は職場の方々に、言葉では尽くせない感謝の念を心底より感じた。

   
 (七)終りなき闘い
 高校時代に発病して、すでに五十年近くになった。ふと、自分にとって精神疾患がなければ、いったいどのような人生を歩んだのだろうと思うことがある。そうすると、これほど様々な体験は健康だったらできなかっただろうと思う。
 現実世界の体験はもとより、観念世界の気が遠くなるような膨大な体験は得難い貴重なものであるような気がする。確かに、精神疾患による人生の損失は計り知れないものだ。しかし、それによって得ることができることもまた、計り知れないものなのではないかという気がする。
 ある面から考えれば、精神疾患は真理と同じ性質を持っているように思える。素粒子の存在は真理だが、原子爆弾に応用されれば人類さえも滅ぼしかねない脅威となり、がんの治療に応用されれば死亡原因の大きな病気の克服に役立つことができる。
 精神疾患をひとつの真理的性格と考えれば、その特徴を生かして、いくらでも良い方向に働かせることができるのではないか。私は、精神疾患であったがゆえにかけがえのない人生を歩めた、と満足できる道が必ずあると思えるようになった。
 それにしても、精神疾患とは長い付き合いになった。疾患というよりもむしろ、そういう心の傾向性になろうとする自分自身との対決といえる。
 私にとって精神疾患は、癌の治療のように手術をして切り捨てて治癒するような性質のものではない。この疾患はいわば自分の一部のようなものであり、切り離すものではなくして、うまく利用すべきものだと思う。
 本来、誰でも精神疾患になる可能性は、内因性や外因性にかかわらず、心の性質として持っている。精神疾患が完治してまるで別の人格になるというようなことはないだろう。あるがままの自分の姿のなかで、自分らしく生きていける時が治癒している状態ではないかと思う。だから逆に考えれば、何時なりともまた再発する可能性も持っていると言えるだろう。
 現在の私の気持ちは、精神疾患が治ったとか、克服したとかいうものではなくて、常に異常な働きをなそうとする自分の心との闘いを地道に続けることしかないと思っている。生きている限りこの自己との闘いは終りが来ないような気がする。
 三十五年間、高校の教員をしてきた。長期間に渡って同じ若い年代の生徒たちと接してきた。この三十五年間で生徒たちの何が変わったのか。私は明らかに変化したといえるものを感じている。
 それは、精神的弱さだ。三十五年前の高校生と現在の高校生と、大きく違ったのは、何か困難な状況や自分の意に沿わない状態に直面した時、現代の高校生の方がはるかにもろく、精神的に崩れていってしまうということだ。この傾向は学校の偏差値の違いや地域的な違いなどには全く関係なく、全体に通じて言えることだ。またこのことは、私の個人的な感想ではなく、長年教育現場に携わってきた教員の共通した認識でもある。
 三十五年間の日本の教育を単純に総括すれば、子供たちの心を薄いガラスのようにして、ほんのわずかな刺激でひびが入ったり、少したたけばバラバラに割れてしまうようなものにすることだったと言える。これは子供たち自身に責任は全くない。言うまでもなく、子供を取り巻く大人社会がそうさせたのだ。
 このようになった根本的な原因は、《社会のための教育》を行ってきたことにある。本来、次代を担う子供たちに対しては、《教育のための社会》を大人が形作らなければならなかった。
 それなのに、その時々の価値観に基づいて、政治、経済、社会などにとって都合のよい人物像を子供たちに押しつけた結果であるといえる。いつの間にか私たちは無意識のうちに、子供を方法論化してしまってきたのだ。
 何が最も教育しづらくさせた要因になったかといえば、社会の指導的立場に身を置く大人が、厚顔無恥に悪事を為す上に、往生際の悪さを見せることであった。そこには、正義、誠実、人道、道徳、協調などといった教育の根本の柱を跡形もなく打ち砕き、教育不毛の土壌しか残らなかった。
 この三十五年間の日本の社会には、子供たちを人間性豊かに、個人の才能を発揮させるように育てる土壌がなかったといえる。ただ、精神だけを過剰に弱くし、知識を詰め込むだけの働きをなしたに過ぎない。
 今、私はひとつの夢をかなえている。それは教え子たちの家を訪問して、その後の人生を知ることだ。そして、困っているような状態だったら、私にできることがあれば手助けしたいと思っている。
 定年になってから、A学園で三年生の担任を持って初めて卒業させたクラスの生徒から訪問している。私が数日間無断欠勤をして、落ち込んで危機的な状態の時に授業に行ったところ、生徒たちが教師の私を逆に励ましてくれたクラスだった。
 このクラスの生徒とは卒業以来一度も会っていないので、三十数年ぶりの再会だ。生徒は五十歳前後の年齢になっている。古い住所録しかないので四苦八苦しながら自宅を探して会いに行っている。
 すでに二十五人ほどの生徒と会うことができた。会った瞬間にお互いに驚きの声を上げた。それでも見間違うことは一度もなかった。話は弾み、少しの時間では語り尽くせなかった。だから、同じ教え子の所へ何度も足を運ぶこともある。そうして、教え子の三十年にも渡る人生を聞き、知ることは私にとって最高の喜びだった。
 それぞれ皆、さまざまな人生を歩んで来ていた。大きな邸宅を構えて実業家になって成功している者もいた。大企業に勤めて結構な役職になり全国を走り回っている者もいた。
 外国語大学のベトナム語学科に進学した生徒は、実家を訪問してみると、ベトナムで現地の女性と結婚し永住していると教えてくれた。
 公務員をしながら僧侶をしている者もいた。中には、娘が高校生になっていて、私が父親の高校時代の担任であったことを知ると、
 「お父さんはどんな高校生だった?」
と興味津々に聞いてきたこともあった。
 社会で元気に力強く生きている教え子に会うとこちらまで幸福になるような気がした。しかし当然、うまくいっている者ばかりではない。まだ定職につけずに親元で悶々として暮らしている者も何人かいた。残念なことに若くして自殺した者、四十歳代で病死していた者もいた。
 クラスの中に、特に真面目でよく勉強ができたので印象深く残っている教え子がいた。彼は関西圏外の有名大学に進学した。だから、おそらく実家には居ないだろうと思って訪問すると、本人が不自由な足を引きずるようにして玄関に出てきたのには驚いた。
 大学進学後から現在までの話を聞いた。彼は低いこもった声でポツリポツリと話しをしてくれた。
 大学卒業後、大手企業に就職でき、結婚もして順風満帆の人生だった。ところが七年ほど前から糖尿病を発症し、治療をしても年々重症化していった。やがて仕事ができなくなり、離婚もしてしまった。
 母親が亡くなり、実家では父親が一人で生活していたが、認知症が出てきたので、彼は身も心もボロボロになって帰ってきた。今は糖尿病の合併症で足が悪くなり、何かにすがっていても立ち続けることができない状態の中で、父親の介護を続けていた。
 私は話を聞いて、真面目にコツコツと努力して生きてきた人間が、幸福にならないという人生の不条理を憎んだ。帰りがけに、
 「がんばろうよ」
と言って握手をすると涙をこぼした。彼の所へは何度でも訪問しようと思っている。
 担任としての期待が大き過ぎるのだろうか、訪問を続けているうちに私の教え子にはあまり幸せでない者が多いような気がしてきている。
 まだ教え子への訪問は始まったばかりだ。このクラスから古い年代順に担任した生徒の家をできるだけ多く訪問しようと思う。そのうち何時か、精神脆弱時代の教え子たちの家を回れるだろう。その時には私の苦しみ抜いて生きている体験も、教え子を元気にするために役立つだろう。
 私は自分の心臓が、教え子たち全員を訪問できるまで、落ち込んでいる者を元気にさせるまで、動き続けてくれることを祈っている。
                 (了)


【奥付】
精神疾患と共に歩んだ五十年
『心の病と楽しく生きよう』
人生の大半を精神疾患に苦しめられながらも、
   希望を抱き、生き続けた記録
     2014年5月3日 発行
     著者 : 大和田光也