大和田光也全集第6巻
『虹のシーラカンス』
(1)
「アラッ、何かおいしそうなエサが下りてきたわ」
シーラはそのエサをじっと見つめた。時々下りてくるエサと同じように釣り針につけられ、糸が上へと続いている。しかし、このエサはいつものとは違う。いつもの仕掛けは太い針に丈夫な糸が付けられている。食いつけば、どんなにもがいても釣り上げられてしまうほど強力なものだ。今日のは針も小さく糸も細い。エサを食べて針が引っ掛かったとしても、ほんの少し首に力を入れて振れば、すぐにプツリと切れてしまう程度だ。それに、エサの付け方や動きが優しそうだ。これまでのように、とにかく食欲をそそるようなエサの動きではない。おそらく、エサをつけて糸を垂らしている人間の心が優しいからに違いない、とシーラは思った。
ちょうど食事時でお腹が減っていたので、たとえ針が引っ掛かったとしても簡単に糸を切ることができるのだから、と思いそのエサを食べた。海の表面の所を泳いでいる魚のおいしい味が口いっぱいに広がった。飲み込むとやはり針がのどに引っ掛かった。シーラのようなシーラカンスには、痛みを感じる感覚がないので、針が刺さっても平気だった。ゆっくりと体を泳がせて軽く糸を引っ張ってみた。普通はここで、急に糸が勢いよく引き上げられるのだが、どういうわけか、ゆっくりとしか糸が引かれない。それも、シーラが少し強く引くと、逆に糸が戻ってくる。力を抜くとまた優しく糸が引き上げられる。
「だれが、こんな優しい釣り糸を垂らしているのか見たいわ」
シーラは、釣り糸にあまり負担をかけないようにゆっくりと上の方へ泳いで行った。
糸は大変ゆっくりとしか引き上げられなかった。シーラは深海の五百メートルあたりに住んでいるので、太陽の光は届かず、暗い。そこから少しずつ上って行くと、ゆっくりと夜が明けるように明るくなってくる。水圧は徐々に低くなっていくので楽だった。
ずいぶん長い時間をかけながら浮いてゆくと、やがて、目を開けているのがまぶしいほど明るくなった。そして、それほど大きくない船の腹が見えてきた。さらに上がって行くと海面近くになった。
シーラはこの糸を引っ張っているのは誰だろうと目を大きくして海上を見た。すると、船の上からも糸をゆっくりと引き上げながら身を乗り出してシーラの方を見ている少年がゆらゆらと見えた。その姿を見た瞬間、シーラの鼓動は激しく脈打った。
「ワァー、ウチがもっとも好きなタイプの子だわ」
やがて、海面にシーラの口がでた。普通なら、浅瀬の魚たちなどはシーラカンスを見ると大きな体とグロテスクな顔に怖がって必死になって体をくねらせて逃げて行く。ところが、シーラを釣り上げた少年は、怖がるどころか、にっこりと笑った。
「何度も夢に見た、あこがれの男の子だわ」
その顔を見るとシーラは全身から力が抜けて、からだがしびれてしまうような気持ちになった。少年が手を唇のところに持ってきたので、シーラは大きく口を開けた。シーラの歯は鋭く、硬いものでもかみ砕くことができる。浅瀬にいる生き物たちがもっとも怖がるのが鋭い牙のように並んだ歯だった。それなのに、少年は、うれしそうに口の中に手を入れて、手のひらを歯に当てゴシゴシとこする。
「なんと柔らかい手のひらの感触だろう。でも、危ないんだよね。強く歯に当てると、手のひらに刺さってしまうよ」
シーラはどうしたものかと困った。
「お父さん、大きなシーラカンスを釣ったよ」
少年は船尾の方を振り向いて元気な声を出した。
「そうかい、そうかい、冗談でもシーラカンスを釣りたかったね。どれどれ、どんな魚が釣れたんだ?」
やせて背の高い父親がニコニコしながら船尾の方から近寄ってきた。そして、シーラを見た。その瞬間、驚きのあまり顔がひきつった。
「オーッ、これは何ということだ。本物の大きなシーラカンスだ。純一、手を引っ込めろ。かまれたら指がちぎれてしまうぞ。それから静かにそのままにしておけ。その細い釣り糸では、引っ張られればすぐに切れてしまうから」
父親は興奮しながらも、漁師にゆっくりと来るように手で招いた。体格のよい漁師がそばに寄ってきた。彼もシーラを見て、非常に驚いたしぐさをした。
「それじゃ、驚かさないようにゆっくりと舟の上に引き上げよう」
父親と漁師は、シーラのヒレのところに手を掛けてソロリソロリと船の上に引き揚げ始めた。シーラは少し体を動かせばすぐに手を振り払うこともできたし、糸も切れることは分かっている。しかし、純一と呼ばれた少年のうれしそうなクリクリとした目の輝きを見ると、いつまでも一緒にいたいような気持ちになった。深海に帰る気が起きなかった。
「これは非常に重い。素晴らしい標本になる。世界でもこれだけ大きく完全な形で上がってきたシーラカンスは珍しいだろう」
「お父さん、標本にするなんて嫌だよ。このシーラカンスは僕が釣ったんだから僕のものだろう。だって今日はお父さんも仕事が休みなので、遊びに僕と一緒に釣りに来てくれたんだものね」
少年はシーラの頭や口を優しくなでている。
「そうだな。皮肉なものだ。一カ月間、海洋研究所がチャーターした船で昨日まで、あれだけ必死になって釣り上げようとしたのに成果がないまま、明日は日本に帰ることになった。最終日の今日は全職員を休暇にしてあげた。せっかく夏休みで純一も一緒に来たのだから、遊んでやろうと思って、地元の漁師に頼んで釣りに来たんだけれど、こんな細い仕掛けでシーラカンスが釣れるなんて、いまだに信じられないくらいだ。確かにこのシーラカンスは、レジャーで純一が釣ったんだから、純一のものに違いない。だけど不思議だねぇ、生きているのに全く抵抗する様子がないよ」
漁師と父親は、シーラが暴れたらいけないと思って、ゆっくりと力を入れながら、それでも重いので必死になって船の上引き上げた。
「一メータ七十センチ以上はあるね。重さは七十キロ近くあるだろう。素晴らしいシーラカンスだ。それにメスのようだから繁殖についても調べられる」
父親は船上に引き上げたシーラを見てまだ興奮が冷めやらない様子だった。
シーラは、いつでも逃げようと思えば逃げれたけれども、ぴったりとくっついて、シーラの目を眺めたり、盛んに頭に触っている少年のそばにいるといつまでも離れたくなくなり、どこまでも一緒に行こうと決めた。
翌日、海洋生物研究所と書いた立派な船に乗せられて、インド洋を出発した。
(2)
シーラは日本に連れてこられた。少年は峠純一という小学生だった。父親は信一郎で、海洋生物研究所で准教授をしていた。子供は純一一人だった。純一の実の母は、一年ほど前に行方不明になり、いまだに見つかっていなかった。信一郎は再婚した。義理の母は貴美子といった。
信一郎は海岸のそばの広大な土地に二階建ての自宅を建てて、三人で住んでいた。海洋生物研究所までは車で二十分ほどだった。
シーラは日本に連れてこられると、さまざまな検査をされて、結局、はく製にされた。そして純一のもとに返された。それで、一階のリビングルームの壁に丈夫な棚を作って、そこに置いた。
「実に立派なはく製だ。個人で所有するのはもったいないことだ。純一が飽きたら、研究所の展示室に移して、多くの研究者に見てもらうようにしようじゃないか。いいだろう純一」
信一郎はシーラを頼もしそうに見ている。
「ウン、でも、こんなきれいなシーラカンスはいつまで見ても飽きることはないよ」
純一は棚に立派に収まっているシーラの顔をいつまでもなでていた。
「今日は、これから出張で、明日の夜には帰る。夏休みも間もなく終わりだから宿題を全部やっておくんだよ」
信一郎はいつもより大きなバッグを持って出かけた。
「行ってらっしゃいませ」
貴美子は、丁寧に頭を下げて信一郎を見送った。彼女はやせて神経質そうな顔に眼鏡をかけていた。どことなく冷たい人のような雰囲気がある。
「純一君、まだ宿題が残っているのね。あれほど早くやりなさいと言ったのに。どうしてできないの。それに、こんなグロテスクなはく製をダイニングに持ち込んできて、気味が悪くて仕方がないわ。早くどこかに捨ててしまいたいわ」
信一郎が出かけると貴美子の態度は急に変わった。純一に対してずいぶん偉そうな様子になった。
「だって、一カ月間、お父さんと一緒に船に乗っていたんだもの。宿題をする時間が取れなかった」
純一は、しょんぼりしている。
「また、そんな口答えをするのね。だから、あれほど、船の中に宿題を持っていきなさいと言ったでしょう。お母さんの言うことをきかずに言い訳をするなんて、この子は悪い子ね」
「ごめんなさい、おばさん・・・」
「おばさん、ではないでしょう。お母さん、でしょう。何度言ったら分かるの。今までに一度も、お母さん、と私のことを呼んだことがないでしょう。憎い子ねえ」
貴美子は純一の髪の毛を何本もイライラするように引きちぎった。
「イタイ、イタイ、ごめんなさい僕が悪いです」
いつまでも髪の毛を抜くのをやめないので、純一は涙をポロポロこぼしながら謝った。
「そうでしょう。いつも悪いのは純一の方です。しっかり反省しなさい。今日は私も午後から出かけて帰るのは遅くなるから、罰として夕食は抜きよ。このことを信一郎さんには絶対に言ったらだめよ。もし言ったらもっとひどいことになるからね」
貴美子はせわしく出かける準備をして、楽しそうに玄関を出ていった。
ダイニングルームには純一がポツリと座っていた。やがてソファーに横になって眠ってしまった。
窓の外は少しずつ暗くなっていった。
峠家の様子を見ていたシーラは悲しくなった。シーラは通じるかどうかは分からないと思ったが、純一の脳に直接テレパシーで話しかけてみた。
「純一君、元気をお出しよ」
純一は急に目を覚まして周囲をキョロキョロと見回した。
「あれ、いま確か声がしたけど、だれもいないなあ。優しいお母さんのような声だったのに」
純一はソファーに座り直して不思議な気持ちになった。
「純一君、ウチが話しかけているのよ。ウチはシーラカンスよ」
「エッ、シーラカンスだって?」
純一は驚いてシーラのそばに駆け寄った。そして両手で顔や頭を愛犬を喜ばせるようになでた。
「本当に、ほんとうに、今、話しかけてくれているのはシーラカンスなの?」
純一はシーラの透明なブルーの目をのぞき込むようにしている。純一の目も澄んで輝いた。シーラの頬が少しポッと赤くなった。
「ワァー、シーラカンスの顔の色が少し変わったね。シーラカンスは生きているんだよねぇ。よかった。本当にシーラカンスだよね」
「そうよ、純一君。ウチが脳に直接テレパシーで話しかけているの。でも、通じてよかった。心が純粋で、信じることができる人としか通じ合わないのよ。うれしいわ」
「本当なんだ。シーラカンスと話ができるなんて、こんなうれしいことないや。もっと話をしよう」
純一はシーラの頭を抱きかかえるようにして頬ずりをした。シーラは少年のみずみずしい香りに頭がクラクラとした。
「シーラカンスのお母さん、僕、大好き」
今度は、純一はシーラのギザギザ歯のところに手のひらをゴシゴシさせた。
・・・お母さん、だなんて、ウチは恋人になりたいの
シーラは少し落ち込んだ。
「お母さん、と言わなくてもいいわ。シーラと呼んでくれたらいいのよ。そうだ、純一君のこともジュンちゃんと呼んでもいい?」
「ウン、もちろんいいとも、シーラ。それにしても、はく製になってもテレパシーが使えるなんてすごいねえ」
「そうよ。シーラカンスは四億年前から生存しているの。その間にテレパシーだけではなく、いろいろな能力が備わったのよ。人類の歴史はまだ七百万年くらいだから、人間にはとても想像できないような優れた能力がシーラカンスには身についたのよ。そのうちジュンちゃんには教えてあげる」
シーラはうれしそうだった。
「ところで、おばさんからは、いつもあんなにいじめられているの?」
「ウン、そうなんだ。いつも、お母さん、と呼びなさいといわれているけれど、一度も呼んだことがないんだ。だって、嫌いなんだもの。だから、おばさんも僕が大嫌いなんだ。お父さんがいないところでは、髪の毛を引き抜かれたり、食事を抜きにされるんだ」
純一は涙ぐんだ。
「お父さんに言いつけてやればいいのに」
「何度もお父さんに言ったけど、おばさんの、大事に育てています、と言う言葉を信じて、僕を信じてくれないんだ」
純一は涙をこぼして泣き出した。あたたかい涙がポロポロとシーラの頬にかかってくる。
「僕は殺されるかもしれない。助けてよ、シーラ」
しばらく泣いた後で、純一はシーラの目を見つめた。
「いいわよ、絶対にウチはジュンちゃんを守るよ、何も心配はいらない。だけど、だれに殺されようとしているの?」
「今のおばさんが家に来てから、学校の帰り道で何度も、後ろから来た車にひき殺されそうになるんだ。昨日も、もう少しのところでひき殺されるところだったんだ。もし車に気がつかずによけなかったとしたら、死んでいるに違いない。だから今、僕はいつも後ろから来る車に気を付けながら歩いている。何回か、よけて行き過ぎた車の中を見ると、いつも同じ男の人が運転をしている。怖いんだ、シーラ、助けて」
純一は泣くのも忘れて深刻な表情になった。
「そのことはお父さんには言ったの?」
「ウン、言ったけど、おばさんのことと同じように、笑うだけで信じてくれないよ」
「そうか、お父さんも信じてくれないんだね。でもウチは全部信じているよ」
「うれしいなあ、僕の言うことを信じてくれるなんて」
純一の顔は少し晴れた。
「でも、他の人は信じてくれないよね」
「ウチに任せておき。ジュンちゃんの言っていることが嘘ではないことを証明してあげるわ」
シーラは目を大きく見開いた。
「ヨーシ、それじゃ、これからジュンちゃんの言う事が正しいことを調べに行こう」
(3)
「さあ、ジュンちゃん、ウチの背中に乗ってごらん」
リビングの棚の上に置かれていたシーラは、フンワリと浮き上がり部屋の中央まで来た。
「ワァー、シーラは空を飛べるの?」
純一は飛び上がるようにして驚いた。
「だから、言ったでしょう、ウチには四億年前からの生命の積み重ねがあるのよ。海のはるか深海だって、宇宙のかなただって、どこにでも行けるよ。さあ、お乗り」
純一はワクワクしながら背中に乗った。
「それじゃ、落ちないように左右のヒレをしっかり持っていてね。さあ出発」
シーラは純一を乗せると玄関の方へ音もなく移動した。玄関は近づくと勝手に開いた。玄関を出ると勢いよくぐんぐんと夜空に上って行った。
「ワーッ、すごい。本当に空が飛べるんだねえ、シーラ大好きだよ」
シーラの頬がポット赤くなった。
「だけどこんなところ、誰かに見られたら、テレビのニュースになるのじゃないの?」
「心配しなくていいのよ。昼間の明るい時にウチが飛んでいるときは、虹になるのよ。そして夜は流れ星になって飛ぶから、誰も気づかないわ」
やがて日本が小さくなり、地球全体も見えるようになった。
「シーラ、どこまで行くの?」
純一は宇宙のかなたにでも行きたい気持ちになっていた。
「光の速度よりも速く、地球から遠ざかるのよ」
「光より速く進むとどうなるの?」
「地球の過去の姿が見えるのよ。ほら、あの輝いている北極星はここからだと四百光年離れているわ。ということは、今、あの光は北極星の四百年前の姿を見せているのよ。北極星などはまだ近い方で、百二十億光年の距離のある星まであるのよ」
「すごいねえ、過去の地球が見えるなんて」
「一日分の光をさかのぼって地球の姿を見るなんて簡単なことよ。昨日、ジュンちゃんが車にはねられそうになったときの様子を見よう」
純一はシーラの頭を盛んになでた。
「さあそろそろ、一日分あたりをさかのぼったわ。ジュンちゃんが校門を出たあたりから見てみよう」
「あんなに小さくなった地球をどうして見るの?」
「ウチの目ならいくらでも拡大して見えるよ。人間は、ウチらが太陽の光の届かない深海に住んでいるから、目の働きが退化しているだろう、なんて思っているけれども、全く逆よ。光のほとんどない海底でもはるか遠くまで見えるように能力が発達しているの。だからこれまでのジュンちゃんの様子もはっきり見えたわよ。ウチの目のどちらでもいいから抜いてそれで地球を見てごらん」
「エッ、目が取れるの?」
「そうよ」
純一が透明なブルーに輝くシーラの右の目に手を当てるとまるで望遠鏡の筒のようになって出てきた。純一はシーラの目を取り出すと地球の方に向けて見た。すると驚くほどはっきりと地球の様子が見えた。倍率も自由になり、拡大してみたいと思うと勝手にその部分がいくらでも大きく見えてきた。
「それじゃ昨日の、ジュンちゃんが校門から出るところに焦点を当ててごらん」
純一は地球から日本と順番に拡大してゆき、学校の校門にいる自分の姿を見つけることができた。
「すごいや。本当に昨日の僕や友達が映っているよ」
純一は興奮して大きな声を出した。
「それじゃ、校門から順に家に帰るまでを続けて見ていくよ。後ろから車が通り過ぎるところまで調べよう。ウチはもう一方の目でジュンちゃんと同じものを見ているからね」
二人は校門から歩いて帰る純一を追った。すると自宅から五百メートルくらい手前のところで、後ろから車がかなりのスピードでやってきた。
「この車だ!」
純一がかん高い声を上げた。車は見る見る純一に近づいた。純一は後ろを振り返って急いで道路の端の方へよけた。車は純一の服をかすめるようにして通り過ぎた。
「やはりあの車は間違いなくジュンちゃんを狙っていたねえ」
「ああ、よかった。これで僕が言ったことが本当だとわかったんだから」
純一は軽くシーラの頭をバタバタと叩いた。
「まだ目を離してはだめだよ。あの車がどこに帰るのかを見つけるんだよ」
車は純一を追い越してそのまま走り、純一の家の前で止まった。そこへ貴美子が玄関から出てきて、車を運転していた者と何か話した。それからすぐに車はまた走り出した。
「今、おばさんと何か話をしたねえ。どうも二人ともあやしいよ」
さらにその車を追って行くと市街地の中に入り、ビルの駐車場に止まった。車から降りてきたのは頑丈な体つきをした中年の男だった。それから、ビルの中へ入って行った。ビルの看板には、『バラモン不動産』と書いている。
「そうだ。バラモン不動産というのは、お父さんが今の家を買うときによく来ていた会社だよ。そこに今のおばさんも勤めていたんだ。そしてお母さんが一年ほど前にいなくなって、その後にお父さんと再婚したんだよ」
純一は嫌なものに触れるような調子になった。
「バラモン不動産とそこに勤めていたおばさん、車の運転手、これらの人間が一緒になってジュンちゃんを殺そうとしていることは間違いなさそうね。はっきりしたのだから、殺し屋を警察につかまえさせなければいけないね。とりあえず一度、家に帰ろう。さあまた、しっかりつかまってね」
シーラは地球に向けてスピードをぐんぐんと速め、今度は、時間を現在の時へと戻っていった。
自宅に帰ると運よくまだ貴美子は帰っていなかった。シーラは純一を下ろすとダイニングの今まで置かれていた棚の上に収まった。
「あの殺し屋を警察につかまえてもらうためにはどうしたらいいのだろう。お父さんも僕の言うことは信じてくれないだろうし・・・」
純一は心配になった。
「ジュンちゃんの言うことを最も信じてくれる人はだれ?」
「担任の由香先生だ。先生なら僕の言うことを全部信じてくれる。前に、夢の話をしたときも信じてくれたもの」
「それじゃ、その由香先生に明日、学校に行って相談してごらん。ところで、ジュンちゃんは夕食を何も食べていないでしょう。何か台所にあるもの適当に食べないとお腹が減ってしまうよ」
「ウウン、何か食べた跡が見つかるとまた髪の毛をたくさん抜かれるから我慢して眠るよ」
純一はソファーに横になって眠った。
(4)
純一は翌日、まだ夏休みだったが学校へ行った。学校はカルラ学園といって、純一の家からゆるやかな坂道を下って二十分ほど歩いた所にあった。家にいると貴美子と顔を合わさなければいけないので、インド洋から帰ってきてから休みでも毎日、登校していた。
純一は担任の三津田由香に、車にひかれそうになったことを話した。ただ、シーラと時を超えて宇宙を飛んだことだけは言わなかった。
由香は子供たちのことを真剣に考えている小柄な優しい教員だった。純一の話も真剣に聞いてくれた。
「ソォー、それはずいぶん恐い思いをしたのね。なんとかしてあげたいけれど、これは学校の先生では無理ね。私の大学時代の友人で、今、刑事をしている人がいるからその人に頼んであげるから心配しなくていいよ」
由香は純一を車に乗せて、警察署に行った。ちょうど由香の友人の刑事がいた。その刑事は柴木美保といった。純一は美保を見て少し驚いた。父親ほどではなかったがずいぶん背が高く、横幅は父親の倍もあろうかと思うほどがっちりした体つきだ。さらに、顔の面積が非常に広く、そのなかでも特に口が大きい。美保が目の前で太い声で話をすると、純一は頭の半分くらいまでは飲み込まれるのではないかという怖ささえ感じる。ただ、全体的には力持ちで優しい心が伝わってくる。それは、横幅の広い唇にいつも微笑が浮かんでいるところなどに現れていた。
「美保ちゃんは、大学時代から柔道が強くて、頼れる人だから、何でも相談したら助けてくれるからね」
由香は純一が目を丸くして美保を見上げているので安心させようとした。
「由香ちゃんと私はね、大学時代から親友で、今も大の仲良しなのよ。心配せずに何でも言いなさい」
美保は楽しそうに話した。
純一は安心して、美保にこれまでに何度も後ろからはねられそうになったことを言った。美保は、純一の話を真剣に聞いてくれた。
「悪い奴がいるねえ。必ずつかまえてあげるよ。そのためには、今日から毎日、学校の校門を出る十分前には私の方に由香ちゃんから連絡をちょうだい。そうしたら、私が純一君から離れたところから覆面パトカーで守ってあげるから」
美保は自信に満ちていた。
その後、純一が校門を出るときには、いつも、美保の覆面パトカーが後ろから見え隠れしながらついてくるようになった。
四日目になった。純一が学校から自宅へ半分ほど歩いて帰ってきた時だった。後ろに車の気配を感じた。振り向くとスピードを出して純一を目指して走ってくる車が目に入った。純一はとっさに電柱の陰に隠れた。車は電柱をかすめるようにしてさらにスピードを上げて逃げて行った。その後をすぐに覆面パトカーがサイレンを鳴らして追いかけた。純一もその後を必死で走って追いかけた。美保は警察官の中でも非常に運動神経のよい刑事で、車の運転もレーサー並みに上手だった。パトカーはすぐにその車の前に割り込んで、停車させた。
純一は前の二台の車の様子を見ながら必死に追い着こうとした。
美保はパトカーから下りると運転している男を引き降ろそうとしてドアを開けようとした。すると男は助手席側のドアを開けて走って逃げ出した。美保はそれ以上の速さで追いかけた。男は捕まりそうになると、まるで大きなバッタが跳ねるように、ピョンピョンと大きく飛び上がり、民家の屋根やマンションのベランダ、ビルの屋上へと飛び移って逃げていった。知らない人が見ると、大きなカラスでも飛んでいるような様子だった。
「なんだ、あれは!人間じゃないよ」
美保があきれたような声を出して男の行方を見ていた。パトカーのところに戻ると、純一も息を切らせながらやってきた。
「純一君、危なかったねえ。でも大丈夫よ。必ず私が守ってあげるから」
美保の広い顔中から汗の粒がポタポタと落ちた。美保は乗り捨てられた車を調べた。ナンバープレートは偽物だった。
「車体番号を調べれば持ち主はすぐに分かるわ」
美保はエンジンルームの車体番号をメモに書いて、パトカーの無線で持ち主を調べた。
「バラモン不動産という会社の持物だわ。純一君、バラモン不動産というところを知っている?」
「ウン、前に、僕を跳ねようとした車の後をつけていったとき、帰って行ったのがバラモン不動産だったよ」
「フーン、純一君の足も速いんだねえ」
純一は、いくら自分のことを信じてくれているといってもシーラの背中でそれを見たとは言えなかった。
「ヨーシ、それじゃバラモン不動産にいって運転していた男を警察署に引っ張ってきてやろう。純一君は、もう家に帰りなさい」
美保は勢いよくパトカーを走らせた。
(5)
純一が家に帰ると、貴美子はリビングの掃除をしていた。
「遅いじゃないの。どこで遊んでいたの。お仕置きね」
貴美子は純一の髪の毛を二、三本指に引っ掛けると引き抜いた。
「おばさん、ごめんなさい」
純一は泣きそうな顔になった。
「おばさんではないでしょう。お母さんと言いなさい。何度言ったら分かるの。さらに、お仕置きよ」
また二、三本の髪の毛を抜かれた。純一は涙がポロポロ出てきた。涙にゆがむ中で、シーラの顔を見た。シーラの澄んだ青い目からも涙がこぼれていた。貴美子はまた掃除機のヘッドの部分を必要以上にバタバタと音をさせながら掃除を始めた。
やがて信一郎が帰ってきた。貴美子の純一に対する態度がコロリと優しく変わった。顔の表情も鬼からマリアのように変わってくる。純一は貴美子の変身を何度も信一郎に訴えたのだが、信一郎はいっこうに信じられない様子だった。だから純一はこの頃では貴美子の実際の姿を言わなくなっていた。おそらく今日の昼間の出来事も信じてもらえないだろうと思って、信一郎には言わなかった。
両親が寝静まってから純一は二階の自分の部屋からこっそりとリビングに下りた。そして、シーラに抱きついて泣いた。シーラはうれしいやら、悲しいやら、腹が立つやら、それらがごちゃまぜになったような気持ちになった。ただ、純一の体と涙の暖かさには心臓がドキドキとした。
「今日のおばさんの様子を見ると、悪賢い人間だねぇ。どうしてジュンちゃんの髪の毛を抜くのか理由が分かった。顔や体をたたいたりすると傷やあざができて、虐待しているのがお父さんにすぐにばれるじゃない。ところが、髪の毛を引き抜けば、外からは全く分からない。虐待をお父さんにはばれないようにしているんだわ。悪い女よ。ジュンちゃんをいじめるなんて絶対に許せない」
純一は、昼間見た、空中を飛び跳ねるようにして逃げた男のことをシーラに話した。シーラの顔が曇った。
「そう、それはきっと、深海魚のソコボウズが人間の体に入ったものに違いないわ」
「エッ、深海魚が人間の体の中に入るの?」
「そうよ。特に最近はそれが多くなっているの。このごろの深海の生活環境はずいぶん悪くなってきた。もちろん以前から、空き缶や自転車や車のタイヤ、さらにビルをつぶしたがれきなどが深海にまで落ちてきて住みづらくなってはいた。でも、最も住むことができないほど環境を破壊し始めたのは、放射性物質よ。特に原子力発電所から出てくる放射性物質を海の中にずいぶん捨てた時期があった。そのうえ、地中の中に埋めたといっても長年かけてにじみ出てくる。また、空気中に発散された放射性物質も雨などに流されて行き着く先は、地球上で一番深い深海に集まってきてしまうのよ。もう、深海の放射能汚染は、ウチたち深海魚が、住めない状態になってきているわ」
シーラは苦しそうな表情になった。
「それじゃ、このまま、放射能のゴミがたまっていくと深海魚は皆死んでしまうの?」
純一は自分の悲しみよりも大きな驚きを感じた。
「そうよ。だから今、深海魚たちの間で一番大きな話題になっているのは、地上に移住して暮らすことよ。なかには、地上の人類との共存ではなくして、人間同士の不信感を高め、やがて殺し合いをさせて滅亡した後に、本格的に移住をしようとしている者もいるのよ。その一人が、ソコボウズなの。ソコボウズは誰かを殺したいと思っている人間のへそから体の中に入って、超能力を持たせるのよ。間違いなく、ジュンちゃんを殺そうとした運転手の中にはソコボウズが入っているわ」
「ねえ、シーラ、ソコボウズをこらしめてやる方法はないの?」
純一はシーラの青い目を見つめた。シーラの頬がポッと赤くなった。
「ソコボウズの弱点はひとつだけあるわ。これはすべての深海魚にも共通しているわ。普通、ウチたちは皆、海底四百メーターあたりで生活をしている。その水圧は、地上では背中に四百メートル以上の氷の柱を背負っているようなものなのよ。いつも、高圧に慣れているから、地表に出てくると、気圧が少ないことが一番大きな苦しみになるの。深海魚にとって、地上の一気圧は、生きて行ける限界ぎりぎりのところなのよ。これ以上、圧力が低くなると体が破裂してしまうわ。ジュンちゃんがウチを釣り上げてくれたとき、ゆっくりと引っ張ってくれたから、体が低い気圧に少しずつ慣れてきたので苦しみがなかったのよ。ジュンちゃんの優しさがウチの苦しみを取ったのよ」
シーラの顔が真っ赤になった。
「・・・だから、ソコボウズをこらしめるためには、トイレが詰まった時、ごみを吸い出すのに使うラバーカップを男のへそに吸いつけてやれば、低い気圧に耐えられなくなって逃げ出して行くわ」
シーラは純一と話ができるのが何よりもうれしそうだった。
純一は翌日、学校に行くと、すぐに担任の三津田由香のところへ行った。
「純一君は、昨日、危なかったそうね。けがもなくてよかった。詳しいことを美保ちゃんから教えてもらったわ。美保ちゃんはその後、バラモン不動産に行って、その男を捕まえて警察署に連れてきているんだって。ところが、どんなにきつく取り調べても、まったく、純一君を引き殺そうとしたことを認めないらしいの。男について分かったのは乗金浅雄という名前だけだって」
由香は残念そうにかわいい口をへの字に曲げた。
「先生、僕はその男に本当のことを言わせる方法を知っています」
純一は元気な声を出した。
「エッ、どうしたらいいの?先生に教えて」
由香は目を丸くした。
「トイレに置いているラバーカップを持ってきて吸盤を男のへそに吸いつ付けると言っておどせば何でもしゃべるはずです」
純一は真剣だった。
「フッフッフッ・・・本当に?」
これにはさすがに由香もかわいい顔をクシャクシャにして笑い出した。
「本当です。だって・・・」
シーラが教えてくれたんだもの、と言いかけてやめた。
「分かったわ、それじゃすぐに、警察署に行って美保ちゃんに教えてあげましょう」
由香は半信半疑だったが、純一が真剣だったので警察署に行くことにした。
(六)
警察署に着くとすぐに由香は美保に、男に正直にしゃべらせる方法を教えた。
「ラバーカップというのは大きな吸盤の付いたスッポンのことかい?ウァハハハ・・・」
美保はラバーカップよりも大きな口を開けて豪快に笑った。
「ヨーシ、それじゃそれで恐がらせて、正直に言わせてやろう」
美保は笑ったが、純一の言った事を少しなりとも信用していた。
「由香ちゃんと純一君は、取調室の隣のマジックミラーのある部屋で見ていてごらん」
由香と純一が入った部屋からは、隣の取調室がよく見え、音もマイクを通じて聞こえた。逆に取調室からは全く見えなくなっていた。取調室には、眉毛の濃いいかつい顔をした乗金浅雄と言われた男が、ふてくされた態度で座っていた。一人の取調官が何を聞いても、適当に言い逃れをしていた。そこに美保がトイレの用具入れから持ってきたラバーカップをぶらぶらさせながら入ってきた。そして、乗金の目の前でスポッと大きな音をさせて吸盤を机に吸い付けた。その瞬間、乗金は今までの人を食ったような態度からコロリと変って、何かに怖がっているように肩をブルブルと振るわせ始めた。その変わりようには、美保や他の取調官もあっけにとられるほどだった。
「正直におまえのやったこと言え。そうしないと、これでへそをシュポシュポと吸い込むぞ。純一君を車でひき殺そうとしたのはお前だろう」
美保が女性のドスの利いた声を出した。乗金は今度は体中をガタガタと震わせた。
「はい、その通りです。何度も引き殺そうとしたのは俺です」
「よし、それでいいんだ。すべて正直に話せ。そうしなければこれだぞ!」
美保は乗金の目の前の机の上で、ラバーカップをシュポシュポと上下に動かせた。乗金は体中から力が抜けたようになった。
「何のために純一君を殺そうとしたのだ。はっきりと言え」
「純一君を殺そうとしたのは、峠貴美子さんから頼まれたからです」
「エーッ!・・・」
これには刑事たちも隣の部屋の由香も驚きの声を上げた。純一だけはシーラの背中から過去を調べたとき、貴美子と乗金が会っているのを見ていたので、ありうることだと思った。
「どうして、峠貴美子は純一君を殺そうとしているんだい?」
「貴美子さんは、峠の家の財産を狙っているのです。それで純一君を殺せば、相続財産が増えます。貴美子さんは本当は恐い人です。そのうち、主人の信一郎さんも殺そうと考えています」
乗金は太い眉毛を上下にせわしく動かして目をショボショボさせていた。
「ヨーシ、それじゃ、すぐに峠貴美子から事情聴取をしよう」
美保は純一の自宅へ数人の警察官と一緒に車を走らせた。由香も純一を乗せてその後を追った。
自宅に着いて美保がチャイムを鳴らした。貴美子が出て来て、玄関を開けた。そこにいた美保や由香や純一、それに警察官の姿を見て驚いた様子だった。
「警察のものだけれど、ちょっと本署に来てくれる?」
美保が警察手帳を見せると、貴美子の顔から血の気が引いた。
「ちょっと待ってよ。着替えてくるから」
貴美子は大慌てで奥の方へ走った。
それからしばらく待ってもいっこうに出てくる気配がなかった。純一がリビングの奥の部屋に見に行った。
「おばさんが居ない!」
純一の大きな声が響いた。
「逃げよったなぁ。すぐに、とっ捕まえてやる」
美保は急いで警察官に緊急手配をするように指示した。
「純一君をこの家にひとりで置いておくというのは危ない気もするから、もう一度、警察署に帰ってから、お父さんに迎えに来てもらおう。美保ちゃん、また純一君を乗せて署の方まで来てよ」
「オッケーよ」
由香は純一を乗せて警察署まで帰った。警察署から海洋生物研究所に連絡をして、信一郎に連れに来るように言った。信一郎はすぐに緊張した表情で警察署にやって来た。
信一郎は由香や美保からこれまでのことを全部聞いた。
「純一の言うことが本当だとは夢にも思いませんでした。再婚した貴美子に気を使って真実が見えなくなっていました。申し訳ありませんでした。純一、ごめん、許しておくれ」
信一郎は後悔した表情で純一を抱きしめた。純一は涙をポロポロとこぼしていた。
「貴美子は、先祖から受け継いでいる土地や財産の管理をまかせていたバラモン不動産の社員でした。先妻が行方不明になった後、自宅の改築などでわが家に出入りするようになって知り合い、再婚したのです。まさか、財産目当ての結婚とは思ってもみませんでした」
信一郎はガックリと肩を落とした。
「お父さん、元気を出してください。そうしないと純一君も元気になりませんから」
由香が信一郎の肩をたたいて激励した。
信一郎は純一を車に乗せて家に帰る途中でファミリーレストランに寄った。久しぶりに父と子だけで食事をとった。純一は父親が自分の手元に帰ってきたような気がして嬉しくて仕方がなく、笑顔が消えなかった。
(7)
純一は家に帰っても、いつまでも父親の後について歩いた。風呂にも一緒に入り、二階の寝室でも一緒に寝ることにした。純一が眠る前にトイレに行くために一階のリビングに降りると、薄暗い中でシーラの青い目が薄く光っていた。純一はシーラのところへ行き抱き締めた。
「シーラ、ありがとう。僕は幸せだ」
「あぁ、ジュンちゃん、本当によかったね。ウチもジュンちゃんのうれしそうな顔を見ると心が晴れ晴れとしてくるわ。ところで、逃げていったおばさんの行方がどうも気になるよ。何かあるような気がするわ。今夜、お父さんが寝入ったら、時をさかのぼっておばさんの隠れているところを見つけようか?」
「ウン、あんな悪いおばさん、早く捕まえなければ。お父さんと一緒に寝ているから、夜中にテレパシーでこっそりと起こしてよ」
純一はシーラに頬ずりをした。シーラは首まで赤くなった。
信一郎も純一も熟睡して深夜になった。純一はシーラからのテレパシーで目が覚めた。信一郎に気づかれないようにソロリと起き出してリビングに降りた。部屋の真ん中にはすでに堂々とした魚体のシーラがフンワリと浮いていた。
「さあ、寝間着のままでいいから、ウチの背中にお乗り」
「ウン、シーラ、頼むよ」
純一が背中に乗ると静かに玄関のそばに行き、自然に開いたドアから外に出ると、晴れた夜空の上空にぐんぐんと昇って行った。
「ジュンちゃん、しっかりつかまっていてね、時の壁を越えて過去にさかのぼるからね」
シーラと純一は流れ星のようになって時空を越えていった。地球は見る見る小さくなり、周囲の星々が数と輝きを増していった。
「このあたりが、おばさんが家の裏から逃げていった頃だわ。それじゃ、またうちの目を取り出して見てごらん」
純一は今度は、少し慣れてスムーズに目を取り出して地球を見ることができた。そして自宅まで正確に拡大できた。
「アッ、今ちょうどおばさんが家の裏から逃げているところだよ」
「そうね、それじゃ、これから地球に近づいていくから、おばさんのその後の行く先を見よう」
シーラが地球を目指してスピードを上げると、逃げて行く貴美子がビデオの早送りのように動いていった。貴美子は途中からタクシーに乗り、海洋生物研究所からかなり離れたところにある海岸で降りた。それから海岸の岩場を慌ててよろめきながら走った。そして周囲からは分かりにくい切り立った岩場の奥にある洞くつの中へと入っていった。
「さあ、逃げた先が分かったから、地球に帰ろうね」
「ウン、帰ったらすぐにお父さんを起こしておばさんの逃げた先につかまえにくいよ」
「いや、それはやめたほうがいいんじゃない。そんなことしたら、どうしてこんな夜中にそれが分かったのか、聞かれてしまうよ。学校に行ってから由香先生に言った方がいいよ」
「そうだね。シーラって賢いね」
純一はシーラの頭を何度もなでた。
二人は流れ星となって地表へと降りて行った。
(8)
純一は翌日、学校に行くと早速、担任の由香のもとへ行った。そして、昨夜見てきた洞くつの話をした。
「どうして純一君にそんなことがわかるのか、不思議だけれど、前の車にひかれそうになったことも本当だったから、間違いないと思うわ。それじゃ、すぐに、警察署に行って美保ちゃんに教えてあげましょう」
由香は純一を車に乗せて警察署へ行った。美保は相変わらず面積の広い顔をして、大きな口に笑みをたたえている。
「そうだったの。峠貴美子は海岸の洞くつの中に隠れていたのか。どうりで市街地を探しまくっても見つからないはずだ。つまらい女のやりそうなことだわ。場所はだいたい分かるが、おそらく乗金浅雄が逃げ場所の段取りをしたはずだから、あいつを連れて案内させよう」
美保は乗金を連れ出すと一緒にパトカーに乗せた。後に警察官が乗ったもう一台のパトカーも続いた。由香はその後に純一を乗せて車でついていった。途中、海洋生物研究所のそばを通るので、信一郎にも連絡して一緒に来てもらうことにした。
三十分ほどで、洞くつのある海岸に着いた。美保は車を降りると、乗金を先頭に歩かせた。乗金の足取りはしっかりしていて、洞くつの場所を彼が知っていることは間違いなかった。
やがて、離れたところからは分かりづらい洞くつが見えてきた。近づくと入り口には流木でドアのようなものが作られていた。
「危険だったらいけないので、最初に、私が行って様子を見てくるので、由香ちゃんたちはここで待っていてよ」
美保と二人の刑事が乗金を連れて板戸を開けて中へ入っていった。少しして、美保が顔色を変えて、大きい頭をユサユサと左右に揺らせながら由香たちのところへ駆け足でやってきた。
「純一君のお母さん、峠明美さんが洞くつの中に監禁されていたよーッ!」
美保が珍しく音階の高い声を出した。
「エーッ・・・」
言葉が出る前に、信一郎と純一そして由香も洞くつの入り口へ走って行った。三人が中に入ると貴美子は手錠をかけられているところだった。奥の薄暗いところに明美は、状況がよくつかめない様子で、ぼう然と立っていた。
「明美ッ!」
「お母さんッ!」
信一郎と純一が大きな声を出して明美のところへ走って行った。そして三人で抱き合った。
「助けに来てくれたのね・・・」
明美はやっと実感が湧いたのか、大粒の涙をボロボロとこぼした。純一も大声で泣きながら、お母さん、と呼び続けた。信一郎は妻と子を親鳥がかかえるように両腕で力一杯抱き締めて離さなかった。
貴美子や乗金が連れていかれた後で、信一郎たちも純一を真ん中にして親子で手をつないで洞くつを出た。
「よかったですねぇ。なんと、あの乗金という男が、一年前に明美さんを誘拐して、この洞くつの中に監禁していたのですね」
由香も笑顔いっぱいになっている。
「三津田先生、純一の担任をしていただいているそうで、今回はこんなにお世話になり、大変にありがとうございます。ご恩は決して忘れません」
小柄でどこかに少女のような面影がある明美が、頬に涙の跡を残したまま、輝くような晴れ晴れとした表情を見せた。
三人は手をつないだまま、純一が両手をこれ以上高く振れないだろうというくらい動かすのに合わせて腕を振りながら海岸を歩いた。かなり前を歩いていた美保が振り返って大きな声を出した。
「貴美子と乗金は、殺人未遂、誘拐監禁罪よ。かなり長い期間、刑務所にブチ込んでやるわ。皆さんの恨みを何百倍にもして返してやるからね」
終わりのほうは怒鳴り声のようだった。
純一は両手両足を飛び跳ねるように動かしながらも、美保の前を警察官に引っ張られながら歩いている乗金を見た。その時、乗金の上着のすそから、まるで巨大なナメクジのようなソコボウズがスルリと抜け出し、海の中へと滑るように入っていくのを確かに見た。
(9)
「こんな素晴らしい標本は多くの人たちに見ていただかないと、もったいないよ。確かに純一のものだけれど、だからいつでも、純一が家に持って帰りたいときは、そうしたらいいから、それ以外の時は、展示してシーラカンスに興味を持っている人に見てもらおうよ」
事件がめでたく解決してしばらくしてから、信一郎が純一を説得した。純一はリビングの棚の上のシーラを見た。シーラはちょっと悲しそうな表情になった。
「ジュンちゃん、多くの人の役に立てるのだったらいいよ。それにいつでもまた、ジュンちゃんが持って帰ってくれるのだから・・・みんなに見られるなんて、ちょっと恥ずかしいけど」
純一の脳に直接、テレパシーが届いた。
「ウーン・・・いいよ。本当に好きな時に持って帰れるんだね」
純一はしっかりと念を押した。
「そうだよ、研究所は純一の好意で貸してもらっていることになるからね」
翌日、運送業者が家にやってきて、シーラを車に乗せて海洋生物研究所の方へ運んだ。信一郎も純一を車に乗せてその後を追った。
研究所には、広い展示室も備えられていた。そこには非常に多くの海洋生物の標本が展示されている。そのうちの深海魚のコーナーの所へシーラは置かれた。背後からオーラが輝いているような存在感のある展示物になった。
純一はその前に立って動かない。
「ジュンちゃん、ウチきれい?」
シーラは透明なブルーの目をさらに透明にして純一を見た。
「ウン、最高に美しいよ。この展示室の中で、一番きれいだよ」
シーラは体中を火照らせて恥ずかしそうにした。
いつまでたっても純一が動こうとしないので、信一郎が肩に手をかけて出口の方に歩いて行った。
シーラの目から透明なブルーの涙がこぼれ落ちた。
(おわり)
【奥付】
『虹のシーラカンス』
時空を超えた心の結びつき
2016年発表
著者 : 大和田光也