大和田光也全集第3巻
『淡雪』
宇和島藩伊達家十万石の城址、その城山の天守閣が見上げられる古い屋敷の離れに、ぼくは下宿していた。
高校の同じクラスのクソ真面目な学友の姉さんが、この家に嫁いできていた。
その姉さんは、整った顔立ちに健気さをみせ、小柄な体は均整が取れていたが、よく合った和服をいつも着ていた。
「姉さんがおまえのことを真面目で、かわいい学生だと言っていたぞ」
ある日、学友がニコニコしながら伝えてくれた。
ぼくはうれしく思うと同時に、急に姉さんのことを意識し始めた。
南国には珍しく雪が降った。
朝、窓から中庭を見ていると、ちょうど、学友の姉さんが夫の出勤を見送るために玄関から出てきた。ヒョロリとした夫は、車のフロントガラスの雪を邪魔くさそうに取り除いていた。
姉さんはしばらく、それを無表情に見ていた。
ほぼ雪が無くなってから、気の進まない様子で車のそばに行き、義務的にフロントガラスを撫でた。夫は困り切っているという様子で車に乗った。
その間、二人の間に会話は全くなかった。
二人の関係は冷え切っている、愛情のかけらもない、だから、姉さんはぼくが好きなんだ、とその瞬間、確信できた。
ぼくは恥ずかしくて、姉さんと話をすることができなかった。その代わりに、屋敷の中ですれ違う度に、姉さんの愛情を誘うような態度をとって見せた。
そうすると、ぼくを見る目がより親しく、切なくなってくるように思えた。
ぼくも四六時中、姉さんのことが頭から消えなくなり、切羽詰まった気分になってきていた。
そんな気持ちで学校から帰り、玄関の戸を開けたとき、目の前に買い物に出かけようとしている姉さんの顔に出くわした。とっさにぼくは顔をまともに見つめて、ニヤッと笑ってしまった。
精いっぱいの自己表現だった。
姉さんはぼくの、ひきつった笑顔を見て顔をこわばらせ、あわてて履物を脱ぎ捨てて、廊下の奥の方に消えていってしまった。
数日後、ぼくはひどい熱を出して寝込んでしまった。学校を休み、せんべい布団にくるまって悪寒に震えながら、ひたすら熱が引くのを願っていた。
わびしかった。
部屋の前の廊下で足音がした。ドアをノックする音が響いて、返事もしないのにドアが開いた。
寝たまま見上げると、姉さんだった。憂いを帯びた笑顔だった。
ぼくは心の中に、やさしい花がぱっと咲く思いがした。発熱のことも瞬間に忘れた。
「早く元気になってね」
こう言って姉さんは、おわんを枕元に置いて出て行った。
ふたを開けるとぜんざいだった。食べると殊のほか暖かかった。
ぼくは姉さんの顔の表情から物語を作ることをやめた。
ただ人間の温かさを感じた。
【奥付】
『淡雪』
淡い青春の記憶
1992年発表
著者 : 大和田光也