大和田光也全集第30
『渡せなかった手紙』

(5)誰のための文学か

 普通、年をとれば、文学らしき文芸から離れていくようだ。可能性の充満していた青春期の、現実を知らない夢のような文学は、現実の荒波に、長年もまれてきた人間にとっては、つまらないものに思えるのかもしれない。

 しかし、文学の本来の姿は老若男女、貴賤貧富に関係なく、人間のためのものであるはずだ。即席的なものが多く読まれ、自己に変革を起こさせるようなものは敬遠される。

 その原因はいろいろあると思うが、読む者と作品の両面から見れば、生涯、若々しく生活する人が少ないことと、現在の実生活の中で読んでも、しみじみと人間の深さを感じさせるだけの力作が少ないことである。

 所詮、文学の進展は、ことに新しい文芸運動の生まれるときには読者と作者、土壌と肥料の緊密な協力の上に力強く文学の草木が生い茂るものと思う。そのためには、まず、文学は自分自身のためにあるのだと考える。そして、よりよい作品を求めていけば、それが真摯な作者の助力となるのではないか。

 いずれにしても、文学を閑人や知識層と言われる人間や、 一部の階級の占有物としてはならない。

 言うまでもなく、生き続ける文学の勃興の裏には、広大な宗教運動なり、思想運動が必ずあるわけだが、その哲理の人間把握の不完全さによって、文学を享受する人の範囲が狭められているとすれば、我々の日常の活動は、人間のための文学を生み出す土壌を作っているのであり、文学を我々の手に取り戻す運動に通じる。

 自分には文学は必要ない、という意識の変革から始めたい。

     下村方 大和田光也(学生24歳)

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(4)離婚

 私の知る人物のなかで、最も愚かな貴方へ。私は貴方の子であったことを何よりも悲しく思うと同時に、感謝している。私は貴方という人生で最高の反面教師に出会えたのだから。
 今、貴方はどうしていることだろう。母よりもずいぶん年下の彼女とはうまくいっているだろうか。もしかしたら正式に結婚しているのだろうか。三年前の春にあれだけ、
「離婚しろ」
と母に駄々(だだ)をこねたのだから、もう彼女との間に子供を授かっているかもしれない。そしてしばらくすればまた、飽きもせず、より年下の女性と浮気をしては、新しい妻と子供を困らせることだろう。
 貴方が自分に自信を持ち、多くの女性と何をしようが個人の自由であり、私にはすでに何も興味はない。多くの妻が欲しいなら一夫多妻制の国に移り住めばよい。
 その代わり、滞ることなく妹が成人になるまでは養育費を銀行の口座に振り込むように。公正証書を作成しているので、貴方は支払いから逃げることができない。もし、支払いを拒否したら、財産や給料の差し押さえができることをゆめゆめ忘れてはいけない。
 逃げるなら、この世から逃げればよい。
 私は貴方に本当に感謝している。三年前の貴方の行為とその行為に意外と冷静だった母。冷静なだけに母の心のなかに、言葉では表現できないような耐え難い屈辱感が渦巻いているのがひしひしと感じられた。
 その後、貴方の両親や伯母から貴方の昔の言動を聞き、こんなに素晴らしい反面教師はいないと確信できた。歴史上のいわゆる悪人や独裁者が身近に存在しているのに驚いた。
 貴方の行為はある意味、動物としては最も正しい行為に違いない。その理由は、貴方は何よりも自分にとって得になる、本能のままに安らぎを求めて行動したのだから。ただし、人間としては、自分の我がままの為に、大切に育てなければならない妻や子供を捨てていった。
 貴方の離婚劇は、私たち子供があり合わせの物で作ったお化け屋敷にすら、怖がって入ろうとしなかった小心者にしてみれば、勇気のある行動だ。私はそんな貴方の勇気を尊敬し、軽蔑する。
 どうでもよく思える貴方にメッセージを送る気もないけれど、一つだけ伝えておこう。
 母は離婚騒動のなかで、一度も涙を流したことはなかった。一週間ほどした深夜、私はふと目が覚めて母の布団を見た。そこに母が居なかったので不思議に思い、ベランダの方を見ると、カーテンが風に揺れていた。私は心配になり、ベランダに出た。母は手すりにすがって泣いていた。私は後ろから母を抱きしめた。母は、涙の中で、
「ごめんね、お母さんに人を見る目がなくて」
と言った。
 十七年という短い間だったけれど、養ってくれてありがとう。もう二度再び、私たちの視界に入らないように。


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(3)原点

「帰りに待ち合わせをして、食パンを買うついでに、光也の好きな甘いパンも買ってあげる」
 母さんは珍しく、ぼくと買い物に行く約束をしてくれた。ぼくは学童保育が終わってから急いで待ち合わせの場所へ行った。
 街はいつもより、はるかに賑(にぎ)やかだ。道の両側に並んでいる店も、店員や店主が客の応対に忙しそうに動き回っている。所々の店内からクリスマスソングが流れている。今日はイブだ。
 午後五時を過ぎたところだけれど、もうすっかり暗い。街路灯の古ぼけた照明はいつもと同じなのに、明るく感じられる。行き交う人の足取りは楽しそうに軽やかだ。
 ぼくは早くケーキを買って欲しいと思って、遠くの方まで目を向けて母さんの姿を探した。最近ではケーキを食べた記憶がない。
 やがて母さんの、自転車を押して来る姿が見えた。母さんは外出する時はいつも、自転車を使っている。でも、乗るわけではない。母さんは足が不自由だ。少しの距離だったら何にもすがらずに歩くことができる。だけど、買い物や職場などには、とうてい行くことはできない。それでいつも、自転車のハンドルにすがりながら押して歩くのだ。
 ぼくは時々、それだったら、おばあさんが使っている手押し車にすれば良いのにと思うことがある。それを母さんに言うと、聞こえないふりをした。
 母さんはだんだん近づいてきた。母さんの様子は周囲の人々とは全く違っている。軽やかに動く人通りの中で、ゆっくりと不自由な足を引きずるようにしながら自転車を押してくる。たいていの人が母さんの自転車をよけて歩いて行く。
 母さんは、ぼくのそばまで来た。疲れて不機嫌そうな顔をしている。ぼくをチラッと見て、何も言わずにそのまま自転車を押して行く。
 母さんはいつも、仕事から帰ってきた時はこんな様子なのだ。部屋に入ってからしばらくの間、黙ってテレビを見ている。そうしているうちに少しずつ、沈んだような表情が普通の顔に戻るのだ。それから立ち上がって食事の用意をしてくれる。
 だから、母さんの顔付きは気にすることはないのだ。ぼくは嬉しくて周囲の人たちと同じような軽やかな足取りで、母さんの後に付いて行く。すぐに自転車にぶつかりそうになるので、荷台に手をかけて少し押すようにしながら歩く。
 やがてパン屋の前に着く。不思議なことだったけれど、この店だけが道路から一段、低い所に建てられていた。
 クリスマスだったので、当然のように、いつものパンを置く場所は少なくして、棚の広いスペースに様々な種類のケーキが並べられている。ぼくよりも小さい子供二人を連れた家族がケーキを楽しそうに選んでいる。
 母さんは力を入れて自転車のスタンドを立てようとする。ぼくは荷台を持ち上げ、 助けたつもりになる。おそらくほとんど役には立っていないだろう。
 母さんは不自由な足で必死になって段差を降りて、店頭の棚の前に行った。右側のケーキの方を何度かチラチラと見る。すぐに怖い顔になって左のパンの方へ逸(そ)らせる。それから怒ったような仕草で、食パンとクリームパンを取り、レジの台の上に置く。若い女の店員が、気の毒そうに母さんとぼくをチラッと見て、すぐに目を伏せる。
 ひったくるようにしてパンの入った袋を引き取った母さんは、体を左右に大きく揺らしながら段差を上がる。
 母さんは何も言わずに、自転車のハンドルに手をかけ前に押す。バタンとスタンドが上がり、前に動き始める。ぼくは急いで荷台を両手でつかむと、前に進むのを止めるように引っ張る。今度は力が十分に働いて自転車が止まり、さらに少し後ろへ戻る。
 母さんはすごく怖い顔になって、ぼくの方を振り向く。ぼくはオドオドしながらも、店頭のケーキの並んでいる棚の方へ顔を向ける。
「それだったら、パンもやらない」
 周囲の人にも聞こえる声で、ヒステリーを起こしたように言う。そして、グラグラと倒れそうになる自転車を片手で支えて、もう一方の手で荷台を握っているぼくの両手を激しく叩いて払いのける。
 母さんは再び両手でハンドルを握り、自転車を不安定に揺らせながら進んで行く。
 ぼくは自転車との距離が広がりながらも、後について行くしかない。

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(2)T君へ

 都会の夏には、人間の臭さが漂っている。人間の汚き暗い裏面と、甘美ななごやかさと、跳び跳ねたくなるような処女の心が。
 積み重ね、また積み重ね、何百年とかかって、やっと積み重ねたる、そのものが、一瞬にして崩れ去る、その人間の悲しみが。
 嗚呼、T君、君は、今、都会の夏を過ごしているのだろうか。
 田舎にいて、都会の夏を苦しむ君へ。
 君が苦悩を我が苦悩とする事を心より願う。近況を知らせてくれたまえ。ここに、君への慰めとして、詩を贈ろう。

《浮草》

ただ流れに 身を投げ
もだえ あがき 反論もむなし
雑踏の中に さまよい
さえたる 望みすらなく
行き着く所も ままならず
流浪の旅路に 暮れ
愛に うえ かわき
己れ以外の 己に身を任せ
ただゆらゆらと 流れ流れ
ひたすら 愛を求めつつ

《 一輪の花》

野道に
咲きたる 一輪の花
それは野菊
雑草の中より生まれ出た
かわいい 姫君のごとく
清く かぐわしき香りは
風に 漂い
だれをか恋する

川岸に
咲きたる 一輪の花
薄紫に色づいた すみれ
水の清さにも増して 清く
姿を水面に映し
そよ風に なびき
誰をか恋する

 T君。
 君の心を我が心とせん。共に海に行き、山に行く。君が心の行くところ、我が心行かん。我が心の行くところ、君の心行かん。
 虐げられたる人間の、曲道の行き詰まりに、我が心あり。我が行くところ、君、居れど、君は若く、我は古い。我が行くところ、君は居れど、君は海底、我は雲。
 嗚呼、所詮は交わらざる宿命か。悲観するのは、よそう。
 次の詩で終りとします。

《表象詩人》

寄せ来る波に
我心あり

すべてのものは破壊しよう
すべてのものは否定しよう
残ったものは宇宙

どうなってんの一体 これは
なにが なんだって
そりゃあ どうだっていいんだ
問題は α β γ さ
人生のモヤモヤ さ
訳の分からぬものを並べて喜ぶ
それが君なんだろう

俺は 精神の病にかかっているのだ
何をやっても分からない
右に行きゃあ 左と思う
ポカッと口を開けて歩く

だがな 宇宙人の諸君
俺は 俺で何かを求めている
何かだって
ホホホホホホ
チャンチャラおかしいや
それが病気の証拠さ

笑っちゃダメだ
本当なんだ
俺は 何かを求めている
死ぬほど 努力しているんだ
誠意を尽くしている
それなのに お前は笑う
コラッ
くだらない火星人め

 俺は 一体 怒りの神か
 否
 俺はやっぱり 間違いなく 精神の病だ

 どうか、元気で、強い信念で暮らしてください。
 何か頼み事があれば、知らせてください。
    T君へ  7月8日  大和田光也

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(1) 
T君へ

 桜が今や満開です。桜花の下、一杯酌み交わしたならば、さぞかし良よかろうと思う、今日この頃です。君はいかが過ごしているでしょうか。
 我ら、青春の心にとって、自然は様々に映ってきます。ある時は慰められ、ある時は驚き、またある時は、自然と人間の妙なる結び付きに感慨無量になる時、様々です。人それぞれにより、感じ方が異なるのでしょう。
 しかし僕は、社会の平和のために、信念のために、青春をかけた者にとっては、自然を惰性に流され、弱き心に負けた姿で見るべきではないと思う。日々に自分自身の限界に、可能性の拡大に挑戦し行く時にのみ、多感な青年の心が、自然と友情を結ぶことができるだろう。
 考えてもみてほしい、自分の一生を、青春を、国家社会のために投げ出すんだよ。こんな清き心の丈夫(ますらお)に自然が、否、すべてのものが友情を求めないはずがないではないか。
 我が親愛なるT君よ、惰性に流されてはならない。汚き弱き心に負けてはならない。そうであれば、自然に笑われてしまう。
ありとあらゆる物には、必ず心がある。それは、生きものであろうが、物質であろうが同じです。
 僕たちは物事を見る場合には、この『心』を見るべきだと思う。そして、この『心』が感じられる時は、有意義な青春を送っている時でしょう。
 惰弱な心に支配された、幼稚な青年には、桜花爛漫の花も、雄大なる山々も、その心は見えず、表面のみ、外見のみを見て喜ぶであろう。はかなきは.情けなき青年かな。
 有情非情の複雑な融合のもとに、織り成される自然の壮大な劇は、とうてい僕には理解することができない。しかし、大宇宙に比せば、芥子(けし)ほどに、小さい僕であっても、信念と努力によって、生命の偉大さを少しなりとも感じることができる。この時にのみ、自然の心が分かるのです。
 どのように送ったとしても、人生100年以内。ましてや、青年期は短い。どうせ生きるのであれば、不浄のこの身を理想的信念のために捨てようではないか。
 理想的信念のために命を捨てた人など、これまでにほとんどいない。青春の一時期、そのように行動したこともあるかもしれないが、年を取るにつれて現実の中で忘れ去ってしまう。例えて言えば、お湯を沸かすのに、途中で火を止めたならば、沸かないのと同じだ。
 理想的信念に命を捨てるという事は、同じく例えて言えば、石のような不浄の身を金に替え、糞のような不浄の身を米に変えるようなものだ。
 汚く、よごれ、臭いこの身が黄金になり、お米になるには、理想的信念のために命を捨てるしかない。
 T君、偉大なる青春の足跡を残そう。人生、意気に感じて進もうではないか。
 生きることの意味、青春の喜びを噛み締めながら。
      417日      下宿にて  大和田光也