大和田光也全集第31巻
『国歌斉唱・緊急レポート』
【極めて低レベルな教員には、
極めて低レベルな条例がよく似合う
ーー国歌起立斉唱と口元チェックの実態と真実ーー】
【桜咲く入学式】
昨日(4/9)招待されて某校の入学式に出席させてもらった。
天気も晴れて、駅から校門までの、所々に見える桜が咲いていた。校内に植えられている桜もちょうど満開だった。例年より開花が遅れて、運よく入学式の日が満開と重なった。
その花の下を新入生と保護者が元気に明るく歩いて行く。私のようなものから見るとうらやましいような若々しい幸福感が醸し出されていた。
式場の体育館は、後ろに保護者席。中間に在校生。前方に新入生の席が準備されていた。
入学式の最初は、新入生の紹介からだった。新入生は一人ひとりが新しい担任に名前を呼ばれる。担任は、男子には○○君、女子には○○さんと敬称をつけて読み上げた。名前を呼ばれた生徒は舞台の袖から一人ひとり壇上の中央に出て来て大きな声で返事を上する。そこで校長と握手をして記念品の桜のコサージュを受け取る。それを胸ポケットにつけて、階段から床に降りて新入生の席へ進んで行く。その新入生を誘導するのは、役員の腕章つけた在校生だった。
最初から入学式が新入生のために行われる、新入生一人ひとりが主役の式典であることが意識された。
保護者は我が子が壇上の中央に進んで立ち、大きな声で返事をする姿を、家庭での姿と対比させながら、胸をドキドキさせながら見ていたに違いない。
時間的には、新入生の紹介に三十分以上かかった。しかし、一人ひとりの表情や声の響きに新鮮なものを感じ、全く、退屈することはなかった。
その後、新入生の決意表明、在校生の吹奏楽部による歓迎演奏などが続いた。来賓の祝辞はあったが、どの方も数分くらいの、短くてそれでいて新入生の心を動かすようなものだった。
最後に校長の話となった。
話の終わりに校長は、新入生全員にひとつの提案をした。
「こうして、入学できることになったのも、保護者のおかげです。ここで全員で、保護者の方にお礼と決意の言葉を述べようではないですか。みんなで声を合わして『お父さん、お母さん、ありがとう。ご心配をかけないように頑張ります』と言いましょう。それじゃ全員立って、後ろの保護者席の方を向いてください」
在校生全員が立ち上がり後方を向いた時、校長は、「イチ、ニイ、サン」と声をかけた。
小さい声しか出なかった。全体では何を言っているのかよく分からなかった。校長は、
「元気がないねえ、もっと大きな声で、遠慮せずに、はっきり言おう。それじゃ、セーノ、ハイッ!」
こうして掛け声をかけると今度はそろって大きな声が体育館に響いた。新入生たちは声を出してから保護者に向かって頭を下げた。その頭の下がり具合いを見て、私は、この親への感謝の表明は、事前に知らされていたものではなく、この場で初めて校長が提案して行われたものであるに違いないと思った。
私の横に座っていた保護者は涙をぬぐっていた。
式が終わって最初に新入生が退場した。全員で拍手で送り出した。一人ひとりの顔には、未来への希望と、それを実現しようとする引き締まった決意が感じられた。なによりも輝いていた。
私は校門を後にしてまた、遠く近く桜の花の点在する道を駅へと歩いた。私自身の心の中に、新入生の心に灯ったであろう、未来への希望と勇気がよみがえるような感動を覚えた。
保護者も新入生も、新しい人生の素晴らしい出発ができたことを心より喜んでいるのではないかと思われた。
【国歌斉唱の実態】
昨日は同じように大阪府下の高校で一斉に入学式が行われた。
一カ月ほど前の卒業式では、起立して国歌斉唱をしなかった教員二十名ほどだったことがマスコミで報道された。
昨年成立した大阪府教育基本条例によれば、校長の職務命令に従わずに起立しなかったり、歌わなかったりしたときには、厳しく処分をし、三回、繰り返すと免職処分もありうる。
大阪府に続いて大阪市も先月、二月二十八日深夜の市議会で、君が代条例が可決成立した。
こういう行政の、学校における厳しい服務規律が施行される中で、ある高校の卒業式において、校長が教頭に国家斉唱の時に教員が起立することはもちろんだが実際に歌っているかどうか、口元の動きを見て確認をさせていたことが全国ニュースになった。
これは今回の問題の実に象徴的な出来事だった。
この口元チェックの方向性をそのままさらに進めるとどうなるか。
口が動いていたが、ほとんど声が出ていなかっても、それは歌ったことになるのか。
声は出ていたが小さくて歌っているとはいえないとするならば、口から何センチ離れたところで何デシベル以上の声が何分間、出ていなければ歌ったことにならないと決めなければならないだろう。
声は確かに出ていたが、はっきり発音がされていない場合は歌ったことになるのかならないのか。
さらには、確かに普通に歌ってはいたが、憎々しそうに歌っていたので、心がこもっていないから歌ったことにはならないのではないか。
などという論争になってくるだろう。
学校現場で、それも大切な卒業式や入学式で、こんなゴタゴタが行われていることに対して、ほとんどの保護者は、
「本来、主人公であるべき生徒や保護者をそっちのけにしてこんな愚かなことはやめてくれ。なんと低レベルな人間の集まりだ」
と思っている。
学校に直接関係のない第三者の方々も同じような感想を持たれたのではないだろうか。
テレビや新聞などマスコミが報道する、国歌斉唱についての内容は、部分的なもので漠然としており、真実を伝えてはいない。
時々、テレビの取材を受けた人が、その放映されたのを見て、事実との違いにあきれ果てることがあると言っていたが、マスコミの報道は時として真実をはぐらかす場合が多い。
実際に学校で長年教員として働いていた私から、それらの報道を見ると、全く真実が伝えられていないことに、怒りにも似た感情を覚える。
報道している内容は確かに事実に反してはいない。しかし、事実のほんの一部を取り出して伝えているにすぎない。また、それが事実全体の中でどのような部分のことなのか、どのような位置付けにあるものなのかということについても全く報道しない。
だから、今回の国歌斉唱についての報道は、学校関係者以外の方々には、おそらく真実が理解しづらいだろうと思う。
だから私は、ここで真実を明らかにしておきたいと思う。
【橋本徹氏登場までの国歌斉唱の実態】
国歌国旗への拒否運動は、教職員組合が活動方針として打ち出していることだ。
「国歌国旗は侵略戦争の象徴である。平和教育をすべき学校現場に戦争犯罪に加担したものを認めるべきではない」
「教え子を再び戦場に送るな。国歌国旗を教育現場に持ち込むことは戦争賛嘆者になる」
として長年にわたり反対運動をやってきた。
橋本徹前大阪府知事、現大阪市長が登場してくるまでは、組合の方が強かった。学校の管理職である校長、教頭は、教育委員会からの通達を守ろうとしたが、組合に負けていた。
ここで、実態を明らかにするために、組合員の活動家が具体的にどのような反対行動をとったのか、代表的な一部を書き並べておく。
なお、本稿を読まれる関係者のなかには、真偽を疑って気分を害される方がいると思うので、ここに書いている事柄は、私が勤務した高校で現実に目の当たりにした事実であることを明確にしておく。さらに、組合には支持政党の違いにより二種類あるが、実際の現場では一緒になって活動していることも多いので、特に別けずに書いていることをご了解願いたい。
まず、入学式前日のことだ。校長が翌日、校門に立てる大きな国旗を準備して校長室に置いていた。それを校長が帰った後、組合員の教員が校長室から別の場所へ片付けた。この『片付けた』という表現は微妙なものだが、当を得ている。
式の当日、国旗がないことに気がついた校長や教頭は、必死になって探した。学校には、物置や倉庫は多数ある。管理職が走り回っても見つけられない。何人もの教員に尋ねるが、誰に聞いても移動した場所を知ってか知らないのか、教えてもらえなかった。
学校には非組合員の職員も多数居るが、組合が闘争方針を決めて現場で行っていることについては、邪魔をしない。理由は簡単で、後々の報復を恐れることと、面倒なことに巻き込まれることから逃げるためだ。もともと組合のような集団の組織活動が苦手な者が多く、教育思想や理念、また、個人の信念などといったものから、組合の行動に対して毅然として対処できる非組合員を私は未だかつて見たことがない。
だから、管理職から聞かれても誰も、知っていても国旗のあり場所を言わないのだ。
そうこうしているうちに、時間が迫ってきた。それで仕方なく、事務所にあった小さな国旗を取り出して校門につけた。大きさは、祝日などに公営バスが前部に付けて走っている位の物だ。
立派な校門の門柱に比べると玩具の様な国旗は、不釣合い、この上ないものだった。一見すると、誰かが悪戯で取り付けたように見えた。
これでも校長は教育委員会に、校門に国旗を設置した、と報告している。
またある年の式典では、校長が校長室から国旗を持ち出して校門に立てようとすると、組合員が校長室の出入り口にバリケードを張って校長が外に出られないようにし、国旗も床に押さえつけて動かせないようにしたこともあった。仕方なく校長は、ミニチュアのような国旗を校長室に飾った。それを教育委員会には、国旗を設置したと報告している。
校門には、組合員が外部の活動家と連絡を取りあって、国歌国旗反対のチラシを配布する活動家が数人来ていた。それらの者は、学校とはまったく関係のない人間だった。それが登校してくる生徒にチラシを手渡していた。自転車で登校する生徒にまで配布するので危険だから校長が注意すると、
「ここは学校の敷地外だ。どうのこうの言われる筋合いはない」
と聞く耳を持たなかった。
また国歌斉唱については、歌う者も起立する者も誰もいなかった。非組合員も組合員と同じ態度を示した。
普通の学校における様々な集会では、司会をするのは当然教諭がやった。ところが、卒業式や入学式では、もし教諭に司会をやらせると式次第から国歌斉唱の項目を取り払ってなくしてしまうので、必ず両方の式では教頭が司会をしていた。
実際に国歌斉唱を式次第の中に入れるにしても、ピアノで伴奏をするのに音楽教師が拒否するから伴奏ができない。非組合員の音楽教師の場合も断っていた。それで教育委員会から国歌のピアノ伴奏を録音したテープが各学校に配布された。
そのテープのかけ方だが、体育館の放送設備に備わっているカセットデッキを使おうとすると、音響の係りの教師がわざと音が出ないようにしたので、使えなかった。
それで教頭は、小さなカセットレコーダーを用意していた。教頭は、校長室から国旗が持ち出されるようなことがあるので、そのカセットレコーダーも取られたらいけないと肌身離さず身につけて式場まで持ち込むようにしていた。
いよいよ教頭が自分で
「国歌斉唱、全員ご起立願います」
と言ってから、そのマイクをカセットレコーダーのスピーカのところへ持っていって、スイッチを入れようとすると、主だった組合員の教員が静粛な式場であるにもかかわらず、司会席の方に詰め寄って教頭を取り囲むようにして大声でカセットのスイッチを押さないように怒鳴った。
式の進行は、しばらくの間、生徒や保護者が注視しているなか、途切れた。
それでも、どうにか音質が悪く頼りないピアノの音がスピーカーから流れる。
教頭が、起立と言っても教職員は誰も起立もしなければ、国歌を歌う者もいない。仕方なく教頭と校長が起立して二人だけで、カセットのピアノ伴奏に合わして国歌を歌った。
これでも、教育委員会には、式次第のなかに国歌斉唱をいれた、と報告をしている。
【生徒と保護者の反応】
こういう学校において、最大の被害者は、生徒と保護者の皆さんだ。
入学式や卒業式で教頭が、「国歌斉唱。皆さん、ご起立願います」と言っても生徒は、立ちもしなければ歌いもしないのはなぜか。
それは、事前に教室で、生徒に対して起立をしなくてもよし、歌わなくてもよいと担任が教えているからだ。
その理由は、思想、信教の自由は基本的人権であり、何者にも強制されたりするものではない。まして、国家国旗は戦争の象徴なのだから、それを賛嘆する行動をする必要はまったくない、と指導されている。
それでなくても、中学までの教育のなかで、生徒は、国歌を歌うことは悪いことであり、国旗を掲揚することは罪だ、というような罪悪感が身についている。だから、学校で大きな声で国歌や国旗について話題にすることは、先生に睨まれたり、嫌味を言われることだと思っている。
このことは、部外者の方には理解しづらいことかも知れないが、私の娘に尋ねてみても、
「国歌も国旗の悪いものなのでしょう」
と答える。ある種のマインドコントロールに近いものだ。
こういう意識を植え付けられてきた生徒に、さらに、これから世話になる、あるいは今まで世話になった担任から、歌う必要も、立つ必要もないと言われて誰がいったい立って歌う者がいるだろうか。
また、非組合員の担任であっても、自分のクラスの子だけが立ち上がって歌を歌ったりするとかわいそうだということもあり、また、「長い物には巻かれろ」という意識から組合員の担任と同じように指導する。
だから生徒もだれ一人立ち上がりもしなければ歌も歌わない。それを見た保護者も、初めだけパラパラと数人が立ちかけたりするが、すぐにまた座ってしまう。教頭がいくら「ご起立願います」と言ってもだれも立たなくなる。
保護者は、担任や多くの教員の意向に従わなければ、わが子が教員からおかしな目で見られるのではないかと心配するのは当然のことだ。それで、目立たないように周囲の状況に合わしてしまう。
極めつけは、校長教頭が、国歌を歌い終えると、会場正面の横の中二階から『国歌国旗反対・戦争反対』と書いた大きくて長い垂れ幕を勢いよく垂らした。
いったい、晴れやかな希望に胸を膨らませて参加した新入生、保護者は何を感じたことだろう。
今回の国歌起立斉唱の条例制定は、このような背景があったうえでの事だ。
そして特に強調しておきたいことは、組合員の活動家に、人生において数少ない大切な儀式をつぶしてしまう責任を叱責すると、
「これが生徒や保護者に対するほんとうの平和教育だ。悲惨な戦争に教え子を二度と行かせないための真実の闘いだ。生徒や保護者の未来の為にやっていることだ」
と顔色を変えて怒る。大多数の一般社会から、どのように見られているかについて、自ら意識的に耳を閉ざして、自己正当性を守ろうとした。
反社会的な宗教教団のドグマと変わりなかった。
ここの辺りが充分に明確にされて初めて、君が代条例などの真意が分かるだろう。
簡単に言えば、組合員の国旗国歌反対闘争のおかげで、生徒と保護者が主役であるべき厳粛な式が、踏みにじられてきたのを、口で言っても聴かない者を罰則を伴った強制力で、押さえ込もうとしているのだ。そして、それを契機に学校教育全般の管理力を強めようとしている。
極めて低レベルな教員には、極めて低レベルな条例がよく似合う。
【信念無き教員と恫喝する権力】
ここで、断っておくが、私は組合側でもなければ権力側に寄っている人間でもない。一時は組合活動に変革の希望を見いだして徹底してやった時期もあった。執行部にもなりストとまがいのことも実行した。しかし深入りすればするほど、政党の票集めに利用されているのが分かった。それで何の未練もなくに脱会した。
ところで、組合の活動家教員は信念を持って、生徒の将来の幸福のため、国の平和のために反戦教育を行っているように見えた。言葉の端々からも、自らの人生をかけて、反戦教育に取り組んでいるような姿がうかがわれた。
利害関係抜きに、自らを犠牲にしたとしても「再び教え子を戦場に送らない」ために反戦教育の信念を貫くと公言していた。
そしてその反戦教育の最重要の、否定すべき象徴として、国歌国旗があった。
ところがどうだ。昨日までに行われた大阪府立高校、支援学校、186校の入学式で、職務命令に従わず、起立斉唱をしなかったのは、教職員一万数千名のなかで、わずか二名だけであった。府職員基本条例には、三回の同じ職務命令違反を重ねると分限免職の対象になるとある。
首になるのが怖かったのだ。それも三回まで余裕があるのに、初回からヒビッたのだ。
あれほど、大切な参加者に迷惑をかけることも無視して正義ぶっていたのに、また、いくら言葉で注意しても聴かなかった者が、条例が通り、処分が自分に降りかかると分かると手のひらを返したように、なんの反省もなく、起立し歌を歌う。
自ら見苦しいとは思わないのだろうか。私の世代ならば、厳しい自己批判をしなければならない転向者だ。
だがまたおそらく、懲りもせず、世間には通じない身勝手な自己弁護の言い訳を準備していることだろう。
こんな信念無き人間は、教育者として失格だ。
【桜散る大阪の教育】
信念無き低レベルな教員と、恫喝しかできない政治家に翻弄される学校、生徒は不幸としか言いようがない。
政治家はある意味で気楽なものだ。
「サルは木から落ちてもサルだが、政治家は選挙に落ちると普通の人になる」
などと言われるが、これを逆の捉え方をすれば、議員は、愚かな政策でどれほど住民に迷惑をかけたとしても、
「それじゃ、議員を辞めます」
と言って去っていけばそれで済むのだ。議員に対する責任追及の裁判になっても、住民に与えた損害を議員個人の財産から償わせるという判決が出ることは、まず無い。
大阪府が関西空港の対岸開発をすすめた『りんくう・スカイタウン』の最終損失は、1900億円であった。
この話に乗った対岸の泉佐野市は、結果的に財政状況が厳しくなり、財政健全化団体となって、先月には、市の命名権まで売却する話が出ている。
私は、「りんくう・スカイタウン」の開発決定、推進を行った当時の府会議員に、今はOBとなっているが、
「これほど莫大な損害を府民に与えた責任は、非常に重い。当時の府議会の関係政治家は全員、個人の財産をすべて投げ出して、償うべきだ。一般企業ならとっくに責任を取らされている」
と怒りをぶちまけた事があった。そのOB議員は、
「当時は、誰も、バブルがはじけるとは、予想もできなかった。一般企業でも多くが大きな損失を抱え込んだ。もし、こんなことで議員が個人的に責任を取らされたら、議員になる者が居なくなるよ」
という返事だった。
実に無責任なことだ。結果的に1900億円は府民の血税で補うしかないのだ。政治の誤りからくる被害に最後まで黙って耐えなければならないのは結局、本来、主人公であるべき府民になってしまうのだ。
口には言わないが、議員の本音として感じられるのは、
「こういう私を選挙で選んだのは、貴方でしょう。貴方にも責任がありますよ」
という傲慢な心根だ。怒りを通り越して情けなくなる。
このOB議員は現在、「地方自治体の議員年金廃止」にも影響されなかったので、一般よりもはるかに優遇された議員年金を受け取り、悠々自適の生活を送っている。
話を戻すが、政策の失敗からくる金銭的な損失ならまだ取り返せる。もっとも深刻なことは、教育行政の失敗だ。
『国歌起立斉唱、口元チェック』から始まった教育行政は、今後、様々な変革を学校現場に強制してくるだろう。
もし、それらが失敗した時、政治家は例のごとく、
「それじゃ、辞める」
で済ますつもりだ。
しかし、その間に受けた子供たちの被害は、1900億円を税金で賄えば済む、というものではない。
これからの大阪の教育は、希望ある子供たちを育成するどころか、大人不信、政治不信の深いふかい泥沼の中に落とし込んでしまうような結果になるだろう。
その現象が出てくるのは、それほど先のことではない。一年もすれば、教育現場には、解決しようのない矛盾が次々と出てくることだろう。
その歪みは全部、子供や保護者が受けなければならない。その上、子供たちは一生に渡って、歪んだ学校教育で受けた心の傷を抱え込まなければならない。
子供たちが成長して社会人になっても、心に受けた学校教育の弊害に泣いている時、現在の政治家は引退をして、先のOB議員のごとく、悠々自適の暮らしをしていることだろう。
昨日、私が出席したような、生徒達が活きいきと伸び行くために、掛け替えの無い手助けとなるような学校もある一方で、未来ある子供たちの人生を押しつぶすような学校現場があることを、私たちは国民として、責任を持って自覚する必要があるだろう。
(了)
『極めて低レベルな教員には、極めて低レベルな条例がよく似合う』
国歌起立斉唱と口元チェックの実態と真実
【桜咲く入学式】
昨日(4/9)招待されて某校の入学式に出席させてもらった。
天気も晴れて、駅から校門までの、所々に見える桜が咲いていた。校内に植えられている桜もちょうど満開だった。例年より開花が遅れて、運よく入学式の日が満開と重なった。
その花の下を新入生と保護者が元気に明るく歩いて行く。私のようなものから見るとうらやましいような若々しい幸福感が醸し出されていた。
式場の体育館は、後ろに保護者席。中間に在校生。前方に新入生の席が準備されていた。
入学式の最初は、新入生の紹介からだった。新入生は一人ひとりが新しい担任に名前を呼ばれる。担任は、男子には○○君、女子には○○さんと敬称をつけて読み上げた。名前を呼ばれた生徒は舞台の袖から一人ひとり壇上の中央に出て来て大きな声で返事を上する。そこで校長と握手をして記念品の桜のコサージュを受け取る。それを胸ポケットにつけて、階段から床に降りて新入生の席へ進んで行く。その新入生を誘導するのは、役員の腕章つけた在校生だった。
最初から入学式が新入生のために行われる、新入生一人ひとりが主役の式典であることが意識された。
保護者は我が子が壇上の中央に進んで立ち、大きな声で返事をする姿を、家庭での姿と対比させながら、胸をドキドキさせながら見ていたに違いない。
時間的には、新入生の紹介に三十分以上かかった。しかし、一人ひとりの表情や声の響きに新鮮なものを感じ、全く、退屈することはなかった。
その後、新入生の決意表明、在校生の吹奏楽部による歓迎演奏などが続いた。来賓の祝辞はあったが、どの方も数分くらいの、短くてそれでいて新入生の心を動かすようなものだった。
最後に校長の話となった。
話の終わりに校長は、新入生全員にひとつの提案をした。
「こうして、入学できることになったのも、保護者のおかげです。ここで全員で、保護者の方にお礼と決意の言葉を述べようではないですか。みんなで声を合わして『お父さん、お母さん、ありがとう。ご心配をかけないように頑張ります』と言いましょう。それじゃ全員立って、後ろの保護者席の方を向いてください」
在校生全員が立ち上がり後方を向いた時、校長は、「イチ、ニイ、サン」と声をかけた。
小さい声しか出なかった。全体では何を言っているのかよく分からなかった。校長は、
「元気がないねえ、もっと大きな声で、遠慮せずに、はっきり言おう。それじゃ、セーノ、ハイッ!」
こうして掛け声をかけると今度はそろって大きな声が体育館に響いた。新入生たちは声を出してから保護者に向かって頭を下げた。その頭の下がり具合いを見て、私は、この親への感謝の表明は、事前に知らされていたものではなく、この場で初めて校長が提案して行われたものであるに違いないと思った。
私の横に座っていた保護者は涙をぬぐっていた。
式が終わって最初に新入生が退場した。全員で拍手で送り出した。一人ひとりの顔には、未来への希望と、それを実現しようとする引き締まった決意が感じられた。なによりも輝いていた。
私は校門を後にしてまた、遠く近く桜の花の点在する道を駅へと歩いた。私自身の心の中に、新入生の心に灯ったであろう、未来への希望と勇気がよみがえるような感動を覚えた。
保護者も新入生も、新しい人生の素晴らしい出発ができたことを心より喜んでいるのではないかと思われた。
【国歌斉唱の実態】
昨日は同じように大阪府下の高校で一斉に入学式が行われた。
一カ月ほど前の卒業式では、起立して国歌斉唱をしなかった教員二十名ほどだったことがマスコミで報道された。
昨年成立した大阪府教育基本条例によれば、校長の職務命令に従わずに起立しなかったり、歌わなかったりしたときには、厳しく処分をし、三回、繰り返すと免職処分もありうる。
大阪府に続いて大阪市も先月、二月二十八日深夜の市議会で、君が代条例が可決成立した。
こういう行政の、学校における厳しい服務規律が施行される中で、ある高校の卒業式において、校長が教頭に国家斉唱の時に教員が起立することはもちろんだが実際に歌っているかどうか、口元の動きを見て確認をさせていたことが全国ニュースになった。
これは今回の問題の実に象徴的な出来事だった。
この口元チェックの方向性をそのままさらに進めるとどうなるか。
口が動いていたが、ほとんど声が出ていなかっても、それは歌ったことになるのか。
声は出ていたが小さくて歌っているとはいえないとするならば、口から何センチ離れたところで何デシベル以上の声が何分間、出ていなければ歌ったことにならないと決めなければならないだろう。
声は確かに出ていたが、はっきり発音がされていない場合は歌ったことになるのかならないのか。
さらには、確かに普通に歌ってはいたが、憎々しそうに歌っていたので、心がこもっていないから歌ったことにはならないのではないか。
などという論争になってくるだろう。
学校現場で、それも大切な卒業式や入学式で、こんなゴタゴタが行われていることに対して、ほとんどの保護者は、
「本来、主人公であるべき生徒や保護者をそっちのけにしてこんな愚かなことはやめてくれ。なんと低レベルな人間の集まりだ」
と思っている。
学校に直接関係のない第三者の方々も同じような感想を持たれたのではないだろうか。
テレビや新聞などマスコミが報道する、国歌斉唱についての内容は、部分的なもので漠然としており、真実を伝えてはいない。
時々、テレビの取材を受けた人が、その放映されたのを見て、事実との違いにあきれ果てることがあると言っていたが、マスコミの報道は時として真実をはぐらかす場合が多い。
実際に学校で長年教員として働いていた私から、それらの報道を見ると、全く真実が伝えられていないことに、怒りにも似た感情を覚える。
報道している内容は確かに事実に反してはいない。しかし、事実のほんの一部を取り出して伝えているにすぎない。また、それが事実全体の中でどのような部分のことなのか、どのような位置付けにあるものなのかということについても全く報道しない。
だから、今回の国歌斉唱についての報道は、学校関係者以外の方々には、おそらく真実が理解しづらいだろうと思う。
だから私は、ここで真実を明らかにしておきたいと思う。
【橋本徹氏登場までの国歌斉唱の実態】
国歌国旗への拒否運動は、教職員組合が活動方針として打ち出していることだ。
「国歌国旗は侵略戦争の象徴である。平和教育をすべき学校現場に戦争犯罪に加担したものを認めるべきではない」
「教え子を再び戦場に送るな。国歌国旗を教育現場に持ち込むことは戦争賛嘆者になる」
として長年にわたり反対運動をやってきた。
橋本徹前大阪府知事、現大阪市長が登場してくるまでは、組合の方が強かった。学校の管理職である校長、教頭は、教育委員会からの通達を守ろうとしたが、組合に負けていた。
ここで、実態を明らかにするために、組合員の活動家が具体的にどのような反対行動をとったのか、代表的な一部を書き並べておく。
なお、本稿を読まれる関係者のなかには、真偽を疑って気分を害される方がいると思うので、ここに書いている事柄は、私が勤務した高校で現実に目の当たりにした事実であることを明確にしておく。さらに、組合には支持政党の違いにより二種類あるが、実際の現場では一緒になって活動していることも多いので、特に別けずに書いていることをご了解願いたい。
まず、入学式前日のことだ。校長が翌日、校門に立てる大きな国旗を準備して校長室に置いていた。それを校長が帰った後、組合員の教員が校長室から別の場所へ片付けた。この『片付けた』という表現は微妙なものだが、当を得ている。
式の当日、国旗がないことに気がついた校長や教頭は、必死になって探した。学校には、物置や倉庫は多数ある。管理職が走り回っても見つけられない。何人もの教員に尋ねるが、誰に聞いても移動した場所を知ってか知らないのか、教えてもらえなかった。
学校には非組合員の職員も多数居るが、組合が闘争方針を決めて現場で行っていることについては、邪魔をしない。理由は簡単で、後々の報復を恐れることと、面倒なことに巻き込まれることから逃げるためだ。もともと組合のような集団の組織活動が苦手な者が多く、教育思想や理念、また、個人の信念などといったものから、組合の行動に対して毅然として対処できる非組合員を私は未だかつて見たことがない。
だから、管理職から聞かれても誰も、知っていても国旗のあり場所を言わないのだ。
そうこうしているうちに、時間が迫ってきた。それで仕方なく、事務所にあった小さな国旗を取り出して校門につけた。大きさは、祝日などに公営バスが前部に付けて走っている位の物だ。
立派な校門の門柱に比べると玩具の様な国旗は、不釣合い、この上ないものだった。一見すると、誰かが悪戯で取り付けたように見えた。
これでも校長は教育委員会に、校門に国旗を設置した、と報告している。
またある年の式典では、校長が校長室から国旗を持ち出して校門に立てようとすると、組合員が校長室の出入り口にバリケードを張って校長が外に出られないようにし、国旗も床に押さえつけて動かせないようにしたこともあった。仕方なく校長は、ミニチュアのような国旗を校長室に飾った。それを教育委員会には、国旗を設置したと報告している。
校門には、組合員が外部の活動家と連絡を取りあって、国歌国旗反対のチラシを配布する活動家が数人来ていた。それらの者は、学校とはまったく関係のない人間だった。それが登校してくる生徒にチラシを手渡していた。自転車で登校する生徒にまで配布するので危険だから校長が注意すると、
「ここは学校の敷地外だ。どうのこうの言われる筋合いはない」
と聞く耳を持たなかった。
また国歌斉唱については、歌う者も起立する者も誰もいなかった。非組合員も組合員と同じ態度を示した。
普通の学校における様々な集会では、司会をするのは当然教諭がやった。ところが、卒業式や入学式では、もし教諭に司会をやらせると式次第から国歌斉唱の項目を取り払ってなくしてしまうので、必ず両方の式では教頭が司会をしていた。
実際に国歌斉唱を式次第の中に入れるにしても、ピアノで伴奏をするのに音楽教師が拒否するから伴奏ができない。非組合員の音楽教師の場合も断っていた。それで教育委員会から国歌のピアノ伴奏を録音したテープが各学校に配布された。
そのテープのかけ方だが、体育館の放送設備に備わっているカセットデッキを使おうとすると、音響の係りの教師がわざと音が出ないようにしたので、使えなかった。
それで教頭は、小さなカセットレコーダーを用意していた。教頭は、校長室から国旗が持ち出されるようなことがあるので、そのカセットレコーダーも取られたらいけないと肌身離さず身につけて式場まで持ち込むようにしていた。
いよいよ教頭が自分で
「国歌斉唱、全員ご起立願います」
と言ってから、そのマイクをカセットレコーダーのスピーカのところへ持っていって、スイッチを入れようとすると、主だった組合員の教員が静粛な式場であるにもかかわらず、司会席の方に詰め寄って教頭を取り囲むようにして大声でカセットのスイッチを押さないように怒鳴った。
式の進行は、しばらくの間、生徒や保護者が注視しているなか、途切れた。
それでも、どうにか音質が悪く頼りないピアノの音がスピーカーから流れる。
教頭が、起立と言っても教職員は誰も起立もしなければ、国歌を歌う者もいない。仕方なく教頭と校長が起立して二人だけで、カセットのピアノ伴奏に合わして国歌を歌った。
これでも、教育委員会には、式次第のなかに国歌斉唱をいれた、と報告をしている。
【生徒と保護者の反応】
こういう学校において、最大の被害者は、生徒と保護者の皆さんだ。
入学式や卒業式で教頭が、「国歌斉唱。皆さん、ご起立願います」と言っても生徒は、立ちもしなければ歌いもしないのはなぜか。
それは、事前に教室で、生徒に対して起立をしなくてもよし、歌わなくてもよいと担任が教えているからだ。
その理由は、思想、信教の自由は基本的人権であり、何者にも強制されたりするものではない。まして、国家国旗は戦争の象徴なのだから、それを賛嘆する行動をする必要はまったくない、と指導されている。
それでなくても、中学までの教育のなかで、生徒は、国歌を歌うことは悪いことであり、国旗を掲揚することは罪だ、というような罪悪感が身についている。だから、学校で大きな声で国歌や国旗について話題にすることは、先生に睨まれたり、嫌味を言われることだと思っている。
このことは、部外者の方には理解しづらいことかも知れないが、私の娘に尋ねてみても、
「国歌も国旗の悪いものなのでしょう」
と答える。ある種のマインドコントロールに近いものだ。
こういう意識を植え付けられてきた生徒に、さらに、これから世話になる、あるいは今まで世話になった担任から、歌う必要も、立つ必要もないと言われて誰がいったい立って歌う者がいるだろうか。
また、非組合員の担任であっても、自分のクラスの子だけが立ち上がって歌を歌ったりするとかわいそうだということもあり、また、「長い物には巻かれろ」という意識から組合員の担任と同じように指導する。
だから生徒もだれ一人立ち上がりもしなければ歌も歌わない。それを見た保護者も、初めだけパラパラと数人が立ちかけたりするが、すぐにまた座ってしまう。教頭がいくら「ご起立願います」と言ってもだれも立たなくなる。
保護者は、担任や多くの教員の意向に従わなければ、わが子が教員からおかしな目で見られるのではないかと心配するのは当然のことだ。それで、目立たないように周囲の状況に合わしてしまう。
極めつけは、校長教頭が、国歌を歌い終えると、会場正面の横の中二階から『国歌国旗反対・戦争反対』と書いた大きくて長い垂れ幕を勢いよく垂らした。
いったい、晴れやかな希望に胸を膨らませて参加した新入生、保護者は何を感じたことだろう。
今回の国歌起立斉唱の条例制定は、このような背景があったうえでの事だ。
そして特に強調しておきたいことは、組合員の活動家に、人生において数少ない大切な儀式をつぶしてしまう責任を叱責すると、
「これが生徒や保護者に対するほんとうの平和教育だ。悲惨な戦争に教え子を二度と行かせないための真実の闘いだ。生徒や保護者の未来の為にやっていることだ」
と顔色を変えて怒る。大多数の一般社会から、どのように見られているかについて、自ら意識的に耳を閉ざして、自己正当性を守ろうとした。
反社会的な宗教教団のドグマと変わりなかった。
ここの辺りが充分に明確にされて初めて、君が代条例などの真意が分かるだろう。
簡単に言えば、組合員の国旗国歌反対闘争のおかげで、生徒と保護者が主役であるべき厳粛な式が、踏みにじられてきたのを、口で言っても聴かない者を罰則を伴った強制力で、押さえ込もうとしているのだ。そして、それを契機に学校教育全般の管理力を強めようとしている。
極めて低レベルな教員には、極めて低レベルな条例がよく似合う。
【信念無き教員と恫喝する権力】
ここで、断っておくが、私は組合側でもなければ権力側に寄っている人間でもない。一時は組合活動に変革の希望を見いだして徹底してやった時期もあった。執行部にもなりストとまがいのことも実行した。しかし深入りすればするほど、政党の票集めに利用されているのが分かった。それで何の未練もなくに脱会した。
ところで、組合の活動家教員は信念を持って、生徒の将来の幸福のため、国の平和のために反戦教育を行っているように見えた。言葉の端々からも、自らの人生をかけて、反戦教育に取り組んでいるような姿がうかがわれた。
利害関係抜きに、自らを犠牲にしたとしても「再び教え子を戦場に送らない」ために反戦教育の信念を貫くと公言していた。
そしてその反戦教育の最重要の、否定すべき象徴として、国歌国旗があった。
ところがどうだ。昨日までに行われた大阪府立高校、支援学校、186校の入学式で、職務命令に従わず、起立斉唱をしなかったのは、教職員一万数千名のなかで、わずか二名だけであった。府職員基本条例には、三回の同じ職務命令違反を重ねると分限免職の対象になるとある。
首になるのが怖かったのだ。それも三回まで余裕があるのに、初回からヒビッたのだ。
あれほど、大切な参加者に迷惑をかけることも無視して正義ぶっていたのに、また、いくら言葉で注意しても聴かなかった者が、条例が通り、処分が自分に降りかかると分かると手のひらを返したように、なんの反省もなく、起立し歌を歌う。
自ら見苦しいとは思わないのだろうか。私の世代ならば、厳しい自己批判をしなければならない転向者だ。
だがまたおそらく、懲りもせず、世間には通じない身勝手な自己弁護の言い訳を準備していることだろう。
こんな信念無き人間は、教育者として失格だ。
【桜散る大阪の教育】
信念無き低レベルな教員と、恫喝しかできない政治家に翻弄される学校、生徒は不幸としか言いようがない。
政治家はある意味で気楽なものだ。
「サルは木から落ちてもサルだが、政治家は選挙に落ちると普通の人になる」
などと言われるが、これを逆の捉え方をすれば、議員は、愚かな政策でどれほど住民に迷惑をかけたとしても、
「それじゃ、議員を辞めます」
と言って去っていけばそれで済むのだ。議員に対する責任追及の裁判になっても、住民に与えた損害を議員個人の財産から償わせるという判決が出ることは、まず無い。
大阪府が関西空港の対岸開発をすすめた『りんくう・スカイタウン』の最終損失は、1900億円であった。
この話に乗った対岸の泉佐野市は、結果的に財政状況が厳しくなり、財政健全化団体となって、先月には、市の命名権まで売却する話が出ている。
私は、「りんくう・スカイタウン」の開発決定、推進を行った当時の府会議員に、今はOBとなっているが、
「これほど莫大な損害を府民に与えた責任は、非常に重い。当時の府議会の関係政治家は全員、個人の財産をすべて投げ出して、償うべきだ。一般企業ならとっくに責任を取らされている」
と怒りをぶちまけた事があった。そのOB議員は、
「当時は、誰も、バブルがはじけるとは、予想もできなかった。一般企業でも多くが大きな損失を抱え込んだ。もし、こんなことで議員が個人的に責任を取らされたら、議員になる者が居なくなるよ」
という返事だった。
実に無責任なことだ。結果的に1900億円は府民の血税で補うしかないのだ。政治の誤りからくる被害に最後まで黙って耐えなければならないのは結局、本来、主人公であるべき府民になってしまうのだ。
口には言わないが、議員の本音として感じられるのは、
「こういう私を選挙で選んだのは、貴方でしょう。貴方にも責任がありますよ」
という傲慢な心根だ。怒りを通り越して情けなくなる。
このOB議員は現在、「地方自治体の議員年金廃止」にも影響されなかったので、一般よりもはるかに優遇された議員年金を受け取り、悠々自適の生活を送っている。
話を戻すが、政策の失敗からくる金銭的な損失ならまだ取り返せる。もっとも深刻なことは、教育行政の失敗だ。
『国歌起立斉唱、口元チェック』から始まった教育行政は、今後、様々な変革を学校現場に強制してくるだろう。
もし、それらが失敗した時、政治家は例のごとく、
「それじゃ、辞める」
で済ますつもりだ。
しかし、その間に受けた子供たちの被害は、1900億円を税金で賄えば済む、というものではない。
これからの大阪の教育は、希望ある子供たちを育成するどころか、大人不信、政治不信の深いふかい泥沼の中に落とし込んでしまうような結果になるだろう。
その現象が出てくるのは、それほど先のことではない。一年もすれば、教育現場には、解決しようのない矛盾が次々と出てくることだろう。
その歪みは全部、子供や保護者が受けなければならない。その上、子供たちは一生に渡って、歪んだ学校教育で受けた心の傷を抱え込まなければならない。
子供たちが成長して社会人になっても、心に受けた学校教育の弊害に泣いている時、現在の政治家は引退をして、先のOB議員のごとく、悠々自適の暮らしをしていることだろう。
昨日、私が出席したような、生徒達が活きいきと伸び行くために、掛け替えの無い手助けとなるような学校もある一方で、未来ある子供たちの人生を押しつぶすような学校現場があることを、私たちは国民として、責任を持って自覚する必要があるだろう。
(了)
今世人界最後
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