大和田光也全集第1巻
精神疾患と共に歩んだ五十年
『心の病と楽しく生きよう』【上】 

楽天ブックス 電子書籍自然科学全般
2016年10月24日~30日
販売数週刊ランキング第1位

(はじめに)

 病気に楽なものはない。また、さまざまな病気があるが、どの病気が他の病気よりも苦しいということもない。病気に罹っている人にとっては、その病気が他の何よりも苦しく感じる。病気の苦しさは、他人と比較されるものではなく、当人が主観的に感じるものだから、すべての病は、当人にとって最も苦しい。
 それにしても、精神の病は肉体の病と違って、外見的には健康な人とあまり変わらない場合が多いので、そのことによってさらに苦しみが増す。肉体の病は肉体を滅ぼすが、精神の病は、肉体と精神の両方を滅ぼす。
 私が発症したのは、高校一年の夏休みの時だった。将来の希望と夢にはちきれんばかりに膨らんでいた時だった。何の理由もなく、徐々に夜、眠られなくなっていった。自分で、どうして眠ることができないのか不思議だった。この時から精神疾患の苦しみが始まり、現在の定年を過ぎるまで五十年ちかく苦しみ続けている。今ではもう、死ぬまでこの苦しみからは逃れないと思っている。
 精神疾患の治療は、一般的に非常に長期間にわたる場合が多い。五年、十年は当たり前のように治療が続けられる。悪くすると、一生涯、治療を継続しなければならないこともある。それに、一時的に治ったように見えても、再発を繰り返すことも多い。
 何よりも精神疾患の人はいつ完治するのか分からないまま、長期間にわたって四六時中、苦しみに耐えなければならない。本来、人間は生まれて生きていること自体は、さまざまな状況はあるにしても、楽しいはずのものだ。それが、精神疾患の人は生きていることが、苦しみ以外の何物でもないものになる。家庭生活、社会生活も苦しさを増幅させるものでしかなく、現実の一般社会の生活ができなくなる。だから、精神疾患は、その人の生涯をまるで永遠に希望のない地獄のような一生にする。
 私は人生の最も密度の高い時期を精神疾患とともに生きてきた。どの病気も多かれ少なかれ、そうかもしれないが、この苦しみは決して他人に理解されることはないだろうと思う。私は自らの苦しい人生を振り返った時、同じように苦しんでいる人々が、現代においては非常に多くいることを思うと、苦しみながらも生きてきた私の体験を語ることによって、同苦することができるのではないかと思った。同苦してくれる人がいるということは、大いなる救いになる。健康な人からの慰めも嬉しいが、同じ苦しみに呻吟している人からのメッセージは心深く入ってくると思う。
 私は決して精神疾患を超人のごとく乗り越えたものではない。また、現代医学の治療と違った特別な方法で治したのでもない。今も現に自らの精神の異常さに苦しみ悩む日々は続いている。しかし、疾患と共にここまで生きてきたことを誇りとしている。残念ながら、何人かの同病の友人は自らが自らの命を絶った。その中の最も親しかった人の遺書を見せてもらった時、その言葉の中にあふれる全てのものへの愛情の深さに、私は逆に涙の中で、どんなことがあっても生き抜く決意を深めた。
 もちろん私も自殺とは隣り合わせに生きてきた。私にとっては現在まで生きていることは奇跡に近い。健康な人には当たり前のことが、精神疾患の人にとっては奇跡なのだ。その奇跡の体験を語れば、現在、精神疾患のために苦しみに沈んでいる人、それほど悪くもないが不安に思っている人等々、多くの人の激励と人生の応援歌になるのではないかと思っている。
 また、私の母も精神疾患で長年、苦しみ続けて亡くなった。私には兄と姉がいるが、私がもっとも母と気が合ったこともあって、最後まで母の世話をした。そのなかで、骨身にしみて感じたことは、精神疾患の本人自身も、もちろん苦しいが、それと同じように、いやそれ以上に苦しむのは日常的に世話をしている周囲の人達だ、ということだった。そして、その苦しみを増幅させる大きな原因が、精神疾患の人の心の状態が、なかなかつかみ切れないところにあるのではないか、ということだった。それが分かればずいぶん楽になるにちがいなかった。
 それで、精神的に健康な人にも、精神疾患の人の日常と心象風景はどのようなものであるのかを知っていただきたいと思った。
 この未熟な一文が多くの精神疾患の人とそれを支える周囲の人々に、少しでも明るい日差しになって、希望を持って生き抜いていただく支えになれば、と祈る気持ちである。
 なお、人名は仮名、固有名詞は記号にしているのでご了解願いたい。
    二〇一〇年夏   筆者


目次

(はじめに)

第Ⅰ章『少年時代』
 (一)発端      (二)勉学    (三)バセドー氏病 
 (四)性の歪   (五)自我意識  (六)海  
 (七)挫折

第Ⅱ章『大学時代』
    (一)孤独        (二)耽読       (三) 就職
    (四)絶望       (五)彷徨        (六)出会い 
    (七)ボランティア

第Ⅲ章『修行時代』
    (一)進路        (二)書くこと    (三)小説家志望 
    (四)就職        (五)勤め人     (六)試練
    (七)父の死 

第Ⅳ章『教員時代』
    (一)結婚        (二)新人賞     (三)同士の死
    (四)母の病気再発(五)体験入院    (六)心筋梗塞 
   (七)終りなき闘い

第Ⅰ章『少年時代』

 (一)発端
 精神の状態が少しずつ異常な方向へ進み始めたのは、愛媛県宇和島市にある高校の一年生の夏休みに入って直ぐのことだった。
 もちろん自分ではその異常に気付くことはなく、何となく自分で自分の心の状態が腑に落ちない気持ちがしていた。この時までは、当然ながら自分の心の特徴についてはこれまでの経験から十分に分かっていて、どのような場面に接するとどのような心の状態になるかというのは無意識のうちに理解していた。そして、自分が理解している通りの心の動きをしていたので違和感なく自分の心を受け入れていた。
 ところが、症状が出てくるにつれて、自分自身の心の動きが自分で理解ができなくなってきた。これまでの自分であれば当然、今まで通りに感じ、把握し、行動するだろうと思えたことが、全く今までの自分とは違った方向に動いてしまった。
 その最初の症状が不眠だった。この時まで私は眠られないというようなことは一度たりともなかった。むしろ、実家にいる時には親から、寝過ぎて無理やり起こされるほどよく眠る子供だった。私に限らず高校生くらいといえば誰でもよく眠るものだ。
 眠られないというのを最初に自覚したのは、高一の夏休みに入って直ぐのことだった。翌日から友達同士で篠山登山へ行く予定になっていた。篠山というのは、愛媛県の南端に近い高知県との県境にある標高千六十五メートルの山だ。男同士四人で行く予定だったが、そのうちの一人が自宅で寝ると朝、寝過ごしてしまうといけないということで、私の下宿している部屋に泊まることになった。
 この夜だった。どういう訳か私はいっこうに寝付かれなかった。これまでに寝付きが悪いという経験は全くなかったので、寝付かれない自分が不思議であり、信じられなかった。それで、今にも眠ってしまうだろうと思っていたのだが、いつまでも目が覚めていた。隣の友人を見ると気持ち良さそうにスースーと眠っていた。
 しばらく、うらやましくその友人の寝顔を見ていた。心地よく眠っている者に対して、うらやましいという感情が出てきたのも初めてだった。この時、私は急に友人の寝床に移って上から抱き締めたいという衝動が唐突に起こってきた。こんな感情もまた初めてであった。どうしてそんな気持ちになるのか自分でも分からず、戸惑うしかなかった。
 今度は、自分の心の中からわき上がる訳の分からない感情に頭が掻き乱されて結局、一睡もすることができなかった。
 翌朝早く、宇和島市駅前のバスターミナルに私たち四人は集まった。そこから朝一番のバスに乗って篠山の麓まで行った。それから登山道を登った。天気はよく晴れて暑かった。私は一睡もできなかったため体がだるく、途中で倒れはしないかと心配になり、登山が楽しいよりも苦痛になっていた。
 軽い上りの見晴らしの良い登山道を歩いている時だった。まだ頂上にはずいぶん距離があり、所々に村々が点在していた。右手下方には清流が流れているのが見下ろせた。その川が一カ所で幅が広くなりよどんでいるところがあった。私は何気なくそこに目がいった。子供たちが三、四人、浅瀬で裸になって水浴びをしていた。その中に一人の女性が子供たちを見守るように一緒になって水の中に入っていた。
 上半身裸で大きな乳房が丸出しになっていた。他の三人もそれに気がついて、私たちは歩くのをやめて注視した。女性は私たちに見られているのに気がついて、大急ぎで背中を向けて大きな岩の影に隠れた。強い夏日が水面にキラキラと反射して、年齢の程は分からなかったが、白く妙に丸みを帯びた体形が目の奥にいつまでも残った。
 夕暮れ前に、どうにか倒れずに山頂の少し手前の宿泊所にたどり着いた。篠山は本来は修験者の修行の山で、宿泊所も修験者のための施設であったが、空いている時は一般の人も利用できた。この日の利用者は私たち四人と若いOL風の女性三人のグループだけであった。宿泊所は平屋ではあったが、大きくて丈夫な木材で作られた、寺院を思わせるような建物だった。広さは四、五十人が寝泊まりできるのではないかと思える程広かった。管理は元気そうな老人が一人でやっていた。もちろん宿泊客の食事は自炊であり、その他のさまざまなことも全部、自分でやるのがしきたりであった。
 夜、就寝時間になった。電線は宿泊所まで通っていなかった。薄暗い石油ランプをさらに暗くして、常夜灯にしていた。
 私は、前夜は全く眠っていないし、倒れることを心配するくらい疲れ果てていたので、眠ることに対して何の疑いもなく床に横になった。ところが信じられないことが起こった。全く眠れないのだ。目が冴えたまま時間だけが過ぎ去っていった。午前一時を過ぎても眠られる気配はしなかった。私は少し首を持ち上げて他の三人を見た。薄暗い中、皆、火事になっても起きないのではないかと思うほど熟睡していた。
 この時は私の心に誰かに抱き付きたいという衝動は出てこなかったが、代わりに、昼間見た丸い女性の体が頭の中、いっぱいに広がった。そうすると一緒に宿泊している女性のグループのことが急に気になり始めた。そして今度は、奥の部屋の女性の寝ている所に行きたくて仕方がなくなった。
 今までの私であれば当然ながらそんな行動を起こす訳がなかった。ところがどうしたのか、私は理性を比較的簡単に乗り越えて起き上がった。そして音をさせないように女性の部屋の方へ歩いて行った。女性の部屋の入り口に近づいた時、その前で寝ていた人がムックと起き上がった。驚いて見ると管理者であった。私は間違ったふりをしてトイレの方へ行き、用を足してまた寝床に横になった。
 ますます眠られなくなった。こんな行動をとった自分が自分で分からなくなっていた。私は天井にぶら下がっているすすけてきた石油ランプの炎をじっと見つめていた。すると今度はそのランプを床に投げつけて火をつければ、立派な木材でできた宿泊所は巨大な炎を上げて燃えるだろうと思えた。そして私以外の者が皆焼け死ねば・・・と想像すると心が慰められた。やがて、ひょっとすると本当にそれを自分はするかもしれないと恐怖心を伴って感じるようになってきた。
 自分はいったい火をつけるためにいつ起き上がるのだろうか、と今度は少し他人事のように思い続けていると、夏の日の高山の朝は早く、窓からほのかな明るさが差し込んできた。すぐに家の中は明るくなってきて、ランプの炎が白けた雰囲気になった。
 やがて皆、目を覚まして洗面を始めた。もちろん水道設備などはなかったので、庭先に竹を割って樋にしたものから流れ出る山水で顔を洗った。その水は非常に冷たかった。他の三人は、
 「冷たくて気持ちがいい」
と言って口に含んだり、頭からかぶったりした。ところが私は、冷たいのは同じだったが、十分に顔を洗うこともできなかった。口をすすぐために口に含んでもすぐに吐き出した。冷たいのを通り越して痛かったのだ。ちょうど寒い冬の朝に冷え切った水で洗面するのと同じ感覚だった。他の友達はなぜ、こんなに痛いほど冷たい水を頭からかぶったりすることができるのか、と不思議に思った。彼らは私とは別の人類ではないのかとさえ思えた。
 私はほとんど夢遊病者のような状態で、それでも何とか無事に下山することができた。

(二)勉学
 私が通っていた高校は宇和島市内にあった。当時、愛媛県の南部の高校の中では国立一期校(旧称)に合格する者が出てくる有名な進学校だった。私が小学校中学校と通ったのは愛媛県南宇和郡城辺町だった。近くには地元の生徒が進学する県立高校があった。しかし、私の勉強がよくできたので、父が将来、国立一期校に行かせることを目標に、下宿させて宇和島の高校に進学させたのだった。城辺町から宇和島市までバスで三時間以上かかった。
 私は生まれて初めて親元を離れて下宿生活をしながら通学を始めた。自分は頭が良いという異常なほどの自負心を持っていた私は、毎日の授業の復習と予習を徹底してやった。そして高校でも必ずトップの成績を取ってやると決意していた。
 やがて夏休み前の一学期の期末試験が終わり、成績が出た。美術と体育以外は小中と同じようにクラスで一から三位の間に入った。また、学年全体でも十位以内に入った。終業式の前に保護者懇談会が予定されていたが、その前に担任が私を呼んで成績のことをほめてくれた。その時、担任は出来上がった真新しい通知表を開いて化学のところを指さした。100点と書かれていた。本来二ケタの数字を書くスペースのところに窮屈に三ケタを書き入れたというような感じだった。担任は、
 「化学の担当者からは、試験を難しく作り過ぎて平均点が四十点くらいしかなかった。それなのに大和田君は九十点以上を取った。全員にゲタをはかして平均点を上げたが、そうすると大和田君は百点をはるかに超えることになった。だから通知表の百点は百点以上の値打ちがある、とわざわざコメントをしに来てくれたよ」
とほめてくれた。さらに、
 「この調子でいけば希望している国立一期校にも十分に手が届くだろう。保護者懇談の時には親御さんにも十分にほめて置いてあげるよ」
と機嫌よく言ってくれた。
 保護者懇談には、父がわざわざ仕事を放って城辺町から出てきた。懇談会の場で担任がどのようにほめたかは知らないが、後日、母から聞いたところによると、父は涙を浮かべて家に帰ってきたそうである。そして、
 「俺は、どうしてこんないい子を自分の子供に持つことができたのだろう。今まで生きてきて、こんな幸せなことはない」
と言って涙をボロボロと流して大声で泣いたということだった。父は涙など見せる人ではなかった。母は、
 「お父さんが、あれほど涙を流して大声で泣く姿は今までに一度もなかった」
と驚いていた。
 学校は、終業式の後は四日間ほど何もない完全な休みだった。私と友人はこの間に篠山登山に行ったのだった。
 その後は月末まで補習授業やクラブ活動が行われる予定だった。私は入学と同時に柔道部に入部し、まじめに練習に参加していた。そろそろ白帯から茶色の一級検定試験を申し込む準備をしよう、というところまで来ていた。
 登山から帰ってきて今まで通りの生活に戻った。ところが夜、布団に入ってもいっこうに寝付かれない状態が続いた。毎日、空が白みかけるようになって少しの時間だけ眠れるという状態だった。
 補習授業には毎日、出席はしたが、不思議なことにあれほど夜には寝付かれないのに、授業が始まるウトウトとしてしまうのだった。授業中に眠るということはこれまで考えられないことだった。当然、授業の内容は全く頭に残らなかった。授業の後の柔道練習では、体はだるく熱っぽくなってすぐに息切れを起こした。今までたやすく勝っていた相手にも投げられるようになってしまった。それでも練習は続けた。
 毎晩、夜になり寝る時間が来ると私は不安感が増すようになった。眠られないのではないかという不安にさらにもう一つ、不安が重なった。それは逆に、眠りそうになると頭の中に大きく広がる不安だった。眠るということは、外の世界に対して私からの主体的な働きかけがなくなることであり、関係性が断たたれることだ。それは外の世界に対して無防備になることでもあった。眠ってしまうと外の世界から、やりたい放題のことをされてしまうと思えた。眠っているうちに何をされるか分からないという不安と同時に、目を覚ました時、何をされたのか分からないということには恐怖が感じられた。その点、授業中に眠ることについてはずいぶん安堵感があった。
 七月の末まで、補習授業とクラブ練習をやり抜くと身も心もボロボロになったような気がした。
 八月に入ると、生徒に主体的に学習させる期間ということで、補習もクラブ活動もなくなった。私は学習教材など荷物をまとめて城辺町の実家へ帰った。下宿してから初めての帰省だった。長期間ゆっくりできることを思うとうれしくなった。小学校低学年のころの夏休みの何とも言えない、心がワクワクするような気持になった。
 元気よく家の中に入ると、父母が冷たい飲み物などを用意して待っていてくれた。父母のうれしそうな顔は瞬間であった。私の姿を見るなり二人とも非常に驚いた表情になった。すぐに顔を心配のあまりこわばらせた。母は、
 「一体どうしたの、どこが悪いの?」
と今にも泣きそうになった。父とは半月前に保護者懇談会で学校に来た時に会っていたが、その父も頬をピクピクさせながら、
 「どこか痛いところがあるか?」
と顔色を変えていた。
私は自分では気がつかなかったが、この半月ほどの間に他人から見れは驚くほど体が衰弱していた。顔は土気色になり、目は焦点が定まらないようにボンヤリとして、体は痩せこけていた。ただ食欲だけはあった。
 翌日から病院通いが始まった。それと、父は薬店を自営していたので、商品の薬をいろいろと私に飲ませた。さらに父は、母に店番をさせて、私を城辺町から南宇和郡、さらに高知県の宿毛(すくも)市にある病院にまで連れて行った。どうして多くの病院に行ったのかというと、原因が分からなかったからだ。いくら調べても、微熱があるくらいで、特に体に異常が見つからなかった。それで結局、寝不足から体調を崩しているのではないかということで、睡眠薬と精神安定剤を出してもらった。
 睡眠薬を服用すると、気分の悪い長い眠りになった。時には一日中眠っていたりした。また目が覚めている時でも、半分眠っているような、もうろうとした感覚になった。しかし、服用しなければいつまでも眠ることができなくなった。ひょっとしたら眠らなくても生きていけるのではないかというような錯覚を起こさせるほどであった。
 また、夜の決まった時間に眠るようにしようとすると、少しずつ分量を増やさなければならなかった。それは体に良くないだろうということで分量を抑えると、睡眠の時間帯は二十四時間の中でバラバラになっていった。いつ寝て、いつ起きるのかが全く定まらなかった。だから、一日の睡眠時間はどのくらいかと調べてみても、日付を超えて不規則になってきていたので計算のしようがなくなっていた。
 夏休みの間中、こんな生活だったので、勉強は全くできなかった。教科書を開けようという精神状態とはかけ離れたものだった。ほとんど家から出ない、暗いうっとうしい毎日だった。これまでの夏休みの中で最もつまらない日々を過ごした。それでも、幼いころから育った実家ということで精神的な不安はずいぶん抑えられて、一カ月ほど経って二学期が始まる頃には、かなり落ち着いてきていた。体重も少し増えていた。

(三)バセドー氏病
 二学期が始まる前日、母は私と一緒に宇和島の下宿に来た。そして医師の「体育をさせないように」という診断書を持って学校へ行った。担任と体育の教師に会って、体育の実技は見学で単位が取れるようにお願いした。また、柔道部の顧問にも会って退部するようにもした。
 母のシャキシャキした態度を見て私は不思議に思った。母は精神疾患を抱えており、日ごろは頼りなく、ひとりでは何もできない人だった。なんでも父に頼っていた。そのくせ、どういう訳か、父を口汚くののしることはよくあった。私は母がしっかりしている姿を見て、私に対する心配と思いやりで頭がいっぱいになって、私のためには何でもやり遂げるという気迫のようなものが、日ごろ見せない母の姿にしていると思った。私はそれが大変うれしかった。
 この時以来、卒業するまで、私は体育実技の授業はすべて見学することになった。同時に日常生活の中でも極力、体を動かすことから遠ざかるようになった。
母はその日に帰った。私は下宿の部屋に一人になるとまた不安が頭の中に大きく広がった。この夜は、医師から、
 「眠られない時だけ飲んで極力、量を減らすように」
と言われていた睡眠剤を多めに飲んで寝た。それでもやはり寝付かれなかった。気分の悪い、意識がもうろうとした状態の中で、次から次へと頭の中に悪夢のような妄想がわき上がっては消えていった。
 翌朝、目が覚めたという意識はなかった。もうろうとした状態のまま体を起き上がらせただけだった。学校には行ったが、船酔いで雲の上を歩いているような感覚で時間を過ごした。
 私は高校生になってからは活発に友達とも話しをし、親しく付き合っていたので、久しぶりの再会で多くの級友が話しかけてきた。ところが、それらの会話が、遠く離れた別の次元から届いてきているような感覚になった。私の頭の中にも心にも、全く入って来なかった。自分がしゃべっているにもかかわらず、まるでロボットが受け答えしているように感じた。だから、会話はちぐはぐになり全く盛り上がらず、すぐに途切れた。級友は困ったような顔をして離れていった。
 こんな状態だったが、九月の一カ月間は一学期のように遅刻も欠席もなく通学した。ところが十月に入り秋の気配が感じられ始めた頃、自分の体の異変に気がついた。校舎は木造の二階建てであったが、友達の歩くスピードに合わして一緒に階段を上ると途中で動悸と息切れが激しくなり、ふらふらとして立っていられなくなった。階段の手すりにすがってしばらく休んでからまた、ゆっくりと上がらなければ二階に行けなくなった。
 さらに、昼休みに売店でビンに入った牛乳を飲もうとすると手がワナワナと震えて、牛乳ビンの口が前歯にガチガチと当たり半分以上の牛乳がこぼれてしまった。口元からこぼれた牛乳でシャツがベトベトに汚れた。また、食事は人一倍の分量は食べるのだが、体はやせ細っていった。
 この体の異常に気づいてくれたのは下宿の家主だった。実家に電話を入れて、
「息子さんの体調が悪そうだから来てみてください」
と言って親に状態を伝えた。すぐに父がやってきた。父は私を見るなり、
 「このまま俺と一緒に城辺に帰って、しばらく療養をしよう」
と言って、すぐに帰る準備をした。
 実家に帰ると母は悲しそうに眉間に皺を寄せて私をしばらく見ていた。そして、
「指は震えるし、目玉は出てきているし、首が少しはれている。間違いなく私と同じ病気だわ。こんな若い男の子が罹るなんて・・・」
と涙をこぼした。
 母は十年以上も原因不明の体調不良で悩まされていた。それが一年ほど前にやっとバセドー氏病であるのが分かった。当時、甲状腺亢進症であるバセドー氏病は専門の病院がなくて、診断、治療もできずに風土病のように扱われていた。それが、ひょっとすると母の病気は甲状腺かもしれないと言ってくれた医者がいて、大分県の別府にある専門病院を紹介してくれた。父は宇和島から船に乗って母をその病院に連れて行った。結果はやはりバセドー氏病で、かなり悪くなっていた。それで、首の部分にある甲状腺の一部を切り取る手術を受けた。母は、
 「長い間苦しんだのがウソのようだ。どうしてもっと早く病名がわからなかったのだろう」
と何度も言っていた。
 父は店の仕事の段取りをつけて私を母と同じ病院に連れて行った。夜、宇和島港から船に乗った。いつも乗船客は満員で、毛布をかぶって雑魚寝をするのだが、窮屈な状態だった。不眠症である私を気遣って父は、船員にチップを渡して船首にある余裕のある部屋に変えてくれた。エンジンやスクリューの振動も少なく静かで快適な部屋であったが、私は全く眠ることはできなかった。
 船は夜明け前に別府港に着いた。そこからタクシーで病院まで行くと、早朝にもかかわらず待合室は開いていて、多くの患者がまるで石のように黙ったまま動かずに診察が始まるのを待っていた。甲状腺の専門の病院として西日本で有名なところだった。
 診察時間になるまでに三時間以上待った。さらに患者が多いので診察が始まっても二、三時間は待たなければならなかった。結局、検査の結果も出て、医師の診察を受けることができたのは昼前だった。結果は甲状腺亢進症だった。
 甲状腺というのは喉の近くにあって新陳代謝を活発にするホルモンを出す器官だ。ホルモンが出過ぎることによって、風邪のような症状が続き、指の震え、眼球突出、動悸などの症状が出てくる。精神的に不安定になる患者も多い。原因はよく分かっていないが、精神的ストレスや体質的な遺伝も言われている。年代的には中年以降の女性に多い病気である。私のような若い男性が罹ることは珍しかった。
 バセドー氏病と精神疾患の関係は明らかではないが、バセドー氏病がまだ知られていないころには、精神疾患として治療されたこともあったようだ。また、精神的な過敏性がバセドー氏病を発症させるともいわれている。
 ただ、母の場合はバセドー氏病は甲状腺の摘出手術によって完治しているのに、精神疾患は依然として残っていた。
 母はたいてい布団の中にいた。どこか遠くを見つめるような目でいつも何か考えているようだった。時々、ぶつぶつと小声でしゃべったり、急に激しく怒り出したりした。ある朝などは、食事の準備はすべて父がしていたが、母が寝床から急に起き出してきて大声でののしりながら、なべに作っていたみそ汁をひっくり返した。それからまた寝床にもぐり込んだりしたこともあった。
 母の寝床のそばにはいつもブリキの缶が置いてあった。もちろん家にトイレはあったが、母の夜中の小用はいつもそのブリキ缶にしていた。朝になると母はブリキ缶の中の自分の小便を何かを探すように長い間眺めていた。それからおもむろに家の裏の畑に持って行き、野菜の根本にかけた。ブリキの内側は小便の腐食作用でボロボロに錆ていた。部屋にはいつも小便の臭いが漂っていた。こんな母だったが、私の健康のことになると人が変わったようにしっかりした。
 私はバセドー氏病と診断されて以来、高校を卒業するまで毎月一回、別府の病院に行き、一月分の薬をもらった。その時にはいつも父が連れていってくれた。私があまりにもしょんぼりしている姿を見て父は、診察が昼ごろ終わってから帰りの船に乗るまでの空いた時間で、別府温泉の地獄めぐりや高崎山のサルを見物に連れていってくれた。
 春夏秋冬、雨の日も雪の日も毎月、潮流の激しい豊後水道を渡って九州まで通院した。しかし、いっこうに症状が良くなる気配はなかった。時として私の頭は張り裂けそうな思いでいっぱいになることもあった。   

 (四)性の歪
 私が下宿をしていた家は、宇和島市の郊外に建っていた大きな屋敷だった。学校が紹介してくれたところだ。広い玄関を入ると左手の方が母屋になっていて、右手が離れになっていた。広い中庭をコの字に囲むように建てられ、庭の背後はそのまま小高い山へと続いていた。家主として住んでいたのは五十歳前くらいの女性で、一人暮しだった。母屋の広い客間で週に一回、生け花を教えていた。若い女性の生徒ばかりで七、八人が習っていた。
 下宿生は私以外にもう一人、別の高校の生徒がいた。その生徒は母屋の玄関脇の部屋にいた。私は二十畳ほどもある広い離れを一人で使っていた。庭に面した側は全面が透明のガラス戸になっていた。それには長いカーテンがつけられていたが、開けておくと庭に植えられた植物や飛んで来る小鳥の様子がよく見えた。
 ガラス戸のもっとも玄関に近い一枚が出入り口になっていた。踏み台として、人間の手では動かせないような大きくて平らな石が置いてあった。そばには水道の蛇口がついていて、水受けにこれまた立派な石の手水鉢が置かれていた。部屋の中から出入り口のガラス戸を開けて腰をかがめればはそのままで手を洗うことができた。私は勉強用の挫卓を奥の方に置いて出入り口には背を向けて座るようにしていた。
 バセドー氏病という病名が分かってから、毎月、学校を休んで通院しながらも、どうにか通学は続けることができた。しかし、学校でも下宿でも全く勉強が手につかなかった。
 夜、下宿では眠られず、昼間、授業中にウトウトするという生活が続いた。その分、家庭学習をしっかりしなければならなかったのだが、いっこうにできなかった。一学期にはあれほど予習復習が緻密にできたのに、毎日朝晩飲む薬のためか、病気自体のためか、勉強しなければならないと思って座卓の前に座るのだが、教科書やノートを出しても全く集中することができなかった。
 このころは、頭がボンヤリとしているのではなかった。逆で、頭の中はいつも様々な想念で嵐のごとく渦巻いていた。その想念の行き着く先はたいてい自慰行為につながった。
ある夜のことだった。母屋の方では生け花の教室が開かれていた。私はこの夜も机の上に置いた教材を長い間、ただ見ているだけで時間をつぶしてしまった。私はやがて隠し持っていた風俗雑誌を、これは実家にあったものをこっそりと持ち出したものだったが、机の上に広げグラビアを見ながら自慰行為を始めた。終りには仰向けになって射精しかけた。
 その時だった。後ろの出入り口のガラス戸からガタガタと大きな音がした。私は驚き慌ててズボンのチャックを閉めて起き上がり、後ろを振り向いた。カーテンは一応閉めていたのだが、雑にしていたので出入り口のガラス戸の半分くらいまでしか隠れていなかった。透明ガラスの向こうに、三、四人の生け花の生徒と家主の顔が見えた。そして家主はガラス戸を手でガタガタとたたいて、生徒を連れて母屋の方へ消えた。
 私は衝撃のあまり、めまいを感じながらガラス戸のところまで行き、カーテンをしっかりと締めた。その時、カーテンはいつも戸の半分くらいしか閉めていなかったのに気がついた。いままでにも何度も見られていたのだった。
 私は錯乱する頭の中で、必死になってこの状況を理解しようとした。数時間考えて、どうにか間違いないと思える状況判断ができた。
 これまでに、生け花の教室が開かれている時に何回か、若い女性の生徒たちに玄関で出合ったことがあった。その時にはいつも、生徒たちが私の方を見てニヤニヤ笑い、指さすようなしぐさをして、皆でヒソヒソ話をするような様子であった。悪意の雰囲気はまったくなかったので、私は自分がかわいらしい顔しているので、うわさにでもなっているのか、と少し気分を良くしていた。
 しかしそうではなかったのだ。私の部屋の出入り口のそばにある蛇口は、生け花の生徒たちが草花を切ったり洗ったりするのに使っていた。教室が開かれた後には手水鉢のそばに置かれたカゴの中に、たくさんの草花の切り捨てられた物がたまっていた。この洗い場から私の様子がよく見えたのだ。そのうわさは十人弱の生徒みんなに知られていたのだろう。そして何人も私の自慰をするところを見ていたに違いなかった。それが家主の耳に入り、私に口で注意するよりも現場で見られている    ことを教えてやった方がいいと思ってガラス戸をたたいたのだと確信した。
 私はぼう然として部屋の中に立ちすくんだ。自分の心が日本刀でズタズタに切り裂かれ、突き刺されたのを感じた。深い傷だらけで血まみれになった心は、生涯、二度と治癒することはないだろうと思えた。一生涯、傷を背負ったまま生きていくしかないと思った。私の全人格はボロボロに破壊され、取り返しのつかないほど元の形を失っていた。
 健康な人にとっては笑い話で終わるようなことが、精神疾患の人にとっては一生涯の傷として心に残る。それは折りあるごとに心に蘇ってきて、そのたびに懺悔の思いに沈み、人生そのものを暗くする。時には自殺のきっかけになったりもする。
私が性について持っている観念は、言葉を並べると、罪悪感、禁忌感、拒絶感、淫靡感、冒涜感等々最大のマイナスのイメージだった。それは性の根本を否定するものだった。
 これらは現在の私にもあり、過去に性によって心を傷つけられた事柄を反芻するたびに、空しい絶望の思いに全身が包まれる。だから、性についての記述は極力省いて、必要最小限のものにしたいと思う。ただ、性の問題が私の精神疾患の大きな部分を占めているのは確かだ。どうしてこのような性に対する観念が出来上がったのかを追求すると、私自身の本質に迫っていくように思える。
 この性に対する観念は、父母から教えられたものではない。幼少年期を一緒に育った兄や姉は普通の捉え方をしている。だから少なくとも、生まれて育った環境の影響によって出来上がったものではないことは確かのようだ。生まれたと同時に無意識の精神の根源にすでに要因が備わっていたといえるのかも知れない。
 精神疾患と性の歪の関連性を指摘する学説もあるようだが、その真実性や普遍性は別として、確かに私自身のことを内省してみると十分にうなずけるところもある。
 私はこの夜のことがあってから、誰とも目を合わすことができなくなった。翌朝、食事の時から家主と顔を合わさなければならなかったが、顔どころか、私の視界の中に家主の体の少しの部分でも入ってこないように顔を始終背けなければならなかった。そしてお花の教室がある時は、生徒が来てから帰るまで全く部屋から出ないようにした。その間、いつ生徒が帰るのか、わずかにしか聴こえない母屋の音に聴覚を集中させて様子をうかがっていた。
 また、学校に行っても級友の誰とも目を合わすことができなくなった。そして話すこともできなくなった。たまに必要に迫られて友達と話をすると、これ以上赤くならないというくらい赤面した。話しながら、
 「自分は恥ずべき人間で、友達と一人前に話をする資格のない人間だ。ホラッ、相手は私の方を見てあざけり笑っているではないか」
と胸が苦しくなるほど感じるようになった。それで話さなければならないような状況から極力逃げるようになった。
 さらに全く関係のない人間に対しても忌避感を持つようになった。下宿している家の前には、他の高校に行っている兄弟が親と共に住んでいるのは今までに時々見て知っていた。これまでは何も意識することはなかったのに、この二人が道路に出てキャッチボールを始めると、その掛け声やボールをグローブで受ける音が恐怖心を催させるようになった。
 兄弟が家の前にいる時に私が出ると、間違いなく二人は私を見て軽蔑するだろうと確信した。二人とも体格がよく、スクスクと育っている高校生だった。それに対して私はやせた貧弱な体で、いかがわしいことをしていると思うと、二人から見ればまさに蔑視に値するだろうと思った。
 見下され惨めな思いをすることが怖くて仕方なくなった。だから下宿を出る時にはいつも道路の様子をうかがって、兄弟やそれ以外の人も誰も通っていない時を見計らって玄関を出るようになった。
 私は自分の生活空間が自分自身を押し潰してしまうのではないかと思うほど狭くなっていくのを感じた。

 (五)自我意識
 私は三人兄弟姉妹の末っ子だ。兄と姉は年子で、姉から二歳離れて私が生まれた。父母が最後の子供にしようと思って生まれた私は、かわいらしい顔とよく頭の働く子供だったので、両親の愛情を多く受けて育った。兄姉はいつも、
 「どうしてコーちゃんばかりをかわいがるのか」
と不満を言っていた。コーちゃんというのは私の名前の光也の愛称だった。兄姉と共に、母は死ぬまで私のことをこのように呼んでいた。
 小学校四年までは勉強もよくできたが、運動も得意だった。運動会の個人競技では、必ず一位か二位に入った。友達もたくさん出来て、一緒に遊ぶのが何より楽しく、いつも夕食を忘れて遊んでは怒られていた。成長するにつれて学校の先生からよくほめられるようになった私を、両親はますます大切にし、自慢するようになっていた。
 父は城辺町の商店街の中ほどで薬店を開いていた。学歴は戦争のため小学校もロクに行けなかったが、終戦後、旧満州から内地に引き揚げてから、故郷の城辺町で薬屋の丁稚奉公をした。それから資格試験に合格し、独立して薬店を開いたのだった。当時は、大学の薬学部を出なくても実務経験と資格試験に合格すれば、薬屋開業の認可を受けることができた。
 まだ国民皆保険制度ができる以前のことで、売薬がよく売れた。父は売り上げをどんどん伸ばし商店街の中でも羽振りのよい商売人になっていった。いわゆる町の有力者になった。町会議員になるようにと何度か勧められていたが、時期を待っているようだった。
経済的に余裕があったので、私の欲しいものはたいてい買ってもらうことができた。それは幼いころからの習慣になっていた。私の記憶の中では、欲しいと思ったおもちゃはすべて買ってもらったような気がする。まれに、あまりにも高額なおもちゃを欲しがった時には、母は拒否をしたが、私が大声をあげておもちゃ屋の店先に座り込んで泣き出すと、機嫌をとるように買ってくれた。だから私の意識の中では欲しいものは必ず手に入れることができる、と全く疑うことなく信じていた。
 さらに、買ってもらったおもちゃは、普通の家庭の子供では手に入れられないような高額なものが多かったので、他の子供たちからうらやましがられ、それが私を得意にさせた。
 町で一目置かれるような父だったので、田舎のこととて学校においても有力者の子供ということで担任が気を使っていた。父は教員に軍隊の後輩がいることもあってか、よく学校に来ては校長室で話をしていた。また、担任が家庭訪問の時には、わが家でビールなどのもてなしをしていた。盆、年末などにも担任に贈り物をしていたようだった。
 三年生の時の担任は《ひねりビンタ》をやる先生だということで、子供たちには最も怖がられていた。《ひねりビンタ》というのは、片手で頬をつねり、一方の手で反対側の頬を叩くというものだった。ほぼ皆、一度は《ひねりビンタ》をやられたが、私には全くなかった。
 「うちの子は叩くな、と校長に言っているが、もし叩かれたらすぐに父さんに言え。学校に行って叩いた奴を怒り飛ばしてやるから」
と父は面白そうに言っていた。
 私と他の子に対する担任の対応の違いは、子供ながら私にもはっきりと感じられた。私には特に優しく丁寧に接してくるのだった。そして毎年、必ず私は担任から学級委員長の指名を受けた。私はいつの間にか学校でも他の者と違う特別な存在なんだということが無意識のうちに身に付いてしまっていた。そして、父に頼めば何でも思う通りにできると考えるようになった。私は自分中心に、自分の自由に世界が動かせるように錯覚をしてきていた。
 五年生になった時だった。父が急に、
「これからは、遊ぶのをやめて、お父さんと一緒に勉強しよう。そうしたら欲しいものは何でも買ってやるから。四年生まで好き放題に遊べたのだからもう十分だろう」
と私の頭をなでながら言った。私は父の言っている意味がよく分からなかったが、「何でも買ってやる」という言葉が気になって、
 「うん、いいよ」
と答えた。今までも何でも買ってもらっているのに、わざわざ念を押すのは、父の言うことを聞かなければ、買ってもらえなくなるのかもしれない、と私なりに解釈をして返事をしたのだった。
 軽く返事をしたが、このことは私の少年時代を大きく変えた。
翌日から私は学校の授業が終わると友達と遊ばずに、すぐに家に帰った。すると父が机に座って待っていた。そして私に勉強を夕食まで教えた。夕食を終えるとまた勉強会をやった。終わるのはいつも寝る時間の一時間ほど前だった。
 父はその間、お客が来て薬を売る時以外は、付きっ切りで勉強を教えた。さらに、休みの日には商売を控えてまで勉強を教えた。結局、この生活パターンが親元を離れて高校に入学するまで続いた。
 学校の生活はすこぶる快適だったが、父との勉強会のために友達と遊ぶことが全くできなくなった。これは私の心の中に大きな穴を開けた。友達と楽しく自然の中で遊ぶ、その充実感、幸福感みたいなものが完全にポッカリと抜けてしまったのだ。それは他のことでは埋め合わせのできない大変、寂しい穴だった。
 時々、あの、友達と遊んだ幸福感はもう二度と来ないのかと思うと、むなしくて仕方のない思いに駆られることもあった。友達と遊んでいるとケンカもする代わりに自分を客観的に見ることが無意識のうちにできるようになっている。ところが、勉強会が始まってからの私の生活の大半は、父と家族と私のみの関係であった。こういう人間関係の中で私は無意識のうちに自我意識の強い子供になっていった。四年生まででもよほど自我意識が強くなっていたのに、さらに、自分は他の子供よりも優秀なのだ、何でもできるんだ、特別なんだ、という意識が非常に強まっていった。
 友達と遊べない寂しさみたいなものが、私の心の中にあることを父は感じていた。それで、時々、夏の雨の少ない日が続くと、私を夜川へ連れて行ってくれた。
 夜川というのは、カーバイドを入れたアセチレンガスのランプを持って、暗くなってから川に行って魚などを取ることだった。ランプで川面を照らし出すと、さまざまな魚が浅瀬に来てゆらゆらと眠っているのが見えた。それらは明るく照らされてもすぐには目を覚まさなかった。ハヤやフナは網で簡単にすくえた。エビやカニなどはヤスで突いて取った。さらにウナギもよく眠っていて、ウナギバサミで取った。昼間はなかなか取れない魚などが簡単に取れるので面白かった。また、家に持って帰って焼いて食べるのもおいしかった。
 夜川は確かに時間を忘れるほど楽しかった。しかし、その楽しさは友達と遊ぶ楽しさと置き換わるものではなかった。あくまでも、勉強の延長線上の父との人間関係の中でのものだった。
 中学になると、隣町の御荘町で薬局をしていた父の友人に頼んで週に二回、英語を教えてもらうようにした。父は小学校もまともに行けなかったが、勉強が非常に好きで、自分でさまざまな書物を買ってきて全般にわたってよく勉強していた。ただ、英語だけはできなかったので、大学の薬学部を出ていた同業者に頼んだのだった。
 もともと頭の回転の早かった私は、学力は急速に上がっていった。学校での試験は、満点を取るのが当たり前になった。九十九点を取るとずいぶんがっかりした。中学では学年全体の順位が出たが、毎回の試験で一番か二番であった。ただ、体を動かさなくなったので体育だけは低い点数になった。
 狭い町のことなので、学校で一番成績の良い子供は誰かということはすぐにうわさになった。父はそのうわさが耳に入るたびにこの上ない喜びを感じているようだった。
 宇和島市の高校に入学した時、私は非常な不安を感じていた。それは、自分の学力が城辺町という辺鄙な町ではトップであったが、果たして有数の進学校で通用するかどうかということだった。それでとにかく必死で勉強した結果が一学期の成績だった。私はこの成績を取って、自分の実力は日本中どこに行っても通じるんだ、という絶大な自信と誇りを持つことができた。同時に自我意識と自尊心をはなはだしく強めてしまった。
 病気のため、二学期になってから全く勉強は手につかなかったが、この自尊心と自我意識だけは私の心の中でしぼむことはなかった。
 私は自分で自分の心が分からなくなっていた。人格がズタズタに傷つき自己を全否定し、自分で作り出した恐怖心におびえているのに、自尊心と自我意識は依然として強く、それが傷つくことを恐れていた。私は自分の心の中で背反する極端な二つのものがしのぎを削っているような気がした。 

  (六)海
 父は子供の将来を考える時に、何が最も人生の支えになるかについては学歴がいちばん大切であると確信していた。家や財産を残すことは、一時的に子供の役には立つかもしれないが、一生涯という長い目で見た時に、学歴の方がはるかに役立つと考えていた。父は子供たちが生きる時代の様相を自分なりに予測して、そこで必要なものは何かを考え、結論を出したのだった。父はよく、
 「大学の薬学部を出ておれば、『薬局』と名前をつけられるが、学歴がないから、お父さんがどんなに勉強しても『薬店』としか店の名前につけられない」
と言っていた。城辺町には三軒の薬屋があったが、『大和田薬店』以外は二店とも『○○薬局』と看板が出ていた。ただ、売り上げは父の店が一番であった。
 私が高校二年生になった時、兄は前年に大阪の大学に進学していたが、今度は姉が京都の短期大学に進学した。当時の城辺町で、娘を大学に行かせるというのはほんのわずかしかいなかった。親戚縁者からも
 「女の子はどうせ結婚して家庭にこもるのだから、無駄金になる」
と陰口をたたかれた。しかも、兄も姉も学費のかかる私学だった。
 父は薬の販売拡大などには大胆に行動する反面、堅実に家計の見通しを立てていた。いくら商売が順調だといっても、三人の子供を同時に下宿させて大学に行かせるのは無理であった。だから、私が大学に進学する時には、姉が短大を卒業する予定であった。そうすれば、商売が特に不調にならない限り三人とも大学を卒業させることができるはずだった。
 ところが私の病気は予想外の出費だった。毎月、商売を休み、二人分の運賃と快適な部屋のためにチップも出して病院に通わなければならなかった。城辺町から宇和島市までのバス運賃でさえ、かなり高額だったらから、月々の交通費の負担は大きかった。それにもちろん、毎日、朝晩に飲む大量の薬代と診療費も重なった。
 二年生の秋になった時、父は経営していた薬店を廃業した。三人の子供の学費が払えなくなったからだ。父は最終的に店舗兼住宅の自宅を売り払って私が大学を卒業するまでの経費を捻出した。そして長年住み慣れた城辺町を引き払って宇和島市に出てきた。そこで私が卒業するまで一緒に住むことになった。家賃が少しでも安い所ということで、宇和島市内から五キロ程南に海岸線を行った所にあった石応(コクボ)という村に間借りをすることになった。私は下宿の家主にあいさつをすることもなく、逃げるように石応に移った。そこで私と両親の三人の生活が始まった。
 私は石応の生活の中で、自分にとって帰るべき場所が無くなったことをしみじみと感じた。それは具体的な場所にとどまらず、心の支えともなるところであった。私の気持ちとしては、故郷を出て心が縮まるような苦しい思いをしているが、どうしてもだめな場合は、実家に帰ればまた生きていけると思っていた。それが無くなり、心に占めていた最後の安心の部分がポッカリと抜け落ちてしまったように感じた。屋根に登って降りるべき梯子を外されたような気持ちだった。
 その感覚は父に対する見方にも共通するものを感じ始めていた。父は仕事として宇和島市内の薬屋にむりやり頼み込んで、安い給料で雇ってもらうことになった。ボロボロの調子の悪いスクーターを一台与えられて、一日中走り回って商品を運んでいた。不衛生な品物を担がされたといって、首筋の広い範囲にひどい皮膚病ができて、いつまで経っても治らなかった。疲れ果てて家に帰ってからは、ものもあまり言わなくなり、ただゴロリと横になっているだけだった。
 この父の姿から、私の最大のよりどころであり、全知全能に思えた父の存在が心の中から消え去っていくのを感じた。それは私自身の存在の最大の基盤が失われたことを意味した。私は、帰るべき所も帰るべき人も無くなったということを、耐えられない程の不安と寂しさを伴って身にしみて感じていた。私は心の中で、
「もう学歴はいらないから、帰るべき故郷の家と父を取り戻してほしい。そうしないと生きていけない」
と叫んでいた。
 石応の借間は倉庫の片隅の物置だった。そこを片付けて住めるようにした。倉庫の前は、道路を隔ててすぐに海岸になっていた。そして長い防波堤が沖へと伸びていた。五百メートルほど先には宇和島湾に浮かぶ最も大きな九島(くしま)という島がよく見えた。
 石応の生活で最初に困ったのは、便所だった。倉庫の奥の方にあったが、どういう訳かドアが胸のあたりまでしかなく、立ち上がると外から顔がよく見えた。それに下も床から十センチほど空いていた。カギもついていなかった。ある時など私が大便をしていると知らない婦人がドアを開けて入ろうとした。それ以来、私は、誰か見てはいないか、入っては来ないかと不安で用が足せなくなった。それでいつも大便をする時は明るいうちは我慢して夜遅くなってからにした。
 また、風呂でも嫌な思いをした。村には一カ所だけ狭い銭湯があった。私が一人で行くと先に来ていた客が皆、おかしな目をして私の裸を見た。なかには、「お前、どこの子や」と話しかける漁師もいて、私が受け答えができないと怒ったような顔をしてにらんだ。そして漁師連中がヒソヒソ話をして私を見下しているように感じた。
 これ以降、私はひとりでは風呂に行けなくなり、必ず父と一緒に、できるだけ客が少ないと思える時間帯を選んで風呂に行った。
 学校へは自転車でも通える距離だったが、体調の不良は続いていたので、バスを利用した。バス通学は女子生徒が多かった。男子はほとんどが自転車通学をしていた。ある時、帰りのバスが混んで私の手が女子生徒のお尻に触った。その女子生徒は私の方を振り向いて意味ありげに笑った。私の頭に衝撃が走った。女子生徒が今にも、「この男の子は痴漢だーッ」と叫びはしないかと身をこわばらせた。さらに、バス停に着いて降りる時には、運転手に言い付けはしないかとビクビクした。しかしどちらもなかった。
 バスを降りると私は逃げるように家に帰った。それからは頭の中で、「大和田は痴漢だ」と村中に広まってしまうだろうという心配でいっぱいになった。私は父に、
「バスに乗ると気分が悪くなって倒れそうになる」
と言って、中古の自転車を買ってもらい、それで通学することにした。バセドー氏病は普通でも心拍数が多くなり動悸がするものだった。それなのに朝夕自転車に乗るので、何度か途中で気分が悪くなることもあった。しかしバスの中での神経を削られるような苦痛を思うと、よほど楽であった。
 私は学校でも家でも、自分から誰かに話しかけることはほとんどなくなった。一年生の発病前の、柔道をやって活発に友達をつくっていた頃のことを知っている級友は、私の変わりように驚いて、よほど病気が悪いに違いないと心配してくれた。私は口数は減ったが、頭の中では様々な想念と次々と自己の中で創り出される不安と心配で渦巻いていた。頭の休まる暇は瞬時もなかった。楽しいことなど全くなかった。ただ苦しいだけの日々になった。
 その中で唯一、心が慰められたのは、家の前の防波堤の突端に座って海を眺めている時だった。私は学校が休みの時には少々寒くても、また雨が降っていてもいつも海を眺めていた。
 正面には九島が見えたが、左手の島影が切れたかなたには、無辺際の海原が広がっていた。限りのない海を見ると心が休まった。また、時々防波堤に大きな貨物船が停泊していることがあった。それを見ると私は船に乗り、国内や世界中に出かけて行くことを夢見た。想像は限りなく広がり、頭の中で長編の物語りを何編も創っては消した。
 防波堤に三、四時間、動かずに座っているので、母が心配して連れに来ることが何度もあった。

(七)挫折
 三年生になると、コース別、学力別のクラス編成になった。当然、二年の成績でクラスを分けたのだが、私は国立コースどころか進学コースにさえ入れなかった。私の入ったクラスは授業のレベルを落とし、とにかく留年せずに卒業させるのを第一義に考えたところだった。カリキュラムも大学入試には対応していない容易な教科書ばかりになっていた。
 そのクラスは独特な雰囲気がした。全く元気もなければ、やる気もなく、よどんで沈んだ空気だった。皆の心の中にはお互いに、自分たちはダメな人間だ、負けた人間だ、頭が悪く将来もつまらない人生しか歩めない人間だ、という口には出さないが共通の認識があった。担任も魅力のない教師で、初めからこのクラスに期待することは諦めているような言動だった。実に惨めな、将来のある生徒の人格を潰してしまうような雰囲気だった。
 私は後年、高校の教師を定年まで長年勤めることになったが、その間に何度も学力別クラス編成をやろうという意見が職員会議に出てきた。そのたびに私は、大きな可能性のある生徒の心に将来に残るような傷をつけるクラス編成は絶対にやめるようにと反対をして、実施させなかった。私自身の体験に基づいた判断だった。
 三年生は出発から暗くうっとうしいものだった。クラスの中には、活発でにぎやかな生徒も居なくて、休み時間でも話し声があまりしなかった。私はますますものを言わなくなった。というよりも、頭の中が様々な想念で嵐のように吹き荒れていて、外の世界が自分と遠く離れた手の届かないようなものに感じられた。誰かと話をしても実感が全く伴わなかった。同じように授業も私の頭の中に入ってくる余地はなかった。
 時に頭が破裂しそうになることがあった。そんな時、家に迷い込んできたオスのカブトムシの角を持って、コンパスの針の部分でつつき、苦しめながら殺していくと気分がおさまるのを感じた。私は両親に隠れて、ローソクに火をつけ、さまざまな昆虫を取ってきては焼き殺すようになった。ある夜それが母に見つかった。母は今まで見せたこともないように顔をゆがめて私を怒った。
 家には一匹の野良犬が住み着くようになっていた。野良犬にしては人懐っこい犬で、食事の残りを少しでもやると、いつまでも玄関の前で寝そべりながら次のえさを待っていた。私にもよく慣れていて為すがままになっていた。
 昆虫を殺せなくなった私は、今度はこの犬を防波堤の突端まで連れていって、海面まで五メートル程の高さがあったが、そこから突き落とした。犬は慌てて足を空中で必死にもがきながら海中へ深く落ちた。大き音と波が海面に広がった。しばらくして浮き上がると鼻から海水を吹き出しながら必死になって陸の方へ泳いでいった。防波堤はコンクリートの壁で、陸地までどこにも犬が上がれるような所はなかった。私は防波堤の上を犬の泳ぐ速度に合わせて歩いた。犬の必死の形相を見ると気分が少し晴れるような気がした。
 犬が陸地まで泳ぎつくと捕まえて、また防波堤の突端まで連れて行き突き落とした。これを何度か繰り返しているうちに、犬は少しずつ弱っていった。海中に落ちてから浮かんでくるまでにも時間がかかるようになり、陸地まで泳ぐのも波に負けて進めない状態がでてきていた。この様子を村の人が見ていた。その人は私の家の方へ注意をしに行ったようだった。仕事が休みだった父が、今まで見せたこともないような辛そうな顔をしてやって来て、
「やめとけ」
と私に言った。私はただ、防波堤に座っていつまでも海を見ているしかなかった。
 永遠に晴れる時は来ないように思える私の心に、すんなりと入ってきて共感の心を少しなりとも呼び起こしてくれたのは、戦前、戦中、戦後まもなくの流行歌だった。私は戦後生まれだったので知らない歌がほとんどだったが、これらのナツメロを聞くと心が慰められた。一時的にでも、錯乱しそうになる精神を止め置くことができるような気がした。
 家では新聞を取っていなかったので、学校の図書館の新聞のラジオ番組表でナツメロのある放送局と時間帯を調べた。そして家に帰ると必ずそれを聞いた。
『国境の町』を聞くと、中国大陸の雪原の中を走る馬そりが、ありありと浮かんできた。そしてその鈴の音が心の中に広がっていった。ふと、今の苦しい状況から逃げ出せるような気持ちにもなった。また、『旅の夜風』で、
「花も嵐も踏み越えて」
と歌われると、薄い希望が出てくるような気がした。そして『誰か故郷を想わざる』の、
 「ひとりの姉が嫁ぐ夜に、小川の岸でさみしさに、泣いた涙のなつかしさ」
の部分からは温かい人間関係に思いが至り、涙が流れた。
 私は本来、ナツメロの世界に生きるべき人間だと思った。その世界こそ私の安住の地ではないかと思われた。
 三年生は進路の決定など、生徒自身が決めなければならないことがあり、日が過ぎ去っていくのが早く感じられた。私は三年になっても相変わらず夜眠られずに、授業中にウトウトするというパターンを繰り返していたので、全く勉強が頭に入っていなかった。頭の中は油で満たされていて、外の世界、授業などは水のようで、私の頭の中には全く混ざりも溶け込みもしてこなかった。
 家に帰ってからはいつも防波堤に座っていた。学校の休みの日には一日中、船を見て空想にふけった。そうしている内に空想の内容が少しずつ具体化してきた。どの内容にも共通していることは、人間の多い陸地から遠く離れることだった。
 私の悩みは、極論すれば周囲に人間が居るから出てくるものだと思えた。無人島に一人で住んだり、山奥で誰とも接せずに暮らせれば、悩みも起こりようがないと思えた。それであれば、外国航路など長距離運航の船の無線通信士になれば、狭い通信室で無線機を相手に交信していればよいのだから、悩みはずいぶん減るだろうと想像した。船内では人間関係といっても決まった小人数の者との接触だから、それほど苦にはならないだろうとも思えた。それにいつも海が眺められるのがよかった。
 私は実際の目の前の船を見ながら、空想でさまざまな船を作り上げ、その無線通信士として乗船し、楽しい日々を送ることを夢見た。この空想は私の心を慰めると同時に、現実に実現できるものだと思えた。
 いよいよ進路を決めなければならない時期がきた。三年生の私のクラスでは進学を希望する者はほとんどいなかったが、私にとっても父母にとっても進路は大学進学以外に考えられなかった。私は高校に入学した始めの頃は、化学に百点がついたように文系の科目より理系の科目の方が好きだった。そして、将来、希望の無線通信士になって船に乗ること考えれば、工学部電子工学科に進むのがよいと思えた。
 国立一期校はさすがに無理だとは私も分かっていたが、中堅どころの私学であれば間違いなく合格するだろうと思った。それで関西の六校の私立大学の受験申し込みをした。その中には父の希望で一校だけ薬学部も入れていた。
 六校のうち四校までは地方試験があり、高松市で受験することができた。残りの二校は本学のみだったので大阪と京都に受験に行った。もちろん全部父が付き添ってくれた。往復の列車は私の体調のことを考えて一等車(現グリーン車)の切符を買ってくれた。私は家が経済的に厳しいことは分かっていただけに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 試験結果が次々と家に送られてきた。封筒を開けるたびに私の心も体も切り裂かれていった。結果的に全受験校が不合格だった。私はこの結果がどうしても信じられなかった。小中では学校でトップであり、高一の一学期には父が大泣きするほどの優等生であった。
 その後いくら病気で勉強できなかったとはいえ、私の意識の中にはまだ、自分は他の者よりも勉強ができる、という自負心が残っていた。それがことごとくうち砕かれた。何日間も私は不合格の結果は何か手続きの間違いだろうと思えた。大学の方から、
「合否を間違えていました。合格です」
と連絡があることを真剣に待っていた。ところがもちろん何もなかった。
 父母は、
 「病気なのだから仕方がない。家でゆっくりと養生しながら、一年間、勉強して、来年また受験すればいいじゃないか」
と慰めてくれた。しかし私はもし、これから一年間、実家で過ごしたとするならば、自分は間違いなく風船が割れるように破裂してしまうだろうと思えた。これは私に非常な恐怖心を呼び起こし震え上がらせた。
 ほとんどの大学入試も終わり、年度末さえ近づいた頃、私は電子工学科の二次募集をしている大学を必死で探した。そうすると大阪の工学部の単科大学が一校だけ二次募集をしている情報を見つけた。私は藁にもすがる思いでその大学を受験した。結果は合格だった。
 しかし、私は生まれて初めて、現実的な挫折感を味わった。それも、自分自身と全人生を否定されるような決定的な挫折感だった。両親の愛情によって、幼いころから培われていた強い自尊心と自我意識は、入試失敗という現実の自分の姿を突きつけられることによって、粉々に崩れてしまった。私の心の中から、この時まで病気の苦しみや精神の不安定はあったにしても、無意識のうちに持ち続けていた優越感が消えてしまい、ポッカリと空洞が開いてしまった。他の者より郡を抜いて優れている、この意識が私の幸福感の根本であった。生きがいであった。それを喪失した時、生きる楽しみも意義もなくなってしまったように感じた。

第Ⅱ章『大学時代』

 (一)孤独
 子供が三人とも関西の大学に進学したので、両親共に大阪に出てきた。両親は家賃がいらないということで、アパートの管理人となって狭い管理室で生活することになった。管理室には夫婦のどちらか一人が居ればよいということで、父は大きな遊園地の夜警の仕事をすることになった。
 私の進学した大学は大阪府の郊外にあった。私は大学の紹介で学校から二駅離れた所にあった下宿屋に入ることになった。駅からは田圃や畑の中を通っている道を十分ほど歩かなければならなかった。六十部屋もある下宿専門の木造の二階建てで、一見、田舎の小学校を思わせるような建物だった。部屋の広さはすべて三畳だった。朝晩は食堂で食事をし、昼食には弁当が作られた。入居しているのは大学生と一般人が半々程度だった。
 バセドー氏病の治療は、別府の病院の医師が関西の大学の出身だったので、その大学病院への紹介状を書いてくれた。父と一緒に病院へ行くと今まで見たこともないほど大きな建物だった。担当医は私のように小柄で痩せた神経質そうな医者で、対応は冷たかった。精神科にも回わされて、飲む薬はさらに増えた。私などは、この巨大な病院からすれば、どうでもいいような一患者で、ちっぽけな私の病気を治してくれそうには思えなかった。
 大学へは挫折感に沈みながらも、無線通信士という唯一の希望を抱いて登校した。電波通信専攻ということでモールス信号の練習機も購入して、わずかな夢に希望をつないだ。一週間ほど通学して、緊張の連続で疲れがたまったのか、翌日、寝過ごしてしまった。私は心身ともに気怠さを感じながら昼前に電車に乗った。するとどういう訳か、少し余裕を持ちながら乗客を観察することができた。
 どの顔にも喜怒哀楽の表情がまったくなかった。皆、能面のような顔をして、それぞれが好き勝手な方向に焦点の定まらない視線も向けていた。田舎の人々の、心の中の感情がそのまま顔の表情に出ているような、偽りのない素朴な表情はまったくなかった。都会で生きてゆくためには、正直な感情を表に出してはいけなくて、作られた無表情な顔にしなければならないのかと思った。それに、これだけ多くの人と一つの客車の中に居るにもかかわらず、それぞれ皆、他人との関係を拒絶して一人だけの世界で生きているように思えた。私はまるで、ろう人形館に入っている錯覚にとらわれた。私は、苦悩の原因である他人との関係を断ち切って生きることを夢見ていたが、電車の中の荒涼とした風景は私の住める所ではないと思った。
 大幅に遅刻をして大学の門をくぐった。だれも遅刻を注意してくれる者はいなかった。講義に出席しても、出欠を取るわけでもないし、教授などが声をかけてくれるわけでもなかった。大学としては私が講義に出席しようがしなかろうがどうでもいいことなのだった。担当教官は学生が聴いて言いようがいまいが、勝手に講義を続けた。それは学生のためではなくて、自分の自慢のため、自分の自己満足のためにやっているに過ぎなかった。
 大学ではもちろん友人は誰ひとりいなかった。私から誰かに話しかけることは、こちらの言葉が相手には通じないのではないかという恐怖心に襲われてとてもできなかった。たまに、私と同じように地方から入学してきたような雰囲気の学生が私に話しかけてきそうになることがあった。私はその気配だけで恥ずかしくて顔が真っ赤になった。それで声をかけられる前に逃げた。
 大阪在住らしい学生同士は、愛媛県では聞いたことはないような言葉遣いで早口にペラペラとしゃべった。それがいかにも物事を深く考えない、調子乗りの、軽薄な人間のようなイメージを抱かせるものだった。それを聞いているとますます私は言葉を発することができなくなった。
 都会人の無味乾燥な能面の人生、若者の小動物のような浮薄な生き方、私はこれらに接して、人間の人生そのものが所詮はつまらないものなのではないのかと思え始めた。私自身もそのなかの一人にちがいないとも考えた。そう思うと私はわずか大学生活一週間で、期待も夢も希望もしぼんでしまった。
 これ以降は気まぐれでしか学校に行かなくなった。このことは両親には隠していた。高い私学の工学部の学費を、苦労して出してくれている親には申し訳なくて言える訳がなかった。
 下宿ではまったく声を出さなくても、朝昼晩の食事はできるし不便はなかった。また、買い物に行ってもレジで黙ってお金を払えばよく、話す必要はなかった。風呂は石応と違って、不特定多数の人が利用するので、どうにか一人で行くことができた。番台で金さえ払えば黙って入ることができた。
 父は夜警で昼間に眠らなければならなかったし、母はアパートの清掃や電話の取り次ぎで忙しくて私の下宿にはほとんど来れなくなっていた。通院以外のことは一人でやらなければならなかった。
 入学して一月ほどが過ぎた時、私はふと、最後に言葉を発したのは何時だったのだろうと考えてみた。そうするとそれが思い出せなかった。少なくとも一人で大学に通いだしてからは、私は一言もものを言っていなかった。人間はあまりにも長期間しゃべらないと、次に言葉を発する時には非常な緊張感と覚悟が必要なのを感じた。だからますます声を出す気にはなれなかった。
 その代わり、頭の中は、ほぼ錯乱状態になっていた。時には、自分はいったい誰なのだろうとさえ思えた。まとまったことや継続したことを考えることができなくなっていた。その中で心を慰めたのは、やはりナツメロと故郷のことを想像することだった。大阪のラジオ局は宇和島よりはるかに多くて、ナツメロの番組も定期的にたくさん流されていた。私はその時間になると小さなトランジスターラジオのスイッチを入れた。流れる歌を聴きながら、さまざまに自分の気に行った場面を空想したり、自分がステージに立って歌っていることを想像した。そして、聴衆全員から感動の拍手をもらうことを思い描くと、涙が出ると共にずいぶん心が静まった。
 目まぐるしく次から次へと浮かんでは消えてゆく想念の中で、それは常に私の頭を疲労させたが、故郷城辺についての思いや映像だけは、いつも私の心を平安にしてくれた。だから私の頭の中では徐々に城辺のことでいっぱいになっていった。そうすることによって自分で心のバランスを取った。
 頭に広がる城辺の姿はほとんど小学校四年生までの無邪気に遊んだ自然であり、楽しかった友達との思い出だった。それは外の外敵からは両親によって完全に守られた何の心配もない世界だった。父との勉強会が始まるまでに私の幼い命に染み付いた城辺の山、川、海は私の生の基盤なっていた。
 現実には大阪の狭苦しい三畳の下宿の生活だったが、私の観念の世界では幼少期の城辺の自然の中で生活をしていた。いや、三畳の下宿は仮の世界であって、現実の私の生活感覚はこれまでの人生で最も楽しかった時のものにしようとしていた。
 思えば、夏の暑い最中、すべてが焼き尽くされるように感じられる日の午後、わが家の店の前を、静まり返った町に、
 「キンギョー、キンギョッ!」
と金魚売りの声が響いて通り過ぎた。私は庭に近い部屋で、裸になってまどろみながら童話の世界のように心地よくその声を聞いていたものだった。
 ある時、三畳の下宿間に突然、その金魚売りの声が響いた。私はうれしさに飛び上がり、窓から顔を出した。当然ながらてんびん棒を担いだ金魚売りはいなかった。声も聞こえなかった。ただ、幅の狭いイヤなにおいのするドブ川が見えるだけだった。この金魚売の声はその後もしばしば私の耳には聞こえてきた。
 月に一回の診察日には、夜警で一睡もしていない父が下宿に来て病院に連れていってくれた。この時だけは父とポツリポツリと会話を交わした。医師には、恥ずかしくて自分から話をすることができなかったので、精神的に苦しいことを父から伝えてもらった。そうして処方して貰った薬を飲むと、ただひたすら眠った。よく、これだけ眠れるものだと感心するくらい眠り続けた。
 しかしその薬も飲み続けていると効果が薄くなり、眠れる時間が徐々に短くなっていった。そして、起きている間も、眠っているのか起きているのか分からないような頭の状態になった。生活感覚のすべてが、何か訳の分からないぼんやりとした霧に包まれているような気持ちになり、喜怒哀楽が心から消えていくような毎日になった。

(二)耽読
 駅と下宿との中間付近に一軒の古本屋があった。私は特に本を買う気もなかったが、なんとなく立ち寄ってみた。長屋を改造したような店で、狭い店内にはこれ以上、本を置くスペースがないというくらい詰めて置かれていた。並べているのは、高価な古書というようなものではなく、ほとんどちり紙交換に出されるようなものだった。
 店の奥の方に、板の箱の中に無造作に文庫本や小型の単行本が山のように積み重ねて置かれていた。板にマジックで《どれでも十円》と書いてあった。見ると紙が黄色くなったものや破れているものなど、ごみ箱に捨てられてもいいようなものばかりだった。私はその中から作者や作品名など関係なしに、何気なく三冊の日本の小説を手に取った。
 私はもともと学校の教科書と参考書以外には書物は読まなかった。まして、はっきりと答えの出る理系の科目が好きだったので、小説などは国語の教科書に出ているもの以外に読んだことはなかった。だから逆に、見たこと無いもの見たさ、で選んだ。もし、全く読む気にならなかったとしても、三十円であればそれほど損ではないと思えた。
 私はそれを持って、店主と思える三十代中ごろの男性の前に三十円と共に差し出した。その人は、周囲にうずたかく積まれた本の中に隠れるようにして、本を読んでいた。私の顔をチラッと見てから黙って受け取り、駄菓子を入れるような紙袋に三冊を入れて渡してくれた。その間、何も言わなかった。私も黙って受け取った。
 無愛想ではあったが、私に好感を抱いているような表情だった。私も、都会の、言っても言わなくてもいいような事をベラベラしゃべる人間と違って、何も言わずにいやな顔もせずに三十円の本を売ってくれた店主に少し人間の温かさのようなもの感じた。
 私は三冊の小説を持って部屋に帰ると、敷きっぱなしなっている布団にゴロリと横になった。そして一冊目の本を取って読み始めた。それが誰の何という作品かは今の私の記憶にない。あまり有名なものではないのは確かだ。生まれて初めて読む単行本の小説だった。
 読み進めるにつれて私の心に大きな衝撃が広がっていった。
「世の中に、こんなすごい世界があったのか」
と体が震えた。私は文字を通して完全に小説の世界の中に入り込んでしまった。小説の中で息づき、小説の中で人生を生きている気がした。小説の主人公と同化して、喜びも悲しみも実感でき、現実に小説の場面に自分が存在していると思えた。その日のうちに三作を読んでしまった。同じ小説が一作もないように、私は作品ごとに新たな体験をした。
 私は古本屋にひたすら通うようになった。そして十円の文庫本の中から小説を一度に十冊ずつ買ってきた。そして布団に横になって読み続けた。寝る時間も決まっていなかったし、起きる時間も朝食と夕食の時に目を覚ませばよかったので、ひたすら小説を読んだ。
 読んでいて眠たくなると本を読みかけのところを開いてうつぶせに置いて眠った。目が覚めるとその本を取り上げ続きを読んだ。その間に適当に食事や風呂やトイレなどに行った。身体を動かすのは最低限にして、目の開いてる間は小説を読み続けた。
 いくら読んでも飽きることがなかった。新しい作品を読み始めると新しい同化の感覚に心が満たされた。実際には、三畳の狭い部屋での生活であったが、頭の中では、無限で無数の小説の世界の中に生きることができた。これは、精神の異常さに苦しみ続けてきた私の心を新たな救いの世界へ導いてくれるものだった。
 私は読みによんだ。読み続けることが、救いだった。読むのをやめれば、苦悩の現実がのしかかってくるだけだった。
 私はほぼ一年弱こんな生活を続けた。読み終えた小説は部屋の隅から積み重ねていった。高くなって倒れそうになると横からまた積み重ねていった。部屋の周囲は本の積み木のようになり、寝ている布団だけが立ち居できる場になった。
 本の山はさらに幅も高さも日を追うごとに増していった。私がこれだけ十円コーナーの本を買うのに、古本屋の積まれている本はいっこうに減らなかった。ますます十円コーナーの本が増えるような気さえした。店主はいつも本の壁に隠れて本を読んでいたが、相変わらずものも言わずに本を売っていた。どうやら話をするのが苦手のようで、私と似ていると思うと親しみが感じられた。
 一年生の年度末になった時、学校の事務所で単位認定票をもらった。開けてみて、予想していたとはいえ唖然とした。一応、前期後期の試験だけは受けていたが、一年間でとれた単位は一般教養の一つの科目の二単位だけだった。もちろん進級できるわけはなかったが、一般教養中心の二年生までは留年ということはなかった。
 最初の関門は専門科目が多く入ってくる三年生になれるかなれないかであった。一年で二単位しか取っていなければ、二年生でどんなに頑張っても三年になるための単位を修得することはできなかった。一年先の留年は決定していた。
 私は身を削るようにして学費を工面してくれている両親のことを思うと、とても、留年のことは言い出せなかった。そうかと言って、私の生活は変わらなかった。ひたすら空いた時間をつくらないように読書にふけった。
 やがて私は、小説から哲学書、宗教書までも読むようになっていた。狭い古本屋の十円コーナーの中には、世界や宇宙をも包み込むような深い内容の書物も多数混じっていた。私はフィクションの世界から、人間存在の意味、宇宙の存在の本質へと書物の世界の中で分け入った。
 その中でもキルケゴールの『死に至る病』には非常に感動した。絶望という言葉に言い知れぬ親しみを感じた。日本の、名もない一学生の私とキルケゴールという偉人とは、同じ人間の存在としては変わりはないのだと思うと、心が慰められた。
 また、岡本かの子の仏教書には行間から母のような温かさが感じられ、仏教の内容よりも作者の人間性に平穏な気持ちにさせられた。さらに、クーンの『神を求めた私の記録』を読み、本当に神が存在するならば、私をこそ救って欲しいという祈るような気持ちになった。
 読書はいつまでも続いた。一冊一冊の本に新たな驚きと感動を感じながら読み続けた。やがて部屋に積み重ねた本が布団の回りまでも胸のあたりの高さにまでなってきた。地震でも起これば崩れて、私は本に埋められるのではないかと心配にさえなった時、二年生の年度末がやってきた。
 私は諦めの心境で大学事務所で単位修得票をもらった。開けてみると、偶然にも一年生と同じく、一般教養の二単位しか取れていなかった。当然、三年生への進級はダメだった。両親の落胆する姿を思うと私はふと、このまま親には言わずに四年間行った後で、卒業はダメだったと言おうかと思った。
 しかし、二年もの間、高額な授業料を捨てさせることは、今言うよりもはるかに罪深いと思えた。と同時に、この調子では何回留年したとしても卒業は無理だと思えて、学校を中退して仕事をする決意をした。これ以上親に迷惑をかけることは人間として許されるものではないと思えた。
 私は久しぶりに親元へ行った。古い木造二階建てのアパートだった。管理室は玄関のすぐそばの一番狭い部屋だった。城辺町の家に比べれば物置程度の広さだったが、母の精神状態にとっては良さそうだった。部屋が狭いので小便用の空き缶も置けず、トイレに行っていた。また、入居者から色々と用事を頼まれて、布団の中で空想にふける時間もなくなっていた。環境や人間関係の変化が母の精神状態を鎮めているようだった。
 私は留年のことを言おうと思ったが、なかなか切り出せなかった。いろいろ話をしていると母が、
「毎日々々、インスタントラーメンと食パンの耳ばかりだから、ラーメンのにおいを嗅いだだけで吐き気がする」
と顔を歪めた。父は、
 「インスタントはおいしいぞ」
と母をとがめるように言った。私はこのまま会話を続けているとますます言えなくなると思ったので、唐突に、
 「学校はダメだった。留年になった」
と沈んだ声で言った。父母ともにあまり驚かなかった。
 「病気なのだから仕方がない。療養しながら、何年かかっても卒業したらいいじゃないか」
と父も母も同じことを何回も言ってくれた。私は学力的についていけないので、大学を止めて働くと言った。そうすると父は、
 「理系の大学は勉強がきつくて病弱な者には無理だから、仕事をやるのもいいが、一年間ゆっくりして来年、文系の大学に行けばいいじゃないか」
と静かに言った。
 私は涙が出てきて仕方がなかった。泣きながら、私は何があっても正式な会社員になって、自立しようと深く決意をした。
 
 (三)就職
 これからは一切、親に迷惑をかけないようにしようと思った。そのためにはまず、一生涯勤め続けられるような大企業に就職するのが一番よいと思えた。扱うのはやはり電気関係がよく、それにあまり人と接することがないような職種を探した。
 求人情報を見ているうちに、大手家電メーカーの一つが、《工場での電気製品の組み立て要員》を募集しているのに目がとまった。これならば私に適していると思って応募した。両親には全く相談しなかった。それによって何か自分が一人前になってきているような気持ちになった。
 入社試験に行ってみると、五十人ほどの応募者がいた。そのほとんどは高校の新卒者で、まだ就職先が決まっていない者だった。ペーパーテストは簡単にできた。面接は、私の最も苦手なところだったが、ここで失敗すれば私の人生はあり得ない、と命をかけるようなつもりで声を出した。
 結果は合格だった。母に連絡すると喜んでくれたが、
 「いつ辞めてもいいから、くれぐれも無理をしないように」
と言った。
 勤務地は、下宿から一時間ほど電車に乗った所にある工場だった。出勤してみると体育館のような工場の一角に、テレビのチューナー部分を作る部署があった。そこに集められて説明を聞いた。
 当時、カラーテレビが急激に普及し始めた頃で、増産するための要員だった。テレビのチャンネルの切り替えダイヤルの裏には、それぞれの周波数におおよそ合わした小さなコイルが接続されている。私たち新入社員の仕事は、そのコイルのエナメル線をドライバーの先で微妙に動かしながら、チャンネルにピッタリと周波数を合わせる作業だった。周波数が合ったかどうかは、オシロスコープの波形を見ながら確認すればよかった。
 仕事は、椅子に座って手先だけを動かしておればよく、体力を使うものではない。苦手な対話もほとんどしなくてよかった。もし、後に部署替えになっても、病気のことを告げれば大企業なので配慮してもらえると思えた。私はこの仕事であれば生涯、勤められると思った。父の高学歴の希望には応えることはできなかったが、安定した職業に就いたことには安心してくれると思った。
 私は生まれて初めて仕事をした。生まれて初めて給料をもらった。今まですべて親からお金をもらっていたが、自分の仕事に対して他人からお金をもらうということが、少し大人になったような不思議な感覚を呼び起こした。
 さらに通院日には休暇を取って、高一の発病以来初めて一人で病院へ行った。しどろもどろになりながらも、病状を伝えることができた。これも私に新鮮な自信を持たせた。私は親から独立するということが、喜びを生み出すものだということを実感した。
 勤め始めると初めてのことが多く、緊張の連続であった。昼夜に関係のない生活をしていたので、まず朝、決まった時間に起きることが非常な困難であった。目覚ましは三個買った。そのうちの一つは起き上がって電源を切らない限り、音が鳴り続けるものだった。這ってでも出勤するくらいに腹を決めていた。
 私はこの仕事こそ私を救ってくれる唯一のものだと思った。もしも仕事ができなくなったら、という仮定のことはいっさい頭から消した。今の仕事ができなくなったとしたら、大学にも行けないし、何もできない自分が残るだけだ。そうなれば生きている意味がないと思えた。そんな自分を想像したくなかった。人生を賭けて仕事をやり遂げるしかないのだと決意していた。
 今までにない緊張感の連続で、一月半ほどは遅刻もせずに出勤することができた。ところが徐々に慣れてくるにつれて、仕事が苦痛に感じられるようになった。やがて耐えられないような強迫観念に襲われるようになった。それは我慢するとか耐えるとかというレベルのものではなかった。
 例えると、大空を自由に飛んでいた小鳥を小さなカゴの中に入れたようなものだった。鳥は捕らえられて自由を束縛されるカゴに対して、自ら傷つくことも顧みず、逃げ出そうとして激しくぶつかる。そのように私も目には見えないが、がんじがらめに縛られている何重もの綱を必死になって切ろうとしていた。
 さらに、以前に読んだ書物の中に、ヒトラーがユダヤ人虐殺の方法として、何メートルもある奥の深い土壁に、人間一人がやっと入れるくらいの横穴を多数開け、そこにユダヤ人を押し込めたと書いてあった。入れられたユダヤ人は体の向きを変えることもできずにそのまま断末魔の叫び声をあげながら死んでいった。
 その声が壁の穴のいたるところから聞こえてきたという。私は椅子に座って作業することが、ナチスの拷問を受けていることと同じように感じられてきた。人間の本来の生理的働きを外圧によって強制的に阻止されている感じだった。
 この感覚が日に日に高じていった。座ったまま気を失いそうになることも何度か続くようになった。
 ある日、私は心臓の動悸が激しくなり倒れそうになったので、手を動かすのをやめて目をつぶって耐えた。やがて気を失うように眠っていた。どのくらい経ったか分からなかった、中年の係長が私の肩をたたいて、
 「眠って仕事はできないぞ。給料をもらいたいのなら働け」
と大声で怒鳴った。隣で同じ作業をしていた若い女子工員が私の方を見てさげすむように笑った。さらに係長と目を合わして親しそうにうなずき合った。
 私は出刃包丁で心臓を刺されたようなショックを受けた。心はズタズタに切り裂かれた。隣の女子工員と係長とは間違いなくいかがわしい関係ができていて、私が眠っているのを女子行員が係長に告げ口をしたのだろう。そして二人して、ちょっとした物笑いのネタにしてやろうと思って、私をさらし者にしたに違いと思えた。
 私はその後、終業時間まで、二人をどのようにして殺すかということばかりを考えて手を動かしていた。チャイムが鳴り次第、社員食堂の炊事場に行き、包丁を持ち出してきて、帰ろうとしている女子社員と係長を刺し殺してやろうと思った。
 やがて終業のチャイムは鳴ったが、私は行動に移せなかった。
 下宿に帰るとすぐに病院からもらっている薬を取り出した。薬は、体調不良で予約日に行けなかった時のために、毎月、数日分ずつ余分に出されていた。この時は余りが半月分くらい溜まっていた。私はその中から精神安定剤と睡眠剤を十日分取り出して飲んだ。そして頭から布団を被って寝転んた。
 どのくらい眠ったかは分からなかったが、途中で、下宿の管理者の婦人が部屋にやって来て何か言った。私は、寝不足だから寝かせておいてくれ、という意味のことを言ったような気がした。すべては濃い霧の中の出来事のように思えた。
 結局、私は二日と半日、眠り続けていた。管理者の婦人が来たのは、食堂に私の食事や弁当が残ったままになっていたので、心配して様子を見に来たのだった。
 起き上がると、少しでも頭に振動を加えると激しい頭痛が頭全体に広がった。そして吐き気がした。少しずつ頭の働きが戻ってくるにつれて、今にも係長と女子工員が下宿にやって来て、私をなじるのではないかと心配でならなくなった。不安でいたたまれなくなった。私はフラフラしながら下宿を出た。
 途中、薬屋で頭痛薬を買い、自動販売機でジュースを買って三回分を一度に飲んだ。しばらくすると頭痛は少しおさまるような気配だったが、頭は混乱の極みに達するように思えた。脳みそが鋭い刃物でかき回されてグチャグチャにされてしまったような気がした。
 私は当てども無く電車に乗った。そして、係長たちがもう来ないだろうと思える時間まで、あちらこちらとフラフラ歩いて時間をつぶし、暗くなってから下宿へ帰った。

(四)絶望
 私は目が覚めるとフラリと出かけるようになった。生活の時間は全く定まらなかった。朝食も食べたり食べなかったりするようになった。午前中に目が覚めた時には、弁当を持って出かけた。
 目的地は決まっていなかった。駅に着いて切符を買う段階で、適当に行き先を決めてその金額の切符を買った。もし、その駅に着いても降りる気がしなければ、乗り越して好きなところで降りた。
 毎日々々、こんなことを繰り返しているうちに、私は自分でも気づかなかったことが分かってきたような気がした。初めは、下宿を出るのは会社から何か連絡があるのが怖くて出かけた。それはやがて私の観念の世界では、会社はイコール現実社会になっていった。
 自分は一切、現実社会とは関わり合うことのできない人間だと思えた。そして、無理に関わり合うことを考えると、非常な恐怖心が出てきた。私にとっては、勇気をもって関わり合うなどということは遠い世界の話であった。逃げるしかなかった。その為に無意識のうちに出かけているのだと分かった。
 さらに重大なことに気がついた。それは、あちらこちらと出かけ歩き回っているのは、死に場所を探しているということだった。それが日を追うごとに意識の中ではっきりとしてきた。
 私は自分がこの世に生きている意味も意義も見出せなくなった。所詮は、人間は死ぬしかない。生きている間に、どのようなことをしようが、行き着く先は死であった。生きている時、仕事で成功し経済的にも豊かになり楽しい日々に満足したとしても、あるいは、公務員となって安定した生活で安穏に生きたとしても、あるいは、病苦と貧苦に泣かされ生まれてこなかった方がよかったと思う人生だったとしても、いずれも行き着く先は平等な死でしかなかった。
 死が平等なのは、死後の世界へ持ち越すことができるものが、どのような人生を歩んだ人間であろうが同じであることだった。死という厳しい現実からすれば、生きている間のことなど、夢のまた夢、幻のようなものだ。幻と分かりながらもなお生きている時間を楽しくしようとする努力は、死という現実から生きている間だけでも目をそらせて、逃げていたいからにほかならなかった。
 砂上の楼閣で生きているのに、砂を強固なをコンクリートと自らに思い込ませ騙しているに過ぎなかった。死の現実は知っているが認めたくないのだ。認めれば、どのような生き方をしたとしても全く意味をなさないからだ。いつ死んでも全く変わらないことになるからだ。地球上に存在する無数の生物が、生死生死と繰り返している中で人間の一人の死などどうでもいいことだった。まして、世界では戦争状況の中で殺されている人間は非常な数に上っている。私一人の死など、取るに足らないことのように思えた。
 私は、生きている現在において、生きる必要性を全く感じなかった。所詮は、人間は一人残らず、食事をして排せつをして眠る、この繰り返しに過ぎない。その年数が短かかろうが、長かろうが、どうでもよいことのように思えた。いつ死んでもよいと思った。
 また、過去は私の現在の生を否定するために存在した。この時まで生きてきた中で無数に体験し、行為したことは、ほとんどが生きて行くことを嫌にさせる事だった。高一の時の自慰を見られたことから出発して、思い出せば思い出すほど、考えれば考えるほど、生きていることが辛くなることばかりだった。そして過去の行為にはすべて、人間として許されない罪を犯したという意識が色濃く心に染み付いていた。
 罪を犯すといっても殺人を為した訳ではなかった。ある時などは、駅から下宿に帰る間のささいなことが心を苦しめた。
 私は駅前の雑多な建物を通り越して、田んぼと畑のあぜ道のようなところを通って下宿に帰っていた。途中で小学生低学年くらいの女の子が一人で、土の団子を作って道のそばに並べて遊んでいた。
 私は何気なくその子の顔を見た。女の子も私の顔を見て目が合った。すると急に女の子は目を逸らし、深刻な顔になって土の団子を潰して、駅の方へ逃げるように走って行った。
 私は誰かに頭を殴られたような気がした。私の顔と目つきはおそらく、怒りの表情になっていて、その子は怒られると思って恐怖心を持ったに違いなかった。その恐怖心は、せっかく楽しく遊んでいた女の子の心を一瞬にして傷つけ、暗くおびえさせるものにしてしまった。
 あの小さな女の子は、家に帰ってもなお頬を引きつらせ、本来であれば楽しい一家の団らんを、苦しい思いで過ごさなければならないだろう。さらにそのトラウマは、女の子の生涯に渡って消えることがないに違いない、と思うと下宿に帰る気になれなくなった。
 私は近くのお菓子屋で女の子が喜びそうなものを買って、駅の方へ引き返した。恐怖心を持たせてしまった女の子にお菓子を渡して、
 「私はとがめる気持ちなど全くなかったのだよ。楽しく遊んでいて、羨ましいと思ったのだ。これが本当の私の気持ちだから、分かってよね」
とどうしても言いたかった。そうしなければ私の気持ちが収まりそうにもなかった。
 女の子の姿はどこにもなかった。私は一時間ほどもその子を探した。結局、見つけられずに下宿の部屋に帰った。私は取り返しのつかないことをしてしまった悔いに、ひどい自己嫌悪に陥った。
 こんな嫌な思いを持ち続けながら、これから生きていかなければならないのかと思うと、いっそ死んだほうがましだと思った。お菓子は自分で食べたが、こんなおいしくないものが世の中にあるものかと思えた。
 このような些細なことなどもすべて、罪として積み重なり、自分の命をもって償うべき罪状になった。過去を振り返れば振り返るほど、耐えられない程、生きるのが辛くなった。生きれば生きるほど積み重なった罪が重くなり、後悔しても後悔しきれず、増幅する懺悔の念は生を断つ力を強くしていった。
 私に未来はなかった。私の唯一、最大の自信でり武器あった学力は、大学入試失敗、大学中退などと、粉々に砕けてしまった。
 父との勉強会は他の子供たちとの関係を断つことになり、学力は伸びたが、自我意識ばかりが強まり、他人との普通の付き合いさえできなくなってしまった。その傾向は年齢を重ねても改善するどころか、ますます強くなった。
 社会人となって仕事をするにしても、いくら他人との接触の少ない職場を選んだとしても必ず、大なり小なり人間関係の中で仕事をしなければならないのは当然だった。
 それが私にとっては極度の緊張感を催させるし、人に対して恐怖心さえ感じられた。会社に入って良好な人間関係を保ちながら仕事をするなどということは、私にとっては到底できないことだった。家電メーカーでの仕事の失敗は、私にさらに自信を喪失させた。
 今後の仕事のことを考えてみると悲観的なことしか頭に浮かばなかった。どのようによい方向に考えたとしても、現実社会の中で仕事をしながら生きていくということは私にとってはできないことだった。この自分が今後、社会で悠然と生きていけるような人間に変わっていくとは思えなかった。
 過去も現在も未来も私の生きることを否定していた。すべてに絶望している中で、自らが自らの命を断つことができることだけが唯一つの希望となっていた。
月末に近くなって、母が下宿にやってきた。会社の方から私に連絡がつかないものだから実家の方に電話があったということだった。母は、
 「息子はもう行かないと思いますので、会社を辞めさせてください、と言っておいたよ」
と心配そうな顔をした。母はいろいろと慰めてくれたが、私は話をする気力も出なかったので会話にはならなかった。帰り際に母は、
 「来年、体に無理の無い、文系の大学に行けばいいじゃないか、とお父さんも言ってくれているよ」
と言って、生活費を差し出してくれた。
 私には涙が出る感情もすでに無くなっていた。他人事のようにさえ思えた。

 (五) 彷徨
 病気がよくなる気配はまったくなかった。薬は五年間ほとんど一日も欠かさず飲んでいた。通院は会社に勤めた時、一人で行ったことをきっかけにその後も一人で行くようにした。
 医師に、「調子が悪い」と訴えると薬を変えてくれたが、それを飲むといつものことだったが、やたらと眠くなり、目が覚めていても夢の中にいるような状態になるだけだった。病気が根本的に治ってくるような感覚とは程遠いものだった。
 何年か前から、私は右の手のひらをしばしば左の乳の下に当てて心臓の動悸を確認するような癖がついていた。体調の悪い時は、心臓が大きく早く拍動しているのが手のひらによく伝わってきた。この動悸が少しずつ頻繁になり、激しくなってきた。私は心臓の動きが気になり何かあるとすぐに左胸に手を当てるようになった。そのため、着ている物の左胸の辺りが手垢で汚れが目立つようにさえなっていた。
 ある時、私は薬が憎くてたまらなくなった。これだけ薬を飲んでいるのに良くなるどころかますます悪くなる。薬が私の身も心もボロボロにしているに違いない。薬を飲んでいるから病気が治らないのだと思えてきた。それで薬を止めようと決意した。
 一日、飲まなかった。すると二十四時間たっても眠られなかった。頭はいつも何かを激しく考え続けていた。さらに二日、飲まなかった。頭を何かで縛られるような鈍痛がして、吐き気も出てきた。指先がブルブルと震え、何かを持つにもうまくいかなくなった。体は熱っぽくなり、脈拍は常に百に近くなった。じっと座っているだけでも不安にさいなまれた。
 それでも三日目も飲むのをやめた。精神が錯乱状態になり、自分で自分が分からなくなった。自分ではないのだから何をしてもいいような気もした。殺人でもできると思った。何をするか分からない自分が怖くなった。
 また、鏡を見ると、それでなくても飛び出しぎみであった眼球が、だらしなくだらりとたれ下がってきているような気がした。このまま飲まなければ大変なことになると恐ろしくなった。私は急いで薬を飲んだ。
 私は、相変わらず、目が覚めると下宿を出るという生活を続けていた。眠っている時はいいが、起きてから部屋に居ると不安で居たたまれなくなった。そして出掛ける時はいつも、
 「ひょっとしたら今日で帰らなくなるかもしれない」
と思った。私は、いつでもどこででも死ねると思った。
 下宿の最寄り駅は、各駅停車しか止まらなかった。駅のホームで待っていると、急行や特急が目の前を風圧を伴って疾走した。そのたびに今すぐにでも飛び込めると思った。そう思う私にもうひとりの私が尋ねた。
 「本当に飛び込めるのか?ただ観念的にそんな気がしているだけで、実際にはそれほど気軽に死ねないのではないのか」
と耳元でささやいた。私は次の通過列車が近づいた時にホームの先端の方にまで歩いた。電車は驚くような大きな警報音を鳴らしてホームに入ってきた。ホームの駅員が激しく笛を吹く音も聞こえた。風圧で私は後ろにのけ反るように下がった。私は、
 「あと二十センチほど前に行きさえすれば、今頃はもうこの世にない。私はいつでも本当に死ねるんだ。ただ、同じ死ぬなら気に入った所で死にたいと思っているだけだ。生きているより死ぬ方が楽なんだから」
ともうひとりの自分に言った。駅員は少し青ざめたような顔で私を見つめていた。
 私は下宿代以外の生活費をほとんど電車賃に使った。関西一円、至る所に行った。駅からは歩いたが、普通の人と同じ速度で歩くと、動悸がして呼吸が苦しくなり気分が悪くなるので、ゆっくりと歩いた。それでも息苦しくなると、所かまわず座り込んで休んだ。
 和歌山県に行った時、海に近い駅で降りて絶壁を探して歩いた。そして息を切らせながら、ほとんど這う程度の速さで絶壁の先端まで登った。眼下にははるか下方に白い波が打ち寄せるのが見えた。
 軽くまたぐようにして踏み出せば、確実に死ねる高さだった。私はその海を見ながら、あの幼いころの幸せだった故郷、城辺町の海を連想した。今飛び降りれば、幸せだった命に同化できるように思えた。
 私は何時間も崖っ縁のところにたたずんでいた。永遠にこの場に居たいと思った。空と海の様相は、色彩豊かに変化して飽きることはなかった。周囲が薄暗くなってから私は立ち上がり駅の方へ歩いて行った。
 滋賀県の山深い駅で降りたこともあった。私は駅から見えた岩場の方へゆっくりと歩いた。遠くから見るとそれほど高いとは思えなかったが、近づくと大きな岩が積み重なったかなりスケールの大きなものだった。人は行き来する場所だと見えて急な山道が岩場の上へと続いていた。
 私はその道を登り始めた。すぐに息苦しくなり気分が悪くなった。しかしそれでも登り続けた。呼吸困難になり、心臓が止まってしまって死んでもいいと思った。むしろ、そうなりたくて開き直ったような気持ちになって力を振り絞った。
 ほとんど倒れそうになりながら岩場の上までたどり着いた。山々がよく見えた。山あいを流れる川も見えた。それはすべて故郷の山と川の感覚をよみがえらせた。私は大きな岩の先端で倒れるように仰向きに寝転がった。先の方へ一回寝返りをうつとはるか下の岩場に落ちる間隔だった。私は気を失ったのか眠ったのか分からない状態で意識が無くなった。
 どれほど時間が経ったか分からなかったが、ゆっくりと意識が戻った。まず何より生きていることに気がついた。寝転がった時と同じ位置に仰向けになっていた。力の入らない体で上半身を起こした。辺りは夕暮れの空気になっていた。下の方で山仕事をしていた人が遠目に私を注視しているのが分かった。どうやら心配をしていてくれたようだった。私は足をガクガクさせながら岩場を降りた。
 また、暑いさなか京都の川べりの道を歩いたこともあった。道は舗装されていず、靴をパタパタとさせながら歩くと土埃が上がった。しばらく歩くと、頭が焼けつくように熱くなりクラクラとしてきた。
 道の先へ目をやると、猛暑のため陽炎が上がっていた。画像の倍率が不規則に変化し、ゆらゆらと揺らぐのを珍しく見ていた。それは、暑さのために視神経が異常になったのか、陽炎のためなのか区別がつかなかった。揺らぐ映像の先を目を凝らすようにして見ると、先に歩く若い母親とその後を必死で追い掛けている幼い少年の姿が見えた。
 私は何度も目をしばたたかせながら二人の後ろ姿を見た。
 信じられないことだったが、その母子は、幼い私とまだ病気が発病する前の元気な母だった。私は感動で暑さなど忘れてしまい、心が幸福感でいっぱいになった。当時、城辺町の道は舗装などされていなかった。
 夏のカンカン照りの時などバスが通ると、土埃が舞い上がり前が見えなくなった。私は目や口に埃が入らないように両手で顔を押さえて土埃がおさまるのを待った。
 もういいだろうと思って目を開けると、そばにいたはずの母が、まだ漂っている薄い土煙の中を、スタスタとずいぶん先まで歩いていた。私は驚いて必死になって後を追い掛けた。近くまで追いつくと母は急に振り返り、両手を差し伸べて面白そうに笑った。母の遊びだった。
 揺らぐ映像の中で、やはり母が後ろを振り返り両手を差し伸べた。そして幼い私を見るのではなく、今の私をまっすぐに見た。それから、
 「コーちゃんはどうしてそんなに死に急ぐの?」
と笑わずに言った。私は驚いて、何と答えようかと考えた時、母の顔が見えなくなった。
 道の先をよく見ると、幼い男の子が母親と手をつなぎ、その手を大きく振りながら歩いている後ろ姿が見えた。それは私でも母でもなかった。
 母の映像は消えたが、質問された言葉はいつまでも私の頭に残った。私は母に、自殺の理由をどのように説明しようかと考えていると、自殺には別の理由もあるのに気がついた。
 それは《当て付け》だった。これまで私はまじめに生きてきた。父の言われる通り勉強もした。それは親孝行でもあった。発病してからも決して私は、自分から怠けようとしたのでもなければ、要領よく生きようとしたわけでもなかった。まして自分がよい思いをするために、他人に嫌な思いをさせたり、犠牲にさせるようなことは一切していなかった。むしろ、他人を傷つけることを何よりも恐れていた。
 私がこれまで積み重ねてきたと考えている罪は、現実的社会的な罪ではなく、精神的観念的な罪であった。
 私は何も悪いことはしていなかった。ただコツコツと真面目に生きてきただけだった。それなのにどうしてこれだけ苦しまなければならないのか。私よりはるかにいいかげんな人間で、他人にも迷惑をかけるような者が、楽しい人生を歩んでいるのはどういう訳なのか。私は納得できなかった。
 こんな理不尽な人生を強要している犯人は、いったい誰なのか。それは運命とか宿命とかいうものだろうと思った。私はいつの頃からか、目に見えない犯人に対して当て付けの腹いせに死んでやろうと思うようになっていた。自殺をして恨みを晴らしてやろうと思っていたのだ。
 このように、母への答えを考える中で、自殺願望の理由には案外、単純な動機も含まれているのだ、と分かった。これなら母も納得してくれるような気がした。
 
 (六) 出会い
 私は、無意識のうちに下宿の部屋の片付けを始めていた。今までに写していた写真、学校の卒業アルバムなど自分の姿が写っているものはすべて捨てた。また、通知表など自分の名前が書いてあるものも全部捨てた。さらに、高校時代から書いていた日記も、大学ノート十冊以上になっていたが、まとめて捨てた。それ以外にも私の個人が特定できるようなものは薬以外はほとんど捨てた。
 次に溜め込んだ本の処分に取り掛かった。下宿の玄関横にある大きなゴミ捨て場の前に、部屋から何度も往復して本を積み重ねて置いていった。終りごろには夕方になっていたが、一人の学生服を着た大学生が下宿に帰ってくるのに出会った。
 その学生は食事の時などに時々見かけていた。もちろん私は下宿の誰とも話しをするようなことはなかったので、親しくしている者はいなかった。
 その学生は私が本を積み重ねている所へやって来た。そして、
 「要らない本なの?好きなのがあったらもらってもいいかい?」
と親しそうに話しかけてきた。私は緊張して、
 「どうぞ・・・」
というのが精いっぱいだった。さらに、
 「何号室にいるの?」
とも聞いてきたので自分の号室だけをかすれ声で言った。
 すべての本を運び出すと、ゴミ置き場の前に大きな本の山ができた。何か苦情を言われはしないかと心配だった。ところが、ごみ収集までの二日間の間に本は全部なくなってしまった。通りがかりの人が次々と持っていったのだった。私は本が好きな人が多くいることを意外に思うと同時に少しうれしくなった。
 部屋の中に日常生活の必需品以外がなくなると三畳が広く感じられた。私は畳を箒で掃いた。掃きながら今までに箒を使ったことがあったかと考えたが、思い出せなかった。
 私は持ち物を整理している自分とそれを見ているもう一人の自分がいること感じていた。いつの間にか、生きてきた足跡を消そうとしている自分に、もう一人の自分が、
 「人は死が迫ると身辺整理をするものだ。いよいよ、本当に死の時が来たね」
と言い聞かせていた。
 日曜の昼すぎだった。私の部屋のドアをノックする音がした。私の部屋に誰かが来ることはまれであったので緊張した。恐るおそる開けてみると先日、ごみ箱の前で話しかけてきた学生だった。
 「ちょっと部屋の中で話をさせてもらってもいいかい?」
といって入ってきた。下宿して以来二年半ほど経つが、管理人と家族以外の者が私の部屋に入ってきたのはこの学生が初めてであった。学生は、
 「食堂などで君を見掛けていたけれど、いつも、苦しそうにしているので、元気を出してやろうと思って来たんだ」
とさわやかに言った。
 名前は武田といった。島根県から出てきていた。私と同じ年で、私とは違う大学の三年生だった。昼間は市役所でアルバイトをして夜間の大学に通っていた。私とほぼ同じくらいの小柄な体であったが、若さに満ち溢れていた。顔は小ずくりで目は澄んでいて、迷いのないスッキリとした表情だった。
 私の都会人に対する悪印象の人間とは全く別だった。私は他人と目を合わすことができなかったが、この学生に対してはまともに目を見ることができた。その目は、私の異常な精神も肉体も受け入れてくれるような太っ腹な優しさを漂わせていた。私は同年であったが、この学生を武田さんと《さん》づけで敬意を込めて呼ぶことにした。
 武田さんは私が言葉を発するの待ってくれた。私は大阪弁などしゃべれるわけがなかったし、愛媛県南伊予地方の方言で話すしかなかった。私が方言を気にしながら小さな声で話していると武田さんは時々、「オーダケーノー!」と大声を出した。それは武田さんの出身地の方言であった。私に、方言など気にせずに大きな声でしゃべればいいんだ、と励ましてくれているのだった。
 会話を重ねながら私は小学五年生以来、まともに友達とゆっくりと話をする機会もなかったのを感じた。そして、父との勉強会が始まるまで、友達と遊ぶのが何よりも楽しかった頃の感覚を思い出した。
 はるか昔に忘れて、再び体験することはないと思っていた友達と会話をすることの楽しさを味わった。心が新鮮な感動に蘇生するような気持ちになった。それだけに私は、これまでの生きてきた道、そして今の状態や気持ちなど正直に話すことができた。もちろん、そんなことを他人に話したのは初めてだった。
 武田さんが部屋に来た一番の理由は、私にボランティア活動を勧めるためだった。武田さんは高校時代から地道にボランティア活動を続け、大学に入ってからも学校やアルバイトの空いた時間には、自分の休んだり遊んだりしたい時間をすべてボランティア活動に注いでいた。武田さんは、
 「大和田君は、僕なんかよりも頭もいいし、自己分析も深くできている。だけど苦しんでいる。その原因の一つは、大和田君の話を聞いて分かるのだけれど、視線がすべて自分の内面へ向けられているところにあると思う。一度、自分の視線を他人の方へ向けたら、新しい生きる方向が見えてくるかもしれない。それがボランティア活動だよ」
と確信のある声で言った。その言葉の響きの中に、私を何としても元気にしてやりたいという思いやりが痛いほど感じられた。赤の他人からこのような友情を受けようとは思ってもみなかった。うれしかった。
 私にとっては、ボランティアなど、とんでもない話だった。ひたすら、部屋にこもって書物の中に逃げるか、死に場所を求めてさまよう私に他人のために尽くすボランティアは全く無縁のもので、できるはずのないものだった。私の最も避けたい活動だった。自分の基本的な生さえもてあましているのに、他人の助けになるなどとは、考えてもみなかった。
 しかし、武田さんの思いを感じた時、ここで断るのは人間のすることではないように思えた。私は、
 「何をするのか全く分かりませんが、とにかく付いて行きます」
と答えていた。
 次の日曜日、武田さんが誘いに来てくれたので、何も分からないまま付いて行った。ボランティアというと、何か大きな災害でも起きた時に、困っている住民の方を助けてあげる、というようなイメージがあった。
 確かにそれは一つの活動であったかもしれないが、日常的には地味なさまざまな活動が多くあった。その中で特に武田さんが大阪に来てから取り組んでいたのは、高齢者への訪問激励だった。
 田舎のように、何世代もの家族が一緒に生活したり、近くに住んでいるのと違って、都会では核家族化して高齢者夫婦だけ、あるいは高齢者の単独世帯という人が増えてきていた。そういう家を回って、会話を交わしている中で元気付けてあげたり、できることがあればしてあげようというものだった。
 武田さんは大阪に来て以来、学校の講義がある時には日曜祝日の日を中心に回り、大学が休みの時には平日の夜にも家庭訪問していた。
 地域は、地元周辺はもちろん、高齢者の多いところには関西一円どこにでも行っていた。その数はすでに数百件にも上っていた。一度きりしか行かないというのはほとんどなく、何回でも同じ家に足を運んでいた。
 私には他人の家に訪問して話をするなどということができる訳がなかった。それで、ただ武田さんの後について訪問するだけだった。しかしそれが、私には大変な勇気を心の底から引き出さなければできないことだった。それに比べて武田さんは慣れたもので、まるで親戚の家にでも行くようだった。
 訪問するとほとんどの方が非常に喜んでくれるのには驚いた。私もうれしくなった。武田さんも私も学生服を着ていたので、初めての家に行っても
「大学生のボランティアですが、高齢者の方の話を聞かせていただきたくて来ました」
というとほとんどの方が機嫌よく家の中に上げてくれて、長時間さまざまな話をしてくれた。もちろん、ボランティアという言葉はまだ一般的ではなく別の表現でいろいろと説明はしなければならなかった。
  
(七)ボランティア
 武田さんがボランティアとして出掛ける時はほとんど一緒に連れていってもらった。私は活動を通じて自分の中に、今までの閉塞した自己と違って、外の世界へ働きかけられる新しい自己が生まれてきそうな気がした。
 それは自殺のことしかは考えなかった闇の中で、おぼろげながらも淡い希望の光のように思えた。もちろん単純なボランティア活動で、深い絶望の縁から這い上がれるなどとは思ってもみなかった。
 それでも武田さんと活動している間は自殺のことを考える余裕はなかった。人に会う緊張で、また、人と話す困難を乗り越えることで、必死であった。そして、訪問先の方に喜ばれて玄関を出ると、私の心の中にも未だかつてない性質の喜びのようなものが生まれて、こんな世界があったのかと半信半疑ながら感動した。武田さんはよく、
 「結局、人は人の中でしか生きられないよ。人の中に入れば、生きる意味が探せるのじゃないかな」
と明るく言っていた。
 二カ月ほど武田さんと一緒に回って、ボランティア活動の一端を知ることができた。武田さんは、
 「大和田君は、平日の昼間も空いているのだから、今度は僕がいない時にも一人で動いてみてよ」
と言って周辺地域の名簿を渡してくれた。名簿の人々は、以前に武田さんが訪問をしたところだった。この辺りは地方から大阪方面に働きに出てきた人たちが多く住みついた場所だった。その人たちの高齢化も進んできていた。
 私にとっては一人で初めてのところに訪問するなどということは、これまでの育ち方や性格から考えてもあり得ないことだった。それを武田さんはいとも簡単に「やれ」と言う。以前の私であれば、そんなことをするはずはなかったが、武田さんの期待に応えないわけにはいかないという気持ちが強かった。私は、
 「ハイ、やってみます」
と答えていた。
 翌日、平日だったので私は朝から一人で出かけた。初めに一駅、電車を乗った場所から訪問しようと思った。気が張っていたせいか、以前のように電車に乗っている人々の目を恐怖で見ることができないということがなかった。
 私は地図を見ながら勇気を奮い起こして最初の家を探した。それは文化住宅の立ち並ぶ一角にあった。玄関の前に立ったが、なかなかチャイムを押す勇気が出なかった。しばらくためらったが、私はまるで死ぬほどの決意でボタンを押した。
 出てきたのは八十前くらいの男の人で、来意を言うとまるで待っていたかのように家の中へ上げてくれた。戦争の話から息子夫婦や孫の話までさまざまな話をしてくれた。私もいろいろ聞かれたので、一生懸命に答えた。ただ、大学を中退したことは言わずにあくまでも現役の大学生として話をした。
 この家で二時間ほども話をすることができた。帰りがけには、是非また来てほしい、と言われた。私は、この人は話ができることを喜んでいるのだと思った。そして、私もまた話ができることがどれほど自己変革になっているのかを自覚することができた。
 この後、持参した昼の弁当を食べて夕方まで訪問した。何軒行っても慣れるということはなく、緊張の連続だったが、最初の家のチャイムが押せたことで、一つの大きな壁を乗り越えたような気がした。
 下宿に帰ってきた時には、達成感と何とも言えない充実した喜びのようなものがフツフツと心の中にわき上がってきていた。
 私は武田さんが夜学から帰った頃を見計らって彼の部屋に行った。私がノックすると、
 「オーダケーノー、大和田君の方から来てくれたか」
と歓迎してくれた。この日の一日のことを報告すると、我が事のように喜んでくれた。そして、
 「大和田君は早くもすごく変わってきたなぁ。ボランティアというのは実は他人のためのようで、自分のためでもあるんだよ。暗やみの中で、他人のためにと思ってともした灯は、自分の行く手も照らすようなものだよね」
と感心した面持ちになっていた。この後、二人で食堂に行き遅い夕食をとった。食べながらの楽しい会話に、ひょっとすると青春とはこんなものなのかと思った。
 私の生活は一変した。朝起きると弁当を持って周辺の町々に出かけて行った。そして暗くなってから下宿に帰り武田さんと一緒に遅い夕食をとった。電車賃は遠くても三駅程度で安かったこともあり、毎日通っても小遣いがなくなることはなかった。
 これまで昼夜関係のない生活をしていたから、毎朝起きるというのは大変に困難なことに思われたが、訪問して喜んでくれる人のことを思うと苦しいながらも不思議と起きることができた。また、その日のことを夕食時に武田さんに話すことを考えると、どうしても出かけなければならないと思った。
 毎日、朝起きて出かけ、暗くなって帰ってくるという生活は私の体を大変に疲れさせた。それで、夜は妄想に苦しめられながらも早めに眠ってしまった。一晩中眠られないことは何度もあったが、それでも朝になると無理をして出かけたので、その夜は眠ることができた。
 訪問先の方には何度行ってもたいてい歓迎された。私が大学生ということで、孫の勉強を教えてくれ、という人が結構多くいた。それでお孫さんの家に行くとその夫婦とも仲良くなった。
 口コミからか、あちらこちらと教えに来てくれという声がかかってきた。子供が学校から帰ってきて夕食までの間の時間はほぼ毎日、子供たちに教えることになった。教えながら私は、自分の知っていることを子供たちのために役立てることが、何とも言えない喜びを感じさせることを知った。ふと、父も私に勉強を教えながら喜んでいたのではないかと思った。なかには、家庭教師料を払うという人もいたが、
 「お金をもらったらボランティアにはなりませんから要りません」
と明確に断った。断りながら、自分は今までにこれほど明確に自分の意思を相手に言うことができたことはなかったと思い、さらに嬉しくなると同時に自分に少し自信が持てるような気がしてきた。
 私は自分で自分が大きく変わってきているのに驚いた。わずか数カ月の間に、人間はこれほども変われるものなのかと思った。そう思うとさらに私のボランティア活動には熱が入っていった。
 半年が無我夢中のうちに過ぎた。これほど忙しく、充実した緊張感を持ちながら日々を過ごしたのは生まれて初めてのことだった。
 初冬の昼下がり、この日は子供の都合で勉強会がなかったので早めに下宿に帰ろうと思った。よく晴れていた。空を見上げると大阪には珍しく澄んだ青い空に所々に真っ白な雲が浮かんでいた。下宿に近い所にある畑には所々に大根が茎を伸ばして残っていた。
 私は歩きながら不思議な感覚に襲われた。まるで、長年の間の冬眠から覚めたような気持ちだった。また、人間が蛇などのように脱皮できるものだとしたら、脱皮して生まれ変わったような感覚だった。心の中に生命力溢れる朝日が上り、澄み切った天空の空と雲が心の中に取り込まれたような気がした。私は自然と微笑んでいた。
 この新鮮で幸福な感覚は一体どうしたのだろう、何が原因の恩恵なのだろうと考えた。あれこれ考えるが思い当たらなかった。下宿の玄関が近づいた時、ハッと気が付いたことがあった。それは、忙し過ぎて薬を飲むことを忘れていたことだった。
 思い返すと、少なくともこの一週間は全く薬を飲んでいなかった。それ以前も、一人で活動するようになってからは、疲労や緊張や忙しさのため、しばしば薬を飲むのを忘れていた。
 私は、走って下宿の玄関を上がり自分の部屋に入った。そして、残っている薬の量を調べた。間違いなく不自然に大量の薬が残っていた。私はその薬を両手で思いっきり潰してボールのようにし、また玄関へ走った。そして外へ出ると大きなゴミ集積箱の中に有らん限りの力で投げ捨てた。それから、心の中で大空に向かって何度も両手を挙げて万歳をした。
 高一の時より飲み始めた薬だった。三日も飲まなければ錯乱状態になって死ぬか、殺人を犯すか分からない危険な状態になった。薬を止めるということは死を意味していた。生きている為には薬を飲み続けなければならなかった。そんな薬を一週間以上飲まなくても生きることができたのだった。私は、それが信じられなかったが、事実であると受け入れると、言い知れぬ喜びがわき上がってきた。
 私はこの時以来、通院するのを全く止めた。それで薬も一切、飲まなくなった。しかし、これで病気が完全に治った訳ではもちろんなかった。むしろ、精神疾患との本格的な戦いはこの時より始まったとも言える。
              (下に続く)