大和田光也全集第5巻 
『心の音』
 
 『MJ無線と実験』(成文堂新光社)
 1996年6月号掲載

【少年に帰る】
 
 人は年を取ると幼いころに返るといわれる。それは徐々に変化するものではなく、何かある事をきっかけに進むようだ。
 今年2月の初旬に胆のうの摘出手術を受けた。
 術後の養生に2週間ほどの休みを、職場の同僚に無理を頼んで取ることができた。仕事のことを全く気にせずに休めるのは働き始めて以来20数年ぶりだ。
 休みの間、どういう訳か無性にアンプに凝り始めた。
 ずいぶん前からゆっくりレコードを聞くという余裕はなくなっていたので、アンプなどは、ほこりまみれになっていた。
 手持ちのアンプは1台のみ。山水製のもので、銘板には『MAINAMP-TYP・HF-6V6P』と刻まれ、昭和30年に製造されている。
 こう言っても「アー、あのアンプだな」と思いあたる人は誰もいないに違いない。これは、20年ほど前に勤務していた学校のLL教室を新しく改装するときに不要になったものだった。
 5Y3・6SN7×2・6V6×2のウイリアムソンタイプの配線になっている。
 電源を入れると真空管がのんびりと懐かしい灯りをともし始めた。それからレコードをかけると立派に音が出た。
 心が和む音質だ。もちろん、高域も低域も遥かかなたに霞んでいる。しかし、いつまで聞いても疲れない音だ。
 長男の最近のコンポの音などは1曲を聴き終えただけで苦痛に近いものになる。オーディオの新しい技術とは不快な人工的な音を作ることらしい。
 時間に縛られないのに任せて長時間レコードを聴いた。
 聞きながら、若いころ、さまざまなアンプを作ったにもかかわらず、どうしてこのアンプ1台だけを残していたのかが分かった。それは例えば、人が故郷に帰ったとき、懐かしさに心が満たされるのと同じであった。
 この音は紛れもなく幼少年期に聞いたものだったのだ。

【2A3に改造】
 
 数日間、アンプを鳴らしているうちに、触りたくなってきた。ラジオやアンプ作りに熱中していた少年時代が懐かしくなってきたのだ。
 あの頃、自分の心に最もぴったりと入り込んでくる音を出すアンプを作って気に入っていたことを思い出した。それは5球スーパーを潰してアンプ部分だけを組み直したものだった。
 6AR5を3極管接続にして、OPT2次巻線でカソードNFBをかけていた。
 当時の一般的なラジオの出力は1.5Wだったので、おそらくそのアンプは1W少ししか出なかっただろう。それでも永遠に聴き続けても飽きることはないような素晴らしい音に思えた。
 3極管とNFB。これこそ求めている心の音だと思って、それに沿うように山水のアンプを改造することにした。
 さらに、子供心にも持っていた音に対する信念『原音に近づくためにはシンプルに』ということも頭に入れて考えた。
 その結果は、出力段は2A3PPにして、ドライブは6N71本で、P-Gの位相反転にすることに決めた。
 本来はシングルにしたかったが、出来の悪い小容量のコンデンサーと抵抗の平滑回路のために、ハム音に泣かされたことが嫌な記憶として今でも残っているのでやめた。
 それに1.5Wを超えるのは夢であったので、それもかなえることにした。
 腹部の傷痕を押さえながら大阪日本橋に部品を買いに行った。
 戸惑うことが多かった。何よりも抵抗に数値が印字されていないのには閉口する。それにトランス類の高価なこと。
「あの頃、こんなに高かっただろうか、これでは半導体にかなわないはずだ」と、術後の痛い腹が立ってくる。
 それでも音質のことを考えると少々高価なOPTとフィラメント用は購入せざるを得ない。
 あちらこちらと歩き回って同じ品物でも安い物を捜し、ほぼパーツがそろった時には夕方になっていた。半日かかった。
 シャーシを裏返して、本当に久しぶりにハンダごてを持った。
 何とも言えない幸福感と安堵感に包まれる。
 無意味に幸せであった少年時代の感覚を再体感しているような気がする。あの頃と同じように時間が経つのを忘れた。
 配線は簡単なものだから、できるだけゆっくりと味わいながらやった。
 終わりに近づいて6N7へNFBの線を繋ごうとした。そして、アッと驚いた。6N7には足が1本なかったのだ。双3極管の2つのカソードが管内で接続されて1本になっている。
 しばらくいろいろ考えたが、OPTからNFBをかける他の方法が思い浮かんでこない。
 そういえば、こういうことで楽しく悩んだものだった。
「あの時のOPTはスピーカーにネジ止めされていた小さなものだったが、今度のは少々立派なものだから無帰還でいいか」
と自分を納得させた。
 完成して、少年のように胸をときめかせて灯を入れた。
 直熱管のフィラメントがぼんやりと明るくなった。
 レコードをかけ、ボリュームを上げると素直で温かい音が部屋中に広がった。

【真空管との出会い】
 
 小学校の高学年から電子関係に興味を持った。
 田舎の広い家の1部屋にさまざまな部品を集めて研究(?)に没頭した。
 最初は鉱石ラジオだった。1~2mmの石1個を通すと音が聞こえてくるのが不思議でたまらなかった。
 屋根の上に針金で長いアンテナを張り、船舶無線を聞いたりもした。
 自作の鉱石ラジオを持って、かなり距離のあった山頂の電波中継所を何度も往復した。
 そこへ行くと、クリスタルレシーバーから大きな美しい音が聞こえた。
 耳元でアナウンサーがしゃべり、レコードが掛けられているような気持ちになった。
 もちろん5球スーパーは家にあり、それにもイヤホン用の端子は付いていたが、そこから聞く音と中継所のものとでは天地雲泥の差があった。
「音の電気信号は通過する物質が多くなればなるほど原音から遠ざかる」
 これが小さな頭を悩ませて出てきた結論だった。
 しかしいかんせん、中継所の巨大なアンテナから少し離れると音量が小さくなる。家ではいくらアンテナを大きくしても満足できるものにはならなかった。
 そこで、初めて真空管と実質的に出会った。
 そのころは、真空管式の携帯ラジオの出始めで、町に数台あるかないかであった。
 そのラジオの中に1T4という真空管が使われていることを知った。
 この球は1.5Vの乾電池でフィラメントがともり、B電源は積層の40~50Vの電池で作動した。
 父親に頼んで、町の電気屋に順番に電話をして探してもらった。
 そして何軒目かで1本だけ置いている店を見つけた。
 それを手にした時の喜びは、まるで大きな夢を手中に収めたようなものだった。
 すぐに作った1球式のラジオの音は素晴らしいの一言だった。そして、真空管を軽くたたくとキーンという音がレシーバーから聞こえてくるのも実に新鮮だった。
 ただ、積層電池は子供にはとんでもなく高価だったので、1回に少しの時間しか聞かないようにして大切にした。
「真空管とはなんて素晴らしいんだろう」
と感動し、のめり込んだことは言うまでもない。
 
【原音】
 
 2A3の音は昔作った1T4、6AR5の音に通じた。
 聴くほどに心が満たされていった。いい音だと思った。少年時代の信念は音響技術の発達した今も変わらないに違いないという思いになった。
 考えれば、いくらデジタル化しようが、楽器から音を拾うマイクなどはアナログでしかあり得ない。
 またもし、音源がデジタルであったにしてもスピーカーをデジタル信号で鳴らせば人間の音にはならない。
 もともと音とは当然ながら、音波の連続性を特性としたアナログだ。デジタル変換しなくても済むところはしないに越したことはない。
 どれほど技術がすぐれようとも、変換という過程には宿命的に音質劣化がつきまとう。それが証拠に、最高級といれるADコンバーターとDAコンバーターを6個ほど直列につないで、出てくる音を聞けば音質劣化は一目瞭然だ。
 理論と現実には、常に相反する部分がある。
 最も良い音とは原音だ。その原音にどれだけ近づけるかが技術だろう。
 そこで、不思議に思うことがある。
 それは例えば、1つのバイオリンが弾かれているとする。そのバイオリンは左右に音が分かれてステレオで鳴るのだろうか。
 また、同じ1本の弦が弾かれているのに、高音や低音が強調されたり、ツイーターとスコーカーのように2箇所から音が出てくるのだろうか。
 さらに1つのバイオリンが数10W相当の出力を出すのだろうか、ということだ。
 ある音楽家が現在の音楽状況について、
「与えられたものをそのまま受け入れ、自分は音楽愛好家であると思っている」
という意味のことを言っている。オーディオの近況も同じように思える。
 何時の間にか原音が原音から離れて、人為的、商業的に作られた原音になり、それを文句も言わずに受け入れているのではないか。
 デジタル青年の長男を呼んできて2A3PPを聴かせた。不思議そうな顔をして、
「このスピーカー、いい音がするなあ」
と言った。
 静養期間もそろそろ終わりに近づいた。腹部の痛みも特に脂っこいものを食べない限り、気にしなくて済むくらいになった。
 職場に復帰したら、今度は懐かしい心の音を聞きながら、職務に力を注ごうと思う。
                    (了)

  【奥付】
   『心の音』
    1996年6月発表
      著者 : 大和田光也(筆名)