大和田光也全集第7巻
『宮沢賢治 誰も書けなかった実像 改訂版』【上】
改訂版(はじめに)
若いころ、宮沢賢治の作品に触れた人はその後、年齢を重ねるにつれて再び、賢治の世界に帰りたくなる。その間には、現実の社会の中で紆余曲折を体験し、人生の哀歓を身にしみて感じたに違いない。
未来が開け、新鮮な感覚のある青少年期には、賢治の文学は、現実とか日本とか地球とかを超えて、宇宙にまで広がるような限りない世界を心の中に創造してくれる。
そして、人生の最盛期を過ぎて終焉(しゅうえん)を予感させるようになった時、賢治の文学は、限りない慰めと安堵(あんど)と望郷の念で心を満たしてくれる。望郷は、単なる具体的な故郷への郷愁だけではない。賢治における古里は、人がこの世に生まれてくる前、いわゆる前世の居住地でもあり更に、この世を終えてから行くべき世界でもある。言わば、生命の古里に対する望郷の念でもある。
これらは、人と人との絆が分断されがちな現代社会にあって、同じ地球人としての人間らしい結びつきとそこから感じられる、何物にも替え難い共生感をもたらしてくれる。そして、普遍的な、人の心の古里に帰ったような気持ちになる。
だからこそ、賢治の作品は若い時も、年老いてからも多くの人から好んで読まれるに違いない。
こんな、時代を超えて幅広い読者に愛される作品を、どうして創作することができたのか。その重要な理由として、賢治が人間としての苦しみを誰よりも多く背負って生きてきたからだろうと思う。
「苦労した分だけ、読者の心が分かる作品が書ける」と言えるだろう。
例えば、白鳥は湖面を軽々と優雅に進んでいるが、水面下では両脚を休みなく動かしているようなものだ。表からは見えない脚の労苦のおかげで、水上の悠然として優雅な姿が出来上がっている。
賢治文学の素晴らしさも、穢土(えど)と言われる現実の中で、純粋な信仰を保とうとする苦しみの上に成り立っていると言える。その苦しみが筆舌に尽くせないほどのものだったからこそ、多くの人々に感動を与える作品となったに違いない。
もとより、賢治研究の観点はさまざまある。大きく分ければ一つは、水上の白鳥の美しさに例えられる作品の世界。二つは、水中で必死に動かす脚に例えられる現実社会の苦悩。三つは、この二つの関連性になるのではないだろうか。
賢治研究はほとんど、到達点にまで達しているわけで、よほど重要な新しい資料でも出ない限り、新説が出てくる可能性はないと思える。しかし、それらの研究成果を俯瞰(ふかん)的ながらも目を通してみると、掘り下げられていない観点があることに気がつく。それは、現実社会の苦悩の範疇(はんちゅう)ではあるが、現実と信仰との相克である。
もちろん、この観点に焦点を当てた研究はある。しかしそのほとんどは、賢治の信仰の本質にまで掘り下げた上で論じたものではない。どうして表層的にならざるを得なかったのか。それは、研究者が、賢治が信仰した法華経や日蓮仏教について、浅い知識と理解でしかなかったから、といえるだろう。だから、現実と信仰との悩みがどのようなものだったのか、その本質を把握することができなかったのだ。
幸い私は、仏教系の大学に進み、文学と仏教の両方を学ぶことができた。卒論には、『日蓮遺文の研究・文学との接点』というテーマで研究した。
また、賢治文学には、多くの人たちと同じように私も青春時代から現在も魅了され続けている一人だ。今、手元に『宮沢賢治全集』(筑摩書房)がある。奥付を見ると、《昭和四十五年三月二十日初版第四刷発行》と書いている。昭和四十五年といえば、貧乏学生のころだ。お金に余裕などない時に、これだけ高価な全集がよく買えたものだと思う。それだけ賢治が好きだったのだ。
賢治文学を愛するがゆえに、賢治の真実の苦悩を感じたい。そう思って、何度も作品を読み返しているうちに、法華経と日蓮仏教そして賢治文学、この三者を深く理解して初めて、賢治の真実の姿が把握できることに思い至った。そこで、《誰も書けなかった実像》という少々、誇大広告的な副題をつけて、一書にしようと考えた次第である。
本書により、賢治を愛するすべての人々に新たに、賢治文学と賢治の人間性により深い理解が進み、もう一歩、真実の賢治の実像に迫ることができて、さらに賢治への憧憬の念が増す手助けになれば、と思っている。
なお、本書の引用文については、『宮沢賢治全集』(筑摩書房)からのものは(賢治)、日蓮遺文からのものは(日蓮)、法華経からのものは(法華)と表記している。
また、読みづらい漢字が多々出てくると思うけれど、読み仮名を付けると逆に煩雑になるのでほとんど付けていない。漢字が読めなくても文意は充分に通じるので、気にせずに読み進めていただきたい。
最後に、読者の皆さんのご健康と活躍、そして、今世(こんぜ)の人生が所願満足になるようにと祈りつつ。
二千十四年初秋 狭い作業室にて 筆者
初版(はじめに)
宮沢賢治の研究や資料は出尽くしている感がある。それだけ、人気のある文学者であることを証明しているわけで、賢治フアンにとってはうれしい限りである。
ただ、それらの書籍を読むにつけ、一点だけ研究の対象部分が抜けているところがあることに気がつく。それは、賢治における法華経信仰と日蓮信仰の相違である。賢治は若い時に法華経に出会い、体が打ち震えるほどの感動を感じ、以来、法華経信仰に進んで行く。やがて、日蓮の仏教に出会い、生涯の信仰の根本となる。この釈迦の仏教である法華経から日蓮の仏教への移行は彼の内面においてはどのような変化をもたらしたのだろうか。この部分は賢治の文学、人間を把握する上で非常に重要な意味を持っている。一面からいえば、賢治における法華経と日蓮仏教の相違が理解できていなければ、真実の賢治理解には至らないのである。
賢治は亡くなる数時間前、南妙法蓮華経と題目を喀血するなか合掌して唱えた。そして父親に遺言として、法華経一千部を作って知己に配ってほしい、と言い残してから息を引き取った。法華経は釈迦の仏教であり、南妙法蓮華経は日蓮仏教である。この臨終における賢治の言動こそ宮沢賢治という一人の人間の、生と文学を理解する最大のポイントになっている。どうして、南妙法蓮華経と唱えなければならなかったのか。どうして、法華経を印刷して知り合いに配らなければならなかったのか。理由は簡単なように思われがちだが、実は彼の心の深淵に触れる要因をはらんでいるのである。
ひとつのヒントを示せば、日蓮は本地(本心)において、法華経を広めよ、などという教えはまったく残していないのである。それなのに、法華経を配布して欲しいと遺言したのは何故か。このあたりの研究がいわば、賢治研究の空白部分となっている。
研究し尽くされたと思える賢治にどうしてこのような空白部分ができたのだろうか。答えは簡単である。非常に困難を要するからにほかならない。
法華経二十八品は釈迦仏教の眼目である。八万法蔵といわれる膨大な仏教の集大成であり、その背後には壮大な法門の山脈が続いている。伝教はこの深淵な法華経の解釈について厳しい注意事項を残している。それは、
「雖讃法華経還死法華心」(法華経を讃すと雖も還って法華の心を死す)
という文である。釈迦の死後、仏教を知ったかぶりの者が多く出てきて、法華経を自分勝手に都合のよいように解釈して、一見、法華経の素晴らしさを主張しているようであるが、実際には釈迦の真意とはかけ離れた内容のものなので、結果的に人々に法華経を誤解させることになり、法華経を説いた釈迦を否定することになる、という内容である。
現在、法華経についてのさまざまな解説書が多く出版されている。それらのほとんどがこの伝教の警告に反しているものであるといえる。法華経を利用し、歪曲した解釈をして自己主張、自己宣伝をしているに過ぎないものである。そして、その作者の多くは、この伝教の警告を自分こそが釈迦の真意にそった法華経の解釈をしているということの証明に使っている。千年以上も前の伝教はまさか、自分の、釈迦の真意を守ろうとして残した言葉が、逆に邪な解釈をした人間の正当性を証明するために使われるとは思ってもみなかったであろう。末法の五濁悪世(ごじょくあくせ)の人間の心の濁りがこれほどひどいものとは予想ができなかったのかもしれない。
ある意味で言えば、法華経が分かれば仏教が分かる、といえるだろう。それだけに、釈迦自身も言っていることが、完全な理解をするには非常な困難を要する。一人の研究者が、生涯をかけて取り組んでもなお完全な理解には至らないものである。もし、理解したというならば、それは増上慢になり、分からないといえば懈怠謗法(けたいほうぼう)となる。
賢治は、このような法華経に若いころに出会い、その素晴らしさに感動する。それ以来、徹底して法華経の研究を行った。その結果、経文のほとんどを暗記していた。賢治の法華経の理解は、非常に深いものであったといえる。残念ながら、賢治研究者のほとんどは法華経の理解が賢治のレベルにまで及んでいない。
法華経についてはまだ一般的であるが、日蓮遺文となると研究者は非常に少ない。賢治の人と文学を正確に理解するためには必要不可欠な日蓮仏教の研究が深められていないのは不思議としか言いようがない。研究者の多くが、難解な日蓮遺文の研究から逃げているとしか思えない。賢治は、分厚い日蓮遺文集がボロボロになるまで勉強をしている。そして重要な文についてはこれもまた多くを暗記していた。さらに、本尊の図顕まで試みている。賢治研究者のほとんどと言ってよいほど、法華経よりもさらに、日蓮仏教の理解が賢治の域には達していないのである。
釈迦の法華経と日蓮仏教とに共通する理解の困難さは、西洋的学問の方法の限界にあるといえる。例えば初等数学のように一つ一つの事柄の理解を積み重ねていけば、全体像が分かるというものではない。このような帰納的分析的な方法では把握することができないものである。研究者の多くが、いつのまにか西洋的研究の方法論でしか事象の把握ができないという偏狭な観念に惑わされているといえる。法華経も日蓮仏教も東洋哲学である。それを理解するためには東洋的方法論によって研究しなければ、釈迦や日蓮の真意から離れてしまうことになる。
釈迦は法華経譬喩品に
「以信代慧」「以信得入」(法華)
と記している。この部分は、非常に学識に優れた釈迦の十大弟子の一人である舎利弗でさえ、法華経を理解するためには、学識では到達すことができなくて、信をもって初めて、法華経の世界に入ることができることを述べている。
また、日蓮も
「慧又堪ざれば信を以って慧に代え、信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり」(日蓮)
と記している。ここでいう「慧」はいわば、西洋的学問研究の方法である。それに対して「信」というのは東洋的、演繹的な研究方法であるといえる。法華経にしろ日蓮仏教にしろ、学問研究の方法論を次元を変えて見直さなければ把握することができない。そうしなければ賢治研究は真実から離れたものとなってしまう。
さらに、賢治研究の大きなポイントになるのは、賢治が、釈迦の法華経と日蓮の仏教との関係をどのように捉えていたかである。彼の、死を目前にしたときの言動になってくるわけだが、ここに賢治の人と文学の本質が内包されている。
このような観点は、重要な研究分野であるにもかかわらず、これまで本格的な研究がなされずに、空白部分として今も残されているのが現状である。本稿は空白部分に切り込み、真実の姿を明らかにしようとするものである。
2009年10月20日 筆者
目次
(はじめに)
第Ⅰ章 【成】
(一)釈迦の法華経への信仰
(二)法華経理解の深まり
(三)法華経の修行
(四)法華経と日蓮仏教の関係
第Ⅱ章 【住】
(一)日蓮の捉え方
(二)仏と凡夫
(三)本尊
(四)仏道修行
(五)唱題行
(六)折伏行
第Ⅲ章 【壊】
(一)祈り
(二)仏国土
(三)雨ニモマケズ
(四)不軽菩薩
第Ⅳ章 【空】
(一)仏教文学
(二)「春と修羅」序
(三)信仰の行方
(四)文学の行方
第Ⅰ章 【成】
(一)釈迦の法華経への信仰
「釈迦の法華経」というように、「釈迦」をつけているのは、法華経にはいろいろ種類があるからである。例えば法華経の本文の中においても、
「威音王仏先所説法華経」「皆号日月灯明於其法中説是法華経」(法華)
とある。威音王仏の時代に説かれた法華経もあれば、日月灯明と名付けられた仏の時代にも法華経が説かれている。この二種の法華経と釈迦の法華経とのそれぞれの間の時間的隔たりは共に気が遠くなるほどの時間的経過がある。当然、表現方法は全く違っていたと考えるのが妥当である。それなのに、釈迦は同じ法華経という名前をつけている。だから、法華経と言うのは、ある特定の経文のみを指すのではなくして、「永遠不変の真理」という意味で使われているのである。そして、その真実を表現する方法としてはそれぞれの時代社会に応じたものが用いられると考えればよい。
また、日蓮遺文においても同じ法華経という言葉が、さまざまな意味に使われている。例えば、
「何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(日蓮)
と書かれているところがあるかと思えば、
「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(日蓮)
と書いているところもある。同じ法華経でも全く逆の意味に使われている。こういう表現をしているところは日蓮遺文集には非常に多くある。ひとつの例をあげると、
「人身は受けがたし爪の上の土、人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(日蓮)
とあるかと思うと、
「命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも、これを延るならば千万両の金にもすぎたり」(日蓮)
と書かれている箇所もある。これらの文が矛盾と思えるのは、日蓮仏教の本質が理解できていないがゆえである。日蓮遺文集を読むとき、このような矛盾した表現をどのように捉えるのかということが、最重要の課題である。
釈迦の法華経においては、漢訳されたものが三種類ある。その中で最も一般的なのは、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の妙法蓮華経である。法華経は釈迦が印度で説法したものを彼の死後、弟子たちが集まって梵語で書き留めたものである。それを漢訳した者は何人かいたが、鳩摩羅什がよく知られている。後に賢治が心酔した日蓮も
「月支より漢土へ経論わたす人一百七十六人なり其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れぬ人にては候へ」(日蓮)
と書いて、鳩摩羅什の翻訳を信頼している。
また、通常、法華経と言えば『妙法蓮華経並開結』を指すので、本書においても単に法華経と表現することにするが、賢治が目にしたものは妙法蓮華経である。
賢治は十六歳の時、
「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候。もし盡くを小生のものとなし得ずとするも八分迄は会得申し候念佛も唱え居り候。佛の御前には命をも落とすべき準備充分に候幽霊も恐ろしく之無く候」(賢治)
と書いている。彼は幼いころより周囲の大人たちの影響で、信仰深い少年として育っている。この二年ほど後に、法華経と出会っている。法華経を読んだ彼は、感動、歓喜して体の震えが止まらなかった。それを
「太陽昇る」(賢治)
とも表現している。
二十歳前の賢治が、いくら仏教的素養があったにしても、「難信難解」(法華)である法華経を読んで、内容を深く理解して感動したとは思えない。この段階での賢治の法華経に対する理解は、信仰心を呼び覚ますには十分であったが、理解の程度は浅いものであった。
法華経は四百字詰め原稿用紙に換算すれば、百五十枚程度である。そのうえ、何度も同じ内容を少し表現を変えて繰り返している箇所が非常に多いので、実質的には百枚くらいの短いものである。また、訓読するのも大学入試程度の漢文の学力があれば十分できる。後は漢字の意味さえ分かれば書かれている事柄を理解することはできる。使われている漢字もそれほど特殊であったり、難解であったりするものは少ないので、比較的容易に全文を読み流すことができる。
賢治が読んだのも国訳妙法蓮華経であったので、若い彼も読んで歓喜することができたのである。
法華経は大部分が対話形式で書かれている。表現されている情景は表面的にみれば、まるで童話のようである。ただ、スケールが異常に大きい。時間的には過去現在未来と永遠の流れを内包し、空間的には無限の宇宙空間へと広がっている。読む側の解釈によっては、どのようにでも捉えられる要素が大きい。まさに「雖讃法華経還死法華心」と伝教が心配した通りの経典である。
具体的内容は、原理的SF小説とでも言えるようなものである。例えば、釈迦が説法する場面を描くのに、聴衆が膨大な人数、六万恒河沙であったりする。ガンジス河の砂粒の六万倍の人数である。常識的には聴衆の最後が見えないほどであるから、拡声装置のない当時、釈迦の声が遠くまで届くわけがない。
あるいは、空から花を降らせたり、釈迦の説法の正しさを証明するために聴衆が舌を天空にまで延ばして全ての毛穴から光を放ったりする。また、説法の途中で、大地の中から、菩薩を湧出させたりする。さらに、全く移動せずに釈迦の一念心によって、場所を霊鷲山会から空中に存在する虚空会に転換したりする。
若い賢治が読んで感動したのは、いくら幼い頃から親に連れられて仏教講話などを聴きに行っていたとしても、正確に「法」を理解したうえでのものではない。彼は法華経に溢れている、自己と他者への救済の慈悲心に、求めていたものを発見し、またその表現の、どのような文学作品をも凌駕(りょうが)する豊かさ、広さ、深さに感動したといえる。そして彼は、法華経と出会った時、生涯の宝物を得ることができたと歓喜したのである。
法華経と賢治の作品、特に童話と比較した場合、驚くほど相似しているのに気づく。相似しているというのは、表面的に真似をしているというのではない。法華経で表現されている世界の広大さ、深さ、多次元さはそのまま、賢治童話の世界であるということである。そこでは、自然や動植物が人格を持ったり、宇宙空間を自由に飛び回ったりと、科学的常識の範疇を超越した世界が繰り広げられているが、単なる気まぐれの不合理な世界ではなく、明確な「法」に基づく厳格な世界になっている。一見、何の法則性もない自由な世界のようであるが、
「三千羅列厳しきなり」(日蓮)
といわれる森羅万象すべてのものの存在の法則性に則とったものである。その法則性とは釈迦が法華経を通して述べようとしたものであり、賢治の作品の原点でもある。
また、宇宙と自己との関係性について、彼の詩や書簡からうかがわれる宇宙観は法華経に説かれている内容そのものである。宇宙即我、我即宇宙は法華経の人間存在の捉え方の根本をなしているものである。「即」は単なる等価記号ではなく、宇宙と我とを一体化せしめる「法」の存在を自覚することを意味している。そしてこの一体化の感動も、彼の文学作品の原点となっている。
賢治は法華経と出会った時、今まで漠然としていた求道の道が、余すところなく明瞭に示されていることに身震いするほどの感動を受け、やがてそれがその後の創作活動にも大きく影響したのである。
(二)法華経理解の深まり
賢治は法華経と出会い、熱烈な信仰心を起こすと共に教理的な研究も進めてゆく。彼の信仰姿勢は決して妄信ではなかった。初期の非合理的な、あるいは若さからくる情熱的な信仰心から、年数を重ねるごとに法華経を徹底して学することによって信仰を深めていった。
法華経に出会う少し前の賢治の仏教に対する信仰はどのようなものだったかというと、十六歳の時には、
「念仏者には仏様という味方が影のごとくに添ひてお守りくださる」(賢治)
と書いているように念仏宗に心を引かれている。そして十七歳の時には曹洞宗報恩寺に参禅して丸坊主にしたりしている。賢治は十八歳になって法華経を感動的に読むまでには、同じ仏教の中でも種々の遍歴があった。だから、法華経と他の経文との違いを十分に認識することができた。
彼の経文抜粋筆写のなかに、釈迦仏教の中での法華経の位置づけを示した経文が多く書写されている。それを見ると彼が法華経をどのように理解していたかがよく分かる。例えば、
「法華経方便品 正直捨方便但説無上道」(賢治)
と書写しているところがある。これは釈迦自身が法華経とそれ以前の経文との高低浅深を明らかにしているところである。正直に方便を捨てる、と書いているが、方便というのは法華経以前の経文のことであり、また仮(権)の教えということでもある。それ対して、法華経では、もっぱら無上道、この上のない最高の教えを説く。すなわち、法華経以前の経文には、真実の法門は説かずに、相手の状態に合わして説いたものであり、法華経こそが自分の最も言いたい真実を説いたものだというのである。さらに、次のように書写したところも見える。
「法華経方便品 唯此一事ノミ実ナリ 余ノ二ハ則チ真ニ非ズ」(賢治)
「此一事」というのは法華経であり、「余の二」というのはそれ以外の経文のことである。
「法華経譬喩品 但大乗経典ヲ読誦スル事ヲ楽ウテ余経ノ一偈ヲモ受ケズ」(賢治)
とも書いている。
大乗経典というのはこの場合は法華経のことである。ここの部分では、単に法華経が釈迦の説いた説法の中で最も優れているというだけではなくして、釈迦の真意が説かれていない法華経以前の経文をわずかでも信じてはならない、と厳しい戒めとなっている。賢治が法華経の信仰を深めていったのは、単にそれを読んでなんとなく感動したというのではなく、一時的にはそうであったかもしれないが、学問的に仏教を研究した結果、釈迦一代五時八経のなかで最高峰であると確信できたからである。
彼の法華経研究をさらに深めさせたのは、中国天台宗の開祖と言われる天台智顗(ちぎ)であった。天台は法華経から釈尊の真意を読み取るための解説書を書いた。それが天台の三大部である摩訶止観、法華文句、法華玄義である。これらについても賢治は、さまざまな箇所に、重要な文献として内容の一部を書写している。それにとどまらず、摩訶止観の注釈書である、天台宗中興の祖、妙楽が表した摩訶止観輔行伝弘決さえも引用している。こうしてみると、賢治の法華経研究は正当な流れの中で真正面から取り組まれたといえる。
それでは法華経の本質、釈迦の真意は何であると賢治は感得したのか。賢治が書写した中に、
「一念三千ノ観ヲコラス」(賢治)
という部分があるが、これこそ天台が法華経の本質として表した「一念三千の法門」である。それがまた賢治の法華経理解の根本でもあった。
一念三千というのは、宇宙森羅万象の一瞬の存在を三千という切り口から把握したものである。三千というのは、一つは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏という十種類の状態すなわち、十界の捉え方である。二つには、十界それぞれにまた十界を具足している。これを十界互具という。互具という捉え方は、十界はそれぞれ固定的に変化しないものとして捉えるのではなく、十界は自由に別の界へと移動する内的可能性を備えたものとしての把握である。これで、十×十で百界となる。三つには、
「所謂諸法 如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」(法華)
という十如是である。十界が存在の内面的な切り口であるとすれば、十如是は側面的なとらえ方で、時間的な観点も含まれている。これで百×十で一千となる。四つには、「衆生世間・五陰世間・国土世間」の三種類の世間である。これは過去、現在、未来という三世にわたる存在の変化相をとらえている。これで一千×三で三千となる。このことを天台は摩訶止観に、
「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千、一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す」(日蓮)
と述べている。この「一念三千の法門」こそ賢治は釈迦、天台と引き継がれてゆく仏教の、法華経の真髄と捉えていたのである。また、このような法華経の計算的な面を
「法華経入門ニ際シ 高等数学ニヨル解釈」(賢治)
と書いたりしたのである。
賢治の法華経理解は、若き出会いの時の情緒的な受容から、時を経るにしたがって、学問的な深まりを得ていった。やがてその理解は、法華経の本質にまで迫っていった。
(三)法華経の修行
「法華経の信仰をする」という表現は実は不適切なのである。なぜかといえば、法華経二十八品の始めから終わりまでどこにも信仰の具体的方法と対象を詳述した箇所はないからである。確かに釈迦が説く「法」の素晴らしさを賛嘆したり、その「法」を聞いて悟りを開いて仏になったり、後世において「法」の弘敎を誓願する場面はいたるところにある。しかし、賢治も引用している法華経の中で最も重要な部分である、
「我成仏して以来無量無辺なり」(法華)
と釈迦自身の成仏の因が明かされても、その因が何であるのかは述べられない。この文は、釈迦が外面的事実である、三十歳で菩提樹の下で悟りを開いたということを自ら否定をして、実は自分が悟りを開いたのは今世に生まれるはるか以前、五百塵点劫の過去においてである、と述べたところである。こうして釈迦は自分の成仏の真実を明らかにするのであるが、どのような「法」によって成仏したのか、その本体は明かされないまま法華経は終わる。
だから「法華経の信仰をする」といっても何を本尊として、具体的にどのようにすればよいのか分からない。単に、
「是の経を受持し読誦し解説し書写すべし」(法華)
という内容が法華経のいたるところに出てくるだけである。
その結果、あるところでは釈迦の仏像を作り、その前で法華経を読んだり、またあるところでは大日如来や菩薩像の前で読誦したりする。さらには墓標の前でさえ、ありがたい経文だからと言って唱えたりもする。また、法華経には当然、どの部分をどのように読誦せよとは全く指示していないので、全文を読んだり、あるいは一部分だけにしたりと勝手な状態にならざるを得ない。そして、唱える時刻にしても朝なのか昼なのか夜なのか、それとも特別な時だけなのか、これらももちろん分からない。さらには、書写することが修行だと考えて、ひたすら法華経を写す者さえ出でくる。法華経は、さまざまな勝手な解釈が可能であるようにまた、修行方法についても勝手な方法を考え出させるものなのである。
現代の僧侶が釈迦像を建立してその前で法華経を読誦しているのを、もしも釈迦が目の前にしたとしたら、「あなた方は一体何を勘違いしているのですか?」と開いた口がふさがらないに違いない。第一、釈迦は、末法において自分の姿を像にして作ってそれを拝め、などとは、法華経のどこにも説いていない。また、単純に考えても、釈迦が「読誦せよ」と言った経文は、サンスクリット語である。釈迦が生きていた時代にはまだ文字や記載方法はほとんど発達していなかった。釈迦は苦悩に沈む人を目の前にして、何としても救済したいとの思いで、仏教を説いていった。あるいは、人々の救済の教えを真剣に求める弟子たちを前に、説法をした。いずれも、言葉として発声されたものであった。それを弟子たちが釈迦の死後、師匠の教えを思い出しながら仏典として完成させたのが仏教経典である。とするならば、当然、釈迦が「読誦せよ」と修行方法を教えてくれた経文は、サンスクリット語にほかならない。
戦後しばらくして、カバーポップスというのが出てきた。欧米の流行歌を日本風に歌ったものである。それらの多くは、音楽はそのままにして、歌詞を音楽に合わせて、正確ではなかったが、歌いやすいように和訳したものだった。これであれば、音楽的要素は、作曲者の意図の通りに伝わってくるし、作詞者の思いにしても、大筋は表現されることになる。
それに対して法華経の読誦はどうなるのか。読誦という修行の重要な要素は、声に出して発することによって生じる音楽性である。簡略にいえば、カラオケで歌を歌う場合、その歌詞を伴奏なしに棒読みしたとしたら、読む方も聞く方も楽しくもなければ、満足もしないだろう。カラオケで歌って楽しいのは、歌う方も聞く方も音楽的要素によって心が動かされるからである。これは読誦にも共通していることである。釈迦が「読誦せよ」と教えたのは音楽性の、人の心に及ぼす働きを重要視しているのである。そう考えると漢訳の法華経は、サンスクリット語を音写、発音に合わして漢字の意味は無視して当てはめる、日本の万葉仮名のような訳し方をしているところはほとんどないので、音声的には釈迦の法華経とは似てもにつかないものになってしまっている。さらに、鳩摩羅什も音楽性も考慮しながら翻訳したわけだが、日本では漢字を日本語の発音で読んでいる。それは本来の中国語の発音でもない。鳩摩羅什の意図した音楽性とも全く異質なものになってしまっている。
さらに、日本人が経文を読誦する場合、大抵、その意味が分からないまま読んでいる場合が多い。もし、仏教の勉強をして経文の意味をある程度理解していたとしても、実際に声に出して訓読みではなく音読みをしている場合は、ほとんど書かれている内容を意識することはない。厳密にいえば、何語か不明な日本独特の発声をしているにすぎない。そうすると、カバーポップスの例でいえば、演奏も原作者とは全く違い、言葉も原作者とは関係のない意味不明なものをありがたがって、唱えていることになる。釈迦が見たらあきれるに違いない。
このように、法華経をどれほど読んだとしても、そこから釈迦が意図した真実の修行の具体的な方法はどこからも出てこない。これは大きな謎といえる。
また、法華経を広めることの困難さを
「若以大地 置足甲上 昇於梵天 亦未為難 仏滅度後 於悪世中 暫読此経 是則為難」(法華)
と書いている。足の爪の上に、広大な大地を乗せてそのまま、大空に上って行くのは難しいことではない。それよりも、仏が亡くなった後、悪い世の中で、少しでも法華経を読むことの方がさらに難しいのである。という内容である。法華経見宝塔品には、このこと以外にほとんど不可能に近い事柄を述べた後で、それらは難しいことではなくしてそれ以上に法華経を読んだり書いたり人に聴かせたりすることは難しい、という例えが大変多く繰り返し書かれている。
さらに、法華経を行じることによって非常な迫害を受けることをも書かれている。
「有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍」(法華)
「説是語時 衆人或以杖木 瓦石而打摘擲之」(法華)
これらは、末法において法華経を修行すると、人々からは悪口を言われ、暴言を吐かれ、杖や刀でたたかれたり切られ、石や瓦を投げつけられるというのである。賢治はこれらのことを読むにつけ、納得できないものを感じた。なぜなら、当時彼が、法華経を書写、読誦しようが、あるいは、法華経の信仰を誰かに勧めたり、法華経をプレゼントしたりしても、釈迦が言ったような困難も迫害もないからである。それは逆に言えば、釈迦の真意の通りに修行をしていないことを意味していることに彼は気がついていた。
敷衍(ふえん)して言えば、現在でも法華経についてさまざまな解説や出版をしている者のなかので、釈迦が法華経の中で予言した通りの困難と迫害を感じ受けている者は皆無に近いだろう。「雖讃法華経還死法華心」との伝教の言葉通り、それぞれが自分に都合のよい解釈をしているものがほとんどなのである。
法華経を信仰し、修行するということのなかには、このような根本的な課題が存在しているのである。賢治は法華経への信仰心が増すにつれて、この法華経修行の不明確さに行き当たり、それを見事に乗り越えさせてくれる日蓮仏教へと進んでいったのである。
(四)法華経と日蓮仏教の関係
賢治が若い時より信仰のよりどころとした法華経と人生の後半のすべてを捧げるような信仰実践を貫いた日蓮仏教との関係は、彼の人生と文学を理解するうえで極めて重要なポイントになる。彼は法華経と日蓮仏教との違いと関係性に非常な注目を寄せていた。そしてこの点について自らの人生を賭けるような情熱を持って研究したのである。その結果、彼は日蓮遺文のなかから明確な結論を得ることができたのである。日蓮は、
「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(日蓮)
と書いている。さらに、
「仏滅後、二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも、いまだひろめ給わぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(日蓮)
とも書いている。日蓮は、末法においては釈迦の法華経は効力を失い、日蓮仏教の南妙法蓮華経のみが人々を救うことができる、と言っている。また、日蓮は今まで誰人も広めることのなかった法華経の本源であり、諸仏の根本である仏教を最初に広めたのであるとも言っている。
ここで、明確に日蓮が述べていることは、日蓮仏教と釈迦の法華経とは本質的な相違があり、その関係性は、釈迦が法華経を表すことができた根源が日蓮仏教であるということである。簡略にいえば、釈迦と日蓮は時代は逆行するが、日蓮仏教という根源の根があり、そこから出てきた枝葉が法華経であると関係付けている。だから、日蓮仏教という根があったからこそ法華経という枝葉が茂ることができたのであり、別の面からいえば、法華経という枝葉は、日蓮仏教という根が存在していることの証明にもなっている。また、
「一念三千の法門は但法華経の本門、寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親、知つてしかも、いまだ、ひろいいださず」(日蓮)
とも書いている。今までだれも現出させることができなかった仏教の根源を日蓮が創出したのである。
どうしてこのような解釈が成り立つのか。それはやはり賢治も法華経について最後までこだわったであろう、末法における明確な修行方法を明らかにしているかどうかに関わっている。
法華経は釈迦の悟りの本質を、これまでは成仏ができないとされていた女性や二乗(声聞・縁覚)の成仏の可能性を明かすなどして、仏教の普遍的な哲理を表した。しかし、それはまだ原理的な理論が述べられたにすぎない。
末法という名前をつけられた時代や社会の中で、実際に法華経を信仰する場合にどのような実践をしたらよいのか、具体的な修行方法は書かれていないのである。
釈迦自身はどのようにして仏としての悟りを得たのかというと、法華経寿量品において、超人間的な仏としての存在であった釈迦も、実ははるかかなた、久遠の昔に菩薩の道を行じた因によって、インドに仏として生まれることができたのだ、と説いている。これは仏教史上にはおいては、画期的なものである。人間の手の届かないところに仏というものは存在しているものかと思われたのが、普通の人間と同じように仏も修行することによって悟りを開くことができたことを意味している。逆に言えば、人間も修行すれば仏になることができることを証明している。
寿量品は驚嘆すべき内容であったが、それでは釈迦が悟りを開くことができた根本の教えは何だったのか、また、悟りを開いた修行は末法においては具体的に日々どのようにすればよいのか、ということについては書かれていない。もちろん、抽象的には書かれているが、それは仏道を志したものが世間を離れ、毎日朝から晩まで難行苦行の修業をするという、いわゆる僧侶仏教の漠然とした修行方法でしかない。
これは、法華経の理論的解釈を完成させた天台、それを解説した伝教にも共通して言える。
「一念三千論」の悟りを得るためには、仏を自分の命の中に湧現させていく必要がある。そのために、宇宙に存在する仏の生命に自己自身の生命を合一させる必要がある。その具体的修行として出されたのが「観念観法」といわれる禅定である。ところがこれも一般社会で生活している者ができるような修行ではなかった。
もしも賢治がこれらを実践するとすれば、文学活動や農業指導など、一切の世間の活動を捨てて、山にでもこもり修行するしかない。このことは釈迦、天台、伝教も自らわきまえていて、これらの修行は一部の者にしか為し得ないことを認めている。その一例として、法華経薬王品の、
「我滅度 後五百歳中 広宣流布於閻浮提 無令断絶」(法華)
という文の解釈として、
「『後の五百歳閻浮提に於て広宣流布せん』と、天台大師記して云く『後の五百歳遠く妙道に沾おわん』妙楽記して云く『末法の初冥利無きにあらず』伝教大師云く『正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り』等云云」(日蓮)
と書いている。天台、妙楽の解説をあげて、すべての人が普遍的に仏教の恩恵を被ることができるのは、後五百歳すなわち末法においてであることを述べている。さらに、
「法華経並びに本門は仏の滅後を以て本と為して先ず地涌に之を授与す」(日蓮)
とある。「地涌」というのは日蓮のことを意味している。ここでは日蓮の立場も明らかにしている。
そして日蓮はなによりも末法における仏道修行の具体的方法を明確にしたのである。
「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」(日蓮)
とまず何に向かって手を合わすのか、その根本である本尊を書き表した。法華経をいくら読んでも「この経」と表現されるばかりで、何を本尊にしてよいのかは分からない。表面的に読めば、法華経を印刷した書物を棚の上にでものせてそれを拝め、とでも言っているように錯覚もする。次に、
「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(日蓮)
と日々の個人の修行としての具体的方法も示された。さらに、
「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思い出なるべき」
と他人に対しての、仏道修行としての働きかけ方も明瞭にされたのである。
賢治は法華経を深く読めば読むほど末法における修業方法に迷わざるを得なかったが、日蓮仏教との出会いによってそれらの霧が雲散霧消するのを感じた。だからこそ、二十四歳のとき、
「即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です」(賢治)
と歓喜を持って綴っているのである。
第Ⅱ章 【住】
(一)日蓮の捉え方
仏にはどのようなものがあるのか。法華経の中にも数えきれないほどの多くの仏が出てくる。それ以外の仏教経典も含めると、ほとんど無数に近いほどの仏が出てくる。それらの仏の住する場所は、東西南北、上下、過去現在未来と宇宙空間の広さを持っている。もともと仏というのは梵語ブッダの音写であり、悟った者、覚者という意味である。亡くなった人のことを仏という習慣もあるが、それは敬意を表しているだけのことであって、仏教とは直接関係がない。仏教上は、究極の真理を体得し、他人も導いて悟りを開かしめる人のことである。
非常に多い仏の中で、自分が礼拝しているのはどのような素性の仏であるのかを知ることは仏教理解の大切な一歩ともいえる。
それでは、賢治が心酔した日蓮はどのような仏であったのだろうか。
「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」(日蓮)
と日蓮は書いて、自身の仏教上の地位を明確にしている。釈迦より間違いなく「寿量品の事の三大事」を譲り受けた仏であると明言している。「寿量品の事の三大事」とは釈迦の法華経のことではなくして、釈迦が法華経を説けるような仏になることができた根源のものである。釈迦と日蓮の相違を、法華経が「理」であると言われるのに対して、日蓮仏教が「事」であると表現されることからも、その関係が分かる。したがって、この日蓮の言葉の文字面を読めば、釈迦という先輩の仏から後輩の日蓮が大切な法門を受け継いだ、ということになる。しかし、よく読めば、日蓮の方が仏としての本体であって、釈迦はその本体の一部の体現者であった、ということである。この日蓮のとらえ方は賢治の日蓮信仰を理解するうえで非常に大切なポイントである。 さらに、
「伝教大師云く『代を語れば則ち像の終り末の始・地を尋れば唐の東・羯の西人を原れば則ち五濁の生・闘諍の時なり、経に云く猶多怨嫉・況滅度後と此の言良に以有るなり』等云云」(日蓮)
と伝教の法華秀句の文を引用して述べている。この文は、本体の仏、すなわち後世の日蓮の出現を証明したものである。本体の仏が出現するのは、時代としては像法の終り、すなわち末法の始であり、出現する場所は、日本であると述べている。「地を尋れば唐の東・羯の西」というのは平安時代の日本の位置を示した言葉である。
その時に生きている人々の心の状態は、すべてにおいて濁りきり、争いの絶えない状態である。さらに、そこにおいて本体の仏が処遇される状態を「猶多怨嫉 況滅度後」(法華経法師品)の文を引用して日蓮へのさまざまな迫害が経文に合致していることを述べている。
これらの点について賢治は、日蓮に関する多くの書簡などを読めば、非常に正確な認識ができていたことがわかる。
さらに、法華堂建立勧進文には賢治の日蓮のとらえ方が明瞭に表れている。
《教主釈迦牟尼正徧知
涅槃の雲に入りまして
正法千は西の空
余光に風も香しく
像法千は華油燈の
影堂塔に照り映えき
仏滅二千灯も淡く
劫の濁霧の深くして
権迹みちは繁ければ
衆生ゆくてを喪ひて
闘諍堅固いや著く
兵疾風火競ひけり》 (賢治)
仏教において時代の捉えかたに「三時」というのがある。ひとつは釈迦滅後一千年間を正法時代とする。この時代は、釈迦の教えが有効な時代で、それを信じて実践し、悟りを開くことのできる時代である。賢治はこの時代のことを「正法千は西の空 余光に風も香しく」と言っている。「西の空」というのはインドが日本から見て西方に位置するということと間もなく沈む夕日を意味している。
二つには次の千年間を像法時代とする。この期間は釈迦の教えの有効期間が少し切れた時代である。確かに釈迦の経文も重宝にされ、それに基づいて修行をする者もいるが、完全な仏の境涯を発現することはできない時代である。この時代の修行の形として多造塔寺堅固と言われているが、仏教建築に力を注いでそこで釈迦の教えが守られる時代である。その状況を「像法千は華油燈の 影堂塔に照り映えき」と表現している。もちろん「華油燈」とは釈迦の教えのことである。
三つには次の千年あるいは未来永遠を末法時代とする。この時代は、釈迦の教えは経文という形としてだけ残っているだけで、それを正しく修行する者も出なければ当然、悟りを開き成仏する者もいない。だから「闘諍言訟 白法隠没」(遺文)という、釈迦の教えの力がなくなり、人々が争いに明け暮れる時代になる。賢治が書いている「劫の濁霧の深くして」というのは、末法というのは時代(劫)そのものが濁り、釈迦とは縁のない人間ばかりが集まっている時代を意味している。
「権迹みちは繁ければ」というのは釈迦の教えの中で、権教(仮の教え)と実教(真実の教え)、迹門(前段階の教え)と本門(本体の教え)との判別ができなくなったことを表している。仏教の高低浅深を見分ける基準が判らなくなる状態である。
このように末法というのは釈迦仏教の賞味期限が過ぎてしまい、人々は救われる教えがないがゆえに救われる者もいず、争いごとばかりに明け暮れる時代である。この時代には、今までやってきた修行方法、参禅、読経、写経、荒行、仏像崇拝なども全く意味をなさない時代である。また、塔寺や偶像の造立なども形だけのものとなり、本質的に釈迦仏教とは無関係なものになる時代である。
この「三時」にはさまざまな説があり、また釈迦の入滅を何時にするかによっても変わってくるが、ほぼ末法が始まったのは日本においては鎌倉時代と考えられている。この「救いようのない」時代に民衆救済の使命を帯びて日蓮は誕生した。このことを勧進文の続きには次のように書いている。
《この時地涌の上首尊
本化上行大菩薩
如来の勅を受けまして
末法救護の大悲心
青蓮華咲く東海の
朝日とともに生れたもふ》 (賢治)
日蓮の仏教上の位置づけは「地涌の上首尊 本化上行大菩薩」であり、そして日蓮の生誕は「如来の勅」すなわち釈迦から未来世の末法における「法」の弘通を付属(委託)された故であるとしている。そして日蓮は「青蓮華咲く東海」に生まれる。蓮華は花と実を同時に付けるところから因果倶時の仏教に例えられる。また東海というのは天竺から見て東方の日本のことである。朝日は釈迦仏教の夕日が沈んだ後に出現する日蓮仏教である。このように賢治は日蓮を末法の本仏(本体の仏)「本化上行大菩薩」と捉えていた。
このような賢治の日蓮に対するとらえ方は他の記述にもしばしば出てくる。例えば、
「末法の唯一の大導師 我等の主師親 日蓮大聖人に帰依することになりました。」(賢治)
とも書簡では書いている。さらに、
「只、末法の大導師 絶対真理の法体 日蓮大聖人を無二無三に信じてその御語の如くに従ふことでこれはやがて(中略)妙法蓮華経如来 即ち壽量品の釈迦如来の眷属となることであります。」(賢治)
とある。「壽量品の釈迦如来」とは日蓮のことである。それは法華経の肝心の実体を意味している。
書簡を読めば、賢治がこの時より本格的に日蓮の信仰に突き進んだことが分かる。賢治の、この頃以降の信仰について書かれた書簡や手帳のメモやその他のものを読めば、日蓮遺文に書かれている内容や、その解釈がほとんどであることから考えても、明らかに日蓮信仰がすべての根本になっていることがわかる。また、これ以降もさまざまな経文を書写したり、引用したりしてはいるが、それらのほとんどは日連遺文の中に出てくるものである。
(二)仏と凡夫
賢治の、日蓮信仰に入って以降の人生をつぶさに見ると、彼にとって仏とはいったいどのようなものだったのかを知ることができる。そこには一般的な仏という言葉から想像されるものとは全く違う仏の像が浮かんでくる。
仏といえば普通、常人を超えた優れた外形、性質としての三十二相八十種好といわれる特質を多かれ少なかれ備えている。例えば広長舌相といって、舌が大きく、口より出せば顔の全面を覆うことができ、その先は上の髪の毛の生え際にまで達する。しかし口の中にしまった時には口中をいっぱいにすることはない。また、眉間白毫相といって、眉間のちょうど良い位置に白毛が生じ、白く清く右に曲がって長さが五尺あり、そこから毫光という素晴らしい光を放つ、というものもある。いずれも普通の人間では持ち得ない優れたものを仏は持っているものとして描かれる。そしてその優れた面に人間の人智の及ばないものを見いだして、信仰の念を起こさせる働きがある。信仰者はその素晴らしい仏の特質の幾分なりとも自己に備わることを願い祈る。そして信仰を持続する者の人生は、清浄無垢な仏を目指して、汚れてドロドロとした現実から離れて清らかな仏のような生き方をすることを理想とすることになる。
しかし、賢治の人生はむしろその逆であった。経済的に豊かな実家の援助のもとに人生設計を立てれば、当時の平均的な者以上の、経済的社会的に恵まれた人生を生きることができただろう。また一時期、教員として教壇に立っていたわけだから、教職という安定した職業で生涯を送ろうと思えばできただろう。あるいはまた、賢治が仏教信仰に人生をささげようと思えば、僧侶となって出家して仏門に入ればよかった。しかし、これらの好条件を捨てて、彼は農民の中へと入っていった。
当然、信仰者の生き方を決めるのは、その信仰の目指している神あるいは仏のありように影響されることは言うまでもない。そうすると賢治がわが人生のすべてと決めた日蓮仏教における仏の姿がそのまま、彼の具体的な人生、言動であることは疑う余地はない。
それでは日蓮仏教における仏とはどのようなものなのか。日蓮は自分のことについて、
「日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり」
「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり」(日蓮)
と記述している。賢治が末法の本仏として崇めた仏は旃陀羅の出であると言ったのである。旃陀羅というのは、チャンダーラの音訳で、暴悪、悪人、屠刹、殺者などと翻訳する。インドのカースト制では屠刹や死体の処理を業としていた。不可触賤民と呼ばれ、一般の者は彼らを見ても触ってもいけないとされていた。
日蓮は自分の出生をこのような最下層の身分の出であると誇らしく宣言している。実際には、
「然るに日蓮は東海道・十五箇国の内・第十二に相当る安房の国長狭の郡・東条の郷・片海の海人が子なり」(日蓮)
と書いている。いずれにしても身分的には非常に低いことは事実である。このことについて日蓮は、
「心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり」(日蓮)
と書いている。日蓮の生涯は命に及ぶような迫害の連続であった。そのひとつの要因が、日蓮の出生の低さにあった。もし日蓮が高貴な身分の親のもとに生まれて出家したのであれば、ひどい迫害は受けなかったであろう。ただ、日蓮は迫害する者に対して「愚者のあなづる」と外見的にしか物事を見ることができない愚かな人間であると断言している。
賢治は、日蓮の出生から背負っていた生き方と自分の恵まれた家庭環境との相違を生涯、しっかりと意識の根底に置いていた。だからこそ一面から見れば、わざわざ苦労しなくてもいいように思える方向に人生を歩んだといえる。彼が経済的に豊かな実家があるにもかかわらず、また十分に教育を受けたにもかかわらず、貧しい農民の中に入りそこで共に生きる人生を選んだのは、日蓮の出生からくる生き方に影響されたものである。しかし、賢治の意識の中には生涯を通じて、自分は恵まれた環境のインテリであり、本質的には日蓮のようにまた、貧しい農民そのものにはなり切れないというしこりのようなものを持っていた。
どうしても日蓮や農民と一体化できない異質なものを感じていたのである。だからこそ逆に、同化すること求めて、あえて苦しい生活の道を選んだのである。それは日蓮が末法の仏としての道を歩んだことを参照するとき、賢治にとってはまさに仏道修行の道であり、仏を求める求道の人生であった。日蓮という仏を求める道は、色相荘厳の仏、即ち穢土である現実から離れたきれいごとの信仰生活ではなくて、逆に差別や偏見に満ちた汚れた人間の中で仏教を実践することに他ならなかった。さらに、日蓮は仏について、
「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」(日蓮)
と明確に述べている。正法像法時代の仏は、外面的に優れた特徴を示して、人々に渇仰の気持ちを起こさせて信仰に導いた。しかし末法の仏は現実の中で四苦八苦しながら生きてゆく凡夫がそのまま仏になることを示している。そうでなければ、人々を救うことはできない。厭離穢土(おんりえど)と現実を嫌うような仏に現実に苦しむ人間を救う力はない。現実の苦しみの中にこそ悟りを開く、即ち成仏する真実の因が含まれているのである。仏とは現実の中で苦しみながら衆生救済に生きている人間のことである。賢治はこの日蓮の仏に対する認識の通りに我が身の人生も自分自身の恵まれた生活よりも苦しむ人々の中で共に同苦しながら救済していく生き方を選んだのである。さらに日蓮は、
「本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり」(日蓮)
とも書いている。これは法華経方便品の十如是の「如是本末究竟等」について述べたところであるが、凡夫と仏は一体であることが示されている。もっと明確に凡夫と仏の関係を示したものとしては、
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(日蓮)
とある。仏というのは凡夫の心の一つの働きであって、どちらが本体なのかといえば凡夫である。釈迦やさまざまな仏もすべて、仏としての働きを為させたのは凡夫である。このことは、理解しがたいようであるが、発想を変えれば分かりやすい。例えば、外観的に考えれば、世の中に仏ばかりが居たとしても何の意味もない。仏とは苦しむ衆生を救う使命を帯びた存在であるから、その救うべき衆生がいなかったとしたら存在意味はない。苦しむ衆生がいるからこそ仏という存在の意義を有らしめている。あくまでも衆生が中心なのである。
また、内面的に考えれば、仏というのは凡夫の心の中に存在している。それ以外のところに仏の存在場所はないのである。これは日蓮に限らず仏教の根本である。仏は人間の手の届かない、人間からかけ離れた存在としては描かれていない。あくまでも、凡夫の心の中にこそ最高の仏が存在すると説くのが仏教の究極である。
「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(日蓮)
と書いているように、すべての人々の心の中に平等に仏が存在するという仏教哲学、すなわち、誰人たりとも仏になりうるというのが仏教の神髄である。
釈迦は、さまざまな人間世界を超越したと思えるような仏を登場させてきたのは、相手の心の状態に合わせて教を説いた、仮の教えであると書いている。最終的に言いたかったのは法華経における、仏も普通の人も全く変わらない人間の存在であるということであった。それは、
「如我等無異」(法華)
という釈迦の言葉にも的確に表れている。釈迦は自らが、誰人たりとも自分と同じ仏になることができると断言している。さらに日蓮は、
「如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり」(日蓮)
と書いている。法華経、日蓮仏教に至って初めて、仏と凡夫とは全く差異がないという法門が明かされたのである。それは取りも直さず、すべての人間が成仏できること意味している。日蓮は、
「此の経を謗るが故に、凡夫即極の義をも知らず」(日蓮)
と述べて、このことを「凡夫即極の義」と書いている。
賢治はこの日蓮の仏観に具体的人生の行動の規範を置いた。彼が貧しい農民の中へ入っていったのは、自己自身の命の中に仏を湧現する仏道修行であったのだ。そして「如我等無異」の仏となることであった。
(三)本尊
本尊とは根本に尊敬する意味で、信仰上最大のシンボルとなる。日蓮も多くの本尊を書き表している。
「又御本尊一ふくかきてまいらせ候、霊山浄土にては、かならずゆきあひ・たてまつるべし」(日蓮)
などと信仰心の厚い信者に対して本尊を書いて与えている。さらに、
「あまりに、ありがたく候へば宝塔をかきあらはし、まいらせ候ぞ、子にあらずんば、ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり」(日蓮)
とも書いている。宝塔というのは本尊のことである。日蓮は本尊を図顕することが、この世に生まれた自分の本来の目的であるとまで言っている。一つの宗教の本質はすべてが本尊に集約されていると言っても過言ではない。
賢治は日蓮仏教の眼目である本尊を何回か書き表している。それは、紙の用紙に文字で書かれている。文字を本尊とすることは、日蓮の教えの通りである。どうして画像や木像ではいけないのかというと、
「仏に三十二相有す皆色法なり、最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可らず作る可らず、仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」(日蓮)
と書いている。仏を本尊とすることは当然であるが、仏が生きている間は、生身の仏を礼拝すればよい。本尊はいわば生きていた仏の代わりであるから、どれだけ生きていた仏と同じにすることができるかが課題である。日蓮は、仏の要素を三十二相とするならば、外見として見ることができる、則ち形として表現ができる三十一相については絵や像で表現できるとしている。ところが最後の一つの梵音声は表現できない。梵音声というのは、如来の声は十方に響き渡り、聴く者はすべて成仏することができるといわれる最も大切な仏の要素である。それは目に見える形としては表現することができない。
絵や像では、表されたものは固定されたものであって、仏のほんの一部の瞬間的な面を表現しているにすぎない。現実の仏は生きている仏であり、平面的立体的に固定されたものとは縁遠い。この絵や像の欠点を補おうとして複数の表情をした仏を一緒に作ったものもあるが、「生身の仏」とは根本的な相違がある。さらに、大切な仏の心の境涯、即ち心法も形として表すことはできない。であるなら、絵や像で作られた本尊というものは、本来拝むべき仏とは天地雲泥の差があり、本尊にすべきものではないのだ。賢治はこの日蓮の教えをわきまえて本尊を文字で書いたのだった。さらに、
「法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちと、あらはしぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声かへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり」(日蓮)
とあり、文字こそが目に見えるものも見えないものも表現し得る唯一の表現方法となる。文字の働きは、
「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり」(日蓮)
と書いている。書かれた文字の真価は、その真実の値打ちが分かる者でなければ、理解できない。理解の度合いは「果報」即ち見る人間の境涯によって変化してくる。例えば、優れた書の作品を鑑賞する場合、あまり書道に詳しくない人は、
「きれいな文字を書いている」
というくらいにしか見えないだろう。全く興味のない人は、何の値打ちもないと思うだろう。ところが書に造詣の深い人は、国宝級の芸術作品までも理解することができる。賢治はこの文字の力を十分に理解をしていたからこそ信仰の根本である本尊を文字で表したのである。
日蓮仏教の本尊はどのように文字で書けばよいのか、ということも賢治は日蓮遺文を通して熟知していた。日蓮は本尊の相貌について、
「答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(日蓮)
と書いている。この記述の通り賢治は中央に題目の南無妙法蓮華経と大きく書いている。さらに、
「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う 迹仏迹土を表する故なり」(日蓮)
「又御本尊書写の事予が顕し奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地祇もよも用い給わじ、上行無辺行と持国と浄行安立行と毘沙門との間には若悩乱者・頭破七分・有供養者・福過十号と之を書す可きなり」(日蓮)
と本尊の姿を詳しく述べている。賢治の表した本尊を見ると、日蓮の記述の通りに書いていることが分かる。賢治は自分の手ですべての到着点となる本尊を図顕し、そこを目指して人生のすべてを賭けたのであった。日蓮は本尊について、
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(日蓮)
と書いている。これは、日蓮仏教の一貫した思想である、仏とはすべての人間の心の中に存在する、という基本理念からきている。その己心の仏こそが本尊なのである。また、
「阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」(日蓮)
とも書いて、自分自身の心を離れた、どこか別の世界に仏や、本尊があると考えることを否定をしている。賢治は、
「南妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです」(賢治)
と書いている。「不可思議の光」とは我が心の仏の働きであり、それが自らの心の中に創造されることによって、依正不二により、環境世界も仏国土へと転換されていく姿である。賢治はこの自己と環境のダイナミックな変革に、言い知れぬ悦びと充実感を体験していたのである。
(四)仏道修行
賢治は法華経から日蓮信仰へと進む中で、仏道修行の具体的な方法論を確立していった。そしてそれは彼の短い人生の中において後半生の生き方を決定づけるものであった。彼にとって仏道修行とはいったい何だったのか、ということ明確にすれば、彼の人生において最も大きな意味をもった時期の真実の姿をより明瞭な形で見ることができる。
法華経においては、仏道修行の具体的方法は確定されていないが、方法論は明示されている。それは仏道修行というのは時にかなった方法でしなければならないということである。法華経でいう時というのは仏教上のもので正法、像法、末法のことである。釈迦は、法華経は自分の死後、末法においては効力を発揮しなくなると書いて、その時の仏道修行の方法は明かしていない。日蓮は次のように経文を引用して仏教における時と修行について書いている。
「大集経に大覚世尊・月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん(中略)設い行ずる人ありとも一人も生死をはなるべからず」(日蓮)
賢治はこの遺文から自分の仏道修行のあり方を決定した。特に常識的に考えられていた仏道修行の方法は「設い行ずる人ありとも一人も生死をはなるべからず」とあるように末法における真実の仏道修行にはならないことを確信した。彼の日蓮信仰に至ってからの修行の行動は、一貫して日蓮の教え通りのものになった。
それはまず当たり前のように行われている修行の否定から始まった。
賢治はさまざまな修行について精査していった。目をつぶって黙って座っておれば、それで悟りが開けるか。もしそうなるのなら、これほど楽なことはない。一日中、暇さえあれば座っている人間が成仏することになる。これが修行になる訳がなかった。また、経文をひたすら写しておれば、仏の悟りに到達するのか。それだったら、書道で経文を写す練習を積み重ねている人間はだれよりも早く成仏するに違いない。書道家が成仏したというのは聞いたことがない。さらに、経文を読むことが修行になるというのであれば、釈迦が発音した通りに読まなければ、仏教とは関係のない唄を歌っているのと同じだ。それだったら歌手も成仏しなければならない。そんなことがあるわけはない。
何よりも賢治が不審に思ったのは、仏道修行といって行われるさまざまな荒行だった。彼自身もそれに近い体験をしたが、満足させるものではなかった。山を走り回ったり、滝に打たれたり、食事を絶ったり等、肉体を痛めつけるのが修行になるのか。もし、これらの修行をしなければ成仏しないのであれば、成仏する者は、経済的時間的に余裕があり、そのうえ頑強な体を持ったものでなければならないことになる。この修行方法では、弱者が切り捨てられる。視力を失った人、声が出ない人、病弱な人、経済的に困窮している人などは生涯、仏教によっては救済されないことになる。
釈迦は、華厳、阿含、方等、般若と法門を説いたが、いずれも成仏に差別が存在していた。女人と二乗は成仏が許されていなかった。理由は女人は罪深いが故に、二乗とは声聞と縁覚のことで、これらは今でいえば芸術家や学者に当たるが、自分の狭い考え方が最も正しいと慢心を起こして仏の教えを聞こうともしないが故に成仏ができなかった。
ところが法華経に至って、女人は提婆達多品で八歳の竜女の即身成仏が示されて女性も差別なく成仏することが明かされた。二乗は、迹門において理の一念三千の法門が説かれることによって初めて成仏できることになった。したがって法華経に至ってはすべての人々が差別なく法華経を信じることによって成仏の保証がなされたのである。
言い換えれば、どのような人でも成仏できるための修行が確立したといえる。ところが賢治がこれまで目にしてきた仏道修行というのは釈迦の一切衆生を救おうとする精神を否定して、特別な人間しか成仏しないものがほとんどであることに気がついたのである。さらに釈迦は法華経の理論からすれば、既成仏教のような僧の存在も認めてはいない。だから、一部の選ばれた僧が、普通の人のできない特別な修行をして悟りを開き、そして修行のできない一般人を導き救う、ということも法華経の精神に反するものである。神と人との中間に存在して両者の橋渡しの役割を担う巫女という存在が神道の中にはあるが、釈迦はそういう僧侶の存在は特権意識を作り権威化させるものとして、法華経に至ってはその存在の理論的根拠はなくなっているのである。だから、特別な人間にしかできない特別な修行というものは次元の低いものとして排斥されたのである。
もともと釈迦は死老病死、四苦八苦と苦悩する人々を救うのが目的で仏教を説いた。その根本精神にほとんどの修行方法は全く反している。いずれも末法という時をわきまえない、自己満足でエゴから勝手に作り上げた修行方法であった。だからこそ「設い行ずる人ありとも一人も生死をはなるべからず」と言ったのである。
これらの修行方法について日蓮も、
「然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鶏の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」(日蓮)
と書いている。末法において、正法や像法時代の修行をしている者に対して、役に立たない夕方鳴く鶏であり、もののけ、妖怪であると断言している。賢治はこの日蓮の教えを知ることによって、これまでどこか仏教の精神と乖離していると思えていた修行に対して真実の修行方法を明確にすることができたのである。
確信の持てる具体的な仏道修行の方法を知ることができた賢治は、これ以降、生涯を通じてひたむきに修行に励むことになる。そして命の灯が今まさに消えようとしている時、実家の二階の部屋で、顔色は喀血して青ざめていたにもかかわらず、南妙法蓮華経、南妙法蓮華経と合掌して声高に題目を唱えて臨終を迎えたのだった。この姿の中に賢治の仏道修行に対する姿勢がいかに真剣であり、生命をも賭けて貫いたかがわかる。
賢治の臨終の姿は、
「縦ひ頚をば鋸にて引き切り、どうをばひしほこを以て、つつき、足にはほだしを打つてきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死るならば釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契約なれば須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へ、はしり給はば二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し諸天・善神は天蓋を指し旛を上げて我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしや、あらうれしや」(日蓮)
との遺文に見事に符合したものであった。
賢治の人と文学を理解するうえで日蓮信仰がどれだけ深い次元から捉えられていたのかを究明することは大切なポイントになる。だが、資料的客観的な根拠からだけの記述にとどまっている場合が多い。それでは、臨終に題目を唱え抜いて死を迎えた賢治の真実に迫ることができない。
ここに日蓮信仰者としての賢治研究の限界の壁がある。その壁は、賢治は熱烈な日蓮信仰者だったが、研究者は日蓮信仰者ではない、あるいは、信仰者だったとしても賢治ほど人生を賭けるものではないということが、越えられない壁として存在していると言える。いわば、冷たい観察者は相手の真実の素晴らしさを見ることはできない。だから少々、客観性の枠組みを超えて、主観が入る可能性があったとしても、それを恐れることなく記述していく勇気を持つことが、賢治の心の奥の真実に迫るために残された方法であろう。
(五)唱題行
賢治は日蓮信仰に後半の人生を捧げたわけだが、具体的な信仰実践の中で最も力を入れたものの一つに唱題行がある。唱題というのは、南妙法蓮華経という題目を連続して唱えることである。
「龍ノ口御法難六百五十年の夜、私は恐ろしさや恥ずかしさに顫えながら燃えるばかりの悦びの息をしながら、花巻町を叫んで歩いたのです。知らない人もない訳ではなく大抵の人は往き遭ふ時は顔をそむけ行き過ぎては立ち止まって振り返って見てゐました。(中略)その夜それから讃ふべき弦月が中天から西の黒い横雲を幾度か潜って山脉に沈む迠それから町の鶏が鳴く迠唱題を続けました。」(賢治)
「龍ノ口御法難」というのは文永八年(千二百七十一)九月十二日、日蓮が鎌倉の竜口で斬首刑に処せられようとした事件である。この記念の日に賢治は明け方まで一晩中、題目を唱えていたというのである。街中を大きな声で叫ぶように題目を唱えれば、世間の人から見れば、異様な光景に映る。そういう姿は、近づいた時には知人から顔をそむけられ、通り過ぎてから軽蔑と憐憫の情で振り返って見られる自分であるということを自覚していた。それでも賢治は唱題行を貫いた。世間の批判や奇異の目を向けられても、なお執着をした唱題とはどのようなものだったのか。賢治は手紙の中で、
「あなた自らの手で赤い経巻の如来寿量品を御書きになって御母さんの前にお供えなさい。あなたの書くのはお母様の書かれると同じだと日蓮大菩薩が云はれました。」(賢治)
とある。また、別のところでは、
「無始本覚三身即一の妙法蓮華経如来 即ち寿量品の釈迦如来の眷属となることであります。」(賢治)
とも書いている。さらに年賀状にさえ、
「謹賀新年 我此土安穏 天人常充満」(賢治)
と寿量品の経文を引用してお祝いとしている。これ以外にも、いたるところで寿量品を引用している。このように、賢治は法華経二十八品の中でも特に寿量品を最重要視しているのがわかる。これは賢治自身が言っているように日蓮仏教を学ぶ中から自覚したものである。ではなぜ寿量品が大切なのか。
「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底に沈めたり」(日蓮)
とあるように、法華経の本意であり、天台が理論構築をした「一念三千の法門」が寿量品の経文の底に沈められているからである。それではその法門の本体とは何であるのか。それは、
「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」(日蓮)
とあるように釈迦の一代説法の眼目は、また天台が理論の行く末に明らかにしようとしたのは妙法蓮華経であった。釈迦が、
「我本行菩薩道」(法華)
と述べて、自分が過去世において悟りを開くために長い間、菩薩の修行をしたとは書いているが、どのような「法」によって菩薩の道を行じたのかは明かされていない。そこで日蓮は明確にその「法」とは妙法蓮華経であると判じたのである。すなわち釈迦が法華経において悟りを開いた根本は妙法蓮華経であった、と言っているのである。このことを賢治は、
「総ての覚者(仏)はみなこの経に依って悟ったのです」(賢治)
と書いている。「この経」というのは妙法蓮華経のことである。この文は、
「種熟脱の法門、法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(日蓮)
という日蓮遺文を賢治が解釈したものである。これは、釈迦の本意は法華経にあり、法華経の本意は妙法蓮華経にあって、それは全ての経文、仏の本質であると判じているところである。
このように賢治の法華経理解の過程は、釈迦の「法華経」に感動して、天台の「摩訶止観」で理論構築をし、日蓮の「妙法蓮華経」で行動に入ったといえる。
日蓮は法華経の肝心を具体的修行として打ち出した。
「深く信心を発して、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき。只南妙法蓮華経と唱えたてまつるを、是をみがくとは云うなり。」(日蓮)
と実に単純明快に題目を唱える修行方法を示したのである。賢治はここで求めていた仏道修行の具体的方法として唱題行を得ることができたのである。それでは賢治は題目の南無妙法蓮華経をどのように捉えていたのだろうか。日蓮は題目について、
「南無と申すは、いかなる事ぞと申すに、南無と申すは天竺の言葉にて候、漢土・日本には帰命と申す帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり」(日蓮)
と書いている。このことを賢治は、
「謹みて帰命し奉る 妙法蓮華経。南無妙法蓮華経」(賢治)
と書いている。南無妙法蓮華経とは法華経の肝心である妙法蓮華経にわが人生をささげるということである。そして題目を唱えることによって自己を「磨き」仏の境涯を得ることを目的としている。賢治は、
「焦慮悶乱憂悲苦悩総て輝く法悦と変ぜよ」(賢治)
と書いているように、唱題行によって苦しみや煩悩を喜びに転換することに希望を抱いている。
また、南無というのは梵語の音訳であるので、南無妙法蓮華経は二つの言語を備えたものである。これは言語に制約されずに広く拡がっていく可能性を象徴させている。賢治は、
「南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです」(賢治)
と述べて、日蓮の唱題行に外的広がりと内的深まりを感じている。
やがて賢治は過激なまでの日蓮信仰へとすすんでいく。賢治の唱題行については友人、関徳弥が、
「(賢治が)寒い冬の夜の上町通りを『南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経』と声高らかに唱題してくるのを聞いたとき(中略)その時ちょうど賢治の父上が私の家に来ておられましたが、賢治のそういう姿を見て舌打ちし、『困ったことをするものだ』といって眉根を暗くされました」(賢治)
と書いているように周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買うことも多かった。しかし、唱題行が傍目にどのように映ろうとも賢治にとっては信仰の真髄として実践されていたのである。
さらにこの題目は彼の作品の中にも何箇所かに出てくる。その一つに次のようにある。
《爽やかな苹果青の草地と
黒緑とどまつの列
(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
五匹のちひさないそしぎが
海の巻いてくるときは
よちよちとはせて遁げ
(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
浪がたひらにひくときは
その砂の鏡のうへを
よちよちとはせてでる》 (賢治)
この詩の中では題目を音律としてとらえている。「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」というのは南無妙法蓮華経の梵語の発音である。題目の梵語について日蓮は、
「南無妙法蓮華経の南無とは梵語、妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、又云く梵語には薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり」(日蓮)
と書いている。賢治はこの日蓮の「南無薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」という表記をカタカナ書きにして詩の中に取り入れている。もともと「南無薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」は音訳であり、漢字そのものには意味がないので、詩の中で片仮名書きにしても表現する意義を損ねることはない。通常、このような主題の詩文の中で、題目を詩の語句として取り入れることは本来の仏教的な意義に反しているのではないかと思われがちである。しかし、題目の深い意義を理解していた賢治にとっては矛盾するものではなかった。
賢治が信者以外の一般の人からは顰蹙を買うような有様でもなお、唱題行に徹していったのは、やはり日蓮の教えの正しさを信じることができたからにほかならない。日蓮は題目について、
「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」(日蓮)
と説いている。「一部」というのはすべてということである。したがって、題目は、経文でもなければ、スローガンでもない、教えの本体そのものである。さらに、
「夫れ妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり仏性とは法性なり法性とは菩提なり、所謂釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等・普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因・日月・明星・北斗・七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神・八部・人天・大会・閻魔法王・上は非想の雲の上、下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり」(日蓮)
とも書いている。その教えの本体とはすべての人間の心に備わっている仏を表している。さらにまた、唱題する意義について、
「されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに、ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり、例せば篭の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し」(日蓮)
と唱題の法則性が説明されている。唱題することによって、自己自身の中に仏を確立することができる。
賢治は、他人から見れば狂信的に思われることにも躊躇せずに、ひたすら自己の内面に仏の境涯を確立すること目指して唱題行に没頭していたのである。
(六)折伏行
賢治の信仰活動には唱題行と対を成すものとして折伏行がある。日蓮は、
「南無妙法蓮華経は自行化他に亘る」(日蓮)
と述べているが、自行とは自分自身で完結する唱題行のことであり、化他とは他人を救済する折伏行のことである。日蓮仏教は唱題行と折伏行の二つの修行が鳥の両翼のように具わって初めて成仏の境涯へと登ってゆくことができる。
賢治はこの日蓮の教えの通り、徹底して折伏行に邁進した。折伏というのは、相手の宗教的信念を「折り伏し」て日連仏教に改宗させることである。賢治はこの折伏行もまた、唱題行と同じように深い仏教的裏付けのもとに行っている。彼は、
「今は摂受を行ずる時ではなく折伏を行ずるときだそうです」(賢治)
と書いているが、釈迦仏教が効力を失った末法という時代においては、唱題行とともにどのような行動が仏教の修行になるのか、賢治はこのことを非常に重要視していた。それは彼が日蓮遺文を中心に筆写して自らの信仰の励みとした抜粋筆写「摂折御文 僧俗御判」に折伏についての文が非常に多く書き止められていることでも分かる。
「摂折」というのは摂受(しょうじゅ)と折伏という二つの仏道修行の方法のことである。摂受というのは相手との違いを認めつつ少しずつ勧誘する化導法である。それはまた、従来の修行方法である書写、座禅、読経あるいは肉体を酷使する荒行なども意味している。賢治はこの折伏と摂受の違いを明確に記述した日蓮遺文を多く書写している。その中には、次のような箇所もある。
「凡ソ仏法ヲ修行セン者ハ摂伏二門ヲ知ルベキ也 一切ノ経論此二ヲ出デズ サレバ国中ノ諸学者等仏法ヲアラアラ学ストイヘドモ時刻相応ノ道ヲ知ラズ(中略)末法ノ始ノ五百年ニハ純円一実ノ法華経広宣流布ノ時也(中略)摂折二門ノ中ニハ法華折伏ト申ス也(中略)山林ニ閉籠リ摂受ヲ修行センハ豈ニ法華経修行ノ時ヲ失フベキ物化ニアラズヤ」(賢治)
賢治は、末法における法華経の修行は折伏以外になく、人里離れた場所で折伏せずに修行している者は物化(物怪の誤記と思われる)だと確信していたのである。仏教の修行は何時でも何を行じても良いのではなく、「時(時代)」に応じた「法」と「方法」がある。それを弁えなければ成仏は叶わない。
「千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず」(日蓮)
ともある。仏教を学する者は多くいるが、この事が理解できず勝手な修行を作って行うので真の悟りを体得することもできない。
経文を読誦、書写したり、座禅を組んだり、山を走り回ったり、滝に打たれたり、果ては断食したりと仏教の本質が分からないがゆえに、末法では無用の長物のごとき修行をしてしまう。この状態を「物怪」といったのである。釈迦、天台、日蓮と一貫した仏教の流れから、末法相応の修行は折伏しかないことを賢治は仏教を研究するなかで確信していた。そして、その折伏を行じる精神としては次のようなところを引用している。
「をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ つゆを大海にあつらへちりを大地にうづむとをもへ」(日蓮)
「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし」(日蓮)
「法華経の敵」というのは、日蓮が立宗宣言をした時、「念仏無限、禅天魔、真言亡国、律国賊」という「四箇の格言」といわれるもので厳しく断罪した既成仏教のことを意味している。
これらの書写された遺文を読む時、賢治の、周囲の者から見ると狂気のようにも思える折伏行の行動の根拠を理解することができるだろう。賢治にとって、折伏は信仰の絶対的な証であり、それをしないということは単に自分の信仰心が薄いというだけではなく、師匠や親、信徒も含めて関係者全員が地獄へ行くことを意味していたのである。だから、この頃の彼の書簡の中には相手を日連仏教へ改宗させるための熱烈な言葉が非常に多く見受けられるのも当然といえる。例えば、「どうかは早く大聖人御門下になってください。一緒に一緒にこの聖業に従う事を許され様ではありませんか。憐れな衆生を救おうではありませんか」(賢治)
と友人へ書き送っている。「この聖業」というのは、折伏をして信者を増やし仏国土を建設することである。また、
「大聖人御門下ということになってください。全体心は決してそう決めたってそう定まりはいたしません。形こそ却って間違いないのです。日蓮門下の行動を少しでもいいですからとってください」(賢治)
とも書いている。ここには友人知人へ激しい折伏を修羅のごとく実践している姿が伺われる。
賢治の折伏の矛先は当然父親へも向かった。他宗の父親は、言わば「法華経の敵」であった。
「政次郎の信仰は浄土真宗であるのに、まさに晴天の霹靂というべきか、賢治の法華宗入信による改宗申し入れが行われ、連夜の論争に家内中真っ暗になった」(賢治)
とそのころの様子が記されている。この後も賢治と父親とは宗教的対立が続く。しかし、父政次郎は頑として改宗をしなかった。彼はこれを苦に上京して、
「一家の帰正を念じて父の改宗を進めておりますが、なかなか了解してくれません。これは畢竟私の修養が足らないために父の入信が得られない。(中略)修養をはげみ、そのうえで父の入信を得るの外はないと決意し、家には無断で上京して来たものであります」(賢治)
と述べている。本来、優しく親孝行な彼が家を出たのも、自分の行動を日蓮の教えの通りにする為であった。
「一切は、をやに随うべきにてこそ候へども、仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か、されば心地観経には孝養の本をとかせ給うには棄恩入無為・真実報恩者等云云、言は、まことの道に入るには父母の心に随わずして家を出て仏になるが、まことの恩をほうずるにてはあるなり」(日蓮)
と日蓮は教えている。彼は家を出て仏道修行を積むことが真の親孝行になると確信したのである。
賢治が折伏を行じていたこの頃は彼の人生において最も激しく宗教的行動を起していた時期と言える。ちなみに、政次郎は賢治が死ぬまで改宗することはなかった。
賢治が折伏行の先に夢見た具体的な形は、
「諸共に梵天帝釈も来り踏むべき四海同帰の大戒壇を築こうではありませんか」(賢治)
というものであった。これは日蓮の、
「勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」(日蓮)
という文からきている。一人が一人を折伏することによって、やがてそれが世界中に広がり、世界の人々や指導者が参拝に来るための大きな戒壇堂を建設するというものだ。
「法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつぐのはしめ進みては人々にも教え又給し若し財を得て支那印度にもこの経を広め奉るならば誠に誠に父上母上をはじめ天子様、皆々様のご恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償いをも致すことと存じ候」(賢治)
と賢治は真剣に海外へ折伏に行くことも考えていた。彼は、「四海同帰の大戒壇」を目標に折伏行に邁進し、信仰の希望と確信に満ちていた。
やがて大正十五年、羅須地人協会を設立した。そして、肉体を痛めつける生活のなかから病を得て、体力が衰えてゆくにつれて具体的行動としての折伏行は影を潜めていくことになる。
賢治の折伏行を総括してみると、彼の燃えるような言動とは裏腹に、客観的状況としてはそれにふさわしい変革を起こすことはできなかった。もちろん親しい友人など何人かを改宗させたのは事実であるが、賢治の折伏行の理想からすればほとんど独り相撲に近い。実際、賢治の折伏によって信者が大幅に増加したということはなかっ。まして、彼が書写している日蓮遺文、
「日連一人始メハ南無妙法蓮華経ト唱ヘシガ二人三人百人ト次第ニトナヘ伝ル也 未来モマタ爾ルベシ 是レ豈ニ地涌ノ義ニ非ズヤ 剰ヘ広宣流布ノ時ハ日本一同ニ南無妙法蓮華経ト唱ヘン事ハ大地ヲ的トス」(賢治)
という文からすれば彼自身、自分の折伏行が不甲斐ないものである事を自覚していたに違いない。また、目指していた大戒壇も一向に建設はされなかった。特に賢治が日連遺文の一字一句を我が身に体得して厳格に実践しようとしていただけに、この折伏行は挫折であったといえる。挫折を通して彼の日蓮信仰は次の段階へと進んでいった。
(下に続く)