大和田光也全集第10巻
『真空の灯火(ともしび)』【上】
(一)
振り向くと、そこには何時も自分に危害を加えようとしている人間がいる。その存在にはずいぶん前から気づいている。一人や二人ではない、千変万化して多種多様な人間がその働きをする。だから四六時中、気の休まる時がない。今も用心深く背後から付けて来ている・・・
三津田一道は今日も、何時もの強迫観念に悩まされながら通勤道を足早に歩いた。最近、通勤経路を変えたばかりの道である。経路といっても乗り物に乗って通っているわけではない。自宅のアパートから会社の工場までは徒歩で十分弱だったが、跡を付けてくる人間が増えてくると、危険を感じて何度も経路を変えた。今は最も近道の、線路に沿った狭い道を通っている。この道の幅はどうにか人がすれ違うことができる程なので、一度に多人数が襲ってくることはないと思える。
・・・何度、道を変えても同じことだ。すぐに嗅ぎつけてやって来る
彼はうつむき加減になりながら時々、後ろに鋭い視線を向けた。
人と自転車しか通れない踏切の所まで行った時、線路に立ち入らないようにするためのフェンスの傍に木の箱のようなものが捨ててあるのに気が付いた。
・・・アッ、あれは真空管ラジオではないのか!
一瞬、ドキッとしたが、直ぐに目を逸らせて何もなかったように歩いた。
工場に着いてから何時ものように仕事をするが、彼の心はあの真空管ラジオでいっぱいになっていた。ラジオの形が頭の中をぐるぐると回って消えることがない。そのおかげで、何時もなら専務である社長の奥さんが、彼のトイレに行く回数を数えていることが気になって仕方がなかったのだが、今日は全く気にならなかった。
非常に長くもあり、逆に短くも感じられた就業時間が終わった。彼は何かに憑かれたように工場を出て踏切の所まで行く。途中、ラジオが無くなってはいないかという不安で胸が締め付けられるが、朝と同じ状態であるのを確認すると今度は胸が高鳴った。
・・・いや、待て。明るいところで手を出すのはまずい。奴らに見られている可能性がある。今は辛抱して暗くなるまで待とう
彼はチラッとラジオを見ただけで何もなかったかのようにアパートの方へ歩いた。
暗くなるのを待った。さらに深夜になってから、窓につけているカーテンをはずして風呂敷代わりに持って、そっとアパートを出た。周囲の人影に細心の注意を払いながら踏み切りに近づいた。真空管ラジオは一見、不要ごみのように転がっている。彼は人目がないのを確認すると、すばやくラジオをカーテンで包み脇の下にかかえた。そして心臓が踊るのを感じながらアパートに持って帰った。部屋に入ると直ぐに世界最高の宝物でも扱うようにラジオを取り出し、机の上に置いた。奥行きはそれほどない。B4の横幅を少し伸ばしたほどの大きさだ。
「オーッ、高一だ!」
裏蓋を外して中を覗き込んだ彼は歓喜の押し殺した声を上げた。高一とは高周波一段増幅の四球ラジオのことだ。戦前戦後のしばらくの間、製造されている。
「あの頃、家にあった物とほとんど同じだ。違うところは、これはダイナミックスピーカーになっているが、あの時の物はマグネチックスピーカーだった。少しだけ新しいのかもしれない」
彼の体に故郷での、小学校高学年から中学生の頃の感覚がよみがえってきた。経済的に苦しい生活のなか、ラジオは家族の唯一の楽しみだった。子供のころ、一道は四角い木の箱から音が出るラジオに限りない興味を感じた。それで故障して捨てているラジオを何台も拾ってきて分解したり組み立てたりした。捨てられたラジオは彼の何よりも面白い遊び道具になった。年齢的にちょうど科学的なことに興味を持つころで、何日も昼夜かまわず夢中になった。その後、就職のため大阪に出て来るまで、多くの真空管ラジオや電蓄を拾ってきては様々に作り変えたりして楽しんだ。
今、高一ラジオを目の前にするとその頃の幸福感に時を遡って満たされるような気分になった。
「音は出るのだろうか?」
木製のキャビネットの汚れを布できれいに落としてから、緊張した面持ちで一道は電源プラグをコンセントに差し込んだ。そして直ぐに抜いた。何も異常がなければ少しずつ、通電する時間を長くした。こうすることによって、もし配線間違いや、ショートなどしていた時のダメージを最小限に食い止めることができた。
特に異常がないので、差し込んだままにしたが、パイロットランプも点かなければ、真空管も点かない。当然、何の音も出ない。電源スイッチが入っていないのではと、三つある木製のダイヤルの左のものを回してみる。左右どちらにでも回り続け、切る入るを繰り返すスイッチだ。何の反応もない。
「つぶれていて当たり前だ。古いものだから・・・」
彼は楽しそうに呟く。通電しない場合の始めの検査として当然、ヒューズを見る。それは電源トランスの頭にあるが、見るとヒューズ管がうまく刺さっていない。彼はヒューズが切れていないことを確認して、しっかりと止めた。それからまた、電源ソケットの出し入れをする。今度はコンセントに差し込んだ時には、電源トランスの小さな唸り音がするし、六・三ボルトのパイロットランプが暖かい光を放つ。煙が出たり、異音がしたりというような異常もない。
ソケットを差し込んだままにする。シールドカバーをしていない真空管の12Fと6ZP1のヒーターがほんのりと赤みを帯びた光を出す。やがてスピーカーからゆっくりとハム音が出てくる。さらに、アンテナ端子に手を触れさせて、中央のバリコンのつまみをそろりと回すとハム音に混じってどこかの放送が聞こえてきた。
「なんと、ヒューズを直しただけで聞こえた。こんな音を聞くのは何十年ぶりだろうか。なつかしいなあ・・・」
彼の目に涙がにじんだ。彼は異常なほどの感動を覚えた。
いい音でもない。ハイファイ音でもない。電源ハムや雑音に混じって聞こえる放送はむしろ音質的には非常に悪い。しかし、一道にとってはそれがどんなに高価なオーディオ装置から聞こえる音よりも心地よく響く。一道の聴覚が高1ラジオの音に接して心は急激に時をさかのぼっていった。音が心の底に届き、少年の心を蘇生させてくれた。長らく帰ったことのなかった故郷の風景を目の当たりにして呼び起こされる感動だった。
彼は大阪に出て来て以来、忘れてしまっていた幸福な少年時代の感覚に浸った。
(二)
高一を手に入れてから、一道の生活と精神状態が大きく変わった。今まで彼には趣味といえるようなものはなかった。仕事以外に時間を楽しくつぶすものを持ち合わせていなかった。だから休みの日や仕事から帰ってからはただ、ボーッとテレビでも見ながら過ごすだだった。ところが高一を家に持ち込んでからは百八十度変わった。時間があれば高一を触っている。また、休みの日には電気街に行き、真空管に関連したこまごました物を買って来ては様々な物を組み立てた。
精神的には常時、被害妄想的緊張感と離人症的空虚感に苦しめ続けられていたのが、高一の音を聴いたり、触っている間は心が満たされ、苦しみを忘れさせられた。高一によって生甲斐ができ、少年時代の生き生きとした心になった。
彼は暇さえあれば高一を眺め、聴き、磨き、修繕改造した。高一は真空管ラジオの中では音が良い。スーパー・ヘテロダインと違って、周波数変換をしないから、放送局のスタジオの音がそのまま聞こえてくるような気がした。12Fで整流し、6D6で高周波増幅、6C6で検波して直接、6ZP1で電力増幅をする。電圧増幅の球もなく、音量調節が必要なほど大きな音は出ないので、高周波増幅の感度の調節はできるが、入力ボリュームなどは付いていない。入り口から出口まで単純で音質を損ねる余分な回路がない。
高一から流れるAM放送の音は一道にとっては、自然のなかで幸福感に満たされながら生活していた少年時代に、自分を育んでくれた暖かい音だった。その音に接すると二十年以上も前の自分自身に還ってゆくような気分になった。鮭が生まれ育った川を遡上する感覚もこんなものかもしれないと思った。
AMの音には人の心を原風景に引き戻してくれる雰囲気がある。この雰囲気こそ機器の特性の数値以上に音の良し悪しを決める基本要素ではないのか。わざわざ、真空管のAMラジオの前にマイクを置いて録音したジャズのレコードがあるのもうなずける。
彼は高一の木製のキャビネットを注意深く丁寧に磨き、修復した。剥がれかけたりしている所にはボンドを染み込ませて、それ以上ささくれないように固めた。そして、何度もニスを重ね塗りした。さらに木製のツマミにまでこまめに塗った。また、電気街から買ってきた小物で、劣化した部品を取り替えた。コンデンサーはたいて容量抜けしていた。平滑回路用のブロックコンデンサーと抵抗を新品にすると電源ハムがほとんど無くなった。さらに、6ZP1の第二グリッドをプレートに直結して、三極管の働きにした。これで、音量は小さくなるが、内部抵抗が少なくなって音が優しくなり、ますます彼の好きな音になった。
彼のアパートは狭い路地の行き止まりに建っている。木造二階建てで二十部屋ほどある。彼の部屋は一階の最も奥だった。都市部の開発が進んで、マンションやビルが次々と建設されるなかで、アパートの周辺だけは開発には無関心というようにいつまでも変化がなかった。古い木造の文化住宅や長屋、それに鉄くずや古紙回収の大きな工場が長年風雨さらされた姿を見せていた。その大きな原因は電車の線路沿いだったことにある。早朝、深夜を問わず、列車が走る。通過する度に大きな音と振動が伝わってくる。一日のうち、列車が走らない時間帯は日付が変わってからの四時間ほどしかない。彼は今でこそ慣れたが、初めは音と振動で不眠状態が続き、非常に苦しい思いをした経験がある。
部屋のすぐそばにある裏口から彼は外に出た。隣の建物の壁が迫っているが、人一人が通れる位の幅はある。自分の部屋の窓の下まで行き、足元を調べた。アパートと隣の建物の土台はもちろんコンクリートだが、境界の部分のわずかな隙間からは土が見えた。
「これだけあれば十分だ」
彼はボソボソ言うと、七十センチほどの細目の鉄棒を持ってきて土の中に打ち込んだ。土中は軟らかいとみえてスムーズに進み、頭を少し残した所まで入れた。次にアース用のコードを持ってきて半田づけした。それから次に、窓枠の上部にアンテナ線を這わした。両方とも窓の隙間から室内に引き込み、高一に接続した。そうすると感度、音質ともに格段によくなった。嬉しくなって聞き続けていると、プッツリと音が途切れた。パイロットランプや真空管には灯が点いているのにスピーカーからは音がまったくしなかった。原因を調べると出力トランスの一次巻き線の断線であるのが分かった。彼は明日、工場へ持ち込んで修理しようと思った。
(三)
三津田一道は故郷の愛媛県の中学を卒業して集団就職で大阪の今の工場にやって来た。場所は京阪電車京都線の大阪から京都方向へ三分の一ほど行った古川橋駅から線路沿いに十五分ほど歩いた所だった。駅名の通り、近くに古川というどぶ川が流れていた。夏になるとメタンのあぶくが発生して、どぶ臭いにおいが当たり一面に漂った。
その頃は駅近辺の家並みが終わるとその後はレンコン栽培の池が遠くまで広がっていた。
会社の名前は『カミツ工業』といって、社長の神津の名前をつけた零細家内工業だった。同じ中学からいっしょに三名が就職したが、彼以外の者は給料など条件の悪さに辞めてしまった。職場環境は今でも劣悪だが、就職した頃はさらにひどいものだった。
工場は線路際に建てられた民家の一階を改造して工作機械を三台据え付けていた。機械に向かって座ると作業する者同士の背中が触れ合うくらい余裕が無い。家の周囲は隣家が迫っていて、小さな窓はあるが、日はまったく入ってこない。昼間でも電燈を点けなければ作業ができなかった。工場全体がすすけたような状態のうえに、すえくさい臭いがいつもしていた。
工場は社長一家の自宅兼用で二階を生活の場にしていた。子供が長女と長男の二人がいて家族だけでも手狭なのに、そのなかの、六畳一間が従業員の寝泊りする部屋に当てられていた。一道たち三人が来た時、従業員は誰も居ず、社長と妻の里江の二人で仕事をやっていた。一道は仕事をし始めて従業員が誰も居ない理由が分かった。居ないのではなく皆、辞めていったのだった。
同窓の三人は狭い部屋で寝泊りしなければならなかった。食事は三食、出してくれるが、粗食としか言いようのないものだった。それなのに食事代、部屋代を給料から差し引かれた。なにより、給料が相場より安かった。そのうえ、神津社長夫婦は二人とも痩せぎすで、いつも従業員がサボらないように監視していた。また、就業時間中もそれ以外の時もしばしば、わずかなことにでも口うるさく指図をしてきた。四六時中いっしょにいると日を追うごとに息が詰まりそうになってきた。
これでは、都会の若者が就職する訳がない。現実をよく知らない田舎の中学校に求人票を送る意味も分かる。それで、しばらく勤めていると、いかに条件が悪いかが分かり、辞めてしまう。いっしょに来た二人も都会の生活に慣れると同時に辞めた。
一道が辞めなかった理由は何か。心臓の悪い父親が、彼が集団就職で出発する時に言った言葉だった。
「どんな職場でもよい。十年間、辛抱しろ。そうすれば仕事が分かる。分かったうえで変わるなら変われ。そうしないと結局、何も手につかずに終わってしまう」
一道は父の言葉を守り通した。それどころか二倍の年月を超えるまでになった。今でも労働条件は悪いが、アパートを借りて自炊できるくらいの給料にはなったので、逆に転職するのが面倒くさくなっていた。
仕事はトランスメーカーの下請けのさらに下請けの仕事であった。あまり大きくないトランスの特注品を作るのが主だった。規格品を大量に製造するのは当然、大手がやる。カミツ工業で製造するのは一個々々手作りでやらなければならないものばかりだった。コアの材質、形、大きさもバラバラだ。銅線の太さ、捲線回数も千差万別だった。コアは注文に合わせた形のものが別の下請け会社で製造されて持ち込まれるから、彼の工場ではコアを差し込むための巻芯になる合成樹脂の筒を作り、それに銅線を巻き付けてトランスを完成させる作業だった。手間がかかる割にはあまり儲けはなかった。
一道が就職した頃は、単価が安く、近隣から騒音の苦情がくる程、遅くまで仕事をしても利益はわずかだった。ひたすら埃まみれ油まみれになりながら数をこなすしかなかった。しかし、十年ほど前から様子が変わった。単価がどんどんと上がり始めた。それまでは頭を下げて薄利な仕事をもらっていたのが、今度は利益率の良い仕事を選んでやれるようになった。世の中全体の景気が良くなり、人々の生活も贅沢になって、個性的な商品がよく売れるようになった影響だった。やがて、特殊で高価なトランスの仕事がいくらでも入ってくるようになった。人手を確保して、製品を作れば作るほどおもしろいように儲けることができた。
カミツ工業も時代の流れに乗って発展した。社長の神津は自宅兼工場の建物に隣接している民家を次々と買い増し、ほぼ五倍位の広さにした。敷地は広くなったが、民家の建物はそのままで、それぞれの家の一階の壁をぶち抜いて床を繋げ、工作機械を据え付けた。日は入らず、風通しも悪く、湿っぽく、すえ臭いことに変わりはなかった。社名も家内工業から『株式会社カミツ工業』になった。そして、社長の自宅は線路からずいぶん離れて静かな場所に立派な三階建の鉄筋コンクリートの家を新築した。四人家族にはふさわしくないほど大きかった。
従業員も順次増やしてゆき、現在は常時二十名弱はいる。しかし劣悪な職場環境に辞めていく者が多く、入れ替わりが激しいのは二十年来、変わらなかった。そのなかで最も古参の社員は一道であった。
社長はなんとか社員を確保するために新入社員の給料を上げた。ある時などは新入社員の方が二十年近く働いている一道より給料が高いことがあった。しかも新入社員には、金額を一道には知られないようにと口止めしていた。何かの機会に一道がこのことを知った時は幅の広い顔に怒りを露にして社長に詰め寄った。次の給料から申し訳程度に新入社員よりも多くなった。
最近もいくらでも仕事が入ってきていた。残業さえすれば会社も社員も収入は上がったが、地域が住宅地のため遅くまで機械を動かせなかった。たいした音も振動もしないのだが、町内会の意識が高まり、会社の自由には残業ができなくなっていた。
断線した高一の出力トランスを持ち込んだ一道はわざとゆっくりと仕事をして、残業時間を延ばした。
「それじゃあ、戸締り、電源スイッチなど、あとをよろしく」
社長の神津が一道に鍵を渡してから帰って行った。いつも、いちばん遅くなる者が工場の施錠など後始末をして出る。そして鍵は帰りがけに社長の自宅のポストに入れる事になっていた。
彼は一人になるとポケットから高一の出力トランスを取り出した。小さな割にはしっかりと重みがある。鉄心を枠締めしている金具をゆっくりと広げて外す。鉄心には膨らむ程ではないが、少々錆びが出ている。鉄心を二、三枚抜くと残りは簡単に捲き芯から外れる。単純なE型コアだ。彼はゆっくりと楽しむように巻き芯を巻き線機に取り付けた。電動ではなく手動にし、逆回転可能にして捲き線をゆっくりと引いて別のボビンに捲き取る。始めは二次用の捲き線になっていて、最後まで断線もなく捲き取れる。OPTトランスの二次捲き線は一次より太く、断線することはまずない。巻き線数を見ると八十回ほどだった。
次に一次巻き線を外す。かなり細い銅線になっている。あまり勢いよく巻き取ると切れてしまいそうなのでゆっくりと引きながらほどいていく。中ほどまで進んだ時、プッツリと途切れた。断線箇所だ。一次巻き線も細いとはいえ、断線するのはめずらしい。6ZP1程度の出力管の電流で焼け切れることはまずない。また、絶縁処理された銅線なので劣化もそれほどない。おそらく製造段階でキズが入っていたのだろう。残りの銅線もすべて巻き取った。巻き数は三千回ほどだった。巻き芯を見ると、紙製で再利用できそうになかった。
続いて復元しようとしたが、再利用するのは鉄心だけにした。彼は鉄心を一枚一枚、ていねいに磨いて錆びを落とした。それから鉄心の大きさに合わせて合成樹脂の捲き芯を作った。銅線は、コイル部と鉄心との間にかなり隙間があったことを考えて、一、二次巻き線共に少し太いものを巻くことにした。
彼は時の経つのも忘れて熱中した。完成したのは深夜だった。
(四)
出力トランスを巻き直して高一に取り付け、ラジオを鳴らすと以前よりメリハリのある音になった。それでいて暖かく優しい音が部屋中に広がる。何時までも聞き続けていたい気持ちになる。この頃のオーディオ機器は聞き始めだけは良い音のように思えてもしばらく聞くと、耳障りな疲れる音を出すものが多い。真空管と半導体の宿命的な違いでもあるのだろう。
一道はアパートに居るあいだはほとんど高一をかけっ放しにしている。テレビはまったく見なくなった。寝る時でさえタイマーをつけて、つけっ放しにして眠った。高一を聞きながら眠るとそれまで苦しまされていた不眠症が嘘のように治った。安心して直ぐに寝付くのだ。
いつものように夜遅くまで高一を聞いていると、部屋のドアを遠慮気味に叩く音がした。ドアを開けると二十歳くらいのヒョロリとした男が立っている。
「アノー、上に住んでいる者ですが・・・」
一道の部屋の真上に居る住人だった。人付き合いの苦手な一道はアパートではほとんど誰とも親しくしていない。隣室のリサイクルショップを経営している米沢という中年の男と時々、立ち話をするぐらいだ。真上の住人がどんな人間かまったく知らなかった。
「なにか、用か?」
一道は睨みつけてぶっきら棒に言った。彼は、この男はおそらく高一の音がうるさいので文句を言いに来たに違いないと思った。それならこちらにはもっと言いたいことがある。どれほど頭上の騒音に悩まされていることか。こちらがゆっくりとくつろぎたい時に限ってドタドタとことさら大きな音をさせて歩き回る。不思議なことに金を数えている時には決まってドンドンと床を叩く。そして、深夜になっても平気でギターの練習をする。
さらに、寝付きかけた瞬間に天井板が震えるほど大きなドスンという飛び跳ねるような音をさせる。彼は今までに何回も怒鳴り込んでやろうかと思った。真上の住人の姿を見ずに足音だけで空想していると何時の間にか自分に被害を及ぼし、嫌がらせをする憎い敵になっていた。憎しみが増長するにつれて見たこともない真上の人間に対して極悪非道の大男の姿が想像されてきていた。
「・・・いい音がしてますねぇ。どんなコンポなのか知りたくて・・・見せてもらえませんか。ぼくは桜井と言います」
桜井は頭をペコッと下げた。一道は予想していた人間とあまりに違い過ぎたので力が抜けたが、高一をほめてくれて気分がよくなった。
「あぁ、いいよ。入りなよ」
一道の部屋に他人が入って来たのは久しぶりだった。彼は、前に誰かが入って来たのは何時だったかと考えてみたが思い出せなかった。こたつ兼用のテーブルのそばに座った桜井はさかんにキョロキョロしてから、信じられないという風に高一に目を釘付けにしている。
「あれから音が出ているのですか」
「そうだ。これは高一ラジオと言うのだ」
一道はラックの上に置いていた高一をスイッチを入れたままゆっくりと下ろして桜井の目の前に置いた。
「ヘェーッ!」
手品の箱でも見るように桜井は様々な方角から高一を見回した。一道が裏蓋を外してやるとほんのりと光る真空管に魅せられたように見入った。
「これが真空管ですか。こんな球からこんないい音がするんですねぇ。僕は電子工学科に通って、音響工学を専攻していますが、真空管についてはほとんど習っていません」
「うん、これはもう何十年も前のラジオだが、しっかり鳴っているだろう。真空管のラジオはちょっとだけ手当てをしてやれば永遠に鳴り続けるぞ」
桜井が高一に感心している様子を見て、一道は彼に好感を抱いた。
桜井は一道とは対照的な体つきをしていた。一道は中学卒業以来、重い鉄心の詰まった木箱を運んだり、太い銅線を巻いたりと一日中、体を使って仕事をしている。それに耐えられるように肩幅が広く骨太でズングリした体形になり、指は太く節くれ立っている。顔や体の皮膚は機械の油が染み込んだような色をしている。それに対して桜井は背丈こそ一道より高いが、頼りなく伸びた体に童顔の残る色白の顔で、指は細く折れそうだ。いかにも勉強のみやってきたという感じの学生だった。
・・・クソッ!また被害妄想だ
今、目の前に見る桜井と想像していた上の部屋の住人とのギャップに自分の事ながらあきれてしまう。一道の精神の傾向性は、現実から出発するが現実から抜け出して自分の被害意識に合った世界を作ろうとする。そしてそれを現実と思い込んでしまう。ひどい時には自分自身さえ現実の自分から抜け出して、別人の被害者のようになる気がした。救われているのは、自分でその傾向性を自覚していることだった。
一道は自分の大きな頭を握りこぶしで激しくゴツンと叩いた。
「どうしたのですか」
驚いた桜井が一道の顔を見つめる。
「いやいや、なんでもない」
一道は顔の前で妄想を振り払うように手を左右に振った。
「君の年齢では真空管を使ったことはないだろう。今では日本では製造してないしなあ」
「ええ、大学の講義にも出てきませんが・・・僕の爺ちゃんの家の近くに捨てた真空管がたくさんありました」
「エッ、ほんとうに?」
「今でもあると思います。二、三カ月前に遊びに行った時にも見ましたから。形や大きさは様々ですけど、コンテナに入ったまま山ほど捨ててあります」
一道はとっさには信じることができない。真空管全盛時代に使用不能になったものをまとめて大量に捨てることは考えられるが、それが現在まで残っているとも思われない。桜井が、知識のない真空管と別の物を混同しているのではないかと思える。
「真空管というのは、こんなガラスの球の中にプレートやグリッドやフィラメントが入っているものだぜ。普通の灯りにする電球ではないよ」
高一の6ZP1を指しながら念を押した。
「はい、間違いないです。確かに、中にはこれと同じようなものが入っていました。形は大小さまざまですが、真空管です。もしよかったら、いっしょに見に行きましょうか?」
確信ありげに言い切った。
「ウーン、是非とも見たい。ほんとうに真空管なのだったら・・・」
真空管に魅せられている一道にとっては桜井の話しが事実なら宝の山を発見するのと同じだった。半信半疑ながら夢が広がった。
(五)
日曜の早朝、二人は連れ立って出かけた。桜井の祖父母の住んでいる所は電車を乗り継いで二時間弱かかった。山が迫っている駅で、『古市駅』と書いている。無人の駅で、周辺には人家もまばらにしかない。
「僕の実家はこの駅では降りずに、さらに二時間半くらい乗って行った、城崎です。志賀直哉と温泉で有名な所です。そこで両親ともに教員をしています。自宅から大学へはとても通学できないので、アパートを借りているのです」
「やはり、そうか。桜井君を見ているといかにも頭が良さそうだから、おそらく親が賢いのだろうと思っていたよ」
一道は少し嬉しそうに桜井の顔を見上げた。
「爺ちゃん婆ちゃんの家はこの駅から北西の方角へ歩いて行きます。距離はかなりあります」
桜井は飄々と歩き始めた。一道はいっしょに歩きながら快い気分に満たされた。都会の路地裏で生活していると寒さ、暑さ以外には季節感が無くなる。特に自然の風景の変化とは縁遠くなってしまう。それは豊かな自然の中で生まれ育った一道にとっては魂が抜けるような思いのするものだった。しかし、そんな生活が長く続いているうちにいつの間にか、魂がないのに慣れてしまっていた。
「ああ、いい気分だ!人間の魂が体に帰って来たみたいだ」
一道は大きく手を広げ、空を見上げた。澄んだ青色を背景に白い雲の塊が所々に浮かんでいる。桜の季節にはまだ早いが、山肌は寂しい冬枯れの茶色から無数の芽吹きの兆しを予感させるぼんやりと薄緑に霞んだような色合いを見せている。日差しは暖かい。歩いていると体が汗ばむほどだ。一道は、ずいぶん昔に忘れ去っていた幸せな気分が蘇ってくるような気持ちがした。
少々きつい上り坂を鬱蒼とした杉林の中を通って山あいの方へ行くと二十軒ほどの農家が背の高い木々に覆いかぶされるようにして建っているのが見えてきた。
「あの家並みのいちばん奥が爺ちゃんの家です」
点々と建っている家並みを通り過ぎ、さらに上って行って、村のはずれの家の前まで来た。古い大きな二階建ての家だ。桜井はさっさと玄関に近づき、戸を開けて中に入った。
「ジジイ、ババア、居るか?誠だけど」
一道は言葉遣いに驚いて桜井の顔を見たが、彼は平気な顔をしている。
土間の奥の方から老婦人が出てきた。
「アレッ!マーちゃんじゃないか。よく来たねぇ。お爺ちゃん、マーちゃんがお友達と一緒に来てくれたよ」
奥から今度は頑丈な体つきをした老人が出てきた。
「オーッ、マーちゃん、よく来たな。いつも急に来るから食べるものも何も準備できないじゃないか。とにかく、友達も一緒に上にあがりよ」
老人は長い白い眉毛を嬉しそうに動かしている。
「シジイ、今日は同じアパートで付き合ってもらっている三津田さんが真空管を見たいというので一緒に来たんだよ」
「そうかそうか。ワシは松次郎といいます。これが家内のマサ子です。孫が世話になって有難うございます。真空管ならいくらでも捨ててあるので持って帰りなさい」
「三津田です。よろしくお願いします」
初対面の人と会うと必ず脇の下に冷や汗をかくのが一道の体質だったが、桜井の祖父母に対してはそんな緊張感が感じられないのは不思議だった。
「とにかく三津田さんを真空管のある所に案内して来る。帰りにまた寄る」
桜井は三津田を促して玄関を出るとさらに山の方へ歩き出した。
「桜井君、お爺さん、お婆さんのことをジジイ、ババアと呼ぶのは悪いのじゃないのか」
「そうなんですけど、言葉を覚え始めた時、ジジイ、ババアと記憶してしまい、それが今も続いていて、お互いになんの違和感もないんです。ただ、他人に対しては爺ちゃん、婆ちゃんと言いますが」
「ホー・・・」
一道は何と返事をしたらよいか分からなくなり、適当にうなづいた。
しばらく行くと高く伸びた木々に囲まれた池に出た。日光は周囲の枝葉に遮られて、池の中央あたりにしか射していない。
「何か釣れるんだろうか」
一道が覗き込むと澄み切った水中には動く物は見えなかった。
「ええ、フナやマスがよく釣れます。今はまだ水温が低いので出て来ていませんが・・・この池も山も先祖代々受け継いでいる爺ちゃんの土地なんです」
池に沿った道を奥まで行くと、水源と思える水の流れが注いでいる所に出た。その流れは池から百メートルほど離れた大きな洞穴の中から流れ出していた。洞穴の前まで行って見ると、トラックの荷台に積むようなコンテナが三つ、洞穴に押し込まれるようにして放置されていた。見るからに年数を感じさせ、廃棄物というよりもすでに周囲の自然と融合している感があった。
「三津田さん、これです。真空管です」
少し汗ばんだ額に手を当てながら桜井がうわずった声を出した。
「これッ?コンテナの中・・・」
一道も興奮気味になって、手前のコンテナに近づいた。そして、ドアのさび付いた金具を急いで外して開けた。
「ウォーッ!」
彼は小鳥のさえずりしか聞こえない周囲に響き渡るような声を上げた。コンテナの中には元箱入りの真空管が床から天井まで隙間もなくぎっしりと詰まっている。一道はしばらくの間、その前で呆然と立ち尽くした。
「ほんとうに真空管だったでしょう」
桜井の声に一道は我に返った。
「まさしく真空管だ。まるで夢の中の出来事みたいだ」
「そんなに喜んでもらえるとここまで案内して来た甲斐があります。あとの二つも見てください」
奥の方の二つのコンテナを開けて見ると、同じように隙間も無いほど元箱入りの真空管が詰め込まれている。一道はその中から適当に二十本ほど抜き出して調べた。古いラジオやアンプのST管が多い。どのコンテナも整理されずに無造作に真空管が詰め込まれている。一番奥のコンテナの側面にはペンキがほとんど消えて読みずらかったが、よく見ると「○○の真空管」と家電メーカーの宣伝が書かれていた。
「全部、未使用の新品だ。デッド・ストックだ。桜井君、これはすごいことだぜ」
「そんなに素晴らしいものですか。でも、ここに捨てられて、二十年以上は経っていますよ。僕が物心ついて、爺ちゃん、婆ちゃんの家に遊びに来た時にはすでにありましたから」
桜井は楽しそうに言った。まだ、肌寒いくらいの季節だったが、一道は体の芯から熱くなってくるのが感じられた。
(六)
コンテナの中をくわしく調べようとすると時間がいくらでもかかりそうだった。一道はとりあえずアパートにある高一用の真空管6D6、6C6、6ZP1、12Fを取り出し、桜井の祖父母の家まで引き返した。
「遅かったなあ。食事が冷めてしまうじゃないか。どうだった、気に入ったのはあったか?」
松次郎が早く上がれという仕草をする。
「たくさんの真空管があったので、三津田さんが喜んで必死に見ていたんだ」
「そうか、処分しなくてよかった。処分するには村役場に行って金を出してトラックに来てもらわねばならんので、何十年も放って置いたが、それがよかったのだな」
顔にしわを寄せて松次郎が笑った。
「とにかく昼食を食べなさい。マーちゃんは何時も急に来るから有り合わせの物しかないけどね」
腰の曲がった祖母のマサ子が一道を食卓のところへ引っ張るようにして座らせた。食卓には豊かな山菜料理がたくさん盛られている。古くからの地元の調理方法で作られたものばかりだ。食べてみると一道にはそれが非常に美味しかった。
一道の故郷は海辺だった。だから食べ物の多くは海から取れたものだった。彼の家は特に貧しかったので、副食物といえば明けても暮れても、ほとんどタダで海から手に入る物ばかりだった。普通に考えると飽きてしまいそうだが、彼は飽きるどころか美味しくてたまらなかった。それは母親の民代が昔から行われている非常に多種類の調理方法で素材を生かした料理をしてくれたからだった。山と海との違いはあっても、マサ子が出してくれた料理には一道の幼少年期の食感と共通したものを感じていた。
食事も終わって食卓に四人が座ると話が弾んでくる。一道にとって話が弾むという経験は中学を卒業して以来、思い出せないほどない。特に初対面の者と話が合って、会話が楽しいなどということはあり得なかった。それが松次郎やマサ子とは身構えたり、緊張を感じずに話ができた。
一道は不思議に思って、その理由を考えながら松次郎とマサ子を改めて見直した。するとぼんやりと分かるような気がした。一道は自分の生きてきた道と松次郎のそれとが同じ次元のものに違いないと思えた。また、彼の母親の民代とマサ子も根っこは同じではないのかと思われた。
松次郎とはなによりも体つきがよく似ている。節くれだった指、太い腕、頑丈な肩、骨太な骨格。それらはスポーツなどという非生産的なものによって鍛えられた体とは全く違う。生きるために必要に迫られて肉体を酷使した結果だった。骨が太くなっているのも、筋肉が付いているのも、体全体がズングリしているのもすべて、肉体労働に耐えるために必然的に出来上がった体だった。
「おじさんは元々何の仕事をしていたのですか」
一道から見ると松次郎はまだ、お爺さんと呼ぶほど年寄りではなかった。
「わしはもともとは家具職人だ。長男なので妹や弟のために、学校もろくに行かずに親方のところに弟子入りして丁稚奉公してきた。だが、それだけでは食えないので、生きるためと家族の為に何でもした。家具の材料を少しでも安く仕入れるために直接、山から木を切り出す山師もやった。もちろん、農作業はずうっとやってきた。今もやっている。親父から山や農地を相続したが、それで食っていけるほどの広さもないし、先祖からのもので絶対に売ってはいけない物なんだ。わしの人生は仕事だけじゃ。趣味などというものは無い」
松次郎は苦労話をしながらも口元には微笑があった。話を聞くと一道は嬉しくなった。
「ほんとうに、この人は仕事をするために生きているみたいです。酒を飲むでもなし、賭け事をするでもなく、遊びもせず、ただタバコだけは吸うけど、それぐらいはどうってことはないです」
マサ子は自分の主人の生き方に満足の様子だった。一道の脳裏には、自分と父親の亀三と松次郎の三人が重なり合ってくるような気がした。この感覚は松次郎も一道に対して抱いているようだった。同類は分かり合えるのかもしれない。
「そうして苦労をしているうちに、この村に大手の家電メーカーがラジオと真空管の製造工場を建てた。わしは木工技術が認められて、ラジオの木製キャビネットを作る仕事を手に入れた。結局、その仕事をいちばん長くやった。そのおかげで、息子の、このマー君の父親も大学に行かすことができた。やがて、MT管やトランジスターが世の中に出てきて、木製のキャビネットは使われなくなった。それで、場所的にも不便なこともあったのだろうが、ここの工場は廃業になった。その時の解体業者が真空管の処分に困って、洞穴にコンテナごと捨てたんだ。今は適当に畑を耕したり、山に入ったり、頼まれたら家具を作ったりしている。子供もみんな独立して、こんな孫もできた。今の生活がこれまででいちばん楽じゃ」
遠い彼方を見るような目で松次郎が縁側から空の雲に目をやった。
「あれもお爺さんの作ですよ」
マサ子が指差したところを見るとタンスの上に真空管ラジオがあった。それは古いものではなく、木目も鮮やかな新品だった。適度なニスの塗り具合で木肌の美しさが際立ち、高級家具の雰囲気があった。
「エーッ、あれをおじさんが作ったのですか」
一道はすぐに立ち上がってラジオの前に行った。新品なのは箱だけではない。ダイヤルも木工芸といえるほど見事に作られている。さらにスピーカーのサランネットも新たな布で張られている。
「スイッチを入れてもいいですか」
「ああ、どうぞ。わしは目が弱いので、テレビはあまり見ない。いつもそのラジオを聴いている」
一道がスイッチを入れると、少ししてゆっくりと放送が聞こえてくる。やわらかく暖かい音だ。
「裏も見せてください」
「どうぞ。だけど、中身は古いままですよ。この人は電気には弱いから。年寄りが厚化粧しているみたいなものですよ」
口を押さえながらマサ子が笑った。裏蓋を外してみると、ST管の五球スーパーだった。6WC5、6D6、6ZDH3A、6ZP1、12Fが差さっている。
「すごいなあ、いいなあ!」
一道は感嘆の声を上げた。
「そんなに気に入ってくれるのであれば、三津田さんにも、寸法を言ってくれれば、何時でも作ってあげるよ。暇だからなあ。真空管ラジオの中身さえあればキャビネットなど、簡単なものだよ」
「本当ですか。有難うございます。ぜひお願いします」
一道はよほど嬉しいとみえて何度も頭を下げた。
桜井と一道はついつい長居をしてしまった。夕食も食べろ、と言うのを無理に断って玄関を出た時には山肌にすでに夕暮れの気配があった。
(七)
一道の生活がまた変わった。時間さえあれば、日本橋の電気街に安い部品を探しに行っていたのが、今度は一月に一回は桜井松次郎の所へ行くのが付け加わった。行けば一日中、コンテナの中を調べ、真空管を種類ごとに整理して並べ替えた。大多数がST管で、6WC5、6ZDH3A、6D6、6C6、6ZP1、12F、80Kなどとマジックアイだった。並四や五球スーパーさらに、高一付きの高級六球スーパーラジオが製造の中心だったようだ。
松次郎の家に寄ると、家具の作り方、木材の扱い方を教えてもらった。毎週、休日ごとに行きたかったが、電車賃がかさむので抑えていた。
コンテナから最初に持ち帰った高一用の真空管を修理したラジオに差し替えてみると、古い障子を張り替えたような輪郭のはっきりした音が出た。コンテナの真空管は彼の予想通りの上質の新品のものであった。
「よし、まずは同じ高一を作ろう」
一道の目が輝いた。それは少年の目だった。シャーシーはアルミ板を買ってきて適当な大きさに加工する。キャビネットに入れても真空管が見たいので、シャーシーの前の部分にバリコンを挟んで四つの真空管用の穴を開ける。売られている加工済みのシャーシーは不思議なほど値段が高いが、逆に板から加工すれば実に安くできる。
彼はその他の部品もできるだけ安く、できたら無料で手に入れようと思い、廃品の中からほとんどの部品を調達した。彼が拾った高一のような真空管を使った物は、時代の流れで、さすがに捨てられてはいないが、世の中の景気が急速に良くなってきているからだろうか、燃えないごみや大型ごみの収集日には集積場に、古い電気製品などが山ほど積み上げられた。その中にはラジオの部品に使用できるような物がいくらでもあった。
アンテナコイルは直径二、三センチの塩ビの水道管を拾ってきた。それに直径〇・一から〇・二ミリ程度の銅線を巻けばよい。バリコン側には百四十から百六十回、アンテナ側には二、三十回巻く。検波コイルも同じように作ればよい。6D6から受ける側には適当な幅に重ねて四、五百回巻く。ただ、かさばるので、〇・〇九ミリ以下の細い線にする。バリコン側は百回ほど巻いてやればよい。巻き数はどちらも適当でよい。組み立ててから実際の放送を受信しながら巻き数は調整すればよかった。再生用のコイルは巻かない。再生をかけると分離や感度はよくなるが、彼は再生のかかる音が嫌いだった。
これらの作業を一道は仕事が終わって、誰も居なくなった工場でやった。銅線は大小様々な直径のものが半端な残り物としていくらでもある。それを巻くのに、巻き線機を使えば百回程度は数十秒でできた。
電源トランスはよく捨てられている半導体アンプの物を改造すればよかった。鉄心を抜いたあと、百ボルトへの一次巻線はそのままにしておいて、二次巻線を解いてしまう。代わりに細い線を二千四百回ほど巻いてやる。そして、仮に鉄心を差し込んで電源を通し、二次電圧を測り、二百三十ボルトあたりになるように巻き数を調整してやればよい。12F用の五ボルトも他の六・三ボルトもほぼ、十回を一ボルトと考えて少し太い線を巻き、同じように調整すればよかつた。どの二次電流も容量はたいしたことはないので、巻線がかさばって鉄心が入らないというほどにはならない。仕上げは、しっかりと鉄心を揃えて入れて、ボルトとナットで締め、鉄心の緩みによる唸りを抑えるために耐熱性の塗料を染み込ませておけばよい。
出力トランスは、今度はチューナーやプリアンプなどの小容量の電源トランスを使えばよかった。高一の出力トランスを修理した要領で線を巻き上げれば、これも簡単にできた。
一人残っていた工場で一道は二つのコイルとトランスを完成させた。彼にとっては慣れた簡単な作業で時間もそれほどかからなかった。
「やれやれ、社長や奥さんが来なくてよかった」
彼は立ち上がって腰を伸ばしながらつぶやいた。工場の鍵が社長の自宅に返ってくるのが遅い時には時々、社長や妻の里江が様子を見に来ることがあった。わずかな銅線を、それも捨てるような物を勝手に使っているだけで、別に悪いことをしているわけでもないが、疑り深い二人に見られるのは彼にとっては気分の滅入ることだった。
翌日から、仕事が終わるとすぐにアパートに帰り、食事も簡単に済ませて高一の部品探しと製作に没頭した。
バリコンは、まず薄めのアルミ板に可動羽根、固定羽根の形をできだけ多く書き込み、それを金切り鋏で切り出す。次に、羽を固定するためのボルトを通す穴をドリルで開る。固定用のボルトはできるだけ長いものを使い、頭の部分を切り落とす。それに羽を1枚づつ差込みながら間に厚みのあるワッシャーを挟んで両側からナットで締め付ける。同じものを二箇所に作り、二連にする。それから厚目の鉄板をU字型に曲げて外枠を作り、両方の羽根を絶縁に注意しながら取り付けて完成させた。
真空管用のソケットはトランスの巻き芯に使っているプラスチックを二重に重ね、間に薄い銅版に真空管の脚より僅かだけ小さい穴をポンチで開けたものを挟んで固定して作る。これでも少しぐらい抜き挿ししても接触不良を起す心配はなかった。
B電源の通る耐圧電圧の大きいコンデンサーは今では、家庭用品にはほとんど使われていない。しかし、家電製品には百五、六十ボルトのものは意外と多く使われているので、それを直列につなげば使用できた。容量は四分の一になるが、充分すぎるほどだ。六・三ボルトのパイロットランプは最も電流の少ないものでも明るすぎて使いづらい。それで八ボルトのものにして薄暗くする。残りの抵抗やコンデンサーはどこにでもあるものだ。様々なところからの寄せ集めでほとんどの部品がそろった。
一道は高一を完成させて、ラジオを聴くのも楽しみだが、作ること自体がなにより楽しい。長く楽しみたかったので、彼はゆっくりと時間をかけて作った。どうするのがよいか迷う時など、あれこれ考えることがこの上なく楽しい。そしてそれがうまくいくと喜びも大きくなった。
楽しいだけに暇さえあれば作業を進めるので、意外に早く完成の時が近づいた。最後の仕上げは、バリコンを中心にして真空管がキャビネットの外からでも見えるようにガラス板を加工することだった。これも拾ってきた割れたガラスの一部を使えばよかった。二千円程度のガラス切りとガラスドリルがあれば簡単に加工できる。真空管に合わせて適当な大きさに切ったガラス板の中央付近にバリコンのシャフトであるボルトが入る穴を開ける。それから四隅にもシャーシーに固定するための穴を開ける。そして数字を書いた適当な文字盤をバリコンの穴を中心に貼り付け、裏側にパイロットランプを付ける。それをシャーシーの前面に立てて固定し、とりあえずありあわせのダイヤルをつけて全て完成した。
三日ほどかけて一道は高一を完成させたが、その間、毎日、桜井もやって来て手伝った。
「三津田さんは、なんと器用な人ですねえ。僕は理論は勉強すれば分かりますが、こんなラジオはとても作れません」
桜井は感動の面持ちで完成した高一ラジオを見ていた。
音出しにはスピーカーの準備ができていなかったので、今ある高一のスピーカーに接続して試してみた。部品点数の少ない配線だったので間違うこともないと思えたが一応、真空管を抜いて、手順を追って各部の電圧などを確認する。異常はない。いよいよ、四本の真空管を挿して電源を入れた。一道の顔が期待と不安で緊張する。それ以上に胸が高鳴る。この感覚は何度経験しても新鮮なものだった。その感覚が桜井にも伝播して彼も快い緊張感に心が弾むのを感じていた。
すぐにパイロットランプが点き、外からフィラメントの見える真空管が徐々に明るくなる。二人ともスピーカーに耳を向けて音が出ないか神経を集中させる。かすかにハム音が聴こえてくる。そして放送は入らないが、確かに電波を受信している音がする。一道はゆっくりとバリコンのダイヤルを回した。指がかすかに震えているように見える。少し回すと急に明瞭な音声で放送が飛び込んできた。
「ヤッターッ、万歳!」
二人とも、両手を挙げて大声を出した。
二人はしばらくの間、種々の放送局に同調させては満足気に聞いていた。
「さあ、それじゃ、少し調整してみるか。もっとよく聞こえるようになるだろう」
「これだけ受信しているのに調整するところなどあるのですか?」
桜井は興味深そうに見ている。
「そう、少しだけ、コイルの巻き数とバリコンの羽根の具合を調整するとよくなるはずだ」
一道は放送を聴きながら各コイルの銅線を解いたり巻き足したりする。また、バリコンの羽根の間隔を細いラジオペンチで広げたり、狭めたりもする。その度に受信状態は大きく変化する。彼は最も音が大きくなるように調整していった。桜井は僅かな、コイルやアルミの羽根の変化が受信に大きく影響を与えることに非常に関心を持ったらしく、覗き込むようにして一道の指先の動きを見ていた。
「なにせ、手作りだからなぁ。特にバリコンは羽根の状態にムラがあるから、丁寧に調整してやる必要がある。高い周波数と中程と低い周波数と全体的にバランスが取れた聴こえ方にすればよい」
一道は話をしながらも手は休めずに調整を済ませた。前よりもさらによく受信ができるようになる。音質もアナウンサーが近づいたのではないかと思われるほどよくなる。
「こういう事を全部、勘でやれるんですねえ。すごいなあ・・・でも、こんな調整ができる測定器はないんですか?」
「有るにはあるんだろうが、俺はガキの頃からテスター一つで全部、やってきた。高級な測定器などは金も高いだろうし、使い方もややっこしいようで、俺には向いていない。でも、桜井君みたいな賢い子なら使いこなせるから、いろいろ研究してみてよ」
一道はニコニコしながら言った。
「ええ、測定と調整というのは、なにか、非常に面白そうですね。目に見えないものの状況を調べて、それに従って目に見えるものを変化させて、目に見えないものを自由に操るということですか・・・おもしろいなあ。いろいろ、真空管に関連する測定器や参考資料を集めてみます」
「君が言うと難しい話になるなあ。でも、俺にはできないから頑張ってよ」
「はい、どうやら僕の大学での研究と重なってきそうですので、本気になってやってみます」
桜井の目が輝いた。
(八)
「社長と奥さんに気付かれないように車を出すからちょっと待っていてくれ。なにせ、会社の車を使うと、ガソリン代がいる、減価償却がどうのこうのと、うるさい夫婦だから」
二週間後の日曜日、一道は会社のライトバンを工場の駐車場からこっそりと乗り出して、アパートの前に止めた。そこで新しく作った高一を積み、大型ごみのテレビからはずしたスピーカーを持っている桜井を乗せて、松次郎の家に向かった。途中まで中国自動車道を通ると時間的には、鉄道で行くのと同じくらいで「古市駅」の近くまで行くことができた。
杉林を通って松次郎の家に近づくと沿道に薄紫のアジサイがところどころに咲いているのが目に付いた。
「アジサイの花はこんなにきれいだったのか。見物用にまとめて植えられたアジサイなんか、造花と同じだ。ここのように自然の中に咲いているのがほんとうの美しさだろう」
一道はゆっくりと運転しながら少しはにかむような顔をした。
「そんなものですかねえ・・・アジサイの花の色は土壌のPH濃度によって『七変化』するという説がありますが、この辺の色は薄紫ですから、やや酸性なんでしょうねえ。美しいですが、葉を食べると中毒をおこします」
「美しいものには、毒がある・・・ハッハッハッ」
一道は照れくさそうに笑った。
「それにしても桜井君は何でもよく知っているなあ。若いのに草花のことまで研究しているのか?」
「僕は知ることが好きなんです。どんな分野でもいいんです、未知のものについて理解することが楽しいんです。楽しみなので一度、知るとほとんど忘れることはありません」
「ホーッ、やっぱり頭がいいんだ」
「音響工学を専攻しているのも、音響や音質などというものがまだ、学問的に理論構築されていなくて分らないことが多くあるからです。簡単に言えば今はまだ、どうして音がよいのか悪いのか、単純な測定や主観で判断しているだけで、理論としては全くといっていいほど研究されていないのです。だから面白いのです。例えば、歪率ひとつを取って見ても、測定や解析の研究はなされて、当然のように歪率が低い方が音質が良いとされています。ところが、実際の演奏などでは、歪音が快く感じられることは間々ある事です。どうして歪が快く感じられるのか、理論的には全く証明されていません」
「ウーン、君がしゃべると難しくなるが、確かにそうだ、大金を出せばいい音がすると神様を信じるみたいに思い込んでいるやつが多い」
音質の話になると二人の会話は弾んだ。
話をしているうちに松次郎の家の玄関前に着いた。松次郎には十日ほど前に高一のシャーシーやスピーカーの大きさ、そしてキャビネットへの取り付けネジの位置などを図面にしてファックスをしておいた。
松次郎は二人が家に入ってくると早速、真新しいキャビネットとダイヤルを持って来て食卓の上に置いた。
「おそらく取り付けもうまく合うと思う。スピーカーのサランネットはマサ子が選んだものを適当に貼り付けたが、どうだ?」
木の香りと鮮やかな木目が清々しい。
「オォーッ、すばらしい!」
しばらくの間、一道はキャビネットを四方から感動の眼差しで見回した。
「とにかく、シャーシーとスピーカーを取り付けさせてもらおう」
一道と桜井は手際よくそれらをキャビネットの中に固定していった。ボリュームと電源スイッチのシャフトも開けられた穴に狂いなく通すことができた。
「ダイヤルの穴の大きさも寸分の狂いもない。すべて完璧だ!」
一道は感激して言った。前面は一枚板で作られている。ガラス窓となったところからはちょうど、バリコンを中心に左右に二本の真空管が見える。同調用のシャフトに付けられた木のダイヤルは他の二つの物と違ってかなり大きめのものだ。これで同調が楽なはずだ。この大きいダイヤルと下の小さい二つのダイヤルのバランスが懐かしいラジオの雰囲気をかもし出している。スピーカーの部分は格子戸風にくりぬかれている。そして裏から品のよい色合いのサランネットが張られている。裏蓋も手間隙かけて、真空管の熱気がうまく逃げるように細かくくりぬかれている。全体が同じ種類の木材で仕上げられている。
「さすが、家具職人さんだ。芸術品だ」
また、感嘆の声を一道があげた。
「三津田さん、電源を入れてみましょうか」
桜井に促されて、電源コードを差込み、アンテナに四、五メートルのビニール線を付けて、ゆっくりと左下の電源スイッチを回した。そしてガラス窓の中の真空管に目を凝らした。よく見えるようにするため6D6、6C6のシールドキャップは頭部だけのものにしている。やがてフィラメントが赤くなる。12Fと6ZP1はフィラメントが見やすい。6D6、6C6も見る角度を変えればほんのりとした灯りが見える。
スピーカーからかすかにハム音が出てくる。ゆっくりと同調つまみを回すと放送が入ってくる。再生をかけていないので同調が甘いが、それが少しぎこちない動きのバリコンには合わせ易い。右側のつまみで6D6の感度の調整をして、適当な音量の位置にする。6ZP1を、拾った高一と同じように三極管接続にしていることもあって音質が非常に柔らかい。拾ってきたスピーカーだったが、松次郎の木製キャビネットの中で快く響く。
「アー、いい音だ」
四人とも満足そうな声をあげた。音量を上げて、いつまでも聞き続けたい音だ。
「おじさん、おばさん、ほんとうにありがとうございました。宝物ができました」
一道は何回も頭を下げた。
「いやいや、暇つぶしにやっただけじゃ。必要なら何箱でも作るぜ」
松次郎もマサ子も嬉しそうだった。
桜井と一道は夕食まで世話になってからアパートに帰った。
大きな風呂敷に包んだ高一を持ったままの一道と桜井が一道の部屋のドアを開けようとしていた時、ちょうど隣部屋のリサイクルショップ経営の米沢が帰ってきた。
「それ、なに?」
大事そうに抱えている風呂敷包みに米沢の視線が釘付けになった。一道はどうしてもこの男が好きになれない。ずいぶん前に婚期は過ぎている年齢なのに一人で住んでいた。太い眉毛に面積の広い顔には特徴がなく、本心とは別に表情を自由に操れるのではないかと思える。また、言葉遣いは妙に丁寧だが、人を食ったようなものの言い方をする。被害妄想の傾向のある一道にとっては米沢の背後には大きな邪悪の塊が隠されているように感じられた。
「これは真空管ラジオだ」
年齢からすればもちろん、米沢の方が一道よりかなり年上だが、一道は自分にとって危険と思える者に対してはいつもぞんざいな言葉遣いになった。
「ホォー、ぜひとも、ちょっと見せてもらえませんか」
了解もしないのに米沢はドアを開けた一道の後について部屋へ入ってきた。一道はしかたなしに座卓の上で風呂敷を広げて見せた。
「ヘェーッ、なんとこれは、いい物じゃないですか」
米沢は商売人の目になって高一を見た。そして、いかにも欲しそうな顔つきになった。
「これをうちの店で売らせてもらえないですか。いい儲けになるようにするからさあ。頼みますよ、この通り」
大げさな身振りで、何度も頭を畳にこすり付けるようにする。
「これは売るために作ったのではない。趣味でやっているだけだ」
「だから、その趣味も人のためになるんだったら、それに越したことないじゃないですか。それに、あんた、こんな宝物をもう一台、持ってるじゃないか」
拾ってきた高一の方に顔を向けてあごをしゃくりながら、ラジオを持ち帰ろうとする。
「だけど、俺は売る気はないぞ」
一道が不機嫌に言うと、米沢はあわてた様子で財布から一万年札二枚を出して一道に無理やり握らせた。
「うちの店は儲けよりも社会奉仕、環境保護が目的でリサイクルをやっているのですから、商品を提供してくれたら、その人は間接的に社会のお役に立っているということになります。両方ともいい事をすることになるから、いいじゃないか」
米沢は有無も言わせず、ラジオを持ってすぐにまたアパートを出て行った。
強引な米沢に一道は憎々しく思ったが、気分はそれほど悪くなかった。松次郎や自分が精魂込めて作った物の良さが他人にも認められたような気がするからだった。
桜井は終始面白そうに見ていた。
「もし、売れたとしたら楽しいですねえ。確かに趣味が実益になるのは理想ですよ」
彼は子供のように笑った。
(九)
米沢の経営するリサイクルショップは新大阪駅から淀川の方向へかなり離れた場所にあった。十分ほど歩けば広い川幅の淀川堤防に出た。それでも駅前再開発地域に入っていて、最近の道路整備で木造二階建の借家の店舗は十五メーター道路に面することになった。車や人通りも整備前よりはるかに多くなっていた。
米沢のショップは一階に雑多な商品を並べ、二階は集めてきた品物を保管するのに使っている。商品のほとんどは不用品や大型ごみの中から使えそうなものを拾ってきたものだ。経営している、と言っても従業員は彼以外にパートで来てもらっている店番の老婦人だけだった。
米沢は一道からひったくる様にして貰ってきた高一を店の一番目立つところに陳列した。値札には、値切られることを前提に四万三千円と書いた。今時、真空管ラジオがどのくらいの値段で売買されるのか予想しにくかったが、一道達の製作した高一は外観からしても安物やまがい物ではないことが素人でも分かるような気がしたので高めにつけた。
高一を店頭に出してから二日目、高年のサラリーマン風の男性が来て、
「このラジオは実際に聞こえますか」と尋ねるので、米沢はプラグをコンセントに差込み、電源を入れて音を出してみせた。その男性はたいへん気に入った様子で、定価ですんなりと購入した。彼は予想以上に高額でしかも早々と売れたのには驚いた。同時に、うまくやれば大儲けができると思った。
「とにかく、なんでもいいから、どんどん作ってよ。三津田さんかて、金儲けが嫌いな訳じゃないでしょう。わたしはこの商品には大いに乗り気になっているんですよ」
米沢は高一が高いマージンを上乗せしても売れたことで気をよくして、一道を追い立てて作らせようとした。さらに松次郎の家までついて行き、大量のキャビネットの制作まで依頼した。費用の支払いは自分が直接支払うことまで話を進めていった。
さらに米沢は一道の高一製作が数多くこなせるようにするためにアパートから少し離れた、同じく線路沿いに建っている一戸建の住宅を借りた。そして、そこに一道を半強制的に引っ越させた。
一階が七坪程の土間になっていて、二階で生活ができるようになっていた。アパートの部屋よりもさらに線路に近づいて建っているので、電車が通る度に激しい音と振動が家屋全体を襲った。それでもアパートとは比べものにならないくらい広々としていた。一道がこれまで生活してきたなかで、自分専用の生活空間としてはもっとも広かった。
一道は米沢に対して警戒しながら不機嫌に接するが、米沢のおどしたりすかしたりする話術は口下手な一道の太刀打ちできるものではなかった。結局、米沢の言いなりになっていた。それでも、一道にとって真空管のラジオ作りは好きなことなので、不快ではあるが不満ではなかった。
日を追う毎に一道は忙しくなった。手が足りない時には桜井にも手伝ってもらった。カミツ工業での仕事が終わればすぐに帰って来て、夕食もそこそこに一階の土間で制作し始める。それが深夜まで続いた。こんな彼の生活の変化に疑心の強い社長夫婦が気づかない訳がなかった。すぐに専務で妻の里江が彼の家に様子を見に来た。それからしばらくして、どこでどう繋がったのか、カミツ工業に米沢が出入りするようになった。
ほどなく社長が、一道の家に相談したいことがあると言ってやって来た。
「一道君は、儲けの良い仕事をしているらしいな。米沢さんから聞いたぞ」
かなりニヤニヤした顔つきなっていた。
「俺は、仕事は仕事でちゃんとやっているよ。ラジオは趣味で作っているだけだから」
一道は、ラジオ作りの為に仕事をおろそかにしていると疑った社長が文句を言いに来たと思った。
「いやいや、そういう意味で言っているんじゃない。逆に、そっちの方を本業にしてくれないかと言ってるんだ」
「ハァ-?」
初めは神津が言っている意味が分からなかったが、よく聞くとカミツ工業から高一ラジオの部品を供給するから一道はラジオの組み立てを仕事としてやれ、ということだった。そして一道を工場長に任命するから給料は利益が上がりさえすれば増やしてやると言う。好きな趣味が仕事になるのだから断る理由はないと思えた。
「そうしてもらえたら、俺もありがたいですが・・・」
「よっしゃ、そうと決まったら、どんどん作ってくれ。うまくいったら大金持ちになれるかも知れんぞ、一道君」
神津は自信ありげに口をへの字に曲げて何度もうなずいた。どうやら米沢とすべて、話はついていたようだった。
一道は朝起きてカミツ工業の方へ出勤する必要もなくなった。一階に下りて一人でラジオを組み立てればよい。人間づきあいが苦手で神経過敏の一道にとっては仕事がやりやすくなった。なにより、専務の里江にトイレに行く回数までチェックされて仕事させられることから解放されるのは気分が晴れることだった。
必要な部品やその作り方は一道が工場の者に指示して作らせた。バリコンや真空管ソケットなどには改良を加えて、均一なものが製作できるようにした。工場では、神津が徹底的に安く作ることを金科玉条にして儲けを稼ごうとしていた。一道が少しでも割高で良質のものを作ろうとすると急に不機嫌になって許さなかった。
トランスの鉄心は専門の業者から決められた形のものを納入させていたが、自社で製造したほうが安くつくということで、プレス機を購入して狭い工場に設置した。そして最も安い電磁鋼板を仕入れてきて作った。
「せめてオリエントコアにしろよ」と一道は文句を言ったが、神津は少しでも儲けが減るような話になると眉根に皺を作ってむずかしい表情になり、聴こえないふりをした。
部品の量産ができるようになると、桜井松次郎からも真新しいキャビネットとダイヤルそして四種類の真空管が次々と届いてきた。洞穴にあったコンテナの真空管の量を考えると様々な種類の物があったにしても代表的なラジオ球の6D6、6C6、6ZP1、12Fは膨大な量があり、不足しそうには思えなかった。
一道はフル回転で働いた。食事と眠る時以外は一階の作業所で何時も手を動かしていた。材料を加工するような作業は全部、工場で済ませてくるので、彼がやるのは部品の取り付けと半田付けが中心になった。それでも一台を完成させるにはかなりの作業量だった。
(十)
米沢は高一ラジオを本格的に販売するためにチラシを作った。
「あたたかい音・あたたかい光・あたたかい木」というキャッチフレーズを用紙の上段に大き目の文字で書く。次に品名を「真空管ラジオ《望郷》」と毛筆体で太く書く。中ほどに一道の組み立てたラジオの大写しの写真を入れる。その下には「懐かしい真空管のともしびを見ながら、ふるさとで聴いたラジオ放送の音に耳を傾ければ、こころはこの上なく癒されます」と宣伝文句を入れる。全体の背景に薄く里山の写真を写し込む。いちばん下に、製造・カミツ工業株式会社、販売・米沢商会と入れる。定価は半導体のラジオの五倍位に設定した。
《望郷》を本格的に売り出すとチラシを配布しなくてもよく売れた。ショップの店頭に並べただけですぐに売れた。一道はその販売数を製作するのが精一杯だったのに、米沢が新大阪駅周辺地域の新聞折込にチラシを入れたものだから注文が多量に入ってきた。とても一道一人では対応できなくなった。
神津と米沢が製造が間に合わないのにイライラして一道のところへやって来た。
「人手をいくら使ってもよいし、設備投資もしてもよいから、とにかく注文の数を作ってくださいよ。こんなマージンのいいヒット商品に短い人生で何度も出会えるものじゃないですよ。会社にとって今が最大のチャンスです」
米沢が拳を振り回しながら力説する。
「そのために、この借家と両隣の二軒も高い金を出して買い取ったよ。壁をぶち抜いて床を繋げれば三倍の広さにできる。そして、ここを『カミツ工業組立工場』にして、あちらの部品を作っている方を『カミツ工業本社工場』として本格的に大量生産をやっていくぞ。だから一道君、しっかり頼むよ」
神津は小作りな顔をめずらしく脂ぎらせている。
二人は意気込むが、組み立てにしても半田付けにしても未経験者がすぐにできるものではない。こういう品物は不慣れな者に作らせると高い確率で不良品が出る。一時的には可動しても長年、使用すると必ずといってよいほど不具合が生じる。一道が作る楽しみを味わうのは二十年以上使ってもびくともしないような品物だった。
「こんな丈夫な物を誰が作ったのだろう」
大げさに言えば、後世の人がこのように感心してくれることを想像するのが彼の何よりの喜びだった。だから、一つのボルトやナットの締め付けや一本の抵抗の半田付けにしても十分な年数に耐えられるように作業していた。すべての過程でほぼ完璧に仕上げているつもりだった。それを、とにかく数をこなせと言われても一道の気持ちとして、いい加減な仕事はできなかった。かといって、神津や米沢の要求を無視することもできなかった。
「桜井君に頼むしかないか・・・」
これまでも様々に手助けしてくれている桜井は電気関係の、理論的にはもちろん、実際の作業にも非常に優れてきていた。さらに今ではどこから手に入れてくるのか様々な中古の測定器や雑誌を狭いアパートの部屋いっぱいに持ち込んでいた。そして《望郷》の最終調整は一道の勘頼みでは時間がかかるので、桜井にテスト・オッシレーターを使ってやってもらっていた。
「大学も暇ですし、いくらでも手伝いますよ」
一道が生産増の応援を頼むと桜井は機嫌よく引き受けてくれた。彼は頭脳明晰な学生で、大学の講義などは余裕でこなしている。実際、何時も飄々として暇そうだが、単位は優秀な評価で修得している。
「一部を流れ作業にせざるを得ないですねぇ」
桜井は作業の分割とその仕事量を細かく計算し始めた。ボルトとナット一対を締め付ける作業でも、ワッシャーを何個挟むかで仕事量に差を出す。さらに同じ仕事量でも、作業者の得意不得意によって掛かる時間に差があると考えられるものにはそれも勘案して分割していった。
「ガラス加工は業者にやらせるとして、僕たち以外にあと七人の作業員がいるとうまく分業できると思います」
「それじゃあ、社長に言って人を集めてもらおう。ついでに、壁を取払って作業場も広げてもらう」
仕事の状況を神津に説明してから作業員の増加と作業場の増築を頼むと、めずらしく機嫌よく引き受けてくれた。人数を増やせばそれだけ人件費が増加するので不機嫌になると思ったのだが、よほど儲けが良いに違いなかった。
返事は良かったのだが、すぐに新聞の求人欄に募集を掲載してもなかなか人が集まらなかった。それもそのはずで、時給が世間並みより安かった。カミツ工業よりもっと高い時給で手の汚れない仕事がいくらでも載っていた。それでも三、四回掲載してどうにか七名、近所の人が来てくれた。七人とも女性だったが、六人は主婦で一人が未婚者だった。両隣の住人も引越して壁を取り払ったので作業場も広がった。
桜井は計算に基づいた分業設計を現場に当てはめていった。
まず三名で分担してシャーシーへの部品の取り付けをする。次の一名で配線コードを使用場所にしたがって半田づけしやすいような適当な長さに切断して、両端の被覆を剥がす。残りの三名で抵抗、コンデンサー、配線などを半田付けしてゆく。桜井と一道でキャビネットへシャーシーとスピーカーを固定して調整をする。桜井によるとこれで各個人の製作時間は均一化され、最も効率よく作業がはかどるはずだと言った。ただ、半田付けの三人が熟練することが条件になるので、それまではしっかりと教えなければならなかった。
実際に製造を始めてみると種々雑多な問題がいろいろと出てきた。桜井はそれらをたのしく遊んでいるように見事に解決してゆく。神津がしぶしぶながらも工具類にも資金を出してくれるので、桜井はどこからともなく作業に適した便利な物を購入してくる。部品取り付けのボルトやナットを締めるための非常に小型のトルク調節つきの電動ドライバーを始め、配線用のコードの切断機や被覆除去機など、一道も、よく捜したものだと感心するようなものもある。基本的に体力の弱い工員でも長時間、作業が楽にできるように考えていた。
工員が作業に慣れるにつれて、スムーズに流れるようになった。ただ、どうしても作業が滞ってしまうのは、一人で担当している、配線の切断と被覆はがしの工程だった。桜井の仕事量の計算が間違っていたのではなく、むしろ他のところより仕事量は少なかったのだが、この作業につけた有沢和美という娘の動作が随分にぶかった。彼女はパートに来てくれた中で唯一の独身者だった。切断機も被覆除去機も電動で一度に七、八本の処理が可能なのだが、有沢は除去機にコードを入れるのを怖がって一本づつ、ゆっくりとしか被覆を剥がせなかった。
「奥のブラシに爪が削られそうで怖い。回っているのが見えなければいくらでもできるけど」
有沢は年よりも老けて見える顔を少し歪めて言った。感情が顔の表情にはあまり出ないタイプだが、他の者に迷惑をかけることをたいへん気にしているようだった。確かに、除去機は複数のブラシを回転させて被覆を削り取る構造になっていて上下にはカバーがあるが、挿入口からは音を立てて回るのがわずかに見える。普通の者であれば、恐怖心を起すようなものではなかった。有沢の配置換えをすればよさそうなものだったが、彼女の作業の様子を見ていると、他のことをやらせるともっと流れが中断してしまいそうだった。
「・・・それでは一本ずつになるけどアレでやってみますか」
困っている有沢を見て、どこからか桜井が持ってきたのは電動鉛筆削りだった。芯の太さを調節してコードを入れると単線だったこともあってうまく被覆が削れた。さらに挿入口に配線の太さに合うような円筒の枠を噛ますとスムーズにできた。なにより、指を削られるような恐怖心はまったくおこらなかった。有沢は今度は怖がらずに、鉛筆削り機を二個並べて一度にできるようになった。これで作業の流れはほぼ順調になった。
七名の工員が慣れるにつれて《望郷》の製造数は延びていった。
米沢は何時の間にか《望郷》専用の梱包用ダンボール箱なども作らせていた。いよいよ本格的な製品として高一が出来上がってきた。完成し梱包されたものを見ると、一道も桜井も考えても見なかった方向になったのに少し戸惑いながらも、妙な満足感に襲われた。
(十一)
《望郷》の製造が順調に進むようになってからも、米沢は次々に増産の目標を上げてくるので、寝る暇もないほど忙しい日々が続いていた。一応、日曜日は工場は休業だが、一道は翌日からの仕事の段取りをするのに一日中、動かなければならなかった。それで、松次郎の所へも行く時間がなくなっていた。
十月も終り近くになった日曜に、どうにか仕事の段取りをつけて、朝から桜井と古市に行くことができた。
「すっかり、稲刈りも終わっているな。空気がぜんぜん違う。風が心地よい。緑のない濁った空気の工場辺りと比べれば天国と地獄だ」
古市駅近くから、松次郎の家の方へ緩やかな勾配の田舎道を車を走らせながら一道が深呼吸を何度もしている。窓は開けて入ってくる空気を吸い込む仕草をしている。途中、背の高い杉林があるが、そこを抜けると山すその田園風景が広がる。桜井は風景などには関心が無さそうだか、それでも一道につられて大きな呼吸を一回した。
松次郎の家の近くで車を降りた。そばに新しく大きな工場が建っていた。仕事は休みで人は居ず静かだ。
「この工場でキャビネットを作っています。これだけ広くても製造が間に合わないくらいになっています」
桜井はその後も何度か、祖父の家に遊びに来ているので状況はよく分かっていた。
「ジジイ、ババア、居るか?遊びに来たぜ」
桜井が何時もの調子で大きな声を出すと、松次郎とマサ子が奥から出てきた。
「三津田さん、久しぶりによく来てくれたね。早く中に入ってお茶でも飲んでください」
家の中に入ると、開け放たれた縁側から凛とした風が入り心地よい。
「お金は少しは多くもらえるようになったが、忙しくてしかたがないよ」
苦笑いをしながら松次郎が、一道と前回会ってから以降のことを話した。一道と同じく生活が大きく変わっていた。仕掛け人はまたも米沢だった。
「金儲けができるのだから文句はないだろう」
こう言って米沢は松次郎の気持ちなどは無視して、次々と話を進めていった。村長にも話をつけて、村の発展の為だからと村の土地を安く借り上げ工場を建てた。そして松次郎を工場長に立てて職人を集めさせた。松次郎の知り合いの木工の熟練工だけでは人数が足らなかった。米沢は新聞折込に募集チラシを入れて人を集めた。ところが応募してきた人はほとんどが素人で、松次郎を悩ませていた。必要数は出荷するが納得のいく仕事にはなっていなかった。
「俺の方もおじさんのところと全く同じですよ。ぜんぶ米沢に仕切られて好きなように働かされている。元はと言えば俺が米沢に関わったからいけなかった。すみません」
「いやいや、三津田さんが謝ることはないよ。村の人は現金収入が増えたと言って喜んでくれているし・・・まあまあ、今日は仕事のことも忘れてゆっくりしていけよ。そうだ、気晴らしに鱒釣りでもやろうか。昼食は鱒の塩焼きにしよう」
「それだったら、後でおにぎりを握って持っていきますから先に池に行って釣ってください。これも忘れないように」
マサ子が十本ほどの鉄串を持ってきた。松次郎はそれを受け取って外に出ると、裏の方から釣竿を三本持って来た。釣竿といっても竹を根の部分から切り出して乾燥させ、先に釣り糸を付けただけの物だ。
「それじゃ、行こうか」
三人は真空管のコンテナが捨ててある洞穴の方へ上って行った。一道が以前に通った時には獣道のようなものだったが、今は軽トラックが走れるくらいになっている。おそらく何度となく真空管を運び出しているうちに自然と広がったのだろう。
洞穴の手前の池に着いた。水温が低い季節は魚影は見えなかったが、今は湖面をのぞくと多数のハヤが勢いよく逃げてゆく。
「うまくハヤをかわせば釣れる」
松次郎が釣竿を渡しながら言った。一道は嬉しくなった。釣りをするなどというのは何年ぶりか、いや何十年ぶりか思い出せない。故郷で中学を卒業するまではよく近くの海に釣りに出かけた。父親が心臓を悪くするまでは幼い頃もしばしば釣りに連れて行ってもらった。遊びといえば釣りだった。就職で大阪に出てきてからは釣りをした記憶がない。
竿を握ると釣りの懐かしい感覚が蘇る。餌は持ってきていなかったのでどうするのかと思っていると、松次郎は近くの倒木の腐った部分を石で叩いて砕いた。
「適当にこの虫を取って針につけなよ」
スポンジのようになった木片を見ると、一センチほどの白い幼虫がたくさん動いていた。一道はそれをつまんで針に刺し、浮きもなく小さな鉛玉しかついていない糸を池の中へゆっくりと落とした。すると人影に花火が散るように逃げたハヤが瞬時に多数寄ってきてアッという間に餌を食う。竿にブルブルと振動が伝わる。引き上げるとよく肥えたハヤが元気よく跳ねながら釣れた。
「ハヤをよけながら餌を底まで落とすんです。そして鱒が回遊してきた時にゆっくりと引き上げます」
桜井が実演しながら説明する。確かにハヤは、餌が水面に落ちた瞬間にいや、よく見ると水面に着く前の影の動きにさえ反応して飛びついて来るが、ある深さに沈むと興味をなくしたように追いかけなくなる。
「アッ、鱒が回って来ました。見ていてください。こちらに近づいた時に餌をスッと引き上げます・・・」
数匹の鱒が釣り糸に近づいた時、桜井は竿を軽く上下させた。すると先頭の鱒が目の前に来た子虫を何の疑いもなく飲み込んだ。すかさず、竿を引くと元気の良い二十センチほどの鱒が跳ねながら上がってきた。一道も同じ要領でやると面白いように釣れる。少しの間に三人でかなりの数を釣り上げた。
マサ子がおにぎりと温かい味噌汁を持って来てくれた。火をたき、鉄串に鱒を刺し塩を振りかけて焼いた。こんなに美味しい食事があるものかと、一道は感嘆の声をあげた。
(十二)
食事が終わってから洞窟のコンテナの所へ行ってみる。中を開けてみると三台とも真空管がかなり減っている。いかに大量に作ったかが分かる。
「ワシは真空管のことはよく分らないから、それに詳しい杉山という爺さんに工場に送ってもらう真空管の段取りをしてもらっているが、高一に使える真空管はそれほど多くは残っていないと言っている」
松次郎が薄くなった頭を撫でながら言った。
「その事は米沢も知っているのですか」
強欲な米沢のことだから何をするか分からないと思い、一道は心配になった。
「あぁ、とにかく代替品でもなんでもいいから準備してくれ、と言っている。一本でも本物の真空管を使ってあとは適当な物をかざりに付けて、不足の分は半導体で代用すれば詐欺にはならない、とも言っていた。今、ずいぶん儲けているのでこの状態をなんとしても続けたいようだ」
「そんないいかげんな品物は作りたくないですよ。だいいち、それでは真空管ラジオにならないじゃないですか」
一道は不満そうに言った。
「どこか、真空管の製造元からは購入できないのですかねぇ」
桜井は石を拾っては投げて、それが立ち木に当たる音を楽しみながらつぶやいた。
「6D6のような真空管はもう、どこの国でも作ってないにちがいない。一度に大量に仕入れることは不可能だろう」
一道はあきらめ顔になった。
「じゃが、無くなれば作ったらよい、と杉山さんは言ってくれる」
「エッ?作れるんですか」
二人とも驚いて松次郎の顔を見た。
「もともと杉山さんは、ここに工場があった時、真空管製造の技師として働いていた人じゃ。少し設備を揃えれば作れるらしい・・・今からでも杉山さんの家に行ってみるか」
「ぜひとも連れて行ってください」
一道の目が輝いた。三人は一度、松次郎の家に帰り、軽トラックに乗って出かけた。桜井は身軽に荷台に飛び乗った。杉山の家は駅の方へ下って行く途中で右に折れてまた、山裾へ上った所にあった。ちょうど松次郎の家から山一つを隔てた反対側だった。
急に訪ねたにもかかわらず杉山は待っていてくれたかのように三人を家の中に入れてくれた。奥さんに先立たれて、二人の子供もそれぞれ家庭を持ち市街地で生活しているので、一人住まいをしていた。大柄で一見すると不機嫌そうに見えるが、朴訥とした語り口は誠実さを感じさせる。まもなく八十歳を迎えようとしていた。
「真空管作りは工具と工作機械さえあればそれほど難しいことではない。戦時中は学校で子供に作らせていたくらいだから」
杉山は真空管の作り方を詳しく説明した。さらに、裏の小屋に案内されて行って見ると当時使っていた道具や作りかけの材料まで残っているを見せてくれた。
「あと、真空ポンプとガラスを溶かす電気炉、それに型枠にガラスを噴出するコンプレッサーがあれば、とりあえず製造できるよ」
控えめだが嬉しそうな杉山の表情は根っからの真空管好きに見える。
「プレートやカソードやグリッドの材料は今でも、いくらでもある。ゲッターも手に入る。ソケットも成型加工すれば簡単にできる。機械さえあれば明日からでも作れるよ。ただ、二極管と三極管までくらいのほうがよいだろう。それ以上の多極管はやはり不具合を起こす可能性が高くなるからなあ」
杉山は少年のように目を輝かせて、今にも作り始めそうだ。
「三極管でもB電圧を少々上げれば6D6、6C6と同程度の動作にできます。むしろ、三極管で統一したほうが歪みが減少して、いい音になると思います。それに二極管も将来的にはプレートを二分割して両波整流ができるようにした方がより良いと思います」
桜井も乗り気になった。
「若い人が真空管に関心を持ってくれるとは嬉しいなあ」
杉山は微笑しながら桜井の顔を目を細めて見ていた。
時間が経つにつれて四人は意気投合して話が弾み、夕方近くまで杉山の家で過ごした。帰る時には様々な作物をたくさん貰った。
翌日、一道は米沢に、言いたいことがあるから工場に来てくれ、と電話をした。
「用事があるならこちらの店に来てくださいよ。店舗には休みなどないからさ」
米沢は金儲けに直結しないことには横柄な言い方をした。
一道は仕事の段取りをつけて米沢の店に行った。新大阪駅には古川橋駅から淀屋橋まで出て、地下鉄御堂筋線に乗り換えて行くので、一時間ほどかかった。
これまで、《望郷》の生産に忙しくて米沢の店にはあまり行くことはなかったが、行くたびに変わっているのには驚かされる。最初に行った時には、路地裏のような所の古い木造二階建の民家を店舗にしていた。次に行った時にはその店舗の前に広い道路が通っていた。そして次には店舗や周囲の木造住宅を取り壊して、立派な五階建のビルになっていた。前に行った時には五階建のビルの一階だけでリサイクルの店舗を出していたが、今は二、三階の窓にも《望郷》の大きな宣伝の看板を出していた。
変化しているのは米沢の店だけではなく、新大阪周辺の地域全体が目まぐるしいほど行くたびに変わっていた。特に米沢の店の辺りは、急速に歓楽街化しているように見える。新大阪駅周辺に宿泊するビジネスマンを目当てに、夜になればけばけばしい光を放つであろうネオンがいたるところに取り付けられていた。かといって、古い木造の家もあれば団地もある。不調和この上なく趣の無い街だったが、一道はなぜか人間の粗末さがありのままに出ているようで、懐かしい雰囲気と安心感が沁みてくるように思える。
店の前に行くと目立つところに『米沢商会株式会社』と大書した看板が掛けてあるのが目に入った。
「ヨォー、三津田さん、久しぶりに来てくれましたな。二階に上がろう。二階も三階もその上も俺の会社のものだから」
店に入ると、以前はリサイクルショップらしくいろいろな品物が置かれていたが、今は《望郷》専用の売り場のようになっていた。それ以外の品物は片隅に無造作に積み上げられている。店員も増えて、忙しそうに動いているが、女性の店員ばかりで、一道が入ってきても胡散臭そうにチラッと見るだけで、挨拶もしない。そのくせ米沢とは妙に馴れなれしく会話を交わす。その様子を一道は見ていると、米沢と従業員との間にいかがわしい関係があるのではないかと邪推されてきた。
・・・チクショーッ、せっかく真空管を触ることで妄想癖から逃れられていたのに米沢の傍にいると精神が異常になりそうだ。早く帰ろう
一道はうっとうしい気分になっていた。
二階に上がると豪華な応接室があった。
「スゲェー椅子があるやないか。お前はいったいどれだけ俺や松次郎さんから金を巻き上げたら気が済むのだ」
一道はいきなり不機嫌に言った。
「そんな疑い深い目で見なくてもいいじゃないですか。俺は別に悪いことをしたり、ごまかしたりしている訳じゃない。皆さんに仕事を与えているのだから感謝こそされ、恨まれる筋合いはないですよ。このビルかて、前のオーナーが手放したいというから、俺が借金までして買って助けてあげただけですよ。それから《望郷》の販売は順調なので株式会社にして、少しでも税金を安くして、働いてくれている社員に還元しようとしているのですよ」
得意げに米沢は胸をそらす。一道はますます不愉快になった。
「そんなことはどうでもいいが、山のコンテナの中の真空管がなくなった時には、詐欺まがいの《望郷》を作らそうとしているらしいが、そんなこと、俺が許さんぞ。もし無理やりそんなものを作って売ったら、詐欺商品だと俺が言いふらしてやる。とにかく、真空管を作れる人がいたから松次郎さんの所へ行って、必要な機械などを全部購入してすぐに作れるようにせよ。そうしなかったら、こんな会社、いつでも潰してやる」
一道は一方的に怒鳴るように言って、早々に米沢の店を後にした。
(十三)
杉山の製造した真空管が工場に持ち込まれたのは半年ほども経ってからだった。結局、コンテナの高一用の真空管がほとんど無くなってからだった。米沢はやはりギリギリまで真空管製造のための設備に金を出さなかったのだ。
出来上がった真空管の外形は12Fと同じになっている。種類は両波整流のできる二極管と三極管の二種類だった。ガラスの均一な滑らかさ、不純物の無い透明さ、ベースソケットの堅牢さ、内装物の正確さ、どれをとっても妥協しない職人の意気込みがうかがえる。
「きれいだなあ」
手で感触を楽しみながら一道は感動している。
「ずいぶん特性の良い真空管に仕上がっています」
桜井も真空管試験機を持ってきて種々の測定をしながら感心している。桜井の、真空管やそれを使用している機器に対する知識はほぼ全てのものに通じるようになってきていた。さらに知識だけではなく種々の測定器を購入して、実際に真空管を使った回路の検証もできるようになっていた。
「これなら、低周波にも高周波にも使えます。しかもかなりの高電圧、高電流にも耐えられます。でも、すごいですねぇ、おそらく測定もせずに経験でこれだけのものを作ることができるのですから。もともと理論があって物ができたのではなくて、先に物が存在していてそれを研究して理論が出てきたのですねぇ。杉山さんの真空管を調べるとそれがよく分かります」
さかんに桜井はうなずいている。
一道と桜井は新しい真空管を《望郷》に使うために電源部分を中心に改良を考えた。長期間、ハム音も出ず安定した受信ができ、ある程度の音量も出るようにするためにB電源を三百五十ボルトまで上げ、さらに両波整流ができるように巻き線を二倍にする。その上、チョークコイルも使用する。また、充分な音量が得られるようにする為、検波の後に電圧増幅管を追加する。杉山真空管は、6D6のように増幅率を可変させる機能を持たせるには不向きな特性なので、受信電波の強弱がそのまま音量に影響して急に大きな音になったりするのを避けるために、検波の後に抵抗をつけた十接点のロータリースイッチを取り付けてアッテネーターとする。その代わり、高周波増幅量調整のボリュームは無くするので、ツマミは三個のままで変わらない。そしてスピーカーはこれまでより一回り大きい十六センチフルレンジのものを使う。
一道はこれらの変更を神津に言った。
「そんなことまでしなくていいだろう。見栄えは何も変わらないのに、手間も費用も二倍以上になる。損にはなっても得にはならない」
案の定、神津は不機嫌極まりない顔つきになった。損になるなどと言うが、《望郷》を製作し始めてカミツ工業も短期間に大幅に業績を伸ばしていた。それは会社の建物を見ても分かる。以前の、民家を何軒かつなげたものから、周辺の土地建物をさらに買い進めて今では工場兼事務所の立派な建物になっている。それだけではなく、神津は小さなビルやマンションも買収して不動産業も営み始めていた。すべては《望郷》の常識を超えた利益率と常識はずれの販売増であった。
「今までタダの真空管を好きなだけ使ってボロ儲けしたくせに、この程度の改良ができないようでは話にならない。それだったら俺は手を引く」
一道は近くにあったごみ箱を蹴飛ばした。
「分かった、わかった。言う通りにする。その代わり、もっと製造量を上げてよ。売れる時にどんどん作らなければ同じような商品を作る競争相手が必ず出てきて、儲けが減ってしまうからねえ」
いつものパターンだったが、しぶしぶと神津は《望郷》の改良を認めた。
一道と桜井は杉山真空管仕様の高一の製作に没頭した。二人にとっては最も楽しい時間だった。今回の製作は神津も承知していることなので、工場の工作機械を自由に使える。むしろ優先して作業を進めさせてくれる。シャーシーが出来上がった段階で、シャーシーやスピーカーの取り付け穴の位置などを描いた図面を松次郎にFAXしてキャビネットの製作を頼む。また、ガラス加工の業者にも新しいシャーシーに合うパネルを注文する。大きさは今の物より一回り大きくなる。トランス類はすべて余裕をもたせるため鉄心を大型にして新しく製作する。それ以外の部品は共用できる物が多かったのであまり時間は掛からなかった。
四日ほどしてほぼ完成に近づいた。
「うまく受信するかどうかは、実際に組み立てて鳴らしてみなければ分らないものだ。そこが面白いところでもあるけどなあ」
一道は確実な手さばきで半田付けをしながら言った。彼にとっては一回いっかいの半田付けが楽しい。何回行おうが、まったく同じ半田付けになることはありえない。毎回、微妙に変化する融けた半田が、接続する導線や端子の間に充分に染み込んで、しかも均衡よく少し盛り上がったところでコテを離す。すると、すぐに冷えて、しっかりと固定する。それはまるで、千変万化する人の心をしっかりと捕まえてこちらに結び付けたような満足感に似ていた。一道にとっては半田付けは芸術家が作品を創造するのと同じだった。
「確かにそうですねえ。理論では分らないことが沢山あります。たとえば今回のラジオでは、アンテナコイルと検波コイル、高周波増幅管と検波管などが相互干渉するのは理屈で分りますが、それでは実際の製造において、どれだけ離し、どの程度のシールドをすればよいのかは経験に頼るしかありません。このラジオでは一応、増幅管と検波管の間をできるだけ離した上にアルミ板で遮断していますが、これでいいかどうかは、実際に聴いてみるしかありません。理論なんてこんなものなんですね」
二人は会話を弾ませながらも手際よく作業をすすめていった。
やがて、シャーシー部分は完成する。バリコンを中心に左に整流管、電力増幅管を並べ、右に電圧増幅管、検波管を並べる。外形が全部同じなので幾何学的な美しさが出ている。高周波増幅管は電波干渉を防止するため、後ろに置いたので前からはよく見えない。
配線の間違いを再度確認した後、整流管をはずして左の電源スイッチを回す。聞こえるか聞こえないかくらいの電源トランスのうなりが感じられて、豆球が灯る。そしてゆるやかに真空管のヒーターが輝く。二極管も三極管も既製のST管よりよりはるかにフィラメントの光がよく見える。明るさにばらつきが無いことでも作りの良さが分かる。次に整流管だけを付けて電源を入れ、B電圧を測る。予想通りの値だ。
続いて真空管を全部挿してアンテナとアースをつなぎ、スピーカーにはこれまでの高一の物を代用させて、電源を入れる。何度このような瞬間に出会っても胸が締め付けられるような緊張を感じる。特に今回は杉山真空管の初めてのラジオだけに、体が震えるような期待感とひょっとして駄目かもしれないという不安でいっぱいになる。
ヒーターが赤くなりきる直前から、スピーカーからどこかの電波を受信している音が出てくる。ソロリと同調ダイヤルを回すと、大きな音で放送が飛び込んでくる。
「オーッ、聴こえた!」
「大成功だ!」
二人とも大声で叫んだ。しばらくの間、興奮のあまり、何もせずにほとんど呆然と音を聞いていた。アッテネーターは音量が最大の位置になっていたが、音が割れるほどではなく奥行きのある力強い音を出している。真空管のシールドケースもないのに発信音や雑音も入らない。
一道はずいぶん時間がたってからハッと気がついたようにアッテネーターを真ん中の位置までに絞った。普通のボリュームは音量を下げればさげるほどその抵抗体の弊害が大きくなり、音質が落ちて音がやせてしまう。それに比べて《望郷》のアッテネーターは固定抵抗しか信号が通過しないから全くと言っていいほど音質が変化しなかった。小音量でも豊かな響きがあった。
「やはり、普通のボリュームにしなくてよかった。ボリュームほど音質を悪くするものはない。それにすぐにガリオームになる。中学のころからガリガリ、バリバリと大きな雑音の出るボリュームには悩まされた」
一道はアッテネーターをカチカチいわせながら自慢そうだった。
数日して松次郎からキャビネットが届いた。これまでのもの以上
に磨きがかかった完成度の高いものだった。
「すばらしいなあ。いい香りだ。どうして松次郎さんはあの年で、こんな芸術作品のようなものが造れるんだろう?このまま、部屋に飾って置いてもいいくらいだ」
「爺ちゃんは、年は取っていますが、その時々の時代に対するセンスは驚くほど鋭いものを持っています。そのセンスは、他のことにはまったく働かないのですが、木工製作には見事に生かされるのです。このキャビネットなんかは、現代風のセンスをもって伝統的な家具の深さのようなものを出しています。おそらく、飽きのこないラジオになると思います」
「桜井君は、いつもいい事を言うなあ。難しいことは分らんが・・・早速、シャーシーとスピーカーを取り付けてみよう」
二人はウキウキしながら作業を進めた。最初にすでに納品されていたガラスパネルをシャーシーの前面に固定する。それからキャビネットの中へゆっくりと入れる。取り付け位置は寸分たがわず加工されていたので、すぐに完了する。発注していた十六センチのスピカーも来ていたので取り付ける。
「さあ、電源を入れるぞ!」
一道が挌技の試合でもするような様子でスイッチを入れる。パイロットランプが灯りヒーターが明るくなるにつれて、ゆっくりと豊かなアナウンサーの声が響いてくる。
「ああ、いい音だ。十六センチのスピーカーがキャビネットとよく合っている」
アナウンサーが声を発するのに、いかに聴衆に快く響くように努力しているかが判るような息遣いまでも伝わってくる。
「ほんとうに、聴きやすい、いい音がしますねぇ。まるでキャビネットが楽器のように響きます」
整流以外、オール三極管の《望郷》から出てくる音はスタジオの空気を電波を介してそのままスピーカーから注ぎ込んでいるようだった。
「こうして聴くと、AM放送というのはFM放送より、聴きやすいですねえ。もちろん周波数や歪などの特性ははるかに劣りますが、FMの変調方式の優位さが、実際には実用的なFM受信機の製造に伴う複雑さが音質劣化につながり、結果的に帳消しにされて高一の方が単純なだけ、音源を身近に感じることができるのだと思います。なにより、FM電波は周波数が高く直線性が強いですから近くの放送局しか聞こえません。AM電波は夜間など電離層伝播によって驚くほど遠方の放送局も入ることがあります。AMの方が夢があって楽しい電波です」
桜井は杉山真空管のラジオの音が非常に気に入った様子で饒舌になる。
「うーん、確かにそうだ。論より証拠だ。この音とFM放送なり、音質がよいといわれるシステムコンポとを聴き比べれば直ぐ判る。この杉山真空管の音は何時までも聴き続けていたい。聴けば聴くほど気が晴れてくる。ところがFMやこのごろのコンポの音は初めだけいい音に聞えてもすぐにうるさくなる。苦痛になる。どちらがよい音かはっきりしている」
一道も舌がよく回りだす。
「僕も三津田さんと付き合いをさせてもらうようになって、真空管の音を聴いているうちに音質に対する考え方が少しずつ明確になってきました。これは僕の研究テーマに直接つながってくるものです」
「ホォー、どういう事だい?」
「どうやら、音質が優れているとか劣っているとかいうのは、メーカーの宣伝文句や測定数値、また、マスコミの表現や雰囲気によって洗脳された判断によって出てきているのではないかということです。たとえば、この高一の検波管の出力を高額高級と思われているオーディオシステムのAUXに入力して音を出したならば、どのように音質調整しようが、とても聞くに堪えられない音がするものです。このことについて、どのような理屈をつけて弁解しようが結論は、そのオーディオシステムはこの高一よりはるかに再生能力が低く、音質が悪いのです。なにより、この高一の音は三十年以上も前の音でしょう。この三十年間に販売されたオーディオ機器製品の宣伝文句を読めば、新製品はすべて、過去の製品の音質を越えた優れたものになっているはずですから、驚異的な高音質になっていなければならないのに、現実は杉山真空管の高一を越えられないどころか、足元にも及ばない低いレベルの音質なのです。これがほとんどの人が宣伝文句と雰囲気にごまかされている証拠です。実におもしろいですねえ。真実の客観的な音質評価の理論も基準もまったく構築されていないということです」
「桜井君の話を聞いていたら嬉しくなったよ。ほんとに、その通りだ」
一道と桜井は高一を前にいつまでもその音に聞き惚れていた。
(十四)
《新望郷》はよく売れた。暖かい音質に好感が持たれたのと周波数を印刷した透明ガラスの文字盤を通して、杉山製作の真空管が今までのものよりフィラメントの輝きがよく見えるという外観の良さもあった。売れれば売れるほど評判が高くなり、さらに売り上げが伸びるという状態になった。そのうえ、米沢が全国紙の新聞に通信販売の広告を出したものだから注文が数倍になった。時にはマスコミにも話題の商品として取り上げられたりもし始めた。
これまでの一道の組立作業場の規模では、製造が追いつかなくなる。彼は《新望郷》を大量生産などしたくはなかったが、神津と米沢はここぞとばかり作業場を広げる段取りを始めた。まず、三軒続きにした作業場のさらに両隣の家二軒を買い取った。さらにそれぞれの裏のくっ付くようにして建てられていた家も続けて買い取った。いずれも木造の二階建だった。これで敷地の広さが一挙に百坪を越えるまでになった。
「とにかく製造は止めないで、作業場所と人数を増やして、今の五、六倍の製造ができるようにしてよ。いちばん売れている時に売れるだけ売って、一段落したらこの土地にりっぱな工場をつくるから」
神津が今までに見せたこともないほど鼻息荒く、痩せ気味の体を力ませて言った。ずいぶん儲けていることは間違いない。
工場の工事は購入した全部の家の一階の壁を撤去し、柱だけは残して不要な建具類も取り払って床を一続きのものにした。家と家との間の隙間には簡単な屋根を作って雨水が漏れないようにする。この工事は神津の命令で《新望郷》の組立作業を今まで通りやりながら進めたので、従業員は埃は被るは、音はうるさいはでひどい目に合った。そして一ヵ月ほどで完成した。柱ばかりが目立ち、天井が低く感じられる妙な薄暗い空間ができた。だが確かに広い。二階部分はもともと一道が生活している一棟を除いては部品置き場にしていたが、増えた部屋は特に使う予定もない。
「桜井君、こちらに引っ越して来いよ。家賃も要らないし、アパートよりはるかに広いだろう」
一道が桜井に勧めると喜んで引っ越して来た。それを知った神津の妻の里江が苦情を言い出した。
「一道君の家じゃないんだから、かってに住まわせたら困るわ。一応、貸すんだから、家賃をもらわないと・・・」
里江が面長の顔を意地悪そうに歪めて言った。神津夫婦は共に痩せ型で顔の作りも細い。
「こんなボロ家に住むのに金を出さなければいけないのなら、俺も引っ越す。まして桜井君がいなければ《望郷》の製作はできなかったのを知らないのか。部屋代を取るよりアルバイト料を出せよ。そうしなかったら俺と桜井君は《望郷》から手を引くぞ」
里江の二倍もあろうかと思える頭を振りながら一道が言い返す。
「また、そんな極端なことを言って・・・」
里江は黙ってしまった。
作業場は広くなったが、作業員はそんなに簡単に段取りがつかない。簡単な組み立て作業とはいえ、慣れなければ生産のスピードも上がらないし、ミスも多く出る。できるだけ早めに増産を軌道に乗せようと思えば、新しく雇った作業員が作業内容を早く身につけらるように教えることがポイントになる。そのためには、今いる教える側の従業員と新規の採用者との間に人間関係があった方が、スムーズにいくことは間違いない。一道は新しい従業員の採用をチラシなどでは募集せずに、今いる従業員の人間関係から集めるようにした。
「そんなことをしておったのでは、時間がかかってしかたがないのに」
神津はぶつぶつと文句を言いながらも一道のやり方に従った。
いい従業員が少しずつ増えていった。それに比例して生産量も増えた。キャビネットを製造する松次郎も真空管を作る杉山も増産が徐々に進んだので対応がスムーズにでき、良品を供給できた。
(十五)
二階で一道と桜井が住むようになると、二人は暇さえあれば真空管を触っていた。それは二人にとって何よりも楽しい時間だった。二人で生活するには部屋数はあまりあるほど広い。電気関係のさまざまな作業をしたり、部品や道具や材料を数多く置けたので、ずいぶんと便利になった。
「高一中二を作ろうか」
一道が憧れるような目をして言った。こんな目つきほど一道に相応しくないものは無い。いや、目つきだけではない。彼の体全体が醸し出す雰囲気は〝夢みる〟というイメージとは縁遠いもので、現実社会の夢も希望もない仕事を、ただ生きるために黙々とやっていくという雰囲気なのだ。そのアンバランスが実にこっけいだったが、桜井はそんなことにはまったく無頓着な学生で、一向に一道の表情など気にしている様子はない。
「高周波で一段増幅して、中間周波で二段の増幅をするものですね」
「中学の時どうしても欲しかったが、結局、部品数も多いし、金もなかったのであきらめていた奴だ」
「そうすると感度はかなり良くなりますね」
「うん、通信機などにも採用されているから、かなり遠くの放送局の電波も聞こえるのではないかと思う」
「どこの放送局まで聞こえるのか楽しみですね。ぜひ作りましょう」
話が決まると、二人の行動は早い。すぐに回路図から検討を始めた。
「杉山真空管を使ってもいいですが、局部発振と周波数混合を三極管一本でやらせるのは不安定要素になりますので別々の球にさせるとしても、調整などいろいろな面で少々心配があります。とりあえず従来の球を使っておいて、うまくいけば、杉山真空管に変更していくというのが作りやすいと思いますけど」
「そうしよう。桜井君の言うことは正しい。それじゃあ、どんな真空管になるだろうか?」
「6D6高周波増幅、6WC5発振混合、6D6第一中間周波増幅、6D6第二中間周波増幅、6ZDH3A検波・低周波電圧増幅、6ZP1低周波電力増幅、80K全波整流、というところですかねえ」
桜井は資料も見ずにスラスラと真空管の名前が出てくる。
「ああ、いいなあ。中学の時、どれほど憧れたことか。それにしても桜井君はよく、古い真空管の名前をそんなに覚えたなあ」
一道は感心した様子で桜井を見た。
「ええ、前にも言ったような気がしますが、楽しく得た知識はおそらく一生涯、忘れません」
「それにしても、よく頭に入っているなあ・・・ところで、今度の高一中二もいい音で聴きたいな。やはり6ZP1は三極管接続にして、これも中学の時、好きだったNFBを掛けられないだろうか」
一道の目がさらに夢見る目になりかける。
「三極管接続にして6ZDH3AのカソードにNFBを掛けますと無帰還の時よりも無歪の出力は少しは上がると思いますが、全体的に利得は下がりますから充分な音量とまではいかないかも知れません」
「なんとかならないかなあ」
夢見る目が曇る。
「それじゃ、6ZDH3Aと6ZP1をそれぞれもう一本ふやして、パラ接続にしましょう。そうすれば余裕の音量になります。それに、整流管の80Kも二本にしましょう。80Kは百ミリアンペア以上いけますが、念のため増やしておきましょう」
「それじゃ、今度の抵抗式のアッテネーターは二十段階にして細かい音量調節ができるようにしておこう」
一道の目がまた元気になった。
ブロックの構成が決まると回路図を描きはじめた。桜井が手書きで手際よく描いてゆく。早々と回路は書き上がりそうだったが、あまり簡単にできたのでは面白くないので、途中でコイルの大きさなど、ああだこうだと言いながらわざと時間をかけて回路図を書いた。回路はごく一般的な単純な回路にした。シンプルな回路がトラブルも少ないし、調整も簡単で、結果的に良い性能が得られる。
今製造している高一と違うところはスーパーへテロダインという方式が新たに加わることで他の機能は同じようなものだ。回路図の仕上げに桜井は電卓を叩きながら、抵抗やコンデンサーやコイルの巻き数などを書き込んでいった。まるでゲーム感覚のように面白そうに計算していく。
「真空管というのは、ほんとうに懐の深い人間のようですね。数値などをかなり変動させても充分な働きをします。包容力がダントツにあります。半導体は神経質で少し設定値が狂うと損傷してしまいます。真空管がいいですね」
桜井は完成した回路図を満足そうに見ていた。
二人は次にシャーシーの設計と部品配置を考えた。これまでのように前面から真空管のともし火が見えるようにする。中央にバリコンを置き、左右に6ZP1を置く。さらに、その左側に80Kを二つ並べ、右側に6ZDH3Aを二つ並べた。6D6と6WC5は電波の干渉を防ぐ為に、アルミのシールドケースを作って後ろに置くことにする。
回路図や部品配置が決まれば次は部品の製作だ。一道は通常の仕事を終えてから、桜井は一道の時間に合わせてからの製作になった。もちろん一道は四六時中工場に張り付いていなければならないということはなかったので、昼間から部品を作ろうと思えばできたが、就業時間中に本社工場の工作機械を使うのを神津が嫌がったので、従業員が全員帰った後でしか部品づくりはできなかった。神津は金に直接つながることには全面的に協力するのだが、どうなるか分らない事については不機嫌さを露にした。
実際には一道と桜井が確実に会えるのもその時間帯だったので、よかったともいえる。二人は毎晩、本社工場へ通った。
新しく作らなければならない部品がかなりあった。まず電源トランスから作り始めた。
「《新望郷》の電源トランスはずいぶん容量に余裕があるように設計していますから、高一中二用には、鉄芯部分はそのままで、少し太い銅線を巻いてやれば十分です」
電卓を叩きながら桜井が言った。彼が持っている電卓は技術者用の物で、かなり複雑な計算もできたので、それ一台でほとんどすべての計算に間に合った。
「それでも十分に余裕持った大型のトランスにした方が発熱も少ないし安心できるだろう。新しく作ろうか」
いつも一道は余裕のあるもの、長期間安定して使えるものを作るのが好きだ。それが一道の性格でもあった。
「そうですね、何年も電源を入れっぱなしにしていても大丈夫なものを作りますか」
桜井も面白そうにうなずく。そうして、直ぐに電卓で計算しながらを紙の上に鉄心の図面を書いた。《新望郷》よりかなり大型になる。
「これを八十枚ほど重ねれば、十分な余裕のある電源になります」
こう言っているうちにも、桜井は巻芯に巻く一次、二次の銅線の太さと、巻き数を計算していた。一道は早速、プレス機に桜井が描いた通りのセッティングをしてから電磁鋼板を置き、ガンガンと大きな音をさせながら打ち抜いていった。それができあがると分厚い鉄板で、トランスのカバーをまた大きな音をさせて形成した。
やがて社長の神津が怒った顔をして工場に入ってきた。
「こんな夜遅く、何を大きな音をさせているんだ。近所から音がうるさいと苦情の電話がかかってきたじゃないか」
「少しくらい音がしたって、文句を言うことはなかろう」
一道が不満そうに言った。
「周囲は静かになっているのだからガチャンガチャンやれば遠くまで聞こえるよ。すぐにやめてくれないか」
「わかりましたよ。ちょうど終わったところだ」
一道は必要以上に音をさせながら打ち抜いた鋼板を集めてそろえた。
「また、何を作っているのだ」
神津が覗き込むようにする。その目は、金儲けのネタを素早く見つけるようなまなざしだ。
「社長には、関係ない」
一道が無愛想に言う。
「いいものができたら早めに私に見せるんだぞ」
捨てぜりふのように神津が言ってから工場を出て行った。
「これは絶対に売れるような物ではない」
一道は神津の背中に声をぶつけるように言った。
「後の作業は音が出ないからちょうどよかった」
一道は次に巻芯の筒を作り始める。《望郷》用のプラスチック成型機の設定を少し変えれば簡単にできた。それを巻き線機にセットして、桜井が計算した通りの巻き数をそれぞれの太さの種類に応じて巻き上げる。こういう作業には一道は熟練していてトラブルもなく出来上がった。とりあえず、百のボルトの通電をして各二次巻き線の電圧を測ってみると設計通りの電圧が出る。その後、鉄心を固定させるワニスを塗った。
楽しいことは時間が経つのが早い。気がついてみると深夜を過ぎていた。二人は完成した電源トランスをワニスが他のものに付かないように気をつけながら自宅の工場の二階へ持って帰った。
(十六)
神津が騒音の苦情を言いにきてからは、大きな音が出るトランスの鉄心の打ち抜きやシャーシーの製作などは昼休みの間に一道が工場に行って手際よくやった。チョークトランス、出力トランスと桜井が設計してくれた通りに作った。彼が計算から導いた結果は非常に的確で、まったく失敗はなかった。
夜になると二人は自宅の工場で誰に遠慮することもなく夜遅くまで製作に没頭した。
バリコンは《望郷》で使っている二連のものを三連にすればよい。高一のように選局ダイヤルをシャフトに直接付けると感度が高く、選局しずらくなるので減速比八対一のギアを取り付ける。各種コイルの製作でも桜井は、ボビンの直径、ホルマル線の太さ、巻き数など簡単に計算して決める。局部発振用のコイルはアンテナコイルのように一重の密着巻きでもよかったが、性能のことを考えてハニカム巻きにする。中間周波トランスもハニカム巻きにして、ボビンの中をコアが抜き差しできるようにする。これでインダクタンスの調節できる。それを覆うカバーを薄いアルミ板で作る。ほとんど当時の既製品と同じ性能のものになる。
二人は種々の部品を製作していくなかで当然、様々な課題に直面するが、その都度、知恵を出し合って解決していった。それは避けたいものではなく、むしろ楽しみだった。困難のレベルが高ければたかいほど、乗り越えた時の喜びのレベルも高かった。
十日ほどで必要な部品がほぼ出来上がった。早速、それらをシャーシーに取りつけてみた。
「ホォーッ!」
一道と桜井はその外形を見て小さな感嘆の声を上げた。前面にバリコンを中心に内部のよく見える六本の真空管が並び、後方にコイルとIFTを挟んで四本の真空管が立っている。その間に、力強い三個のトランスがどっしりと構えている。
「何か、職人の信念を感じさせられるような雰囲気でいいですね」
桜井がうれしそうに言う。
「これはいいなぁ。いかにも高一中二らしい」
一道も満足そうに言う。どうやら自分があこがれていたものに外形がピタリと合ったようだった。
シャーシー内の作業は一道が半田ごてを握り、桜井が色分けした配線を適当な長さに切って両側の被覆を剥して一道に渡す。そうして二人で好きなことを言いながら楽しく作り上げてゆく。いつものように、あまり早くできると楽しい時間が少なくなるので、ゆっくりと半田付けしてゆく。それでも作業量からすればかなり早く完成した。
桜井は測定器を持ってきて、調整を始めた。
「中間周波数は一応、四百五十五キロヘルツにしておきます。別に、こだわる必要はないのですが」
彼はオッシレーターを使って中間周波トランスのコワを調整する。それが済むと、トラッキングやその他の細かい部分の調整を始める。手作り部品なだけに、いろいろ手を加えなければならないところもある。一道はこういうことには手が出ない。桜井のやることをうなずきながら見ているだけだ。調整には思ったより時間がかかり、完了した時はすでに午前一時を回っていた。
いよいよ受信してみることにする。スピーカーは高一の物につなぎ、アンテナ線とアース線もつなぐ。
電源を入れる。何度この体験を繰り返しても、いつも胸が高鳴る。真空管のヒーターが輝き始めるとボリュームを少しずつ上げてゆく。するとバリコンはまだ回していないのに明瞭な音質の放送が入ってきた。さらにボリュームを上げると温かく力強い音が部屋中に広がった。
「オォー、鳴ったぞーッ!」
「大成功です」
二人は大声をあげて手を打って喜んだ。減速している選局ダイヤルなのに少し回すだけでも次から次へと放送を受信した。
高一中二が完成してから二人の生活の時間帯が変わった。一道は仕事が終わると、桜井は学校から帰宅するとすぐに眠った。そして夜半になってから起きる。それは電波がE電離層に反射して遠距離まで到達する時間帯だ。
二人は毎夜、夜明けが近づき太陽光線によって中波が吸収されるD電離層が形成されるまで目を輝かせながら高一中二の受信に熱中した。
二人は全国の放送局の周波数をもとにして、受信確認をしていく。もちろん混信する周波数はあるが、うまく調整すれば聴き分けることができる。受信状態は時間帯や日によっても大きく違った。昨日聞こえていたものが、今日は聞こえなかったり、一度聞こえていたものがその後ほとんど聞くことができなかったりもする。太陽の黒点の活動や季候、気温、天候などによって微妙に受信状態が変化する。だから毎夜毎夜が二人にとっては楽しみで仕方がなかった。一ヵ月ほどの受信データを集めて見ると、もう少しで、沖縄以外の全国の放送局がカバーできると思えた。
音質は低周波増幅段をパラレル接続にしたこともあって、高一の代用のスピーカーから豊かな響きを聞かせてくれる。周波数を変換するヘテロダイン方式は音質を損なうと言われているが、そんなことを全く感じさせないくらい素直な音を聞かせてくれる。シャキシャキしたFM放送よりもはるかに、出てくる音を通して音源の人間性や演奏者の心が伝わってくるように感じる。
「もっと長いアンテナを立てようか」
一道がまた例の夢見るつぶらな瞳になって言った。
「ええ、作りましょう。そうすれば間違いなく、全国の放送局が受信できると思います。この受信機は思ったより以上の性能があります。全国制覇できますよ」
二人の息はいつもピッタリと合った。
(十七)
日曜の朝、一道は会社の車の助手席に桜井を乗せて松次郎の家へ向かっていた。頼んでいた高一中二のキャビネットとスピーカーボックスを貰いに行くためとアンテナの支柱にできるような長い竹を探すためだった。
中国自動車道を出てから松次郎の家までは〝自然の懐〟という表現がよく合うような里山の豊かさに包まれた道だ。一道は松次郎の家に行くたびに季節を感じた。もちろん工場でも夏の暑さ、冬の寒さは感じるのは当然だが、心を動かされるような季節感とはつながらない。松次郎の家のあたりには、いつ行っても季節に溢れていた。行く度に新しい場所に来たような新鮮な感動を覚える。
途中、県道から逸れて古い道に入ると背の高い杉林の中を通る。枝が空をおおい薄暗くなる。周囲の音も遮断されたような静かさになる。その上、道に杉の枯れ枝がたくさん落ちて敷きつめているので、タイヤの音も消えてただ車のエンジンの音だけが聞こえるように感じる。
「不思議なトンネルみたいですねぇ」
桜井が面白そうに言った。杉林を抜けて行くと、雑木林があり、里の方へと続いてゆく。所々に渋ガキだろうか葉の落ちた木に真っ赤に熟した実が今にも落ちそうにたれ下がっている。周辺の木々は黄色くなり、茶色くなって、葉を散らしている。あまりモミジのように赤くなっている木は見えない。
「晩秋というやつか・・・」
一道が山肌に目をやりながらつぶやいた。〝晩秋〟という言葉も彼の風貌からするとアンバランスな雰囲気だった。
少し車を走らせると松次郎の工場の前を通った。棟が以前より増えている。おそらく《新望郷》の生産が伸び続けるので、次々に規模を拡大しないと間に合わないのだろう。工場を通り越すとすぐに松次郎の家だ。
「ジジイ、ババア、居るかい?いま着いたぜ」
いつもの調子で桜井が玄関を開けると同時に言った。
「マーちゃん、よく来たね。けっこう早く着いたね」
今回は到着するおよその時間を連絡しておいた。
「ジジイも居てる?」
「裏庭で炭焼きの火加減を見ているよ」
「今の時代に、まだ炭焼きをやっているの?」
「そうだよ。間伐材がたくさん出てきて捨てるのはもったいないから、木炭にして保存をしておくんだよ」
マサ子は孫がいかにもかわいいというようにニコニコ笑いながら裏庭の方を指さす。一道と桜井が土間を通り越して裏庭の方に出ると薄いもやのように漂う煙と酸っぱいにおいに取り囲まれる。その煙とにおいは裏庭のいちばん奥の山の斜面に近いところから出ていた。そこには赤土で庭の端から山の斜面を登るようにかまが作られていた。一見、焼き物の登り窯を小さくしたように見える。その一番高いところに煙突がつけられていてそこからにおいの元の白い煙がゆっくりと立ち上っている。下の炊き口のところで松次郎が薪を入れていた。
「ジジイ、キャビネットを取に来たよ。それと竹はあるかな?」
桜井が離れた所から大きな声を出した。
「オォー、マーちゃん、よく来たな」
松次郎はかがめていた腰を伸ばして振り返って目を細めた。それから炊き口を適当な隙間を残してレンガでふさいでから二人の前に歩いてきた。
「竹は何に使うんだ?」
「工場の屋根の上にアンテナを立てようと思う。そのポールとして使おうと思うけど、いいのがあるかな」
「それだったら、いくらでもいいのがあるぞ。以前に、なにか使い道があるかと思って何年間か寝かしている長い竹がある。あとで取りに行ってやるからまずは、腹が減っているだろうから昼メシを食えよ。一道さんもよく来てくれたな。おいしいものは何もないが食べてくれ」
松次郎は頑丈な肩を揺らして家の中へ入った。
おいしいものは何もないと言っていたが、昼食をごちそうになると一道も桜井も何とおいしい食事なんだろう、と思う。ほとんどが山と畑でとれたものだが、味付けといい、食感といい、申し分ない。特に一道や桜井にとっては日ごろとかくインスタント食品を食べることが多いだけにこういう食事は何よりのごちそうになる。二人にとっては久しぶりの心温まる食事になった。
食後、松次郎は高一中二用のキャビネットとスピーカーボックスを持って来た。
「もう少し木を寝かせていた方がいいに決まっているが、なにせ米沢さんが急がすものだから古いものは無くなってしまったので、この程度の状態で勘弁してもらわないといけない」
松次郎は申し訳なさそうに言ったが、目の前に置かれたキャビネットは自信に満ちた堂々としたものだった。また、スピーカーボックスは依頼していた通りの密閉型で、裏板も他の部分と同じ材質と仕上げで、表から見えないからといって雑になってはいない。すべての木材は一枚板で作られている。高級家具と同じだった。
「いつもいつもすごく良いものを作ってもらって、有難うございます。ほんとうに感謝しています。すばらしいです」
一道が感動の声を出した。
「そんなに喜んでくれたら作りがいがあるというものじゃ。それじゃ、竹を見に行くか」
松次郎は白毛が多くなった眉毛を下げて満足そうだ。
竹やぶは炭窯のある所から十分ほど裏山を登った所にあった。
「できるだけ細くて長くて丈夫なものがいい」
「そうか、それだったらやはり小屋で寝かせているのがいいだろう」
松次郎は竹林の奥の方へと案内してくれた。しばらく行くと、周囲の竹が切られて空き地のようになったところに小屋が建てられている所に出た。風もなく鳥の声もせず、周辺の音が無数の竹の防音効果で遮られて不思議に静寂な空間になっている。
小屋にはたくさんの竹を乾燥させていた。その中には確かにアンテナの支柱にするのに適するようなものが多くある。
「これがいいですねえ、一道さん。細くて長いから」
桜井が一本の竹を取り上げ、空に向けてヒューヒューと振りながら言った。
「立派な竹だ。しかもよく乾燥している。これが貰えるのなら言うことはないが・・・」
「何本でも持って帰ればいい。使い道があって置いているわけではないから。もう何年も寝かしているからひび割れることもないし、弾力も十分にある。なかなかいい竹だぞ」
一道と桜井は竹を二本もらって竹やぶを出た。車のところまで行き、そのままでは長過ぎてとても車には積めないので三等分に切った。車の屋根にキャリーがついているので、竹をそこに乗せてしっかりと結び付けた。
帰るときには、いつものことだったが、マサ子がたくさんの地元産のおみやげを車に乗せてくれた。
帰りがけには杉山の家にもあいさつに寄った。米沢の手配で、量産するために自宅の近くに工場を建てていたが、松次郎の工場と同じように順次、規模が大きくなっていた。日曜で工場は休みと思い、一人住まいの自宅に行ってみる。鍵などは掛かっていない。中に入って大声で呼んでみるが出てこない。玄関やそこから見える居間の様子は、真空管の製作を最初に依頼に来た時と変わりない。
「米沢の奴、杉山さんをこき使っておきながら、充分な給料を出していないに違いない。家を新築してあげてもいいくらいの仕事をしているのに」
一道は苦々しい顔になった。
誰も居ないと思った工場の方に行ってみると杉山が一人で作業をしていた。一道も桜井もその姿を見て驚いた。前に会った時よりも一回りも二回りも小さくなったようだ。
「杉山さん、体は大丈夫ですか?無理をしないでくださいよ」
二人が心配そうに言うと、あまり笑わない杉山が振り返って、懐かしそうに笑った。
「あぁ、大丈夫だよ。メシがあまり食えなくて体は重いが、指先だけ動かせばよいから楽じゃ。どういう訳か、プレート、グリッド、ヒーター、カソードの組み立てだけは、ワシしかできない。他の者にいくら教えてやらせてもほとんど不良品になってしまう。だからワシ一人でやっているのだが、なにせ注文が多いから休みの日にもやっておかないと間に合わないのじゃ」
杉山はまるで手先を自動で動くロボットのように正確に働かせながら口ごもった声を出した。
「くれぐれも無理をしないようにお願いしますよ」
一道と桜井は杉山の肩をしばらく揉んでから工事を出た。
晩秋の午後はすぐに夕暮れの気配になる。車を走らせているうちに薄暗くなってきた。
「山の夕暮れか・・・いいなぁ」
一道が何かに憧れるような声を出した。
工場に帰った時には、途中で行楽帰りの渋滞に巻き込まれたこともあって、午後七時を過ぎていた。二人とも夕食もとらずにすぐにシャーシーをキャビネットに収め、スピーカーをボックスに取り付ける。何時まで見ても飽きない存在感のある、また、どこか安堵感を覚えさせる外観に二人はこの上なく嬉しそうな顔になる。それから直ぐにアンテナを立て始めた。
アンテナ線は工場の敷地の対角線上に張れば、もっとも長く延ばすことができる。それで竹を工場の上の二階のベランダの手すりに結び付けることにする。最も離れた二箇所に取り付ければ約三十メートル弱のアンテナが張れることになる。桜井はAMの波長からアンテナの長さを計算していた。
「およそ、そんなものでいいと思います」
「よし、それじゃ張ろう」
両方の竹の先に釣り用の丈夫なロープで玉碍子を取り付ける。それにカミツ工業の資材置き場から取ってきた直径一・五ミリほどの銅線を巻き付けて、解けないように半田付けをする。さらに引き込み線用の銅線も巻きつけて半田付けをする。そして三つに切って運んだ竹を適当な直径の塩化ビニール管に差し込んでつないで接着剤で固めた。
両方の竹をしっかりと固定するとアンテナは完成した。時間はすでに深夜になっていた。
二人ともワクワクしながらそのアンテナ線を高一中二に接続する。今までのアンテナはベランダに適当な長さの細い鋼鉄の棒を立てていただけだったから、これで受信レベルは大きく上がった。バリコンを回すと次から次へと明瞭に放送が飛び込んできた。
「これは素晴らしいですね」
「ほんとだ。アンテナの威力というのは思った以上だ」
周波数表をもとに全国の放送局をチェックしてゆく。北海道や九州の放送局も確認することができた。二人は満足の表情でカップラーメンを食べた。
(中へ続く)