大和田光也全集第11巻
『真空の灯火(ともしび)』【中】
(十八)
間もなく師走になろうかという日の深夜、いつものように一道と桜井が高一中二の全国の受信局の確認に熱中している時、電話が鳴った。一道が出てみると故郷に居る母親の民代からだった。
「父さんが急に倒れて危篤になっているので、できたら今すぐに帰ってきておくれ。もし無理なら、明日の朝、一番の乗り物で帰ってきてくれ。一道がいないと不安でどうしていいか分らん。とにかく早く帰ってきてくれ」
母親の切迫した声が電話口から聴こえた。一道の故郷は愛媛県でも南端の、高知県に隣接する南宇和郡(旧)である。今からでは列車も飛行機も当然ない。どうしたものかと思案したが、母親の言葉から感じられる雰囲気からすると、今にも危ないような状態を感じさせた。一道はとても一晩、心配しながら眠らずに大阪で過ごす気にもなれない。それですぐに車で帰ることにした。会社の車を使うと後で神津から小言を言われると思うと嫌になって、駅前のレンタカーを借りることにした。二十四時間営業で、全国どこの営業所に返却してもよかったので、都合がよかった。
一道が急いで準備をして出発したのは午前二時前だった。
彼は大阪に就職して以来、あまり帰郷していない。特に、盆と正月は混雑した人込みの中に出かけて行く気がせずにほとんど帰っていない。数年に一回、平日の仕事の暇なときに帰ったくらいだ。彼があまり帰省しないのを両親は、家族の為に犠牲させたことを恨んでいるからだと思っていたが、実際には彼は人込みが苦手なだけだった。いまだに大阪城にさえ行ったことがないことでもそれが分かる。これから帰るのに、前に帰ったのは何時だったかと考えても思い出せないほど帰郷していなかった。
中国道はよく空いていた。松次郎の家に行く時に降りるインターチェンジも、今までで最も短時間で通過することができた。そして広島県の三次インターチェンジまで三時間少々で着いた。そこから高速道路を出て、山を縫うようにして走っている国道三百七十五号線に入り、呉市へと向う。今までに車で故郷へ帰ったことはなかったが、四国へ渡るフェリーで最も所要時間が短いのは呉~松山間であるのを地図で調べていた。
一道は車の運転が全く苦にならない。夜であってもヘッドライトに照らされて次から次へと変化して映し出される風景はいつまで見ていても飽きることはない。運転していると苦痛どころかいつまでも続けていたい気持ちになる。父親のことが心配ではあったが、楽しみながら運転を続けた。
フェリー乗り場につくと、ここもよく空いていて、長距離トラックが数台待っているのみだった。フェリーは徹夜で運行しており、次の便に直ぐに乗ることが出来た。フェリーが出航する頃には空が白みかけていた。乗客は皆、この船に慣れている様子で、思い思いに座席に横になって仮眠を取っている。狭い売店に行くとうどんが作られていた。数人のドライバーらしき者が無言で食べている。一道が何も言わずに売店の前に立つと大柄な漁師風の男が小さな家庭用の手なべを使ってうどんを作り、カウンターの上に置いた。一道は値札に書いている金額をちょうど払ってどんぶりを持ってデッキへ出た。この間、一言もお互いに言葉を交わさなかった。
師走前の冷たい海風に吹きさらしになりながら熱いうどんを食べた。実に美味いと思った。こんな美味しいうどんを今までに食べたことがあっただろうかとさえ思った。
「やっぱり、四国のうどんは美味いなあ」
実際にそれが四国のうどんかどうかは分からなかったが、一道には早朝の海上で食べるうどんに故郷が重なっていた。
松山に着くと、空ははっきりと明けた。平日だったので通勤渋滞に重ならないかと心配したが、混雑する前に市街地を抜けることが出来た。後は国道五十六号線をひたすら走ればよい。松山から予讃線の終点の宇和島までの国道は、海岸沿いよりも市街地や内陸部を通っている。それに対して宇和島からは見事なリアス式海岸に沿って走っていて、いたる所で眼下に海面の開ける見晴らしのよい展望台のような場所があった。
やがて国道は四国霊場四十八箇所の四十番札所、観自在寺のそばを通る。この辺りを御荘町(旧)、城辺町(旧)というが、南宇和郡ではもっとも賑やかな町だ。
城辺町から国道を逸れて、車一台がやっと通れるくらいの道に沿って急な峰を越えると、鯆越(イルカゴエ)と言う小さな漁村に出る。一道の実家はその狭い港を見下ろす所にあった。鯆越という地名の由来は大時化の日にイルカが海と陸の方角を間違えて峠を飛び越えて城辺町までやってきたという故事からきていた。
彼の家は小さな平屋の借家だった。家の裏には少々の畑と一棟の倉庫があった。この畑と倉庫は借りているわけではなかったが、持ち主が高齢で使うこともなかったので、暗黙の了解で一道の家で使っていた。
一道はこの家で生まれ育った。彼が物心ついた頃には歩いて鯆越の峠を越えて城辺町へ出ることができたが、それ以前は陸地から鯆越に通じる道はまったくなかった。村から出ようと思えばすべて船を使っての生活だった。
一道の先祖は平家の落人であったらしい。壇ノ浦の合戦で敗れ、船で遁走した平家の者達は佐田岬半島を越え、激流の豊後水道を南下して南宇和郡にまで逃げ延びた。そして、陸地から敵に攻められないように海岸の背後が切り立った峰になっている所を捜した。それに適した海岸として鯆越が選ばれ上陸をした。そして逃亡生活を始めたのが村の起こりであるらしい。その後、村の若者同士が結婚し、少しずつ人口が増えていった。そのせいか、村には同じ姓が多くあった。一道の両親も同じ村で育った者同士だった。
父親の亀三は旧満州で終戦を迎えて昭和二十一年に復員してきた。そして、故郷の鯆越で妻の民代と共に暮らした。やがて一道が生まれ、さらに妹、弟と誕生した。
亀三は軍隊で心臓を悪くしながら、さらに無理をして兵役を続けていたので、鯆越に帰って来た時には力仕事などは出来るような状態ではなかった。それでも、家族を養っていかなければならなかったので、手伝いとして漁船に乗っていた。無理がきかないので、給金は普通の船員の半分だった。ただ、網に掛かった魚の中から雑魚などは持って帰れたので、毎日、おかずはほとんど魚になったが、副食に困ることはなかった。そのカルシュームのおかげと言ったらよいのか、一道は背丈は中背だったが、肩幅や頭など骨組みが太かった。頬骨など見るといかにも密度の高い骨でできている様子だった。
母親の民代は城辺町のパン工場で働き、商品として出荷できないくずれたパン切れや食パンをサンドイッチ用に切り取った残りの耳などを大量にもらってきて、ほとんど主食にした。さらに、裏の畑で季節ごとの野菜を作っていたので、子供三人と夫婦の五人家族がどうにか食べることが出来た。
長男の一道は妹や弟の為に高校には行かずに中学を卒業して働いたが、弟妹は彼が経済的に援助したので高校を出ることができた。今では二人とも一道よりも早く結婚して、子供にも恵まれていた。
現在は民代も体調を崩して仕事をやめ、亀三の軍事恩給で二人で細々と生活していた。
(十九)
実家に着いた時は昼を過ぎていた。家の中に入ってみると親戚だけがいて、父親は途中で通り過ぎた城辺町にある愛媛県立病院に入院しているということだった。一道はすぐに引き返して病院に行った。
亀三は集中治療室に入っていた。妹夫婦や弟夫婦も来て、父親を囲むようにして神妙な顔をしている。意識が無くなったり戻ったりしている状態で、徐々に戻らない時間が長くなってきていた。
亀三は意識が戻った時に一道が帰って来ていることが分かって非常に喜んだ。亀三は一道の顔を見て手を握り、言葉ははっきりしないが、子供に返ったように盛んにしゃべった。一見すると親と子が入れ替わったような雰囲気になった。しかし、しばらくすると少しずつ言葉の発音がのびのびになり、手を握っていた力も無くなって、意識を失っていった。しばらくするとまた、意識が戻り盛んにしゃべった。まるで、この世にまだ言い残しておくことがたくさんあるかのごときであった。
医者の話によると、昨夜、急性心筋梗塞の発作を起して、心臓の筋肉に血液を送る太い血管がほぼ全部詰まってしまい、筋肉が壊死してきているということだった。治療方法としてカテーテル手術やバイパス手術があるが、この病院では出来ず、手術可能な病院まではずいぶん距離がある上に、亀三の状態では手術にも耐えられないだろうということだった。それで、対処療法的な治療をして命を延ばしている状態だった。
亀三はまた意識が戻った時に一道の顔を見ると、
「お前にはいちばん苦労をかけたなあ。秀一や弘子のために高校にも行かせてやれなかった。たいした事もしてやれずじまいになった。すまなかった。感謝している」と言って涙を流した。
一道が病院に着いてから、二時間ほどしてから亀三は息を引き取った。亀三が最後に言った言葉は、
「母ちゃんを頼むぞ。母ちゃんは頭が弱いから、老後の面倒をしっかり見てやってくれ」ということだった。「頭が弱い」というのは、賢くないと言う意味ではなくて、精神的に疾患があるということだった。一道が、
「わかっている。俺がお袋の面倒は一生涯見るから心配するな」と言うと安心した顔つきになった。それから父親は一度、一道の手を強く握ってから、全身を揺さぶるようにして亡くなった。
通夜、告別式と忙しく段取りをした。簡素ではあったがそれらを人並に行うことが出来た。妹夫婦は岡山へ弟夫婦は大分へそれぞれ、葬式が終わるとさっさと帰って行ってしまった。
一道は残って、葬儀の後のさまざまな煩雑な手続きなどを母親と共に行なっているうちに日は過ぎていった。早く工場に帰らなければならないとも思ったがもう一方で、せっかく故郷に帰ってきたのだから、もっとゆっくりしていたい気持ちもあった。そして、母親も急に独りになると寂しくなって心の状態に悪いだろうという気もした。
とりあえず一道は工場の状況を聞こうと思い電話をした。すると桜井が電話口に出た。色々と聞いてみると段取りから製品の完成まで不具合もなく今まで通り稼働しているということだった。
「一ヶ月でも二ヶ月でも好きなだけゆっくりしてください。変な言い方ですが、順調に製造ラインは動き、一道さんや僕などは必要ない状態です」と桜井は一道を安心させてくれた。ただ最後に、
「社長や米沢さんが毎日やってきて、何かバタバタと準備をしています。それにまた、工場の周辺の数軒の文化住宅も購入したみたいです。さらに工場を広げるようです。それでも僕には、何をしようとしているのかは全く知らせてくれません」と不満を言った。この言葉は少し気掛かりになったが、しばらく母親のそばにいてやる決心がついた。
一道がすぐに帰らなくてもよいという事を知ると、民代はたいへん喜んだ。やはり、四十年以上も連れ添ってきた夫婦だから急に一人だけの生活になるのが非常に不安だったようだ。
「心配することはない。寂しくなったらいつでも大阪の俺の所に来ればいい。工場の二階だから部屋はいくらでもある」
「ありがたいのう。できるだけおまえには迷惑をかけないようにしようと思う。これまでさんざんお前には世話になっているからなあ。じゃが、どうしても我慢ができないようになったら、頼むかもしれない・・・」
民代の目から涙がポロポロとこぼれた。民代は最近、感情の起伏が激しくなってきていた。
翌日から一道は、慌てて大阪に帰る必要がないと分かったので気分がずいぶん落ち着けた。
「裏の倉庫はどうしてる?」
「あの時のままじゃ。お前が大阪へ就職して、その後、秀一が高校に行くため下宿先へ出て行った後はそのまま、掃除もせずにほったらかしている」
「オーッ!それはありがたい」
一道は大声を出して喜んだ。これまで、たまに帰ってきた時でも仕事のことを考えるとゆっくりできず、倉庫の中にまで入った記憶はない。
一道は期待に胸を膨らませて裏の畑の隅に建っている倉庫に行ってみた。この倉庫は家が狭かったので、一道と弟の秀一が子供部屋として使っていたのだった。兄弟は自分たちの倉庫をお互いに研究所と呼んでいた。そして入り口のところに「イルカ越え研究所」と下手な字で書いた板切れを打ちつけていた。
その時からすでに二十数年経っている。さすがに名前を書いた板切れはなかったが、倉庫の入り口は当時と同じだった。彼は建て付けの悪い入り口の引き戸を開けた。中にはよどんだ空気のにおいがする。そして一歩入ったとたんに、彼はぼう然とした。中学を卒業したときの状態と全く変わっていない。同じものが目の前にある。古い真空管ラジオの部品が雑然と山のように積まれている。当時、もちろんラジオや部品を買う金はなかったから、全部、拾い集めたり、潰れた物をもらったりして集めたものだ。彼が新聞配達をして稼いだ金で買ったのは、半田ごてとハンドドリルくらいだった。そのハンドドリルと半田ごてが錆びにまみれて机の上にある。さらに、取り外した電源トランスや抵抗やコンデンサーやコイルが雑然と机や棚の上に置かれたままになってる。
彼の心の中で、時が急速に遡っていった。
この倉庫の中で過ごした時期は、彼のこれまでの生活の中で最も幸せな時期だった。確かに、家は貧しくて普通の子供が買ってもらうようなおもちゃを手に入れることはできなかった。しかし、小学六年のころから真空管に非常に興味を持ち始めて、真空管を触っていることが何よりの楽しみになった。この頃から彼は外に捨ててあるラジオを拾っては倉庫に持ち帰った。そして分解しり、取り出した部品を組み合わせて何か新しいものを作ったりした。それは彼にとっては至宝の時間だった。
中学になると新聞配達のアルバイトをして、もらった金の大部分は母親に渡して、手元に残ったわずかの金でラジオ関係の雑誌を買った。当時の子供たちがマンガが好きで、毎月の漫画雑誌の発売が待ち遠しくて堪らなかった以上に彼は月々の電気関係の雑誌を買うのが楽しみでしかたがなかった。そしてその記事を見ながら、真空管を使ってさまざまな工作をした。金を出して買う部品は最小限にして、ほとんど拾ってきたもので完成させた。
一道はこの頃から何かを作り始めると没頭するようになった。完成するまでは時間の経つのも忘れてしまった。夜も食事もせずに深夜まで工作していたので、よく母親が裏の倉庫までやってきて、無理やり電気を消して寝かせることもあった。それにつられて弟の秀一も電気関係の事が好きになり結局、工業高校に進学して電気関係の仕事に就いていた。
一道にとってこの時期は、何の不満も不安もなかった。いつでもラジオ部品などを見ると期待に胸が高まった。何よりも真空管に触ると心が満たされてこの上ない幸福感が沸き上がってきた。
(二十)
小学校五年生になった頃、学校の理科の授業で鉱石ラジオの製作をした。児童1人1人に1セットが渡されて先生の説明を聞きながら組み立てた。ボビンにエナメル線を八十回ほど巻いて、平行にポリバリコンを結び付け、検波器を通してクリスタルレシーバーにつないだ。これが一道をラジオに目覚めさせるきっかけになった。
目に見えない電波と言うものが、検波器を通じて耳に聞こえるようなると言うことが実に不思議でおもしろかった。その魔法使いのような鉱石検波器は、二~三センチの鉛筆くらいの大きさの筒で、蓋を開けると中には、折れた鉛筆の芯ほどの石のかけらが入っているだけだった。それを一方から細いバネで押さえていた。そこからクリスタルレシーバーにつなぐと電気も使わないのに放送が聞こえてきた。小学生の一道にはこんなちっぽけな石片を通しただけでどうして耳に聞こえるようになるのか、まるで手品でも見ている気分だった。
学校で鉱石ラジオの工作が終わってからも、一道はそれを家に持って帰ってさまざまな実験を試みた。まず面白かったのはアンテナだった。高く長くすればするほど音は大きくなった。さらに鉄棒を土の中に叩き込んでそこからアースを取ると一段と音が大きくすばらしく聞こえてくるのも分かった。そうするとますます大きな良い音で聴きたくなる。彼はできるだけ高く大きなアンテナを張り、できるだけ地中に大きく深くアースを打ち込むことに熱中した。
彼は秀一と一緒に屋根の上にのぼり、屋根の両端のいちばん高いところにある棟木に長い棒切れを打ちつけて支柱を立て、二本の支柱の間に針金を張り渡してアンテナを作った。アースには、一メートルもあろうかと思われる水道管を拾ってきて、苦労しながらほとんど埋まってしまうくらいまで地中に叩き込んだ。そして胸をワクワクさせながらアンテナとアースを鉱石ラジオにつないだ。レシーバーを耳に入れたとき、そのあまりの明瞭な音量に驚き、飛び上がって喜んだ。
アンテナを張った翌日、雨になった。倉庫の部屋の天井のいたるところから雨水が漏れてきた。父親に言うとすぐに屋根の上に上がって調べてくれた。
「お前ら、屋根瓦を何枚も踏み割っているじゃないか」
屋根の上から亀三の怒鳴り声が聞こえてきた。アンテナを張った時、二人が屋根の上をドタドタと歩き回ったので瓦を割ってしまい、そこから雨水が染み込んでいたのだった。すぐに亀三はどこからか古いが割れていない屋根瓦を持ってきて修繕してくれた。
しばらくはよく聞こえるようになった鉱石ラジオを聞いていたが、やがてまた、もっと大きな音で聞きたくなった。それで今度は、アンテナコイルをたくさん巻けばそれだけ大きな音がするのではないかと思い、二、三十回余分に巻き足してみた。すると、音の大きさは変わらなかったが、漁業無線の声が飛び込んできた。いつも聞こえている放送局以外に一風変わった内容の放送が入ってくるというのは、新鮮な驚きと喜びだった。
鉱石ラジオはもちろん倉庫のアンテナとアースにつないで大きな音で聴くのも楽しかったが、さらに楽しかったのは、あちらこちらと持ち運んでも聞けることだった。外で聴くときにはいつも、竹ざおの先にアンテナ線を巻き付けてラジオに接続していた。一道兄弟はアンテナの竿を高く掲げて得意そうに歩きながらラジオを聴くのが大変好きだった。特に、周囲の人から、何をしているのかと不思議そうに見られると、とてもうれしくなった。
ある日、鉱石ラジオを放送局のアンテナのそばで聞いたらどんなに聞こえるだろうかと思った。当時、城辺町のかなりの高さのある山の頂上にNHKの電波中継所があった。そこには、どこからでも見えるような高いアンテナが立っていた。中継所までは急な坂道で自転車に乗ったままではとても登れないような道だった。そこを一道は息を切らせながら必死で自転車のペダルを踏んでアンテナのそばまで行った。自転車を降りて押して歩いた方がよほど時間的にも早いように思えたが、彼はどんなところでも自転車に乗ったまま進むのが好きだった。
鉱石ラジオを取り出して、アンテナ線を中継所の、アンテナを引っ張るようにして支えている太いケーブルに巻きつけて聞いてみた。これは素晴らしく大きく良い音だった。レシーバーを耳の中に入れるまでもなく、近付けただけで音が聞こえてきた。人の声や音楽がまるですぐそばにいるところから聞こえてくるようにさえ思えた。いつまでもそのまま聞いていたいような気持ちにさせる音質だった。
彼は今度はアンテナ線をケーブルからはずして、土の上に這わせてみた。するとまた同じように素晴らし音が聞こえてきた。アースもアンテナも電波をよい状態で受信しょうと思えば両方とも大切なのだということがよく分かった。このことがあってから彼はしばしば新しい鉱石ラジオを作ると中継所に行っては長時間、ラジオを聴き続けていた。
(二十一)
中継所のアンテナのそばでは、十分に満足できるような音で聴くことができたが、中継所を少し離れると、音はまた小さくなった。一道は中継所から離れても中継所で聞こえたような大きな音で聞きたいと思った。それで学校の図書館でラジオ関係の本を探して読んだ。しかし、どれも鉱石ラジオ程度のもので、彼の希望をかなえてくれるようなものはなかった。それで、鯆越には書店などはなかったので城辺町まで行き、ラジオ関係の雑誌を捜して立ち読みをした。そこには知りたい内容が豊富に書かれているものがあった。見ているうちに記事に引き込まれ、胸が高鳴るような思いがした。
その本はどうしても欲しかったが、値段を見ると今ある小遣いではとても買うことはできなかった。もともと、決まった金額の小遣いを定期的にもらえるような経済的な状況ではなかったので、自分で金を稼ぐしかないと思った。当時、村に鉄くずを買ってくれる人がいて、小学生などが拾ってきた金属片などにも金を出してくれた。これは一道にとってたいへんにありがたかった。親からはいつ小遣いがもらえるか分からないなかで、鉄くず集めは確実に現金を手に入れることができた。彼は結局、中学になって新聞配達をするまでに小学校の時から金属を集めるアルバイトを続けていたことになる。
一道は学校の授業が終わると、自転車であちらこちらと走り回りながら捨ててある金属を集めて回った。ほぼひと月ほど続けるとちょうど雑誌を一冊買えるくらいの金額になった。彼は急いで本屋へ行って目当てのラジオ関係の雑誌を買った。それを家で読み始めると時の経つのを忘れた。本の中は知りたい知識の宝の山だった。彼はその雑誌を始めから終わりまで何度も何度も読み返した。読むたびに頭の中に新しく作ろうとするラジオの構造が浮かんできた。
一道はこの雑誌で初めて真空管の存在を知った。家には高一のラジオはあったが、大きな雑音が出て放送はわずかにしか聞こえなかったので、台風が近づいた時とか、よほどのことがない限りスイッチを入れることはなかった。彼はそのラジオの中に真空管が入っていることも雑誌を読むまでは気がつかなかった。
雑誌の記事の中の一つに、特に目が引きつけられるラジオ制作があった。それは、彼が最も望んでいた屋外でレシーバーからラジオの音を大きく聴けるものだった。回路図を見ると実に簡単で、鉱石の代わりに、バリコンから抵抗とコンデンサーを並列にして真空管のグリッドにつなぎ、プレートには抵抗とコンデンサーをつなげばよかった。抵抗の一方はB電源に接続し、コンデンサーはイヤホンにつなぐようになっていた。電池管式の一球ラジオだった。
「なんとかこの真空管ラジオを作って、外で大きな音でラジオが聞きたい」
一道は一球式のラジオが作りたくていてもたってもいられなくなった。そのラジオの製作記事で使っていた真空管は1T4というものだった。城辺町のラジオ屋に値段を聞きに行くと、とても鉄くずを拾っただけの金では買える金額ではなかった。真空管を買う金がないとすれば、拾うしかないと思った。この時より一道と秀一は捨ててあるラジオを探しては家に持って帰ってきた。そして自転車で少しずつ遠いところまで行き、探す範囲を広げていった。そうすると、結構たくさんの捨てられているラジオを集めることができた。ちょうどトランスレスの五球スーパーラジオが出始めたころで、それまでのST管のラジオを買い替える時期だった。一道兄弟の小屋には次から次へと捨てられたラジオが持ち込まれた。こうして集められたつぶれたはラジオは、彼にとっては宝の山だった。
それらの中に電池管式の携帯ラジオが一個あった。その中に1T4があることを祈るような気持ちで裏ブタを外した。A、B電池は使えるかどうかは分からないがつけられたままだった。そして真空管は4球あるうちの二球は割れていた。残りの二球を調べるとその中に1T4があった。一道は動悸がして手が震えるほど喜んだ。
ハンダとペーストは買ってきたが、電気ハンダごてを買うほどの金はまだ溜まっていなかった。それで太い銅線を何重にも丸めて金づちでたたいて塊にしたもので代用した。それを七輪の炭火で焼きながらハンダ付けをした。配線は簡単のもので、コンデンサー二個と抵抗三個を接続すればよかった。その抵抗やコンデンサーも拾ってきた残骸の中から探せば、使えるものがいくらでもあった。
電池管式一球ラジオは適当な木の箱を作ってその中に組み込んだ。作るのをもっと楽しみたいと思ったくらい、早くできてしまった。一道は、本当にこれで大きな音で聞こえるのだろうかと不安に思えた。フィラメント用の電池は、拾ってきたものはすでに放電してしまっていて使えなかったので、家にあった懐中電灯のものを取ってきて接続してみた。真空管を手で覆って暗くして覗き込むようにしてみると、1T4のフィラメントが赤くなっているのが見えた。
「やった!絶対にこの真空管は生きているぞ」
彼はそのかすかに赤く焼けているフィラメントを見て大声をあげた。次に捨てられていたB電源用の電池をそのまま接続してみた。B電池は六十三・五ボルトの積層電池で非常に高価で、とても新品が買えるものではなかった。電気が少しでも残っていることを祈るような気持ちになっていた。
接続を完了してレシーバーを耳に入れて恐る恐るバリコンを回した。鉱石ラジオで放送が聞こえた位置と同じところまでバリコンを回すと大きな音で放送が聞こえてきた。
「すごい、大きな音で聞こえるぞ。万歳!」
その音は鉱石ラジオよりはるかに大きいうえに、豊かな質感のある音質だった。それは中継所で聞いた音にさらに暖かさが感じられるような快い音質だった。また珍しくて、真空管を指の先で軽くはじいたりすると、キーンという音が聞こえた。それも実に新鮮で驚きを感じさせるものだった。
一道はいつまでも聴き続けていたかったが、秀一にも聴かせてすぐに電池を外した。電池が消耗することが何よりも心配だった。
彼はそのラジオにレシーバーを二個付けて、秀一と一緒にあちらこちらと自転車で走り回りながら、行った場所で二人で耳にレシーバーを入れて少しの時間だけ電池をつないでラジオを聞いた。これは二人の、時の経つのを忘れさせるほどの楽しみになった。
初めての真空管は、一道の心を完全なとりこにしてしまった。学校へ行くときもラジオから外した真空管をポケットに潜ませて持って行った。また、寝る時も一球式ラジオを枕の側に置いた。こうすることによって、一道は何とも言えない幸福を感じることができた。
(二十二)
中学になってから彼はすぐに新聞配達を始めた。父親の心臓病は、医者から悪くなることはあっても良くなることはないと言われた通り、少しずつ機能が落ちてきているようだった。今までそれほど大変そうな様子を見せなかったは動作にも、大きく息切れをしたり、しばらく休まなければ次の動きができなくなっていた。船に乗っての手伝いも動悸がして無理になってきたので、陸での仕事に回されていた。もらえる金はますます少なくなっていた。子供の小遣いが両親の給料から出てくる余裕は全くなくなった。
一道の新聞配達の給料が、自分と弟妹の小遣いの出所になった。さらに家計の助けにもしなければならなかったので、月々、一道が自由に使える金額はわずかなものだった。それでも、月々のラジオ雑誌は欠かさず買った。そして、電気ハンダごてとハンドドリルだけはどうにか買うことができた。テスターが欲しくてたまらなかったがとても買える金額ではなかった。しかしとりあえずこの二つの道具があれば、たいていの作業をこなすことができた。
電池管式のラジオを作った後、彼はB電池の消耗の心配のない、家庭用の百ボルトの電源を使ったラジオを作ることにした。雑誌に出てくるさまざまな回路図の中で、いわば、電池管式のラジオの電池の部分を電源トランスと整流装置で働かせるものを選んだ。それなら失敗せずに作れると思ったからだ。
拾ってきたラジオの中から、電源トランスの付いた適当なシャーシーを選ぶ。トランスが生きているかどうかは電源につないで、それぞれの出力の両端を瞬間的にショートさせることによって出てくる火花で確認した。二百ボルト以上あるB電源などはショートさせたままにしているとあっという間にトランスに巻いている細いエナメル線が焼け切れたので、特に気をつけながらショートさせた。この試験で分かったのは、捨てられていたラジオのほとんどの電源トランスは生きているということだった。それ以外のさまざまな部品も、たいていは使用可能なものだった。故障している箇所はわずかの部分で、少し修理すれば十分に使用できるものが多かった。
アンテナコイル、バリコン、真空管ソケットなどもそのまま使えばよかった。検波部分の配線は電池管式と同じで、バリコンから6C6の頭の第1グリッドへ抵抗とコンデンサーを通して接続すればよかった。新しい回路は電源部分だった。しかし、この部分も雑誌に載っている実体配線図を見れば簡単だった。一道は実体配線図が好きだった。それは電気回路の配線というよりもむしろ好きな絵を見るようなものだった。いつまで見ていても楽しくて飽きることはなかった。
ハンダ付けは電気ハンダごてを購入してからは七輪に炭をおこして焼く必要もなく全く苦労はなかった。苦労がないどころか、半田ごての先の部分でハンダが溶けるのが何とも言えぬ心地良さだった。また、ペーストの焼けるにおいは、どんな香水よりも彼の嗅覚を満足させた。
彼は短時間で三球式のラジオを組み立てた。アンテナとアースには自慢の屋根の上と地中深くから引いた配線を接続した。クリスタルレシーバーを耳に入れて電源を入れた。かすかに電源トランスのうなり音が響いて、真空管のフィラメントが徐々に赤くなっていった。それにつれて異様に胸が高なった。一道は耳に神経を集中して、ゆっくりとバリコンのダイヤルを回した。するとすぐに驚くほど大きな音で放送が飛び込んできた。
「すごい。電池管よりもはるかに大きな音がする」
一道は弟のためにもう一個レシーバーをつけてやった。弟の秀一も音量の豊かさに目を大きく見開いた。この日は夜遅くまで兄弟でラジオを聴き続けていた。
三球式ラジオの音量はアンテナとアースがしっかりしていたので大きくて、レシーバーを耳の中へ入れなくても周囲が静かであれば音が出ているのがわかるほどだった。これに目をつけた一道は、クリスタルレシーバーの、耳の中に入れる透明のプラスチックの部分を取り去って、代わりに、厚手の画用紙をスピーカーのコーンのように丸めて作り、レシーバーの振動端子に接着剤でくっつけた。そうすると独特の雰囲気のする音が、十分に内容の理解できる音量で聞こえてきた。この音に一道はたいへん気に入り、学校から帰ると寝るまでいつもラジオをつけっ放ししていた。
雑誌の記事を参考にして次に彼が作ったのは低周波増幅回路だった。それはイヤホンのところに6ZP1の真空管のグリッドを接続して、プレートから直接マグネチックスピーカーに接続するだけでよかった。マグネチックスピーカーはU字型磁石の間にコイルを置き、その中に振動子を取り付けたものだった。そのコイルにはB電源を直接通せばよかった。いわばOTLだった。アウトプットトランス方式とOTL方式とどちらが古いのかといえば、OTL 方式の方がラジオのスピーカーについては早かったのだ。
この電力増幅一段だけのラジオもよく鳴った。自作のクリスタルイヤホンスピーカーも面白い音だったが、マグネチックスピーカーから聞こえてくる音は十分に実用になるものだった。
彼が次に付け加えた回路は高周波増幅回路だった。この回路図や製作方法も雑誌にはさまざまな形で記事になっていた。一道は拾ってきたラジオの中から検波コイルや二連バリコンや6D6の真空管を取り出してきて高周波増幅部分を付け加えた。記事の注意事項にあった、二個のコイルの干渉を防ぐようにシャーシーの上下に分離して作ると、これも短時間で完成した。
一段の高周波増幅は一道にラジオの受信の楽しさを身に染みて教えてくれた。当時、近くにはNHKの電波中継所しかなかった。この地域で実用的に聞けるラジオ放送は、NHK第一と第二しかなかった。それも、並三や並四ラジオでは、アンテナの調子が良くないと雑音がずいぶん入ってきた。一道の作った高一ラジオは、昼間は地元のNHK以外はほとんど入らなかったが、夜間になると様相が変わった。アンテナとアースがしっかりしているためか、豊後水道を渡って九州の電波が入ってきた。さらにハングル語放送さえも波を持つようにではあるが聞こえた。それ以外にも中国地方の放送局や愛媛県庁所在地の松山市の中継所からの電波も入ってきた。はるかに離れたは土地からの電波が、いま目の前に来ているのかと思うと面白くて仕方がなく、一道と秀一は毎晩遅くまで、ラジオにしがみつくようにして聴き入っていた。そのため、早朝の新聞配達は眠くて仕方がなかったが、寝不足は授業中に居眠りをして解消していた。
高一ラジオを完成させた自信で、彼は家に置いていたほとんど使えなくなっていたラジオの修理を始めた。
「どうせ、ほとんど壊れているからお前の好きなようにしたらいい」
一道が修理をすると言ったとき、父親の亀三は期待する様子は全くなかった。息子の一道が裏の小屋でつぶれたラジオを集めてきては何かしているのは知っていたが、電気の知識が中学生にそんなにあるとは思っていなかった。
家のラジオの回路は、彼が作ったものとほとんど同じだった。一道は同じ回路で修理をしたのでは面白くないと思った。それでまた、雑誌を見ながら面白い回路はないかと探した。その結果は、いろいろな記事の回路の一部をつなぎ合わせて修理することにした。
高周波一段増幅はどの記事も大差はなかったのでそのまま使った。検波と低周波増幅については別の回路のものにした。検波管を6D6から6ZDH3Aに変えた。検波を6ZDH3Aの二極管部分でやらせ、三極管部分では電圧増幅をさせた。そして電力増幅管6ZP1はそのままにした。そして、スピーカーをマグネチックスピーカーより良い音がする、拾ってきていたパーマネントスピーカーに取り換えた。この頃はパーマネントスピーカーはマグネチックスピーカーの代わりに取り付けられたものだったからアウトプットトランスはスピーカー本体に取り付けられていた。一道は雑誌の記事で、「音質のよくなるアンプの回路」というのがあったのでそれを使ってみることにした。
彼はスピーカーからアウトプットトランスを取り外してシャーシーの上に取り付けた。そしてボイスコイルの二次出力から6ZDH3Aのカソードに抵抗を通して負帰還をかけた。さらに、6ZP1の第二グリッドとプレートを直結して五極管よりも音の良い三極管接続にして配線した。
彼はゆっくりと製作の楽しみを味わいながら完成させた。そしていつものおののきを感じながら電源を入れた。選局ダイヤルをNHKに合わせると音が出た。その音を聞いて、自分が製作したものながら一道は驚いた。素晴らしい音質だった。これほど豊かで温かみのある音は聴いたことがなかった。音楽にしろ、会話にしろ、放送内容に関係なく音そのものが快く感じられた。できるだけ大きな音で、できるだけ長い時間聞いていたい気持ちにさせるものだった。
「どうしてこんなきれいな音がするんだろう?」
秀一もスピーカーに耳をくっつけるようにして聞いていた。
「やっぱり、三極管出力と負帰還の効果だろうなぁ」
二人とも時が経つの忘れてラジオに聞き入った。このラジオを二人で親の居る部屋へ持って行って聞かせた。
「エェーッ!」
両親ともに信じられないような顔をした。妹の弘子もぽかんと口を開けて聴いていた。
「一道にこんな能力があるとは思わなんだ。こんなに賢いのだったら高校に行かせてやりたいが・・・」
秀一と弘子が顔を俯けた。それを見て一道が、
「いや、俺は高校なんかには行かないぜ。進学するより早よう、仕事をして金を稼ぎたい。その代り、弘子と秀一には俺が助けて高校に行かせてやる」と弟妹に言い聞かせるように言った。弘子と秀一が安心したように顔を上げた。
「すまんなあ」
亀三がしょんぼりして言った。
この高一ラジオは両親がたいへん気に入り、家にいるときにはほとんどつけっ放しにされるようになった。特に亀三も民代も以前から歌謡曲が好きで、時にはラジオから流れる歌に合わせて声を出して歌うこともあった。亀三の心臓の機能が徐々に落ちてくるにしたがって、仕事ができる時間が減ってきたので、その分、家にいる時間が長くなり歌謡曲が聞ける時間も長くなった。一道は授業のある日は家に帰ってから、休日など家にいるときはいつも歌番組が始まると、親の部屋から漏れてくる歌謡曲を耳にした。ラジオから曲が流れ出すと音量をいっぱいにするので、いやでも耳に入った。そのためか、中学生の彼も歌謡曲が大変に好きになった。特に両親が好きだった懐メロには心がひかれ、彼が生まれる前の歌などにも妙な懐かしさを感じるのだった。
亀三がラジオに合わせて歌う『国境の町』などを聞くと、行ったこともない旧満州の雪深い雪原を鈴を鳴らしながら走る馬そりがありありと頭の中に浮かび上がり、何とも言えない寂しさを快く感じた。また、民代が「花も嵐も踏み越えて」と歌い出すと、詳しい歌詞の内容は分からないが、とにかくつらいことがあってもそれに負けずに頑張らなければならないのだという思いがした。
その後、四球スーパーを作り、最終的に五球スーパーラジオまで作ったが、両親用の高一はもっとも音が聞きやすかったので、そのまま使っていた。
(二十三)
一道が中学を卒業して就職のため倉庫を出てからは、秀一はあまりラジオの製作などはしなくなり、学校のクラブと勉強に力を入れるようになった。それで、倉庫の部屋の中には製作したラジオなどは片付けたりもせずそのままの状態になっていた。あの最初に作った一球式の電池管ラジオもあった。その後作ったたくさんのラジオなどもほとんど全部残っていた。
今、一道がそれらを見ると、当時の自分にタイムスリップしたような気持ちになり、同時にその頃の幸福感が体の中から蘇ってくるように感じられた。
一道はたくさん作ったラジオに順に電源を入れてみた。あの頃と同じくゆっくりと真空管のフィラメントが赤くなった。彼は自分は二十数歳も年を取って変わったにもかかわらず、真空管は全く変わっていないのを見ると時の不思議な流れを感じた。
ラジオはどれもしっかりと電波を受信した。その変わらない懐かしい音にまた時の経過を忘れさせられた。
彼は九ボルトの006Pの電池を五個買ってきて、一球式の電池管ラジオに接続してみた。レシーバーを耳に入れてバリコンのダイヤルをゆっくりと回すと放送が耳に入ってきた。当時と同じような温かみのある音質だった。それを聞いているうちに、貧しかったが充実して幸福感に満たされていたあのころの自分に遡っていくような気がした。
一道は雨が降らなければ少年のころと同じように朝から電池管ラジオを持って自転車で出かけた。そしてあちらこちらと思い出の場所を訪れた。
民代は、一道が「いらない」と言っているのに、出かける時はいつも弁当を作って息子に持たせた。その弁当がまた、中学時代の記憶にあるものと同じように魚ばかりのおかずだった。民代は一道の弁当を作ったり、世話をしたりしていると母親らしく顔が生き生きとしていた。逆に、何もすることがなくなるとうなだれてじっと座っていることが多くなった。
一道が中学のころ自転車で最も遠く行った所は、太平洋に突き出した高茂岬の突端だった。海抜のかなりある先端の頂きまでは長い急な坂道になっていた。元気盛りの中学生と違って、いまはかなりきついかと思ったが、懐かしさのあまり行ってみた。
突端に近付くにつれて亜熱帯性植物が多く繁ってくる。半島に打ち寄せる黒潮の暖海流のために一年中、気温が高いからだ。それは高茂岬に限らず、南宇和の海岸一帯は冬季でも温暖な地域だ。一道が小学生の間に雪が降ったのは数回しかない。その時には珍しくて授業をやめ、グランドに出て大はしゃぐぎしたものだった。
昼前になって師走にもかかわらず、汗ばみながら到着した。地元の人もめったに行かない所なので人影はどこにもない。
「俺はまだ体力は落ちていないぞ」
息を切らせながら彼は空に向かって言った。
「ああ、あの時と同じだ」
前方の視界を妨げるような高い立木はない。背後の山肌には冬にもかかわらず木々が青々と茂っている。陸地は半島の先端から急な断崖となって、はるか下方の海面へと落ちている。視線を上げると無辺際の太平洋が視界いっぱいに広がってくる。彼ははるか水平線が弧を描いているのを懐かしそうに目を細めて見た。
視線を手前に戻してくると右手に周辺では最も大きな島が見える。鹿島だ。その昔、伊達家十万石の宇和島藩の藩主が鹿狩りが楽しめるようにと島に鹿を放ち増殖させた。その鹿が生き残っていて、今では観光資源にしようと餌付けをしている。
その鹿島の周囲や〝沖の磯〟といわれる岩礁の周囲には白い波が立っている。天気は良いが海は荒れ模様だ。はるか沖を通る、かなり大きいと思える船がミニチュアのように見え、しばしば波に飲まれ海中に消えてしまう。海の雄大な存在に対すると船は芥子粒のようだ。それがあまりにも不均衡なのに、さらにあの中に人間がいるのかと思うと一道には虚無感のようなものさえ感じられる。時々、からだが揺れるような強い風が吹きつけてくる。
一道はしばらく岬にただ立っていた。そうすると、この場所に懐かしさから来たが、この自然は思い出のものではないと思え始めた。現在の自分に対峙している偉大な自然なのだと思える。考えれば二十年や三十年、否、百年や二百年の歳月など大自然にとっては変化の節目にもならないだろう。思い出の自然も今の自然も不変なもので、変化すると思っているのは自分の錯覚に過ぎないのではないのか。人間である自分は年を取って変化しているように思っているかもしれないが、実は偉大な自然の時の流れから見れば何も変化していないのではないか。自然も自分も変化しているように見えるのはほんの上辺だけで、根底のところでは不変的なものと結びついているのではないのかと思える。そう思うと懐かしさを超えて今度は、一道自身が自然と一体になってゆくのを感じた。
大阪での日常生活が別世界のことのように思えた。さらに母親や亡くなった父親のことさえもそう思えた。このまま自然の中で死んでいったとしても何の違和感もないように思えた。死んだ後も自分は自然と共に存在するのではないかという気がした。
(二十四)
一道はいつまでも立ちつくしていた。
背後の、風の音とは違ったザワザワという物音にハッとする。振り向くと木々の間を数匹の野ザルが移動している。そのうちの一匹と彼の目が合う。サルはすぐに目をそらせて、特に彼を意識するでもなく山中へ消えていった。
「さあ、ラジオを聞いてみよう」
彼は電池管ラジオを取り出してアンテナを高く伸ばす。時間は正午前だ。バリコンをゆっくりと回すとNHK中継所の第一放送と第二放送は音量、音質とも満足なレベルで聞こえてくる。さらにバリコンを回すと音が波打つように聞こえるが、内容は十分に分かる放送が入ってくる。正午前のお知らせの内容を聞くと、九州地方の民放であるのが分かる。やがて正午の時報が鳴った。一瞬の空白があって、次の番組みのテーマ曲が流れてくる。その曲を聴いて一道の心が弾んだ。『なつかしの歌声』の前奏だ。両親が特に好きな歌で、これがラジオから流れ始めると二人は晴れ晴れとした顔になって大きな声で歌っていた。一道もそれを何度も聞いているうちに、優しい哀愁を感じさせるこの歌が大変好きになっていた。曲の途中でアナウンサーが「なつかしのメロディー」と番組名を言って、またしばらく曲が流れる。藤山一郎と奥山彩子が歌い始める直前に音量が絞られる。それから曲名が紹介されて、懐かしい歌が次々と流れる。わずか十五分の番組だったが、一道は時間が逆流して、自分が中学生の時と同じ心になってくるように感じた。
翌日から一道は雨が降らなければ毎日、母親が作ってくれた弁当を持ってあちらこちらと出かけて行った。そして、ラジオを聞きながら、あの貧しかったけれども幸せだった子供のころの自分に浸っていた。
やがて、釣竿も持っていくようになった。帰りがけに海岸で魚を釣って帰った。餌は岩にくっついているカキや貝を割って身を取り出して針につければよい。黒潮が打ち寄せ海水温が年中高いので、魚はいくらでも釣れる。海底の岩場の穴の中に落とし込めば、すぐにガシラが食い付く。海草の中に入れるとメバルやグレが食う。回遊魚が入ってくるとアジやサバが入れ食いになる。時にはイシダイの子のサンバソウまで釣れる。これは刺し身にすると絶品で、母子で舌鼓を打って楽しく食べた。
民代は魚の種類によって様々な方法で料理をするので、子供の頃もそうだったが、毎日魚を食べても飽きることはない。また、釣れすぎたアジなどは二枚に開いて天干しにして保存できるようにする。こうしておくと海が荒れて釣りに行けなかった日でもおかずを買わなくてすんだ。これらはちょうど、山里の桜井マサ子が山菜料理をするのとよく似ていた。
毎日の生活はわずかな費用で済ますことができた。亀三が死んだので、軍事恩給の代わりに民代が支給を受けることになる扶助料でもどうにか生活していけると思えた。それに、一道に、大阪へ帰らないのであれば、定置網の手伝いに来いと言ってくれる漁協の者もいた。
一道は故郷での毎日の生活に時として大阪の生活を忘れてしまうことがあった。桜井からは、工場はうまくいっているからゆっくりすればよい、と言われてからその後、何も連絡がなかった。また、一道からも連絡をしなかった。徐々に頭の中から、工場での生活はもとより中学卒業して集団就職で大阪に行ってからのすべての生活の実感が薄れてきていた。今の生活が本来の自分の生活で、大阪での生活は横道に逸れた自分に相応しくない生活のように思えてきた。
「俺はこのまま、鯆越で生きてもいいなぁ。仕事は適当に道路工事か漁の手伝いをすれば食っていける。働けなくなればこの世を終りにすればいい。その方がお袋も喜んでくれている」
一道は生涯、故郷での心の満たされる生活を続けることに愛着を感じ始めていた。それで、その後も工場から連絡がないのをよいことに、一道からも全く連絡をしなかった。工場の一道の部屋に置いたままになっている物は大切なものは何もなく、全部捨てられてもよかったので、このままカミツ工業を辞める気になっていた。
一年程が過ぎた。
南国には珍しく冷え込む夜が続いていた時だった。突然、桜井から電話がかかってきた。
「三津田さん、ほんとうにご無沙汰しています。まったく連絡せずにすみませんでした。お元気でかす?」
懐かしい桜井の声を聴くと一道はなにはともあれ嬉しくなった。
「ああ、元気だぞ。久しぶりだなあ、懐かしいなあ。桜井君も元気かい?」
「ええ、体は元気なんですが、ラジオの製造がうまくいっていないのですよ。そろそろ大阪に帰ってきてもらえませんか」
受話器から桜井の困ったような声がした。
「どうして?社長や米沢がまた何かやらかしたか?」
「そうです。三津田さんがいないのをよいことに、好き放題で勝手にやっています。その結果、返品の山ですよ。これまでは僕が三津田さんに連絡をしようとすると、二人とも、田舎でゆっくりしているのに連絡をするな、と止めていたくせに、製造がうまくいかなくなると、急にこうして僕に電話をさせるのですよ。悪いのは全部、僕の設計の誤りだと責任を押し付けられているのです。とにかく帰って来て助けてください。お願いします。くわしいことはその時話をします」
桜井の話の様子では不良品の製品が次々と出荷される状態になっているようだった。
「・・・それと、半年ほど前に、杉山さんが亡くなりました。すぐに三津田さんに連絡しようとしたら、社長さんが止めるものですから結局、お知らせできなかったのです。残った人では良い真空管が作れなくて、しかたなく、杉山真空管の製造は中止しました」
桜井の声が沈んだ。
「そうか、そんな事もあったのか。大事な人を亡くしたなあ」
一道は少し間を置いてから続けた。
「俺はもう、ずうっとこの田舎で生活してもいいかなあと思いかけていたのだが・・・桜井君がそんなに困っているのであれば、すぐ帰るよ」
こう言いながら一道は、少年時代の幸福な生活が再度、終わったように感じた。
一道が帰り支度を始めると、母親が急に老け込んだ。寂しそうに俯き、ものを言わなくなった。
「ひとり暮らしがいやになったら、いつでも大阪に来たらええよ」
こう言って母親を元気づけたが、民代の顔は晴れなかった。それでも、大阪で世話になっている人へのお土産ということで、親戚を回ってもらってきた米や野菜や魚の干物をダンボール四箱にも詰めて、一道に持って帰るように言った。一道は列車で帰るつもりでいたが、母親からの土産がかさばったのでまたレンタカーを借りた。
翌早朝、帰りがけに彼は一球式の電池管ラジオをカバンの中で入れた。それから後ろ髪を引かれるような気持ちで家を出た。
(二十五)
この年の四月には瀬戸大橋完成のニュースが大きく流れていた。四国と本州がいわば陸続きになった。一道の子供の頃には想像もできないことだった。宇高連絡船からの乗り換えに座席を取るために思い切り走ったことが、すでに過去のことになってしまったのだ。愛媛県の南端の魚村にも時代の変化の波が押し寄せてくるのが、少し戸惑いを伴いながらも感じられる出来事だった。
「瀬戸大橋とかいうやつを渡って帰ろうか」
一道は低い声でつぶやいた。
彼は〝夢〟の大橋を通って岡山に渡ったが、接続する道路がまだ整備されていないこともあって、時間的には呉~松山のフェリーを使うのとほぼ同じだった。
大阪が近づくに連れて一道の感覚は逆転してきた。あのごみごみとした工場での汗と油の生活が現実で、一年間ほど過ごした故郷での生活は夢の出来事のように思えてくる。
・・・やっぱり俺は現実の中で生きるしかないのだ
夕刻、大阪の無数の無秩序な建物の姿が目の前に現れてくると彼の腹は決まってきた。
一道は工場に帰ってみて驚いた。以前の文化住宅をつないで作った工場はどこにもなくなっていた。その代わりに前の二、三倍もあるかと思えるような波形スレート葺きの屋根の工場が建っていた。中に入ってみると、神津や米沢がまだせわしく動いていた。工員の人数も何倍にもなっていて一道の知っている者は少なかった。神津が一道を見つけて寄って来た。
「オーッ、一道君じゃないか、よく帰ってきてくれた、待っていたよ。頼みたいことがいっぱいあるが、今ちょっとバタバタしているので、桜井君が学校から帰って来てから詳しいことは聴いてくれるか。彼の言うとおりにしたら不良品ばかりになった」
神津は桜井に責任を転嫁するような言い方をした。
「三津田さん、ようこそ帰ってくれましたねえ。やはり三津田さんみたいな優秀な技術者がいないとこういう工場はやっていけないよ。助けてよ。このままだと利益がなくなってしまう」
米沢も傍によって来て頭をペコペコ下げる。一道は二人の様子に言葉とは裏腹に、何時もの事ながらまったく誠意が伝わって来ないので不機嫌になった。
「とにかく、今は長旅で疲れただろうから、部屋でゆっくりしなさい。必ず帰ってきてくれると思って、お前の部屋はちゃんとあの中二階のところの桜井君の隣に作っておいたのだから」
指差された方を見ると工場の隅に床から二メートルほどの高さに天井にへばりつくような格好で部屋が作られている。一道はろくに返事もせずにその部屋の下に行った。鉄の階段を上がると踊り場で左右に入り口がついていて二つの独立した部屋になっている。一方の部屋にはギターや見慣れた桜井の持ち物が置いていたので彼の部屋と分かった。もう一方の部屋を見ると、一道がいつかプレーヤーを買って聴こうと思って集めていたアナログレコードと電気関係の雑誌が隅に積まれている。それと桜井と二人で作った様々な真空管の製作物が床に雑然と置かれている。それ以外は何もなかった。どうやら他の彼の所有物は全部処分されたようだった。部屋は十畳位の広さで一応、炊事ができるように簡単な調理場がついていた。窓は屋内側にしかなく、開けると工場内が見渡せた。
工場の就業時間も終わり、暗くなってから桜井が帰ってきた。
「桜井君、久し振りだなあ。元気そうでよかったよ。懐かしいなあ」
一道は嬉しそうに笑った。
「やはり、三津田さん、帰ってきてくれましたねえ。ありがたいです」
桜井はもともと童顔な顔をさらに子供のようにほころばせた。
「いったい、この工場はどうなっているんだい?」
一道は桜井から大阪を出てからのことを詳しく聞いた。
一道が故郷に帰るとすぐに神津と米沢が工場に入り浸りになって、高一中二を大量生産して通信販売する準備を始めた。そのために、工場の周辺の文化住宅やアパートをさらに買い取って、二百坪以上もある工場を建てた。そして本社工場にあった製造設備もこちらに移設して、本社は洒落た五階建のビルにした。拡張した工場を稼動させるため設備や人員も大急ぎで整えていった。その間、桜井は、一道に無断で工場を改造するのは絶対にいけない、と文句を言ったが聴く耳を持たなかった。ただ、一道が帰ってくると邪魔されかねないので、一道には絶対に連絡をしないように釘を刺されていた。もし一道の方から連絡が入ったら、帰ってこないように上手く言え、と言い含められていた。
また、杉山が亡くなってからは真空管を自給できなくなったので、米沢が得意の宣伝作戦で真空管関係の業者や専門雑誌に真空管買取のキャンペーンを張った。すると、今でもこれほどたくさんの真空管があったのか、と驚くほど集まってきて、大量生産に充分に対応できる在庫になった。
高一中二の製造ラインが完成してから、宣伝文句に〝あなたのふる里の放送局が聞こえる真空管ラジオ《望郷Ⅱ》〟として新聞広告に出した。すると高価な値段設定をしたにもかかわらず、多量の注文が入ってきた。それで次々に増産体制を調えて販売していった。始めのうちはあまりクレームや返品はなかったが、神津や米沢が利益幅を大きくする為、コストを大幅に下げるように製造の変更をした。そうして製造された品物からクレームの返品が増加して、今では対応しきれない状態になってしまった。もし、高一中二の製造販売がうまく進んでいたとしたら、神津は、気難しいことを言う一道を工場に帰ってくるように桜井に電話をさせなかったに違いない。
夜遅くなってから神津が二人の居る部屋にやってきた。
「一道君、なんとか助けておくれ。会社の最大の危機を救ってくれ、頼む。お父さんのお葬式にも行けなくて済まなかった。少ないが、田舎に帰っていた間の手当てだから遠慮せずに取っておいてくれ」
神津は大げさな素振りでポケットから封筒を取り出して机の上に置いた。そしてそそくさと出て行った。
「とにかく、返品された物を調べてみようか」
二人は工場の隅に山のように積み上げられている返品の一つを部屋に持って来た。
「何もかも安作りにしてしまったな。キャビネットは薄い繋ぎ板になっているし、スピーカーボックスは裏板を穴の開いたベニヤ板にしている」
一道は製品化された高一中二を見て、苦々しく言った。
こういう真空管ラジオの不具合の解決ができる技術者はほとんどいなくて、神津も米沢も困り果てていた。桜井は確かに理論的には優れた頭脳を持っていて、さまざまな数値を出すことは簡単にできたが、実際製作されたものの不具合などを改善することには向いていなかった。
クレームのほとんどは、耳障りなほど出てくるハム音と受信の不安定さだった。一道は早速木製のキャビネットからシャーシーを取り出して裏返してみた。抵抗やコンデンサーやコイルなどは、一道と桜井が一緒に作った高一中二と変わらない。ただ、大量生産ができるように手配線からプリント基板に変えている。それにしたがって部品のレイアウトも変えている。
「出ているハム音は、電源ハムと思ったので、平滑コンデンサーの容量を大きくしたり、チョークトランスの巻線を多くしたり、電圧増幅の真空管のヒーター用電源を整流して直流にしたけれど、一向に減りません。それで、誘導ハムかとも思い、信号系統の配線をシールド線にしたり、アースポイントを変えてみたりしましたが、それでもだめでした。三津田さん、何が原因なんでしょうかねぇ」
桜井は指で指し示しながら説明した。手作りの真空管ラジオやアンプは、製作の時に注意しなければならないことが多くある。そうしないとさまざまな不具合が出てくる。長年、製作している者は、経験上からそれらの注意点を身につけており、ほとんど失敗はしない。だから、初心者はベテランが製作してうまくいったものを実体配線図にして、それにしたがって製作するのが無難なのだ。初心者が手作りでゼロから製作すると回路図通りに配線したとしてもしばしば失敗するのも製作上の暗黙の了解のようなものが分かっていない場合が多い。
一道が改めて見直すと、気になるところが見つかった。それは出力トランスの二次側から電圧増幅管のカソードへ抵抗を通して配線しているNFB回路だった。抵抗はプリント基板上に付けられているが、位置が出力トランスに近くて、カソードまでの配線をシャーシー内を引回す状態になっている。この間に誘導ハムを拾っていると思える。インピーダンスは出力トランス側は言うまでもなく数オーム程度で低く、カソード側ははるかに高い。出力トランス側は接続端子に指で触れてもハムはでないが、カソードに触ると大きなハム音が出る。インピーダンスが高ければ高いほどハムを拾いやすくなる。一道はその抵抗を基盤から取り出して、一方を直接真空管のカソードにハンダ付けして、他方は出力トランスまで配線した。そして少し得意になって電源スイッチを入れた。桜井はスピーカーに耳を近づけて神経を集中する。真空管のヒーターが完全に灯ってもハム音は全く聞こえない。
「エーッ!・・・」
桜井は驚きの声を挙げたまま次の言葉が出なかった。
「さすがは三津田さん、僕があれだけ苦労してもできなかったのに・・・」
しばらくしてからしきりに感動の声を上げた。
次に一道は受信が不安定になるという原因を探した。周波数変換や中間周波増幅回路あたりの作り方は問題なかった。ただ、電波の入り口である高周波増幅回路の二つのコイルの位置関係が、確かにシャーシーの上下には分けているが、干渉しやすい状態になっている。彼は薄いアルミ板を金切バサミで細長い長方形に切って、それをシャーシー内のコイルを囲むように取り付けた。そして電源を入れてみると受信の不安定な問題も全くなくなった。
「さすがは三津田さん!」
桜井は同じ言葉を出して今度は尊敬のまなざしになっていた。
翌日から製造ラインを修正して不具合が出ないようにした。
(二十六)
いつの間にか工場長が一道から米沢に変わっていた。それだけでなく、一道を製造から外すようにしているのがあからさまに分かった。要するに神津や米沢からすれば一道は邪魔だったのだ。そうかといって、トラブルや困ったことがあると直ぐに助けを求めにきた。必要なときだけ使うという魂胆のようだった。一応、一道の肩書は技術主任になっていた。これに従って給料もきっちりと下げていた。
「金の亡者め!」
一道は諦めがちに一人で愚痴た。桜井に、「アルバイト料はもらっているのか」と聞くとほとんどもらってないということだった。これには一道が怒りをあらわにして、
「桜井君は工場に住んで警備までしているのだからせめて守衛代を出せ」と神津にかみついた。神津はしぶしぶと桜井にもアルバイト料を出すようになった。
ある日、工場の就業時間が終わってほとんどの社員が帰った時、一道は部屋の窓を開けて工場内を見ていた。毎日のことだったが、ラインが止まった後に一人の女子従業員が掃除をしていた。電気代節約で終業のチャイムがなると同時に照明を落とすので薄暗く、今までそれが誰なのか分からなかったし、また、気にもしていなかったが、よく見ると鉛筆削りで配線の被覆を取ってくれていた有沢和美であるのに初めて気がついた。彼女はいかにも寂しそうだった。彼は部屋から降りて彼女のそばに行った。
「残業をやらされているのか?」
「いえ、これが私の仕事になったのよ」
「被覆はがしはどうなったんだ?」
一道が尋ねると有沢は朴訥に、彼が居なかった間の事情を話し始めた。それによると、神津と米沢が工場に入り浸りになって、高一中二の量産の準備を始めたが、配線の被覆を剥すのに有沢がやっていた鉛筆削りではとても対応できない状態になった。それで、被覆剥し機を導入したが、有沢はどうしても恐くてそれが使えなかった。仕方がないのでそれ以外の仕事に回されたが、どの仕事も他の人よりも作業が遅くなってしまい、うまくできなかった。結局、製造が終わった後の掃除が仕事になったということだった。
「最初に工場に来てくれたときも被覆剥し機を怖がって使えなかったが、どうしてそんなに怖がるのだ?」
「私はこうなったから・・・」
有沢は箒を握っていた右手を広げて一道の目の前に出した。人差し指と中指が先端の第一関節から先がなかった。これまでそれに気がつかなかったのは彼女が上手く隠していたからだろう。
「前の会社で、シュレッダーをかけていた時、書類と一緒に指先も切ってしまったわ。それ以来、機械の近くに指をもって行くことができなくなったの」
一道は言うべき言葉が分からなくて口をモゴモゴさせている。
「・・・社長さんから、工場の掃除は専門の業者にやらせた方が安くつくので、私は今月いっぱいで辞めてくれと言われてます」
有沢は無表情に言った。一見すると他人事のようにも思える。一道の顔がひきつった。
「いーや、辞めなくてもいい。俺が社長に掃除を続けられるように言うてやる。もともとからこの工場で働いてくれていたのだから、そのくらいしてくれても罰は当たらないだろう。今晩、社長の家に行って話をつけてきてやる」
彼は唇を震わせながら言った。
夜遅くなって、一道は神津の自宅に行った。家の敷地は行くたびに広くなっているように思える。隣接する土地を次々と買い足していって、今では周辺地域では最も広い庭のある家になっている。
玄関に神津が出て来るなり、一道は怒鳴るように言った。
「有沢さんを辞めさせようとしているようだが、そんなことは俺が許さんぞ。有沢さんは高一の制作を始めたときから来てくれている人だ。勝手なことをするな」
一道の剣幕に神津は驚いた表情になった。
「いや、クビにするとは言うていない。ほかの仕事ができないか考えてみよ、と言っただけだ」
「それが、辞め、ということだ。絶対にそんなことはさせないぞ」
一道は握りこぶしを震わせている。神津は何時もの一道に輪を掛けたような激しさに後ずさりした。
「分かったわかった。だが、どうしてそんなにお前が必死になるのだ?」
一道は一瞬、喉がつかえて言葉が出なかったが、
「俺と結婚するからじゃ」と口をガクガクさせながら言った。神津はしばらくポカンとしていた。
「なんと、そうだったのか。それだったら早く言わないか。有沢さんにはいつまでも好きなだけ働いてもらったらいいぞ」
神津は一道の目の中をのぞくようにして今度はニヤニヤしながら言った。
「オーイ、里江、こちらに来てみろ。一道君が面白いことを言っているぞ」
神津が結婚話を面白半分にもてあそぶような気配がしたので、一道はそそくさと家を出た。そしてその足で、有沢が一人で住んでいるアパートへ向かった。顔が緊張で引き吊り、頬と口元がピクピクと忙しく動く。足は少しずつ速くなり、競歩のようになる。アパートは工場から十分ほど歩いた同じく線路沿いに建っていた。部屋に行ってみると、有沢は遅い夕食を食べていた。相変わらず無表情な顔で不健康に色白く、動作も鈍いので、どこか能面のように見える。最初に一道の顔を見たときは細い目を見開いて少し驚いた様子だったが、
「仕事のことですか?」とすぐにいつもの顔になった。
「あぁ、そうだ。今、社長に掃除の仕事を続けられるように話しはつけたが・・・」
一道は緊張して顔中をワナワナさせるだけで次の言葉が出てこなかった。ずいぶん間が経ってから、どうにか顔中汗だらけにして言った。
「実は、社長にお前と結婚するから仕事を続けさせてくれと言ってしまった」
これにはさすがに有沢も目をキョトキョトさせながら驚いていたが、しばらくするとまた無表情になった。
「エェ、いいですよ」
顔の表情からは嬉しいのか嬉しくないのか、いっこうに分からないが、何度もうなずいた。
「ああ、よかった。これでやっと俺も嫁がもらえる」
一道は緊張が解けると同時に飛び上がりたい気分になった。
彼はアパートを出ると、大きな頭をユサユサ揺らせながら足が地に着かない状態で工場へ帰った。桜井は一道が今までに見たことがないほど浮き足立っている様子に驚いた。
「いったい、どうしたのですか、何かあったのですか?」
桜井は何事が起こったのかと不安にさえなりながら尋ねた。
「たいへんな事が起こった!」
一道はこう言ってから嬉しそうな表情になり、事情を話した。桜井も聞いているうちに顔が緩んで、最後には二人で大笑いとなった。
(二十七)
一道と有沢の結婚を最も積極的に進め始めたのは社長の神津だった。しばしば、仕事の終わった後に二人を呼んでは、結婚の段取りを相談した。
一道は早速、愛媛の母親のところへ婚約の連絡をした。民代は子供の中でいちばん苦労をさせ婚期も遅れたのが一道だったので、結婚相手が見つかったことを非常に喜んだ。
「結婚式は、金の無駄遣いになるのでする気はない」と一道が言うと民代も、
「消えてしまうような金の使い方をするんだったら、鍋の一つでも買った方が賢い」と賛成してくれた。
「結婚式はやらない」と神津に言うと、急に顔をゆがめて怒りだした。
「それはだめだ。絶対にいけないぞ。おそらく人生に一度しかない結婚式をやらないというのはもってのほかだ。亡くなったお父さんも結婚式をすることを喜ぶはずだ。お母さんには私がちゃんと話をしてやるから。すぐにでも結婚式の式場の予約に行こう」
神津は強硬に結婚式を進める方向で動いた。民代へは神津がすぐに電話をして、結婚式をやることと参加することを納得させた。
結婚式の段取りが進むにつれて、神津は一道や有沢の意向を無視して、結婚式の日取りや式場などを勝手に決めていった。一道が何よりも驚いたのは予約した式場の広さだった。一道側の出席できそうな親戚縁者は母親と二人の弟妹くらいだ。有沢の実家へは一度あいさつに行ったが、岐阜県の下呂温泉から更に山あいに入った所で、こちらも親しい親戚は少なかった。一道や有沢自身の友人も人付き合いの苦手な二人だったので工場関係者以外はほとんどいなかった。
「こんな大きな式場はいらない」
一道が神津に文句を言うと、
「一生涯に一度の思い出たぞ。貧相なものをやって、親戚縁者に恥じをかかせてはいけない。それに、社長としての俺の力量も試されているのだ。盛大にやろるに越したことはない」と言って一歩も退かなかった。そして、披露宴の出席者に会社の取引業者や同業者の者たちを次々に加えていった。結果的に、一道が全く知らない参加者が多数になった。さらに、司会や式次第までも神津が勝手に決めていった。
いつの間にか神津が仲人になっていた。いろいろな書類や案内状などにも自分と妻の里江をを仲人にして印刷させていた。未だ、一道は正式に神津夫婦に仲人を依頼したこともなければ、神津の方から、仲人をしてやる、と言われたこともなかった。神津は自分が仲人をやるのは初めから当然のことだと思っているようだった。そのくせ、遠いからという理由で、新郎新婦の実家に挨拶に行くことは簡単に断った。結婚式当日だけ仲人の役割をするつもりらしかった。
結婚式の当日は、一道の希望とは逆に非常に豪華なものになった。ただ、新郎新婦と人間関係の無いものが多かったので、主役が誰か分からないような披露宴となった。仲人の神津はすこぶる機嫌が良く、あいさつの時には、滔々と長い時間をかけて得意気にしゃべった。いつものごとく聞いている者が退屈することにはおかまいなしだった。
様々な会社関係のあいさつが続くうちに、カミツ工業株式会社の順番になった時だった。
「続きまして、新郎の勤務先であり、お仲人様の会社でありますカミツ工業株式会社、次期代表取締役社長、神津毅様よりご挨拶を頂戴いたします」
司会がこのように言うと、会場内にざわめきが起こった。度のきつそうな眼鏡を掛けて神経質な顔をした長男の毅が緊張した顔でマイクの前に立った。一道が集団就職して来た時にはまだ小学生で、すぐに泣くひ弱な子供だった。それが二年ほど前に大学を卒業して、時々工場にも顔を出していた。神津夫婦がやせ形なので、その体形に似ているが、顔は年齢からすればはるかに老けて見える。
毅は父親と同じように、言っても言わなくてもいいようなことをだらだらとしゃべった。それなのに、業者からは大きな拍手が起こった。
飲み食いが始まると、神津は仲人の席から離れて、長男を連れて、業者の席のところに挨拶回りをする。この様子を見て一道は、どうして神津が大人数の盛大な披露宴にしたかったのかが分かったと思った。神津は、披露宴を新郎新婦の祝いではなく、長男の社長就任式の予告代わりに使おうとしたのだ。一道のうれしそうな顔が急に不機嫌そうになり、頬がピクピクと動いた。
披露宴はその後は新郎新婦そっちのけの業者対抗のカラオケ大会のようなものになって終わった。せっかく来てくれていた一道の母親や弟妹もあまり満足そうな顔をしないままそれぞれ帰って行った。
新婚旅行から帰って来てから一道は神津にかみついた。
「俺たちの結婚式を社長交代式に利用したな。費用の半額を出せ。うまいこと都合のいいように使っておいて、全額を俺に出させるのか」
結婚式の費用は彼がこつこつと貯めてきた貯金のほとんど全部に等しかった。神津はなんだかんだと言い逃れて払おうとはしなかったが、一道が顔を合わす度に文句を言うので、仕方がなく一ヶ月ほどして費用の三分の一を一道に渡した。
(二十八)
一道は結婚しても住む所は相変わらず工場の中二階の部屋だった。妻になった和美もアパートから最低限の家具を持ってこの部屋に引っ越してきた。二人とも寝る所に金をかけるなどということはこの上ない無駄遣いのように思えたので、家賃のいらない中二階はうってつけの住居だった。それに隣には桜井もいるので何かと便利だった。
ただ、狭いのは致し方なかった。生活用品と真空管の製作物や材料が所狭しと置かれていた。食卓は片付けるとそのまま、作業台になった。それでも二人は、
「アパートより広い」と満足気であった。
桜井の朝と夜の食事は、和美が自分たちのものと一緒に作る。桜井の大学が休みの時は昼食も作る。夕食はいつも三人で一緒に食べてその後、夜遅くまでさまざまな話をする。これが三人の何よりの楽しみだった。一道も和美もペラペラとしゃべる方ではなかったが、不思議と桜井とだけは話が弾んだ。
神津や米沢はうるさく注文をつける一道を、やはり、できるだけ生産にかかわり合わせないようにしていた。日ごろはまるで邪魔者扱いにする。そのくせ、製造に不具合が生じるとすぐに一道のところに来て、見え透いたお世辞を言っては解決させる。神津も米沢も自分達の都合によって相手に対する態度がコロコロと変わる人間だった。
製造ラインが順調に動いている時は、一道や桜井は特に何もすることがなかった。神津からは、
「工場の技術主任だから不具合が生じた時にすぐに対応するためには工場から離れないようにしなければいけない。だが、空いた時間はテレビを見たりさえしなければ好きなようにしてくれたらいい」と言われていた。仕事中にのんびりと誰かがテレビを見たりしていると社員全体の士気にかかわるのでそれだけは止めてくれということだった。
一道は暇なときはいつも部屋に閉じこもって、自分の好きな真空管を使った制作物に没頭していた。桜井が登校しなくてもよい時はいつも一緒に楽しい作業と会話に時の経つのも忘れた。その時はよく和美が持っていたCDラジカセで懐メロを聞いていた。
一道は、ずいぶん前に長く使っていたアナログプレーヤーが潰れたが、それでも何時かは新しいプレーヤーを買って聴こうと思って、懐メロのレコードを小遣いに余裕のある月には買っていた。ところがいつの間にか、世の中はCDの時代に入っていた。近くのどこを探してもアナログレコードなど売っている店はなくなった。それでまったくレコードを聴かない生活が続いていたが、結婚して和美がCDラジカセを持ってきたので今度は時々、懐メロのCDを買って聴くようになった。
「CDラジカセほど懐メロにふさわしくない音を出すものはこの世の中に無いなぁ」
聴きながら彼は何度も愚痴をこぼした。不思議と、アナログレコードやアナログのマスターテープからCDに録音されたものは、まだ聞くに耐えられた。しかし、初めからデジタル録音されたCDは、音楽を奏でるための音とは思えなかった。
「これは人間が演奏する楽器や声帯から出てくる音ではない。コンデンサーとコイルによって発信させられる電子音のようなものだ。もう少し、人間の音楽らしい音にできないのだろうか」
「そうですか。僕はもともとレコードといえばCDの音しか聴いていませんから、これが当たり前になっていますけれど、デジタル化は本来、連続している音楽信号をズタズタに切り裂いて録音していることは事実です」
桜井が、不満そうな一道の顔を面白そうに見ながら言う。
「せめてCDの音でも真空管アンプで鳴らそうか」
「やってみましょうか。ちょうど、このCDラジカセにはピンジャックのLIN0UTがついていますから簡単です。どのアンプにつなぎますか?」
「やはり高一中二の低周波増幅段につなごう」
一道はクレームで返品されてきて修理して保管している高一中二とそのスピーカーを持ってきた。それからシャーシーを取り出して、アッテネーターに入力用のシールド線を接続してラジカセのLIN0UTにつなごうとした。
「そうか、出力はステレオだったなあ。それじゃあ、二つの出力を直結してモノラルにしてつなごうか。そうしても音はおかしくならないだろうか、桜井君?確か以前、音がこもったようになった気がしたが・・・」
一道は思案顔になる。
「その通りです。実はこれが僕の研究テーマの一つなのです」
桜井の声に力が入る。
「結論的には、ステレオ録音したものを純粋にモノラルの音に変換させることは不可能です。とりあえず、実際に聴いてみましょう」
二人はCDの左右の出力を片方ずつ聴いたり、左右を直結して聴いたりした。
「はっきりと違いが分かるな。直結してモノラルにすると間違いなく音がおかしくなる」
一道はうなずいている。
「そうです。音源を左右に分けて録音し、しかも広がり感を出すために位相をずらせたりしますから、その電気信号を一緒にしますと、お互いの信号に悪影響を及ぼして本来の録音した信号とは異質なものになってしまうのです」
「ホウ、難儀なことだなあ」
一道は少し眉根に皺を寄せる。
「簡単に言えば、ステレオ録音した時点で、原音から離れてしまったということです。だって、例えば、一人のトランペット奏者が一つのトランペットを吹いているのに左右のスピーカーから二つに分れて音が出てくるのは異様でしょう。音源は一つなのに再生される時は二つになる。実際にはあり得ない事です。ステレオという方式が採用され始めた時、再生音は原音から離れて、バーチャル化が始まったのです。だから、この頃の五・一チャンネルだとか言って喧伝しているのは、贋物の宝石を磨いて『よく光ります』と言って売っているのとまったく同じです。一つのトランペットの音が五、六ケ所から出てきたらそれはもう、お化けです。模造品はいくら磨いても贋物です。模造品が本物にかなう訳がありません。いつかは飽きられます。音響製品の歴史も調べましたが、僕が生まれる前に一時期、四チャンネルステレオといって前方左右+側方又は後方左右にスピーカーを設置する方式のものが主流になった時がありました。ところがいつの間にか廃れていって二チャンネルに戻ってしまいました。この頃の多チャンネル化も同じ歴史を繰り返すのではないでしょうか」
「なるほど、確かにそうだ」
一道は今度は納得顔になる。
「映像に『実像と虚像』という概念がありますが、音にも『実音と虚音』があります。言葉として『実像と虚像』という言葉は一般的によく聞きますが『実音と虚音』という言葉はあまり耳にしないと思います。虚音の概念規定も虚像に比べればはるかにあいまいです。実音をマイクで拾って電気信号に変換した時点で虚音化したと考える人からバーチャル化した音が作り出す実際には存在しない音源のことを指したりと様々で、どの概念もまだ市民権を得ているとは言えません。要するに音に関しての研究は映像よりも遅れていると言うことです。というよりも、ほとんどの研究者が壁にぶち当たり、それを突破することができずにだらしなく、諦めているというのが現状です。その典型は、オーディオ機器は原音に近づけるのではなくどれだけ原音らしく再生できるかにある、などという類です。これなんかは苦し紛れに評価軸さえ見失っています。だから僕は理論構築をしたいのです」
桜井の舌は滑らかに回りだしたが、一道の目はまぶたが重くなり焦点が定まらなくなった。
「そんなものかなあ」
「そうなんです。何が虚音なのかも分かっていないのです。ですから、よく音質の批評文の中で『解像度・定位感・分離感』などという言葉を使って音の評価を書く人がいますが、もともと虚音なのですから、それに対してこれらの言葉を使ってもまったく意味がありません。意味がないということさえ理解できていないのです。また、実際の演奏に行って、その後すぐに同じ演奏のCDを目をつむって聴くと実演と区別がつかなかった、などと表現して機器の優秀さを宣伝する人もいますが、これなどは、実音と虚音の区別さえ聞き分けられない低レベルの耳の持ち主なので・・・」
桜井の話はどこまで行くか分からないくらい続きそうだ。
「桜井君は日ごろはおとなしくて優しい性格なのに、音質に関してはきつい事を言うなあ」
一道はブレーキをかけるように言う。
「ええ、僕は様々な音質についての宣伝文や評論文などを読んで、憤慨しているのです。確立された客観的な理論に裏づけされて書いているものは皆無なのです。信念なき『感想文』は煙のようなものです。それを参考にして製品を買わされる消費者はたまったものではありません。音響関係に携わる専門家や研究者にはほんとうに、どの製品の音はどの程度良いのか、明確な説得力のある評価基準を提示する責任と使命があるのではないでしょうか」
「それはその通りだが、やはりステレオで録音しているものはステレオで再生しないとダメということか」
現実の話に戻すように一道が言う。
「そうですねえ。ステレオ録音の歴史と背景を調べましたが、音質重視の結果ではなくして、商業ペースに乗せられた結果といえます。消費者に、モノラルは古く音質も劣る、ステレオは新しく音質も良い、と宣伝により先入観ができ上がった時、どちらを買うかといえばステレオのものを買うに決まっています。ところが実際には、よりバーチャル化されたものに購買意欲を増させていることになります。本来、音の定位というものは脳が判断するものであって、始めから左右の音に分けて定位感を作るものではありません。一つの音源が左右の耳から入ってきて聴神経を通り、脳幹の上オリーブ核まで達して、そこで情報処理されて音源の位置が判断できるのです。こうして認識されるのが原音なのです。ですから、一つのトランペットの音を一つのスピーカーから鳴らせば脳はその音の位置を的確に判断して、より原音に近い形で聴くことができるわけです。音源が複数になっても原音はモノラルの集合体なのです。結局、ステレオ方式は根本的にHigh Fidelityとは異質な方向であったということです」
今度は一道の目がうつろになってくる。桜井がそれに気がついた。
「・・・すみません、つい研究テーマが出たものですから夢中になってしゃべってしまいました。やはりステレオアンプにしなければならないということです」
「それじゃあ、新しくステレオアンプを作ろう。高一中二を二台も並べるとかさばるからなあ」
「そうしましょう」
二人の目が現実に戻った。
(二十九)
「気に入っている音のする高一中二の低周波増幅段を基本にするか」
一道は現実に直結した話になると声に力が入る。
「そうですねぇ、6ZP1のパラシングルはほんとうにいい音がします。高一中二の電源部は余裕過ぎるほどの容量を持たせて作りましたから、そのまま二台分に供給してもまだ余裕があります。もちろんB電源も両波整流の80Kをパラで使っていますから、ステレオにしても充分過ぎます」
桜井は様々な部品の規格を記憶しているので直ぐに回路図が頭の中に浮かぶようだった。
「それだったら簡単だ。高一中二の高周波部分を取り外して、そこに6ZP1のパラシングルをもう一つ載せればよい・・・だが、あまりにも簡単すぎるなあ」
一道が腕組みをする。
「それでしたら、B電源を80Kの整流から左右に分離させて独立電源にしましょうか。シングルアンプはA級動作ですから常時かなりの電流が流れていて、そこに大きな音声信号が入ると大きな電流が流れることになり、大なり小なり電圧低下が起こります。両チャンネルとも同じB電源を使うと片チャンネルの電圧降下の悪影響を他のチャンネルがまともに受けることになります。その影響を低減させることとチャンネルセパレーションをよくすることにもなりますので、もう一個チョークトランスを増やしてB電源の強化をしてみませんか」
「よし、そうしよう。音の良くなることであれば何でもやってみよう。ついでに、業者に言ってオリエントの電磁鋼板を見本として持って来させよう。それでOPTのコアを打ち抜くよ。タダなら社長も文句はあるまい」
二人の話は次々と決まっていく。
無料にさせたオリエントコアの材料の納品が遅れたので、アンプの完成には一週間ほどかかった。シャーシー上の配置は後方中央に電源トランス、その左右に出力トランスを置く。次に、シャーシーの中央には二個のチョークトランス、その左右にブロックコンデンサー、さらに外側に80Kの整流管を配置する。前方には6ZDH3Aと6ZP1を計八個並べる。完成したものを一道と桜井はしばらく満足げに眺めた。
「三津田さんに似てますね。頑丈で誠実にできています」
桜井が面白そうに言う。
高一中二と同じように6ZDH3AのカソードにNFBが掛けられるようにしていたが、OPTのコアをオリエントに変えているので、どの程度の量にするかは試聴しながら決めることにする。
後面開放型になった高一中二用のスピーカーを二個つけた。それからCDラジカセのラインアウトから入力をとってつないだ。今度はステレオ入力になった。
いよいよ、ナツメロCDをかけてアンプの電源スイッチを入れる。この瞬間は何度体験しても心がおののき、奇跡に直面するような気分にさえなる。真空管がほの明るくなるにつれて、スピーカーから曲が流れてくる。
「ああ、実にいい音だ」
「特に、人の声の再生はすばらしいですねえ。まるで、スピーカーの裏に歌手が居るみたいですねえ」
二人とも感動の声を上げる。目の前で歌手と対峙して発している声を聴いている気持ちにさせられる表現力があった。
6ZP1アンプは人間の声を再生すると絶品だった。人間の声の響きに載せられる感情の微妙な違いまでも明確に表現した。その声を聞いていると歌手の性格までもわかるような気がした。
「やはり、ラジカセや結婚式場の音とは違って、真空管は本当に人間らしい音がするなぁ。この音は間違いなく人間の声だ、人間が弾いている楽器の音だ。これだったらNFBの必要は無いなぁ」
「出力トランスの材料と作りが良かったんだと思います。NFBは音質を改善するいいアイデアですが、原音の信号に手を加えることに違いはありません。出力トランスが性質のよいものの場合はNFBをかけると逆に高音部分がこもってしまうような傾向になる場合があります。このアンプは今の音がいちばん素直で良いと思います。すばらしいですよ。この音に太刀打ちできるメーカー製の半導体アンプはないでしょう。もしあるというなら、そのアンプを持って来て、スピーカーとプレーヤーはこのままにして同じ音量で聴き比べれば一目瞭然です」
「桜井君は嬉しいことを言ってくれるなあ。トランジスタと真空管と、どちらの方が音が良いのか、これではっきりしたな」
二人は意気投合して大きな声になる。
「それはそうです。僕の研究テーマとは少し外れますが、三津田さんの影響を受けて、半導体と真空管とどちらの音が良いのか調べました。その結果、実に単純で明快な答えを得ました。誰が考えても真空管の方が音が良いことは自然の道理なのです」
「ホーッ、そんなにはっきりしているのかい?」
一道は意外そうな顔をする。
「ええ、ごく単純に考えても、半導体は字ごとく半分導体なわけです。物質の中を信号が通るわけです。そうすれば、当然、信号はその物質の原子や分子レベルでさまざまな影響を受けるのは当然です。原音が変化してきます。例えば、スピーカーコードの材質によって音が変わると言って大騒ぎをしている人がいるのを見てもその影響が無視できないことが分かります。実際には家庭で使用する長さや電流量ではスピーカーコードの材質の違いは聴感上まったくないのですが・・・ここで不思議なことがあります。それほど信号の流れる材質が音質劣化に関連があると神経を使っている人がなんと、まったく気にせずに半導体アンプを使っているということです。半導体は物質の中を電気信号が通ることによって宿命的に音質劣化から逃れられないと言うことに思いが至らないのです」
「なるほど、桜井君の言うことには納得させられるな。将来、学校の先生になったら、分かりやすい授業で子供の人気が出るよ」
一道は何度もうなずいている。
「それに対して真空管は、信号が通るところは字のごとく真空なのです。真空中では導体が真空なのですから流れる信号に悪影響を与えるようなもの(・・)は全くないのです」
「そうだ、何も無いんだから音が悪くなることもないな。やはり真空管の方が優れている」
一道は得意そうな顔になる。
「真空とはいったい何なのか、色々調べて一応、結論らしきものを出しました。普通に真空といえば字のごとく『真の空(から)』と言うことですが、現実には絶対的真空というものはこの世に存在しません。『真空(・・)があった(・・・)』と言えば認識できる対象として存在(・・)した訳ですから『真空』ではないのです。把握できないからこそ『真空』なのであって把握された瞬間にそれは『真空』ではなくなります。有無の概念を越えたもの(・・)といえます。そうするとこの宇宙に『真空』の概念で捉えられる存在は皆無といえます。ですから『真空』というのは人間が言葉で創造した自然界に存在しない空間のことになります。もし、あるとすれば『我思う故に我あり』の世界です」
「ウーン・・・?」
一道は腕組みをして首を曲げる。
「としますと、真空管の真空も半導体に比べれば『何も無い』といえますが、実際には様々なもの(・・)が飛び交っています。高度な真空とはいえ、窒素や酸素の分子はいくらでも残っています。もちろん電磁波・光も通過します。そのほか未知の宇宙線や素粒子なども入り乱れているでしょう。そのうえで、本来の働きである電子の移動がなされます。このことは真空にはそれらのものを通過させる媒質が存在するからこそできることを証明しています。実はこれが宇宙の、真空の本質でした」
「ホォー・・・」
一道の目がショボショボしてくる。反対に桜井の目は生き生きしいている。
「この宇宙はほとんど全て真空からできています。もしも宇宙を潰して地球のような固形物だけを取り出したとしたら、それは宇宙の真空に比べれば無限に少ない分量でしかないのです。別な言い方をすれば、真空の中に宇宙の働きの全てが備わっているということです。星々や巨大な島宇宙を生々滅々させるエネルギーと法則性を包含している真空は宇宙の根源であると言えます。真空管はその宇宙の根源のエネルギーと法則性を働かせたものです。真空管を見ると、太陽が輝き無限に放射される種々のエネルギー線、その恩恵を受ける惑星、この構図とそっくりではないですか。真空管は宇宙の本来の働きを小さく封じ込めたものにほかなりません。だから後にも先にも越えることのできないない最高の能動素子なのです」
「やれやれ、やっと結論に到着したなあ。それにしても、いい結論だ」
一道は目をこすっている。
「すみません。また、調子に乗ってしまって。でも、それくらい真空管は良いということです」
「ほんとだ。何よりもこの音を聴けば、確かに宇宙から聞こえてくるような気がする。ハッハッハッ・・・」
二人は暖かな真空管のヒーターを見ながらいつまでも話し合っていた。一道は鯆越から帰阪して忘れかけていた、少年のころの幸せな心の感覚がまた体によみがえってくるのを感じた。
(三十)
「新婚がこんなところに住んでいたのでは夢も希望もないだろう。私がこの近くで良いマンションを探してやったので、購入しなさい」
こう言って神津が真新しいマンションのパンフレットを一道と和美の前で開いて見せた。二人はそのパンフレットを見ると、まるで夢のような生活空間に思えた。そして、値段を見て驚いた。一道夫婦で稼いで買おうと思えば四、五十年かかるように思える。
「どうだ、すばらしいだろう。買う方がいいぞ」
「いいのは分かっている。だが、結婚式に金を使ってしまって一銭もない。こんな高いものを買えるわけがないだろう」
一道が不満そうに口を曲げる。
「いや、大丈夫だ。今は半年ごとに不動産の値段は上がっている。だから到底、払えないような金額だったとしても今無理をしてでも購入しておくと二、三年すれば、驚くほど値上げをして、それを売れば次の物件が買えるようになるんだ。だから今は銀行が金を貸してさえくれれば不動産を買っておけば、いくらでも金持ちになれるぞ」
神津はいかに良い話だというような顔つきをしている。
「頭金も無い」
一道が、つっけんどんに言う。
「心配するな。頭金ぐらい私が出してあげる。と言っても二人の月々の給料から分割で返してもらうがね。残りの代金は私の知り合いの銀行マンに頼めば、すぐにローンを組んでくれるよ。今、不動産が買える状態にあるのに買わない者は愚かだ。みすみす目の前にある、取ってくださいと置いてある宝物に手をつけないのと同じだ。二、三日考えてみなさい。だけど、今、勇気を出して買っておかないと、一生涯、持ち家などできないよ。これから不動産は手がつけられないほど値上がりしていく。私は目いっぱい融資を受けて不動産をかなり買い込んでいる。その値上がりの金額は、この工場で汗水垂らして稼ぐ金額を超えているんだから驚きだ」
神津の話は丸呑みにするといつもよいことはなかった。一道は今度のマンションの話もその類だろうとは思ったが、夢にも思っていなかったことが現実にできるのは捨てがたい魅力だった。和美は先を見通した金の計算などにはうとかったが、パンフレットを見て夢見心地になっている。一道は結婚する前は無表情に見えた和美の顔も、一緒に暮らすようになってからは、無表情な中にも感情の動きをよく読めるようになってきている。彼は、パンフレットを一見、呆然として見ている和美の姿のなかに、マンション生活へのあこがれを感じ取った。なによりも、和美が妊娠していることが先日分かったので、乳児を育てるためには、工場では環境が良くないと思っていところだった。それで、思い切って買うことを決めた。
下見などもして数日後に神津に買うことを伝えた。
神津は驚くほどすばやく段取りをした。それで、一ヵ月ほどして不動産屋が一道にマンションのキーを手渡しに来た。その時、社員が、
「この度は大変にありがとうございました。ぜひともどなたかお友達でマンションを購入希望の方を紹介してください。成約になりましたら、十分にお礼をさせていただきますから、よろしくお願いします」と頭を下げた。この言葉を聞いてい一道はハッと気がついた。神津がマンションを購入することを勧めたのは礼金が欲しかったからに違いないと思った。
「やっぱりなぁ。金持ちは金に汚い。腐るほど金を儲けておきながらまだ銭が欲しいのか」
一道は舌打ちをした。
マンション生活は快適だった。十階建の九階で、見晴らしもよい。二人の、生まれてからこれまでの住環境からすればほとんど夢のようなものだった。この辺りは古い文化住宅やアパートが次々に取り壊されて、ビルやマンションの建設ラッシュのようになっている。一年ほど離れて戻ってみると建物がすっかり変わってしまって道に迷うというのは大げさな表現ではない。ただ、線路沿いの建物だけは騒音と振動のため売買があまり無かった。最近ではカミツ工業の本社と工場が新しく建てられたくらいだった。
一道の住居は一度にレベルアップしたが、ローンの返済額も夫婦で稼いでなんとか支払いができるくらいの高額になった。それは生活費をこれ以上削れないというくらい削らなければならないものだった。しかし確かに神津が言うように、不動産の値上がりは激しい状態で四、五年我慢しておれば、今のマンションを売ると小さなマンションであれば、ほとんど借金なしに買うことができる可能性は十分にあった。
一道のマンションは工場から歩いて十分ほどだったので、桜井は工場の部屋にそのまま居たが、夕食は今までのように一道のマンションまでやって来て和美の料理をおいしそうに食べた。また、登校しなくてよい時は昼食の弁当も一道の分と一緒に和美が作った。
和美のお腹の胎児は快適な生活に合わすように順調に育っていった。
(三十一)
工場では高一ラジオ《望郷》の製造は順調だった。杉山真空管の《新望郷》は真空管の供給ができなくなったので製造を中止した。高一中二ラジオ《望郷Ⅱ》は一道が帰ってきてからクレームのついたところを改良してからは順調な製造が続けられるようになった。二台とも時代の流れに逆行するようなラジオだったが月々の注文は確実に増えていた。工場内は従業員がせわしく動いて活気を呈していた。逆に一道と桜井は製造が順調であればあるほど暇だった。桜井は大学院二年になったが、それほど学校には行く必要がないようで、工場にいることが多かった。
「特に講義を受けに行かなければならないということはありません。教材を見れば講義の内容は十分に理解できます。大学は教えてもらうところではなくて自分で勉強することの方を大切にするところですから」
桜井は頭の良い学生だった。というよりも探求心の強い学生だった。分からないことがあると、納得ができるまでとことん追求する。また解けない計算式があると時間がいくらかかろうが、解けるまで計算をし続ける。それらを苦痛ではなくして趣味のように楽しみながらやっている。だから講義にはあまり顔を出さなかったが、優秀な成績で単位は習得していた。
桜井にとって何よりも楽しいのは一道と真空管談義をやって、そこからさまざまな回路図を考えて実際に製作する事だった。この頃は二人にとっては暇な時間が多かったので、いつも二人で回路図を書いたり、いろいろと試作機などを製作していた。一道がマンションを購入して、工場の一道の部屋から家具や所帯道具などはマンションに移動したので、広々とした部屋に多くの部品や道具や製作物を置くことができた。
6ZP1パラシングルアンプは予想を超えた快い音を出した。一日中聞いていても全く耳が疲れないし、音量を最大にしてもうるさく感じることはなかった。
「せっかく良いアンプなのだから、スピーカーを改良しようか」
一道が高一中二に使っているスピーカーを見ながら言った。
「初めは密閉型で作っていたのに、いつの間にか裏ブタに安物の穴の開いたボードを張っただけの開放型にしている。それに板の材質も薄っぺらな継ぎ板にしている。どうせ社長か米沢が儲けを多くするために変えたのだろう。こんなので良い音がするわけがない」
一道は憎々しげな顔になった。
「そうです、この大きさのスピーカーボックスで、後面開放型にするとちょうどいちばんよく使う中音当たりが前方に出る音と干渉し合って、その部分の音が不自然になってしまいます」
「やはりボックスは密閉型に限るだろう?」
「はい、さまざまな形式のボックスがありますが、密閉型が最も自然な音になります。後面から出てくる音が消されてしまいますから、その音のエネルギーは無駄になりますが、前面の音に悪影響を及ぼしません。密閉型以外は多かれ少なかれ、また良くも悪くも前面に出てくる音に影響を与えます。ただ、低音になると容量の少ないボックスでは空気圧の高低差が大きくなりますので、少しコーン紙の動きが制動されます。それでも、低音が少々出にくいかなあ、という程度の影響です」
「ヨーシ、やはり密閉型にしょう」
一道は6ZP1アンプにつないでいたスピーカーを取り外した。
「それにしても桜井君のおじいちゃんは優れた職人だな。この安く作らされたスピーカーを見ても、一分の隙もないものなあ」
「えぇ、爺ちゃんは若いころからずっと木製品を作っていますから、何をつくらせても非常にうまく作ります」
「今度はこのスピーカーに合うような容量の大きい密閉ボックスの製作を頼んでおこう。そして裏蓋もしっかりしたものを作ってもらうように連絡しておこう。とりあえずこのスピーカーボックスをその辺にある丈夫な板で側面を補強して、そして裏蓋も作ろう」
一道は工場に降りて行って厚めの板を見つけてきた。それをスピーカーの上下左右の面に貼り付けられるように適当な大きさに切る。そしてたっぷりとボンドをつけてそれぞれの面に貼り付ける。
「桜井君、要らない毛布はないかな?」
「えぇ、古いのならあります」
桜井は自分の部屋から不要な毛布を持ってきた。一道はそれをスピーカーボックスの内側に張り付けられるような大きさに切って、接着剤とU字のステップル釘で丁寧に板に固定していく。それから空気が漏れないように十分にボンドをつけて、側板と同じように補強した裏蓋を取り付け、ねじクギで絞め付ける。同じようにもう一台も補強する。
「これで、一日置いておこうか。そうすれば、しっかりとくっ付くだろう」
翌日、ボンドが固まっているのを確認してからスピーカーをアンプにつないで音を出してみた。
「あぁ、良い音がするなあ。前の音とは全然違う。ただ単にボックスを二重にしただけの違いとは思えないほどだ」
「本当ですね。とても同じスピーカーユニットから出てきている音とは思えません。やはり、スピーカーの音はボックスで決まりますねぇ」
一道も桜井も出てくる音に聞きほれていた。
そこへ、急に米沢が入ってきた。米沢は一道から工場長という役職を引き継いでいたが、電気や機械のことは全く分かっていなかった。ただ、どうすれば儲かるかということについてだけは異常に鋭く感が働く。時々、製造ラインに不具合も無いのに一道や桜井の部屋にやってくるのは、二人がまた、金儲けになる物を作っているのではないかということをさぐりに来るためだった。
「ホーッ、良い音だね。こんな音は最近聞いたことがないですねぇ」
米沢は6ZP1アンプに顔を近づけるようにして聞入る。
「それはそうだ。このアンプのように余裕のある贅沢な作り方をしたアンプなど今ごろの時代にあるわけがない。だいいち、6ZP1の真空管アンプなど、どこを捜してもないだろう」
一道は不機嫌そうに答える。
「それにしても、真空管がこんな良い音がするとは思わなかった。これはひょっとしたらいい製品になるかもしれないぞ。すぐに社長を呼ぼう」
米沢は黒い眉毛を盛んに動かしている。彼が眉毛を動かすときは、いつも金もうけのにおいがするときだ。米沢は携帯電話を取り出して神津に来るように連絡をした。神津は自宅の方にいたが、急いでやってきた。神津も金もうけの話となると行動が早い。
二人とも6ZP1アンプの音を聞いているうちに顔がほころんできた。
「これはいい。こんな良い音がすれば、必ず売れる。三台目のヒット商品になる。真空管CDコンポの新製品の誕生だ。一道君、すぐに製品化してくれよ。しっかり頼むよ」
神津が意気込んで言う。
「こんな物、売れるわけがないだろう。今時、出力が三ワット弱で、こんなにかさばって重たいアンプをだれが買うというんだ」
一道はあきれ顔になった。
「いえ、大丈夫ですよ。宣伝する時に、弱点になる事には触れなければいいのです。何ワットであろうが、そんなことは普通の人には関係ないですよ」
米沢は自信ありげに言う。
「いや、そんなことはできない。嘘をついて物を売るのは詐欺だ」
「そんなに意固地にならずに、技術主任さんなのだから会社のために新製品開発にしっかり取り組んでくださいよ。刑事事件でも、自分に都合の悪いことは言わなくてもよいという黙秘権という権利は認められているのですよ。気難しいことを言わずにお願いしますよ」
米沢はますますをまゆ毛を動かしながら言う。
「それにしても、安くて高性能なセットコンポがいろいろなメーカーからいくらでも出ている。今時、こんな商品が売れるわけはない」
一道はぶ然としている。
「いや、そんなことはないよ、一道君。今の時代は、価格は高くても本物の高級品を求める人が非常に多いんだ。こんな本格的な音のするコンポであれば、欲しい人はたくさんいると思うよ」
神津も自信ありげだ。
「そのためには、スピーカーがよくない。表から見えない裏蓋をこんなに丈夫な木で立派にすることはない。それより、三ウエイにしておくれ。高級コンポで宣伝するのに、スピーカーが一個では貧弱すぎるよ、ねぇ、米沢さん」
神津は米沢の方を見た。
「そうです。その通りです。高級システムコンポなら、三ウエイでなければ宣伝できません。必ず三ウエイにしてくださいよ、三津田さん」
「それは絶対に俺が許さない。宣伝のためだけに三ウエイにしようと思えば簡単なものだ。何百円くらいのスコーカーとツイーターを取り付けて何十円くらいのコンデンサーで接続すればできる。だが、スピーカーは音がいいのはフルレンジに決まっているのだ。三ウエイなどにしたら、わざわざ音を悪くしているのと同じだ。ダメだ」
一道が大きな声で言う。
「一道君、また、そんな意固地なことを言って。千円くらいで三ウエイにできるというのは素晴らしい商品企画じゃないか。それによってどれほど商品価値が上がり、宣伝効果が出てくるか知れないよ。頼むから三ウエイにしておくれ」
神津はまるで拝むようにしている。
「いや、絶対にできない。もしもどうしてもそうせよと言うのであれば、今すぐこのアンプを全部潰す、そうだろう、桜井君」
「そうです。三ウエイにすれば音の信号をコンデンサーやコイルに通さなければいけません。当然、それらは音質を劣化させたり、位相をずらせるものですから、歪みの原因になります。何よりもひとつの音を三つの、位置がずれたボイスコイルから発生させますから、位相のずれや音の干渉は必ず生じます。これらは理論上明らかなことです」
桜井が一道の援護射撃をする。
神津も米沢も困った顔をしてしばらく、なんだかんだと愚痴を言っていた。
「それでは、好きなようにしてくれたらいいが、せめて、外観上、スピーカーとアンプの高さは、アンプの上にFM・AMチューナ、CDプレーヤー、MDデッキ、カセットデッキを置いた状態で同じ高さになるようにしておくれよ。この四つともオプションにするからアンプはそれだけでケースに収めるようにしてくれればよい。それから・・・チューナーは、真空管式のものはかさばってセットにするのは無理だから、普通の半導体のユニットを使うよ」
神津は一道が聞き入れそうにないので、機嫌をとるように頼んだ。そして、一道の様子を伺うように顔を見る。半導体式のチューナーに文句を言うかもしれないと思ったからだ。
「そのくらいならできる」
一道は不機嫌そうに言った。確かに6ZP1アンプに真空管のチューナーを乗せるのは大きすぎて使い勝手が悪くなるように思える。神津は安心した。
「一道君、概略はこんなものだから、近日中に古市の松次郎さんのところまで行って、寸法などの打ち合わせをしてきておくれ。わが社にも三台目のヒット商品ができるねえ」
神津は興奮気味に言う。
「新製品が成功すれば、一道君にも桜井君にも一緒にポンと特大ボーナスを出しますから頼みますよ。それに日ごろは、何も仕事をしていないのに二人にはいい手当てを出していますからねぇ」
神津は終りは意地悪そうに言った。一道が目をつり上げて噛みつこうとすると、米沢と一緒にそそくさと工場の方へ降りて行った。
何時ものことだったが、一道は神津や米沢に対して愚痴と文句を言って一応反論するが結局、言いなりになってしまう。今回、なんとか抵抗できたのはスピーカーをフルレンジ一本の一ウエイにすることだけだった。
(三十二)
松次郎の家に行くため、6ZP1パラシングルアンプを車に乗せて、一道と桜井は工場の始業時間の前に早めに出発した。6ZP1アンプやチューナーなどのケースの大きさを打ち合わせるためだった。松次郎は簡単な手書きの図面をファクスするだけで完璧な品物を作れたが、一道と桜井は時々は松次郎夫婦に会いに行くのが楽しみだった。
中国道に入るまでは車が少しを込み合ったが、高速に入ると順調に進んだ。一時間ほど走って中国道を出た。そこから松次郎の家まで車を山あいに沿って走らせる。この場所に来るといつも季節をみずみずしく感じる。古川橋では季節の変化を悦びを伴って感じられることはない。
「やはり自然の中がいいな。本来、人間は自然の中で生きてきた動物なんだから」
「そうですけどね、田舎に住むと不便ですよ。僕なんかは今住んでいるところが便利で気に入っています」
「年を取ると田舎に帰りたくなるよ」
今は初夏の季節で、山肌には常緑樹の濃い緑の中に、新しく出た薄緑の葉が山肌に雲ような模様を描いている。その模様の輪郭はぼんやりして夢見心地のようなのんびりとした情景に心が和む。
県道からそれて杉林を通る細い道を松次郎の家の方へ上って行くと、新しい大きな工場らしい建物が目に入った。すべて立派な木材で作られている。今までの工場の横に隣接するように建てられている。その前を通り越すとすぐに松次郎の家だった。
「ジジイ、ババア、居るか?」
桜井はいつもの調子で玄関に入っていった。
「オー、マコトちゃん、無事に来たかい。待っていたぞ」
松次郎夫婦は元気そうな顔ほころばせた。
「さあ、上がれあがれ」
この日は松次郎の家へ行くことを事前に連絡していたので、ちゃぶ台の上には食べるものがいろいろと並べられている。いつものように全部地元で取れるものを材料にしたもので、新鮮な良い香りがする。一道は車から持ってきたアンプを縁側においてちゃぶ台の前に座った。
「この季節なら、まだ暖かいほうがいいだろう。田舎のことで口に合わないかもしれないがどれでも食べてくださいよ」
マサ子がすぐに温かいお茶を持ってきてくれた。二人ともよく食べた。サツマイモを細く切って油で揚げたものに芋飴をつけたものなどは、砂糖の甘さとは違った絶品の味だった。また特産の黒豆の甘煮も食べ出すといつまでも止められない。そして米を高温高圧で圧縮し、急に減圧して作ったポンポン菓子に水飴を混ぜて小さいお
にぎりほどの大きさに固めたものなどはいくら食べても腹に残らないような気がする。
「隣の工場は新しく建てたのですか?」
一道がおやつを食べながら尋ねた。
「そうだ。だんだんと製造量が増えていって、前の工場だけではとても間に合わなくなって、大きい工場を建てたのじゃ。材料はすべてこの辺の不要な間伐材などで作っているから、ほとんど作業代だけでできあがっているのじゃ」
松次郎はいつもの変わらぬ笑顔でのどかに話す。目にかぶさってくるように見える長い眉毛に少し白髪が増えたように一道には思える。
「仕事が増えたものだから、昔の仲間も呼び集めて、大勢でやっているよ。この辺ではちょっとした地場産業のようになってきている。それはありがたいことじゃが、やはり金もうけだから、速く作れ、安く作れと米沢さんが言ってくるんじゃ」
松次郎は少し困ったように言った。
「そんなに、米沢の言う事を聞くことはないです。松次郎さんの納得のいく仕事をしてください」
一道は気の毒に思えると同時に自分も関わっているので申し訳ない気もした。
「マコトちゃんは、もうそろそろ大学を卒業かね?」
マサ子が急に思いついたように尋ねた。
「修士課程が来年の三月で終わるよ。博士課程は僕の好きなコースがないのでもう卒業するつもりだ。だから、そろそろ就職活動を始めなければならない時期なんだ」
「マコトちゃんは小さい頃から頭がよかったからねぇ」
マサ子は頼もしそうに孫を見ている。一道には大学のことはよくわからなかったが、桜井が卒業すると当然、工場を出るだろうから寂しくなると思った。
「今は世の中の景気がいいから、就職先はたくさんあるだろう」
松次郎も孫に目を細めている。
「特に理系の就職先はたくさんあるけど・・・今のままカミツ工業で仕事をするのが一番楽しいかなあ、とも思っているよ」
「それはダメだ。社長は桜井君を喉から手が出るほど欲しがっているだろうけど、桜井君みたいな大学に六年も行って勉強した人間が、カミツ工業のようなちっぽけな会社で勤めたのでは将来がない。大きな会社に入る方がいいよ」
一道が武骨な手を顔の前で左右に振りながら言った。
「でも、真空管を扱うことは、本当に楽しいです。それに、三津田さんと一緒に仕事ができるのが一番いいですねぇ」
「だめだめ、俺と一緒に仕事したって何のいいこともない。会社が嫌なら親御さんみたいに学校の先生にもいくらでもなれるじゃないか。それの方が、はるかに生活が安定している」
一道はむきにさえなっている。
「でも、仕事は楽しい方がいいですね。やはり今の工場で仕事しますよ」
桜井は当たり前のように言った。この時に進路を決めたというよりも以前から腹は決まっていた様子だった。一道は桜井のような優秀な学生は、小さなカミツ工業に就職するものではないと思っていたので、内心は非常にうれしかった。一方で桜井の将来のことを考えると残念でしかたがない気持ちもした。
一休みしてから、6ZP1パラシングルアンプのキャビネットの大きさや形状などを決めた。アンプはこれまでの《望郷》と同じように前面を耐熱ガラスの窓にして真空管が見えるようにし、放熱のための隙間も作ることにする。スピーカーボックスは先日、図面をファックスしていたものが完成していた。見事な一枚板を使った白木の木目も新鮮な密閉型だった。林の中のような木の香りが漂っている。
「こんな品物ばかりを作らせてくれたら嬉しいのだが、金儲けにはならんらしい」
松次郎が苦笑しながら言った。
ボックスは十六センチのフルレンジを駆動させる空間としては充分過ぎるほどの容量がある。ユニットの能力を伸び伸びと発揮できると思える。アンプと並べると神津が要求していた四つのオプションのキャビネットを縦と横に二個ずつ上に載せて同じ高さにするのにちょうどよい大きさになっている。この頃のチューナーやCDデッキなどのユニットは非常に小型化されていて、アンプの上に載せられる四個のケースであれば大き過ぎるくらいだった。
昼近くなって二人は昼食をごちそうになった。大阪の食べ物とどこが違うのかは分からないが、マサ子が料理をする食物はどれも食べれば食べるほど食欲を増させるおいしさがあった。
(三十三)
食後は一道と桜井は二人で周辺を散策した。途中、少し遠かったが杉山の墓参りにも行くことにした。墓は寺の境内の奥にあるということだった。寺の山門には幹回り三メートルもあろうかと思える大きなイヌマキの木が左右に立っていて自然の門構えになっていた。正面に古い本堂があって、その裏に墓所があった。たくさんある墓石の中を行き当たりまで歩くと杉山のものは直ぐに分かった。もっとも新しく見えるものだったからだ。墓石の前で手を合わせていると住職の奥さんらしき婦人が水を入れた桶とひしゃくを持って来てくれた。
「どうぞ、お水をあげてください」と言って桶を置き、手を合わせた。一道の頬が引きつった。
「スッ、スミマセン、いくらですか」
一道はいつもの太い声と違ってかすれた声を出した。婦人は一瞬、何のことか意味が分からなく目をしばたたいた。桜井も不思議そうに一道を見た。
「・・・マァ-、お金など要りませんよ。檀家の皆さんのお陰で出来ているお寺ですから。ゆっくりしていってください」
婦人はいまにも吹き出しそうな様子で引き返した。一道は自分の拳で自分の頭をゴツンとやった。
・・・金の亡者のような神津や米沢などと一緒に居ると俺までいつの間にか、金でしかものが見えなくなったのか
一道は亡霊を振り払うように頭を大きく振った。桜井は、一道の言動には時々自分の思考の範囲を超えることがあるのを感じていた。
二人は墓石に水をかけ、再び手を合わせてから石段に腰を下ろした。よく晴れて風も無く日差しはまぶしいが、暑く感じるか快く思えるか微妙な気候だ。蝉が騒がしく鳴くにはまだ早く、小鳥のさえずりが時折聞こえるくらいでそれが静かさをさらに強く感じさせる。目前の墓石の頂きにシオカラトンボが来て止まった。
「妙に静かだなあ。あの世とこの世の境目のようだ」
トンボは一道の声には反応せずに動かなかったが、目に見えないほどの虫が傍を飛ぶとパッと飛び立って捕食する。すぐにまた同じ位置に戻って羽を休める。
「こんな静かさを感じさせる音がいい音なんだろう」
「確かに小鳥の声が快いですねえ。僕の研究テーマそのものです。あのさえずりは、出力はほんの僅かなワット数です。周波数帯は非常に狭いものです。波形を調べれば鳴く度に微妙に変化して正確な規則性がありません。ステレオでも五・一チャンネルでもありません。モノラルです。それなのに良い音なのです。何百万円もかけた音響システムは出力、周波数特性、歪率、SN比など測定される数値は非常に優秀ですが、この小鳥の声には逆立ちしてもかないません」
桜井は遠く青空を見つめている。
「そうだ。そもそも、大金を出していい音を自慢している奴は心が貧しい。それに本当はいい音ではないという事に気がついていないのだから滑稽としか言いようがない」
一道が少々腹立たしそうな声を出す。
「そうなんです。学校でもいつも僕は言っていますが、これほどオーディオ機器が発展したにもかかわらず、その根本である音質評価理論が構築されていないのです。だから、今、音質レベルの評価は金額、外形、測定数値、宣伝文句などによってしか判断できないのです。でも、これらの評価基準は実は、音質の良否を判断する基準だと思い込まされているだけで、本当はまったく無関係なことさえ多いのです。例えば少しでもオーディオに興味のある人なら誰でも知っていることですが、三十五ヘルツ~三十キロヘルツの周波数特性のスピーカーと六十ヘルツ~十五キロヘルツのスピーカーとどちがよい音がするかといえば、数値上は言うまでも無く前者ですが、実際に聴き比べてみると後者の方がよい音がする事がいくらでもあります。このことは他の数値などにも当てはまることです。ましてや金額や宣伝文句などは押して知るべしです」
徐々に桜井の声に熱がこもってくる。
「〝オシテシルベシ〟か。桜井君は理科が得意なのかと思ったら、いろんな言葉も知っているなあ」
一道には言葉の意味がよく分からない。
「ええ、父が国語の教師なので小さい頃から年齢に相応しくない言葉も家庭の中で自然に覚えていました。それが学校でもよく口から出てきて皆にからかわれたものです」
桜井は一息つく。
「音については確かにみんな騙されているかもしれないな」
一道は口をへの字に曲げる。
「そうなんです。音質評価理論に基づく評価基準を持っていないから的確性を欠いた評価軸と分かっていてもそれにすがりつかざるを得ないのです。この迷妄の根本には音質の評価を芸術や文学の評価と同じに捉えているところにあります。ピカソの絵は理解できる人が見れば感動し、優れた価値がありますが、興味の無い人にとってはつまらないポスターと同じです。源氏物語も古文を解釈できて王朝文学に魅力を感じる人にとっては最高傑作ですが、文学など面倒臭いと思っている人にとっては何の価値もありません。ということは芸術作品の価値判断はその専門的知識の優れている人が決定することを意味します。音質についてもこれと同じように考えて、音響に造詣の深い者にしか評価できないと錯誤しているのです。要するに音質と芸術の違いが全く理解できていないのです。例えば音質の評価の記述に『何々という曲を聴くと何々の音が見事な存在感を示す』などと主観的な言葉で書いているのはその最たるものです」
「うーん、なにか、よく分からないなあ」
一道は腕組みをして目をしばたたかせ始める。
「本来、音は音そのものに価値があるのです。だって今、この墓所で聞いている小鳥のさえずり、また、小川のせせらぎや木々を渡る風の音など、自然の音は芸術として創作されたものではありません。ところが、その音に対して理解があろうが無かろうが人々はほとんど例外なくその音を聞いて心が和まされるのです。赤ちゃんは母親の心音を聞いて安心して眠るのです。音質は芸術とは異質なものなのです。ということは、ここがいちばん僕にとって大切なところですが、すべての音響機器に対して客観的な数値的評価ができるということです。その評価理論が確立できれば、これまでのように金額や宣伝文句や測定値に惑わされることがなく、機器の正しい評価が出来ることになるのです。単純な話が、AとBの機器のどちらが良い音がするかは、例えば1万人の人にその音を聞いてもらい選択してもらえば自ずと明らかになるのです。その結果は現在の音質評価の基準とはおそらく無関係になるでしょう」
「結局、6ZP1シングルアンプと二百万円くらいする新製品の半導体アンプとを一万人の人に聴き比べてもらえば、6ZP1の方が音が良いというのが証明されるという事だな・・・」
一道の目はまぶたが半分下りている。声も眠そうだ。
「そうです。一般的なユーザーの利用環境を前提に、ほんとうにこの実験を実施すれば事実となるでしょう。だから僕は、どうして多数の人が音質がよいと感じるのか、その根拠を学問的に研究したいのです。そして、現在の音質評価の混乱に答えを出し、製品購入者に不利益にならないようにするのが夢なのです。この研究テーマを大学の何人かの教授に訴えましたが誰も評価してくれませんでした。だからドクターコースに進むのは諦めました」
桜井の話が途切れた。いつの間にか墓石のトンボもいなくなっていた。
「さあ、それじゃあ、ボチボチ帰ろうか」
二人は一緒に立ち上がった。
松次郎の家に着き、帰りの挨拶をすると、
「あんた、あれを三津田さんに見せてあげなければ・・・」とマサ子が隣の部屋の奥の方を指さした。
「そうだ。コロッと忘れておった。三津田さんにどうしても見せたいものがあって隣の部屋に置いているんだ」
隣の部屋に行って指さす方を見ると、そこには冷蔵庫ほどもあろうかと思える立派な電蓄が置いていた。
「ホーッ!」
一道は思わずうなり声を上げる。
「村の代々、庄屋をやっていたおやじさんが、うちの工場が真空管のラジオを作っているというのを知って、それなら家にある真空管の電蓄が何かの役に立つかもしれないからあげるよ、と言って持って来てくれたんじゃ」
電蓄はいかにも堂々として風格がある。製造からずいぶん歳月は立っていると思えるが、キャビネットの作りもしっかりしていてどこにもガタがきているところがない。
「ラジオは今でもよく聞こえるが、レコードはモーターが回らないからだめだ。何かの役に立つだろうか」
松次郎は電蓄をポンポンと叩きながら言う。一道は電蓄を裏向きにして見る。
「やはり、2A3シングルアンプだ。しかもマツダの真空管がさしてある」
一道は目を輝かせた。彼が少年のころはこのような電蓄は、高級なものでとても手で触ることができるものではなかった。
「2A3という真空管は、高級電蓄にだけ使っていた高価なものだった。良い音がするに違いない」
電源を入れてラジオを聞いてみる。大型のパーマネントスピーカーから出でくる音は余裕のある、時間の経過を感じさせない音だった。
「本当に温かい音ですねぇ。後面解放型のスピーカーボックスになりますけれど、大型なのでこれだけゆったりした音になるのだと思います」
一道も桜井も2A3電蓄の音に非常に引きつけられるもの感じる。
「役に立つのだったら持って帰りなよ」
「エッ、もらっていいんですか」
「どうぞ、持って帰ってください。そのためにお父さんがもらったものなんですから」
松次郎もマサ子も孫や一道が喜んでいるのを見て満足そうだった。
一道と桜井は電蓄を大事に車の後部座席に運んで、できるだけ振動が伝わらないように置いた。いつものことだが、たくさんの地元でできた野菜などももらって車に積んで出発した。
(中へ続く)