大和田光也全集第12巻
『真空の灯火(ともしび)』【下】

                        (三十四)

 神津と米沢は6ZP1パラシングルアンプの製造ラインの設置に躍起になっていた。工場の広さには製造ラインを増設するスペースはまだ十分にあった。ラインの企画、設計、設置などは専門業者に任せると必ず不具合が多く出てきた。それは高一中二の製造ラインでよく分かっていた。原因は、業者が真空管製品という慣れないものを扱うので、作業内容の細かいところが分からずに組み立てるところにあった。こういう業者を的確に指導できるのは工場の中では一道と桜井しかいなかった。こんな時だけ神津や米沢は、ペコペコと一道の機嫌をとりながら長時間働かせた。
 二人は朝早くから、深夜まで働き詰めで製造ラインを設置していった。急ぐ必要は全くなかったのだが、神津や米沢が少しでも早く発売する方が利益が上がるということで、急がせるのだった。一道や桜井は働き詰めになるのが苦痛かというと、そうでもなかった。結構、楽しく仕事をしていた。二人でそれぞれの製造工程の内容を話し合いながら具体的な作業の内容を決めて、それにふさわしい設備を整えていくのは面白く、楽しみなものだった。二人は朝だけマンションで食事をとって、あとは少しでも時間の無駄をなくす為、工場で食事をとるようにしていた。和美が二人分の昼と夜との食事を作って持ってきた。時々、夜の食事を三人分持ってきて和美も一緒に食事をすることもあった。そんな時には和美は食後から工場の清掃を始めた。広い工場を全部一人でやるので、終わるのはかなり遅い時間になった。
 6ZP1コンポの製造ラインは三ヵ月ほどかけて完成した。実際に製造を始めるころになると、松次郎からのキャビネットもストックを抱えるほど十分に供給されるようになってきた。また、外部へ発注していたオプション類のユニットも、順調に納入されてきた。
 不良品を出さないために作業員は、他のラインで作業に慣れている者を6ZP1に移動させて、新しく採用した者は既設のラインの方に回した。
いよいよ、ラインを動かして試験的に製造を始めた。一道や桜井が見守っている中で、ゆっくりとベルトコンベヤーが動いて、やがて第一号機が完成した。いつも、第一号機は良し悪しは別にして記念にとっておいた。一号機に電源を入れて音を出してみると、予定通りの音が見事に流れてきた。さらに細かいところまで点検をしたが特に不具合はなく、製造工程や部品の変更をする必要はなかった。
 その後、本格的な製造を始めた。順調に製品が仕上がっていった。
「さすが、一道君と桜井君だな。こんなにスムーズにラインができあがったことはなかったよ。一道君が田舎に帰って、居ない間に設置したラインはうまくいかなくてずいぶん苦労したよ。何千台、不良品を出したか分からない。それ比べたら今度は無駄な金を使わずにすんだ」
 神津が細い体の割には太い声で誉める。
「さすがに、三津田さんと桜井さんはプロフェッショナルですねぇ。プロの仕事以外の何物でもないですよ」
 米沢はいつもの誠実さの感じられない口先だけの言葉を並べる。
「そんなことより、6ZP1が完成したら特別ボーナスを出すと言ったのと違うのか?」
 一道は口を少々とがらせながら言った。
「ああ、そうだったなあ。いや、忘れとった。明日にでもちゃんと渡すよ」
 神津は半分とぼけたように答えた。
 6ZP1パラシングルアンプは「心に響く最高音質・真空管コンポ・望郷Ⅲ」という名前をつけて売り出した。金額は同程度の大きさの半導体コンポの三倍近い値段にしていた。米沢はあちらこちらと得意な宣伝の手を打っていった。すると反応は早く、次々と注文が入ってくるようになった。一道には、こんな高価なものがどうしてこんなに売れるのか、どう考えても理解できなかった。
《望郷Ⅲ》の製造販売は滑り出しも順調にゆき、音質の良さが口コミで広まったことやマスコミで時々取り挙げられたのも追い風となって、その後も着実に販売を伸ばしていった。
 肌寒い風が吹き始めた頃、
「今夜、社長のところへ正式に頼みに行きます」と桜井がすっきりとして言った。
「頼むどころか、社長は頭を下げて、どうかうちの会社に就職してください、と言うよ」
 一道は桜井の将来のことを考えると複雑な気持ちではあったが嬉しかった。
この夜、桜井は一人で社長の自宅へ行き、就職の件を頼んだ。ちょうど米沢も一緒に居た時だった。
「とんでもない、こちらから土下座をしてでも工場にいてほしかったのですよ。ねえ、社長」
「それはそうだ、大学院まで出た学生がうちの会社に入社をしてくれたとなれば、鼻が高いよ。来年の四月から正社員になるけれども、今の段階で、もう、技術部長という役職を与えます。技術主任の一道君よりも役職は上ですから、給料もそれ以上の金額にしますよ」
 神津は喜んだ。
「いえ、それは絶対に困ります。三津田さんの下にしてください。それに給料も三津田さんより必ず少なくしてもらわないと困ります。そうしてもらわないと具合いが悪くて、会社におりづらいですよ」
 桜井は強く言った。
「そうですか。はるかに能力が高い人に、より多くの給料を出してあげるのは当然なのですが、一道君の手前、おりづらくなったら困るでしょうから、考えることにします。安心してください」
 神津は相好を崩した。
 桜井が工場に帰ってくると、和美がまだ掃除をしていた。彼女のお腹はずいぶん大きくなっていた。まもなく臨月を迎えることになっている。高齢出産にもかかわらず心身ともに元気で、陣痛が来てから病院に行けばいい、と仕事の清掃も続けている。桜井は就職の件を和美にも伝えた。和美は無表情ながらもさかんにうなずいて喜んでいた。彼女は掃除を終えて、マンションに帰ってからすぐにたくさんの食べ物や飲み物を入れた袋を下げてまた、工場の部屋へやって来た。そこで深夜まで、三人で桜井の就職祝いをした。アルコールには強くない一道が珍しく多くビールを飲んで、何度も目を潤ませていた。桜井が工場に残ってくれることは一道夫婦にとってこの上ない喜びだった。
「ちょっと早いが出産祝いもいっしょだ」
 一道は上機嫌だった。

            (三十五)

 年明け早々に一道夫婦に赤ん坊が生まれた。元気な女の子だった。一道は病院で初めて我が子を見た瞬間に、目には見えないが自分との運命的なつながりを実感して幸福感で胸がいっぱいになった。名前は妻の名前の一字を取って、明美とつけた。
明美が生まれたから一道は、工場で就業時間が終わると直ぐに自宅に帰った。そして明美の面倒を見ている間に、和美は工場に行って清掃をした。
 明美は子育ての楽な子でほとんど病気もせずにスクスクと育ったいった。
 工場では《望郷Ⅲ》や他の製品の製造が順調に進んでいた。そうすると例によって一道と桜井は暇だった。自由になる時間が出来ると松次郎の家からもらってきた2A3の電蓄が気になってきた。
「桜井君、今度は2A3のアンプを作ってみようか。そしてあの電蓄を蘇らせてやろうよ」
「ええ、いいですねえ。どんな音がするか楽しみです。2A3はもともと3極管ですから回路は非常にシンプルにまとめられます。ただ、直熱管ですのでフィラメントがそのままカソードの役割をします。ですから、フィラメントを交流で点灯すると、どうしてもそのハム音が出てしまいます。いろいろな回路を見ますとそれを防ぐためにフィラメントに並列にバランス用のボリュームを入れて、ハム音を低減させる回路になっています」
 桜井もすぐに乗り気になる。彼は一つの真空管の名前を示せば、それに関連するさまざまな情報が頭の中に入っていた。それもそのはずで、暇な時は種々の真空管の規格や回路を調べるのが何よりの楽しみだった。
「そのボリュームは、フィラメント電源を直流にしても必要なのかなあ?」
一道がボリューム嫌いであるのは桜井もよく知っている。
「直流にすれば、基本的には要らないのでしょうが、リップルはどうしても残りますからつけていた方がいいと思います。実際に製作してみて聴いてみない事にはこういうところは理屈ではわかりません。とりあえず、フィラメント用の電源はダイオードで整流しますが、ハムバランサーもつけて置きましょう。ついでにハム防止のため、前段のヒーターも直流点火にしましょう」
 桜井が手際よく回路図を書く。自己バイアスのシンプルなものだ。
「ドライバー段が6SN7一本では少し弱いと思いますので、双三極管ですからからパラレル接続にすれば十分にドライブできると思います。整流回路は6ZP1のものをそのまま使ってもいいですが、入手が簡単な整流管5U4G一本でやりましょう。ちょうど手持ちもありますので」
 桜井の頭の中にはいつでも取り出せる真空管の回路がいっぱいに詰まっているようだ。
「よし、これでいこう。回路は単純であればあるほど音はいいはずだ」
 二人は早速、製作に取り組んだ。
 シャーシー、出力トランス、チョークトランスは6ZP1のものを使えばよい。電源トランスだけは2A3のヒーター電圧が違うので、少し外観も大きくして新しく作ることにする。一道はすぐに電源トランスの製作を始める。手際よく電磁鋼板を打ち抜いて鉄心を作り次に、コアにホルマル線を巻いていく。慣れたもので一時間ほどで完成する。
「B電圧は、2A3の規格からすると少し高すぎるが、実際にはこの程度で全く問題は出ないだろう。少々高めで使った方が、力強い音がするからな。少々の誤差などは全く問題にならない。太っ腹な人間のようだ。こういうところが真空管の良さだなあ。」
 一道は、真空管を語るときはいつも自慢そうな様子になる。
「俺の小さいころは、2A3はこんな高級電蓄にしか使われていなく、とても手にすることのできる真空管ではなかった。手にするどころかは、近くには持っている人もいなくて聴く事もできなかった」
 一道は古い電蓄を感慨深そうに見る。
「2A3は今でも日本製のものはびっくりするほど高いが、中国ではまだ生産されているので、安い2A3がいくらでも手に入る。失敗して焼き切ることをそんなに恐れなくてもよいから楽だ。とにかく業者に半ダースくらい入れさせておこう」
 二人の性格で、作り始めるといくら時間が経とうが、出来上がるまではやめなかった。2A3シングルアンプも完成させるまで製作を続けた。例のごとく夕食は和美が工場に運んでくれた。
 完成したのは夜の十時頃だった。配線は部品点数も少ないし間違えることはなかったがやはり、じっくりと音が出るのを楽しみたいので、まず真空管を全部抜いた状態で電源を入れる。そして電源トランスの出力電圧と各真空管のヒーター電圧をチェックする。それぞれの電圧は正常だ。次に整流管を挿してB電源が供給されるところの電圧をチェックする。負荷がないので高めではあるが正常な電圧だ。最後に残りの真空管を挿して電源を入れる。2A3は手持ちが無かったので、松次郎から貰った電蓄のものを一本だけ片チャンネルに挿す。ショートなどの配線間違いはないとは思ったが、いちおう手際よく、各ポイントの電圧を測定する。それぞれ正常な電圧だったが、2A3のヒーター電圧だけは異常に低い。2A3を見ても確かにヒーターが赤くなっていない。
「おかしいなあ!」
 二人とも同時に声を出した。
「2A3を挿す前の測定では、整流して平滑回路を通ったので高すぎるほどの電圧で、三V近くまであったのだが」
 一道が盛んに首をかしげている。もう一度、2A3を抜いて電圧を測ってみる。そうすると間違いなく3V近くある。今度は、整流回路を外して、トランスの交流出力をそのままって2A3のヒーターへ接続する。すると、しっかりとヒーターが灯る。
「ああ、分かりました。うかつでした」
 桜井が納得したようにうなずいた。
「どうしてだ?ちゃんと二ボルト出るように巻線をしているし、容量も余裕のあるようにしているのに」
 一道は納得できない顔をしている。
「整流による電圧降下です。整流して、負荷をかければ当然電圧は交流の時より下がります。その下がる電圧が、例えば、一ボルトとしますと、この6SN7のヒーター電圧のように六・三ボルトくらいであれば一ボルト下がったとしても真空管は通常に作動します。特に6SN7はヒーター電流はわずかですからこのようにしっかりと点いています。ところが、二ボルトで、しかも電流が大きい2A3では、一ボルト下がるということは、定格電圧の半分になってしまうということです。これではヒーターは赤くなりません」
「ホーッ、そうだったのか」
 一道はうなった。
「それではトランスの電圧を何ボルトぐらいにすればいいのかな?」
「そうですねぇ。四ボルトぐらいにしておけばいいと思います。もし高くなり過ぎたら適当な平滑用の抵抗を入れて調整できます。ただ、おそらくかなりの発熱になると思いますから、整流回路はシャーシーの上に持ってきた方が無難です」
「そうか。今からトランスの巻線をやり直すと時間がかかりすぎるので、とりあえず交流で点火して音を出してみようか」
 二人は、6ZP1コンポに使っているCDプレーヤーとスピーカーをつないだ。そして例のごとく懐メロCDをかける。二人の心がおののく。すぐに音が出てきた。
「ホォーッ!」
 二人とも同じように感動の声を上げた。6ZP1の音とはまた趣の違った音質だ。あやふやなところがまったくない、明快な、澄んだ音だった。
「さすが、銘球といわれたものだなあ!」
 一道は非常に感心している。しばらく二人は、2A3の音を聞いていた。
「十分に良い音だが、2A3のヒーター電源を一度、電池の直流でやってみて、音の違いを調べてみようか」
 一道が部屋にあったを単一乾電池を二個持ってくる。電池二個で三ボルトになるがこの程度の誤差は少々の時間であれば、真空管にとっては問題にならない。電池ボックスに入れて配線を2A3のヒーターに取り付ける。そして同じCDの懐メロを聞いた。
「オッー!やはり、全く違う」
 一道は大きな声を出しながらポンと手を打った。フィラメントの電源を交流にするのと直流にするのとでは、音質に誰が聴いてもわかるほどの明らかな違いが出た。2A3の透明さが、電池にすると際立って聴こえた。2A3という真空管の特徴は、電池で点火して初めて最大限に発揮されるのがわかる。
「確かに、今までに聞いたことがないほど、澄明な音質ですねぇ」
 桜井も感嘆の面持ちになる。
「とりあえず、今夜はここまでにしておこうか。明日また電源トランスを巻き直すよ。それに業者に2A3を直ぐに持ってこさせてステレオで聴けるようにしよう」
 二人には珍しく、完成せずに作業を中止した。

                       (三十六)

 翌朝、一道は始業前のいつもより早い時間に工場に行った。桜井も珍しく早く起きて、すでに2A3の回路図を見ていた。二人とも作りかけたアンプが気になってしかたがなかった。
 一道は始業前の、社員が工作機械を使う前に電源トランスのヒーター用の巻線をやり直した。今度は2A3の電圧を四ボルトにする。これであればに二ボルトほど電圧降下があったとしても、ちょうど良い具合いになる。
 改造した電源トランスを、2A3のフィラメントに整流回路を通してつなぐ。そして電流を流してみる。今度はフィラメントは正常に明るくなる。それを確認してからすべての真空管を取り付けて音出しをする。予想した通りの澄み切った音だ。
 二人はしばらくの間、2A3の音に聞きほれた。
「あのハムバランサーのボリュームが気になるなぁ。ボリュームはどうしても音を悪くしているような気がして仕方がない。このハムバランサーは音質には影響しないのだろうか」
「三津田さんはほんとうにボリュームが嫌いなんですね。この場所にも音の信号はシャーシーとの間に流れますので、音質に影響はあると思いますがおそらく、実際に耳で聞くレベルでは変わらないと思います。もちろん、ハム音が最も小さくなるのはボリュームの中央あたりですので、同じ数値の2本の固定抵抗に変えてもハムは消えると思います」
「そうしようか」
 広い頑丈な顔をした一道が少し神経質そうになっている。一道はボリュームによって音質が大きく変化することを今までの経験で感じている。高価なボリュームは扱ったことはなかったが、音質劣化の元凶こそボリュームだと確信している。
 二百オームのボリュームをはずして三十オームの抵抗を二本取り付けてコンデンサーと抵抗に接続した。そして改めてまた懐メロをかけてみた。
「さすが、三津田さん!」
 桜井は感心した。ボリュームの時と明らかな音質の差がある。固定抵抗にした方が音に張りとか艶といったものが感じられるようになり、楽器のふくよかさが出てくる。
「三津田さんのボリューム嫌いは、単に感情的なものではなくて、はっきりと音質に悪影響があるからだというのがわかりますねえ」
 桜井はしきりにうなずいている。
「さあ、これで一応、完成だなあ。夕方には業者が2A3を持ってくるだろうからステレオで再生できる」
「そうです。これで完成です。完成された良い音です」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「それでは、このアンプを使って現代版の電蓄を作ろうか」
「古き良き時代の優れた音を現代によみがえらせましょう。爺ちゃんに言って、あの電蓄と同じくらいの大きさのキャビネットを作ってもらいます」
「そうしてもらってよ。ところで、今はこんな大きなフルレンジのスピーカーはないので、どうするかな?」
「やはり、録音がステレオですので、再生もステレオでいきましょう」
「そうすると、スピーカーをどうするかますます難しいなあ」
「考えられるのは、十三センチ程度の四つのフルレンジスピーカーをつけて、左右二つずつに分けてステレオで流せばいいでしょう。そうすると、両チャンネルのスピーカーの距離がほとんどないので、音の広がりは少ないと思いますが、この形状では仕方がないかと思います。それに、両チャンネルのスピーカーを一緒にして密閉すれば相互干渉してダメですし、この大きさのままで左右に分けて密閉型にすると今度は容量が少なくて息づまったような音になる可能性があります。すると後面開放型にせざるを得ないと思います」
 桜井の話を聞きながら一道は腕組みをして考えこんでいた。
「後面開放がもともとの電蓄の音だから、それでいいだろう。確か、昔の高級ラジオに三D方式というのがあったな。それは前面にウーハーとツイーターを取り付けて、左右の側面にフルレンジのスピーカーをつけているものだった。それで音を立体的に聞こえるようにしたものだ。かなり高級品で、普通の家庭ではなかなか買えなかった。この電蓄もそうしようか。左右の側板に、一個ずつのスピーカーでは弱いので二個ずつつけて全部で八個のフルレンジスピーカーで鳴らそう。2A3のアンプも前面と側面の音量が自由に調節でき、さらに出力を強化するために、二組つけよう」
 一道は生き生きとしてくる。
「それはすばらしいです。また、どんな音がするか楽しみになります」
 桜井も元気な声を出す。
「それに、電蓄という以上、アナログプレーヤーも付けなければならないだろう。せめてMMカートリッジがつけられるように双三極管一本でフォノイコライザーをつけておこう」
「アナログプレーヤーをつけておくのはいいですねぇ。本来、音はアナログですから」
 桜井もアナログの音に興味を持っているようだった。アナログプレーヤーのユニットはさすがに製造している種類は少なかったが、キャビネットが大きかったので、どの業者のものでも簡単に取り付けることができると思える。それほど高価なものではない適当なプレーヤーを発注した。
 二人は相談しながら、電蓄用のキャビネットの寸法や形状を詳しく書いて、松次郎にファクスをした。キャビネットが出来るまでの間に2A3アンプ四ユニットを一つのシャーシーに取り付けたものを製作した。
 二週間ほどして、懐かしい木の香りのする立派なキャビネットが届いた。総ヒノキ造りだ。
「いつもながら立派なものだ。まるで高級家具だなあ。いや家具というよりも、芸術作品に近い」
 一道はキャビネットを盛んにさすっている。下段の前面と側面の八個のスピーカーを取り付ける位置には、建具細工の格子状のものがつけられて、その裏にはサランネットがしっかりと張られている。アンプが入る部分には前面を耐熱ガラスにして、真空管が見えるような造りになっているのは、6ZP1と同じだ。アンプのスペースの上段には6ZP1のコンポで使った同じチューナとCDプレーヤーのユニットが取り付けられるようになっている。さらに一番上段がアナログプレーヤーを取り付けるスペースになっている。
 二人は、他の者から見ると、何かに取りつかれたような状態で電蓄の製作を始めた。しかし、本人たちにすれば、製作する楽しみを味わいながら、慌てずに作っていた。
 完成したのは深夜だった。静まりかえった部屋で、完成した電蓄に灯を入れる。一道は、自宅から持ってきたアナログレコードの一枚を恥ずかしそうに紙袋から取り出す。
「やはり、三津田さんの世代ではアナログレコードを保管しているのですね」
「いや、金に余裕などなかったから、少ししか買っていないけれど、大事に持っている。これはそのうちの一枚だ」
 一道は、彼の顔形には全く似つかわしくないはにかみの表情を見せる。そのレコードには『森昌子十七歳の演歌』というタイトルで、幼さと大人の入り交じった森昌子の笑顔がジャケットいっぱいに広がっていた。
 一道は、何か儀式でも始めるような手つきになってレコードを取り出しターンテーブルの上に置く。それから、そろそろとピックアップを節くれだった人さし指で持ち上げてレコードの端に下ろす。スピーカーから針がレコードに落ちる独特な音が出る。そしてその音が部屋中に広がったので、期待が膨らむ。すぐに、最初の曲の『連絡船の唄』の哀愁を帯びたイントロ部分が部屋の空間に満ち溢れるように流れてくる。その音を聞いて、二人とも思わず拍手をする。
「これは素晴らしい。まるで目の前で演奏されているようだ」
「本当に良い音ですね。予想以上の音の広がりがあります」
 二人とも興奮気味になる。レコードの両面の曲を聴く。いくら聴いても聴き飽きることのない音質だ。
「やはりアナログの音はいいですね」
「これが自然の音と違うのかなあ…桜井君」
「そうですねえ、アナログの方が情報量はデジタルより圧倒的に多い訳ですから、多い分だけ原音に近いですよね。デジタルはどんなに細かく切ろうが、切っていることに変わりはありませんから。自然の音はすべて、細切れになっているものではなくて連続しているものです。なんといっても自然の音に近いのはアナログです」
 桜井もレコードの音を聞いて確信を深めたようだ。
「でも、この電蓄であれば、CDも十分に良い音で聞けるのではないですか」
 今度は桜井が、自分のCDを持ってきてデッキに入れる。室内管弦楽団の演奏だ。
 出できた音を聞いて二人はまた感動する。アナログの音とは違って少々機械的な音はするが、細かい弦の音の綾まで余すところなく再生する。実際のホールでの演奏会の音と非常によく似ている。さらにその他の交響曲などのCDも色々とかけてみる。特に弦楽器の音は冴え渡って響く。演奏者の体の動きが想像されてくるようなみずみずしさだ。さらにその曲が録音されている周囲の状況やマイクの遠近さえも手に取るように感じられる。
 2A3電蓄の音を聞くと心の中のモヤモヤとしたものが見事に消え去って心の中全体が晴れ渡るような気持ちにさせられた。
 二人は次から次へと寝るのも忘れて音楽を聞き続けた。

                       (三十七)

 大阪にはめずらしく雪の降っていた深夜、田舎の親戚から電話がかかってきた。
「一道さん、お母さんの状態が非常に悪いのよ。急に悪くなったというより、少しずつ悪くなってきていたんだけど、大阪に出てがんばっている一道さんに迷惑をかけるのは気の毒だと思って、兄弟や親戚同士で、なんとか世話をしていたけれど、もうみんな限界を越えて疲れ果ててしまってねえ。やはり長男に面倒を見てもらわなければいけないと思って電話をしたのよ」
 言いにくそうな口ぶりだ。
「そんなに悪いとは知らなかったなあ。時々、電話で話をした時には、悪いようには思えなかったし、お袋も何も言わなかったからなあ」
「ああ、電話ではなかなかは分かりにくいような病状だからね。とにかく少しでも早く帰ってきてお母さんの世話をしてあげてよ」
 要領を得ないままに電話は切れた。実際に母親に会ったのは結婚式の時なので、もう一年半近くは立っているが、月に一回位は電話を入れていた。その時には特に変わった様子は感じられなかった。
 一道は心配になって夜も遅かったがすぐに、母親の民代のところへ電話を入れた。電話に出た民代は、少し沈んで元気がない声であるのを除けば今まで通りで、特に体調が悪いようには思えない。彼が、
「体の調子は悪くないか」と何度尋ねても、
「いや、特に悪いところもない」と民代は答える。親戚の言うことと民代の返事には大きなギャップがあった。それを一道は、たいへん病状が悪いので逆に隠そうとしているのではないかと思い、心配する気持ちが募っていった。そうすると居ても立ってもいられなくなった。
 それで、神津に電話を入れて事情を説明し、故郷に帰ることを伝えた。そしてすぐに会社の車で出発した。以前に帰ったコースと同じで、瀬戸大橋は通らずに中国道を広島まで下った。やはりこのコースが交通量が最も少ないと思えた。
 途中のフェリー以外、ほとんど休憩もとらずに運転したので、九時間弱で帰ることができた。大阪でも雪が降っていたが、南国の南宇和でも風が刺すように冷たい朝になっていた。
 家の前に行って見ると窓には全部雨戸が閉められている。玄関には鍵がかかっている。普通は台風でも来ない限り雨戸は閉めないし、旅行にでも行くとき以外に玄関に鍵をかけることはない。
 玄関を叩くと内側から何個も鍵をはずす音がする。それから戸を開けて出てきた母親の顔を見た時にすべてが分かった。これまでの母親の表情とは全く違っている。その顏は、完全に精神に異常をきたした表情になっている。それに、体もやせ細っている。
「おふろ、いったいどうしたのだ?」
 驚いて一道は尋ねた。
「大きな声を出すな。それでなくても、至る所から盗み聞きされているのに。気をつけろよ、一道」
 民代は鋭い目つきになって天井やふすまを指差して目配せをする。どうやら、誰かが隠れて話を聞いている、その場所を目で一道に教えているようだった。
 何を聞いても何を話しても、まともな会話にはならない。困ってしまっていると、叔母や叔父がやってきた。
 事情をいろいろ聞くと、亀三が亡くなり、一道が大阪に帰ってから、少しずつふさぎ込んでいることがを多くなってきた。しかし、異常なことを言ったりしたりすることはまだなかった。ところが、一道の結婚式に大阪に行きそして帰ってからは、急に訳の分からない事を言い出したり、誰彼かまわず、攻撃するような行動を取るようになってきた。それでも何とか、叔父叔母で面倒を見ていた。しかし、少しずつひどくなっていって、手に負えない状態になったということだった。今は、いつ取り返しのつかないような事をしてしまうか分からない状態だった。
「何度も、精神科に連れていこうとするのだが、嫌がって暴れるのでどうすることもできない」
 叔父も叔母も民代のことで心身ともに疲労しているようで、衰弱した表情になっている。一道は話を聞いて、これ以上親戚に迷惑をかけてはいけないと思った。
「分かった。俺がこのまま大阪へ連れて帰って面倒を見るよ。こんなに叔父さんや叔母さんに迷惑をかけているとは思わなんだ。すまなんだ」
 一道は頭を下げた。叔父や叔母は、
「料理もしないので、食事もろくに食べていないから、できるだけ早く入院させた方がいいと思う」と言って帰って行った。
 また、二人だけになって、いろいろと長時間話をしているうちに、以前の母親との間のように会話がかみ合うようになってきた。
「一道、大阪から帰って来て腹が減っただろう。美味しいものは何もないが、お米と卵だけはある。今、ご飯を炊いて、お前の好きな卵焼きを作ってやるから、ちょっと待っておれ」
 叔母は料理などをしないと言ったのに、民代はそそくさと炊事場に行き、食事の準備を始めた。その姿は、以前に父親が亡くなった時に帰って来た時と同じように、母親としての喜びを感じているような雰囲気だった。
米が炊き上がると卵を焼いた。民代は少し前の衰弱した表情とは違って、笑顔にさえなって、ご飯と卵焼きを二人分、食卓の上に置いた。
「お前が修理してくれたラジオを聞こうか。テレビはつぶれてから金もないし、目も悪くなって見るのがつらいので修理もしていない。お前が修理してくれたラジオの方がいつまでも長持ちをしてよく聞こえている」
 民代は立ち上がって箪笥の上に置いていた高一ラジオのスイッチを入れた。少し間をおいて、徐々に放送が聞こえてくる。三十年も時を隔てたラジオが雑音もなく立派に鳴る。一道は自分が中学生になったような気分になった。
少年のころは学校を休まなければならないくらいの病気でなければ卵焼きは食べることが出来なかった。それも醤油をたくさんかけて、卵そのものは少しずつかじって、ほとんど卵についた醤油をなめるようにしながらご飯を食べた。それでも何よりも旨いと思った。
 食事をほとんどしないと言った母親が一道と一緒に食事をすると、卵焼きをおかずにいかにも腹が減っていたというようにうれしそうに食べる。
「一道の好きなカタクリコを作ろうか」
 ご飯を十分に食べた後で民代が言った。〝カタクリコ〟というのは、片栗粉に砂糖を混ぜたものを少量の水で溶いて、熱いお茶を注いで練ったものだった。ほのかなお茶の香りと甘さが半固形の片栗に溶け込んで口の中でとろけた。なにより高価だった砂糖が口に入るので嬉しかった。これも風邪をひいて高熱が続いたとき以外は食べさせてもらえなかったものだった。
 民代は砂糖をたっぷり入れた〝カタクリコ〟を作って満足そうに一道の前へ出した。一道はそれを箸ですくうようにしながら口の中へ入れる。懐かしい甘さが口の中いっぱいに広がる。一道は目頭が熱くなった。
「お前も、大阪でつらい思いをしているんじゃなあ」
 民代は涙をポロポロとこぼした。
 翌朝、一道は早速、母親を連れて帰る事にした。車にはあまり荷物が積めないので、生活に必要なものだけを車に載せた。高一ラジオはかさばったが、民代がどうしても持っていくと言うので車に載せた。
 民代は大阪に行くことを嫌がらずに、むしろ喜んだ。
「やっぱり、お前がいてくれると安心だ。一人で住んでいると、ちょっとでもスキがあると家の中に泥棒が入ってきて大事なものを盗まれる。盗まれるどころか、騒ぐと、殺される。それが、昨夜などは犯人が全然、出てこなかった。お前がいてくれたから怖がって近寄れなかったのだ。お前らの迷惑にさえならんのであれば、一緒にいるのがいちばんいい」
 民代は息子の傍にいると安心できるようだった。
 借家の解約、必要な金の支払い、残った品物の処分などは叔母にお願いした。いよいよ出発する時になって、裏の少年時代の研究室であった倉庫の中に入った。そこには永遠に時が変わらないように思えるさまざまな真空管のラジオなどがまだたくさんあった。おそらく、これらの真空管もすべて処分されるだろうと一道は思った。そう思うと一道の人生の土台になるようなところにぽっかりと大きな穴が開いてしまうように感じた。そしてそれは再び埋めあわされることはないように思えた。
 一道はいつまでも立ち去りたくなかったが、自分の気持ちを振り切るようにして車に乗った。そして大阪へ出発した。

           (三十八)

 一道は民代を大阪に連れてきたら当然、今住んでいるマンションで一緒に住むことを考えていた。しかし、民代は、
「お前たちに迷惑をかけてはいけない。済まないが狭いアパートでも借りてくれないか」と言って一緒に住もうとはしなかった。それで工場の近くの安いアパートを借りて住ませることにした。
「食事は一緒に食べよう」と言ったが、それも、
「若い者と年寄りは食事が合わないから」と断って、自分で料理した。一道は母親が気を使わないように生活をさせるのがいちばんだと思って、好きなようにさせた。
 民代は亀三の死後の扶助料だけが収入源だったので、アパートを借りて自炊すると不足がちになる。一道夫婦もローン返済で生活はぎりぎりだったので、とても母親を援助するほどの余裕はない。一道は神津に事情を言って給料を上げてくれるように頼んだ。神津はしぶしぶと、
「足らない分だけにしておくれよ。本来は出せない金だからねぇ。長い間家族のように働いてくれているから出すんだから、その分、もっとしっかり仕事をしておくれよ」と言った。一道は神津から離れると、
「《望郷》で大儲けしているくせに、ケチ野郎!」とつぶやいた。
 アパートで生活を始めた民代は、息子夫婦に迷惑をかけたらいけないと思ってか、また、民代は親しい縁者以外の人間がそばにいると非常に緊張して苦痛を感じる性格だったこともあってか、自分の方からはめったに一道のマンションにやってくることはなかった。それに、同じアパートの住人と仲良くするということもできなかった。それで一道や和美は時間があればしばしば、民代のアパートに行ってはさまざまな世話をした。民代は生まれてからずっと愛媛県の漁村で育っていたので、都会の生活にはなかなか慣れることができなかった。
 それでも、半年ほど過ぎると、民代も大阪の生活に少しずつ慣れてきて、自分で少しくらい離れた所でも買い物に行くことができるようになった。何よりもこの間、故郷で見せたような精神的な異常な状態にはならなかった。
「お袋はやはり寂しかったのだなあ。親父が亡くなって一人で生活をして、侘びしくなっていたのだろう。こうして近くに子供がおれば、おかしなことも思わなくなるのだろう」
 一道は和美に安心したように言った。何度も民代のアパートへ行っているうちに民代は、
「一道、ウチもだいぶ生活に慣れたから、もうこんなにしょっちゅう来てくれなくてもいいよ。和美さんも、明美ちゃんが動き回って目が離せなくなって大変なのに。何かあったら、こちらからお前のマンションに寄るから、もう来なくていいよ。来てくれるとウチも気を使うから」と言うようになっていた。
 一道も和美も民代の言葉に安心してアパートに行かなくなった。
三ヵ月ほど経った日曜日の朝だった。珍しく民代の方から一道の家に電話があった。
「ずいぶん、苦しまされている。もう、我慢の限界になった・・・」
 民代は気だるそうな抑揚の無い声を出した。何時もと違う調子が心配で、一道はすぐに民代のアパートへ行った。ドアを叩くとしばらく何かゴソゴソしている音がした後、ドアが開いた。
「一道か、足元に気をつけて入れ。押しピンを置いている」
見ると部屋の中央の母が座っているあたり以外は、一面に畳用の長いピンが上に向けて置いてある。
「どうしたのだ、お袋?」
一道は驚ろいた声を出して、ピンを全部拾い集めてから母のそばに座った。
「犯人のやつがしょっちゅう入ってくるから、痛い目に合わせている。ところがちょっと部屋を出た間に押しピンの位置を変える。それで自分で踏んで痛くて歩けない」
民代は足の裏を見せた。いたるところにピンの刺さったと思える赤い斑点がある。それに全体が赤くはれている。
「ドアに鍵を掛けていたら、こんな部屋、どこからも人が入ってくるところは無いぜ」
 一道は困った顔になった。
「押し入れの天井から入って来ている」
民代は怖い目つきをし、ヒソヒソ声になる。
「今、こうして一道と話をしているのも聞かれている。見られている」
民代は一道に目配せをしながら天井を指さし、さらに声を落とす。
「上の部屋のやつも、右も左のやつも、みんな、犯人の手先になっている。一晩中、壁をドンドン叩いたり、天井でびっくりするほど大きな音を出して嫌がらせをする。それが頭の中に入ってきて・・・」
 民代の話はいつまでも終わらなかった。一道は母親の苦悩を聞きながら、故郷の親戚が疲れ果てていた理由が分かるような気がした。同時に入院させるしかないと思った。
 翌朝、一道は嫌がる民代を無理やり車に乗せて、精神科の病院へ連れて行った。母親の診察を横で聞きながら、一道が驚いたことがあった。それは精神科医が指摘する母親の心の状態が、自分にもぴったりと一致することだった。一道の場合は自分の精神の異常さに自分で気づいて、なんとか日ごろは理性でコントロールしているが、それができなくなったら全く母親と同じような状態になるだろうと思った。
「心の病気以外にも認知症もすこし出てきていますので、この状態では他人に危害を及ぼしたり、自分で自分を傷つけたりする可能性が非常強いので、即入院させましょう」
 医者から言われて逆に一道はほっとした。ちょうど、病名がわからずに苦しんでいる時に、病名がわかったら安心するのと同じだった。ところが民代は顔色を変えて入院を拒否し始めた。民代の頭の中には、精神科に入院するという事に対する偏見が染み付いていたのだった。
 民代がどうしても同意しないので、一道はとりあえず母親を連れて自宅に帰って来た。
「もう、一人でアパートに住むのはこりごりじや。お前たちに迷惑をかけたらいけないので、老人専用の病院なら入院てもいい」
 民代は部屋に入るなり、しみじみと言った。
 一道は認知症だということで入院させてくれる病院を電話で捜した。不思議に思えたが、寝たきりの状態の患者なら受け入れるが、民代のように自由に体の動く患者は簡単に受け入れてくれなかった。それでも、無理に頼むと大阪北部の一つの病院が連れてきてみてください、と言ってくれた。
「ひょっとしてこのまま入院するかもしれないのなら、もう一度、アパートに寄ってお前の修理してくれたラジオを持って来てくれ。あれはウチの守り神なのじゃ。あれだけは病院に持って行って枕元に置いておきたい。そうすると心が落ち着くのじゃ」
 民代は哀願するように言う。一道は病室に持ち込むには少し大きいかと思ったが、母親が安心するならと思い、高一をアパートから取って来て車に積んだ。それから病院へ行った。
「本来、あなたのお母さんのように自由に歩けるような患者さんはうちの病院は受け入れないのですが、ずいぶん困っているようですのでとりあえず受け入れます。でも、この病院には閉鎖病棟というのはありません。だから、自由に体が動く人は出入りも自由にできますので逆に危険なことになるかもしれません。それを家族の方に了承してもらわないと入院許可できません。もし何かありました時には病院側としては責任が取れませんのでよろしいでしょうか」
 病院の職員は厳しいことをていねいに説明してくれた。一道はそれを了解して、そのまま民代を入院させた。

           (三十九)

 2A3電蓄は、当然のように神津と米沢によって商品化された。アナログプレーヤ、CDプレーヤー、チューナーは標準につけておいて、カセットデッキとMDデッキはオプションとして販売した。
「そんな、詐欺のような定価をつけずに、もっと良心的な金額にせよ」と一道が怒鳴ったくらい高額な価格設定をした。それでも〝名球2A3真空管アンプによる最高級ステレオ電蓄《望郷Ⅳ》〟と華々しく宣言をした。そうすると、一道からすれば暴利をむさぼるような定価であっても多くの注文が入るようになった。
「世の中の人間は、何を考えているのか分からない。2A3という意味が分かっているんだろうか」
 注文の多さに、設計製作者の一道と桜井は首をかしげた。また、これまでの《望郷》シリーズの注文も一向に減る様子はなかったので、カミツ工業としては未だかつてない利益を上げているはずだった。それが証拠に、社長は次からつぎへと不動産を買いこんでいた。場所は全国の観光地にまで及んでいた。
「銀行マンが不動産を探してきて、その上、代金のローンまで組んで準備してくれる。今は銀行の言うとおりに不動産を買っておけば、いくらでも金がもうけられる時代だ」
 神津は口癖のように言っていた。神津と米沢は見るたびに羽振りがよくなっていくようだった。
 製造が順調になれば何時もの通り、一道と桜井はほとんど毎日、自由に時間を使えた。
「あこがれだったが300Bのアンプを作ろうか」
 一道がポツリと言った。
「そうですねえ、ここのところ全くトラブルもなく順調ですからまた新しいアンプを作りましょうか」
「300Bというのは三極管で、非常に音がいいらしいが、子供の頃は高価で手に入れるどころか実物を見たこともなかった。雑誌で写真を見て、頭の中で300Bアンプを組み立てて夢の中で聴いていた。ところがこの頃は中国で製造されたものが安く日本にも輸入されているなあ。ソケットは2A3と同じだし、試験的に2A3のシャーシを使って作ってみようか」
 一道の目が輝き始める。
「そうですねえ、どんな音がするかまた楽しみです」
 桜井も乗り気になる。
「300Bの特性を考えると、特殊なものでもなく、扱いにくい真空管でもありませんので、標準的な回路にすればいいと思います」
 桜井が参考資料など何も見ずに言う。彼の頭の中には300Bの情報がすでに充分に入っているようだ。そしてボールペンを取って回路図をサラサラと描く。
「300Bの良さを発揮させるのはやはり、本家本元のWEの91型がいいと思います。ただ、前段のWE310Aという球は数少なく、業者に探させてもおそらく手に入れるのは難しいと思います」
 一道は少し心配そうな顔になる。桜井は今度は資料を調べる。
「でもこの球の特性は6C6とかなり似ていますから、十分に代用できます。こちらを使いましょう」
「それじゃあ、それでいこう。6C6は倉庫にまだ沢山あるから、300Bだけ注文しておこう」
 話が決まると早い。それからは楽しく話を弾ませながら作業を進めて行くのはいつものことだった。
「300Bのフィラメント電源は三端子レギュレーターで安定化させましょうか。おそらく単なる整流回路より、こちらの方が電圧が安定する分、音質がよくなると思います。そのために、電源トランスのヒーター用の電圧を十一ボルトか十二ボルト程度にしてください」
「それじゃあ、電源トランスも2A3のものよりもコワも大きくして初めから作り直そう。ついでにOPTもCHトランスもすべて十分に余裕のあるものにしておこう。そうすれば発熱の問題も気にしなくてもいいからな」
 一道は300B用のトランス類を全部はじめから作った。それで、2A3用のシャーシは合わなくなったのでシャーシも初めから作ることにした。
 トランス類とシャーシを完成させてからシャーシ上にトランスを取り付けて重さを計ってみると二十五キログラムを超えた。
「ずいぶん重厚な雰囲気のするアンプになりそうですねえ」
桜井は華奢な手で顔を赤くしながらシャーシーを持ち上げた。ここまでの作業にほぼ三日が掛かった。300Bの納品が翌日になるということだったので作業を終えた。
 翌朝、二人は配線を始めた。一段増幅のシングルアンプなので、作業量は少ない。昼過ぎには完成させることができた。ちょうど300Bも届いたので食事もせずにすぐに真空管を挿した。配線は間違った可能性はないと思えるので、そのままCDプレーヤーとスピーカーをつないで電源を入れる。この瞬間に、体中の力が抜けてしまいそうな不思議な緊張感に襲われるのは、何台アンプを作っても同じ感覚だった。
 300Bのヒーターが徐々に明るくなるにつれて、音楽が部屋中に広がってくる。曲はいつもの懐メロだ。
「ウーム、さすが300Bだなぁ・・・」
「そうですねえ。いいですねぇ・・・」
 二人とも感動してあまり言葉が出ない。2A3とはまた違った趣のある音だ。2A3が日本的な繊細美を表現するものであるとすれば、300Bはアメリカ的な解放感の喜びを表現するものだった。
「六十年も前にこんな音がしていたなんて信じられませんねぇ。今の半導体の高級アンプなんか足元にも及びません。だれが聴き比べても良い音であることは明確です」
「ほんとにそうだ。やはり真空管がいい」
 二人とも満足そうであった。
二人は数日間、さまざまなジャンルの音楽を300Bで聴いてみた。WE91型アンプは聞けば聞くほど能力の高さに感服させられる。さまざまな楽器や歌声を得意、不得意なしに再生する。その中でも特に管楽器、ピアノ、パーカッションの音は、演奏している人間と聞いている人間との距離が限りなく縮まるように感じられる。原音からさまざまな媒体を通って音が再生されているにもかかわらず、その中間のものがすべて消え去ったような気持ちにさせる音質だ。それは、媒体物によって一切の色付けがなされていない音で、目をつぶれば目の前で実際に演奏されているのを特別席で聴いているような錯覚にさえする。
 真に優れた音響機器というのは、それらの存在を取り去って感じさせないものであることがWE91型アンプを聞けば納得できる。
 一道と桜井が300Bを聞いているところへ、これまでも何度か途中で覗きに来ていた神津と米沢が入ってきた。
「やっと、完成したか」
 二人は300Bアンプを見るなり大きな声を出した。
「良い音がするじゃないか。すぐに製品化しなさいよ、一道君。超高級システムコンポとして売り出しましょう」
 神津は少し威圧的な雰囲気で言う。
「これなら、高額な価格設定をしたとしても、よく売れますよ。今の時代は、こういう本物を求めている人が、たくさんいる時代なのです」
 珍しく、米沢の言葉に真実味がある。
「そうだ、大事なことを言い忘れていた。製品化する時には今度こそスピーカーは必ず三ウエイにしておくれ。いくらなんでも超高級オーディオシステムが、一ウエイでは笑われてしまうからな。それと低音がドスンドスンと腹に響くようにしなさい。これは売れるための大切な条件だから必ず守りなさい」
 神津は自分が経営者であるという雰囲気を強く出してくる。
「そんなの、音を悪くしているのと同じだ」
 一道は不満げに口を曲げる。
「いや、三津田さん、どんなに素晴らしい音がしたとしてもそれを買ってもらう人がいなければ、意味がなくなります。製造者の喜びとしても、できるだけ多くの人に製品の良さが分かってもらえることが一番だと思います。そのためには宣伝材料がなければなりません。三ウエイはひとつの宣伝材料ですから、ぜひともそうして下さいね、工場長の私からもお願いしますよ」
 米沢の声の響きにはまた真実味が薄れてくる。
「三ウエイにすればいいのだろう、三ウエイに。ゴチャゴチャ言わなくてもそうしてやるよ」
 一道は投げやりになって大声を出す。彼は、神津から何か頼まれると結局、ほとんど断れないことを自覚している。
「お願いしますよ、技術主任さん」
 神津と米沢は今度は頭を下げて、そそくさと工場の方へ降りて行った。
「よくもあれだけ態度が変えられるものだ。金儲けのためなら何でもする人間だ」
 一道は出て行った二人の方を向いて怒鳴るように言った。

           (四十)

「三ウエイにして、低音がドスンドスンか・・・」
 一道はため息をついた。これまでもそうだったが、彼は神津にいろいろと文句を言いながらも、大抵、言う通り製品を作りあげている。今回もそうしょうとしている。それは、中学を卒業して以来、長年を勤めていることに対する恩返しの気持ちからでもあったが、何かを作る時、無理ではないかと思われるようなものをあれこれと考えて、試行錯誤しながら作ってゆくことが楽しかったからでもある。
「低音をドスンドスンというのは91型では無理だなあ」
「そうですね。シングルですから7ワットほどの出力です。とても腹に響くような音圧にはならないでしょう。他の大出力の出る真空管を使えばできますが、300Bのような高音質は期待できません。やはり300Bは使用した方がよいと思います」
 桜井はこういう課題はゲーム感覚のように解決の糸口を探し当てる。
「出力を上げるためにはプッシュプルにしてB級動作に近づければ十分な出力が得られます。それに歪率やダンピングファクターは向上します。さらに、ハム音などは打ち消されて残留雑音はシングルよりもはるかに少なくなります。さらに信号の大小に合わせて消費電力が変化しますので、発熱の点でも有利です。数値上はシングルよりもはるかに優れた回路であるといえます」
「だが、プッシュプルというのは何かよく分からないが、音を上下に分けてそれぞれを別個に増幅してまた合わせるというやつか。どうも胡散臭いなぁ。音を原音から一度切り離すと、完全には元に戻らないだろうから良い音が出るとは思えないが・・・」
 一道は乗り気でないようすだ。
「でも一度、簡単な回路ですから、試してみてもいいですね。出力トランスさえ巻きなおせば、配線は一時間もかからないくらいです」
「そうか、桜井君が言うのだったら作ってみようか」
 出力トランスのコアの大きさはプッシュプル用に余分に巻いたとしても余裕のあるものだった。それで一道は一次巻き線だけ二重にして簡単に完成させた。
「とりあえず、A級でもいいですから、手っ取り早くプッシュプルの音を出してみましょう」
 こう言って桜井は91型シングルステレオアンプをそのまま使って、6D6の入力の前に三極管でPK分割させて、それぞれを両チャンネルの別のアンプに入力させ、プッシュプル用の一つのトランスに接続した。
「これでは、出力はシングルの二倍位ですが、とにかくプッシュプルの音を聞いてみましょうか。もし、よければドライバー段を設計し直せば簡単にB級にすることができますから」
 二人は、手際よくスピーカーとCDプレーヤーをつなぐ。そして例のごとく懐メロCDをかけてボリュームを上げる。十分すぎるほどの音量がスピーカーから流れ出る。
 二人はしばらくの間、何も言わずにプッシュプルの音を聞いていた。
「おかしいなあ。不思議だなあ。全く同じ300Bシングルアンプを二つくっつけただけなのに音が違う。どうしてだろう」
「そうですねえ、明らかに音質に違いがありますねぇ」
 二人ともプッシュプルの音質に対して同じ意見だった。
「これじゃ、普通の音になってしまった。シングルの時の音は特別に良い音だった。ところがプッシュプルにしてしまうと、どこにでもあるような音になってしまうなあ。ただ大きな音がするだけだ」
「ええ、おそらくこのプッシュプルのアンプの特性を調べれば、シングルよりも良くなっているのは間違いないと思いますが、しかし、実際に聞いてみると、シングルの時の方がはるかに優れた音質です。やはり、特性の数値と実際の音質とはほとんど関係がないということですね」
「結局、音には小細工を施すべきではないな。プッシュプルはやめよう。低音もシングルで考えていこう」
「そうですねえ。そうしましょう」
 二人の意見は一致した。そうなるとシングルで高出力の出る真空管を捜さなければならなかった。それにかなうものは比較的新しい五極管やビーム管の中にはあった。四種類ほどの真空管を取り寄せて、それぞれ、五極管接続、ウルトラリニヤ接続、三極管接続と製作をして音を聞いてみた。
「結局、五極管として作られた真空管は接続方法を変えたとしても、音はやはり五極管臭くてだめだ。単純な構造の直熱三極管が一番いい。そうすると出力が落ちて適当な球がないが・・・」
 一道は不満そうに言う。
「・・・というよりも、これらの、効率が良く高出力で小型の真空管は、古い三極管の音から半導体のような数値上優れた音が出るように考えられて製造されたものだと思います。真空管の本来の音の良さが忘れられています。逆に言えば、半導体が主流になれば、忘れ去られる運命にあるものだったといえます」
 桜井は納得顔になっている。
「真空管らしくない真空管の音というところかな。そうすると、低音ドンドンは古い三極管では無理なのかなあ」
「そうですねえ。もちろん、B電圧を非常に高くして駆動すれば高出力の出る三極管はありますが、実用的ではありません」
 二人はしばらくあれこれと思案していた。
「やはり、パラシングルでいきましょうか」
 桜井が忘れていたことを思い出したように言った。
「そうだったなあ、6ZP1もパラシングルにしていたな。出力を上げるには音質を悪くしないパラがいちばんいいなあ。このステレオの91型アンプを利用すればすぐにモノのパラシングルに変更できる」
「このままだとOPTの電流オーバーが少し心配ですが、実験的には充分、耐えられますからやってみましょう」
 二人とも元気になってくる。そして手際よく配線をしなおしてパラ接続にした。
 それから、いつもの懐メロCDを流してみた。アッテネーターを上げると、ボイスコイルが焼け切れるのではないかと思えるほどの迫力のある音がスピーカーから響いてきた。それなのに全くうるささが感じられない。三極管の良さが見事に出ていた。
「これでいい。この音なら十分だ」
 一道がスピーカーの音に合わせるような大きな声を出した。
「いいですねぇ。これなら大きい口径のスピーカーにつなげばドスンドスンと響いてきますよ」
 桜井も元気よく言った。

           (四十一)

「三ウエイスピーカーか。音を悪くするだけだな」
 一道は愚痴っぽくなっていた。充分な出力のアンプの試作はできたが、神津の要求するスピーカーは一道の音に対する思い入れからは遠く離れていた。
「例えば、一本のトロンボーンを吹いているのに、音の高さによって違った三つのスピーカーから聞えたら、それはバケモノだ。この世に有り得ない音だ」
「そうですよね。それに複数の音源があると必ず、位相のズレや相性の不一致、相互干渉の悪影響が出てきます。マルチウエイ動作にしてもこの弊害から逃れることは出来ません。下手にネットワークで三ウエイにすれば、音の信号が最後の段階でコンデンサーやコイルを通過することになり、フルレンジ一個で鳴らすよりもはるかに音質は落ちてしまいます」
 二人とも思案顔になった。
「それでも社長さんが希望しているように三ウエイにするとすれば・・・」
 しばらくして桜井が口を開いた。
「300Bシングルでフルレンジを鳴らして、低音は、六十ヘルツ以下位をスーパーウーハー的に300Bパラシングルで補い、高音は非常に高い音、例えば六キロヘルツ以上位をコンデンサー一本で取り出してツイーターに入れれば、フルレンジ中心の音で、それほど音質的には落ちないと思います」
 桜井は頭の中で計算をしながら言っているようだった。
「そうか、そうすればフルレンジの良さはそのまま残して、低音と高温を補うことになるんだな。よし、その方式でスピーカーを作ろう」
 一道はいつも桜井の企画構想には全幅の信頼を寄せている。話が決まるとすぐに、二人はユニットを選んび始める。ウーハーは可もなく不可もなくといった大きさの三十センチにした。フルレンジは音域の広い十六センチのものにし、ツイーターはドーム型のものに決める。
 スピーカーボックスは長方体の標準的な形にするが、下に三分の二と上に三分の一の密閉ボックスに内部を仕切っておく。下側にはウーハーを取り付けて、上側にはフルレンジとツイーターを取り付けるようにする。容量は三十センチのウーハーが駆動しやすいように大きめにすることにする。
 大筋が決まると早速、簡単な見取り図を手書きで書く。そして、松次郎にファクスで送る。松次郎はすでにスピーカーボックスの製造には精通していたので、詳しい設計図などは全く必要なかった。
 続いて二人はアンプの形式を考えた。
「やはり、2A3電蓄のようにアナログプレーヤーは付けておこう」
「そうすると始めにフォノアンプを付けて、その後にアッテネーターを置いてシングルアンプに入れましょう。同時にローパスフィルターを通してパラシングルにも入れます。ローパスフィルターは双三極管一本で簡単に作れます。ここにもアッテネーターを付けて低音だけの音量調節が出来るようにしておきましょう。音質調整をすること自体が原音を崩すことになりますが、このコンポの場合、ウーハーの音量調節をできるようにしていなければ、使い勝手が悪いでしょう」
 桜井の頭の中にはいつもすぐに回路が浮かび上がるようだ。
「かなり大型のアンプになりそうだな。一つのシャーシーにするのは重量や放熱のことを考えると無理のような気がする。一つのシングルとパラシングルを同じシャシーに組み立てて、モノラルアンプ二台に分けよう。そうすれば上下二段に重ねると、それほどかさばらない」
 一道もアンプの形状を頭の中に描いていた。
 次に中央のキャビネットとアンプケースの形を考えた。アンプの外見としてはこれまでの《望郷》と同じく、シャーシーの前に真空管を一列に並べ、アンプケースの前面を耐熱ガラスにして真空管が見られるようにする。ただ、フォノアンプとローパスフィルタ用の真空管は配線上の便宜と雑音防止のためシャーシの後ろに取り付ける。それから、二つのアンプは共に発熱が激しく、キャビネットの中で二段に重ねると高温になり過ぎそうだったので、静音設計の冷却ファンを取り付けることにする。
 これらのことを考えてキャビネットの形を決めた。一番上にはアナログプレーヤーを置き、その下にチューナとCDプレーヤーを一列で横に並べる。さらにその下にオプションにするMDデッキ、カセットデッキが横一列に並べられるようなスペースを作る。そして最下段にアンプ二台を縦に重ねる。横幅は放熱のことを考えて、余裕のあるものにし、高さはスピーカーと同じになるようにする。
一道はまた、手書きでキャビネットの形状を書く。そして松次郎のところへファクスした。
 二人はマルチアンプの製作に没頭した。物作りの充実感が体中に満ちるてくるような期間だった。
 二週間ほどして、松次郎からスピーカーボックス、センターキャビネット、二個のアンプのケースがまとめて工場に届いた。スピーカーボックスはかなりの重量で、二人で工場の部屋の中へ移動させなければならなかった。それぞれの梱包を解いてみると、松次郎の木工技術はさらに磨きがかかったような出来栄えで、どれも高級な嫁入り家具のようにさえみえた。二人は心を弾ませながら、スピーカーのユニットを取り付けたり、アンプやプレーヤなどをケースに収めたりして完成させていった。
 完成した時は工場の静まりかえった深夜になった。最初の音出しにはやはり、例の森昌子の懐メロアナログレコードにする。神妙な顔をして一道が無骨な指からピックアップをレコード面に下ろした。
音が出てきた瞬間に、二人とも疲れが吹っ飛んだ。高音から低音まで、すべての音階にわたって明瞭にそれぞれの音の主張が表現されている。また、すべての楽器や歌声が隠れることなく広がる。同じレコードのなかにいかに多くの音源が記録されていたのかということに驚かされる。一部の音が強調されたり、弱められたりせずに自然な調和で響いてくる。高音はツイーターの音圧が強調されずに、フルレンジとうまくつながり、違和感を感じさせない。フルレンジは十六センチあるので音の広がりが十分に確保され、奥行きのある豊かな響きになっている。ウーハーは、予想以上のリアリティーのある音に仕上がっている。この音を聞けば「豊かな重低音が出る」などと宣伝される機器の低音が歪みだらけの雑音であることがはっきりと分かる。いくら音量を上げても通常、低音が増強された時に感じられる耳障りな一部の周波数のブーミーな音は全く出てこない。ベースギターを強く弾くか、弱く弾くかという楽器そのものの音量の強弱と同じものだ。
 十七歳の森昌子がまさに目の前に蘇ってきたように感じる。
「これなら誰が聞いても良い音だと感心するよ。音に興味のない人間が聞いたとしても感動するに違いない」
 一道はこの上ない満足そうな顔である。
「そうですねえ、予想した以上の、はるかにいい音質になりましたねぇ。高中低のスピーカーのつながりが何の不自然さもないですねぇ。これほど違和感がなくなるとは思いませんでした。この音は、どこかで聞いたことのある既製品の音ではないです。かといって昔の音でもないです。自然の生の音に近いものです。原音に近いということは、古いとか新しいとかという評価基準を超越したものです。それは、この音と他の高級オーディオとを聞き比べれば一目瞭然になるでしょう。大成功ですね」
 桜井も非常にうれしそうだった。
 翌日、神津と米沢がやって来てしばらく、出来たてのコンポの音を聞いていた。
「これは素晴らしい・・・今まで聞いたオーディオの中で最も良い音がする」
 二人とも感動した面持ちになった。本来、この二人は音がいいかどうかはそれによって金がどれだけ儲けられるかということと繋がっている。音そのものの評価ではないはずだった。その証拠に、二人は日ごろは自社で製造している《望郷》シリーズをほとんど使っていない。テレビばかり見ている。音楽鑑賞が好きではないのだ。ところが、今回のコンポから出てくる音楽はいつまでも聴き続けていたいような様子だった。
「早速、製品化しよう。一道君、すぐに製造ラインの設計をしておくれ。製品名は《望郷Ⅴ》だ」
「社長、これは売れますよ。うれしい悲鳴が上がるほど忙しくなるでしょう」
 神津と米沢は動物が獲物でも取ったような顔をして工場の方へ降りて行った。
 一道と桜井は《望郷Ⅴ》の製造工程を考えたが、現在の工場に製造ラインを増設するのは場所的に無理だった。この事を神津に言うと、神津はすぐに工場から少し離れたところにある、これも線路沿いの建物だったが廃品回収の工場を買い取った。広さは、今の工場の二倍近くもある。この工場の経営者と神津は昔から付き合いがある。一道も時々話を交わしていた。
「こんなに世の中の景気が良くなってきているのに、古紙の値段はどんどんと下がっていて、ほとんどタダ同然。再生紙を製造するよりも海外から安い原料を仕入れた方が安く出来るのだから、これでは商売にならない」
 その経営者はよくこんなことを言っていた。それに、周辺の土地の値上がりは激しいもので、不動産を持っているだけで財産が増えていくような状況だったが、さすがに線路のすぐそばの土地は買い手もなかったし、値もあまり上がらなかった。だから神津からの建物の購入の話にはすぐに乗ってきたのだった。
 購入した工場の建物はそのままにして、内部を整備して《望郷Ⅴ》の製造ラインの設置を考えた。神津と米沢が急がせるので、一道と桜井は前の《望郷Ⅳ》の時と同じく深夜まで仕事を続けなければならなかった。しかし、いつものことだったが、一道と桜井にとっては楽しいものだった。
 三ヵ月ほどでラインが完成した。試作品の製造をしてみると、全く問題はなかった。試作品がそのまま製品として売り出すことができるものになった。米沢はこの時とばかりに、さまざまな方面に誇大広告と思えるような宣伝を大量に打った。
「大きい、重い、高い。こんな商品が今時、売れるわけがないだろう。家電の量販店に行けば、安くて軽くて小型で、多機能で、その上数値的には《望郷Ⅴ》よりはるかに性能の良いミニコンポがいっぱいあるじゃないか。こんなもの売れるわけがない」
「そうですねえ。価格設定が、非常識なほど高額になっています。いくら品物が良くても音楽を聴くのに、これだけのお金を使う人はそれほどいないのではないかと思えます」
 一道も桜井も《望郷Ⅴ》は自分たちが開発した自信作ではあったが、一般受けする商品にはならないと思えた。
 ところがしばらくすると、またも米沢の宣伝戦略が功を奏したのだろうか、一道と桜井の予想に大きく反して、多量の注文が連続して入ってくるようになった。それは一本の製造ラインでは間に合わないほどになり、二本目のラインの準備を始めなければならなかった。
「こんな商品が売れるなんて、世の中がおかしくなっているぞ」
「そうですねえ、こんな高額なお金を音楽を聴くために出費するというのはどんな人なのでしょうねえ」
 二人は《望郷Ⅴ》の売れ行きに、世の中の動きが分からなくなったのを感じた。

                        (四十二) 

「この日は工場を休みにするので、男はスーツにネクタイを締めてきてくださいよ」
 神津が一道と桜井に案内状を渡しながら言った。中を見ると〝カミツ工業株式会社、社長交代式〟と見出しに書いてある。会場は高級ホテルになっている。
「俺の結婚式を利用して、毅君を次期社長として紹介してから何年経っているんだ!どうせその間《望郷》が売れすぎて金儲けに忙しすぎて交代する暇がなかったのだろう。今は金を儲けすぎて、腐るほど貯まったから社長の座を譲るんだろう」
 一道は白けた雰囲気になった。
 当日は工場は稼働していなかったが、出勤日ということで無理矢理、全従業員がホテルに集められた。会場は一般的な結婚式の三倍もあろうかと思える広さの部屋だった。前の方に座っているのは大人数の神津の親せき縁者だった。司会はプロに頼んでいた。会合は二部形式になっていて、一部では経過報告、新社長あいさつ、業者祝辞、従業員代表祝辞などがだらだらと続いた。最後に、神津が立った。彼は感動した面持ちで、これまで会社を大きくしてきた自慢話を長々とした後、最後に、
「・・・たとえ業績が上がらなかったといたしましても、あと五十年くらいは操業が続けられるだけの経済的基盤をつくり上げました。どうか信頼と安心のお取引を今後とも息子である新社長に対しまして引き続きよろしくお願い申し上げる次第です。今後私は、熱海に購入しております温泉付きの別荘で、毎日、ゴルフ三昧でおいしいものを食べ、のんびりと余生を楽しむ所存でございます」と満足そうに話を終えた。会場からは義理のような拍手がした。
 会合の雰囲気は、業者は取引上の付き合いから参加しており、従業員は仕事だから仕方がなく来ているので、盛り上がっているのは神津一族だけだった。社員にとっては、同族会社なので社長が親から息子に変わろうが大差はないと思え、それほど関心のあることでもない。いわば同族の喜びを増幅するために取引関係者や従業員が利用されているようなものだった。多くの社員が慣れない会合や会場で、気疲れがして嫌気がさしていた。
 いい加減うんざりしたところでやっと一部が終わって二部になり、食事が出てきた。食事の時間の間、室内管弦楽団が出てきて生の演奏をBGMがわりにやった。さらにその後はプロの歌手や芸人が出て来て、慣れた歌や演技を見せていた。そして、終わりには一人ひとりに豪華な記念品が配布された。
「こんな無駄金を使う余裕があるのならもっと従業員の給料を増やしてやれよ」
 一道は苦々しそうにつぶやきながらホテルを出た。
 社長交代式を終えてから、前社長の神津夫婦はあいさつでも言っていたように、すぐに熱海の別荘に移り住んだ。神津は工場近辺の不動産以外にも、熱海に限らず全国のリゾート地に別荘や土地を買いあさっていた。それらは年々値上がりを続けている。あいさつで、不況でも五十年間会社が維持できる、と言ったのは大げさな表現でもなかった。
 毅が新社長になって最初に工場に来た時には、一道に向かっていきなり、
「私のことを毅君と呼ぶのはやめろ。従業員の手前もあるだろう。これからは社長さんと呼べ」と不機嫌そうに言い放った。そのくせ一道を呼ぶ時には年上にもかかわらず、父親が呼んでいた「一道君」を引き継いでいた。
 それからも時々、工場に顔を出すと必ず一道のいる部屋に立ち寄った。そしてうろうろと何かを探すような様子だった。一道たちが新しい製品を開発していないかどうかを調べているのだった。そういう時でも一道の方から毅に話し掛けることはなかった。一道は「社長さん」と言って話をしなければならないのを極端に嫌っていた。だから、毅はひと言もしゃべらずにまた、工場へ降りて行くことが多かった。
「小さいころから神経質なガキだった。買いたいものが手に入らないと、どこであろうが座り込んで、ギャーギャーと両手を振り回してわめいていた。わがままな男だ。あんなやつのところへ嫁に来る女などいない。一生涯、ひとり暮らしだろう」
 一道は毅が部屋を出るとすぐにわざわざ大きな声で言った。
 日頃は、毅はあまり工場の方には顔を出さなかった。米沢も同じだった。理由は、工場はうるさいし、暑いし、寒いし、むさ苦しいということだった。二人は工場よりも快適な本社ビルの方に居座った。

           (四十三)

 昼食時間になった。一道の弁当箱は蓋がうまく閉まらなくて汁がこぼれたりするので、新聞の折り込み広告などで二、三重に包んでいた。彼はその広告のチラシを開いて桜井と一緒に食べ始めた。そして何気なく皺になったはチラシに目がいった。それは大型カー用品販売店のバーゲンの宣伝だった。その中で彼の目が吸いつけられたものがあった。バッテリーの値段だった。
「普通乗用車用のバッテリーが二千九百八十円か、これは安いなぁ」
 一道は自分の車は所有していなかったので、自動車につけるためにバッテリーの広告を見たのではない。それ以外の利用の方法が頭の中に浮かんできていた。
「十個買っても三万円、二十個買って六万円。二十五個買って三百ボルトか」
「そんなにバッテリーを買ってどうするんですか」
桜井は食事をしながら不思議そうに一道の顔を見た。
「いやいや、一度やってみたかったことがあるんだ」
「何をしたいのですか」
「真空管アンプの電源をすべてバッテリーで補給すれば、真空管の本来の音がするのではないかと思うんだ。やってみたくても、バッテリーがあまりにも高くて、できなかったが、一個三千円くらいであれば、やってみようかという気になった」
 一道の食事の箸が止まる。
「それはまた、楽しみが増えるような話ですね」
 桜井も興味をそそられる。
「ヨーシ、食事が済んだらバッテリーを買いに行こう」
 今度は忙しく箸を動かせて食事を終えた。一道は自分から話しかけることはほとんどない毅に、「試作機を作るので十万円出せ」と言って、不満そうな毅から金を出させた。それからチラシのカー用品店に行ってバッテリーを三十個買った。会社のライトバンに積むとその重さに車体がかなり沈んだ。
 バッテリーは工場の駐車場から一道の部屋まで何回にも分けて汗だくになって二人で運び込んだ。
「とりあえず、B電圧が少し低めでも十分に働いてくれる2A3で鳴らしてみよう」
 一道はこう言って、2A3アンプの配線を外部電池に接続できるようにした。
「2A3と6SN7のカソードについている自己バイアス用の抵抗もコンデンサーも必要ありません。第一グリッドの方にバッテリーから負のバイアス電圧を取れるようにして接続してやれば不要です。そして6SN7のプレート電圧も2A3のプレート電源からバッテリー三個ほど手前の端子から取ってやればちょうどいい電圧になります」
 桜井はおもしろそうに言う。
「ホーッ、こうすると、一つの2A3アンプには一つコンデンサーしか使わないことになるなあ。どんな音がするか楽しみだ」
 一道は声を弾ませる。
「最後にヒーター電源をどうするかだが、バッテリーは12Vなので、家庭用電気コンロのニクロム線でも使って電圧降下させようか。少々電気の無駄遣いにはなるが・・・」
 一道は少し困った顔になった。
「鉛蓄電池は構造上、一つのセルが二ボルト少しの電圧になります。ですから、自動車用は十二ボルトですので六個のセルを直列につないでいます。バッテリーの上部のセルとセルの間の接続部分にドリルで何カ所か穴を開ければ、直列につないだ結線部分を切り離すことができます。2A3の消費電力からすれば、バッテリーひとつの六個のセルを並列につないでやれば、十分な時間、灯り続けます。6SN7の六・三ボルトはバッテリーのセルを三個ずつに分ければちょうどいい電圧になりますし、消費電力はわずかですので、ひとつのバッテリーで二個分を灯しても余裕です」
「なるほどなあ、うまく電圧が合う。やはり、真空管は本来、鉛蓄電池で利用することを考えていたのだな」
 一道はいつも壁に当たると、その壁をいとも簡単に桜井が乗り越えさせてくれるのを感じていた。
 一道は早速一つのバッテリーにドリルで穴を開けようとした。
「三津田さん、ちょっと待ってください。バッテリー液は希硫酸ですので危険です。先に全部、金属ではない容器に電解液を抜いてから作業して下さい。金属に触れさせると反応して水素を発生します。そして皮膚についたりしたら、その時は何ともないかもしれませんが、水分が蒸発しますと濃度が増しますので、皮膚と反応して火傷と同じようなりますからすぐに十分に水で洗ってください」
 桜井が心配そうに言った。
「桜井君は、何でもよく知っているなあ。君みたいな優秀な人材がうちのような会社にいてはいけない。もっと有名な大企業に行って出世をした方がいいぞ」
 一道は桜井の優秀さを知るたびに嬉しさを感じた。
バッテリーは桜井が言う通りセルとセルを直列に接続している辺りに穴を開けると簡単に切断が出来てリード線を取り付けることができた。二ボルト用と六ボルト用のバッテリーの加工は順調にできた。バイアス電源には微妙な電圧の調整が必要だったので、アッテネーターを取り付けた。
 いつものことだったが二人は、工場の就業時間が終わってからも製作を続けた。工場に人がいなくなり静かになってからの方が作業に集中できた。
夕食時になって、和美が明美を連れて食事を持って来た。皆で一緒に食事をしてから、和美は工場の清掃を始めた。その間、一道は明美の相手をおもしろそうにしていた。明美は、早くも、危なっかしく歩き回るし、片言でよくしゃべる。それは両親の無口さを取り返すためのようにさえ思える。その間にも桜井は、手際よく配線を進めていく。
「安全のために、バッテリー一個ずつに五アンペアのヒューズを取り付けて直列に接続しておきます」
 桜井の作業は確実で早い。和美が清掃を終えた時には、B電源、ヒーター電源、バイアス電源と完成していた。和美は明美の手を引いて、
「今夜は遅くなりそうねえ」と言ってマンションへ帰って行った。
「ついでに、CDプレーヤーの電源も電源トランスを外して、バッテリーから直接、接続しておきます。こうすると、百ボルトの電源からは完全に分離させることができます。電灯線を通して進入してくる雑音をシャットアウトできます」
 桜井の手先はますます器用に動いた。
すべて完了したのは、終電車が通過して、その後の線路点検用の車両が通過した後だった。これ以降は線路を通過するものは何も無い。あたりは静まって時々、遠くで車のエンジンをふかす音が耳に入ってくるくらいだ。
「さあ、完成だな。スピーカーとCDプレーヤーをつないで音出しをしようか」
「そうですねえ。ちょうど周囲も静かですし、いいですねぇ」
 二人はこういう時の、いつもの期待と緊張のこもった表情になっていた。
電源のスイッチは三電源にそれぞれつけておいた。まずヒーターのスイッチを入れる。百ボルトの電源トランスを使うよりも早く力強く赤熱するように見える。そしてC電源、B電源とスイッチを入れた。配線は単純なものだったので特にテスターを使って電圧などの測定はしなかった。二人はアンプやバッテリーに鋭い目を向けて異常はないかを確認する。全く異常は起こらない。
 懐メロのCDをプレーヤーに入れる。突然、イントロが部屋中に鳴り響く。その音を聞いた瞬間に、二人の顔が一瞬驚きの表情になり、それから感激の面持ちになった。
「ヤッターッ!大成功だ」
 二人は思わず握手を交わす。バッテリー式2A3シングルアンプの音は電源トランス式に比べて、これが同じアンプなのか、と思えるほど全く別次元の音質だった。
「音が良いのか悪いのかを判断する時、僕たちは無意識に、これまでに聞いていた音と比較しながら判断をしています。もし、ただひとつだけのオーディオ機器の音しか聴かなかったとすれば、音の良し悪しを判断することはできません。音が良いか悪いかはそれを判断する人が以前にどれだけの音を聞いてきたかによって判断が変わってきます。目の前でさまざまな機器の音を聴き比べるのであれば判断は正確になってきますが、これまで聞いた機器を全部、並べるわけにはいきませんので、当然、過去に聞いた音については記憶をもとに判断することになります。その記憶の感覚は、さまざまな、その人自身の思いこみなども含めて、条件によって変化します。そういう不安定要素のある過去の感覚と現在の音とを比較するわけですから本人も気がつかないうちに判断を誤る場合が多いのです」
 桜井が感激の面持ちで勢いよく話す。
「この2A3バッテリー式の音はこういった音の判断原理を寄せ付けないものです。原音そのものに近いですから比較のしようがありません。この音が悪いというのであれば、それは録音が悪いと言えます。入力された音の信号に対して、まったく色付けされない、そのままの音です。往々にして音の良し悪しの判断は、アンプによって色付けされた、その色付けの具合いに対して良い悪いと感じている場合が多いのですが、この2A3の音はその判断基準を超越したものです。この音を聞けば、多くの音の良いといわれるアンプから出てくる音がいかに色付されているかがはっきりと分かります。例えて言いますと、これまでのアンプは、絵を描くのに画布自体に色がついているものを使って描いているようなものです。それ対して、この2A3は、真っ白なキャンパスの上に絵を描いているのに例えられます。過去に聞いた音と比較ができるのは、キャンバスの色合いであって、真っ白なキャンバスに対しては比較のしようがないのです。この音こそ音質評価の機軸にすべきです」
 桜井の長い持論に一道はめずらしく眠むそうにならなかった。2A3の音が彼の心に染み入っているようだった。
 二人は朝方までさまざまな音楽を聞いた。曲が変わるごとに、新鮮な感動と驚きを与えてくれる音質だった。二人は永遠に聞き続けても飽きることがないように感じていた。

                       (四十四)

 桜井が古いギターを持って工場の方に降りようとしていた。一道はそれを何気なく見ていた。
「そのギターは、捨てるのかい?」
「はい、もう長年使って古くなったので捨てます。響きの良い少し高価なギターを新しくい買いましたから」
 桜井はギターを振りながら下りて行こうとする。
「もったいないなあ。俺におくれよ」
「どうぞ、捨てるものですから」
 一道は桜井からギターを受けとると弦を弾いたり、ボディーをたたいたりしていた。
「ボディーはなかなかいい響きをしているなあ。これは、ひょっとしたら面白いかもしれない」
 一道は何かを考えている様子だった。
「何かに使えますか?」
 桜井が不思議そうに尋ねる。こういう一道の知恵のをひらめきには桜井は今までに何度も驚かされ、感服している。
「これをスピーカーボックスにしたらどうだろうか。しかも、スピーカーユニットをボディーの中に向けて取りつけたらどんな音がするだろう?ひょっとしたら、ギターの生の音に近い音がするのではないかと思うが・・・」
「ハァー、それは予想がつきませんねぇ。でも、弦の代わりにスピーカーのコーンを動かすわけですから、理屈的にはこのボディーの中で共鳴する音は実際に弦を弾いて出てくる音とそれほど大きな違いはないような気がします。ただ、解放されたスピーカーの背面の音波がどのような干渉するか、これはやってみなけれは分かりません」
 桜井は首を傾けながら言う。
「それじゃ、やってみようか」
 一道は早速ギターの背の部分の中央あたりに十三センチフルレンジ用の穴を開ける。そして気密がしっかりと保たれるようにスピーカーを取り付ける。それを2A3バッテリーアンプに接続する。
「ギターだからギターの曲を聴いてみようか。そうだ『湯の町エレジー』の始ののところはギターだけの演奏だったなぁ。あれを聞いてみよう」
 一道は懐メロCDの中から『湯の町エレジー』の入っているものを探してプレーヤーにかける。すぐに哀調を帯びたギターの音色が指向性を感じさせない広がりで部屋一面に響く。工場は操業中で騒音は連続して聞こえているが、ギターからは明瞭な輪郭の音が出て周囲の雑音が気にならないほどだ。
「これは、また、すごいことになったぞ。ギターそのものの音じゃないか」
 一道は分厚い手のひらでひざを打ち鳴らしながら大声を出した。
「そうですねえ。まともにギターの音ですねえ。スピーカーから出ているとは思えません。考えれば、現にギターから出ているわけですから、ギターの音に間違いはありません」
 二人はさまざまなジャンルの音楽をかけて聞いてみる。それでわかったのは、ギターの音はよく響いて大きく聞こえるが、それ以外の人間の声や楽器は音が隠れ気味になることだった。音源にスピーカーボックスになっている楽器と同じ種類のものがあるとその楽器の音が大きく共鳴するのだった。考えればを当然のことだったが、実際に聞いてみるとギターとそれ以外の楽器の音がかなりの音量差になるのに驚いた。
「これは面白いことになったぞ」
 一道は目を輝かせる。
「それでは、ギターだけの曲を聴いてみましょうか。『アルハンブラの思い出』というのがあります。まず僕が下手ですけれども始めの部分だけ実際にギターを弾いてみます。その後、CDを聴いてましょう」
 こう言って桜井はスピーカーユニットをつけたままのギターで初めの部分を弾いた。次にCDで同じ曲をかけた。音量は実際の演奏と同じ程度にした。結果は、生の演奏とほとんど変わらない。
「ウーム!」
 二人は唸った。
 その時、毅が階段をドタドタと上がって部屋の中に入ってきて、怒鳴った。
「就業時間中に、テレビを見たりギターを弾いて遊ぶなと親父から言われていただろう・・・」
 毅は何か続けて言おうとしていたが、実際にギターを弾いているのではなくて、スピーカーをつけたギターから音が出ているのが分かり、一瞬おどろいて立ちすくんだ。それから曲の最後まで聞いて、
「オーッ!これは素晴らしい。下で聴いていたら実際にギターを弾いているものと思った」
 毅は感嘆の声を出した。
「それはそうじゃ。本物のギターから音が出ているんだから本物の音にちがいないだろう」
 一道はおもしろそうに言う。毅はいつもの不快な顔もせずに腕組みをしてしきりに何かを考えている。
「それじゃ、さまざまな楽器にスピーカーをつけて、それぞれの楽器の音を出せば、ほとんど生の音に近い音が出るということか」
「そうですねえ。いろいろな楽器が一緒になって演奏されたものを録音したCDからひとつの音源の波形を電気的に抽出するというのは、非常に難しいと思いますが、例えば特定の楽器にその楽器の混合された音波を共鳴箇所に流せば、その楽器に最もよく共鳴する音が強調されて出てくることは間違いありません。ちょうど、ロー・ハイ・パスフィルターがあるように、物理的な波形パスフィルターになります」
 桜井は丁寧に答える。聞いていた毅の顔が金儲けのネタを見つけたような表情になった。
「それじゃあ、一道君、今から社長命令を出すよ。できるだけ多くの楽器を購入して、それぞれにスピーカーをつけて、まるで目の前で生の演奏をしているような音を出しておくれ。ステージは、本社の三階が物置になっているから、あそこを改装して、舞台とホールを造るよ。そこに設置しておくれ」
 毅は珍しく元気な声を出す。途中から米沢も来ていたが、彼が身を乗り出した。
「そして、その、日本初の試聴室を全国に宣伝して、人を集めましょう。そこに、《望郷》シリーズを展示して、いかに優れたラジオやアンプであるかを納得させましょう。この企画は、マスコミも取り上げてくれるでしょうし、売り上げを飛躍的に伸ばすことができますよ。いやいや、国内にとどまらないでしょう。世界で初めての試みに違いない、この楽器スピーカーは世界中の話題になって世界中で《望郷》が売れるようになるでしょう。プロジェクトに名前をつけましょう・・・そうだ、『原音再生プロジェクト、世界初楽器スピーカーシステムの驚異』と命名しませんか?」
 米沢は目をキョトキョトさせている。
「そんな調子のいいことを言っているが、これには金がずいぶんかかるぞ。楽器を買ったり、木管楽器はスピーカーとの接続部分にはそれぞれに合った形のものを作らなけれはいけない。たかがバッテリーを買う十万円を出すのにさえ、ブツクサ言ったくせに、本当に金を出す気があるのか?」
 一道はわざと白けた雰囲気をつくって言った。
「いやいや、大丈夫だ。生演奏のように聞こえるのであれば、いくらでも金を出すから、最もいいものを作ってくれ。あの時は一道君の不遜な態度が気に食わなかっただけだからさあ」
 毅の声は弾んできていた。

            (四十五)

「こんな訳の分からない事があっていいのかしら。世の中、何かおかしくなっている。ねえ、あんた」
 和美が銀行から送られて来たマンションのローンの明細書を見ながらあきれた顔をしている。
「ナーニ、ナーニ、なにがおかしいの?」
 言葉をよく覚えてきた明美がうれしそうに寄って来て和美の持っている明細書を取ってクシャクシャにする。それを一道が取り上げて見る。かなり前からだったが明細書の右端の欄に「未払い利息」という項目があって、ローンを支払うたびに増えていた。和美は決められた金額を毎月払い込んでいるのに残高が増えていくのが納得がいかない様子だった。夫婦にすれば残高は気が遠くなるほどの高額だったが、月々少しずつでも元金に払い込まれて減っていけば、いつかは払い終わるという慰めになった。ところが金利が上がり過ぎて、月々のローンの支払い額、全額を利息に充てたとしてもなお不足になって未払い利息として増えてくるのだった。月々支払っているのに借金が減るどころか果てしなく増えてゆく。
「確かに、世の中、何か間違っている。普通じゃない。いつかはつぶれてしまうに違いない」
 一道は腹立たしくなった。一道が購入したマンションは神津が言ったように確かに急速に値上がりをしていった。現在の売り買いされている値段は、すでに購入金額の一・五倍弱になり、一道夫婦にすればそんな高額な財産を自分たちが持っているという実感は湧かなかった。子供の養育費が増えて、二人の稼ぎでは生活できなくなるようであれば売却を考えたが《望郷》シリーズの順調な売り上げのおかげで、カミツ工業としては会社始まって以来の大幅な増益が続いていた。さらにその利益のほとんどを不動産に注ぎ込んでいたので、会社の資産は天井知らずに伸びていた。
 そのおかげで一道夫婦の給料も値上げをしてくれた。子供の養育費や生活費の上にローンを払っても貯蓄ができるようになっていた。しかし、二人には支払いをすればするほど借金が増えるということが金融機関の仕組みであるとしても納得することができなかった。
 一道は世の中の状況に漠然と腹を立てながらも、日々の仕事はまるで趣味のように楽しくやっていた。
 スピーカーで直接、本物の楽器を鳴らす作業は、工場の部屋でひとつひとつの楽器にスピーカーを取り付け、納得のいく音が出るまで調整してから、本社の三階へ運んだ。その展示室兼試聴室はフロアの広さは百五十畳位で、それに五十センチほどの高さの舞台が三十畳ほどあって試聴室というより小さなホールのようだった。
 バッテリーは舞台の下の空間に置いた。今度はバーゲンのものではなくて、もっと容量の大きい高額なバッテリーを大量に並べた。水素ガスがたまる可能性があるので、換気用のファンも取り付けた。
 弦楽器へのスピーカーの取り付けは、比較的簡単だった。それぞれの楽器の音階にあったスピーカーユニットを選んで取り付けた。鳴らすアンプは2A3が最も自然な楽器の音を出した。最も大きいウッドベースには三十センチウーハーを取り付けて、300Bパラシングルで鳴らした。
 木管楽器や金管楽器への取り付けは試行錯誤の連続だった。結果的には一つひとつの楽器に合わせてスピーカーと接続する接合部を製作した。金管楽器には鋳物工場に頼んでぴったりと合うものを作ってもらった。木管楽器には松次郎に頼んで、一本の木材をくりぬいて作ったもらった。
 弦楽器の場合はひとつの楽器で、その楽器の持っている高音から低音までの音を出すことができたが、管楽器の場合は、音階の違いにしたがって共鳴部分も変化するので、どうしてもひとつの楽器では固定された共鳴部分の音階は強調されるが、それ以外の音階は弱められる傾向が強い。それで管楽器については同じ楽器を三個使用して、それぞれ高中低の音を出す共鳴状態に固定して同時に音を出すことにした。管楽器はすべて300Bシングルアンプで鳴らした。そうすると三個の楽器の高中低の音のつながりが予想した以上にうまく鳴り、管楽器の力強さと柔らかさが見事に表現された。300Bシングルの音質は管楽器の音を出すとき、その真価が発揮されるように思えた。
 さらに苦労したのは人間の声だった。色々と長時間をかけて実験してみたが結局、人間の声帯から喉や口腔の状態を調べ、同じような形の空間部分を松次郎に頼んで木材で作ってもらった。さすがに一つの木材から作るのは難しいので縦に割った状態で左右を別個に作ってから張り合わせた。
 また、人間の声の場合は、子供、大人、男性、女性と音階のバリエーションが多いため、五種類の共鳴部分を作ってもらう。人間の声のアンプには6ZP1パラシングルが音質的にふさわしいと思えていたので、それぞれ個別に五個のアンプをつないで鳴らした。これも大成功だった。子供たちの歌う童謡から男性演歌歌手の響きまで、違和感なく口の部分から溢れるように音が広がってきた。
 さらに、ドラムや太鼓にも一方の震動部分の中央を切り取ってユニットを取り付けた。またパーカッションには、ツイーターの振動部分に接触する直前くらいまで近づけて共振するようにして取り付けた。
 楽器の種類の多いこともあり、これらの作業には非常に時間がかかった。さらにそれぞれのアンプにロー、ハイパスフィルターを周波数を設定しながら追加した。一道と桜井は寝食を忘れたように製作を続けていたが、一年たっても完成しなかった。それでもどうにか少人数の演奏の音楽には対応できるまでにはなった。
「これでピアノの無いジャズくらいは、すべて実際の演奏と同じ楽器で鳴らせるだろう。一度、接続して実際に鳴らしてみるか」
 作業が深夜まで続いていた時、一道が両手を挙げて背伸びしながら言った。
「それじゃ、ジャズのCDの中で準備の出来た楽器だけで演奏しているものを捜してきます」
 桜井は一度、工場の自分の部屋に行き、CDを持ってすぐに帰って来た。二人はそのジャズ演奏の楽器に合うように楽器スピーカーやアンプをセッティングする。準備が完了した時は、朝方に近かった。
「さあ、いよいよ、鳴らしてみるか!」
 二人は今までの新作のアンプの鳴らし初めでも、感じたことのないほど大きな緊張感に包まれた。そして動悸がするのさえ感じられる。一道は無骨な手を震わせながらCDをプレーヤーに入れてプレイのスイッチを押した。
 静まり返っただだっ広い空間に突然、力強いジャズの演奏が鳴り響く。あまりものリアルさに二人ともしばらくは声も出せない。体も動かせない。こんな所でこんな時間に生の演奏が始まるという、想像を超えた信じられない音場になる。
「鳥肌以外の何物でもない!」
 しばらくしてから一道は実際に鳥肌が立った太い腕をさすりながら緊張した顔で言った。
「奇跡に近いです。今、目の前に有名なアーチストがやってきて、手を動かし、足を動かし、口を動かして演奏しているのが見えるようです。たった二人のために・・・ひっとすると、僕らは世界で初めての実験を成功させたのではないでしょうか」
 桜井は信じられないことが眼前で行われているのを見ているような顏をしている。そして、膝をガクガクと震わせている。
 曲が終わると二人は、演奏会場ででもあるかのように激しい拍手を送った。

                         (四十六)

 一道と桜井が『楽器スピーカーシステム』の完成に夢中になって日を過ごしているうちに、年を追うごとにというより月を追うごとにと言った方が適切なくらい、世の中の経済が音を立てて急速に崩れていった。景気後退というのは、徐々に悪化して知らぬ間に進み、気がついてみると景気が悪くなっていた、というもののように思われがちだったが、今回は見る見るうちに崖から転落するように落ちていった。
 米沢の必死の宣伝活動が続いていたにもかかわらず、あれほど売れていた《望郷》シリーズの注文数は急激に減っていった。会社の利益は未だかつてない急カーブで減益になった。また、一道のマンションのポストに入っていた「売り物件求む」のチラシが以前は迷惑するほど入っていたが、ほとんど入らなくなってきた。それと時期を同じくして、売りに出るマンションの値段が、信じられないほどの加速度を以て下落していった。
神津や米沢が、世の中はいったいどうなっているんだ、と思っているうちに、カミツ工業も容赦なく不況の滝つぼへと一直線に落ちていった。政治や経済などには全く無関心な一道でさえ、この異常事態に、
「やはり世の中が間違っていたんだ。大変なことになるぞ」と将来に不安を感じ始めていた。
 この不況への急降下の状態の中でも、『楽器スピーカーシステム』の製作は、一道と桜井で着実に進められた。
 作業の進行状態は完成まで八十パーセント程度のところまできていた。試聴室ホールのステージには、スピーカーを取り付けられた楽器とアンプがずらりと並び、壮観な景観になってきていた。次に取り掛かろうとしていた作業はピアノにスピーカーユニットを取り付けることだった。
 工場に来ていた毅に一道が声をかけた。
「グランドピアノを買ってくれ。できるだけ良い音のする奴を頼む」
 これを聞いた毅の顔が憎々しくゆがんだ。
「お前たちは一体何を考えているんだ。このままいったら、一年もしないうちに会社はつぶれてしまうんだぞ。これまでどれほど『原音再生プロジェクト』に金を注ぎこんできたと思ってるんだ。それなのに、会社がこういう苦しい時に何の役にも立たない。これまでは、金のことについては一切、なにも言わなかったが、もう、それどころではなくなった。こんな状態の時に、まだ金を出せというのか、お前らに会社をつぶされたようなものだ」
 毅は怒鳴り散らして工場を出ていった。毅の豹変ぶりに一道も桜井も驚きを通り越してあっけにとられていた。確かに最近の工場の在庫の増加を見ると不景気であるのは分かっていたが、カミツ工業がそれほど危機的状況にあるとは思わなかった。どうやら、工場自体の収益の悪化よりも手を広げていた不動産事業が壊滅的な打撃を受けているようだった。
一道と桜井にとっては、いくら資金が無くなったからといっても『楽器スピーカーシステム』の製作をこのまま途中で止める気には全くならない。
「会社が金を出さないと言うのであれば、俺が出してでも完成させる」
 一道の頑固さが顔に表れる。
「ええ、僕も出しますよ。歴史的な音響システムになるかも知れないのにここで止める訳にはいかないです」
 桜井も珍しく意志の強い声を出す。
 ピアノが使われている演奏は非常に多い。ピアノの原音はスピーカーでは再生しづらい性質を持っている。実際のピアノ音は波形が複雑なうえに、音波が放射される方向によって複雑に変化し、さらにそれが絡み合って聞こえてくる。録音しずらく再生しづらい楽器がピアノだ。オーディオ機器の良し悪しを簡単に調べようと思えばピアノ音を再生すれば判断しやすい。それだけに『楽器スピーカーシステム』から外す訳にはいかない楽器だった。
「それじゃ、中古のグランドピアノでも買おう」
 一道は電話帳で中古ピアノの業者を探して注文した。一週間ほどして傷だらけのピアノが視聴室に搬入されてきた。一道と桜井は、そのピアノを前に考えこんでしまった。スピーカーユニットを取り付ける位置を決めるのが意外に難しい。さらに、音階の幅が非常に広いので、ひとつのフルレンジスピーカーだけではカバーできなくて、複数つけざるを得ない。どこでもいいから適当に穴を開けて取り付けてみて、実際に音を出してからだめであればやりなおせばよい、という訳にはいかないだけに悩んだ。つける場所を決定する根拠になる判断基準が絞り切れなかったのだ。
「どこでもいいような気がするし、どこでもだめなような気もする」
 作業は何時ものように深夜になっていた。一道はいつまでもブツブツ言いながらが考えこんでいた。それからまたピアノのあちらこちらをのぞき込んだりし始めた。
その時だった。急に胸が痛くなる。我慢できず床にうずくまる。しばらく横になっていれば収まるかと思ったが、さらに胸が締め付けられるように痛く息苦しくなる。痛む部分が徐々に範囲を広げてくる。そして首から歯茎の方まで進んできて、歯全体がまるで浮き上がったような感じになってくる。やがて胸に何トンもある巨大な岩を載せられている様な苦痛に襲われてくる。今までに経験したことのない異常な痛みに一道はただごとではないと思った。
「桜井君、すまんが、和美を呼んでくれ。それから救急車も呼んでおくれ」
 一道は意識が朦朧としてくるように感じた。
 和美が来るのと救急車が到着するのとほぼ同じだった。一道はすぐに救急車に乗せられ、和美が付き添って病院へ搬送された。

                  (四十七)

救急車が走りだすと一道は気分の悪い横揺れや、寝たまま感じる加速減速の息苦しさに徐々に意識が遠くなるような気がした。その中で、胸の苦痛が一段とひどくなっていった。こんなに苦しいのなら死んだほうがマシだとさえ思えた。病院に着くとすぐに集中治療室に入れられた。
「九十パーセント以上の確立で急性心筋梗塞でしょう。急がないと厳しい状況です。すぐに循環器の医師を呼びます」
 宿直の医師は心臓のエコー検査をしながら言った。
一道は耐えられないような苦痛にさいなまれ、意識を失いそうになりながらも耳だけは良く聞こえた。彼にはそれが不思議に思えた。ふと、通夜の時、死者の枕元でその人の悪口を言ってはいけない、全て聴こえていて死後の世界まで持って行くことになるから、と言われた事を思い出した。
心筋梗塞という言葉を聞いた時、彼は信じられなかった。いや、信じたくなかった。しかし、大変なことになったという気持ちになった。同時に父親を思い出した。父親もこんな苦しい思いをして死んでいったのかと思い、いとおしさを感じた。また、親子の宿業のようなものも感じられた。
一道はやがて時間の観念がなくなっていった。それと目は開いてはいたのだろうが、目に写る映像が意識の中に入って来なかった。ただ、妙にはっきりと聞こえる言葉だけで自分の状況を判断していた。
 緊急手術をすることになった。心臓血管の外科の医師は宿直ではなかったが、すぐに自宅に連絡して出動要請された。その医師が車で病院に到着するまでの間も電話で様々な指示がなされて、その都度、一道の体に点滴のチューブなどが増えていった。どうやら手術のできる医師が到着次第、すぐに手術を開始できるようにしているようだった。
 一道は、ベッドの周辺で宿直の医師と車で移動中の医師との会話を聴きながら、自分の手術が一刻の猶予も許されないものなのだということは理解したが、なぜか、自分のことのように感じられなかった。
 手術担当の医師が来るまでに服を抜かされたり、点滴を打たれたりしているうちに、一道は徐々に意識が薄れていった。それにつれて苦痛も少なくなってくるようだった。どうやら耐えられないような痛さに、自己防衛的に意識を失いかけているようだった。やがてほとんど痛みも感じなくなった。それどころか妙に平安な、静かな気持ちになった。
・・・嗚呼、これが死というものだろう
彼はそう思った。しかしそれは、いかにも自分自身として信じ難かった。まさかこれで生を終えるとは信じられなかった。しかし、それからますます心が静まっていって、今置かれている状況との関係が遠いかなたのもののように感じられてきた。逆に、彼のこれまで生きてきた人生が急速に近づいてきて振り返られた。
父親や母親に守られて、何の不安もなく育った幼いころ、あの懐かしいまたすばらしい鯆越の山、海。そして旺盛な好奇心から作ったさまざまな真空管の機器と製作の喜び。そして悩める青春時代。仕事のこと、家族のこと。これらのことが人間としてのこの世の思い出として、宝のように豊かに慈愛深く感じられた。同時に、これほどまでも、無限にある大切なものが死というものを通じてなくなってしまうものかと思うと、本当に勿体なくまた残念なものだと思えた。なによりも、あれだけ全力を注いだ『楽器スピーカーシステム』が完成しないままに死ななければならないことは耐えられない思いがした。
「あんた、手術が上手くいくように祈っているから、がんばってよ!」
いよいよ手術室に入る時、和美が泣き声で言った。あれほど感情が表れない和美が泣いているのだと思うと現実に引き戻されるように感じた。
意識がもうろうとしている中で、手術は明け方までかかった。
 一道の梗塞状態は心臓の筋肉へ血液を送る太い動脈が全部、百パ―セント近く詰まっていた。それで太股の動脈から通したカテーテルで詰まった血管を風船の原理で広げ、再度、詰まらないように血管の内側からステントと言われる金属製のスプリング状の梁を施術するものだった。それを五ヵ所も血管の中につけなければならなかった。
 一道は意識を失ったのか、眠ったのか分からなかったが、昼過ぎになって意識がはっきりとした。
「ああ、俺は生きていた!」
 彼は何か大きな戦いを終えたような気分になった。

           (四十八)

 一道の闘病生活は長期間に渡った。入退院を繰り返しながら、一年半近くにもなった。良くなって退院しても少しすると、不整脈が出てきて心臓が締め付けられるように痛み始めた。それでまた直ぐに入院することになった。その原因は一度、広げた血管が何度も詰まったり、他の部位の中小の血管が新たに詰まったりしたからだった。結局、カテーテル手術では治療しきれなくなり、胸を切開してバイパス手術をした。腹部と腕の静脈を切り取り、心臓の詰まっている動脈の代わりに接合した。
「体質的に非常に心臓の血管が詰まり易いタイプです。これだけ血管全体が詰まりやすいと術後も充分に注意する必要があります。あなたの心臓はヒビが入って割れやすくなっている茶碗みたいなものですから、絶対に無理をしないで大事に使ってください」
 手術した医師は一道に念を押すように言った。一道の心臓の筋肉は結果的に三分の二以上が壊死してしまった。心筋は不随意筋で再生しないため、機能は落ちることはあっても回復する可能性は無かった。残された機能は、体調のよい時でも数分間、ゆっくりと歩くことができるくらいだった。自転車にはペダルを踏む力を弱くすれば、どうにか買い物に行く程度は乗り続けられた。車の運転は不整脈さえ出なければ自由に走らせることが出来た。
 急性心筋梗塞は一道自身にとって生死をさまよう重大な事態であったが、闘病中はカミツ工業にとっても激変の事態になっていた。
 入院中や自宅療養中に桜井はしばしば一道のもとに見舞いに来ていた。また、松次郎も古市から何度か出てきて一道の激励に来てくれた。その都度、桜井や松次郎は会社の状況や木工場の様子をくわしく説明していた。一道は二人の話を聴きながらカミツ工業が急激に倒産への道をたどった様子が手に取るように分かった。
 一道が倒れる前から世の中のバブルは急激にはじけ始めていた。国全体の経済が航空機が墜落するように落下していった。その影響で《望郷》シリーズは信じられないほど注文が無くなった。しかしこれだけでは倒産に至らなかった。「あと五十年位は操業が続けられるだけの経済的基盤を作り上げました」と社長交代式の時に神津前社長が言っていたように資産は充分にあった。皮肉にも倒産を決定付けたのはカミツ工業の資産のほとんどであった不動産の暴落だった。神津前社長は不動産の値上がりを見越して、銀行から多額の借り入れをして近畿圏に限らず全国の不動産を大量に購入していた。その価格がこれもまた信じられないほどの速度で下落していった。売却しようにも買い手がいなかった。もし、買い手がつくほど価格を下げれば、売れば売るほど莫大な借金が残ることになった。銀行への返済はすぐに行き詰った。
 まさに、あれよあれよと言う間にカミツ工業は倒産してしまった。
 米沢はいち早く、姿を消した。神津一家もいつの間にか雲隠れをした。後は破産管理人がいるだけになった。従業員も全員解雇で、建物も全て明け渡すことになった。一道と桜井が全魂を傾けて製作していた『楽器スピーカーシステム』も産業廃棄物と化した。当然、桜井も出て行かなければならなかった。
「城崎の実家に帰って、来年度の教員採用試験を目指して頑張ります。三津田さんのおかげで、僕の人生にとって貴重な体験を積ませてもらうことが出来ました。ほんとうに有難うございました」
 最後に桜井が来たときしみじみと言った。
「・・・よかった。そっちの方がいい。桜井君はほんとうに秀才だからがんばってよ。それと、松次郎さんのところへもお礼に行きたいのだけれど、こんな体だからとても遠出できない。もし会うことがあったらよろしく言ってよ」
 一道は声を詰まらせた。
「はい、帰りに途中下車して、爺ちゃん婆ちゃんの家に寄るつもりですので、よく伝えておきます。三津田さんも病気に負けないように、いつまでも元気で暮らしてください」
 桜井は飄々として玄関を出て行った。桜井が帰って行った後、一道は、自分の人生の大きな何かが終わったのではないかと感じた。さらに、ひょっとすると人生のすべてが終わってしまったのではないかという思いがこみ上げてきた。
 和美は会社の倒産後は、すぐにパートに勤めに出ていた。朝、会社へ行く前に明美を幼稚園に送り、帰りにはまた迎えに行って連れて帰って来た。その間、一道は一人で毎日、マンションの自宅でゴロゴロするしかなかった。

           (四十九)

土曜の夜、母親の民代を入院させている病院から連絡があった。
「お母さんが、かなり悪い状態になっていますので、明日にでも来院していもらえませんか」
 看護士が少し命令的な雰囲気の声で言った。かなり悪いというが、どのような状態なのか、具体的な説明をしなかった。くわしく尋ねてもとにかく来てほしいと言うだけだった。
翌日、和美も明美も仕事や幼稚園が休みだったので、一緒に行くことになったが、一道の心臓の機能では、とても電車で母親の病院まで行くことはできなかった。高額になるとは思ったがマンションから病院までタクシーで行った。
病院に着き、母親のベッドの傍まで行ってみて驚いた。眠っている様子だったが、両手首を丈夫なひもでベッドの端にくくりつけられていた。さらに、顏のいたるところに傷ができていて手当てを受けていた。
別室に案内されて、医者の説明を聞くと、一週間ほど前から急に言動がおかしくなったということだった。柱に自分で頭を何度もぶつけたり、わざと廊下でつまずいて倒れたりして、体中に傷をつけるようになった。他人に危害を及ぼすようなことはしないが、自分で自分を傷つけて何かから逃れているような様子が出てきていた。
「この二、三日は、夜中に起き出して、窓から飛び降りるような仕草をしはじめました。それで仕方がなく、おしめをしてベッドに検束をさせてもらっております。そして軽い睡眠剤で眠らせている状態です」
 医者は親切に説明を続けてくれる。
「この病院には、入院時に説明させてもらったと思いますが、ほとんどの患者さんが寝たきりの方ということで閉鎖病棟というのはありません。ですから、お母さん自身の身体を守るために手をベッドに固定しているのですが、人権上の問題もありますので、もし、息子さんがひもを解いてくれというのであれば、そうします。でも、それによって何かありました時には病院側としましては責任は負えません」
 冷静で少し遠回しな表現ではあったが、医師が言いたいことは、一道にはよくは理解できた。
 医者の説明を聞いてから再び民代のベッドの傍に行った。民代は眠るというよりも薬によって意識がもうろうとしている様子だ。体を少し揺さぶって声をかけると目を覚ますが、半分眠っているような状態だった。それでもしばらくして傍に居るのが息子の一道であるのが分かったようだった。
「一道か、よく来てくれたなあ。もう会えないかと思った。ずいぶん痩せたようだが、元気だったか?」
 民代は夢見心地な雰囲気でゆっくりとしゃべる。一道の病気のことは母親が心配してはいけないと思っていっさい知らせていなかった。
「ああ、俺は元気そのものだぜ。お袋も元気出して長生きしないといけないぜ」
一道はできるだけ、元気な声を出す。
「いや、この病院は長生きをさせてくれないぞ・・・」
急に母親の声が小さく低くなる。
「ウチが、この病院の不正を見つけてしまったのよ。医者と看護士がぐるになって、患者の金を好きなだけ盗んでいる。その証拠をウチが掴んだ。それからスキさえあればウチを殺そうとしている。今までに何度も殺されかけた。この顏を見てみろ。硬い棒で何度もたたかれた。それに一道が来てくれるちょっと前には、和服のたもとにたくさんの石を詰められて、池の中に沈められようとしたのよ。一道が来て命拾いをした」
母親は周囲に聞こえないように内緒話のように、それでいて夢を見ているような話し方をする。
「アレッ、明美ちゃんも来ていたのかね」
民代の声が急に明るく大きくなる。孫の明美が来ているのに気がついたのだ。笑顔になって明美をを抱こうとして起き上がろうとするが、手首がベッドの金具に結び付けられているので起き上がれない。顔をゆがめて必死になって両手をわなわなと動かしている。一道は呼びボタンを押して看護士を呼んだ。
「何があっても責任はこちらで取るので、お袋のひもをほどいてやってくれ。俺たちが帰った後もそのまま自由にできるようにしておいてやってくれ」
「そうですか。それじゃ、ご家族の方の申し出ですのでほどきますが、危険な状態になる可能性が十分にあると思いますよ」
「それでもいいからほどいてくれ」
 一道の了解を何度も確認しながら看護士は民代の手首の紐を解いた。民代はすぐに起き上がり、明美を抱き上げる。幸せそうな笑顔になる。
民代は、明美をひざの上に乗せて腕をさすったり頭をなでたりしていた。
ベッドの枕元には大事そうにふろしきをかぶせて埃をかぶらないようにして置いているものがあった。一道がふろしきをとってみると、そこには田舎の家で使っていた、彼が中学時代に修理をした高一ラジオがあった。一道はそれを見ると、貧しくはあったが、母親も自分も元気で生き生きと暮らしていた故郷での生活が思い出されて無性に悲しくなった。
民代はなかなか明美を離さないので、結局、夕食まで病院にいた。帰りがけには、民代は孫にも会えてうれしかったのか、顔の表情は明るくなって異常な言動もなくなった。一道たちは安心して帰った。
翌日の昼すぎ、一道がいつものように一人で過ごしていると、病院から緊迫した声で電話が掛かってきた。
「お気の毒なことですが、お母さんが病院外で亡くなられているのが発見されました。至急、病院にお越しください」
受話器から看護士の甲高い声が響いた。一道はあまりにも突然だったので何をどう判断していいか分からない。驚きで心臓が動悸を打とうとしたが、機能の大半を失っている心臓にはその衝撃の鼓動が打てずに、脈が飛んだり、空打ちするように動いたり、不整脈が続くようになった。彼は自分で自分の気持ちを必死で落ち着けなければならなかった。
「詳しい状況は来院されてから説明しますので、とりあえずできるだけ早くお越しください」
病院からの電話が終わっても一道の心臓の不規則な鼓動は収まらない。彼は和美の職場に電話してすぐに帰って来るように言った。しばらくして、和美は幼稚園で明美を早引きさせて家に連れて帰って来た。
一道は娘がショックを受けたらいけないと思って和美と明美は家に残しておいて、自分ひとりでタクシーで病院に行った。
病院に着くと、母親はいつもの病室ではなく地下の遺体慰霊室に移されていた。顔にかぶせられていた白布を取ると異様に腫れている母親の顔があった。一道はまた、心臓が激しい動悸をしないように感情を抑えなければならなかった。
看護士が事情を説明してくれた。昼食時になっても民代がベッドに帰ってこないので、病院全体で探していた時、警察から連絡があった。病院の近くの高層団地の最上階の踊り場から飛び降り自殺して亡くなった人が病院の患者さんらしい、ということで確認の依頼だった。行ってみると民代であったということだった。
一道はこの後、極力感情を抑えてさまざまな手続きをした。和美に連絡をしてマンションの近くの葬儀社に、最も狭くて安い式場を頼むように言った。彼は葬儀は家族だけの簡単なものにしようと思った。葬儀社から母親の遺体を迎えに来てくれた車に同乗して一道も病院を後にした。看護士が入院中の民代の荷物をまとめてくれていたが、その中に高一ラジオがあった。彼には母親の唯一の形見と思え、かさばったが一緒に車に載せた。
葬儀には一道夫婦と弟と妹が集まっただけの質素なものだった。弟妹の妻や夫はそれぞれ所用があって来なかった。郷里の叔父や叔母にも連絡したが、皆、距離が遠いので出席はできないが、香典は送るということだった。通夜や葬式には僧侶も呼ばずにただ安置しているだけの葬儀にした。
葬儀が終わった後、弟や妹は死んだ母親よりも生きている自分たちの生活が大事とばかりにすぐにそれぞれ帰って行った。
一道の家には仏壇などというものはなかったので、骨壷はタンスの上に置いた。天井に近い片隅にぽつんと置かれている骨壷を見ると一道は心の中にポカンと大きな空虚な穴が開いてしまったのを感じた。
「嗚呼、これでこの世には、いろいろなことを聞いて喜んでくれる者がだれもいなくなった」
 一道は低い声でつぶやいた。

            (五十)

 経済的に一道一家が現在のマンションで生活できるのは今月末が限界になる。好景気の時に貯めた金はほとんど使い果たした。カミツ工業の倒産後、和美がパートで働いて入ってくる金額では、ローンを支払って生活するのはまったく無理だった。
 マンションを売却したとしても、不動産の値段が急速に下落していて、ローン残高よりもはるかに低い金額にしかならなかった。家を失う上に残った多額の借金を背負うことになる。残される方法はマンションも放棄する代わりにローンも払わない、いわゆる銀行にとって不良債権にするしかなかった。銀行も、いくら払えと言っても払う能力も資産も無い者には、どうすることもできなかった。
今まで支払った月々のローンは賃貸住宅で生活した場合の二倍近くの金額だったので、多くの金を無駄にしたことになった。
「中学を卒業して、まじめにコツコツと働いて、年を取って残ったのは、借金と病気か・・・」
 一道は何度もこんな事をつぶやくようになっていた。
 以前住んでいたような安い木造のアパートにでも引っ越せば、和美の給料で、生活費を極端に切り詰めれば親子三人の生活がなんとかできそうだった。ただ、階段の上り下りは一道の心臓に負担がかかるので一階の部屋を探さなければならなかった。
「来週の日曜日は、仕事が休みなのでアパートを探してくるわ」
 和美の声には生活の苦しさがあまり出ない。感情が表に出ないこともあるが、どんな状況になってもその中で生きる努力をするしかないという悟りのようなものが感じられる。
 母親の葬式を終えた頃から一道は右耳に異常を感じ始めていた。自然に治るかと思って放っておいたが、徐々に悪くなってきた。周波数の低い音を聞くと、ちょうど上向きのスピーカーのコーンに小さな豆が何個か転がっているように、鼓膜が振動するたびにゴロゴロと雑音がするような状態になっていた。音が大きくなればなるほど雑音も大きくなった。話をしていても、街中の騒音を聞いても左右の耳で違う聞こえ方をするので不快感が募ってくる。右耳をふさいで聞こえないようにした方がまだ楽にさえ思える。
 こういう症状が日を追うごとにひどくなる。医者に診てもらおうかとも思ったが、それでなくても、心筋梗塞の治療と薬代に毎月、かなりの金額が必要だったので、行かずに我慢をしていた。
しかしやがて、音に接するのが非常な苦痛になってきた。音のしない所に居るか、耳を塞いでいなければ絶えられない状態になった。どうにも我慢ができなくなって病院へ行った。
「基本的な検査をしましたが、鼓膜などには異常は見つかりませんでした。内耳部の方の伝達関係のところに異常があるかもしれませんが、今のところ原因はよくわかりませんね。もしはっきりさせるのであれば精密検査を受けてください」
 医者は機械的な話し方だった。一道は費用のことを考えると精密検査を受ける気にはなれない。この耳鼻科の病院代で家族の三日分の食費が消えた。
 一道は首を横に振りながらマンションに帰ってきた。
「俺はもう一生涯、音を楽しむということができなくなるのだろうか。あれほど好きだったアンプやラジオの製作も、二度と再び楽しむことができないのだろうか」
 彼は自分の人生が大きく変わったのを感じた。それは再び取り返しのつくようなものではないと思えた。
 この数日、晩秋の寒暖の差が激しかったためか、明美が高熱を発して寝込んでしまった。夜になると熱が高くなり、明日は治療費がかかっても病院に連れていこうと思う。しかし朝になると体温が少し下がるので、病院に行かないままになっていた。
三日間、幼稚園を休ませて寝かせていたが、熱が下がらなかった。一道は、自分は早々と耳の医者に行ったのに娘を病院に連れて行かないことが、心にしこりのようになり始めていた。自分のためにはすぐに病院に行くくせに、かわいいい娘には治療費をケチって医者に連れていかないのは親として情けないではないか、と自分で自分を責めていた。
 四日目の夜、明美はますます体温が上がってきた。そして熱に浮かされるように口を動かした。
「スーパーマンっていいなあ。どこへでも好きな時に飛んでいけるものね。アケミは今は熱が出てしんどくてどこにも行けないけれど、スーパーマンになって空を飛びたいなあ」
今度は声を出して泣き出した。明美は以前、スパーマンの映画をテレビで見てから熱烈なフアンになっていた。
 一道は明美の熱で赤みを帯びた顔をしばらく見つめていた。
「明美ッ!ほんとうはお父ちゃんは、スーパーマンの親戚なんだぞ。自由に大空を飛べるぞ」
 一道は急に甲高い声で言った。明美の泣きべそをかいていた顔がパッと晴れた。  
「お父ちゃん、本当に飛べるの?」     
「ああ飛べるとも。今までにお父ちゃんが嘘を言ったことはなかっただろう」
「そうだけれど・・・空を飛ぶのだけは難しいのじゃないかなあ」
  明美は不思議そうな顔をして一道の顔を見上げた。スーパーマンのことになると発熱のことも忘れたように目を輝かせる。
「お父ちゃんは、明美が知らない間に、夜になったら屋上から飛び出し、自由に大空を飛び回っているいるんだ。月まで行ったこともあるぞ」
「へえ、すごいなあ。でも本当かなあ。本当に月までいけるのかなあ」
「いつでもお父ちゃんが飛ぶ時には、明美はぐっすりと寝ている時だ」
「残念だなあ。今度、飛ぶ時には絶対に起こしてよ・・・でも本当かなあ」
  明美は半分不審そうに、半分期待したいような、そんな目で見ていた。
「でも、いつでも飛べるのなら、今でも飛べるでしょう。そうだ、お父ちゃん、これから飛んでよ」
  明美の顔がさらに輝いた。
「お父ちゃんが飛べるのはよく晴れた夜に、満月がこうこうと照っている時だけだ。その時に、じっと、月の方を見ていると、お父ちゃんの体に、目に見えない大きな強い羽が生えてくるのだぞ。そして、大空へ飛び出せば月であろうが、どへでも自由に飛んで行ける」
 一道は手を伸ばし、両腕をゆっくりと高く上げた。明美は布団から起き上がると窓のところへ行き、ガラス戸を開け、首を突き出して夜空を見上げた。
「やったね、お父ちゃん。今夜は満月で晴れているわ」
 明美が元気な声を出した。一道も窓に行き顔を出すと、大阪には珍しく澄んだ夜空に輪郭のはっきりしたほぼ真円に近い月がこうこうと浮かんでいた。
「さあ、お父ちゃん、行こうよ、屋上に」
 明美は風邪を引いていることを忘れたように動きが活発になった。
「熱が高くなったらいけないから、しっかり着込みなさいよ」
 和美は止めもせずに明美に何枚も重ね着させて身長と横幅が同じくらいにした。
「あんた、階段は大丈夫なの?」
「ゆっくり上れば大丈夫だ」
 一道は明美と手をつないで玄関を出た。最上階の十階までエレベーターで行く。そこから屋上への出口までは階段を使わなければならない。一道は一段いちだん、ゆっくりと上がった。
 屋上へ出ると脱落防止用の腰ほどの高さの手すりにもたれるようにして月を見た。
「きれいねえ、お月様がこんなにはっきり見えるの、初めてよ」
 明美は夢を見るように月を見上げている。
  一道は両手を月の方へ大きく伸ばした。
「お父ちゃんの背中に乗って一緒に飛ぶと、落っこちてしまいそうだわ」
 明美が一道のズボンを引っ張りながら言った。
「大丈夫だ、しっかりと背中に乗って首に手を回しておけば、落ちることはない。さあ、それじゃ、乗れよ」
  一道は、しゃがんで背中を低くした。明美はうれしそうに背中に乗るとしっかりと首に両手を回した。
「さあいいか、立つぞ」
 一道は心臓の負担が限界に近いのを感じながらゆっくりと立ち上がった。
「ワァーイ、お父ちゃんにおんぶしてもらったの、だいぶ前だったよね。なんか、本当に飛べそうだわ」
「ああ、飛べるとも、必ず、月まで行けるぞ」
 一道は手すりをまたいで乗り越えて、そのまま手すりの上に腰を下ろした。眼下には月光に照らされた地面がはるか下方に見える。腰を上げて一歩踏み出せば飛び降りることが出来る。明美の両腕に大きな力が入るのが感じられた。
「お父ちゃん、怖い。本当に飛べるの?」
「本当に飛べるぞ。だけど、恐いのなら止めておこうか」
「いやいや、飛ぼうよ。お父ちゃんは嘘を言ったことはないものね」
  明美の声にはいつにもない緊張感がみなぎっていた。
  彼は大きく両腕を満月の方へ向けた。身体中に虚空を自由に飛び回ることができる強い羽が今にも生えてくることを心より願った。一道は腰をゆっくりと上げた。
「しっかりと捕まっているんだぞ。それじゃ、飛ぶぞ!」
「いいよ、お父ちゃん!」
 いよいよ飛び降りようと体を乗り出した時だった。
「アッ、お父ちゃん、ちょっと待って!月のウサギさんが持っているのは餅をつく棒ではなくて、お父ちゃんの好きな真空管だわ」
「エッ?」
 一道は明美の意外な言葉に驚いた。そして乗り出した体を戻して改めて月を眺めた。言われてみると確かにそうだ。ウサギがST管を両手で持ってうれしそうにしているような姿だ。そう思って見ると心が静まり、動悸が治まるような気がした。そして懐かしい桜井の言葉を思い出した。
・・・星々や巨大な島宇宙を生々滅々させるエネルギーと法則性を包含している真空は宇宙の根源であると言えます。真空管はその宇宙の根源のエネルギーと法則性を働かせたものです
 桜井の純粋な優しい顔が瞼に浮かんできた。
・・・俺も宇宙の中の一つだ。真空管のように、根源のエネルギーが残っている限り、それを働かせるのがあるべき姿だ。まだ使えるのに割るなんてとんでもない。まして、娘を道連れにするなんて・・・
 一道の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。それが分かったのか、明美は父親の背中を上るようにして四角い大きな頭を後ろから抱き締めた。そして、両手でこぼれる涙をぬぐった。一道は明美が落ちないように手を後ろに回してお尻をしっかりと支えた。
 涙はとめどなく流れた。明美は目隠しをするような手つきで一生懸命になって次から次にあふれてくる涙をぬぐっていた。
「あんた、何しているの?寒いと心臓にも悪いし、明美の熱がまた高くなるといけないわよ。早く部屋の中に入って」
 ようやく涙が止まりかけた時、屋上への出入り口から和美の声がした。
 部屋に帰るとテーブルの上に卵焼きと〝カタクリコ〟が出されていた。一道は何度か和美に、自分の幼い頃、病気した時に母の民代が作ってくれた食べ物のことを話していた。
「ワッ、おいしそう、早く食べよう、お父ちゃん」
 明美は体は冷えたが、気分が良くなったのか、明るい声を出した。
「お父ちゃん、うさぎさんの真空管が聞きたいわ」
 明美は卵焼きをほおばりながら言った。
「それ、何のこと?」
 和美は不思議そうにしている。
「真空管ラジオのことだ。そうだ久しぶりに高一ラジオを聴こう」
 一道は母親の病院から持ち帰ったラジオの電源コードをソケットにつないだ。そしてスイッチ入れた。しばらくしてから、中学生のころの幸せな音が時の経過を超えて流れてきた。不思議と高一ラジオの音は一道の右の耳にも快く響いた。
 その音を聞きながら卵焼きや〝カタクリコ〟を食べていると、屋上で感じていたものとは違った、暖かい感情が胸いっぱいに満ちた。また、涙がこぼれそうになった。
 その時、明美の顔を見ると、人さし指を少し曲げたままで唇に当ててにっこりと笑った。その笑顔を見たとき、一道の出そうになっていた涙が止まった。そして唇を左右に大きく引き締めて、頑張るぞ、という表情をした。
 和美は二人には背中を向けて炊事場で食器の片付けをしていた。
                      (了)