大和田光也全集第13巻
 『針金の釣り針』

 盆を間近に控えた日のことだった。
「盆休みには、前日の夜から一晩中、釣りをしようか」
 夕食の時、父がおもむろに言った。私は飛び上がるほどうれしかった。私は父と遊ぶのがなによりの楽しみだった。
 ところが、最近は商売が繁盛してまとまった遊びの時間がなかなか取れなかった。
「盆には死んだ人がお迎えに来るから、海に出てはいけないし、生き物を殺してはいけないのに」
 母は眉間にしわを寄せて反対した。兄も姉も怖がって、行かない、と言い出した。
「そんなの迷信じゃ」
 父は平気である。私は父と一緒ならば何も怖くないと思って、ぜひ行きたい、と言った。それで私と父と二人だけで行くことになった。
 当日は朝から、父の商売の合間にさまざまな準備をした。これがまた楽しかった。
父は何をしてもそつのない人だった。さらに、私から見ると万能のように思えた。父には出来ないことがないと思えた。
「鹿島(かしま)に行こう。あそこなら魚がよく釣れるはずだ」 
鹿島というのは、伊達家宇和島藩の殿様が鹿狩りをするために鹿を放って、増やした島のことである。
 この日は父は夕方には店を閉めて、大きな荷物を自転車の後ろに縛りつけ、前に私を乗せて、出発した。
リアス式海岸に沿ってつけられた曲がりくねった道を上り下りしながら走らせると、父の粗い息遣いが私の頭にかかってきた。それがいつもより激しいような気がした。
「お父ちゃん、しんどいの?」
 私はちょっと気になったので聞いてみた。
「いや、しんどいことなんかないぞ。お父ちゃんは、軍隊に行って無理をしたから、心臓肥大になっているんだ。普通の人の一・五倍くらいの大きさの心臓になっている。少々無理をしたって何ともないぞ」
そう言ってさらに力強くペダルを踏んだ。
 一時間半ほど走ると、船越(ふなこし)に着いた。ここから鹿島までポンポン船が通っていた。その船は、出船する時間が決まっているわけではなかった。客の都合に合わせていた。
私と父が船乗り場に着いたときには他にはだれもいなかった。船のそばで船頭がたばこをふかしていた。
「オーイッ、鹿島に行ってくれるか」
 父がこう言うと船頭は少し困った顔した。船頭といっても漁師の仕事の合間に客を運んでいるのだった。
「これが最後の便にするつもりじゃ。今から鹿島に行って、島にいる人を全部乗せて帰ってくるのじゃがなあ」
「あぁ、それでえぇぞ。今夜は島で一晩中、夜釣りをして、明日の朝、一番の船で帰るけん」
 父が言うと船頭も納得した。
「今夜はよく凪いで晴れているし、海岸で過ごしても気持ちがいいじゃろう。それじゃ、出船するぞな」
 私と父が乗るとすぐに船が進み出した。 
 凪ぎ、といってもまともに豊後水道に面した海である。底知れない力強さを感じさせるうねりが船の舳先から水しぶきをあげさせる。私はそれが楽しくて、船の舳先へ行き、それをまたぐようにして座った。
 船のゆったりとした上下の動きと足にかかる水しぶきは私を楽しくさせた。このまま永遠に海を航海できたらいいな、と思った。水平線のあたりを見ると地球が丸いことがよくわかるように緩やかな弧を描いている。
 四十分ほどすると鹿島に近づいた。いかにも大海原の真っただ中にあるというような生きいきとした島だった。
 岩場をコンクリートで簡単に形を整えただけの桟橋に着いた。船頭も一緒に降りてきて、浜の方に歩いてきた。
「オッ、あそこに鹿がいる。珍しいことじゃ」
 船頭が少し驚いたような声を出して指さす方を見ると、急な山肌が海岸に落ちている所の中ほどあたりに二匹の小鹿がいた。
「めったに見ることができないのに、ボクは運がいいぞ」
私の頭をなでながら船頭が言った。
 かわいい鼻が何とも印象深かった。鹿はすぐに山頂の方へ駆け上がって行った。私は生まれて初めて、本物の鹿を見ることができた。
 船頭は大きな声で、浜辺にいる海水浴客に最後の船が出ることを告げていた。
 最終の船が出ると、島に残ったのは結局、私と父の二人だけであった。
「まず、夕飯を食べよう。釣りは暗くなってからやろう」 
父はこう言うと、海辺からカキのついた大きな石をたくさん持ってきて、中でたき火ができるように周囲を囲った。
「信弘、流れついている木切れを取ってこいや」 
石ころの浜にはたくさんの材木などが打ち上げられていて、それらは乾燥しているとよく燃えた。
「一晩中、火を焚いておくから、集められるだけ集めておけ」
 私は一生懸命になって燃えるものを集めた。父は大きな丸太木を何本も引きずって来た。すぐに一晩中燃やせるくらいの薪が集まった。
 カキのついた石囲い中で火をつけるとよく燃えた。
 母に作ってもらっていたおにぎりを食べた。家と違ってこういう所で食べると特においしく感じる。  
 周囲が薄暗くなるにつれて、たき火の明りが増してくるように思える。波の音がのんびりと聞こえている。やがてジューと音がして石にくっついていたカキが蒸気を吹いて口を開けた。父は醤油をその中に垂らした。いい香りが漂ってきた。
「これは、もう、いいぞ。食べてみろ」
と言って取り出してくれたカキの身を食べた。海のおいしさをすべて凝縮したような味だった。
 私はうれしさがだんだんと増幅していくのを感じた。
いつもは父と遊ぶときには、商売に差し障りが無いように時間を気にしなければならなかった。ところがこの日は翌朝まで、仕事が入ることも気にせずに遊べることを思うと安心感があった。
「さあ、それじゃ、いよいよ釣ろうか」 
父は何をするにも段取りがよかった。釣り道具もすぐに釣れるように準備をしていた。餌もサバの切り身を針にさすのに適当な大きさにしたものをたくさん箱の中に入れていた。
 エサをつけると水際まで行き、カウボーイがロープを投げるようにグルグルと回して沖の方へ投げた。沖の方でボトンと重りが落ちる音がする。そうすると少しずつ手前に糸を引き寄せて、重りが海底に着くころにはちょうど糸が張るようにしておく。そして人さし指に糸をかけて当たりが分かるようにして握っておく。
 待つ間もなくすぐに、手のひらの糸が沖の方へ力強く引込まれた。父の糸にもほとんど一緒に魚が食いついた。私の糸はたいへん引が強く、指が切れそうになったので、腕に糸を巻きつけて山際の方へ走って引き上げた。そうすると途中で、急に軽くなってしまった。
「アッ、お父ちゃん、逃げられた。切れたかもしれない」
「そうか、ちょっと待っておけ。俺のを上げたら針を見てやるからな」 
父はこう言って糸を引き上げている。やがて水打ち際でバシャバシャと音がして暗いなかから、うちわほどの大きさもある魚が、焚き火の明かりに照らされて上がってきた。
「やったアーッ。これなら今夜はいくらでも釣れるなあ、お父ちゃん!」 
私はうれしくて大声をあげた。父も、
「釣れるだけ釣ろう」
と元気よく言った。私は胸が高鳴った。父は釣った魚をたき火のそばの石の上に置いてゆっくり焼けるようにした。
「ヨーシ、信弘の糸を見せてみよ」 
父は空き缶の中にロウソクを立てて火をつけた。こうすると風が吹いても火が消えずに明かりが取れた。私の糸は釣り針のところで切れていた。
「ホーッ、丈夫な糸が切れている。よほど大物が食いついていたのだろう」 
こう言ってから、父は釣り道具の小物を入れている袋を取り出してきた。そして目を細めて見えにくそうにロウソクの光で釣り針を探した。
「えーと、針を入れた紙袋はどこだったかなあ・・・」
 随分、時間をかけて探した。
「無いなぁ。どこにも無いなぁ。針を入れた袋だけ家に忘れてきたなぁ。困ったなぁ」 
父は独り言のように言った。
「とりあえず、俺のを使って釣ってみろよ」 
珍しく父が弱々しい声を出した。私は父の釣具を借りてまた同じように沖へ投げた。底に重りがついたころ、ゆっくりと引き寄せると、根がかりしてしまった。
「お父ちゃん、ひっかけてしまった」 
私は残念そうに言った。父は糸を引いたり急に離したり、右に行ったり左行ったりして、丁寧にはずそうとした。しかし結局、糸が切れてしまった。
「この辺の底は岩場だから、しょっちゅう引っかかる。そう思って充分な針を用意しておったのだが・・・」
 父も私もすることがなくなった。今までに父と一緒に過ごしていて、父がこんなドジなことをすることは一度もなかった。たとえ何か失敗したとしても、必ずそれを取り返す方法を見つけた。
ところが今回は、釣り針を忘れてきたのだからどうしようもなかった。島にはもちろん店屋もなければ人も住んでいなかった。釣り針などどこを探してもあるわけがなかった。しかも明日の朝まではここに居なければならない。
 私はものを言うのも嫌になった。水打ち際に行って、暗い中で石を投げた。石が海面に落ちたところから夜光虫のぼんやりとした明かりが周囲に広がった。 
対岸には中泊(なかどまり)や外泊(そとどまり)の人家の明かりや街路灯が見えた。そこには間違いなく釣り針があった。私は空を飛んで釣り針を買いに行きたい衝動を抑えるのが大変だった。
私は石ころの上に座り込んだ。
「信弘、こちらに来て魚を食べろよ。おいしいぞ」 
沈みこんでしまった私はハットして立ち上がり、たき火のところへ行った。父の釣った魚がちょうど食べ頃に焼けていた。父はそれを食べやすいように身をほぐし、さらに醤油もかけてくれた。
おいしいのは言うまでもなかったが、私は一口二口食べただけで、箸を投げるように置いた。
「もう寝よう」 
父は浜の石ころを掘ってくれて、ちょうど私のからだが入るくらいの窪みを作ってくれた。そして毛布を敷いてくれた。
「さあ、ここで横になれ」 
そこにゴロンとあおむけになると上からまた毛布を掛けてくれた。頭の当たるところには枕のような石もあり実に快適な寝床だった。
 空には星が一面に輝いている。
万能と思っていた父が神の力をなくしてしまった。父が急に小さい人間のように思えてきた。それは、わびしいものだった。私は半分泣きそうになったまま、いつの間にか寝入ってしまっていた。

 どのくらい経っただろうか、何かの物音で目が覚めた。空の星々はさらに輝きを増したように見える。
父はどうしているのかと思って寝たままでたき火の方を見た。すると父は、ろうそくの揺れる明かりの中で、真剣な顔をして手をリズム正しく動かしていた。
「お父ちゃん、何をしているの?」 
私が聞くと顔は動かさずに、
「釣り針を作っている」と答えた。私は飛び起きて父の手元を見た。平らな石の表面に針金のようなものの先を当ててとがらせていた。時々水を加えては、研いでいる。その姿が、今まであまり見たこともないほど真剣だったので、私は寝る前の自分のふて腐れた姿を少し反省した。
「ヨーシ、これで、先はいいだろう」 
今度は握りこぶしほどの石を持ってとがらせたのとは反対側の端をたたいて平たくした。そして最後に釣り針のような形に曲げて、たき火の中に入れて焼いてから、水に入れて急に冷やした。
「信弘、一本しかないがこれで釣ってみろ」 
父は少しうれしそうに言った。
「うん、ヨーシ、釣るぞ」 
私は元気よく答えた。糸につけられた釣り針を見ると、形がいびつでとても魚が釣れるとは思えなかった。でも、ここまでやってくれた父の気持ちがうれしかった。
「戻りがないから、当たりがあったらそのまま一気に引き上げるんだぞ」
 私は波打ち際に行って、用心深く仕掛けを沖へ投げた。沖で重りが海面に落ちる音が聞こえた。それからエサが海底に落ちて行く情景が想像できた。   
戻りがない釣り針だから海面から少しだけ沈んだところでエサが落ちていると思えた。だから海底に落ちても気軽に糸を持っていた。私は釣れなくてもいいと思った。
 このまましばらく持っていて、適当に時間がたったところで、えさのなくなった針を引き上げればいいと思った。そして、それで、充分満足した、と父に言って終わればいいと思った。
 五六分もたっただろうか、糸が急に引きずり込まれた。私は信じられなかった。それでも、反射的に糸を引き上げた。手に魚の力強い抵抗が伝わってきた。
「お父ちゃん、食った、食った!」 
私は大声を出した。
「ヨシッ、休まずにゆっくりと引き上げろ」
 私は手を休めることなく引き上げた。足がガクガクと震えた。長い時間がかかったような気がしたが、水際で魚がはねる音がした。父はすぐに海水に入るようにして、魚をつかんだ。それから、うれしそうに私の目の前に魚を突き出した。
 父が釣ったのと同じ種類のものだったが、はるかに大きかった。私が今までに釣った魚の中では飛び抜けて大きかった。
「ヤッターッ、ヤッターッ!」 
私は何度も飛び上がって喜んだ。焚火のところまで持っていってから、父は魚の口から釣り針を外した。針はかなり伸びていた。
「ホー、これでよく上がったなあ」 
父は取り出した釣り針をもう一度、曲げ直そうとした。ところが針はポッキリと折れてしまった。
「やっぱり、ダメか。まあいいか、大物が釣れたからなぁ」
「うん、最高、さいこう」 
父は私が大いに満足しているのを見て笑った。
「それじゃ、また寝よう。一眠りすればすぐに明るくなるぞ」
「うん、思いっきり眠る」 
私は元気よく言って、凹みの中に仰向けになった。
 空には相変わらず、スケールの大きな宇宙の星々が、隙間がないほど輝いていた。父の姿が空一面に広がるほど大きく見えた。                                              (了)
【奥付】
『針金の釣り針』
 父への感謝
    2010年発表
     著者 : 大和田光也