大和田光也全集第14巻
   『カレン先生』  

             (一)

 日本の春というのは、もっと暖かいものかと思っていたのに、曇り空のせいもあってか、ずいぶん寒い。山陰地方の小さな空港に降り立った時には身震いしてしまった。後で聞けば、花冷え、花曇りとか言って、あまり天気が良くないらしい。
「カレン先生ですな。ようこそおいでくださった。わしが岬町の町長のク・マ・ノ、熊野喜一です」
 背は低いのに、横幅がずいぶん広いおじさんがロビーに行くと声を掛けてきた。わたしの背丈は低い方で、日本の男性のあまり高くない人と同じくらい。
「教頭の桑川寛一です。お世話になります」
 これはなんと背の高い、頑丈そうな身体つきの人が手を差し出してきた。
「ウォルター・カレンです。よろしくお願いします」
 わたしがこう言って握手すると二人ともたいへん驚いた様子になった。
「ほう、日本人と変わらない。たいしたもんですなあ」
 町長が感心して独り言のように言う。当り前よ。わたしが幼い頃、家のそばに笹井さんという日本人のご夫婦が引っ越して来たの。日本の会社のオーストラリア支店の技術者だった。子供さんがいなくて、わたしを父や母以上にかわいがってくれた。知らないうちに日本語も覚えたわ。笹井さんは今もオーストラリアに住んでいる。
 当然、ハイ・スクールでは第二外国語に日本語を選択した。もちろん、成績はトップよ。その後、日本でいえば短期大学を卒業して、日本語の講師をしていたの。
「ここからまだ、だいぶ北の方に行った日本海に近い小さな町の高校です」
 桑川教頭が身体に似合わない無気力な声でつぶやく。
「小さな町いうても、こうして外人講師を招いとる。りっぱなもんぞ」
 むきになって熊野町長が怒鳴る。教頭は黙るだけ。
 日本の誇る、世界の経済摩擦の乗用車に乗る。そういえば、うちの国の牛肉をもっと買ってくれと言ってた。誇るだけあって、乗り心地がいい。りっぱなソファーが動いてるみたい。それはいいんだけど、熊野町長が必要以上にわたしにくっついて座るのには困る。おまけに短い太い足を一直線のように広げる。それに、しゃべりっぱなし。呼吸している間は、寝ている時もしゃべっているに違いない。
 一時間も走ると素晴らしい海岸線に出た。オーストラリアの雄大さとは違って、繊細の美。緑のなかの所々に日本の象徴の桜が咲き、曇り空の下で不思議に映えている。灰色の波が細かく刻まれた彫刻のような岩場に砕けている。同じような岬を何度も巡り、入江にできた同じような村々を通り過ぎる。
「ここです。あれが我が岬高校じゃ」
 話の途中で町長が気が狂ったように叫び、足と同じく太く短い指を振り上げた。
「まあ、すてき」
 思わずわたしも大きな声を出した。ひときわりっぱな岬の突端に真っ白な三階建ての校舎が見える。奇妙なのはそれに比べ、岬の付け根に広がる町並みはくすんだ瓦ばかりが無造作に寄り集まって貧しい感じ。
「我が岬町は教育に力を入れとります。特にわしが町長になってから、あの校舎も建てました。国の基はひとえに教育ですなあ。そのために国民が少々の辛抱をすることにやぶさかであってはいけん」
 どうもよく理解できない言葉があったけど、面倒臭いから聞き流す。
「あの・・・岬高校はいちおう、県立でして、カレン先生も県が呼んだ訳でして・・・」
「そんなことはない。県教委なぞ、なにもしとらん。交付金の有効利用を決めたのはわしぞ、町ぞ。町が金を出しとるんじゃ。県教委はわしの命令どおりしただけじゃ。馬鹿を言うな」
 またしても教頭は一言もない。
『千賀旅館』と古い看板の出ている、大きな二階建の家の前で車が止まった。学校とは反対の町のはずれになる。
「ここで一年間、下宿してください。ここはええとこじゃ」
 熊野町長が先頭に立って玄関に入る。中では年取った人とわたしと同じくらいの人と、二人の女性が出迎えていてくれて、頭を下げる。わたしも頭を下げた。オーストラリアの笹井さんに頭の下げ方は教えてもらっている。ところが二人ともその後なんにも言わずにもじもじしている。
「なにをしとる、おかみ。この先生は日本語がペラペラじゃ、挨拶せんか」
「あら、そうですか、すみません。わたしがこの旅館をやっています松村千賀子です。これは娘の美穂です、よろしくお願いします」
「カレンです、一年間お世話になります」
 おかみさんはわたしの日本語を聞いてホッとした様子。でも美穂さんの方は少しトゲのある目でわたしを見た。
 二階の案内された部屋は最高。窓から一面に海が見える。点々と浮かぶ島。のんびりと行き交う漁船。ガラス戸を開ければ心が澄んでくる潮風。窓のそばの一対の肘掛け椅子に腰を下ろすと動くのが嫌になる。
「それでは、学校へ行ってみましょうか。校長も待っていると思いますので」
 伸びのびとした声になって桑川教頭が言う。町長は後援会の集まりがあるとかで帰った。
 学校へは町を横切って行く。車はないので、歩いて行くと様子がよく分かる。軒の低い小さなお店が点々と続いている。皆さん、物珍しそうにわたしを見ている。なかには頭を下げてくれる人もある。これが町のメインストリートらしい。
「近年、車の通行量が増えて、この道路の幅を広げようという話があったのですが、町が反対をして、結局、バイパスが国道として山手にできました。それ以来、町並みはさびれてしまいました」
 ぐちっぽく教頭は言うけれど、ここの雰囲気はわたしが幼い頃、死んだおじいちゃんから聞いた遠い昔のオーストラリアの村のような気がする。おじいちゃんに見せてやれば涙を流して喜ぶだろうに。
 校舎の建っている岬の突端へ上る道はたいへんに急。肌寒さもふっ飛び、息が切れて汗が出る。それなのに、なんとグランドは岬の下の海のそばにある。体育の授業毎にこの坂道を上がり下りするなんて・・・でも、足腰を鍛えてよろしい。わたしは高校のクラブではずっとバレーボールをやっていたけど、日常的に体を鍛えるのがいちばん。選手としては背が低かったのであまり強くはなれなかった。
 学校には全教職員が出勤していた。大浜圭輔校長、この人はいつも口元に微笑を絶やさない方。その微笑みは心の表れかと思ったけれど、しばらく観察しているとそうではないのが分かる。表情だけ笑顔を作る必要があるのだろう。どうも『無力な人格者』のよう。
 職員室で大浜校長が全員にわたしを紹介してくれる。その後、英語科の先生と打合せをするが、わたしが日本語をしゃべれるのを知って喜んだのには驚く。どうなってるのかしら。それにどの先生もわたしと目を合わせるのを嫌がる。はるか彼方に座っている男性の先生、髪の毛には白髪が多いくせにメガネを掛けた顔は子供っぽいんだけれど、その先生などはわたしと目がチラッと合っただけで真っ赤になって俯いてしまった。
 ずうずうしいのが一人だけいた。岩石実相という物理の先生で、筋肉質な身体に荒っぽさが漂っている。わたしのお尻ばかりを無遠慮に眺めている。わたしも振り向いて岩石先生の顔をまじまじと見てやった。なのに、岩石先生は平気な顔をして今度は目の中を覗き込むようにする。日本人の人の良さそうな笑顔さえ見せてくれない。
「ホウ、りっぱなもんだ」
 何に感心しているのか分からないけれど、さかんに頷いている。

          (二)

 入学式、始業式と終わり、いよいよ授業となる。初めて日本の高校生の前に立つ。意気込んでいたわたしの心が急に萎んでしまう。皆、まったく元気がない。時々わたしの顔を見上げてはすぐに俯く。お葬式みたい。いくらわたしが張りのある声を出しても、霧の中でしゃべってるみたいで反応がない。分かりにくいところは全部日本語で話しているのに。あまりにも白け過ぎて、わたしも授業を続ける気がなくなる。
「ちょっと皆さん、窓の外を見てごらんなさい」
 これで少々刺激になった。生徒はなんだろうか、と不思議そうに窓の方に目をやった。よく晴れた午前の太陽の下に夏を感じさせる海があった。
「この風景はわたしの国、オーストラリアと大変よく似ています。事実、今見ているこの海は全世界とつながっています。確かに岬町は小さな町かもしれません。でも、こうしてすぐそばに世界があるのです。実際にわたしがこうしてオーストラリアから来ているではないですか。住んでいる町は小さくとも、心は広げ、世界に希望を求めましょう。私達、これからの若者はいつも世界の友達と手を結び合うことを考えていなければなりません。夢を膨らませ、元気を出して生きてゆきましょう」
 窓の外を指差してわたしは明るく言う。これで皆の閉じた心が開くと思った。ところがいっこうに雰囲気が良くならない。もの憂そうに窓から目を逸らしまた俯く。どうなってるのかしらいったい、日本の高校生は。これでも若者? 腹が立ってくる。
 すぐにでも教室から出ていきたくなったけど、そういう訳にもいかず、つまらない授業をする。ぜんぶ英語で早口でしゃべってやる。霧の中どころか、闇の中で授業をしてるみたい。物音一つせず静かなのに、わたしが黒板の方に後ろ向きになって板書する度にカシャという音がする。振り向くとなにも変わったことはないので気にもしなかった。
 後のクラスも似たり寄ったり。うんざりする。こんな調子で一年間続けなければならないのかと思うと気が重い。
 千賀旅館はほんとうに快適。生まれて初めての日本式の生活だけど、千賀子ねえさんが色々と気を使ってくれたり、教えてくれるので楽しい。笹井さんが、日本では年取った女性でも「ねえさん」とつけて呼びなさい、と教えてくれたから、そう言っているの。泊まり客は時々しかない。それもお馴染みのどこかの会社の営業の人らしい。これで経営が成り立つのだろうかと思う。
 困ることが一つ。熊野町長のこと。後援会の人を呼んでは千賀旅館でしばしば宴会をやる。その度にわたしを呼びに来て一階の会場に連れていく。始めのうちはわたしを歓迎してくれていると思い、有り難かったけど、どうも違うみたい。
「わしが呼んだ、わしがカレン女史を呼んだんぞ」
 こう言って自分の宣伝をするばかり。それに後援会の人達がわたしを見せ物でも見るような目で見て、珍しがるのは嫌。時には酔った町長、わたしの身体に触ったりする。だんだん、馴れ馴れしくなるみたい。
「カレン先生、気をつけたほうがいいですよ。あなたの良くない噂が町に流れ始めてますよ。すみませんねえ、うちの旅館でご迷惑をかけて。町長には主人が亡くなった時に世話になったので、宴会を断る訳にもいかないのです」
 やさしく千賀子ねえさんが忠告してくれた。七月には町長選挙があって、対立候補が出るらしく、熊野町長は必死らしい。でもそんなものにわたしは利用されるわけにはいかない。かといって町長の言うことに従わない訳にもいかない。執念深そうな性格だから。
 一週間ほど経った。昼休み、職員室で岩石先生が、それでなくても品がよくないのに声を荒げて、一人の男子生徒を怒り始めた。
「こんな下品なことをする奴があるか、馬鹿者」
と言うと頭をポカリとやってしまった。背の低い生徒は大げさな仕草で声を上げて泣きだす。それにしては涙が出ていないのは不思議。日本の高校生は涙を流さずに泣くのだろうか。すぐに校長が飛んで来る。
「いけません、いけません、岩石先生。体罰はいかなることがあってもいけません。興奮を静めなさい」
 大浜校長、おろおろしながら言う。
「なにも興奮なんかしてない。頭のほこりを払ってやっただけだ。授業中にこんな写真を撮るというほこりをね」
 実際、岩石先生は平気。この人なら戦場に行ったって顔色を変えないに違いない。
「ヘェー、この写真を・・・  ほう、こりゃ、熊野君、よくない。でもまあ、興味を持つ年頃ですから」
 校長と岩石先生が何か言いたそうにわたしの方を見る。わたしに関係のあることなのかしらと、ちょっと驚いて、そばへ寄って写真を見た。
「マアー!」
 なんとわたしのお尻の写真。授業中、黒板に向いていた時の音はシャッターの音だったのだ。あんなに、もの言わぬ草木のような生徒たちがわたしの視界がはなれた途端に、こんなことをするなんて。確かにわたしのお尻は背丈からすると大きい。見たければ堂々と見ればいいのに、若いくせにこそこそするなんて嫌い。
「これは単純ないたずらでは済まされない。人権問題だ。処分ものだ。日本の恥だ」
 メガネの奥のこれもまた品の悪い目をギョロリとさせて岩石先生が大きな声を出す。わたしのお尻を平気でジロジロ見る岩石先生が言うから何かおかしい。
「そんなことより、町長の家に今日中にでも体罰を与えたことを謝りに行かねばなりません」
 少々心配顔になって校長が言う。わたし、この時になって気がついた。熊野君は町長の息子なのだ。そういえば、おかしいほど似ている。
「まず生徒の処分を決める職会を開くべきだ。それに、俺は謝りに行く気などまったくない。町長がカレンさんに謝るのが筋だ。たかが頭を撫でたくらいで・・・」
 ますます偉そうな態度になる岩石先生。どちらが校長かわからない。
「校長、あんたは町長がこわいのか。町長が県教委にあんたの悪口を言って圧力をかけるのを恐れているのだろう。校長までなったら後は無事に退職したいわなあ」
「なんと無礼なことを言うんだ、君は!」
 険悪な雰囲気になって、桑川教頭があたふたとやって来る。
「まあまあ、お二方も落ち着いてください。こんなことになりはしないかと私は初めから心配で、カレン先生には服装には充分注意してください、とお耳に入れておいたのですが、なにせ外人の方で体格がりっぱなものです
から・・・」
 嫌な言い方をする教頭に腹が立つ。
「そんなこと一度も聞いておりません」
 むきになってわたしが言うと教頭は驚いた様子。岩石先生は感心したようにわたしの顔を見詰めてうなずく。
「いや、それとなくほのめかしたつもりだったのですが、もし通じていなければ、私の配慮が足りなかったので・・・」
「もうよろしい。とにかく私は一人で謝りに行きます。まぎれもなく本校の教員の行った体罰ですから、当然です」
 腹立たしそうに校長は職員室を出て行った。

          (三)

 かなり暑くなってから、新年度で最初の学年行事がある。ホームルーム合宿と言って、新しいクラスの人間関係を深めようというもの。いつも海を見ているので、一泊二日で山の中に行くという。
 当日の朝はあいにくの雨模様になったけど、定刻に団体バスで学校を出発した。しばらく平地を走った後は狭い山道の連続。前から車が来るとどちらかがバックして道をゆずらなければならない。時々窓ガラスに青々と延びた木の枝が当ったりする。それにしばしば濃霧がかかっている場所を通り、周囲がまったく見えなくなって、歩くほどのスピードになってしまう。濃霧の薄れたところでふと見ると川の深い淵のすぐそばを通っていてびっくりしたり、濡れたツツジの花の鮮やかさにちょっとセンチメンタルになる。バスは飽きもせずノロノロと登り続ける。
 生徒は大はしゃぎ。教室での授業の雰囲気を思うと、いったいどこにこんなエネルギーがあるのかと不思議に感じる。日本の授業はミサに違いない。
 三時間ほど乗ってどうにか宿舎にする山の家に着いた。かなり高度はありそう。遠くから雨雲が低く近づいて来たかと思うと、急に一面に濃霧がかかり細かい雨滴が落ちてくる。でも、すぐに通り過ぎて薄い曇り空が広がる。ほんとうに周囲に見えるのは山ばかり。
「よく晴れた日にゃ、あそこの山と山の間からちょっとだけじゃが海も見えるがな」
 年取った管理人が珍しそうにわたしのそばに寄って来てなんだかんだと話し掛けてくる。昼食を終えてからオリエンテーリングとなる。通過地点に立つ先生方が先に出発して、しばらくしてから生徒達がグループごとに元気よく出掛けて行く。特にわたしの役割はなかったので、ブラブラと歩いてみる。
 雨の降る時間と回数がだんだんと少なくなり、空が明るくなって、遠くの山並みまでクッキリと見えてくる。山道を奥深くまで歩いたところで、大きな木の下に涼しげな場所を見つけた。そこに腰を降ろして、しばらくおいしい空気を吸う。木々の青々とした葉に遮られて姿は見えないけれど、遠くの方から男女の生徒達の早口でしゃべる声が近付いてくる。ここはオリエンテーリングのコースにはなっていなかったはずなのに。やがて少し離れた所に姿が見えてきた。男子四名と女子三名が楽しそうにやって来る。先頭になって偉そうに歩いているのは熊野君に違いなかった。タバコを吸っている。わたしにはまだ気がついていない様子。
「アッ!  カレン・・・」
 目の前に来てからようやくわたしに気付いた熊野君、慌ててタバコを隠してから愛想笑いをふりまいて行く。ほかの生徒も驚いてわたしを見るけど、すぐに目をそらせて俯き、おしゃべりもやめて足早に通り過ぎる。そして何度も振り返りながらヒソヒソと相談する様子で見えなくなった。なんとなく嫌な雰囲気。わたしはその後、しばらくまたブラブラと歩いてから宿舎へ帰った。
 夕食の時、何気なく熊野君等のことを話すと、岩石先生が目の色と顔色を変えた。
「ヨーシ、今度こそ処分してやる」
 獲物を見つけた荒々しい動物の様な息遣いで、とても教育者の姿とは縁遠い。よほど熊野君が嫌いに違いない。食後は各クラス別の行事で、カラオケ大会や隠し芸大会をやり、宿舎全体が大騒ぎ。どうして、遊ぶ時にはこんなに元気になるのかしら。
 そんな中、岩石先生は熊野君を教員用の部屋に引っ張って来る。それから他の六名の名前を聞き出してその生徒達も連れて来た。
「熊野、お前はよくも学校行事中にタバコを吸いやがったな。他の奴も喫煙同席で同罪だ。ただ、素直に認めたら熊野以外は許してやってもいいが」
 まるで脅迫みたい。しばらく生徒は黙ってうなだれていたけど、男子の一人がとぼけた顔をしてキョロキョロと周囲を見回す。
「誰かタバコ、吸ったんか?  俺は知らんぞ。このなかで誰か吸ってるのを見た者がおるんか?」
 寝ぼけ声で言う。
「いいや、誰も見てない。人違いとちがうか」
 他の男女も低い声で合わせる。そしてわたしの目をチラチラと睨むの。わたしは呆れて何も言う気にならない。
「お前ら、ちゃんと申し合わせができとるな。嘘をつけばつくほどひどい目は合わせてやるから覚悟しておけ。カレン先生に見られておるのは分かっておるんじゃろが」
 今度は熊野君が卑屈そうに言う。
「そりゃ、カレン先生には会ったけど、絶対に吸ってはいなかった。本当です。神に誓ってもええ」
 平気に言うから腹が立ってしかたがない。
「熊野君、あなたが吸っていたでしょう、正直に言うものよ」
 わたしが遠慮して言わないと思ってたのか、少しギョッとする。でもすぐに自信に溢れた態度になる。
「俺は吸ってはない、と言うとるやろ。ちょうど火をつけたところのタバコを持ってただけじゃ。いっぷくも吸うてない。それはみんなが証明しとる」
 なんとふてぶてしいんだろう。間違いなく吸ってたくせに。
「正直に言ったらどうなの、事実、吸ったのだから」
 わたしもついに金切り声をあげる。それから馬鹿ばかしくなって部屋を出た。
 クラス行事も終わり、就寝時間が過ぎてから教員が全員集まって、熊野君達をどうするかで相談した。その結果、本人達は吸ってないと言い張っているが、明日のバレーボール大会には参加させなくて、掃除をさせ、学校に帰ってから職員会議を開いて停学処分にすることに決まった。これは岩石先生の意見にみなさんが賛成したことによる。
「しかし、熊野は最後まで吸ったとは言わないでしょう。しかも一緒にいた他の連中もいくら聞いても本当のことを言わないでしょう。タバコを吸うていない、未遂で処分するとなると、これはまた問題になるでしょう。なにせ相手が相手ですからねぇ」
 気の弱そうな先生が困った様子でつぶやく。
 深夜になってから誰が連絡したのか、校長が車を飛ばしてやって来た。顔色を変えている。
「学校外での行事、例えば修学旅行とか合宿における生徒指導上の問題はその期間中に指導を終え、日常的な学校生活にまで尾を引かせない、という教育的配慮をとることが本校では伝統としてあります。岩石先生は本校に転入されてまだ年が浅いからご存じなかったのでしょう。そうですねぇ、山本先生」
「はい、確かに何年か前に職員会議で、生徒に無意味な苦痛を与えるべきではない、ということでそのように決定いたしたと思います」
 ペコペコする山本先生の顔を見ると、わたしが初めて学校に来た時に職員室で目が合っただけで顔を真っ赤にした先生だ。
「そんなことは今までに一度も聞いたことがない。現に俺がこの学校に来てから、修学旅行中の喫煙生徒を帰って来てから停学処分にしたじゃねぇか。伝統などとっくに無くなっている」
 噛み付くように岩石先生が言う。
「いやいや、その時には伝統をたまたま思い出さなかっただけで、民主主義ですからわたしは当然、職会の決定に従います」
「都合のいいことを言うな。それじゃ、今回の件で職会を開き、伝統に従うかどうか、決めようではないか」
「必要ありません。職会を開くかどうかは校長の権限です」
 顔をこわばらせて校長は言い切る。
「大浜校長、あんたは何しにここへ来たんだ。あんたは町長の息子が処分されたら困るんだろう。前のヒップ事件の時もうやむやに済ませてしまっただろうが。今度も熊野のおっさんに言われて、揉み消しに来たんだろう」
 だんだんと感情的になってくる。
「馬鹿なことを言うものじゃない。私は私の教育者としての信念にもとずい
た言動を取っているだけです」
「都合のいい信念だ」
 永遠と口喧嘩は続く。窓が白みかけた頃になって、とりあえずバレーボール大会には参加させないことで落ち着いた。
 二日目は見事に晴れあがった。午前中バレ―ボールで汗を流して、おいしく昼食を食べている時、帰りのバスが迎えにやって来た。

          (四)

 日曜の朝、熊野町長がわたしを迎えに千賀旅館に来る。外に出ると例の車が待っている。運転手つきの公用車だ。中を覗くと校長と山本先生が乗っている。
「山陰に来て松江城を見物せなんだら、後悔するけんねぇ。今日はカレン先生にお城を案内するけん」
 車が走り始めると町長のおしゃべりも続く。日曜のせいか、道路が空いていて一時間ほどで着く。日本のお城、ぜひとも一度、見たかった。できたらこのメンバーではない人に案内してもらいたかったけど、まあいいか。
 車を降りたとたんに大感動。目の前のお堀は静かな湖面にお城や豊かな緑の木々の映像を逆さまに映している。それを前庭にして奥に長い歴史を感じさせる石垣が永遠に動かない生き物のように鎮座していらっしゃる。さらにその上に少々ひかえめに、それでいてずいぶん存在感のある天守閣が天空の懐に抱かれているようにたたずんでいる。ほんとうに美しい。日本の建築美は繊細で確実で、周囲の自然に溶け込んでいるように見える。
 遊歩道を歩き、石段を登りきると天守閣のそばに出た。ご立派な玄関を入って最上階まで行く。なんと素晴らしい眺めだこと。三百六十度、周囲に視界を遮るものがなく、湖、山並み、空港、市街地等、一望できる。風も涼しい。
「小泉八雲もこよなく愛したお城です。彼はアイルランド人ですが、日本の美に魅入られ日本女性を娶り、日本人となって生涯を過ごしました・・・アッ、そうそう、八雲も島根県尋常中学校の英語の教師を一時やっていました。それに、八雲は自分のことを『ヘルン』と自称していました。カレン先生と似てますねえ、ヘッヘッヘッ・・・」
 痩せて頼りなく歩く山本先生が声におかしな調子をつけて言う。また、いつもの癖なのかしら、顔を赤らめている。山本先生は四十才に近いらしいのにまだ独身で、国語を教えている。
「なんしても、松江は文学の町じゃけーなあ。日本の文学は全部、松江から出ちょる」
 得意になって町長は言うけれど、この熊野町長と文学とはなんにも関係なさそう。
「あんな所にアゲハチョウが飛んでいます。こんな高い場所までよくやって来るものですねぇ。『城門に蝶の飛び交ふ日和哉』 実にいいですねぇ」
 ヨタヨタ歩きながら感動した顔で山本先生が言う。
「チョウは下から上がったもんじゃない。この辺で出てきたやつだわい」
 町長は馬鹿馬鹿しそうな顔をしている。
「しかしまあ、松江は歴史があり、それにふさわしい雰囲気の漂う町です」
 町長の前では余りものを言わない校長がボソボソつぶやく。
「そういう地にはるばるオーストラリアから来日して教鞭をとっていただくカレン先生はやはり、現代のヘルン、小泉八雲ですねぇ。ヘ
ッヘッヘッ」
 どうも山本先生の言う事はよく理解できないけれど、気持ちの悪い声の出し方は何とかならないのかしら。
 ベンチに三人で腰を掛ける。空港を飛び立った飛行機がゆっくりと孤を描きながら上昇している。ふとオーストラリアが懐かしくなる。
「八雲といえば、日本の良さを宣伝しちょった。日本の良さちゅうのはなんでもはっきり物を言わないことじゃ。なんでも公にするのは好かんのが日本人だ。あまりはっきりと物を言わないほうが趣きがあってええんじゃ。それが伝統というもんじゃろ、なあ、校長」
 町長は校長の肩をポンと叩く。校長はビクッとする。
「はい、そうです。日本人というのは外国の人と違って、平安朝の時代から婉曲に物事を表現するのが情趣深い、味わいのある捉え方だということになっております。それで狭い人間関係も滑らかに保つことができたのでしょう。ところでカレン先生のお国では先進国ですから、子供がタバコを吸ったくらいでは問題にならないのでしょう」
 頭を下げ、両手を擦り合わせながら校長が言う。
「ダメです」
 嫌な気がしてきて、わたしは無愛想に返事する。ほんとうは喫煙の年齢制限も低いし、学校では吸ってはいけないけれど、たとえ吸ったとしても停学処分などになる訳はない。校長も町長も困った表情になっている。
「しかしまあ、日本には郷に入れば郷に従え、という諺がある。外国の人にはこんな事は分からないじゃろうが、日本でははっきり物を言わんのがええに決まっとるがや」
 遠い海の彼方に目を向けて町長が低い声でつぶやく。
「山本君、なにか、食うもの、買うて来んかい」
 町長が気づまりな雰囲気を逸らせるように言う。
「ところで、町長選の告示も後、一月とわずかですねぇ。町長もいよいよ忙しくなられるでしょう」
 校長は町長に対してはいつも低姿勢。岩石先生が言っていたように町長には弱いに違いない。
「そうじゃ、今度は対立候補も出て、相手も頑張っとる。今までのわしの実績は誰も認めとるとこだが、それをあの何の力も無い若造がなんだかんだと批判しよる。あんな口先だけの奴にまかしたら、岬町は潰れよる。絶対に勝たにゃいけん。町のためになあ」
「それはごもっともです。町長のおかげで学校もずいぶん発展いたしました。わたしも勝っていただかないと困ります」
「猿は木から落ちても猿じゃが、政治家は選挙に落ちればただの人間になるけん。対立候補の奴、わしの家族の事ででも悪宣伝をしよる。足を掬われんようにしとかないといけん」
 おでん、ところてん、とかいう物を山本先生がおぼんに載せて持って来た。
「それにしても、岩石先生には困り果てます。あの人ほど学校の団結を乱し、混乱させる人はいません」
 こう言って校長はところてんをズルズルと二口、三口で食べてしまう。
「校長、岩石ちゅう奴は恐い男ぞ、あいつは人殺しじゃけんのう。知る者は知っとるぞ。あいつが岬高に赴任してきた年じゃった。あいつは嫁はんもおるくせに学校の新任の女教師に手を出しよった。それが嫁はんにばれよって若い女教師を殺した。死体はいまだに見つからん。おそらく絶壁から突き落としたのじゃろう。あいつは気にいらん人間を誰にも知られずに消してしまう、恐い奴じゃ」
「ええ、そうでしたねぇ。あの時には私も困ってしまいました。次の教員を捜すのに駆けずり回りました。横田喜美子先生ですよ。町の者で知らない者はおりません。ほんとうに恐い男です。カレン先生もあまりよく思われていないようですから、充分に注意をしたほうがよいと思います」
 いかにも恐そうに校長は言う。
「まあまあ、そのくらいにして八雲記念館の方に行こうではないですか。あそこには、素晴らしい資料がたくさん展示されていますから」
 食べた後片付けをしながら、山本先生が声を出す。わたしは食べるには食べたけど話の内容が重苦しくって、美味しいのかどうか分からない。
 ゆっくりとした勾配の遊歩道を下って行くとお堀に架かっている感じのよい橋に出る。それを渡ってしばらく歩くと小泉八雲記念館があった。
 なかに入ると歴史的な資料がたくさん展示している。外国の歴史をその国で実際の資料を目の前にして勉強できるなんて素晴らしい。一つ一つゆっくりと見たいのに、町長、校長はさっさと先へ歩いて行く。私と山本先生の二人になって、すこしゆっくり見る。
「この記念館の隣には小泉八雲旧居があるのです。外国人だったハーンは日本人の奥さん、セツさんとこの地で出会い、永遠の契りを結んで隣の旧居で共に生活していたのです。人生における人と人との出会いほど大切なものはございません。そうですねぇ、カレン先生」
 必要以上に山本先生が接近してくる。町長と校長はもう見えない。わたしは何も答えない。あまり良い気分ではない。
「カレン先生、私も貴女との出会いを大切にしたいのです」
 山本先生はぎこちなくわたしの肩に手を掛ける。その手が震えている。いやだわ、この人、わたしにプロポーズしているつもりらしい。
「残念ですけど、わたしにはそんな気などまったくありません。山本先生は好きなタイプではありません」
 はっきり、早目に言ってやった。山本先生は慌てて肩から手を離すとガックリとうなだれる。わたしは町長と校長の進んだ方へ走って行った。後から山本先生、見る影もなく萎れてフラフラとやって来る。
「山本君、ダメじゃったか、まあ、そういう事もあらぁ。合わんかったんじゃのう、ウワッハッハッハッ」
 周囲に遠慮のない大笑いで、町長がおもしろがる。なにか嫌な感じ。今日のことは始めから筋書きがあったみたい。
「わたし、帰ります」
 こう言うと三人とも慌てて駐車場の方へ歩き始めた。

          (五)

 旅館でちょっと気になることがある。下着が時々無くなるの。どうしたものか、と困っていた時、ふとしたことで娘さんの、美穂さんの下着をチラッと見かけた。間違いなくわたしのだった。
 誰に相談したものかと悩んだけど、思いきって千賀子ねえさんに二人だけの時に言った。もちろん美穂さんが身に着けていたことは言わない。
「ちょっと待っていてね、見て来るから」
 勘のいい姉さんだから何か気がついたよう。部屋から出て行って、そしてすぐにまた入って来た姉さんの手には無くなったわたしの下着が何枚か握られている。
「ごめんなさい。うちの美穂が・・・」
 千賀子ねえさんの目から涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「カレン先生は始めから美穂の仕業だと分かっていたのでしょう。それが言いずらかったのね。日本にまで来て嫌な思いをさせて、許してください」
 頭を下げたまま姉さんはまだ泣いている。
「すぐに美穂を呼んで謝らせますから」
「いえ、いいんです。もう、これから無くならなければ。千賀子ねえさん、そんなに気にしないでください」
 こう言ってもなかなか泣き止んでくれない。しばらくしてどうにか落ち着いたよう。でも顔を上げた姿を見ると何か思い詰めた様子になっている。
「実はうちの娘と町長とは以前から出来ている仲なのです」
「エッ!」
 わたしは驚くよりもむしろ、あの無作法な町長と気位の高い美穂さんとの組合わせが、いかにも不釣り合いで、何か異様な気持ちになる。
「主人が長生きしてくれていれば、こんな事を許すはずはなかったのに・・・主人が亡くなってから町長に色々お世話になり、結局はその替わりに美穂との関係を認めることになってしまいました。おそらく美穂は、最近あなたと町長が親しそうにしてると思い、嫉妬心からした事だと思います。もちろん、美穂は町長の事をよくは思ってはいません。でも女心って、こんなところがあるんですねぇ。美穂には厳しく言っておきますので許してやってください」
 泣き張らした目をして姉さんは部屋を出て行った。
 オーストラリアでもこんな人間関係は当然あるのだろうけれど、なにか長居をするとだんだん暗くなってくる。学校での生徒達の反応も始めの時とほとんど変わらない。授業の時は皆、無気力。こちらまで授業をするたびにしんどくなる。
 しばらく開かれていなかった職員会議がもたれた。黒板に書かれた議題を見ると、熊野君の件は出ていない。結局、うやむやになっている。ほとんど意見が出ないままで、議事は「異議なし」の声だけで進んで行き、最後の議題も簡単に原案が通る。これならわざわざ会議を開く必要もないのにと思う。議長が閉会を告げようとしている。
「議長!」
 怒鳴るような声を出して、岩石先生が手を上げて立ちあがる。
「緊急動議だ。ここでH・R合宿における熊野の喫煙についての処分を審議しょう」
 急に全体がザワザワと騒がしくなったけど、すぐに触れてはならないものに触れたかのように皆うつむいて黙ってしまう。
「審議をすると言っても、原案がなければどうしょうもない訳で・・・」
 議長がおろおろしながら言う。
「それじゃあ、俺が原案を出そう。行事中の喫煙だから、停学一週間だ」
「ちょっとお待ちなさい。それはおかしいですよ。本校の伝統として、行事中の生活指導上の問題はついてはその期間内に指導を終える、ということが職員会議で以前に決定されていることですから、そのような原案は全教職員の意志を無にすることになり、いわゆる原案とは成り得ません」
 慌てて立ち上がった校長が手振り身振りで言う。
「伝統などはどうでもいい。そんなもので結論づけられてたまるか。この職会で新しく決めれば伝統はいくらでも変えられるだろうが」
 腹立たしそうにまた岩石先生が怒鳴る。
「まあ、まあ、そんなに興奮せずに。審議事項になるかどうかは別にして、この際、意見があるならば参考意見としてお聞きしたらいかがでしょうか」
 立ち上がるとさらにノッポが目立つ教頭が見下ろすように言う。
「それでは参考意見としてだけでお聞きしたいと思いますので、よろしくお願いします」
 議長は隣の校長にいかにも気を遣っているふうに言う。 
「議長!」
 山本先生が手を上げる。あれ以来、わたしと目をあわせない。
「教育現場における処分については充分な配慮が要求されます。基本的に本校は現場主義です。問題行動の現場を確認しなければ処分の対象にしてはいけないでしょう。これは生徒を信じる、人間を信じるという教育の根本を守りたいからです。熊野君の場合、火のついたタバコを持っていただけで吸ってはいない、と本人が言っている訳ですから、それを信じるのが教育でしょう。従って本来、審議事項にはならないものです。また、教育現場における処分といいますのは、問題行動の大小によって決められるべきものではなく、本人が今後どのように更生していくのか、を根本にして考えなければならないものです。そうしますと、熊野君は正式な処分の対象にならないにもかかわらず、合宿中のバレーボール大会には自粛して参加しておりませず、また本人もすこぶる反省をしております。一般世間ではなく、教育現場においてこれ以上なにが必要だというのでしょうか」
 校長の方を見て媚るように頭を下げて山本先生が座ると、校長は満足そうにうなずく。
「議長!」
 今度は勢いよく岩石先生が立ち上がる。
「そんな話、馬鹿々々しくて聞いていられないぞ。それじゃ、熊野はタバコに火をつける時、口で吸わずに線香にでもつけるようにしたと言うのか。現場だ、現場だと言うが、吸っていたくせに、火のついたタバコを持っていただけだと言う、このいじけた根性こそ問題だ。その根性を直してやるのが教育だろう。その為の処分だ。今のままで終わったら熊野は、世の中はうまく言い逃れりゃ得をするものだ、と思わせてしまう。断じて処分をするべきである」
 ドスンというように岩石先生は椅子に座る。わたしは事実、吸っているのを見たのだから岩石先生に賛成。でもあの人は恐い人らしいから簡単に賛成とも言えない。続いて教頭が思わしげに立ち上がる。
「吸ったか、吸わなかったかということももちろん大切な事ですが、もっとその奥にある本質に少し目を向ける必要があろうかと思います。私が直接、熊野君に聞いたところによりますと、あまり大声で言うべきことではご
ざいませんが、彼はカレン先生のことをいつも性的な目標として思い詰めているようでして、そういう意味で好意をもっており、なんとかしてカレン先生の気を引きたい、と思って今回も火のついたタバコを持って歩いたということでございます。複雑に感情の交錯する年頃の子供でございますから、そういう気を起こさせないように配慮する必要が教師側にもあったのではないかと考える次第です。もちろん問題行動に対してはそれなりの処分があって当然かと思いますが、同時に学校側としても反省すべきではないかと思うのです」
 どうしても教頭先生の言い方には腹が立つ。嫌な人間。わたしが森の木の下にいるのを熊野君達は目の前に来るまで気がつかなかったのに。
「ええ、タバコを吸っていなかったとすれば、本来、こんな討議もする必要は無い訳ですから、ご感想を今伺っている訳です」
 司会がそろそろ終わりにしたい雰囲気で言う。このまま終わられたのではわたしの気持ちがすっきりしない。事実をはっきりとすべきであると思い、意を決して手を上げた。司会がわたしを指名しようとすると、校長がそれを制して勢いよく立ち上がる。
「もう、この話は打ち切りにします。いつまでたっても水掛け論にしかなりません。もともと議題としてふさわしくない訳ですから。時間が過ぎています。校長としまして私は教職員の皆様に勤務時間を越えてまで続けていただくことを心苦しく思います。これで職員会議を終わります」
「ちょっと待てッ!校長のタヌキ。あんたはそれでも教育者か。選挙の応援をするつもりか」
 岩石先生は席を立って校長へつかみ掛かろうとしたが、校長はそそくさと会議室を出て行った。ほかの先生方も逃げるように出て行く。わたしはさらに気分が滅入る。
 処分するとかしないとか、どのように指導するかは日本の高校の方法でやってもらえればいい。だけどタバコを吸ったという事実をどうして皆の前ではっきりできないのかしら。日本の高校ではなにかの事情で事実がいくらでも曲がるに違いない。今日の会議の雰囲気では岩石先生は反主流派のようだけど、熊野君に関しては岩石先生に賛成。でも、校長や町長の話によると岩石先生にも随分、裏があるようだから単純にはいかない。
 海はこんなにきれいなのに、どうしてここに住んでいる人達はこんなにも心が曲がっているのかしら。

          (六)

 町長選挙が近づくにつれて町が騒がしくなる。人々の顔の表情にはとげとげしさが出てきたような気がする。千賀旅館での熊野町長の後援会の宴会も日を追って多くなる。それとなく気をつけていると、確かに熊野町長は宴会の終わった後、帰らずにそのまま泊まり翌朝、旅館を出て行く時があった。あれ以来下着は無くならないけど、美穂さんはわたしと顔を合わせることを極端に避けるようになっている。
 町におかしな噂が流れている。わたしがフリーセックスの象徴のような存在で、公用車を使って町長や校長やその他の教員と遊び回っている、と言うの。狭い町のことで、噂はアッという間に広がったみたい。わたしが学校の行き帰りに町を通ると批判がましい視線によく合うようになった。なかには、聞こえよがしに、オーストラリアに帰れ、と指差して言う人さえいる。
 この噂は自然と出てきたものではないように思える。誰かが意識的に流しているみたい。女の直感っていうのかしら、それがどうも美穗さんらしいと思うの。下着の仕返しに違いない。でもちっょと不思議に思うこともある。こんな噂を流せば熊野町長は選挙でたいへん不利になるだろうに、という事。その辺はよく分からない。
 午後の授業がカットの日。午前の授業が終わったけど、町の中を通って帰るのを思うと気が重くなり、職員室でボンヤリとしていた。空き地の方から新校舎建設の音が響いている。この頃、特にうるさくって、空き地側の教室では声を張り上げなければ後ろの生徒には聞こえない。その音を気にしていたところ、プッツリと止んだ。どうしたのかしら、と今度は逆に気になっていると、誰かドタドタと賑やかに廊下を走って職員室に近付いて来た人がいる。ドアを開けて入って来たのは熊野町長だ。
「おう、カレン先生、ちょうどいいところにいた。すぐに工事現場に来なされ。たいへんな事になりましたぞ」
 町長はわたしの手を取ってどんどんと空き地の方へ引っ張って行く。工事現場では人夫さん達が仕事を止めて一個所をぐるりと取り囲んで騒いでいる。
「カレン先生、ホリャ、人間の骨じゃ」
 人夫さんの前に出て町長が指差して大声を上げる。わたし、ゾッとする。今までに本物の人骨など見たことない。確かにテレビや写真で見た物とそっくり。焦げ茶色になって土がこびりついているのを見ていると気分が悪くなりそう。
「こりゃあ、大事件じゃぞ。学校の敷地に死体を埋めた奴がいるということじゃ。それにしてもいったい誰の死体じゃろう。今までにこの町で行方不明になっているのは誰じゃ」
 腕を組んで考える様子の町長がうなるように言う。
「おお、そうじゃ、思い出したぞ」
 町長の声に人夫さん達も真剣な顔になる。
「あれは確か・・・ヨ、ヨコ、そうそう、横田喜美子先生が何年か前に行方不明のままになっとるぞ」
 人夫さんも皆、町の人とみえて横田喜美子という名前が出るとざわめく。
「犯人は岩石の奴じゃ、間違いない。すぐに誰か警察に連絡しろ。そして骨を鑑定してもらえ、横田喜美子先生に違いない」
 人夫頭のような人が急いで校舎の事務室の方へ走って行く。
「おい、みんな、この忙しい時に大変な事件に巻き込まれることになりよったが、事件の方の事は警察にまかして、投票日までに絶対に棟上げをやれるようにしろよ。そうせなんだら、なんの為に新校舎を建てとるか分からんけん」
 最後の方の言葉は小さい声になる。町長はまたわたしの手を取って校舎の方へ引っ張る。わたしは手を離そうとするけど、強い力で握られて抜けない。
「カレン先生も気をつけたほうがええぞな。岩石ちゅう奴は何をしよるか分からん。あいつの言う事に従っておったらどんな目に合うか分からん。今の骨を見たじゃろが、わざわざオーストラリアから来てくれて骨になったのでは、呼んだわしがオーストラリア国に対して申し訳ない。くれぐれも岩石に近付かないように、校長の言う通りしておれば間違いない。なによりも岩石はカレン先生を呼ぶことに始めから反対じゃったけん」
 ちょっとドスの効いた声で言ってからわたしの手を離した。わたしはショクで、雲の上でも歩いているような気持ちで、千賀旅館まで帰り着いた。
 夕食の時、チラッと美穂さんの後ろ姿を見る。なんか、とってもわびしそう。嫌な噂を流しているにしても、憎む気持ちより可愛そうに思う。なにか、みんな、ひどく不幸せみたい。こんな気持ちになりながら、自分の部屋でボンヤリと時間を潰していた。夜遅くなって千賀子ねえさんが部屋に入って来た。
「カレン先生、今日、学校で大変な事があったんですってねぇ」
 入ってくるなり姉さんは心配顔で言う。
「人の骨が出たんです。わたし、ショクで・・・」
 また人骨を思い出すとゾッとする。
「それに、その骨はあの若くって美しかった横田喜美子先生のじゃないかって噂ですねぇ。殺して埋めたのは岩石先生なんですって」
「まあ、そんな事まで早、噂になっているんですか」
 わたしは呆れるより、あまりの早さに感心する。
「町中、その事で大騒ぎですよ。なにせ話題の少ない町ですから、異常な事でもあればそれこそ数時間で広まってしまうのですよ。そんな嫌な面がこんな田舎にはあるんですよ。岩石先生が逮捕されるのは時間の問題ではないかってね、誰もそんなこと信じている訳でもないのに、おもしろがって噂するのです。カレン先生にすればこんな田舎の人間関係が随分いやになるかも知れませんけれど、これも日本の勉強の一つと思ってくじけずに頑張ってください」
 姉さんはこう言って励げまして、お菓子を置いて出て行った。わたしは少し気分は楽になったけど、もつれた糸がほぐせないようで、やるせない。わたしの思いを全部打ち明けて、それに対して明解な答えが欲しいの。なにがなんだかサッパリ分からない。このままではとても来週から学校に行く気になれない。日本に居続けることができない。ああ、こんな時に笹井さんがいてくれたらなあ・・・でも、千賀子ねえさんに言われたように負けてはいけないのだ。とにかく、当って砕けろって諺が日本にはある。恐いけど、岩石先生になにもかも言ってみよう。あの先生は校長や町長が言っているような悪い人ではないような気がするの。これも女の直感かしら。

              (七)

 翌日の夕方、わたしは岩石先生へはなんにも連絡せずに直接、自宅に伺うことにした。およその場所と行き方は千賀子ねえさんに聞いた。突然に訪ねて、もし岩石先生が居なかったらいなかったで、初めての土地を散歩しょうと言うくらいの気持ちでバスに乗る。
 岩石先生の住んでいる所は岬町から四つほど町や村を越した、かなり離れている町だった。どうにか、玄関先までたどり着く。家は平屋でこじんまりしていて、岩石先生のイメージとどこか合わない。ドアは始めから開いていて中から子供さんの騒ぎ立てる声が聞こえている。
「こんにちわ」
 遠慮気味に言う。
「おーい、誰か知らんが勝手に上がって来い、かまわんぞ」
 奥の方で岩石先生の怒鳴る声が聞こえる。おかしいほど学校と同じ。どうやら岩石先生の家では誰が来ても自由に中に入っていいようだ。わたしも言葉に甘え、勝手に上がってヒョイと声のする部屋に顔を出した。
「オーッ、カレンさんじゃないか。こちらに来て座れよ」
 学校でよりも少しやさしそうだったので安心する。
「いつも、頑固な主人がお世話になっています」
 奥さんがコーヒーを持ってきてくれる。岩石先生とはおかしいほど対象的におとなしそうな人。お子さんは三才くらいの男の子が一人居る。この子がまた元気。部屋中を走り回って一時もじっとしていない。時々立ち止まってわたしの顔を見てニッコリ笑う。お父さんよりはるかに愛嬌がある。荒っぽいところは父親似で、愛嬌は母親似に違いない。家庭の暖かさが感じられ、ふとオーストラリアの父母を思い出す。あまりにも平和過ぎて、これから言おうとしている事とそぐわなく思い、言い出しにくい。
「カレンさん、俺の家に遊びに来た訳ではないだろう。言いたい事があればなんでも言ったらいいよ。日本の学校は腐っているから、あんたも苦労するだろう」
 意外とこちらの気持ちを察してくれる。恐いイメージが薄れて、なんでも言えそうな気がしてくる。
「ほんとうはわたし、悩んだあげくに先生の家に来たのです。もう誰かに相談しないと、このままでは嫌になりそうだったから」
「そうだろう。あんたが真面目に頑張っているのには感心するが、周囲の人間が悪い」
「そう言いますけど、岩石先生はわたしが赴任してくるのに反対したのでしょう」
 言いにくいことも全部言おうと思う。中途半端ではなにもかもモヤモヤしてはっきりしない。
「そんな事はどうせ、町長か校長が言ったんだろうが、外人講師を呼ぶ話が出た時、俺は大反対した。あんたが嫌いだという訳ではない。町長の奴、『ふるさとゆたか交付金』などという馬鹿げた税金であんたを呼んだ。教
育に尽力するというのは真っ赤な嘘で、自分の選挙のために税金とあんたを利用しているだけだ。校舎の新築も同じで、学校のためじゃない、全部自分のために公の費用をうまく使ってやがる。そして保身の校長はそれを手助けしている。俺はこんな不純な動機を始めから見抜いていたから反対した」
「そうだったのですか・・・なにかおかしいとは感じていたけど」
 はっきりと岩石先生に言われてみると、それでつじつまが合う。でも、ああ、わたし、ショック。オーストラリアを出発する時、笹井さんにどれほど胸を膨らませて喜びや希望を話したことか、笹井さんからどれほど激励の言葉をいただいたことか。それなのに・・わたしはいったい何のためにわざわざ日本に来たのかしら。
 やれやれ、どの人も自分の事しか考えていないように思えてくる。生徒の事など、どうでもいいのだろう。うんざりする。
 奥さんがそばにいるけど、最後まで心に引っ掛かっている事を尋ねる。
「岩石先生って、恐ろしい人なんですねぇ。横田喜美子先生を殺して、学校の敷地に埋めたんですってねぇ」
「エッ?」
 さすがの岩石先生もこれにはびっくりした様子。奥さんも呆れている。わたしは人骨や噂などについて全部話した。
「ホホホ・・・」
 奥さんがおかしくて仕方がない様に笑う。そして立ち上がって、どこからか一通の手紙を持って、最近の割り印と横田喜美子と書いた差出人の名前をわたしに見せてくれる。それからまた楽しそうに笑う。でも岩石先生は顔をひきつらせている。
「あの野郎、もう許さん。俺がどうしても処分しょうとするから、脅しをかけてきたな。それにカレンさんをも恐がらせて思い通りにしょうとしている。新校舎の予定地は昔は墓場だった。以前から何度も骨は出ている。それを人夫まで使って演出しやがって」
 岩石先生は本気になって怒っている。握り絞めたこぶしが震えているので分かる。
「横田さんは俺が岬高校に転入した時、新採用で入って来た。慣れないことでノイロ―ゼ気味になっていたので、いろいろ俺が相談に乗ってあげたが結局、途中で止めて両親の元へ帰った。今でもこうして時々手紙をくれる。こんな事は町の連中もよく知っているのに、暇人め、噂を娯楽にしてやがる」
 血走った目で岩石先生は空を睨みつける。
「よおーし、鉄槌を下してやる。町長の奴を町民に引きずり下ろして、校長の奴を岬高におれなくしてやる」
「賛成々々、その話に乗ったわ、岩石先生。ひどい連中を痛い目に合わせましょう」
 岩石先生と同じくらいわたしも腹が立ってくる。どうしてオーストラリアからこんなちっぽけな町の町長選挙の応援に来なければいけないの。
 わたしと岩石先生は充分に効果のある作戦を練った。

          (八)

 梅雨の終わりのドシャ降りの時季だと言う。飽きもせず、毎日よく降る。それでもこの辺りは日本の雨季では雨の少ない方らしい。でも、空から集中的にホースで水を撒かれているのではないか思うほどで、なにもかもが湿っぽい。オーストラリアではすでに余程寒くなっているだろうに。
 学校は期末試験の真っ最中。わたしの試験は今日の時間割りの最後の四時限目で、今始まったところ。質問はないかと教室を回って行く。どのくらい答えられているのかチラチラと答案を覗き込んで驚いた。誰もほとんど解答していない。苦渋の表情で、何を質問していいのかも分からないみたい。中間試験の時は初めての試験だったので日本の先生の作成した物を使った。今度はわたしが作った試験だけど、どうやら異質な物になってしまったみたい。どうしょう。
 試験が終わり、職員室のわたしの机の上に答案用紙が集まってきたけど、気が引けて採点する勇気が出ない。それで、自分の部屋でなんとか点数の加算ができるように採点しょうと思い、答案用紙をカバンに入れて旅館に帰ることにする。
 正面玄関を出ると、まともに雨の激しさを感じる。傘などなんの役にも立たない。さしても頭が濡れないだけ。海は雨に煙って沖の方は見えない。わたしは急ぎ足で急な下り坂を降りて行く。生徒達も四限が終わったのでバシャバャと走って帰っている。
 中程まで降りた時、前方で生徒達が人だかりになって崖下を見ているのに出くわした。異常に緊張した雰囲気でなにか大声で叫んでいる。その群れの中から一人の女生徒が血相を変えてわたしのところへ駆けて来る。
「先生、大変、崖から落ちてぶらさがっている。早く助けて!」
 傘を放り捨てて走って行って見ると、路肩の一部が崩れている。海面からはまだ恐ろしいほど高い。こわごわと崖下を覗いて驚いた。ほんとに一人の男子生徒が落ちている。道路から十メートルほどずれ落ちた所の岩にしがみついている。顔は死の恐怖で動物的になっている。とても一人で上がって来れる状態ではない。
「早よ、これにつかまらんかッ!」
 どこから捜してきたのか男子生徒が工事用のロープを持ってきて下にたらし、必死に叫ぶ。ところがロープは落ちた生徒の所へうまくいかない。女子生徒達は発狂したようにロ―プを指さしてつかむ仕草を繰り返している。
「だめだめ、そんなことでは。ロープをこちらによこしなさい」
 わたしはつい怒鳴った。ロープを受け取るとわたしは脇の下を通して胸の前でしっかりと自分にくくりつける。その時、答案用紙を入れていたカバンを崖から落としてしまった。
「さあ、ゆっくり下ろしなさい」
 こう言うとわたしはロープを何人もの生徒に持たせてから、崖から身を乗り出した。生徒達は鬨の声を上げてロープに群がり、握りしめている。そして少しずつ下ろし始める。なんとか足場を確保しながら下りるけど、水を含んでフニャフニャ。恐いより必死。どうにか岩にしがみついている生徒のところまで下りられる。
「ロープの輪の中に腕を入れなさい」
 胸とロープの間を示して大声で言うのに、恐怖心に縛り付けられてか、動こうとしない。雨に濡れて手が滑る危険はあったけど、岩に爪立てるようにしてしがみついている生徒の片方の手をむりやり外してロープの輪の中へ入れた。バレーボ―ルで鍛えていなければ、こんな事はできなかったに違いない。生徒はやっと安心したようで、もう一方の手も岩から離し、ロープを握る。
「よーし、引き上げよ」
 上を向いて怒鳴る。おそらく何十人もの生徒が綱引きのようにしているのだろう、ぐいぐいと引き上げられる。それはいいのだけど、胸の両脇から厚いロープで絞め付けられるようになり、とても息が吸えない。気が遠くなりそう。
 路肩の所まで上がってもますます強く引くものだから、まるで二匹のあざらしのように道路の上を引きずられる。
「助かったぞ、万歳!」
 大勢の生徒が歓声をあげながらロープをほどいてくれたけど、とても立ち上がれない。落ちた生徒も精魂尽きたように座っている。
「まあ、熊野君だったのね」
 あまりにも必死になっていて相手の生徒が誰であるかなどは意識の外だったのだ。今初めて気がついた。
「あっ、カ、カレン先生!」
 熊野君もどうにか、助けてくれた者が誰であるか、意識に上って来たよう。熊野君は顔をくしゃくしゃにして、しばらくわたしを見つめていたが、ワッと抱き付いてくる。
「先生ごめん、わしはタバコ吸うた。こんなええ先生を困らせたらいけん」
「そな事はもうどうでもいいの。助かってよかった。それより立てる?」
 熊野君は勢いよく立ち上がる。さすが元気。わたしは腰に力が入らずもたもたしていると、誰か肩を貸して立ち上がらせてくれる。
「カレンさん、よくやった。町の人もみんな見ている」
 岩石先生だ。言われて周囲を見ると集まっているのは生徒ばかりではない。消防団の人やその他の人もたくさん駆けつけて来ている。さらに雨に煙る下のグランドには大勢の人が集まって様子を見守っていた。
 千賀旅館に帰ってくつろいでいると、町の人達が次からつぎに色々な品物を持ってやって来る。とうとう部屋が一杯になり、千賀子ねえさんは別の部屋を用意して品物を積み上げてくれる。ねえさんのこんな嬉しそうな様子を今までに見たことはない。夜遅くなって熊野町長がやって来てお金の入った封筒を渡そうとするから、手厳しく断ってやった。もう町長は許さないと決めたんだもの。
  試験期間が終わると同時に梅雨明け宣言。空が嘘のように晴れ渡り、夏の太陽が照りつける。試験終了後、採点した答案を返す為だけの授業が数日間ある。それが終われば生徒達は試験休みとなり、待望の夏休みへと続く。
 わたしの答案を返す授業の時、教室に入って驚いた。これが今までの生徒だろうかと疑うほどみんな目を輝かせてわたしの方を見て、生き生きとしている。わたしの言葉を待っている。
「みなさん、答案用紙はあの時、全部、崖から海の中へ落としてしまってありません」
 わたしは自信をもって大きな声で言う。意外な言葉に生徒達は一瞬ポカンとするが、すぐに大拍手が湧く。
「だから点数は適当につけます」  
 今度は大笑いとなる。
「うれしい事に欠点の人は一人もいません」
 一斉に歓声が上がり、教室の中がはち切れんばかりに明るくなる。一人の男子生徒が手を上げて立ち上がる。そして大げさな仕草で窓の外を指差す。
「カレン先生、あの海を見なさい。住んでいる町は小さくとも、心は広げ、世界に希望を求めればええんじゃ」
 もう教室の中はお祭り騒ぎ。日本での最後の授業が楽しくなってわたし
はほんとうに嬉しかった。

          (九)

 公示日が過ぎる。やはり対立候補が出る。狭い町内に宣伝カーがうるさい。情勢は現職有利らしい。対立候補はまだ若いこともあってか、町の人との人間関係が薄いのに対して、熊野町長は良くも悪くも根を張っている。終盤になると町長を選挙で選ぶというよりも、熊野町長を追認する為に投票するという雰囲気になってくる。町長、だんだんと得意満面になり、いたる所でマイクに向かってがなり立てている。
 投票前日の土曜日となる。昼過ぎから学校のグランドで熊野町長の最後の街頭演説が開かれていた。わたしも行く。義理で集まるのか知らないけれど、グランド一杯の人。こんなに町に人がいたのかしらと不思議に思うくらい。おそらく町長があらゆる手を使って集めたに違いない。校長や教頭、その他の先生方の顔も沢山見える。居るいる!岩石先生も知らぬふりで立っている。
 演説会が始まる。生徒集会の時に使う鉄製の高い指揮台の上に最初の応援弁士が立つ。県会議員だというその人はいかに熊野町長が今までに素晴らしい実績を上げたか、くどくどと説明する。そして県全体にとっても有能な人材で、岬町の町長にしておくにはもったいない、なぞと歯の浮くようなお世辞を言って指揮台を下りる。
 国会議員だといって二人目に立った人は自分の自慢話ばかりしたあげく、熊野町長を正義感の強い、人情に厚い、行動派の人である、とほめちぎる。そんな人だったら千賀子ねえさんの弱みにつけこんで美穗さんを好きなようにするはずはない。わたしの目から見ると応援演説する議員は皆、男性として全く魅力がなく、日本ではこんな人が政治家になるのかと不思議に思う。
 いよいよ熊野町長がもったいぶって台の上に立つ。長く喋るのが偉いとでも思っているのだろうか、永遠と続ける。内容は対立候補の悪口から始まってどうでもいいような事ばかり。
「なによりも町民のみなさん、あれをご覧くだされ」
 終わりそうな調子なって、町長は大げさな身振りで空き地の方角に手を上げる。新築中の校舎は予定通り棟上げを終えている。
「わたくしは岬町の将来を思いまするが故に、また、日本国の未来を憂えまするが故に、まずは教育に力をいれました。あの鉄筋の素晴らしい校舎の建築に県を動かしたのは誰でもないわたくしでございます。さらに、歴史ある岬高等学校始まって以来の快挙でありまする外人講師を、遥か遠いオーストラリアから招いたのは実はわたくしなのでございます。あれもこれも全ては町民の皆様、また皆様の大切なお子様の事を思っての尽力でございました。わたしはこのように町の為に尽くさせていただける事を最大の誇りと感
謝いたしておりまする故・・・」
 そろそろ終わるだろうと思って、指揮台の方へ歩きながら岩石先生を見ると、先生もこちらを見てうなずいて前に進んでいる。
 指揮台の所まで岩石先生とわたしが行った時、ちょうど町長が顔中汗だらけにして、自信に溢れた様子で降りて来る。
「熊野町長さん、わたしも応援演説をしてあげましょう」
 こう言うと町長、びっくりした顔をしたけど、すぐに喜びを満面にたたえて司会の所へころげるように走って行った。司会が上ずった声でわたしを紹介する。わたしは気軽な雰囲気で指揮台に上がる。
「みなさん、こんにちわ。わたしはカレン・ウォルターです」
 拍手がグランドいっぱいに湧き上がる。今までの誰の時よりも多い。教頭の顔を見るとまるで敵に対するような視線を向けている。校長はオロオロしてどうしていいのか分からないよう。
「わたしは応援演説ではなくて、ほんとうの事が言いたくてみなさんの前に立ちました。今、町長さんが終わりの方で言った事は全部、嘘なのです」
 町長の方をチラリと見るとまるで小便を懸けられたカエルのようになっている。いい気味。
「教育のため、生徒のためと言いますが、ほんとうは選挙戦を有利にするための材料でしかないのです。わたしは一体なにしにこの岬町に来たのでしょうか。町長に利用されただけなのです。わたしはここに来た事を今は後悔しています。それを思うと情け無くって、悔しくて・・・」
 わたし、ほんとうに涙が出てきた。喉が詰まってしばらく声が出ない。町の人達も同情してくれている雰囲気で、シーンとしてしまう。
「あの校舎も、公示日までに棟上げをしなければなんの意味もない、と町長さんが人夫さん達を怒っているのをこの耳ではっきりと聞きました。また校長さんは生徒や学校のことなど全く考えていない人で、円満に退職するために町長の言う通りにして教育を政治の応援のために使っているのです。わたしは校長先生や町長さんに熊野君のタバコの事で随分、嫌な仕打ちを受けました。最後には口止め料の意味のあるお金さえ渡そうとしました。それだけではありません。町長さんという人は選挙に不都合な者に対しては殺人者の噂まで流して平気な人間なのです。これはみなさんがよくご存じの事です」
 町長は塩を懸けられたナメクジのようになって前に置いている宣伝カーの陰に隠れるようにしている。
「わたしは一年間の予定で来ましたが、今日限りで止めさせてもらって、オーストラリアの父母の元に帰ります」
 校長も教頭もだんだんと後ろ退りして人垣から逃げるようにしている。
「生徒達はほんとうにいい子ばかり。それが教育のためと偽って自分の都合のよいようにするおじさん達に素晴らしい可能性の蕾までも枯らされています。生徒さんにはここにお集まりのお母さんやお父さんから、カレンが頑張るのよ、と言っていたとお伝え下さい。最後に、わたしは町長さんを始め、誰とも深く付き合った人はいません。ただ、熊野町長さんが無理にわたしのお尻に触ったことは事実です。みなさん、さようなら、お世話になりました」
 どよめきと拍手に送られて指揮台を下りると岩石先生がニコニコしながら握手する。わたしはその手を強く握って岩石先生を引っ張り、どんどんとグランドを駆け抜ける。
「ちょっと待て。俺が最後のとどめをさす手筈だろうが」
 岩石先生が走りながら不満そうに言う。
「もう、あれで充分よ。貴方には優しい奥さんと元気なお子さんがいるでしょう。その事も考えて。わたしは始めからこうするつもりだったのよ」
「カレン、お前というやつは・・・」
 岩石先生の手に力が入った。グランドからかなり離れても、どよめきは聞こえ続けていた。
 サヨナラ、岬町。サヨナラ、ニッポン。
    (了)

        【奥付】
   『カレン先生』
     モデルあり
      2000年作
      著者 : 大和田光也