大和田光也全集第15巻
『月はかたぶきて』
(一)
どうにか、ここまで歩いて来た。
若い頃には、わたしは仏師になることを夢見ていた。仏像を彫るのだから、魂を込めなければいけない。その為には魂がその事以外にふらふらとしていてはいけない。だから、生活費の為に仕事をする気もなかったし、結婚をして家庭を持つ気などはさらさら無かった。わたしにとって仏師になることは、出家することと同じ意味を持っていた。わたしは時間さえあれば仏像や仏教書を読んで過ごした。
ところが、大学を卒業する段になり、就職を考えなければならなくなった時、それなりに仏師になる方法を考えたり捜したりしたのだが、結局のところ、諦めざるを得なかった。しかしわたしの心の中には、必ず何時かは好きな道で生きてみせる、今はとりあえず飯を食う為に仕方がないのだ、という思いが強く焼き付いていた。
自分の意に反して、わたしは大手の企業に就職した。さらに又、意に反して結婚もし、一女一男の父親にもなった。
結婚してからもしばらくの間、狭いアパートに住んでいたが、子供たちが大きくなったので、十五年ほど前に少々無理をして、一戸建ての家を二十年ローンで購入した。建物は築古年のボロだったが、土地には家庭菜園を取れるくらいの余裕があった。苦しい質素倹約の生活をして、ローン終了の年を待たずに現在ではローンの返済は終わっている。
上の娘は今春、短大を卒業して、会社勤めを始めている。下の息子は来春に大学入試を控えている。担任の先生の話によると、うまく行けば第一志望に手が届くだろうと言われている。
一般企業の仕事の嫌いなわたしだったのに、会社の中では上司から過分に認められる事が多かった。それは、当然わたしは仕事に情熱など持てなかったが、ただ、周囲の同僚や後輩に迷惑をかけたり、悲しい思いをさせてはいけないと考えて必死に働いたことに因る。同期の者よりもはるかにわたしの出世が早かった原因は、ただこれだけだ。
「石黒君、君の人間性を買う」
上司は皆、こう言ってわたしを引き上げてくれた。上の役職に就く度にわたしは、わたしを評価してくれた方の期待に背いたり、後ろ指を指されるような事があっては絶対にならないと思い、その為には自分を少々犠牲にすることや、謂われ無き泥を被ることも厭わずに仕事をし、上司をとことん守った。
また部下に対しては、わたしのように嫌々出社しいる者のことを考え、できるだけ楽しく仕事ができるように配慮した。その為に、内緒で尻拭いをしたり、暴力団まがいの連中と張り合ったのも、一度や二度ではない。すべて、どうせ生きるのなら皆いじけずに、元気一杯で生きて欲しいという気持ちからだった。
こんな訳だから、会社の方針と部下への思いとの板挟みになって呻吟するのは日常茶飯事だった。一度たりともわたしは、法人としての会社の為に仕事をしょうと思ったことはない。全部、人間の為だった。気が付いてみると、会社を経営する側の役職にわたしはなっていた。
この頃、特に肉体の衰えが進むのを感じる。以前はそれが驚きであり、不思議であった。今まで出来ていたことが出来なくなる。今まで調子がよかったものが悪くなる。その衰えに違和感を持ったものだが、この頃は違う。――あぁ、今度はこの程度にまで、落ちたか、と素直に受け入れてしまう。
時々、目が非常に見えにくくなったり、物が二重に見えたりするし、人の話声が聞きにくかったりする。また、あれほど好きであった音楽を聞くのがうるさくなったりする。小用が近くなったり、便の通じ具合も悪い。歯茎を見るとだんだんと痩せ細ってきている。髪の毛が薄くなり、白くなるのは当然としても、それによって、しみじみと人生を考えてしまうことにもなった。
(二)
多人数の部下をかかえなければならなくなってから、様々な人間の、人生の終わりも見ざるを得なかった。わたしが、この男は人材であると思っていたA氏という課長がいた。彼は頑丈な身体つきをしていて、責任感が強く、しかもてきぱきと仕事をこなした。また、部下に対する思いやりはわたし以上にあり、個人的な面倒さえよく見ていた。将来的にはわたしのポストも譲れるものと考えていた。それだけに、わたしとの付き合いも深く、よく飲みに行った。A氏は酒も強かった。 ところが突然、ある日から酒を口にしなくなった。わたしが、どうしたのか尋ねると、
「どうも肝臓が悪くなっているようです。先日、病院へ行きましたら、精密検査をする必要があると言われました」
と憂いながらも力強く言った。以前にも彼が何回か肝臓を患っていたのをわたしは知っていたので、しばらく酒を断って養生すれば治るだろう、くらいに思っていた。ところが、A氏は精密検査を受けるために入院したが、それきり再び出社することは無かった。癌であった。年齢が若いだけに進行が速いという事だったが、すでに有効な治療方法はない病状だった。
わたしは二、三週間に一度は必ず見舞いに行った。その度に彼が痩せ衰えていくのには驚された。あれだけ頑丈だった身体が見る影もなく萎んでいた。亡くなる数日前に病院で会った時、彼は、
「死にたくない、つらい」
と何度もなんどもわたしに訴えていた。わたしは慰めるしか、仕方がなかった。 彼は数年前に高価なマンションを購入していた。何度か自宅に寄せさせてもらったが、非常に豪華なものであった。A氏が亡くなって、初七日も終わった頃、わたしは自宅を訪ねた。二人の子供は、上が高校生で、下が中学生だった。「早死にした主人の供養の為にも、わたしがしっかりして、子供たちをりっぱに育てなければならないと思っています」
奥さんは健気に語った。会う前に想像していた感じとは違って、奥さんの顔には決意のようなものがみなぎって、憂いは自ら消しているようだった。マンションの多額の残金はローン契約と同時に加入する生命保険で完済になっていた。それに月々の公的なお金も入る事になっていた。奥さんが勤めに出れば、贅沢はできないまでも、二人の子供を育てるだけの経済的な基盤はできていた。こんな事を話す彼女の力強さはわたしの印象に深く残った。
また、Bさんという女性がいた。この人は結婚適齢期を過ぎても、一向にその気配がないので、わたしの気に掛かっていた女性である。ある日、わたしは、
「Bさん、どうして結婚しないのですか。結婚する気がないのですか?」
と尋ねたことがあった。
「いいえ、結婚する気がないのではないんですが、母が数年前に亡くなりまして、残された父親が病弱で、兄弟のうち誰かが付いていないとだめな状態なのです。それで、わたしが父と一緒に住んで世話をしているのです。だから、父が生きている間は結婚する訳にもいかないのです。わたしはこれでいいと思っています」
Bさんは何の迷いもなく答えた。わたしは自分を恥じた。りっぱな生き方に頭が下がる思いがした。 残念なことにBさんもA氏と同じく癌に冒された。肺癌だった。肺一面に多数の小さな癌が出来ていて、手術はできない上に、癌細胞が全身に回っている可能性があった。タバコはまったく吸わなかったのに・・・
Bさんの病状は三十才を少し過ぎた年齢だけに、抗癌剤の治療を受けていたにもかかわらず、A氏よりもはるかに悪化の度合いは速かった。発見されたのが遅かったせいもあってか、会社を休み始めて一月ほどしてこの世を去った。ずいぶん前から自覚症状はあっただろうに、苦しかっただろうに、Bさんは年次休暇もほとんど取らずはたらき、また、父親の病気の事を考えれば自分が病気になる訳にはいかないと思って病院にも行かなかったのだろうと思えた。
御葬儀の日、お父さんに会ってお悔やみを申し上げたところ、自分の為に結婚もしなかった娘に先立たれた無念さ、悲運を嘆きながらも、
「娘の為にも、わたしが長生きをしなければ申し訳ないように思います」
と言った。父親として心中いかばかりなものがあったろうか、と思うと同時に人の世の矛盾を思った。
C君はわたしの大学の後輩であった。君づけで呼んではいたが、結婚もし、小学生の子供もいた。同じ大学出身ということで、会社の上下関係を越えて親しくしていた。C君は誰にも好かれる温厚なタイプであった。大柄で、よく肥え、顔などはまん円に近く、いつもにこにこ笑っていた。彼の直属の上司に様子を聞いてみると、有望と言える程ではないが、信頼ができて安心して見ていられる、と評していた。それが、前日には元気で仕事をしていたのに、翌朝、突然に死亡の連絡が入ってきた。驚いてわたしは彼の家に行ってみた。死因は急性心不全であった。奥さんの語るところによれば、会社から帰って子供と一緒に近くのバッティングセンターで楽しそうに遊んでいた。そして家に帰ってから、不思議に思うほど、いつも子供に優しい主人だったが、異常なほど子供と色々と話をし、離れようとしなかった。それからお風呂に入り、寝た。翌朝、いつもなら本人が起きるのに、起床時間がきても起きないので、不審に思って奥さんが起こしてみると、すでに冷たくなっていた、と言う事だった。
わたしは後輩の死顔をしみじみと見た。生前と変わらず、円い顔に笑みを浮かべていた。残された若い奥さんは、
「まだ、この人が亡くなったとう実感がまったく湧きません。これから少しずつ分かってくるのかも知れませんが、でも、落ち込んでいる暇はないと思います。子供の為にわたしが頑張らなければならないと思います」
と涙を浮かべながらも健気に言っていた。わたしは、なにかこの世のものではないものに腹立たしさを感じ、虚しい気持ちで後輩の家を出た。
又、秘書課の中で社内きっての、活発で美しいD子さんという娘さんがいた。心密かに思いをいたしていた男子社員は多かっただろう。車を運転して、あちこちと走り回っていたようだった。わたしが以前に課長をしていた時に部下として働いていた男子社員とD子さんが一緒に来て、わたしに媒酌人の依頼を願い出てきた。わたしは快く引き受けていた。それでD子さんの家にも何回か伺っていた。平和な一家であった。
ところが、不運といえばそれまでだが、彼女が婚約者の家に行き、深夜まで話をした後、車で自宅に帰る途中、高速道路の側壁に激突した。即死であった。わたしの家には明け方、事故の連絡が入ってきた。わたしはすぐに病院に行った。D子さんの御両親も来ていた。婚約者も来ていた。遺体となったD子さんを見た時、わたしは言葉を失った。婚約者も彼女の姿を一目見て、怯えた様子であった。
時速百キロ出ていたと聞いていたが、これほど遺体が傷むものとは考えてもいなかった。御両親の姿を見るに忍びなく、また、いわば他人の私達がそばに居ること自体が申し訳ないような気がして、わたしは婚約者の肩を手で二三度たたいてそばを離れた。婚約者は恐怖と悲しみでものも言えない状態になっていた。
現在、その婚約者は別の女性と結婚し、幸せな家庭を築いている。 この四人の方の死以外にも、様々な形の死を見てきた。なかには自殺した者もいた。
それらの亡くなった人々は今では会社とは、なんの関係もないものになってしまっている。会社は、社員が死のうが、生きようが、存在し続けているのである。わたしは単に、その数に入らなかったが故にこうして仕事をしているに過ぎない。
わたしの立場としては、社員の様々な死を乗り越えて、あるいは無視して、会社の存続を考えねばならないのだろう。それが今の社会の当然のあり方かも知れない。しかし、この頃のわたしはしばしば、今までに亡くなった社員の事がしきりに思い出されてしかたがない。同時に、後に残された人達が元気で生きている、生きて行こうとする姿は、わたしの思いをさらに深くさせる。それらの人達が逞しければたくましい程、いったい亡くなった人の人生は、命は何だったのだろうか、と思うようになった。
そして、深夜、独りで思いに耽りながら、果たして、こういう死を乗り越える必要があるのだろうか、と疑問に思い始めた。こういう人々の貴重な死を、企業という非人格の立場から観るのではなく、わたし一個の人間として受け止めて、己の人生の糧とすべきではないのか、それは決して現実に、人生に、社会に負けたことにはならない。むしろ人間として当然の生き方ではないのか。そしてそちらの方が、わたしに相応しい本来の人生になるのではないか、という思いが強くなっていった。
(三)
「おい、家を売ってもいいか」
わたしは突然、言った。珍しくわたしが早く帰宅できて、四人そろって夕食を取っていた時だった。もちろん、わたしからすれば突然ではなかったのだが、子供たちには突然に思えたに違いない。妻はそれとなくわたしの気持ちを察していたのだろう、あまり驚かなかった。
「どうして、お父さん、転勤にでもなるの、それとも病気?」
子供たちは箸を動かすのを止めて、わたしの顔を見る。
「いや、そうじゃない。お父さんに残された人生を好きなように生きさせてくれないか、という事だよ」
二人の子供はキョトンとしてしまった。
「まだ定年には十年以上もあるのでしょう。いまにも、死にそうな事を言わないでよ」
娘の真里が呆れた様子で言う。
「いいじゃないの。ここまで働いてくれたんだから。もう、この後はお父さんの好きなようにさせてあげたら」
しばらく黙っていた妻の由美子が感慨のこもった響きで言った。
「でも、僕は来年からは大学に行くつもりですよ。お金がないと進学できない」
息子の博明がちょっと心配そうに言う。
「大丈夫だ。そんなことはしっかりとお父さんが考えている。今の地価高騰で、この家を売れば、お父さんやお母さんの年金暮らしまでの生活費と、博明の大学卒業までの学費と、真里の結婚資金と、さらに、こぢんまりとした新しい家を買うくらいの金額には十分になるはずだ」
「あぁ、それならいいよ。でも、この家を売って、僕らはどこに住むの?」
また博明が心配そうに言う。
「そうだなあ、お父さんはこれから自由人として生きたいから、おまえ達は好きな家を捜して住みなさい」
「エッ、それじゃ、好きな所に住んでもいいの。この家はもうボロボロで、嫌でたまらなかったところ。正直に言うと、恥ずかしくて友達も呼べなかった・・・マンションがいいなあ、新築のマンションが。わたし、マンションライフがしてみたかった」
真里が血色のよい顔を輝かせる。娘は仕事をし始めてから、顔付きが随分しっかりしてきた。それに学生時代よりも美しくなった。
「お母さんは、どうするかね?」
「どうせ、あなたが好きに生きると言ったら、都会なんかでは生活しないんでしょう。わたしは便利な方がいいわ。とりあえず、子供たちと一緒に居ますよ」
由美子は腹の座った女で、長年連れ添ってきたが、いまだ動転した姿をほとんど見せたことはない。今も、まるでわたしの言い出すことが全部、分かっているかのように落ち着いている。
わたしの腹は決まった。不動産屋に評価額を出させると、思っていたよりもはるかに高額なものであった。しかも、その価格ならすぐにでも売って欲しいということだった。妻に金額を言うと、
「こんなに値打ちがあるなんて、夢みたい。これなら、マンションを買って、税金を払って、年金が入るまで生活したってまだ余りますわ」
と驚いていた。実際に最近の地価高騰には、土地を持っている当の本人が、ほんとうにいいのかと心配になるほどである。子供たちは急に元気になって、マンションのパンフレットなどを集め始めた。
「僕も本心はこんなボロ家、嫌だった」
あまり住むところなどには頓着しない博明までが、豪華な写真のパンフレットを見て、騒いでいた。数週間たってから、三人が気に入ったので、これに決めたいというパンフレットをわたしに見せた。その宣伝文句には、『シティ派のハイグレードマンション』と書いてある。数ヶ月で完成予定だった。
「ほんとうに、いいのか、由美子」
わたしは、いろいろな意味を込めて妻に言った。
「ええ、結構ですよ。あなたの気持ちはわたしがいちばんよく知ってますから。それに止めたって、どうせ止まらないのでしょう。わたしはあなたの面倒を見なくてよくなれば、このマンションでまた、娘時代のようにお琴の教室を開きますわ」
妻に憂いがないのがわたしは嬉かった。この夜、わたしは退職願を書いた。大学を卒業して以来、ずっと同じ会社に勤めているのだから、退職願を書くのは生まれて初めてである。さすがに緊張したが、退職理由は、一身上の都合としか書きようがなかった。
会社では、わたしが止めることについての反応は様々ではなかった。一様に同じであるのには驚いた。わたしは、都会の厳しい企業戦争の中に生きる人間としては敗北して、耐えられずして、逃げて行く者として見られるのではないか、と思っていた。そう思われてもいっこうにかまわないとは考えていたが、わたしの真意が伝わらないことについては、不満になるだろうと覚悟していた。
「そうか、そうできるものなら、私もしたい。あなたは幸せ者ですよ」
わたしが自分の思いを打ち明けると、ほとんどの人がこのように答えた。誰も批判がましく、あるいは侮蔑や哀れみの雰囲気を表す者はいなかった。最終的には社長にもお会いすることになった。わたしは、長年お世話になった会社でもあるし、また個人的にもわたしを多大に評価していただいた社長だけに、誠意を込めて、退職に至った心境を申し上げた。
「石黒さん、お互いに一度しかない人生です。どうぞ、あなたの信念に従って生きでください。わたしもこれまで、そうしてきました。それに、ご家族の方が喜んで協力されるというならば、これに越したことはないではないですか。もちろん今、あなたに出ていかれるのは本社としては痛手になりますがあえて、お引き止めはいたさない事にします。ひとりの人間として・・・」
社長は誠実な言葉でこたえてくださった。わたしはこの段に至って、同僚の人々にかつてない恩愛を感じた。みんな、わたしと同じ思いを多かれ少なかれ持ちながら、仕事に頑張っていたんだ、という事がよく分かった。
わたしは後ろ髪を引かれることなく、退職することができた。わたしの生活する場所は心密かに決めていた所があった。それは、いつの日だったか、出張中に車で走っていた時、車窓から見えた<ふるさと売ります>の看板のあった所だ。市内からなら、高速道路を通って二時間半ほどで行き着ける山間部であった。
わたしは車で、そこへ出掛けてみた。あの時の看板がまだ立っている。それに記されている電話番号に連絡を取って、用向きを言った。
「すぐに行きますので、その場でお待ちください」
と言う返事だった。しばらく待っていると、不動産屋がやって来た。
「現在出ている、この辺りの物件を順番にご案内します」
わたしは自分の車で不動産屋の車の後を追った。
五軒ほどの家を見て回ったが、どれもあまり気に入らない。悪い物件ではなく、どの家も住み易そうなよい物であったが、いずれも日常的すぎた。
また、看板のある場所まで帰ってきた。車の外に出て周囲を見渡した。すこし離れた所に南の方から、なだらかに高くなっている山がある。わたしはその山の姿が気に入った。
「あの山の中腹あたりで、一軒、家を建てる程の土地を売ってもらえないだろうか」
山の方角を指差しながら不動産屋に尋ねた。
「エッ、あそこですか。少々、不便でもよろしいんですか?それでしたらお易いご用です。話がまとまり次第、ご連絡さしていただきます」
不動産屋は最初は驚いた様子を見せた。どうやら、わたしが普通の田舎での生活をする家を捜していると思っていたようだった。だから人里離れた山中を指したのを不審に思ったのは無理もなかった。
この日はこれで帰った。翌日、早速、不動産屋から連絡があった。
「持ち主は麓の村に住んでいる人ですが、よい人で、どこの部分でも好きなだけどうぞ、ということです。ただ、電気は引けますが、水道は水圧の関係で無理だろう、ということです。それでもよければ、また一度、場所を選びにお来しください」
良心的な返事と思えた。数日後に、わたしはまた、その場所へ出掛けた。舗装された県道からその山へは、デコボコ道ながらも普通車が一台通れるくらいの林道がついていた。その林道を中腹辺りまで上った所で、見晴らしのよい場所に出た。車から降りて見ると、南面は開けて、点々と建っている村の家々が見渡せる。彼方には遠くの山並みも望める。北面は急に山膚が迫っては来ていず、緩やかに上っている。木々も豊かである。谷の方へ少し歩いてみると、小さな沢があり、澄んだ水が流れていた。
「この水は枯れないだろうか」
わたしは尋ねてみた。
「この水は奥山から流れて来ているものですから、旱魃でもない限り絶えることはありません。途中に民家や田畑があるわけでもなく、充分に飲み水として使えます」
ここはよい場所です、という雰囲気で答える。
「ここがいい。ここをお願いしますよ」
わたしは嬉しくなって言った。土地の値段を聞いてみると、家を建てるスペースとかなり広い庭にすべき部分をいれても、現在すんでいる所に比べると、逆に夢のように安かった。わたしはそこにコンクリートの二階建の家を建ててもらうように頼んだ。詳しい間取りについては後で打合せをすることにした。コンクリートにするのは、こういう場所では火災だけは充分に注意する必要があると思ったからだ。
わたしは自分の落ち着く先が決まったことで、心が随分、静寂になるのを感じた。
(四)
七月に入ってしばらくすると、山の家が完成した。そして博明の学校が試験休みになった。来年の大学受験を目指しての補習は毎日あったが、二・三日なら休んでもよいと言うので、あまり暑くならない内にと、適当な日を選んで、引越しをすることにした。妻や子供たちは、
「新築のあんなハイグレードなマンションには、こんな古臭い家具は合わない」
と言って、家具調度類は全部、新しいのを買った。わたしの方の山の家も、特に家具など必要ではない。自炊のできる最低限度の鍋や釜さえあれば、なにも他にはいらない。
こういう訳で、引っ越しはすこぶる簡単なものになってしまった。家具調度や不要品は保健所に連絡して、臨時のゴミとして回収に来てもらった。それは、家の中の荷物のほとんどになって、残っている大きなものといえば布団くらいのもので、それ以外には衣類くらいしかない。
「ついでに、心機一転、すべての物を新しくしましょうか。生まれて初めての新築の家に、なにもかもおニューなんて素敵ですねぇ」
妻が目を輝かす。そう言えば、妻が生まれた家は新築ではなかったようだし、わたしと結婚してからも賃貸の中古住宅であった。そして買ったこの家は相当、年数の経ったものだった。
妻の由美子は、夫のわたしが会社で昇進した時には、むろん嬉しかったのだろうが、頓着する様子はあまり見せなかった。それがわたしには少々もの足りなく感じられたものだったが、今はそれとは反対で、頬をかすかに紅潮させて興奮気味になっている。
結局、布団も衣類も一部を除いて捨ててしまうことになり、家の中の物はほとんどゴミとなった。間違いなくこのボロ屋も取り壊すだろうから、なにもかも無くなってしまうことになる。
わたし自身の引っ越しは実に簡単なものだった。車のトランクと後部の座席に積んだだけで充分であった。妻や子の方も引っ越しトラックは呼んだものの、
「これなら軽トラで充分ですよ」
と運転手が呆れる程度しか荷物はなかった。
トラックが出発した後、家族そろって近くのレストランで昼食を取った。食事が終わってから、わたしと妻や子はそれぞれの新しい住居へと出掛けて行った。なんとも言えない不思議な別離の感情に襲われた。
わたしは独りで山の家に着いた。二階建にしたものの一階だけで充分に思えた。電気はすでに通じている。
いよいよわたしだけの山の中での生活が始まった。わたしには、するべきことは山ほどあるように思えるが、せねばならないことは何にもないようにも思える。したければしたでいいし、したくなければしなくてよいと思える。
とは言え、まずはなにより、裏山から水を汲んできた。そして湯を湧かしてコーヒーを飲んだ。その美味しさに驚いた。今までにこんな美味しいコーヒーを飲んだだろうか、と思うほどだ。わたしは山での生活の幸せの予感を充分に味わった。
山の生活にわたしはすこぶる満足を覚えた。明るくなれば目を覚まし、暗くなれば眠った。日中でも木陰に入れば風が涼しい。セミ時雨を聞きながら、でこぼこの林道の道端に咲いている、名も知らぬ黄色い小さな花を見ると、まるで過ぎ去った時間が戻って来るような幸福感を覚える。
林道を下って県道に出ると、それに沿って川が流れている。簡単な釣竿を持っていって、そばの土を掘り返し、ミミズを取って餌につけて糸を垂らすと、ハヤが次から次に釣れる。底の方まで沈めると時々、フナも釣れた。
わたしは家の前の庭に穴を掘って、防水用のシートを敷き、その上から河原の小石を入れて簡単な池を作った。そこへ裏山の清水から、大きな竹を半分に割って節を抜いて樋を作り、水を引いた。そこへ釣ってきたハヤやフナを入れると元気で泳ぎ回った。
林道を上って行くと、野生のビワやクリやカキの木があり、小さな実をつけている。ビワを取って食べてみると、果肉は薄いが味はすこぶるいい。イタドリやタケノコはすでに長けているが、野イチゴは取り切れない程、実がついている。さらに林道からそば道を通り、山中に入ると、サルナシの実がたくさん実っていた。わたしはそれらの実を家に持ち帰り、気が向いた時に食べた。
風のない夕暮れ時、庭で枯れ木を燃やし、さらに生木や草を入れて、くすぶらす。煙は辺り一面にたゆたう。こうすると、虫が逃げてゆく。煙の香りが家の中まで入ってくると、今日も暮れるのだと感じる。夜は縁側の戸を少し隙かせると、快く涼しかった。
季節は移り、山々が色ずき始める。初めは気がつくかつかないくらいの変化だが、それがだんだんと深まってゆく。縁側に入ってくる日差しが少しずつ、部屋の奥にまで達してくるようになる。空気が澄みきり、遠くの山までも焦点が定まったようにはっきりと見える。時々、青空を一線の飛行機雲を引きながらジェット機が飛んで行くのが見えたりする。
気が向くとわたしは車に釣り道具を積ん出掛ける。妻や子の居る市とは逆の方角に二時間ほど走ると、海に出た。小さな漁村のはずれに延びている防波堤から釣り糸を垂らす。平日に行くことが多いためか、わたし以外にこの場所に釣りに来る者はほとんどいなかった。
何回か来ているうちに、地元の漁師の人とも顔見知りになった。近くの海岸にまつわる話をしてくれたり、釣れた魚の名前や美味しい料理方法も教えてくれた。
行く度に釣れ具合はいつも違っていた。同じように釣っても海は日々、時々に変化しているのだろう。小物はよく釣れた。まったく釣れないということはほとんどなかった。
アジ、サヨリ、グレ、ウミタナゴ、ベラ、それに時々、大きめのアイナメやチヌも釣れた。時にはさびき釣りで、アジが小さなクーラーに一杯になるほど釣れることもあった。そんな日は家に持って帰って、教えられた通り、開きにして一晩、塩付けにする。翌日、きれいに並べて充分に日干しにする。こうして冷蔵庫に入れておけば二週間くらいはもった。食べたい時に食べたいだけ、それを焼けば、これほど美味なものはなかった。
山々の所々に、木の葉がこんなに赤くなるのだろうか、と思えるほどの鮮やかな紅葉が見え始め、落葉がたくさん風に舞うようになる。
わたしはシブガキを出来る限り多く取ってきて、むいてから軒下に次々と吊るしていった。県道を歩いていると、畑でイモを掘っている老婆に会った。頭にてぬぐいを被り、モンペをはいている。そばに行って、
「少し分けてもらえませんか」と言うと、
「好きなだけ持っていきなせぇ」と答える。丸々としたサツマイモだ。わたしは持っていた袋に、いっぱい入れて、
「いくらですか」と尋ねた。
「いらん、いらん」
老婆は腰を屈めたまま、顔の前で手のひらを左右に振る。せっかく育てたのに余りにも悪いと思って、無理やり適当な金を渡した。おそらく都会では、その金額ではとてもこれだけのものは買えないだろう。
少々汗ばみながら、サツマイモを家まで持って帰ってきた。庭に火を起こし、イモと弾けないように穴を空けたクリとを入れる。しばらくすると、いい匂いが漂い始めた。
天気の良い日には朝からヤマイモ堀に出掛けた。これは一日中歩き回っても沢山は取れなかった。しかし、トロロにして食べる味は特別で、都会の市場に出回っている栽培物とは違って、実に山里の味わいであった。
わたしはまた、山を歩くうちに、気に入った苗木を取ってきては庭のあちこちに植えた。来年の春に新しい芽が吹き出すのを楽しみにした。
空が晴れたり曇ったりする変化が、一日のうちでも多くなってき、それにつれて冷たい風が吹いたり、止んだりという状態が続いているうちに、チラチラと淡い雪が舞い始めた。
農耕用の小型の牽引車に乗って、大きな音をさせながら、山の持ち主が麓から上がって来た。
「冬も居なさるのか、困ったことがあったら、いつでも来なされ」
心配そうに言いながら、荷台に積んでいた大きな樽を重そうに降ろして、家の土間の隅に置いてくれた。ダイコンの漬物を持って来てくれたのだった。
「これだけあれば、一冬、充分いける」
独り言のように言い残してまた、大きな音をさせてゆっくりと林道を下りて行った。
山々から色彩が無くなると、雪の降る日も、その量も少しずつ多くなる。やがて二、三日、一週間と雪の消えない日が続き始めた。わたしは雪の降る日は長雨と同じく、欝陶しいイメージを持っていたが、それは間違いであるのが分かった。雪が降り積もると一面が明るくなる。深まった秋よりも、晴ればれとする。それに、昼間、雪が積もり、夜になってすっかり晴れ渡り、凍て付くような空から月が皎々と照り渡る時など、別の世界の存在が意識させられ、いつまでもその景観から目をそらしたくなくなるほど美しい。
そんな翌朝など、暖かくした部屋の中から縁側のガラス戸を通して庭の面を見ると、何種類かの動物の足跡が点々と付いている。わたしにはどんな動物なのか知る由もなかったが、前夜にイモの切り片などを置いておくと、必ず無くなっていて、そのあたりに多くの足跡が付いていた。すぐに小鳥が飛んで来てヒョコヒョコと歩きながら、モミジのような足跡を付ける。
太陽が山の端から完全に離れると、村々のあちこちや川面に、雲のようにフンワリと濃霧が漂っているのがよく見える。また、遠くの家々のいたる所から朝餉の煙が、一段と白く、真っ直に柱をなすように上空へ上がっている。
わたしはこれらの景色に見飽きることがなかった。その風景は一見変わらないように見えるのに、よく観察していると刻々と変化していく情景はドラマのようでさえあった。
年末年始もわたしは山の家で独りで過ごした。妻や子は、博明が入試直前ということで、勉強のリズムを崩したくないからと、マンションで過ごした。結婚以来、妻と別々に正月を迎えるのは初めてであった。おそらく妻もわたしと同じように新鮮なものを見い出したに違いない。
山の家での生活は毎日毎日、何かすることがあり、見るものがあり、考えることがあった。手持ち無沙汰な時間はなかった。もしあったとしたら、それはしみじみと人生を味わう時間であった。
(五)
山の家で初めての冬を過ごすと今度は初めての春を迎えた。都市部では感じられない速さで季節が移り変わっていった。ずいぶん日差しが暖かく感じられる日々が続いていた。
「お父さん、迎えに行くから、準備をしていてください」
留守番電話に博明の声が入っていた。 翌日、昼前になって、博明が若者向きの車に乗ってやって来た。この日わたしは人間ドックに行くことになっていた。博明は大学に合格すると同時に自動車教習所に通い、免許を取っていた。一週間後には大学の入学式を控えている。妻が入学祝いにと中古の車を買ってやっていた。車の前後に青葉のマークを付けている。
「大丈夫か?お父さんが運転しょうか」
「大丈夫だって。僕は安全運転専門なんだから」
博明は晴ればれとしている。高校生から一歩、青年になったような感じを受ける。身体つきも、もともと敏捷なほうだったが、がっしりとしてきたように見える。
「最低、一年に一回は人間ドックで検診を受けてください。どうせ、栄養バランスの取れた物は食べないのでしょから。そうしないと安心できないから」
妻が勝手に人間ドックの申し込みをしていた。
わたしは息子の運転する車の助手席に乗りながら、
「もっと左に寄れ、ここでスピードを落とさんか、もう少し早くブレーキをかけろ、側方の安全確認をしなかっただろう」
などと、口うるさく言いながら座っていた。博明はいちいち答えながら、真剣に運転している。どうもあぶなっかしい、とは思いながらも、息子に乗せてもらっていることが、自分が年老いたように感じると共に、息子に頼りがいを抱くというような、妙な気持ちにさせられた。
運転するにつれて慣れてくるようで、マンションに着く頃にはずいぶん安心できるような運転になってきていた。 十四階の玄関の前に行ってみると、控え目ながら木目の優れた板に<箏曲教室>と墨書してある。部屋の中に入ると、
「ワァ―、お父さん、山男になったみたい」
「ほんとうに、元気そうになって・・・」
と真里はキャーキャー言い、妻もニコニコしている。わたしは今までに、ゆっくりとマンションの中を見る機会がなかったが、こうして落ち着くと、すべてが人口的に整えられている気がする。特に違和感も、居り辛さもないが、こんな箱のなかで毎日を過ごす事を考えると、安住の地ではないという気がする。
夜はにぎやかな夕食になった。わたしが、まるで草の根か木の葉でも食べて生きているとでも思っているらしく、この時とばかり様々な料理を盛り上げた。久しぶりの御馳走に舌鼓を打った。しかし、味の感覚は以前と違ったものがあった。それは以前には何も感じなかったが、何よりも水が美味しくない。また、どの料理もうまいにはうまいが、どれも同じような味がするのだ。
食事の後、ベランダに出ると、明かりの洪水が見えた。
「きれいでしよう、お父さん。この部屋は眺めも最高だし、日当りもいいのよ」
真里が髪の毛を風に吹かせながら言った。風の具合でフッと、娘の匂いなのか、香水の香りなのか、鼻に付く。チラリと娘の横顔を見ると、まぶしそうに遠くを見ている。
「お父さん、わたし・・・ヒロ君も大学に合格したことだし、お父さんに会って欲しい人がいるの。近々、山の家に一緒に行きます。いいでしょう」
相変わらず遠くを見つめたままで、独り言のように言う。
「あぁ、もう、そろそろいいだろう。いつでも連れておいで」
わたしは心にもない返事をした。
「ほんと、よかった!」
娘は急にわたしの背中をたたいて、喜んだ。
翌日、博明が病院まで車で送って行くと言ったが、断って地下鉄に乗った。どんな様子か、懐しかったからだ。車内の人々の顔を見て、わたしは驚いた。表情がまるで作られたもののようだったからだ。あの顔もこの顔も皆、作っている。そして一様にかたくなである。笑う顔も歪み、寝ている顔もこわばっている。それに、隣と肩を寄せ合いながら座っているのに、互いの人間の間には冷たい氷の壁が存在している。孤独な姿だ。疲れた空気だ。そして幸せとは縁遠いものだ。わたしは勤めていた頃、この人々に更に輪を掛けたような人間だったように思う。
二泊三日の検査だった。最終日にはだいたいの検査結果が出ていて、担当医との面談があった。わたしのは、多くの項目の内、一つを除いて全て正常のA判定であった。一つというのは膵臓にポリープが発見された事だ。
「精密検査をしなければならないでしょう」
熟練者らしい老医師はさりげなく言ったが、わたしを見た目は真剣であった。
マンションに帰り、出所祝いだと言って大騒ぎをして、食事の用意している子供達には気付かれないように、由美子を呼んだ。そして、医者の言った通り伝えた。妻の表情は変わらなかった。
「わたしはあなたに好きなような生き方をしてもらって、喜んでいます。子供やわたしの為に後悔するような生き方だけはさせてはいけないと、わたしはいつも思っていましたから。運よく、なんの心配も無く、あなたの好きな生き方ができるようになったのですから、もうなにがあろうとわたしも心残りはありません。でも、しっかりと、医者の言う通りの検査と治療は受けてくださいね」
「そうするよ。今すぐに、どうのこうのということはないし、悪性かどうかも分からない」
わたしは妻の言葉に安心した。自分の妻ながら、素晴らしい人間だと思った。夫にりっぱな人生を歩ゆまさせる妻だと思った。
夕食はまた、にぎやかなものになった。とにかく子供たちは元気がいい。果ては家族カラオケ大会にまでなってしまった。
わたしは以前に、部下が亡くなって、後に残された家族があまりにも健気なのを見て、不審に感じたことがあったものだが、今こうしてにぎやかに騒ぐ家族と共にいると、それでいいのだという思いを強く持った。
翌朝、また博明が山の家まで送ってくれた。
「お父さん、僕は今まで本気になって焦点を定めて、何かをやった事はなかったけれど、大学に行くことになって、自分が望んだ好きな学部だし、今度は人生を賭けるつもりで、その方向の勉強をしょうと思う」
こんな言葉を残して博明は帰って行った。わたしはふと、仏師になろうとした自分の若い頃を感じた。
「よし、仏を彫ってみよう」
わたしは天に向かって言った。
(六)
仏像にする為の木から選定しなければならない。さらにひび割れを起こさないように乾燥させる為に相当の期間、寝かせもしなければならない。出来上がるのがいつになるのか予想もつかない。しかし、わたしは準備に取りかかった。完成すればそれでよいし、彫り上がらなければそれでもよい。完成に執着する必要を感じない。
また、若い頃のように魂を入れなければならないとも思わない。命題は仏像に魂を入れるいれないの問題ではない。わたし自身の命の中に仏を創造し得るかどうかなのである。仏の住する処は己が命の中と説かれている。
山膚のいたる所に華やかな薄桃色の山桜の咲いているのが見える。よく晴れた光の中で、周囲の若葉に映え、さらに引き立つ。桜並木もいいが、点々と咲く山桜は捨て難い。
昨年の秋に庭に植えた小さな木々から、青々とした生命力溢れる若葉が出てきている。日差しは殊のほか暖かくなった。遠くの高い山の頂きに見えていた残雪もすっかり消えてしまっている。こうして庭に立って、自然に対していると、自分も自然の中の一つだという思いを深くする。気の遠くなるような永い時の流れの中に自然は、様々な植物や動物といった生き物の生と死の繰り返しのなかに生きづいている。わたしもその中の一つのリズムに過ぎない。生があれば死がある。生も死も本来、自然の営みである。思えば、生きることも死ぬこともあるがままの姿であり、その絶対的な法則のなかのわたしであれば、安詳として死を受け入れればよいのだと思う。
この自然のなかで、今死んだとしても、また今生きているとしても、それはどちらでもいいのだ。仏のことを無作三身如来ともいう。生命の永遠性の上から、あるがまま、ということである。
わたしは家の中に入って、仕舞っていた沢山の種類の野菜の種を取り出した。そしてまた庭に出て、凡その見当で種を蒔いた。やがて芽を出し、生き生きと育つことだろう。
(了)
【奥付】
『月はかたぶきて』
定年を迎えて
2015年3月発行
著者 : 大和田光也
今世人界最後
が
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