大和田光也全集第16巻   
『イルカ越え』

(一)

 ぼくは、ぼくの事を「ボク」と言わずに「オレ」と表現するようになってから随分、月日が経ったように感じる。その間、ぼくは何時も本当の自分は「ボク」なんだ、ただ皆の手前上、「オレ」と言っているんだと違和感を持ち続けていた。そして気が付いてみると、ぼくはよく言われる落ちこぼれの非行中学生になっていた。周囲の真面目な生徒からは嫌がられるし、先生からは邪魔者に扱われた。その上、親からも家ではうっとうしく思われていた。学校からしばしば呼び出されて説教される上に、妹を泣かせたり、親に反抗するからだ。
 高校進学の時期になった時、親は喜んだ。もちろん成績はこれ以下はないという程ひどいものだったから、近くで確実に進学できるような高校はなかった。父はこれを逆手に取って、ぼくを家から追い出そうとした。口でははっきりとそうとは言わないが、ぼくは親の気持ちをよく知っている。
 どこで捜してきたのか、父は大阪からはるか離れた太平洋に面した水産高校を進学先に見つけてきた。その学校は、漁業関係者の後継者不足を補うために設立されていたが、毎年、定員に満たないという。それで県外からでも受け入れるらしかった。ぼくは親の陰謀に乗せられるのは嫌だったが、家で進学もできずブラブラするようになっても面白くないと思って了解した。ただ、ぼくと何時もいっしょに行動している山林と寺崎を誘った。二人ともぼくと同じような成績で行き先がなかったから、田舎であることも水産科であることも気に入らなかったが、三人一緒に行けるならいいじゃないかということになった。
 三人共、水産高校の入試に合格した。定員不足なのだから合格は始めから分かっていたので嬉しくもなかった。けれど、親は喜んで入学の手続きを取った。そして大きな荷物を抱えて、気の遠くなるほど時間をかけて、この水産高校にやって来たのだった。校名は東外海(ひがしそとうみ)水産高校といった。地元の人は皆、東水(とうすい)と呼んでいた。
 最初に入学式に出席した。静まり返ったなかで式次第通りに進んでいった。校長の式辞になった。
「・・・海の心を知ることです」
 いかつい顔をした校長には不釣り合いな繊細な事を言っていた。もし海に心などというものがあるのなら、楽しい時にはどんな表情をするのか教えて欲しいものだ。実につまらない入学式だと思う。これから三年間ここで過ごすのかと思うと、初めからぞっとした。せめてもの慰みは親友の山林と寺崎を誘って入学した事だ。それに三人とも同じクラスにしてくれている。大阪の悪ガキ三人をまとめて面倒を見ようというのだろうか。
「・・・山桜美しきイルカ越えを越えて本校の校門をくぐったのだから・・・」
 校長はきれいごとを言うのが趣味らしかった。それに桜の花などとっくに散っていたから嘘を言うのも得意なのかも知れない。
 校長のつまらない話を新入生は姿勢を正して黙って聞いている。大阪の生徒ならこんな話を静かに聞くことは有り得ない。そう思って、寺崎と山林の方を見ると、案の定、二人共、キョロキョロ、モジモジとしている。
 後ろの保護者用の座席にはぼくの母が座っていた。その隣には寺崎の父親がいた。彼の母親は外国人で日本語がほとんど理解できないから、父親が自営している中華料理店の仕事を休んで入学式に来ていた。さらにその隣に山林の母親が座っていた。
 母はぼくの方を見て、さかんに顔を歪ませている。授業参観の時も同じだったが、あの表情は「キョロキョロせずにちゃんとせよ」という信号であった。
 しかし、こんな地の果てのような田舎の水産高校に入学したことは、結果的に家を出たのだから親孝行になるはずだ。これから家では、ぼくと顔を合わす不快と不幸から逃れられるのだから。そういう意味では、山林も寺崎も家族の人間関係はだいたいぼくと同じであったから、ぼくは二人の親からも感謝されてよいに違いない。
 どうにか長い校長の話が終わった。
「新一年生の担任紹介」
 司会がうわずった声を上げた。生徒はすでに担任を知っていた。教室から式場の体育館まで引率した先生だ。ぼくらの担任は三十才くらいの男で、アザラシのイメージがするが、身体はそんなに大きくない。小アザラシという感じだ。だからぼくらは担任のことを「小アザラシ」と呼ぶことに相談してすでに決めていた。中学では先生のことをニックネーム以外で呼んだことはなかったから早目に名付けた。とにかく嫌な感じのする担任だった。一見すると優しくつぶらな瞳に見えるが、何を言っても聞き入れない、何を言っても応えないタイプだと思う。初めから、仲良くしょうとは思えない担任だった。
 苦痛でしかない入学式が終わった。
「寮生はこれから歓迎式を行うのですぐに寮の食堂に集合せよ」
 三年生らしき老けた生徒がマイクの前に出て怒鳴った。遠くて自宅通学できない生徒のために校舎の横に寮が建てられていた。ぼくらは昨日、寮に入ったばかりで、まだどんな連中が居るのか知らない。ただ、寮母のおばあちゃんにはあちらこちらと案内してもらったり、色々と教えてもらっていた。
「おい、ヤマデラ、歓迎会なんか放っておいて遊びに行こうぜ」
 ぼくは山林と寺崎をいっしょに呼ぶ時には何時もヤマデラと呼んでいた。「山寺」に通じる音感でなにか楽しかった。体育館を出た所でぼくは二人を誘った。
「そうだ、それがいい。俺たちは歓迎されるなにものも持ち合わせてはいない」
 背丈も高く体重もある山林が内にこもりがちな声で言った。彼は勉強は全くできないくせに時々、訳の分からない難しい言葉を使う。そしてそれに相応しく、いつも何か悩んでいるような顔をしている。
 ぼくら三人は学校から逃げるようにして校門を出た。そしてブラブラと歩いた。この辺りのことを日土(ひつち)村という。辺境の地という感じで、島流しの地に適しているのではないかとさえ思える。背後の山肌が海岸端まで押し寄せて来ていて、被いかぶさるように感じられる。これが校長が式辞で言っていたイルカ越えだ。大きな山としか見えないが、峠になっていて、越えるとちょっとした町があるらしい。ある嵐の日にイルカがここを飛び越えて町までやって来た。それでこんな名前が付いている、とおばあさんが教えてくれていた。
 村の家はそのわずかの隙間に山肌を這うように下から上に建てられている。そして海岸を少し埋めたてた桟橋らしき物に、魚船をつないでいる。村には店屋というものが一軒もない。それどころか自動販売機もない。ぼくらは煙草の販売機がないと生きてゆけないのに・・・もっとひどいのは携帯電話は学校へも寮へも持ち込み禁止だった。ということで、三人とも大阪を出る時にそれぞれ親に取り上げられてしまっていた。絶望的な環境であった。
 村の家並みを過ぎると海岸に沿って道路が通っている。
「オーッ、道端に鳶が死んでいる」
 寺崎が化け物でも見つけたような声を出した。見ると確かに大きな鳶が羽をひしゃげて落ちている。車に輓かれたふうではなく、のたれ死んだようだ。そのそばを風に吹かれてジュースの錆びた空き缶が転がって行った。
「ああ、いやだ、いやだ。こんな所、すぐにでも逃げ出したい」
 声の響きからすると寺崎は明日にでも大阪へ帰ってしまいそうだった。
「馬鹿を言うな。入学した以上、卒業するんや」
 ぼくは少し不安になって言った。
「おい、前から人が来るぜ。こんな所で人間に会うなんて珍しい」
 真面目な顔をして山林が言う。自転車に乗ったおじさんであった。春の潮風に吹かれてさっそうと近付いて来た。すれ違う時、ぼくらの方を見てニコリと笑った。禿げた頭がにじんだ汗でテカテカと光っていた。
 ぼくらは道路が海岸からイルカ越えに上ってゆく所まで行き着いた。
 日土湾は絵に描いたような所だった。沖を見れば果てしない太平洋の水平線とそれに連なる大空が視界いっぱいになる。右側からは天礒(てんぎ)の鼻という岬が長く突き出している。ぼくはその形が天狗の鼻のひしゃげたのに似ているから「天狗の鼻」ではないのか、と寮母のおばあちゃんに聞き直したが、違うと言う。左側からは、岩水(いわみず)という半島がゆるやかに海にせり出している。この両側の半島に抱かれるように湾の中央部辺りに大小二つの島が並んで浮いている。それは双子のように形がよく似ていた。島と島との間は大潮の引き潮の時だけ陸続きになるということだ。寮母は松島と呼んでいる。どこかで聞いた名前だが、確かに頂上に少し松が生えていた。
 右側のイルカ越えを上っていく舗装道路とは反対に左の方には軽自動車一台が通れるくらいのデコボコ道が続いている。この道は天礒の鼻の突端に通じている。ぼくらは土ぼこりのしそうな岬への道をつまらなく歩いた。岬の突端にはデキモノのような白い灯台があった。それははるか彼方に見えてとてもそこまで行く気にもならないし時間もなかった。
 適当な所まで歩いてから海辺に通じるそば道に逸れて下に降りた。時々泳ぎに行った神戸市の須磨海岸とは大変な違いだ。岩ばかりの荒々しいもので、足を浸すような場所もない。それでもなんとか石ころの集まった狭い浜を捜して降りた。岬の先端までには五分の一くらいの距離になるだろうか。
「つまらん。実につまらん」
 海に向かって怒鳴った山林は大きな石をかかえて海面に放り投げた。
「馬鹿、何するんだよ。濡れるじゃないか」
「それでも、つまらん」
 まだ山林は気が済まないとみえて、今度はがむしゃらに岩を蹴り始めた
「怒っても仕方がないだろう」
 ぼくは慰めるしかなかった。山林はしばらく力任せに石を投げたり蹴ったりした後、波打ち際に座り込んだ。その横に寺崎も面白くなさそうに座った。二人の後ろ姿は落ちぶれた老人のようだ。ぼくはなんとか元気付けてやらねばならないと思ったが、適当な言葉が思い浮かばない。気が済むまで座らせておくしかない。二人はいつまでも帰る気配を見せなかった。
「ウォーッ!」
 急に山林が異様な声を出して立ち上がった。そして目の前の海面を顔色を変えて必死に指差している。寺崎は何かに驚いて慌てて逃げようとしているが、腰が抜けたように四つんばいになり、石ころの上でもがいている。ぼくは水辺まで行って山林の指差す方を覗き込んだ。そして立ちすくんだ。のんびりとした動きの海面の下で巨大な魚が揺れていた。それだけならまだしも、二つの大きな目がぼくらの方を間違いなく見詰めていた。しかもいっこうにその視線を逸らそうとしなかった。ぼくらは人間であり、相手はたかが魚だと自分に言い聞かせてもその眼光にはぼくら以上の何かを感じさせた。寺崎が腰を抜かせたのも無理はない。ぼくも足が動かせなくなった。
「何しているッ!早く逃げろ。食べられるぞ」
 山林がぼくの腕を掴んでそば道の方へ引っ張って行ってくれた。ぼくらは全力で元の道まで駆け上がった。お互いの顔を見合わすと青ざめていた。

(二)

 夕方になって寮に帰った。親たちは時間が無かったのか三人ともすでに大阪に帰っていた。
「おい、風呂にでも入ろう。気分を変えようぜ」
 ぼくが言うと二人は憂欝そうに立ち上がってついて来た。入学式といい、巨大魚といい、初めから気の滅入ることが多かった。でも、せめてぼくだけでも元気にしておかなければと思う。なにせ、二人をここまで連れて来たのはぼくなんだから。
 寮は三階建てで、ぼくら三人の部屋は二階にあり、一階には食堂や風呂場があった。風呂場の中に入ってみると、誰か先に湯船に浸かっている者がいた。近付いて、驚いた。三人のおっちゃんだった。いや、よく見るとおっちゃんではない。身体つきはおっちゃんだったが、顔は生徒であった。ぼくらが湯船に入ろうとすると三人は楽しそうに話していたのを止めてこちらを見た。とげとげしい雰囲気はまったくない。むしろ、面白そうにしている。
「せっかく、お前らを歓迎してやろうと思ったのに居なかったなあ。どこに
行っとったんじゃ?」
 いちばん身体の大きい丸顔の生徒が案外やさしい声で言った。よく見ると式の後で、在校生歓迎と言ってマイクで怒鳴った男だった。ぼくらはいつもの癖で、問われたことに答える前に顔を見合わせた。ぼくらが目を合わせるという事は、嘘を言うからみんなで口裏を合わせよ、という意味だった。誰か一人が最初に何か言えば後の者は、まったく打合せをしてないのにそれに矛盾しないように見事に話は連なった。この特技のお陰で何度も危機を逃れた。しかしどういう訳かこの三人に対しては、嘘など言う必要は無い、とお互いの目が確認していた。
「天礒の鼻に行っていた」
 ぼくはぶっきらぼうに答えた。
「ホーッ、そうか。灯台の所まで行ったか」
「いや、根本からちょっと行った所で遊んで帰って来た」
 同じ調子でぼくは言った。
「なにッ、ネモトだと!」
 三人は余程おかしいとみえて、耳がガンガンするような大声で無邪気に笑った。それに釣られてぼくらも苦笑いをした。
「寮長、こいつらに教えておきましょうか?」
 髭面で胸にまで一面に毛の生えた生徒が言った。どうやら丸顔の生徒が寮長らしかった。
「あぁ、だが、そんなに堅い事を言うこともないぞ」
 寮長は軽くうなずいた。
「あのなあ、お前ら。風呂に入る順番は最初に三年生で、次に二年生、最後が一年生と続くんじゃ。今は三年の時間じゃ。今日はもういいが明日からはちゃんと守れよ。そうせんとしめしがつかんからのう」
 こう言って三年生が湯船から上がった。全身を見るとやはり、紛れもなくおっさんの身体だ。寺崎は背が低くて色白でぶくぶくと肥えている。顔もすべすべしていてにきびなども全くない。ぼくは背丈は中程だが痩せている。山林は背も高いし体重も充分にある。中学でもクラスで一番大柄であった。三年生の背丈はぼく程しかないのに、山林の身体と比べても大人と子供のように違って見える。身体の質が違うのだ。ぼくらの身体は温室の中で育てられた野菜のようだ。三年生は必要に迫られてからだの一部の筋肉を使い過ぎて出来上がったものだ。だから、スポーツで鍛えたのとも違ってバランスはとれていない。
「腕相撲したらいっぱつで負けそうや」
 山林が三年生が出ていった後で諦め気味に言った。ぼくら三人は喧嘩をする時はいつもそれぞれ分担を決めていて負けるようなことはなかった。ぼくらは初めての人間に会う場合はいつもどのように攻撃するかをお互いの目で無意識のうちに相談するのも癖になっていたが、いま会った三年生に対しては次元が違うような気がして身構えることがなかった。
「しかし、なんだか、皆、優しそうだなあ」
 寺崎がつぶやくように言った。
「おい、それより早く髪の毛を洗おう」
 ぼくらは湯船から出るとすぐに頭を洗った。そしてお互いの髪を見合ってにやりと笑った。いつもの楽しい生活の感じを少し取り戻すことができた。せめて入学式くらいは、と親から言われてスプレーで黒くしていたが、それが取れて金色に輝いていた。
 部屋に帰るとぼくらは制服の改造にとりかかった。
「なんとダサイ制服だ。こんなん人間が着る物じゃない」
 口々にぼくらは悪態を吐いた。制服はくすんだような濃紺の詰め襟で、上着の前はチャックで止めるようになっていた。ぼくらは針と糸とを取り出した。これらは必需品でけっこう扱いには慣れている。まず、上着の丈を裾を折り込んで短くする。極端に短くしたかったが、ボタンと違ってチャックの所までしか上げられない。それでも随分不釣り合いになった。次にズボンの幅を、縫いしろを目いっぱい出して広くした。そして、裾も縫いしろを解いて垂らした。こうして、さらにズボンをずらして履けば、かなり格好がよくなる。その他、準備を終えた時は深夜になっていた。
 山林も寺崎もこんなことをしていると元気になってきたのでぼくは安心した。

(三)

 翌朝、ぼくらは意気揚々と寮を出て校舎に入った。そして多くの生徒達と一緒になった。ところが完全に勘が狂った。入学式は別にして、おそらく普段はぼくらのような格好をした者がいくらでも居るだろうと思った。中学の時がそうだったからだ。だが会う生徒、会う生徒、誰一人として髪をさわっている者もいなければ、変形の制服を着ている者もいない。さらに驚いたのは誰もぼくらに注目してくれないのだ。自分のクラスの教室に入っても同じだった。よく見ると新入生のはずなのに古い制服を着ている者さえ多くいた。
 朝礼に担任の小アザラシが入って来てからまたぼくらは勘狂った。中学の時はこの時に必ず、服装と頭髪をちゃんとして来い、と担任に教室から追い出された。それをよいことにぼくらが授業をさぼった事は数え切れない。そのうち逃げられないようにする為に親の方が学校に呼ばれてぼくらを連れて帰るようになった。こうなると寺崎は父親のやっている中華料理店に連れていかれ、店から一歩も外に出られないようにされた。山林は建築業の父親から顔が変形するほど殴られた。ぼくはインテリの父から生きて行けなくなるほどの罵声を浴びせかけられた。しかし、ぼくらは反省する事もなく、しょうこりもなく同じ事を繰り返した。それが生き甲斐だったのだ。
 当然、小アザラシはぼくらを怒り飛ばして、寮に帰って直してこい、と言うものと思っていた。ところが何も注意しないし、まったく気にもしていなかった。
 午前中はオリエンテーションで、午後から二時間の授業があった。その間の教師や生徒のぼくらに対する反応はまったく無関心としか言いようがなかった。
「なにかちょっと違うぜ、イシ」
 山林が苦悩の表情で言った。イシというのはぼくの石塚のイシだ。ぼくらは中学では石・山・寺と呼ばれて、生徒からも教師からも一目置かれた存在だった。なにかにつけて注目を集めていた。それがここでは全く無視されているような気がする。
 一週間ほど経っても一向にぼくらの存在はアッピールされなかった。
 夕食の時、ぼくは寮長に聞いた。こちらから話し掛けたのはこの時が初め
てだった。
「この学校では頭髪検査や服装検査はいつやるのや?」
 ぼくはいつもの癖でつっぱったものの言い方と態度だった。
「ナニッ、検査?そんな事する訳ないじゃろう」
 寮長は少し驚いたようだったが、その後すぐに大笑いをした。
「髪の毛をどうしょうが、そんなもん、本人の勝手じゃ。そうじゃろうが」
「だけど、誰も違反してないじゃないか」
「きまりが無いのに違反も糞もなかろうが」
 おもしろそうな顔をして寮長が言う。
「だけど制服かて、みんな改造してない。規則がきついからだろう」
「何を言うとる。この制服はいつの間にか皆が着るようになっただけで、決まっている訳じゃない。好き勝手な物を着て来たらいいんじゃ。しかし、これが一番安くつくし、お互いに嫌な思いをせんでもいい。なにせ先輩が卒業する時にはみんな、制服を寄付して出ていく。新入生はそれをただで貰えばいいんじゃ。無駄な金を使わんでいい。規則なんか無いがみんな自分とお互いのために制服を着て来るだけじゃ。お前らがどんな服装をしようと勝手じゃ。誰も咎める者はおりはせん。しかし内心、同じにしてくれたらいいのになあ、と思っているだろう」
 太い声で寮長は言う。ぼくらは分かったような分からないような気持ちになったが、なんとなく納得できた。要するに反抗する対象ではないらしい。
 三週間ほどして改造した部分の糸が切れてほころびだした。ぼくらは馬鹿らしくなって元の制服の状態にもどした。頭髪も根本の方から黒くなってきて格好が悪かったが、そのまま放っておいた。
「なんか違うなあ。面白くないなあ」
 山林がぼやいた。
「俺は大阪に帰りたい」
 寂しそうに寺崎が言った。
「馬鹿言うな。俺達は嫌われ者なんだ。大阪に帰って嫌がられるよりここで辛抱したほうがよっぽどましや。それを忘れるな、テラ」
 ぼくは激励するつもりで言ったものの、実際面白くない事は同じだった。
 授業は三分の二は普通高校と同じで、残りが魚に関するものだった。これも退屈そのものだった。いや、それ以上に苦痛だった。中学の時は授業を聞かないのは同じだが、騒いだり、悪戯をして遊ぶことができた。先生が怒るのも楽しかった。しかし、ここでは授業中しゃべる者は誰もいない。またしゃべったとしても怒りそうな先生はいない。そうすると残された道は寝ることしかない。ところが、中学の時のように深夜、単車を乗り回したり、女の子と遊ぶこともできないから夜は早く寝る。すると授業中に眠たくならないのだ。ただ黙ってじっと座っておらねばならない。ぼくらにとって、これは牢獄と同じだった。さらに面白くないのは、土曜がたまにしか休みにならなかった。授業はないが、実習の準備だといって、さまざまな作業をやらされた。
 あまりにも苦しいので仮病をつかって、三人で一日学校を休んだ。寮は校舎よりさらに岩水半島寄りに建っているので、村の方に出ようとすると校庭を通り過ぎて行かねばならない。見つかって仮病がばれるといけないと思って、寮を抜け出してからぼくらは岩水の方に少し進んでから山の中に入り、イルカ越えの中腹を歩いて学校を通り越した。さらに進むと日土村を見下ろせる所に出た。そこには村と学校の利用する水源地があった。
「エーッ!この水を俺達は飲んでいるのか」
 あきれたような声を山林が出した。見上げるような大きな岩と岩との間から清水が流れ出している。それを幼稚園のプールのようなコンクリーの水槽に溜めていた。そこから数本の水道管が村の方へと下がっている。村には川と言えるようなものはなかったが、この水槽からあふれ出す水が村の中程を小川のようになって流れるようだった。今はまったく水は流れ出していなかった。
 水量不足のせいか、水槽には水はたまっていたが濁っていた。それに猿が周囲の木々に沢山集まっていて、時々水槽に下りて来て水を飲んだり水浴びをした。
 しばらく呆気にとられて見ていると、木の上からぼくらの直ぐそばになにかドスンと落ちてきた。驚いてよけてから見るとカボチャだった。上の木を見上げると数匹の猿がわざと木擦れの音をさせるように逃げて行った。
「早く行こうぜ。こんな所にいたら猿に殺されるぞ」
 石を投げ付けながら山林は怒鳴った。村の人達に見つかるのもまずいと思って、そのまま眼下に家並みのなくなる所まで山道を歩いて、天礒の鼻の付け根の辺りに下りた。それから、例の怪魚がいるので海辺には近付かないように近辺をブラブラして時間をつぶした。結果的に、学校をさぼってもする事は何も無い、ということをぼくらは嫌と言うほど知らねばならなかった。
 帰ってみると、部屋で小アザラシと寮母のおばあちゃんが待っていた。それに三人分の昼食が持ち込まれていた。
「村の人が、船で湾に入って来た時、大阪から来た三人が寂しそうに水源地に立っていた、と学校に知らせてくれた。寮母も心配してずっと部屋で待っていたんだぞ。仮病になるのはいいが、出掛ける時はちゃんと寮母に言ってから行けよ」
 小アザラシは何が嬉しいのか知らないが、いつも口元が少し笑っている。ぼくらは当然、口汚く怒られるか殴られるかと思ったが、小アザラシは最初の印象と違って以外に優しかった。それにおばあちゃんも深い皴の顔を怒りよりも困った風にしている。いつもよくしゃべって、色々と教えてくれるのに今日は黙って担任の言うことにうなずいている。
「入学した以上、頑張って卒業するんだぞ」
「早く、御飯を食べんかね。おなかが空いたろうに」
 小アザラシとおばあちゃんが部屋から出て行った。
「何か違うなあ」
 山林が唸った。寺崎が空気が抜けたように肩を落とした。

(四)

 五月の連休になった。ぼくらは飛んで大阪に帰りたかったが、誰の親から
も交通費が送って来なかった。
「俺らに帰って欲しくないということだな。どうせ、今大阪に帰ったら二度と学校にもどらないに違いない、とでも思っているのだろう。あさはかな考えよ」
 口を歪ませて山林が眉間に皴を寄せている。
「それなら、俺は死んでも帰らん」
 ほんとうにぼくはそう思った。
「海の臭いがこの頃、特にくさいんや。俺はこれが我慢できないのや」
 寺崎は立ち上がって窓を締めた。それからうなだれた。
 結局、ぼくらはこれまでで最もつまらないゴールデンウィークを過ごした。
 汗ばむような日が多くなると、体育の授業にカッター漕ぎが入ってきた。カッターと言うから当然、細長くて格好の良い物だと思った。ところが実際に実習が始まってみると大違いで、普通の貸しボートを異常に大きくした物だった。両側に四人ずつ座って太くて重いオールを漕ぐようになっている。よほど握力が強くて、腕力がなければうまく扱えない。それに八人が呼吸を合わして漕がなくてはボートは真っ直に進まない。それよりまず、片側の四人がリズムを合わせて漕がないと、たちまちもつれた糸のようにオールが乱れてしまう。自分の体力を皆と合わせなければならなかった。しかも、雨の日も風の日も体育になるとカッターを漕ぎ出す。おそらく大型の台風でも来ない限り中止にはならないだろう。ぼくらにとっては拷問に近いほど苦痛であった。
 嬉しい事にそれが一週間、中止になる時期が来た。中間試験だ。高校は言うまでもなく、中学と違って義務教育ではない。と言うことは成績が悪ければ留年するということだ。それは入学した時から分かっていたつもりだったが、いざ試験が近付くと不吉な予感がしてきた。中学の時よりもはるかに、黙って眠りもせずに真面目に授業を受けていたが、それはただ座っていたというだけで、先生の話は鼓膜から中には入って来ていなかった。カッター漕ぎからしばらく解放されるのはうれしかったが、試験のことを思うとうっとうしくなった。
 試験が始まってみると予感通り、どの教科のどの問題も何がなんだかさっぱり分からない。これは中学の時とまったく同じ状況だった。
 気の滅入る、わびしい一週間が過ぎた。山林も寺崎もうんざりしていた。特に寺崎は自殺でもやり兼ねない様子になっていた。
 その後、授業がある毎に答案用紙が返ってきたが、案の定、惨憺たるものだった。お互いに点数を見せ合えば皆、通知表に赤色となるものばかりだ。
「俺は間違いなく留年する」
 寺崎がしょげかえって言う。
「弱音を吐くな。これはまだ中間試験じゃ。期末に向かって頑張れば、いく
らでも取り返しができる。小アザラシもそう言っていただろう」
 ぼくは少し不安になって寺崎の頭を叩いた。
「それに、平常点というのもあると言っていた。日頃の提出物や授業態度が
よければ、加算してくれるらしい。大丈夫だ」
 山林も激励する言葉を言ったが、言葉とは逆に自分のことが心配な様で
浮かない顔をしている。
 数日して通知表をもらった。当り前とは言え、三人共、赤字ばかりが目立った。中間試験の結果は、寮に入っている生徒については学校から直接親元へも、生徒に渡すものと同じものが郵送されることになっている。これを受け取ったら父も母もガックリして、結局どんなに環境を変えても何をやらせても駄目なんだ、と思うに違いない。
 通知表をもらった翌朝、寺崎が気分が悪いと言って布団から起き上がっ
て来なかった。
「オイッ、休んだって、する事がなくて退屈するだけだぞ。教室に行った方
が、まだいいぞ」
 なんとか励ますが、寺崎はまるで手足が無くなったように布団の中に入ったまま、目だけ動かして身体は動かない。
「それじゃあ、一日中そうしておれや。嫌でも布団から出たくなるだろう。
出てきたら遅れても教室に来いよ」
 こう言ってぼくと山林は部屋を出た。
 授業が終わって寮に帰ってみると寺崎が居なくなっていた。おばあちゃんに尋ねると、昼頃に寮を出たと言う。てっきり、午後からの授業に出ているものと思っていたらしい。退屈をして寮から抜け出してただサボっているだけならいいが、どうもそうではない気がする。部屋の中の様子がおかしいのだ。ぼくは直感するものがあった。
「オイッ、ヤマ、ちょっと荷物を調べてみろよ」
 ぼくと山林はそれぞれ自分の荷物をまとめてみた。すると残ったのは寺
崎の授業用の品物だけだった。
「やはりそうか。テラは脱走したぞ」
「ウーム、どうやら間違いないな。これは大変な事になったぞ。あいつだけ、
いい目をしやがって」
 山林は少しやけっぱちに言った。
「しかし、テラは金を持ってないはずだ。そうすると大阪まで歩いて帰るつ
もりだな。帰り着いた時にはおじいちゃんになっているかも知れん」
 今度は真面目な顔をして言う。
「冗談を言うなよ。とにかく、寮長に知らせてくる」
 ぼくは三階の寮長の部屋に行った。そして予測も含めて報告した。寮長は
それほど驚いた様子も見せない。
「俺もお前らの予測は当たっていると思う。どうも日頃から寺崎は気の弱そ
うなところがあったからなあ。確かに逃げるタイプだ」
「と言うとこれまでにも逃げ出した者がいるんですか」
 ぼくは今までに教師や親や先輩に対しても、こんなに丁寧な言葉遣いをしたことはない。しかし、どういう訳か自分でも分からないが、自然に丁寧な言葉が出てくるように変わっていた。
「そうよ、俺が寮長になってからはないが、二年前に一人、親元に逃げ帰っ
た奴がいた。ちょうど、寺崎のような奴だった・・・これは横田先生に来て
もらわないとだめじゃなあ」
 寮長は勢いよく立ち上がって出て行った。
 やがて、小アザラシが口元に微笑みをたたえてやって来た。その微笑みは単にたたえられているだけで、怒る時も同じ表情だ。
「どうしたんだ、寺崎が居ないんだって?」
 授業の時と同じように口をもぐもぐさせながら言う。それから両手をポケットに突っ込んだまま、部屋の中をうろうろする。
「ふーむ。田下、お前の判断では寺崎はどうしたと思う?」
「はい、この状況では間違いなく逃げたと思われます」
「そうか、お前が言うのならきっと事実だろう。しかしまあ、夜まで待って
みて、それでも帰って来なければ自宅の方へ連絡することにしょう」
 小アザラシはつぶらな瞳で鼻をヒクヒクさせながら出て行った。
 不安な思いに駆られながらも、ぼくと山林は手持ち無沙汰なまま、夜になるのを待った。寺崎は姿を現さなかった。気の小さい、恐がり屋の彼が帰って来ないということはよほどの決意をして出て行ったに違いない。
 かなり夜も更けてから小アザラシがまたやって来た。
「金を持ってないということだから途中で引き返して来ることも考えられるなあ。とりあえず、この近辺を捜すだけさがして、それで見つからなければ自宅に電話をすることにしょう。お前達も目ぼしい所を手分けして捜してみろ」
 ぼくと山林は寮を飛び出した。校舎のそばを通ると、一階の職員室には煌々と明かりが灯っている。中を覗くとまだほとんどの先生が残っていた。そこへ小アザラシが入って行って、何かを早口で告げた。そうすると先生達が急いで職員室から出て来た。そして車、自転車、歩いてと、様々な方向へ散って行った。
「寺崎の脱走はたいへんな騒ぎになっているぞ」
 山林は困惑の面持ちで職員室の方を見ていた。
「あいつ、金も持っていないのにどこをうろついているんだろう。馬鹿な奴
だ。帰って来ればいいのに」
 今度は彼は心配そうに言った。
 村の道路を中頃まで歩いていくと赤い電灯のついている消防団の建物がある。その付近に村人が大勢集まって騒いでいる。
「オーイッ、そこのにいちゃんよ。寮から出て行った子は見つかったのか?」
 一人のおっちゃんがぼくらを見つけて声を掛けてきた。
「いや、まだ帰って来ていない。ちょうど今、みんなで捜しに出かけたとこ
ろです」
 ぼくは大きな声で答えた。どうやら村中の人が心配してくれているよう
だ。
「大事件になってしまったなあ、ヤマ」
「そうや、えらい事やぞ、イシ」
 ぼくらは足早に家並みを通り過ぎた。寺崎を捜すといっても、特に当てがあるわけでもない。それに寺崎が歩いて大阪に帰っているなら、すでに七、八時間は経っているんだから、今から歩いて追い付けるものでもない。かといって捜さない訳にもいかないので、二時間ほどブラブラと歩いてから寮に帰った。
 教員も村人も総動員で寺崎を捜したが、結局、見つける事はできなかった。
「大阪の実家に電話しょう。石塚、電話番号を覚えていないか」
 寮の一階の電話機の所で小アザラシがぼくに聞いた。東水高では生徒の携帯電話の持込を禁止しているので、教師も持たないことになっていた。
「覚えているけど家に電話してもだめだ。おふくろさんしか居ないから。お
ふくろさんは日本語がほとんど分からない。連絡をするならおやじさんがや
っている中華料理店にしたほうがいい」
「そうか。さすがによく事情を知っているな。それじゃ、店の番号を教えて
くれ」
 こちらに来てからは一度も寺崎の店に電話をした事はなかったが、簡に
思い出せた。
「ふーむ、そうか。石塚は頭がいいな。ちゃんと忘れずに覚えているじゃな
いか」
 番号を控えながら小アザラシは鼻をひくひくさせていた。そしてすぐに電話をした。寺崎は帰っていなかった。小アザラシは父親に事情を説明して、帰り着いたなら何時でもいいからすぐに学校へ連絡して欲しいと頼んでいた。どうやら小アザラシは学校に泊まり込むようだ。
 ぼくと山林も眠る訳にもいかないので一晩中、部屋で将棋をした。途中、時々職員室を覗きに行ったが、小アザラシと校長が椅子に座ったままうとうとしているばかりで、父親からの連絡は無かった。ぼくと山林は一睡もせずに朝を迎えた。
 半分、居眠りをしながら午前中の授業を受けた。昼休みに小アザラシの所へ尋ねに行ったが、連絡はまだ何も無いという事だった。さらに午後の授業も終わって終礼の時になっても寺崎の所在はつかめなかった。ぼくも山林もかなり心配になってきた。途中で何かあったのではないかと思えた。
入浴や夕食も済ませた十時頃、寮長がドタドタと走って来てぼくらの部屋へ飛び込んで来た。
「オイッ、寺崎が大阪の家に着いたという連絡があったらしいぞ。すぐに職
員室に行こう」
「オッーッ。ついにやったか!」
 ぼくらは勝ちどきに似た声を張り上げた。急いで職員室に行ってみると、昨日に続いて今日もまだ大勢の先生が居残っていた。全体に安心した様子で、賑やかになっていた。小アザラシも何時になく大きく口を開けて笑っている。
「とにかく、無事だという事で一安心です。今夜も遅くまで残っていただき
まして、ほんとうにご苦労様でした。今後の事はまた考える事にして、とりあえず、解散したいと思います。有難うございました」
 校長が壇上と同じような姿勢で言った。先生達は元気よく挨拶を交わしながら職員室を出て行った。

(五)

 翌日の昼休みにぼくと山林と寮長と揃って職員室の小アザラシの所へ行った。今後の事を相談しょうと思ったからだ。
「大阪へ帰った原因はいったい何かのう?学校が嫌になったのか、それともホームシックにかかったのか、あるいは日土村が嫌になったのか・・・」
 鼻をヒクヒクさせながら小アザラシがちょっと顔を上向き加減にさせて言う。
「寺崎は家が恋しくなることはない。なあ、ヤマ」
「オー、そうや。あいつは家ではこの上なく邪魔者だった」
 山林が相づちを打った。
「テラが嫌になったのはカッター漕ぎと中間試験が悪かったので留年するに違いないと悲観したことからなんだ。それが心配や、と俺やヤマにも何回も言っていた」
 ぼくは少し嘘をついた。寺崎はここの生活の何もかもが嫌になっていた。窓から吹き込む風に乗った海の匂いさえも耐え難くなっていたのだから。でも、正直に言うと見捨てられるかも知れないと思った。
「なんだ、そんな事か。それだったら連れ戻しましょう、先生。せっかく大
阪から東水まで来てくれて中途退学にさせたらかわいそうだし、両親にも申し訳ないですよ」
 頑丈な身体の寮長が心強いことを言ってくれる。
「そうだなあ。一度決めた事は最後までやり抜かせたほうが本人の為だな。成績が悪いといっても、まだ一学期の中間だ。頭が悪いのは仕方がないのだから、レポートなどを努力して提出すれば留年なんかさせる訳がないだろう。カッター漕ぎは水の心が分かれば、逆に楽しくなるんだがなあ」
 また、心の話が出た。しかし今度はあまり嫌味に聞こえない。
「とにかくもう一度、ここに来させよう。その為には大阪まで連れ戻しに行
こう。今までに脱走した寺崎のようなタイプの生徒で自主的に帰って来た者はいない」
 小アザラシは有り難いことを言ってくれる。
「だが、誰が連れに行くかだなあ。私が行ってもいいが、その間の授業を自習にしなければいけない・・・」
「いや、俺が行きますよ。俺に行かせてください。寮長としての責任もありますし、何より大阪から来たこの三人が気に入っているんです。大阪からわざわざこんな水産高に来てくれるなんて、いい根性してますよ。それにこんな連中が漁に興味を持って地元で漁師になってくれたら村の人も喜んでくれます」
 ぼくと山林は寮長の話を聞いてお互いに顔を見合わせた。何か少し後ろめたいものを感じる。
「ちょっと待ってよ。俺も行く。寮長は大阪に行ったことがないでしょ
う。だから俺もいっしょに行ってテラの家まで案内しますよ。そしてテラを
説得します。もともとテラとヤマをこの学校に誘ったのは俺なんですから」
「それだったら俺も行くわい」
 山林が興奮気味に口を挟んだ。
「いや、三人も行かなくていい。なにより山林が大阪へ行ったら、お前自身が帰って来なくなる可能性があるからなあ」
 小アザラシの言葉に皆が大笑いとなった。
「・・・でも、考えたら俺も金が無かったのやなあ」
 入学して以来、余分なお金はぼくの家からは全く送って来ていなかった。これは中学時代に無駄金を使いまくった報いに違いない。父も母もぼくに余分なお金を持たせると学校にも行かずに遊び回ると思っているのだろう。
「仕方がない。石塚の分は私が立て替えておくから卒業して漁師になったら最初の給料で返せよ。田下はあるんか?」
「俺はお袋に借りときます。夏休みに漁に出れば返せます」
「そうか、それじゃあ二人で大阪に行ってくれ。頼むぞ」
 小ザラシは鼻を満足そうにヒクヒクさせた。
 翌朝、ぼくと寮長は始発のバスに乗って出発した。
 大阪へ着いた時には夕方近くになっていた。その間、ぼくはなにか安心に似た気持ちで過ごすことができた。気の合う兄と旅行をしているような気分だった。
 大阪駅で乗り換えて、さらに三駅行った所がぼくらの家のある町だった。改札口を出ると、ぼくはそのまま寺崎の父親が経営している店の方へ歩いて行った。
「ホォー、ここがお前らの本拠地か」
 寮長が楽しそうに言った。人の少ない田舎から都会に出てきたのに、いっ
こうに臆している気配がない。
「寮長さんは大阪には何回か来たことがあるんですか。なんか、この辺に住んでいる人みたいな雰囲気ですが」
 不思議に思って尋ねてみた
「いやあ、もちろん初めてじゃ。けど、どこに行こうが、人間の住んでいる所に変わりは無かろうが」
 寮で話すのと同じように大きな声を出す。
「人間はどこに住んでいようが、都会であろうが、田舎であろうが心ひとつだ。金があろうがなかろうが、どんな仕事をしていようが、そんなことは関係ない。今の生活を真面目に心を込めてやっている人間が偉い。そして誇りを持つことだ、と死んだ親父から何度も教えられたからなあ」
「エッ、寮長のお父さんはもう、亡くなっていたのですか」
 今まであまり個人的なことは話し合ったことはなかったので驚いた。
「アァー、根っからの漁師として漁の最中に事故でなくなった。事故といっても日土太郎と俺たちが呼んでいる怪魚にやられたようなものだ。俺が小学生の六年の時だった。その時にお袋と妹の悲しむ姿を見て、俺は日土の村で生涯、漁師をやって生きていきて生き抜くぞと決めた。高校に進学する余裕などもちろん無かったが、寮に住んで寮母の手伝いをするアルバイトが見つかって、なんとか進学できたんじゃ」
「エッ、その日土太郎という魚は俺たちが、天礒の鼻の根元で遊んでいた時に海底からゆっくりと近づいて来た巨大な奴のことかも知れない」
「おそらく、それに間違いない。あれだけ大きく育った魚は日土太郎以外にはいない」
 寮長の足は速い。油断するとぼくよりも先を歩こうとする。ぼくは急いで前に出なければならなかった。
「だけど、あの日土の小さな村で一生暮らすなんて俺にはできません」
 ぼくは正直な気持ちを言った。
「石塚、よく考えてみろ。確かに、こうやって都会を歩いていると、田舎のお祭りのように人が多い。それに若い者がたくさん居る。しかし、果たして人間は多くの人々と同じ場所で生活してゆくことが、そのまま多くの人と共に生きてゆくことになるのだろうかのう。多くの人数のなかで生活していても心が結ばれず結局、孤独に生きている人が多いのではないのか。そりゃ、日土は年寄りが多いし人口も少ない。その代わり、みんな手を繋ぎ合って心を通わせて生きている。果たしてどっちが多くの人と共に生きていることになるのだろうかなあ。なにより、今歩いている人を見ると、みんな能面のような孤独な顔をしているぞ」
「ハァ、そうかも知れません」
 言われてみて中学の時を考えてみた。この辺りには大地がなくなる程、建物が建っていて夜となく昼となくぞろぞろと人は動いているが、心が通じ合っていたのはほんのわずかの仲間だけであったような気がする。学校では先生からは校則違反をする迷惑な生徒と考えられ、クラスメイトからは授業を妨害する邪魔者とされて、馬鹿なことをする連中だと排斥された。家に帰れば、顔を見せただけで嫌がられた。考えれば、ぼくら三人以外の者は敵と見ていたのだ。それにしても寮長はおっちゃんのようなものの言い方をするものだと感心した。
 二十分ほど歩くと、谷崎の父親がやっている中華料理店の前まで来た。小規模のマンションの一階が五軒の店舗になっていて、そのうちの一つだ。
 開け放たれた入口を通して店内を覗いて見ると、何人かの客が食事をしている。ぼくがちょっと、入ろうかはいるまいか迷っていると、寮長はズカズカと暖簾を潜って入っていった。ぼくも慌てて後に続いた。
「いらっしゃい」
 親父さんの元気な声が響いた。いつもは見習いの兄ちゃんが一人いるのだが、今は親父さん独りが調理場でせわしく手を動かしていた。そして顔だけ入口の方へ向けた。
「オーッ、わざわざ来てくれたのか!」
 親父さんは驚いて大きな声を出したが、それでも手は動かし続けている。それから顎をしゃくってカウンターの奥の方を指した。狭い店内なのに気が付かなかったが、そこにはコロコロした身体つきの寺崎がさらに肩を落とし背中を丸めて周囲の空気とは無関係なように漫画を読んでいた。水が半分入ったガラスコップが手元に置いてある。ぼくらは奥に行って寺崎の肩をたたいた。
「オイッ、帰ろうぜ」
 寺崎は振り向いてぼくらの顔を見ると驚いて立ち上がった。そして泣きだした。ぼくは寺崎の気持ちはよく知っている。寺崎は何も言わなくてもぼくといっしょに帰るだろう。涙はそれを意味している。
「石塚よ、寺崎によく話をして元気づけてやれ」
 寮長はこう言うと、何を思ったのか、頑丈な身体を調理場の中に入れた。
「水産高の寮長の田下と言います。寺崎君を連れに来ましたが、忙しそうなので手伝います。何でも言ってください」
 こう言いながらも寮長は洗剤に漬けられたままになっていた食器を景気よく洗い始めた。それを見てぼくは、いったい寮長という先輩はどんな人間なんだろうかと呆気にとられてしまった。ぼくだけではない。親父さんも目を白黒させて寮長を見ていた。
「そうか、すまんなあ。それじゃ、少し手伝ってくれるか。なにせ、店員が怪我をして休んでいるので・・・」
 どうやら親父さんは寮長が気に入ったらしい。
 閉店時間の午前0時まで客はポツリポツリと途切れずに入って来て、寮長も結局、終わりまで手伝った。
「さあ、腹が減っただろう。残り物だが食べてくれ」
 暖簾を下ろした後、親父さんは山盛りの中華料理を造ってくれた。親父さんはうまそうにビールを飲みながら料理をつまんだ。寺崎も嬉しそうに食べた。ぼくと寮長は胃がこれ以上受け付けないというくらい腹いっぱい食った。
 後片付けを済ませてから、店から歩いて十分ほどの、住居にしている文化住宅に行った。狭い部屋に四人がドヤドヤと入ったので、独りで居た寺崎のお母さんは驚いてしまった。お母さんは、日本語は少しの日常会話以外はほとんど分からない。だが、寺崎が身振り手振りで説明するとすぐに分かったらしくて、今度は大変に喜んでくれた。お母さんはぼくらがいくら一生懸命になって話を通じさそうとしてもいっこうに理解できないのに、寺崎がやると不思議なほど簡単に通じた。
 お母さんがぼくらに言ってくれた事は寺崎の通訳によると
「わざわざ連れに来てくれてありがとう。息子はヒッチハイクをしながら逃げて帰って来たけれど、家に居てもなにもすることはないので、寂しがっていた。でも、自分から帰るのも格好が悪いし、どうしたものか、悩んでいたところだった」と言うことだった。
「石塚はこれから家に帰って、明日の朝、一番列車に間に合うように起きてからまた来てくれや。俺はここに泊めてもらうから」
 寮長が満足そうに言う。
「いや、俺は帰りません。家の者に嫌がられて出て行ったのにどうして帰ら
ないといけないんですか。俺もここに泊めてもらいます」
 ぼくはむきになって言った。
「ホウ、そうか。それでもいいが、まだお父さんが生きているからそんなこ
とが言えるんと違うか」
 寮長はちょっと寂しい顔をした。
 翌朝、ぼくらは早く起きて意気揚々と出発した。
「カッター漕ぎは水の心が分かればよい。成績は平常点を稼げばよい。慣れ
れば海も好きになる」
 このことをぼくは寺崎に何度も言い聞かせた。それで彼の顔も晴れていった。
 大阪駅に着いてから寮長が、昨夜のアルバイト代だ、と言って家を出る時、親父さんから渡された封筒を開けた。中には二人分の往復の運賃プラスアルファが入っていた。

(六)

 寺崎が学校に帰ると、学校でも村でも彼は有名人になった。ぼくら三人が道を歩いていると、村の人が何人も声を掛けてきたし、干し魚や野菜まで、「寮に持って帰れ」と手渡してくれた。また、海辺に立っていると、前を通りかかった船の漁師から手をふりながら拡声器から声が聞こえた。
「オーイッ、がんばって卒業せえよォー」
 村人全員に励まされているような気さえしてきた。東水は村の人々に親しまれているというより、むしろ村と一体だ。
 とにかく寺崎を留年させないようにしなければならない。ぼくら三人は全教科の担当の先生のところにお願いに行った。
「頭が悪くて授業に付いて行けません。やる気はいっぱいあります。何か課
題をやらせてください」
 ほとんどの先生が何がおかしいのか、吹き出して笑った。それでも機嫌良くプリントを出して細かく説明してくれた。全教科の課題を合わせるとぼくらにとっては大変な分量になった。
 六月は今までになく忙しい毎日になる。授業中は理解できようができまいが、とにかく居眠りせずにノートを取る。寮に帰ってからは、たいしたこともない三人の知恵を合わせて課題をやった。
 それに寮長の暇な時を見つけてのカッター漕ぎの練習が入った。八人用のカッターを四人で漕ぐ。本来なら重いはずだが、準備体操からオールの握り方と細々したことまで寮長の教えてくれる通りにすると、不思議に授業でやる時よりはるかに楽に漕げる。何度か練習しているうちに少しずつ苦痛が消えて面白くなっていくのは意外だ。こんな単純な作業が楽しくなるとは思ってもみなかった。
 オールに入れた力がうまく海水に伝わると、カッターはスーッと前へ進む。それが毎回毎回微妙に違う。四人のリズムが合ってくるとさらに気持ちよく進む。それがちょううど自転車を乗り初めた時のように面白い。それにしても寮長の腕には櫓を漕ぐためにあるような太い筋肉が付いている。ぼくら三人が腕がだるくて仕方がなくなっても、寮長はまだ永遠に漕ぎ続けれるに違いないと思える余裕があった。
 ぼくらの技術はけっこう早く上達した。やがて松島の周囲を右回りでも左回りでも回れるようになった。さらに船足を延ばして岩水半島の近くまでも行けるようになる。ただ、天礒の鼻の突端には近付かないようにした。それは岩水半島よりもはるかに距離があることもそうだが、天礒の鼻の突端辺りには時として激しい潮流が起こり、とてもカッターなどでは乗り切ることはできなく、転覆する恐れがあるということだったからだ。
 この訓練のおかげでぼくらは体育の授業で他人に迷惑をかけずにカッター漕ぎができるようになった。
 七月になった。例年は期末試験の時がちょうど梅雨の最中で、教室の窓から雨に煙る松島や輪郭だけがぼんやりと分かる天礒の鼻が、墨絵のように見えるらしい。しかし今年は試験に入っても空梅雨で強い陽射しが照り付ける。それでも窓から吹き込んでくる海風は快かった。
 今度の期末試験の為にはぼくらは充分な取組みをしてきたつもりだ。ところが実際に試験を受けてみると中間と同じようにさっぱりダメであった。ぼくら三人はよほど頭が悪いとみえる。だが、膨大な量の課題は全てやり切って提出した。
 終業式の日、小アザラシがいつもより余計に鼻をヒクヒクさせて通知表を渡してくれた。ぼくらは自分一人で見るのが恐かったので、三人いっしょになって通知表を開いた。そして歓声を上げた。特に寺崎は泣かんばかりに喜んだ。お互いに点数は悪かったが、赤字は全部消えていた。
 暑い夏休みになった。寮生も先を争うように実家に帰って行った。残されたのはぼくら三人だけになった。この学校では夏休みに学校に出てきてクラブ活動をするというような生徒はいない。ただ、養殖科の生徒が当番でいけすに餌をやりに来るくらいである。夏休みは皆、家業の手伝いをするのだ。
「俺は家には帰らん。家で邪魔者にされて追い出された人間がどうして帰ら
ないといけないのだ。ヤマとテラはどうする?」
 ほんとうのところは、ぼくは帰ってもいいと思っていたが、親からまだ帰る旅費を送ってきていない。まるで帰ってくるな、と伝えているようだ。その根性が不愉快だ。送金してきても今度は帰ってやるものか、という気持ちになる。
「オーッ、そうだそうだ。帰ったら迷惑がられるだけだぞ。ここの方がよっ
ぽどいい。ごちゃごちゃ言う者もいないしなあ」
 山林も寺崎も同じように言ったが、強がっているところもあった。
「毎年、誰も居なくなって寂しいが、今年はあんたらが居てくれたら嬉しい
わい。なんせ、ウチは家に帰っても独りじゃからなあ」
 寮母のおばあちゃんが喜んでくれた。
「・・・だけど、ここに残って何をする?長い休みを・・・」
 腕を組んだ哲学者の山林が考え込んだ。
「そうだなあ」
 引き留めている責任上、ぼくは何か考え出さなければならない。
「・・・そうや、水泳をマスターしょうぜ。水産高校に来て泳げなかったら
恥だし、第一、海に落ちたら、今なら全員まちがいなく死ぬ」
 とっさに思いついただけの事だった。
「そうだ、板子一枚下は地獄と言うぞ」
 時々、山林はぼくには意味の分からないことをつぶやく。それほど難しいことを知っているのに勉強ができないのは不思議だ。
 中学の時、もちろん水泳の授業はあったが、ぼくらは水の中でもプールサイドでもふざけ合うばかりでまともに泳ぐ練習などはしていなかった。とにかくぼくらはみんなの輪の中に入って先生の命令通りに動き、みんなと一緒に楽しむということができない連中だったのだ。先生もぼくらのことは放っておく方が手間がかからなかったので、特に授業の邪魔をしない限り遊ばせてくれた。そのおかげで、五メーターも足を着けずに泳ぐと今にも死にそうなほどに苦しくなった。
 する事があれば何でもよかった。翌日からぼくらは誰も居なくなった学校の前の海岸で大はしゃぎで泳ぐ練習を始めた。海に浸かって分かったことだが、意外と泳ぎ易い。数日練習すると五メーターどころか、二十メーター、三十メーターと泳げるようになった。それに足の着かない所でフンワリと身体を浮かせて動かずに休むことまでできるようになった。
「これなら、どこまででも永遠に泳ぐことができる。松島まで行こうぜ」
 山林が自信満々に言う。
「よっしゃ。どこでも行く」
 ぼくらはすぐに調子に乗る。三人でゆっくりと松島を目指して泳ぎ始めた。海水は澄んでいる。時々潜るとずいぶん深い海底までよく見える。
 四十分ほど泳ぐと松島に着いた。ぼくらは岩に付いたカキやウニを踏んで怪我をしないように注意して上陸した。これは寮のおばあちゃんの忠告だった。陸地からそんなに離れていない島なのだが、なにか別天地にでも来たような気持ちになってぼくらは嬉しくなった。
 翌日からは松島を往復するのが日課になった。村人はぼくらが泳ぐのを仕事をしながら面白そうにながめていた。

(七)

 盆が近付くにつれて三人の親から何度も電話がかかってくるようになった。盆休みには必ず帰れ、ということだった。ぼくにも旅費が送られてきた。
「俺は帰らないぞ。盆だけ帰れ、なぞとそんな都合のいい親があるものか。俺は絶対に帰らない」
 ぼくが言うことに寺崎も山林も従った。
 毎朝、ぼくらはできるだけ早く起きる。中学の時の夏休みとは大変な違いだ。と言っても、早寝早起き良い子の生活、を心がけている訳ではなく、クーラーがないので太陽が上ると暑くて寝ていられないのだ。ちょうどぼくらが目を覚ます頃、養殖科の当番の生徒が餌をやりに来る。これは毎年決まって一年生の仕事らしい。
「オイッ、盆休みの間、俺たちが餌をやってやるからゆっくり休めや」
 顔見知りの生徒にぼくが声を掛けた。日頃、ぶつくさと不平を言いながら餌やりに来ているのを知っていたからだ。ぼくらは寮に居るのだから餌やりくらい何でもない。それにする事が多い方が退屈しない。
「サンキュウ!大助かり」
 当番の連中は喜んでぼくらに餌のやり方を教えた。要するに、決まった配合飼料を決まった量だけ決まった時間にやればいいだけの話だった。
 翌朝から朝食の前に餌をやることになった。これが実際にやってみるとなかなか面白い。ぼくらが浮き橋を渡って養殖筏の足場の上を歩くだけで魚が海面に浮き上がって来て大騒ぎをする。そして少しでも餌を落とそうものなら戦争状態になる。ぼくらも大はしゃぎで遊びながら餌やりをした。最後には山林が筏の中に飛び込んだ。そして魚をつかもうとするが、あれだけ群れていたのが瞬間にどこかに散って消えてしまう。
「なかなかすばしっこいやつじゃ」
 ずぶ濡れになって涼しそうに山林が上がってきた。
 盆休みに入ると船のエンジン音が全くしなくなった。船は桟橋に繋がれたままで、ゆらゆらと手持ち無沙汰にゆれていた。村を出て働きに行っていた人達が帰省しているので、人の数は増えているのに、なにか村全体が静まりかえっているように感じられた。
 そんな夜、寮の玄関が急に騒がしくなった。何人かの者が寮母のおばあちゃんと大声でしゃべった後、どやどやと階段を上がってきた。そして勢いよくぼくらの部屋のドアが開いた。顔を出したのは、大柄で真っ黒に日焼けした山林のお父さんだった。建築の現場監督でいかにも荒っぽい。
「コラッ、なんで帰って来ないんじゃ。待っとるのに」
 お父さんはずかずかと山林のところに行くと頭をたたいた。山林は痛そうにしながらも嬉しそうだった。
「兄ちゃんッ!花火をやろう。たくさん買ってきたよ」
 元気で甲高い声を出して入ってきたのはぼくの妹の小学生のミワだった。
「旅費を送金しているのに帰って来いよ」
 インテリの父に、世間体の母も入ってきた。その後、山林のお母さん、寺崎の両親と、入ってきた。三人とも両親がやって来ていたのだった。大阪で相談して、子供たちが帰って来ないのだったらこちらから行こう、ということになったらしかった。
 この夜は全員で海岸に出て花火をやった。
 夜の海風は特に涼しい。波は穏やかでのんびりした音を立てている。小石を海面に投込むと夜光虫のほのかな輝きの輪ができて、それが周囲に広がっていく。闇夜だと驚くほど発光するのだが、今夜はそれほどでもないのに、ミワは喜んで次々に石を投げ込み、はしゃぎ回って口の休まる暇がない。花火はぼくらよりも親の方が大騒ぎして楽しそうだった。
 寮に帰ってからも久しぶりに会ったものだから話が尽きない。ぼくは今までにこんなに親と話を続けたことがあっただろうかと思うほどだ。それに寺崎のお父さんが手に持ちきれない程のアルコールと食べ物を持って来ていたので、夜が更けるにつれてますます盛り上がってくる。終りには家族対抗歌合戦までやった。
 翌朝、皆で養殖魚に餌をやった。ぼくは不思議な気持ちになった。あまりにも皆が何をしても楽しそうなのだ。もちろんぼくも楽しかったが。餌やりの締めくくりは哲学者の顔をしたままで山林が生けすに飛び込んだ。
「どうせ濡れたのなら、泳ごう!」
 山林が足場に上がりながら言うとそれで決まった。
 午後から、男は泳いで女は舟で松島に渡ろうということになった。ぼくら三人はすでに余裕で松島まで泳げたが、父親達の方が心配だったので、学校の倉庫からトラックのタイヤのチュ―ブを膨らませた浮き輪を持ち出して、それにすがりながら行くことにした。
 困ったのは舟だ。カッターはあるがとても漕げない。それ以外にエンジンのついていないものといえば伝馬船しかない。これには背丈より少し短い櫓が一本、艫(とも)の近くに垂直についている。この櫓で前後左右に自在に舟を操れるのだが、それは熟練者のことで素人などにできるものではなかった。カッター漕ぎよりはるかに難しく、ぼくら三人も何度やっても思い通りに動いたことは一度もない。
「ワタシガ、漕グ」
 皆が困っていると寺崎のお母さんが突然、舟を指差して片言の日本語で言った。驚いてお母さんの顔を見ると誇らしい表情をしている。
「ほんとうかなあ。先に舟を出して後から泳ごう」
 ぼくらは半信半疑で伝馬船のつないであるところに行き、お母さんたちとミワを乗せて沖へ舟を押し出した。寺崎のお母さんは両手で櫓を軽く握ると顔は松島の方角に向けて漕ぎ始めた。ぼくらはほんとうに驚いた。村の漁師の人と同じように進んで行く。それに身体の動きや力の入れ方には全く無駄がなく、出した力が全部、水に伝わっているようだ。なによりもいかにも楽しそうだった。
「ホォー・・・」
 ぼくらは半分、呆気にとられて、しなやかに漕ぐ寺崎のお母さんの姿に見とれていた。
「さあ、俺らも行こう」
 ぼくが言うと皆は慌てて水辺の方に歩いた。そして父親たちはチューブにすがりながら泳いだ。ぼくらはいつもよりスローペースでちょうど速度が合った。ほぼ舟と同じスピードだった。
 中間付近まで泳ぐと父親たちは息を切らせ始めた。疲れてきたのなら喋らなければいいのに、切れる息で三人とも話し続ける。ぼくらはいつも喋りながら泳いでいるので慣れているが、父親たちはいかに無理に声を出している様子だ。ぼくはその姿を見ながら、こちらに来て父親たちがどうしてよく喋るのかが分かったような気がした。海のお陰だ。海が大人たちを子供にしてくれたのだ。子供は楽しくよく喋る。そして成長するにつれて色々なことを経験する。ぼくも少しずつそれが分かってきたような気がする。その結果あまり喋らなくなるのだ。ところが海は色々な嫌なことを溶かしてくれるに違いない。だから父親たちは子供に返って思う事が喋れるのだ。大阪ではいつも感じられていた父との間のピリピリとした壁がここではいっこうに無い。まるで友達のように心が通じるのだ。
 しばらく泳いでいると、どこからか民謡を歌っているような声が聞こえてきた。初めは村人が海辺で声を出しているのかと思ったが、振り返って見てもそれらしい人はいない。よく見ると櫓を漕ぎながら寺崎のお母さんが歌っているのが分かった。さらに注意して聞くと日本語ではなくてお国の言葉らしかった。声は櫓漕ぎのリズムに合ってゆっくりと流れるように聞こえ、海面を伝わって広がるように響いて来る。明るい声なのに、どこかもの悲しい。ぼくらは皆、耳を澄ませて聞いた。
 松島に上がって、日が傾くまで遊んだ。寮に帰った時には大きな夕日が天礒の鼻に隠れつつあった。
「今夜は灯籠流しじゃから、皆さんも見物しなされ」
 夕食の準備をしてくれた寮母のおばあちゃんが教えてくれた。時間は決まっているわけではなく、引き潮になってから流すらしい。
 食後、寮の窓から村の様子を時々眺めて灯籠流しが始まるのを待った。しばらくしてから、村の中央あたりに提灯の明かりがチラホラと見え始めた。やがて村のいたる所にその灯が動きだした。ぼくらも村の方へ歩いて行った。
 村の中央には小川が流れている。その上流が村の水源地になっているが、降水不足で水が流れていない。その河口のそばに行って見ると、次々と人が集まって来ているところだった。村の人口が帰省者でほぼ二倍くらいになったのではないとか思える程多くなる。その一人ひとりが、小さな子供までも細い蝋燭を灯した丸い提灯を持っている。提灯の薄い紙には色々な模様や絵が描かれていて、仄暗い炎の揺れに様々な変化を見せている。
 しばらくすると、ひときわ大きな灯籠舟が、川床が海に入っている所に浮かべられた。真新しい木肌の、本物そっくりの舟で、赤ちゃんなら乗せても沈まないのではないかと思える。へさきと中央と艫の三個所に四角い灯籠が立てられていて、その間に様々なお供え物が置かれている。蝋燭の炎は赤みがかっているはずなのに灯籠の絵の描かれた和紙を通ると青紫色になっていた。
 灯籠舟はゆっくりと引き潮に乗って沖へ流れ出た。わずかな波に少し揺れながら、ちょっと頼りなく岸辺から離れていく。明かりが不規則な明暗を見せて、それが海面に映り、光が一面に散らばったり消えそうになったりしている。この舟が合図であったらしく、その後は各家庭から持って来ていた小さな灯籠舟を次々と川床の近くの人から順番に流していった。それらには中央に灯籠が一つだけ付いて、提灯と同じように様々な絵が描かれていた。
 半分ほどの人が流し終わった頃、ぼくは、灯籠に火を着けようとしている一人の男に目が止まった。それは寮長だった。そばに居るのはお母さんと妹に違いない。妹は中学生のように見えた。寮長は真剣な顔で提灯の蝋燭から灯籠に火を着けた。それから大切そうに海面に舟を浮かべた。舟はわずかずつ沖へ流れた。寮長一家は手を合わせて深々と頭を下げた。
 日土湾に沢山の灯籠が浮かび、徐々に広がりながら、松島の方へと流れて行った。ぼくはたいへん落ち着いた気持ちになった。そしてふと、平和とはこんなものではないのだろうかと思った。ほかの者も皆、うっとりと見とれていた。
 翌朝、始発のバスで家族は帰って行った。
「楽しかった。有難う」
 停留所で口々に親たちはぼくらにお礼を言ってくれた。今までに親から怒鳴られることは無数にあったが、お礼を言われたのは初めてのような気がする。
「お兄ちゃん、りっぱになって大阪に帰って来いや」
 バスの窓から手を振りながら妹のミワが大人のような言い方をした。妹の言う事はいつも母の口真似だった。
(八)

 盆休みも過ぎて、約束していた養殖魚の餌やりも最後になった。ぼくらは魚へのサービスにかなり多目に餌を持ち出して筏へ行った。
 海の様子が少しずつ変わってきているような気がする。色が濃くなり深みを増してきている。人がその中に入って行くのを拒絶するような気配さえ感じる。それに関係あるのかどうか知らないが、養殖魚の食欲は旺盛を越えて死に物狂いの状態だ。餌が海面に落ちる前にジャンプして食らいつく。さらにその部分の海面が魚が集まって来て盛り上がる。
 ぼくらは餌を全部やり終えた後もしばらくは魚が元気で泳ぎ回るのを見ていた。なんとなく愛着が感じられていた。
 その時だった。魚の動きが急変した。統制のとれなくなった集団がめちゃくちやに逃げ惑うような状態になった。こんなことは今までにはなかった。ぼくらは、どうした事かと筏の底の方に目を凝らせた。すると養殖網と海底との間に何か大きなものが揺れているような気がする。魚が泳ぎ回って、はっきり見えないので、筏の外側から底を覗き込んだ。その瞬間、ゆらりと巨大な魚が出てきた。ぼくは一瞬、黒いウエットスーツを着た大柄な人間かと思ったが、紛れもなく尾ひれがあった。その魚は流れるように筏の底から全身を表すと、今度はゆっくりとぼくらの立っている所に浮かんで来た。そして水面から一、二メートルの所で止まった。波がゆったりとしていたので、水中の様子がユラユラしながらもよく見えた。
「アッ、あいつや!」
 ぼくは思わず声をあげた。入学式の後、三人で抜け出して天礒の鼻の根元の海岸で石を投げていた時に海の中からぼくらを恐がらせた奴だ。あの時の目ははっきりと覚えている。今、目の前にいる魚に間違いなかった。また、自信に満ちた悠然とした魚体の動きも変わらない。ぼくらはまたしても身体がすくみ足がガタガタと震えた。もちろん恐怖心もあったがそれより、本来、人間の目に触れることのない自然の奥底を見てしまったような恐れであった。
 その魚は海面から手を入れれば鼻先に届くのではないかと思われるくらい浮き上がってきた。そして大きな目をギョロリと動かして上目遣いに確かに陸上のぼくらを見た。ぼくの目と魚の目と一瞬、視線が合った。ぼくは身体中に耐えられない感動にも似たショックが走るのを感じた。その眼光はぼくの心のすべてを見抜いているようであった。そして、ぼくよりもはるかに多くの事を経験し、はるかに多くの事を知り、はるかに大きな世界を持っている事を思わせる深いものだった。それはまた、想像を越えた厳しさと慈愛の光でもあった。
 地上の様子を確認したら用は済んだかのように、その巨大魚は悠然と身を沖の方へ翻して泳ぎ始めた。ぼくはその魚影を見える限り必死で追った。途中からは幻影になってしまったかもしれないが、いつまでもぼくの網膜にはその姿が映っていた。巨大魚は海底の近くをエネルギッシュに身体を動かしながら、松島の沖を回り、天礒の鼻の突端へと消えていったのだ。後にはどうしょうもない程の魅惑感が残った。
 ぼくはなぜか泣けてきた。ぼくの誇りはどんなに怒られても、たたかれても絶対に泣かずに無表情でいることができることだった。それはぼくが他の連中から一目を置かれる理由の一つでもあった。格好の悪いところを見られてはいないかと思って、寺崎と山林の方をチラッと見た。すると二人とも青ざめた顔をして泣きそうにしている。ぼくは安心した。
「俺は釣るぞ!あいつを必ず釣り上げてやる!」
 天礒の鼻に向かってぼくは泣き声で大声を張り上げた。
「俺も釣るぞ」
「俺も」
 他の二人も同じ気持ちだった。どうして釣らなければならないのか、理由など考えなかった。しかし、どうしてもそうしなければならないと思えた。魅入られたとしか言いようがない。
「寮長さんの所へ行こう。以前に巨大魚の話をしてくれたこともあるし、きっと何か知っているに違いない」
 興奮気味のぼくらはそのまま部屋に帰る気になれなかった。誰でもいいから巨大魚の話をしたかった。
 寮長の家には行ったことがなかったが、村人に尋ねたらすぐに分かった。村の家並みの奥の方で、イルカ越えの山肌が迫って来ている所だった。小さな平屋建で灰色の不揃いな屋根瓦に、壁にはくすんだ板が打ちつけられている。一見、物置小屋のようだった。
 寮長は軒下で海底に沈めてカニや魚を取る篭を修理していた。そばには妹も腰を下ろして何かしていた。ぼくらが近付いて来るのに気付いた妹は立ち上がって恥ずかしそうにして家の中へ入って行った。ぼくはその妹の姿を見てまたショックを受けた。灯篭流しの時にもチラッと見えたが、あの時には暗くてよく分からなかったけれど、今見た姿は人間ずれのした大阪の中学生とは全く違って自然と共に、海と共に生まれ育ってきた、なんとも言えない懐かしさのようなものが感じられた。それは巨大魚に引きつけられたと同じようにぼくの心を強く捕らえた。
「イシ、何をボーッとしてるんや。寮長さんに挨拶しょうぜ」
 山林がぼくの頭をたたいた。寮長は少し驚いた様子で、それでも嬉しそうにぼくらを手まねきした。しばらく会っていなかったので懐かしい気がする。
「オーッ、久しぶりだなあ。遊びに来てくれたのか。こっちに来いよ」
 寮長は手を休めて立ち上がった。
「いや、俺ら、今日はえらいものを見たので、その報告に来たんです」
「ホォー何を見たんじゃ」
 寮長は落ち着いている。ぼくらは早口で巨大魚のことを口々にしゃべった。
「ああ、日土太郎に間違いない。彼奴は釣れないぞ。それでも、そんなに近くで見た者は村人のなかにもいないだろう」
 日土太郎という言葉を口にした時、寮長の顔が引き締まった。それで思い出した。その魚こそ寮長の父親を殺したものだと。
 声を聞きつけて寮長の母親が冷たい麦茶を持って来てくれた。ぼくは母親の顔を妹の顔と二重映しに見てしまう。長年、潮風にさらされた肌は古い壁板のように思えたが、素朴で自然な美しさは子供と共有しているものだった。ぼくがあまりにも母親の顔をじっと見つめ続けているものだから、母親は気恥ずかしそうに顔を背けた。ぼくも慌てて目を逸らせた。
「ゆっくり遊んでいきなされ。晩飯の用意はしておくから」
 意外に力強い声を出して母親は家の中へ入ろうとした。
「いえいえ、結構です。寮で晩飯を食べないと、寮のおばあちゃんに殴られますから」
 分別臭い顔をして山林が言った。
「そうかい。遠慮しなくてもいいのに」
 母親はちょっと振り向いてから薄暗い土間の中へ消えた。ぼくは、妹さんと食事ができると内心喜んだのに、山林の奴、いらない事を言うものだと腹が立った。
「あいつは赤バエの辺りに住み着いていることは分かっている」
 寮長は、ぼくらが座るための木箱を持って来ながら言った。四人は車座になって座った。
「赤バエというのはどこのことですか」
 ぼくはせき込んで聞いた。
「赤バエというのは天礒の鼻の突端からさらに三百メートルほど沖にある波石(はえ)
のことじゃ」
「ハエ?」
「そうだ。波石というのは満潮の時には海中に沈み、干潮の時には海面に顔を出す暗礁のことじゃ」
「赤バエの周辺には魚がたくさん集まっていることは分かっているが、漁をするのは難しいし危ない場所だ。海水の流れが速い所で、満ち潮と引き潮の境目のほんのちょっとの間以外は滝のように潮が流れている。船の操舵を間違うと転覆したり、岩にぶつかってしまう。だから漁師が天礒の鼻を回る時は赤バエのはるか沖を迂回する」
 ここまで話すと急に寮長は口をつぐんだ。そして少し不機嫌そうな、落ち込んだような表情を見せた。ぼくらは不思議に思いながら次の言葉を待った。
「実は俺の親父が死んだのも赤バエと天礒の鼻との間だった」
 ぼくら三人は一様に驚いた。そして寮長に対して少し悪いことをしたような気分になった。
「親父が太郎を狙っていたかどうかは分からん。しかし家族のために少しでも稼ぎを多くしようとして、危険な所で漁をしたことは確かだ。ちょうど四つ年下の妹が生まれたところだったから」
 寮長の声が低くなった。
「赤バエの沖向きは岩壁が急に深い海底に落ち込んでいるので碇は下ろせない。碇が下ろせなければアッという間に潮に流されて漁などできない。下ろすとすれば赤バエと天礒の鼻との間しかない。親父は満ち引きの境目のわずかな時間に大物を釣ってやろうと思ったのだろう、そこに碇を下ろして漁をした。魚の食いは潮が動き始めてから良くなる。近くを通りかかった、村の僚船が親父の船を見た時にはすでに潮の流れがかなり速くなっていて、舳に波しぶきがあがっていたという。ところが親父は大物を掛けていたらしく必死で釣り糸を引き上げていた。次の瞬間、親父も船も海中に引きずり込まれるように消えた。僚船はすぐに流されたと思える所に行って、海底を覗きガラスで親父を捜してくれた。見つけるのはみつけたが、海中の親父は両手を真っ直に前に伸ばし、斜めになって深みへふかみへと進んで行って見えなくなったという。助けようにもどうしょうもなかった」
 無念さが僚長の顔に表れた。今でも昨日のことのように思えるのだろう。
「普通は潮の流れが強くなれば碇を引きずりながら船は流されるはずだ。それに、漁師は海に落ちれば海面に浮く術は身につけていて当り前だ。それが、碇が岩に引っ掛かり、海流が底へ向かっていた。運が悪かったとしか言いようがない。まして親父はこの日土の海で生まれて育った根っからの漁師なんだから・・・それにしても、その親父が必死になって釣り糸を上げなければならないような魚は日土太郎以外には考えられない。親父の手にかかればどんな大物も易々と釣り上げられた。俺は小学校に行く前から漁に連れて行ってもらっていたからよく知っている」
 僚長は麦茶を飲み干した。
「それじゃあ、お父さんの死体はそのまま分からないままですか」
 また、山林がつまらない事を聞いた。
「いや、遺体は三日後に上がった。しかし・・・その時のことは思い出したくないなあ」
 僚長の真に辛そうな顔を初めて見た。
「よく分かりました。俺らがその日土太郎を必ず釣り上げてみせます。そしてお父さんの恨みを晴らしますよ。俺ら三人は“釣る”とさっき決めたところです」
 ぼくが大声で言うと、僚長の顔が元のように暖かくなった。
「俺も何度も太郎を釣ろうとした。しかし未だに釣れない。あいつは人間のやる事は全部見抜いている。とてもお前らの手に掛かるものではないぞ。止めとけ」
「それでも俺らはもう二回も太郎の姿を見たんです。今度見つけた時に釣り糸を垂らせばいいんじゃないですか」
 むきになってぼくが言うと僚長は大笑いをした。
「そんなことで釣れるんならとっくに誰かが釣っている。この辺りで大きな魚というのはそれだけ永年生きている証拠だ。永年生きているということは漁師の仕掛けを知っているということだ。年に一回くらい、漁師も太郎の姿を湾内で見かけるが、全く針についた餌を食べようとしない。どんなに細仕掛けにしてもハリスも針も太郎には見えるのだろう。だから村の漁師達は誰も太郎を釣ろうとはしない。いや、釣れないのだ。太郎は悠然とまるで散歩でもするように湾内を泳いで沖へ消えて行く。時たま、漁師が赤バエの沖で太郎のものらしい当りに出くわす時もあるが、あいつが食らいつくのは食いちぎる自信のある仕掛けの餌か、仕掛けの針が小さく食い込んで餌をとった後、口に引っかからずに吐き出せるものだけだ。結局、太郎は、人間の仕掛けであることを見抜いた上で、絶対に釣り上げられない餌であることが判断できるとしか思えない。しかもその判断は何十年生きてきたか知らないが、一度も狂ったことがないという事だ。だから釣れないのだ」
 僚長は自慢話でもするような口調になってきていた。
「いや、それでも俺たちは絶対に釣りますよ。今まで、他人から命令されたことには反抗しましたが、自分たちで決めたことは協力して全部やり抜いてきましたから。もちろん悪い事ばっかりでしたが。今度も間違いなくやれます」
 ぼくはきっぱりと言った。僚長が笑顔になった。
「それが、つまらん俺たちの生きてる意義です」
「そうです。絶対に釣ります」
 山林も寺崎も真剣だ。
「僚長さん、あの日土太郎はいったい何という魚なんですか」
 寺崎が身を乗り出して聞いた。いつもボンヤリしている彼がこれほど乗り気になるのは珍しい。
「それはよく漁師の間で話題になるが、結局のところ、大きくなり過ぎて分からないというのが実際だ。魚は成長するとその色や形が変わってくる。日土太郎は今まで俺達が見たどの魚よりも永生きしていると思えるから見分けがつかない。そういう意味では幻の魚だ」
 立ち上がった僚長は灰色の屋根甍の先に見える海の方に目をやった。

(九)

「おばあちゃん、釣りの仕方を教えてよ」
「そんなこと、簡単なことじゃ。竹を切ってきて糸と針をつければ、それでええのじゃ」
 ぼくら三人は生まれて以来、魚釣りというものをやったことがない。生きた魚を取ったといえばデパートの屋上で金魚すくいをしたくらいだ。水中に居るものを無理やり陸上に引き上げることに興味などなかった。泳いでいる魚とぼくらとの間には何の関係性もなかったのだ。ところが養殖魚の世話をして、可愛いものだなあ、と思い初めていたところに日土太郎と出合った。これが決定的となった。ぼくらの頭には日土太郎のあの勇姿以上に比重を占めるものはなくなった。
 寮母のおばあちゃんに連れられて学校の裏山へ登った。
「根っこに節がたくさん続いていて、先っぽまで真っ直になっている竹が一番ぞ」
 竹薮の中をあちこちと歩いて、おばあちゃんは何本かの竹を根元を少し掘り起こして切り取った。そしてその場で枝を落として僚に持ち帰った。ぼくらにはどの竹も同じように見えて選ぶ基準が分からなかった。
「ほんとうはゆっくりと乾燥させると軽くなって使い易いんじゃが、まあ、いいじゃろ」
 おばあちゃんは裁縫箱から白糸を取り出して竹の先にくくり付けた。そして適当な長さに切ってから古い釣り針を結び付けた。
「さあ、これで出来上がりじゃ。ちょっと釣ってみるかい」
「エーッ、こんなんで泳いでいる魚がほんとうに釣れるの?」
 ぼくらはとても信じられなかった。今まで関係性の無かったものと関係しょうとする厳かな儀式がこればかりのものでできるとは思えなかった。
 釣り竿を持ったおばあちゃんは寮の前の海辺に歩いて行く。ぼくらは後に続いたが、おばあちゃんの後ろ姿は実に釣り師らしく、自信に満ちていた。
「これなら落ちないだろう」
 おばあちゃんは細長い小さな石を拾って、釣り針の上三十センチくらいの所にくくり付けた。それから握り拳くらいの石を持って岩に着いている貝をたたいて割った。その身を目を細めて針に付けた。
「よく見ておきな」
 竿で調子を取ってうまく海中に落とした。その動作はこれまた形にはまっていて見事に思える。海水は透き通っていて、落とした餌はよく見える。ぼくらは魚釣りというのは時間が掛かるものと思っていたが、餌のところにすぐに色々な形と色合いの魚が寄ってきた。そしてそのうちの一匹が何のためらいもなくパクリと餌を食べた。おばあちゃんはすかさず竿を上げた。針には必死になって動く魚がかかっていた。
「やった!おばあちゃんは釣りの名人や」
 ぼくらは万歳をするように大声を出した。おばあちゃんは恥ずかしそうになった。
 そのあと、今度はぼくらが順番に同じように釣ってみた。すると三人共、不思議なほどよく釣れた。ぼくらは異次元の物を手に入れたように興奮した。
 ぼくらの生活は一変した。今度は、明けても暮れても釣りと太郎のことしか考えなくなった。それは二学期の授業が始まっても同じだった。
 学校には誰が使ってもよい自転車が十台ほど置いてある。卒業生が寄付したものだ。日曜日、ぼくらはその内のきれいなのを三台選んでイルカ越を汗を吹き出させながら越えて町へ出た。懐には使わなかった帰省費用がまるまる入っている。町の中心は商店街といえるかどうか分からないが、バスの停留所からしばらくの間、店が左右に並んでいる道があって、それ意外に家並みが連なっている所はないので、これがメインストリートなのだ。確かに、使い古されて歯抜けになった万国旗の切れ端が街灯の上の方にぶらさがったりしている。
「ここが即ち、町だ」
 哲学者山林がにやにやしている。
「早く釣り具店を捜そうよ」
 寺崎がいつになく先になって自転車を漕いだ。ところどころに営業を止めた店があって、剥げた看板だけが以前の店舗の証明になっていた。それでもやはり煙草の自動販売機もあり、カラオケはないが喫茶店もある。
 釣り具店は商店街の終わりの方にあった。軒先が低くて入口の狭い店だ。中に入ると想像していた様子と違う。いわゆる遊び用の釣り道具などは売ってなくて、漁師の使うような物ばかりが置いてある。それで気が付いた。水産高に来て以来、海岸で釣りをしている人を一度も見たことがなかった。ここでは釣りはレジャーではなく仕事なのだ。
「水産高の生徒じゃな。何でも持っていけ、二割引きにするからのう」
 ぼくらが騒いでいると奥から小柄なおじさんが出て来た。ぼくらは一つひとつの釣り具について説明を聞きながら一時間以上も、太郎を釣り上げる道具を捜した。
――太郎は食いちぎれる餌には食いつくが、釣り上げられるような大仕掛けの餌には絶対に食いつかない
 ぼくは寮長の言葉を思い出していた。要するにここにある釣り道具では太郎は釣れないということだ。ぼくらは結局、大小様々な針だけ買って引き返した。
 イルカ越の頂上まで来て一休みした。よく晴れている。日土の村や松島が眼下に見え、その先には天礒の鼻とかすかに円曲した果てしない太平洋の海原が広がっている。空は真夏とは違った透き通るような青で、秋への季節の変化が感じられる。
「ホォー、自然はきれいだ。だが、いったい誰に見せようとしているのか、それが分からん。ここで久しぶりに吸うか」
 何時買ったのか、山林はポケットから新しい煙草を取り出した。入学してから一度も口にしていなかったものだ。ぼくらは中学時代のように、火をつけると思いっきり一息吸い込んだ。ところが三人とも激しく咳き込んで、ゲェーゲェーとやった。
「畜生!」
 山林が勢い良く煙草の箱を谷に向けて放り投げた。それはゆっくりと弧を描いて落ちていった。
 ぼくらは毎日まいにち、どんな天気であろうが、授業が終わると釣り道具を持って出かけた。そうしているうちに魚に対して様々なことが分かってきた。そしてそれらの事が見るのも嫌だった教科書に書いてあるのに驚いた。さらに図書館にある本には太郎を釣るうえで参考になると思えることがいくらでもあることが分かった。
「けっきょく、人間は勉強しなければ大事は成せないのや」
 物知り顔に山林が言う。ぼくらは勉強には拒絶反応しかないが、魚について調べる事はむしろ楽しみになった。ただ、頭の悪いぼくらにあれもこれも詰め込むのは無理だった。それで三人で分担した。ぼくは魚そのものについて、寺崎は釣り道具について、山林は海について、それぞれ太郎を釣るという一点に焦点を定めていわゆる勉強を開始した。これまですべての授業は無言と無想の修行であったが、この時より魚に関する授業は必死になって受けた。
「最近、お前達、どうしたんだ?真剣になって授業を聞いているじゃねぇか」
クラス全員の者がぼくらの変わり様に驚いていた。不思議そうにさえ見ていた。
「俺らは日土太郎を釣ると決めたんだ。太郎は賢い魚や。だから太郎以上に賢くならなければ太郎を釣ることはできんのだ」
 ぼくは全員に聞こえるように大声で宣言した。子供の少ない日土の村の生徒はほんのわずかしかいない。だから日土太郎といってもほとんどの者には何のことか分からない。皆が怪訝そうな顔をしていると、日土の生徒の一人が厳かな声を出して説明した。
「・・・だけど、太郎は村の漁師でも誰もよう釣らないぞ」
 最後にその生徒は得意そうにそうに付け加えた。日土太郎は釣れない魚の代名詞だった。
 説明を聞きながらぼくは、プロの漁師が釣れない魚を釣ると決めたのだからプロ以上の技量を持たなければならない、そのためにはまずプロに習わねばいけない、と思った。ぼくはこの生徒を含めて日土村の者全員にそれぞれの父親の船で漁の実習をさせてくれるように頼んだ。翌日、全員から快諾を得た。それどころか、生徒の親ではない他の漁師も皆、乗せてくれるということだった。
 ぼくら三人は毎週日曜日にそれぞれ乗せてもらう船を決めて、できるだけ多くの船に乗れるように計画を立てた。色々な漁師に教えてもらった方がよいと思ったからだ。
 漁は暗いうちに出て日が高くなると終わる。そして釣れた魚を岩水半島を回った所にある村まで運ぶ。そこは日土村より少し大きいくらいの漁村だが、船着場に仲買の年寄り達が集まって来て船から上げられる魚を買っていく。日土ではほとんどの船が一本釣りで、余りお金は儲けないらしい。ただ釣れたものの中には商品にならない魚もあって、それは自宅のかおずになった。また海底に篭を沈めてカニや底魚を取ったり、そのほか様々な方法で海から食べるものを得ていたので、食費はあまり要らないのではないかと思えた。
 日曜日になるとぼくらは眠っている時間がないくらい早く起きた。そして船着場に走って行った。まだ漁師さえ誰も来ていなかった。しばらくして初めに顔を見せたのがなんと寮長だった。寮長は日頃は寮生の面倒を見たり、おばあちゃんを助けたりしていたが、日曜毎に居なかったのは漁に出ていたからだった。
 やがて全ての漁師が船着場にやって来て楽しそうに雑談を始める。話がしたくて早く集まって来たようにさえ思える。そのなかで寮長はぼくらのような見習風と違って、一人前の漁師とまったく変わりがなかった。
「さあ、それじゃ出ろうぜ」
 誰かが合図の声を発すると一斉にそれぞれの船に向かって歩き出す。ぼくらは慌ててこの日に乗せてもらう漁師について行った。
 この現場の漁の実習はぼくらにとってすばらしい成果を上げることができた。実際に手さばきを受けながら釣り方が学べたことはもちろんの事、会話のなかで魚に関したあらゆる事を聞くことができた。そのなかには先祖から聞き伝えられている不思議と思えるような話さえあった。ぼくらが乗ったどの船の漁師も、何十年もかけて得たと思える技を惜しげもなく情熱を込めて語ってくれた。
 ぼくらは漁から帰ってくると、三人がお互いにそれぞれの漁師から教えてもらった事を語り合って勉強した。こうして日土村の漁師のほとんどの人の、一般的な漁の知識はもちろん、その人だけの得意技や日頃考えている事さえも知ることができた。
 そのなかで意外に思えたことの一つには、魚は自由ではないということだった。こんな広い海の中で魚は自由奔放に生きていていいものだと思っていたが、現実はそうではなかった。人間の目には見えないが、魚にはそれぞれの魚の通る道があったのだ。その魚にとって自分の道を外れることは許されなかった。というよりも道を外れることはその魚にとって死を意味することになるのだろう。また、季節、時間、潮の状態など様々な状況に応じて決まった行動をする。それは非常に厳しい、何かの法則に従って生きているとしか思えなかった。魚たちはぼくら三人より、はるかに厳しく統制の取られたなかで、規則正しい生活をしているのだ。だから漁師は、どの場所で、どんな時期に、どの餌で、どういう釣り方をすると、どの魚がどの程度釣れるのかということを知り尽くしていた。それで、アッと驚くような魚が釣れるというようなことはまず無かった。
 ぼくらの釣りの技術は実習のおかげで飛躍的に上達した。平日に磯で釣る時には、基本的にはおばあちゃんに教えてもらった通りの手作りの道具をさらに改良して使ったが、ほぼ狙った魚を釣り上げることができるようになった。
「ただ、太郎についてはどうしても越えられない矛盾がある。ほんとうに、なんでも突き通せる矛に、絶対に突き通せない盾や」
 勉強嫌いの寺崎が昨日、漢文で習ったことを言った。ぼくは寺崎の頭を叩いて笑った。それでも彼は真剣な顔をしている。
「釣り上げられるほどの仕掛けの餌には絶対に食いつかない。切る自信のある餌には食いつく。この矛盾よなぁ・・・」
 寺崎は様々な釣り針や道具をいじりながら悩んでいる。
「だけど、何とかなるんだろう、テラ」
 ぼくは少し不安になって言った。
「ああ、絶対なんとかする。なんとかしないと太郎は絶対に釣れない」
 気の弱い寺崎にしてはめずらしく元気な返事だった。ぼくら三人は何時も一緒にしゃべっていたので一人が知っていることは他の二人も知っているというように共通した知識を持っていた。その上で、寺崎は釣り具に凝ってきていた。山林は潮の干満の予想が得意になっていた。ぼくは餌に興味を引き付けられていた。
「同じ種類の魚なのに天蟻の鼻と岩水半島とでは餌が変わるというのはどうしても納得できないなあ」
「おそらく彼奴は何百年という長い年月、ワレカラを食って生きてきたのだろう」
 山林が難しそうに言う。
「なんじゃ、そのワレカラというのは?」
「ウーム・・・例の枕草子に出てきただろうが・・・」
 彼は思索に耽るふりをしてごまかす。
 餌についても漁師から教えられたことだったが、謎のように思える。漁師は、場所によって魚が好き嫌いをするのではなく、永年の漁師の釣り餌によって魚の好みが決まったと言う。同じ人間でも主食が民族や地域によって違うのと同じ事らしかったが、よくは分からない話だ。
「そんなことより、とにかく現場に行こうぜ。赤バエと天礒の鼻の潮の状態を調べんことには話にならんぜ」
 山林は難しい顔をして鼻息が荒かった。

(十)

「休みになると早く起きるのう、この子達は・・・」
 寮のおばあちゃんが感心したような、呆れたような顔をしておにぎりを渡してくれた。ぼくらは勢いよく玄関を飛び出した。漁船に同乗させてもらっての実習を一応終えたぼくらは、日曜の早朝、自転車で天蟻の鼻へ出発した。もちろん、色々と工夫した釣り道具は持って行った。
 村の平坦な道を走ると風が涼しいというよりむしろ、少し寒ささえ感じる。天蟻の鼻の付け根の所から岬への道に進むと上り下りのガタガタ道で自転車を降りて押さなければならないような個所もいたる所にある。入学式の時に初めて太郎に会った所を過ぎると今度は汗ばんできた。それに快晴に近い天気だ。ぼくらは上着を脱いだ。
 後一つの坂を越えれば先端に出られるという所で自転車さえ通れない山道になってしまった。ぼくらはそこから歩いて行った。左右から頭上に木の葉がやけに繁っていて薄暗く、釣り竿を引っ掛けないようにするのに苦労する。
 息を弾ませながら上り切ると急に周囲が開けて明るくなり岬の突端の白い灯台のある所へ出た。寮を出てから二時間を越えている。
「オーッ、すごいぞ!」
 三人とも叫び声をあげた。村から遠くに見ていた優雅さとは大違いで、実に荒々しく迫力がある。風も大変に強く、左から右へ吹き抜け、時には身体が揺れる。振り返ると日土の村がイルカ越えの峰に押し潰されたように狭く、窮屈そうに見える。
「見ろ!左側の岩壁の木が全部、風のためにひしゃげている。ということは常に同じ方向に吹いているということだ」
 山林が指差した岩肌を見ると背の低い木々が枝も葉も岩に押しつけられたような形になっていた。
 灯台の台座の上に立つと周辺がよく見渡せた。絶壁に近い眼下には荒い石ころのそれほど広くはないが浜になっている所が見える。
「ここから垂直に浜へ降りるのはとても無理だ」
 口をヘの字にまげた山林が恐ごわと下を覗き込んでいる。浜から三百メートルほど沖合に潮の色が変わって白く波立っている部分がある。
「あれが赤バエだ。今は干潮ではないから海面下に沈んでいる。あの周辺が太郎の住家であることは誰の話からも間違いない。それにしてもすごい潮流だ。赤バエにぶつかった潮があんなに海面までもりあがってくるんだから」
 山林は腕組みをして考え込む様子になる。
「なにか今にもあそこからでっかい怪獣が浮かび上がって来そうだなあ」
 灯台の壁に背中を張り付けるようにした寺崎は恐がって動こうとはしない。ぼくも少々足がすくむような気持ちになっていた。
 さらに沖に目をやると島影もなくはるか彼方へと海面が続く。途中に米粒ほどの船が見える。それに人間が乗っているのかと思うと不思議な気持ちがした。海の終わりは少し薄い青色の空と交わっているところだ。その線は確かに緩やかな弧を描いている。それが村から見るよりもさらにはっきりと分かった。
 しばらく眺めていると大洋の孤島にでもいるような錯覚に陥ってくる。
「さあ、浜へ降りようぜ。ちょっと後戻りをして木の生えた所から下に降りてから浜へ回ろう」
 元気付けるような声を山林が出した。降りるといっても釣り道具を持ったままではとても無理だった。それでまず山林が一人で何も持たずに降りて行った。
 ずいぶん時間が経ってから浜に山林の姿が見えた。かなり小さく見える。
「ヨーシ、荷物を降ろせ」
 声は下から響いてくる。ぼくと寺崎は持ち物を灯台の前の岩壁から釣り糸を垂らす要領でロープを使って少しずつ浜へ降ろした。山林はそれを受け取って解いてからまた大声を出す。何度か繰り返して全部下ろした。使ったロープは帰る時のためにそのまま置いておくことにした。ぼくと寺崎は山林が通ったと思える所を降りたが、急な斜面で苦労した。特に寺崎は危なっかしい。
 浜までたどり着いた時にはぼくも寺崎も身体中すり傷だらけになっていた。見れば山林も同じだ。
 浜は上から見たよりも広かった。潮流は目の前で見るとまるで川のように速い。どうして海水がこんなに流れるのか不思議に思えるほどだ。
 辺りの石ころに付いているわずかな漂流物の跡から考えると満潮になったとしても浜全体を海水が被うことはないはずだ。よほどの嵐でない限りこの浜からの釣りは可能と思える。
「それじゃあ、まずは小物を釣ってみよう」
 ぼくは水際の石や岩場の海中を調べてみた。カニ、ヤドカリ、小エビがたくさん居る。それに貝類も豊富で、トコブシという小型のアワビさえも所々に見え隠れしている。それらを適当に網で取っては寺崎と山林の足元へ放り投げた。それを二人は殻を割ったり、切り身にしたりして餌を作った。
 釣り始めると海中の、上層を泳ぎ回る魚も底で活動する魚も結構な大きさのものが次から次に釣れた。特に、サンバソウが鋭い引きで数匹も上がってきた。
「人間も魚も食欲の秋や」
 何時の間に取り出してきたのか、山林は早くもおにぎりを口の中に放り込んでいる。
「コラッ、お前だけ食べるな」
 ぼくと寺崎も竿を置いておにぎりの包みのところへ走った。三人共、石ころの上にあぐらをかいて食事をした。お米はこんなに美味しいものだったのかと思う。競争で食べるから山のように積み上げていたおにぎりがすぐに無くなった。食後はしばらく浜や岩場をブラブラと歩き回った。
「こういう所を人跡未踏というのだろう。どこを捜しても人間の居た気配がない。あるとすれば僅かに打ち上げられたゴミから感じるしかない」
「ヤマの言うことはよく分からないなあ」
 寺崎は適当な石を拾ってはあちらこちらと投げて落ちる先を確認している。
「オーッ!見ろ。赤バエが姿を表したぞ」
 何気無くぼくが沖に目をやると今まで波しか立っていなかった所に黒々とした岩場がはっきりと頭を出していた。
「ほんまに怪獣や」
「そんなことより時間を計れ。潮が止まっているやないか。何時の間にか風も止んでいるやないか」
 山林の顔が必死になった。
「ヨーシ、ヤマは赤バエを見ておけ。俺とテラは釣ってみる。おそらく当りがないはずだ」
 ぼくと寺崎は今までよく釣れていた同じ場所に急いで糸を垂らした。餌は無くなるがまったく引きがない。それは不思議なほどである。寺崎の、釣れていないと思って上げた針先に小さなフグが引っ掛かっていた。餌取りの小魚しか動いていない証拠だ。
「なんと大きな針に食らいついたなあ。太郎もお前のようであればいいのに」
 寺崎が小フグとにらめっこしながらつぶやいた。ぼくの竿にもメダカでも掛かったような感触があり、上げてみると小さなグレが今にも落ちそうな状態で上がって来た。
「人間に食事時があるように魚にも食う時と食わない時があるんや。人間と違うのは時間だけで決まっているんではなくて、潮流と水温がそれにからんでいる。この場所もやはり例外ではないんや。漁師さんの言われる通りだ。この時間に太郎を釣ろうと思っても絶対に釣れないぞ」
「人も魚も赤ん坊は何時でも何処でも食べるんやなあ」
 寺崎は手のひらでフグをグチャグチャにしている。フグは悲鳴のような音を立てて張り裂けんばかりに膨れている。
「ワァーッ、わずか三、四○分しかない。見てみろ、潮を」
 山林が苦しそうな声を出した。確かに潮の流れが逆になって動いていた。
「俺は太郎に会った時間の潮の状態を調べたんだ。そうすると両方とも干潮と満潮が終わり、潮が動き初めてから少し経ってからだった。しかも二度とも大潮の時期だ。ということは太郎は大潮の海水が流れ始めた時にこの赤バエと灯台との間を通って日土湾に入って行ったということだ。漁師さんの話や何よりも寮長さんのお父さんの状況から考えて、このことは間違いない」
 山林は自信に満ちてる。なかなか説得力があり、ぼくも寺崎も真剣になった。
「・・・今日は中潮の頃だ。それでこの時間や。大潮の時には海水の止まる時間はもっと短いし、潮の流れもはるかに速いはずだ。そうすると俺たちに太郎を釣り上げるチャンスがあるとすれば潮の止まったわずかの時間にボートででもここと赤バエの中間付近まで行って仕掛けを沈めて帰って来て当りを待つしかない。しかも潮流が仕掛けや餌を流してしまうまでの間や。難しいぞ」
 山林は腕組みをして白い波しぶきが立ち始めた赤バエを見たままだ。そうしているうちにも潮はどんどんと速くなり、広大な川の流れのような音を立ててきていた。
「だけど、いいじゃないか。一歩前進や。釣る時間と場所がはっきりしたのだから。ヤマは偉い」
 ぼくはほんとうにそう思った。大阪で人の嫌がる事と馬鹿な事ばかりをして高笑いして、いいかげんな生活を自慢していたのとは大違いだ。
 ぼくらは太陽が水平線に隠れるまで浜に居た。灯台の所に這い上がった時には頭上に平和な灯火が付いたり消えたりしていた。

(十一)

 イルカ越えの斜面の木々が紅葉してきた。残っている常緑樹の緑も冴えなくなった。大阪よりはるかに寒い。冬が近付いている事がひしひしと肌に感じられる。それに海が荒れる日が多くなった。
 ぼくらが太郎を真剣になって釣ろうとしているという噂は寮生から学校全体に広まった。さらに日土の村人の間でもよく話題に上ってきているらしかった。
 釣りに夢中になっている間に二学期の中間試験も終わってしまった。成績はどうしょうもないものだった。ただ、太郎を釣る為に勉強した事が運良く試験に出たところは、一部分だったが完璧に解答できた。
 小アザラシがぼくら三人の所へヒクヒクと近付いて来た。昼休みの時間でぼくらは太郎を釣るための相談をしていた時だった。
「君らは話によると、太郎を釣るつもりか?あの魚は人間よりも賢いよ。ベテランの漁師さんでも釣り上げることができないんだから」
ぼくらは小アザラシをわざと無視していた。試験のことを言われはしないかと思ったからだ。
「ところで、今回の試験、まったく駄目だったよ。このままだとまた留年の心配が出てくるよね。一学期のように山のような課題をやるかい・・・それより、こうしたらどうだい。太郎を釣り上げたら進級させてやるということにしてもいいよ。私の教科以外の先生もいいと言っている」
「エッ!」
 ぼくらは驚いて小アザラシの顔を見上げた。
「学校の勉強以上のものを覚えなければ太郎は釣れないからなあ。まあ、やってみろよ」
「ヤッターッ、頑張るぞ」
 周囲を飛び回ってぼくらは喜んだ。クラスの生徒も面白そうに見ていた。
 ぼくらが太郎を釣ることに更に熱中したことは言うまでもない。寝ても覚めても太郎のことしか頭にはなかった。
 日曜はもちろん土曜日も休みの日は朝から天礒の鼻へ行った。午後から授業のない日があるとそれが終わるや否や出発した。そして灯台の手前から浜へ降りる斜面にはロープを垂らして楽に上がり降りができるようにした。突端の絶壁のところから浜へは重い荷物でも楽に吊して上げ下ろしできるように滑車付のロープを取り付けた。また、学校の倉庫に眠っていたゴムボートを持って来て浜へ下ろした。
 ぼくらは山林の提案した方法に従って、潮が止まった時に仕掛けと餌をゴムボートで沖まで運んでセッティングをして、また浜に帰り当りを待った。回を重ねる毎に要領がよくなって、初めは赤バエの四分の一くらいしか沖に出ることができなかったが、やがて目標の中間点辺りまで行くことができるようになった。
 細仕掛けにすると石鯛などがよく釣れたり、餌が取られたりした。しかし、巨大魚を釣り上げることを考えて糸も針も大きく太いものにするとまったく当たりはなかった。     
 頭の中にあった太郎の姿が少しずつピントがボケてくるように感じられた。現実の世界から必死になって幻を掴もうとしているのではないかとさえ思える時もあった。
「もう一度、今までの事を整理して作戦をねらなァあかん」
 ある晩、山林がワニ口のクリップで綴じた分厚い紙の束を畳の上に放り出した。彼が毎日、記録を取っているのは知っていたが、これほど多くなっているとは思わなかった。
「ホウ、ヤマがこんなに勉強するというのは七不思議の一つになるぞ」
 背を丸めてあぐらをかいている寺崎が紙束を手に取ってクリップを外した。彼は座るといつも肩を落としているように見えるが、今は特に俯きかげんになっている。寺崎は紙面には目もくれずにさかんにクリップを神経質に開いたり閉じたりし始めた。
「コラッ、そんな物で遊ばんと俺の労作を見んかい」
 山林が怒った。その言葉は耳に入らないらしく寺崎はさらに激しく指を動かしてカチカチと音をさせた。
「オオーッ!これや、これや、これで矛盾が解けたぞッ!」
 寺崎が寮中に響き渡るような声を出した。同時に背筋が急に伸びた。そしてクリップを持った手を高く上げて試合で優勝した時のように振った。ぼくと山林は呆気に取られてクリップを見た。
「食いちぎれる仕掛けの餌には食い付くが、釣り上げられる大仕掛けには食い付かない。この矛盾に答えられるのは、このクリップの方法しかない」
 興奮した声で寺崎は説明した。
「二本の釣り針をこのクリップの軸に付いている小さなスプリングで結びつけて合わせるのや。そうすると大きさは一本の針と同じになる。それに餌を付ける。これを太郎は小さな針だから食いちぎれると思って食べる。すると口の中で餌がばらけたとたんに針はスプリングの力で開き、大きさも強さも二倍の針になるんや。どうや、これで太郎が釣れるぜ」
「なるほど、大したものだ。テラこそ勉強ができないのは天才過ぎるからだ」
 不機嫌そうだった山林も大喜びで寺崎の頭を叩いた。ぼくは少し不安だった。
「実際に肉の締まった貝柱なんかをつけてそんなにうまくいくかなあ、テラ」
 二人の高ぶった声と違ってぼくは冷静に言った。するとそれが寺崎に移ったのか、急に顔が曇った。同時にクリップを持った手がゆっくりと下におりてきて背筋が前以上に曲がり額が畳に付きそうになった。
「そうや、気が付かなかった。餌には大きな、肉の丈夫な貝を何個も針に串刺しにするわけや。それを太郎が食べたとして、中に予想以上の太い針が入っているのが分かれば吐き出すに違いない。その時点ではおそらく百パーセント、針は残った餌に止められて開かないだろう。太郎が気が付く前に口の中で餌が完全にばらけないことには役に立たないなあ」
 寺崎は身体中から力が抜けてまるで動かないウミウシのようになった。山林は喜んだ手前どんな顔の表情をしたらいいのかとまどっている。ぼくはそんなに詳しく考えて言った訳ではなかったから、二人が急速に落ち込む様子を見て非常に悪い気がした。なんとか元気づけたいと思ったが行き詰まっている時だけに適当な冗談も浮かばなかった。しばらく三人とも声が出なかった。
「・・・まてよテラ。今、ばらけると言ったな・・・」
 どのくらい時間がたったか分からなかったが、ぼくはハッとした。
「二回目に太郎を見たのは養殖筏の下だったろう。太郎は何の為に湾の中に入って来て筏の所まで来たんだ。まさか酔っぱらいのおっちゃんみたいにフラフラ何処でも歩くわけじゃあないだろう。配合資料だよ。太郎は養殖魚にやった配合資料が網から落ちてくるのを食べていたんだ。なにかのきっかけでそれを口にして以来、よく食べるようになった。これが食性や。これほど安全で栄養のある食事はないものなあ。配合資料なら水加減で堅さは自由になる。太郎の口に入ってすぐに完全にばらけさせることもできる。太郎は湾内では極端に警戒心が強くなるに違いない。おそらく筏の下ではどんなに仕掛けをごまかそうとも見抜いてしまうだろう。だから、筏の下で釣り上げることは不可能だと思うが、安心している天礒の鼻ならできる」
 今度は寺崎も山林も声を出さずに目を見張った。寺崎の背が伸びた。
「ただ、あくまでも仮定の問題だけどな」
 ぼくはできるだけ普通にしやべったが、自分で確信が持てるような気がした。
「仮定・・・大いに結構。この世はすべて仮定のうえに成り立っている。考えてもみろ。常識的な釣り方をしていたら太郎は年に一回食うかくわないかなのだぞ。それも所詮は糸が切られるだけだ。ということは釣り上げることは不可能ということだ。だからこそあんなに大きくなるまで生きているのだ。俺たちは釣れる可能性のある仮定に賭けるしかないのだ」
 山林が自信を持って言った。
「そうや、太郎と知恵くらべや。これで釣れなければ俺らが負けたということや。俺は今まで負けてばっかりや。今度は絶対に勝ってみせる」
 寺崎がまたグリップをバチバチといわせ始めた。
 ぼくらは平日も海が荒れていない限り、授業が終わるとすぐに天礒の鼻へ行くようになった。そして潮の流れが止まった時間にボートを漕ぎ出した。赤バエとの中間付近で止めて、養殖科の連中に分けてもらった配合資料を実際に釣る時の堅さと大きさにして何個も沈めた。いくら太郎が配合資料を食べるといっても場所が変わると警戒するに違いないから慣れさせようと思ったからだ。
 寮に帰ると夜遅くなったが、おばあちゃんは三人分の夕食を食堂に残しておいてくれた。
 寺崎は釣り針作りに苦労していたが、一週間ほどして完成させた。名付けて『逆クリップ式釣り針』だと言って得意であった。さらにハリスのワイヤーにつける重りも鉛では不自然だということで、浜から適当な石を持って帰り、それにドリルで穴を開けて何個もワイヤーに通した。これで海底では針のついていない餌と見分けがつきにくいはずだ。  
 準備は整った。
「今週の日曜日がいちばんの大潮だ。時間は早朝の満ち潮の時はまだ少し暗いと思う。昼の干潮の時は魚の食い気が出ない時間だから、日暮れ前の満潮の時こそ最適だ。この日、この時に決行だ!海が荒れないことを祈ろう」
 山林の顔が引き締まった。ぼくと寺崎も口をヘの字に曲げた。

(十二)

 台風シーズンに入っていたが、日曜日はよく晴れた。ぼくらは朝から身体中に力がみなぎるのを感じた。午前中は早る心をお互いに押さえて、持って行く物を何度もしつこいくらいに確認した。
 昼食を終えてからいつもの学校備え付けの自転車で出発した。
「がんばってこいよ。余計な人間が行ったら太郎が警戒したらいけないから俺らは遠慮するからなあ」
 出掛けに寮長が励ましてくれた。寮生も全員、玄関に出て来て大声で送ってくれた。ぼくらは学校を卒業して見送られでもしているような気分がした。
「これは釣らずには帰れないぞ」
 山林が小声でつぶやいた。
 灯台に着いて時間を見ると今まででいちばん短時間で来ていた。それなのに途中でしんどいとも感じなかった。ぼくらは細心の注意を払って荷物を浜へ降ろした。
 浜に立つと更に身が引き締まるような気がする。赤バエはまだ頭が少し見えていて、左からの激流のため、右側に広範囲に大きな白い波を湧き立たせている。
「よし。充分、準備をする時間はある」
 鋭い目をして山林が赤バエを睨んだ。ぼくらはそれぞれの分担の準備を始める。三人ともあまりしゃべらなくなった。
 準備が完了して赤バエの方を見るとすでに海中に没していた。寺崎の言う怪獣の気配になっていた。
 しばらくすると潮の流れがゆるやかになってきた。それから少しして止まった。
「今だ、行こう!」
 ボートは山林が漕ぎ、ぼくは餌を付けた仕掛けを持つ。浜では寺崎がボートの進度に合わせて道糸のロープを延ばしていく。中間点まで来た。山林は櫓を逆に漕いでボートを止めた。
「下ろすぞ」
 ぼくは餌の付いた仕掛けをゆっくりと沈めた。浜でも寺崎が慎重にロープを送り出しているのが分かる。やがて石の重りが海底に着いた感触が伝わってきた。ぼくは手を振って寺崎に合図をしてからロープを離した。それから餌と同じ大きさの数個のまき餌をした。  
 山林が必死の様相で浜へ向けて漕ぎだした。櫓をボートに取り付けている支点がちぎれるのではないかと思うほどだ。そんなに急ぐ必要はもちろん無かったが、心がはやる気持ちはぼくも同じだった。
 浜ではすでに寺崎が太い竹の釣り竿を立てていた。先端には滑車が取り付けられていて、それに道糸のロープを掛けている。ロープと竿を一人で持つのは重過ぎて寺崎は及び腰になっている。ぼくは竿を支えて高くした。山林はロープを取って後ろに行き、魚の当りが分かり易いように適度にロープに張りを持たせた。
「後は待つだけや。来てくれ」
 天に祈るように山林が言ったが、気持ちは皆同じだった。全神経を手と目に集中させた。道糸から伝わってくるわずかの変化でも手で探ろうとした。
 ぼくらの気持ちとは関係なく時間は過ぎていった。止まっていた潮はゆっくりと左に流れ始めた。それにつれてロープもゆるやかなカーブを描いた。腕にも徐々に左側にもってゆかれる力が加わってきた。山林は餌が底で引きずられないようにする為、少しずつロープを出した。大潮でもあり、潮流の変化は早い。見る見る流れが速くなっていく。ロープはどんどん流されるし、竿を支えるにもかなりの力が必要になってきた。
「もうダメだ。これ以上置いておくと重りが引きずられる。そうしたら根掛かりする。ヤマ、上げてくれよォー!」
 寺崎とぼくが叫び声を上げた。
「チクショウ!」
 山林がロープを手繰り始めた。それに応じて竿にも力が加わる。空しい動きだった。しばらくすると浜に重りの石が音を立てて上がってきた。その音を聞くとぼくらの身体中から魂が抜けるのを感じた。ぼくと寺崎は腕の力が緩んで、竿をバタンと倒してしまった。山林もロープを放り投げた。ぼくら三人は黙って座り込んだ。
 長い間、ボーッとして座っていたような気がする。寺崎が小石を投げ始めたので我に返った。すでに日は水平線に隠れてしまっている。灯台を見上げると灯がともっていた。
「イシ、餌はまだあるか」
 口ごもる声を出して山林がぼくの顔を見た。
「あぁ、余分に持って来ていたから、後一回分はある。もう一度やるか」
「ウムッ、やろう。だが、深夜の干潮はいくらなんでも危険だ。ちょっと暗いかもしれないが、明け方の満潮時にやろう。それまでここで待つぞ」
 山林の声が少し力強くなった。
「そうしょう。俺もいまさら寮に帰る気はせん」
 石を海面に投げ付けて寺崎が言った。ぼくも同じ気持ちだった。赤バエの海底深く太郎が潜んでいるのなら、今、背を向ける訳にはいかない。ぼくらの意地を太郎に見せつけておかなければならないと思った。
 闇夜だった。昼はよく晴れていたが、天気は下り坂とみえてわずかの星も見えない。時間が経つにつれて闇の深さが増すようだった。暑い季節だとこんな夜は見事な夜光虫の光の帯ができるのに海面にはまったく光るものが無い。明かりといえば昼よりもさらに遠くに見える日土の街灯と時折通る漁船の電灯しかない。灯台下暗(・・・・)し、と言うけれど、ほんとうに全く下には明かりが来ない。いくら準備に念を入れたとはいえ、懐中電灯までは用意していなかった。
 さすがにぼくらは腹も減り、心細くなった。三人、肩を触れ合わせて寄り添った。離れるとお互いに手の届かない所へ行ってしまいそうだった。
 どのくらい時間が経ったか、腕時計もよく見えないので分からなかったが、頭上の灯台の所からライトが照らされた。
「オーイッ、石塚たち、居るか?」
 波の音に混じって寮長の声が聞こえた。
「ハーイッ、居ります」
 三人共同じように弾んだ声を出した。しばらくして浜の端の方から三つのライトの光があちこち走りながら近付いて来た。
「どうだった?だめだったのか」
 寮長がすぐそばまで来て尋ねた。他に先輩と一年の寮生もいっしょに来てくれていた。
「だめでした。当りもなく、すぐに流され始めました」
ぼくは無念さを込めて言った。
「そうか、残念だったなあ。だが、まだ次の機会があるじゃろう。とにかく今日は帰れ。みんな心配しているぞ」
 ぼくらは黙った。寺崎が手探りで石を拾って思い切り海へ投げた。
「俺ら寮長さんの言う事はなんでも聞きますけど、これだけは聞けません。今晩、ここで寝て、明日の夜明けにもう一度やります」
 次の石を拾いながら寺崎が言った。
「それはいけないぞ。だいいち、寒いし危ない。俺たちといっしょにすぐ帰れ」
「いや、帰りません」
 ぼくらと寮長の間で何度も帰れ、帰らないの押し問答になった。寮長の語気がだんだん強くなっていった。
「寮長さん、俺らにやらしてください。俺は負けたくないんです」
 ついに寺崎が泣き声を上げた。寮長は少しの間黙っていたが、やがて勢いよく座り込んだ。
「それじゃあ、俺も付き合う」
「それはやめてください。俺ら寮長さんや他の人に迷惑をかけたら思い切り釣れませんから」
 山林が深々と頭を下げた。こんな彼の姿は今までに一度も見たことがなかった。
「お前らも頑固なやつじゃのう。それじゃあ、好きなようにしろよ。先生にはちゃんと説明しておくから」
 寮長は笑って立ち上がった。
「ただ、危ないことは絶対にするなよ」
 こう言って懐中電灯を一つ置いて帰って行った。
 風が弱いのは幸いだったが、それでも寒くて眠るどころではない。ぼくらは押しくらまんじゅうをしながら堪えた。深夜を過ぎた頃、灯台の所にまたライトが見えた。今度は声がせずに吊している荷物用のロープから三人分の防寒具と弁当が下りてきた。ぼくらはそれに飛び付いた。厚手の防寒服を着て弁当を食べると殊のほか暖かかった。
 背後の山波の稜線がほんのり白け始めた。色合いからして雲がかかっているに違いない。
「起きろ、テラ、イシ。間も無く満潮だ!」
 山林の怒鳴り声は耳に痛い。起こされるまでもなく、ぼくも寺崎も眠ってはいなかった。
「よしッ、やろう」
 ぼくらは気合を入れて準備を始めた。ただ、まだ暗いので一個の懐中電灯をお互いに回しながら作業をした。
 山影や海面がおぼろに見分けられるほどになった時、潮が止まった。
「今や、ボートを出そう」
 ぼくと山林は手際良く沖へ出て餌を沈めた。浜に帰ると寺崎が昨日と同じように及び腰になっている。
「さあ、勝負や!」
 三人は定位置に着いてお互いに気合を入れた。周囲は薄明るくなり、海面の様子も分かるようになった。流れはゆっくりと逆向きになった。竿にじわじわと掛かってくる力でそれがよく分かった。次第にそれが強くなり、山内がロープを延ばす速度が速くなった時だった。
「オッー!」
 三人とも同時に声を上げた。潮流以外の別の力が伝わってきたのだ。
「待てッ。自然にロープを出せ、ヤマ」
 ぼくは足も手も、身体中がブルブル震えてきた。寺崎も同じだった。次の瞬間、竿が前のめりにグイッと引き込まれた。
「引けェー」
 ぼくは大声を出すと同時に力の限り竿を引いた。寺崎も山林も呼吸はピタリと合っていた。三人の全ての力が一本のロープにかかった。ところがそれに対して信じられないほどの逆の力が激しく返ってきた。三人とも前のめりになって浜をズルズルと滑った。まるで大自然の中へ人間が引きずり込まれるような気がした。抵抗すれば、ぼくと寺崎の力を越えて竿は倒れてしまいそうになる。山林は竿が竿の役割を果たすように必死になって、ロープを引いたり、緩めたりした。少しずつ力は弱まってくるようだたったが、それでもロープは引き上げるよりも延ばす方がはるかに多かった。
「無茶苦茶に引くと針がつぶれるかもしれん」
 あえぎながら寺崎が言う。
「・・・じゃが、ロープの残りもあまりないぞ」
 山林も息切れしている。
 アッと言う間の出来事のようにも思うし、永遠に長い時間でもあったように感じられたが、ロープの残りが僅かになった時、ピタリと引きが止まった。ロープを延ばせば潮に流されるだけになった。逆に引き上げようとしても全く動かなくなった。巨大魚は岩場の奥深くに入ってしまったに違いない。ぼくらはショック状態でうずくまった。
 夜はすっかり明けた。空にはどんよりとした雲が被っていた。

(十三)

 ロープが動かなくなってから三日が経った。その間、ロープには全く変化がなかった。まるで海底の岩盤に堅く引っ掛かっているようだった。とにかくぼくらは待つしかなかった。巨大な魚が食い付いていることは間違いないのだから。巨大といえば太郎しか考えられない。いくら太郎といえども、永遠に岩から出て来ない事など有り得ないだろう。こうなれば我慢比べに勝つしかない。ぼくらは一瞬たりとも油断せずにロープと竿を持ち続けていた。でも、さすがに三人共疲れ果てていた。それはお互いを見ればよく分かった。
 先生や寮長、さらには世話になった漁師の人までが、帰るように説得に来てくれたが、ぼくらは浜から離れなかった。迷惑を掛けてはいけないと思いながらも、食料はどうしょうもなかったのでみんなの助けを借りた。それに断ってはいるけど、毎晩灯台の所で寮生が時間帯を組んで徹夜で見張り番をしてくれている。
「オーイッ、今夜は荒れるから充分に気を付けろよ。波も危ないが、岩肌の下にも余り近付くな。雨が降ると土砂崩れを起こすことがあるからのう」
 寮長が頭上からハンドマイクで叫んだ。
 日が暮れた頃から本格的に悪天候になってきた。これまでにも何回か海は荒れたが、今度は様子が違っていた。夜半に近付くにつれて雨も風も激しさを増した。立って居ることさえできなくなった。もちろん竿も立てていることはできず浜へ寝かせた。ただ、ロープだけは三人で持っていた。寮長の忠告の通りあまり浜の後方には近付かずに中程でうずくまっていると雨としぶきの混じった強風に吹きさらされる。防水加工の防寒服も役に立たない。肌着まで水が染み込んでくる。ぼくらは片手でロープを握り、もう一方の手でお互いに相手の肩を引き寄せた。腕に思いきり力を入れなければ寒くてしかたなかった。
 海面には荒波のしぶきの白い部分だけがおぼろに見える。それが次からつぎへと浜へ押し寄せてくる。近付くにつれて音と大きさが増してくるようだった。今にも大波に飲み込まれそうな気がする。浜の左右の岩場には恐ろしい勢いでぶち当たり、波の音とは思えない轟音がする。大きな大砲を撃てばこんな音がするのではないかと思う。それに合わせて地響きさえする。
 ぼくは家が恋しくなった。家というものがどれほど自然の猛威から家族の身体と心を守り安心させるものか分かった。近くにもし家の灯火があれば、ぼくは釣り具を放り出して玄関へ飛び込んだだろう。
「俺はぜったいにお前を釣るぞ。もし釣れなんだらこのまま大阪へ帰るぞ」
 寺崎が海に向かって絶叫した。
「俺もだァー。なんでこんなに荒れるんじァー。海に心はないのか」
 山林が泣き声で怒鳴った。おそらく二人もぼくと同じ気持ちに違いない。ぼくも今負けてはいけないと思い直し、自分を励ました。
しばらくして、浜の端から七、八個のライトの光が入り乱れて近付いて来た。
「どうした、三人とも無事か?動けないのか?」
 腰をかがめて強風の中を必死になって来た人を見ると小アザラシだった。
「先生ッ、俺ら大丈夫や。ちょっと寒いけどまだ我慢できる」
 ぼくは感謝の気持ちを込めて答えた。
「今、助けを求めておったが、一応、三人とも怪我はないんじゃな。よかった」
 見ると校長まで来ていた。それ以外にも力の強い教員や漁師さんまで来てくれていた。肩には救難用具を背負っている。寺崎と山林が大声を出したのをS0Sと勘違いしたのだった。ぼくら三人を取り囲むように皆が座り込んだ。
「もういい、もういい。三人の進級は校長の私が保証する。ここまでやれれば進級の値打ちは充分あります。すぐに寮に帰りなさい」
 皆が口々に帰るように言ってくれる。ぼくらと来てくれた人との間でまた、切りがないほど、帰りなさい、居りますの繰り返しがあった。
「三人共、あれを見ろ。湾内の船、三隻に煌々と明かりが付いているだろう。あの船はお前達がもし波にさらわれたらすぐに救助に出られるようにエンジンを掛けて待機しているのだぞ。この波では転覆の危険があるのに命懸けで待ってくれている。大阪から来てくれた子供を事故に合わせたら申し訳けないという村人の気持ちからだ」
 小アザラシが村の方を指差して言った。小アザラシは、煌々と言ったが、黒いうねりと波しぶきの間にそれらしい明かりがわずかに見え隠れするだけだ。寺崎も山林も口をつぐんだ。ぼくは胸に込み上げてくるものを感じた。
「ボクは、ここで太郎を釣って漁師をするぞォー。日土で死ぬまで漁師をするぞォー」
 風に煽られながら立ち上がり、日土村の方に向かって力の限りの声を出した。怒鳴った後でぼくは、ぼくのことを「ボク」と言ったことに自分で驚いた。皆は黙ってしまった。しばらくしてから、来てくれた人は何も言わずに引き返していった。
 嵐はなお荒れ狂ったが、やがて峠を越えた。それからは急速に天気が回復していった。夜明け前には山の端に星が見えるほどになった。ぼくらは嵐で滅茶苦茶になった荷物を整理し、竿を立て直してロープを掛けた。
「再度、挑戦だ。闘いは永遠に続くかも知れん」
ロープを引いて適度の張りを持たせながら山林が悟った者のような言い方をした。
 太陽の先端が山頂から出てきた。目の奥に差し込んでくるような強烈な輝きだ。周囲は一変して穏やかな昼の世界の始りになる。昨夜からの苦闘が別の世界の出来事だったのではないかとさえ思える。ただ、海面のうねりには嵐の名残があった。
 太陽は見るみる上り、今度は下端が山際から離れかけて餅を延ばしたようになった。防寒服の表面から濡れた下着に快い暖かさが伝わってくる。ぼくはホッとした。
「オイッ、ヤマ、ロープを緩めたか?」
 猫背で竿を持っていた寺崎が後ろを向いて聞いた。
「いや、この通りさっきから同じ所を握っている」
「ナニッ、見ろ、ロープが垂れているぞ!」
 寺崎の背筋が伸びると同時にぼくらに緊張感が走った。ロープはうねりと弱い引き潮に流され気味になりながらもゆっくりと緩み、海面に遊びができている。
「出たぞッ!太郎が出たぞ」
 山林が急にロープを引きかける。
「もう少し待て。海底から充分に離れるまで待て。あまり遊びができない程度に手繰っておけや」
 ぼくは胸が苦しくなるほどロープに神経を集中した。ロープはますます弛んできた。
「・・・イチ・・・ニィ・・・引けェー!」
 ぼくと寺崎は溜めた力を一度に爆発させるように全身を力にして竿を引いた。山林はロープを持って岩肌に走った。手応え有り。餌を食わせた時と同じ重量感だ。しかし今度は暴れ方が弱い。しばらくやり取りすると少しずつ上がり始めた。
「勝ったぞ!イシ、テラ」
 後ろから山林のすごみのある声がした。同時にはるか頭上で歓声が上がった。気にする余裕がなかったが、灯台にはまだたくさんの人が残っていてくれたのだ。
 時々抵抗はありながらも確実に魚はこちらに引き上げられていた。こうなってみると信じられない事が起こったような気がしてくる。
「もう少しで魚影が見えるぞ」
 ロープの長さを確認して山林が言った。ぼくらは手に力を入れながらうねっている海面に目を凝らせた。やがて海の色と見分けがつきにくい巨大な魚体がゆっくりと浮かび上がってきた。
「三人とも、よくやったぞ、オォーッ!」
 灯台でぼくらの名前を呼びながらの勝どきが何度も続いた。巨大魚は腹を横にしなければならない浅瀬まで上がって来た。最初に波打ち際まで走って行ったのは、いつの間に来ていたのか、寮長だった。寮長は魚の前でしばらく、茫然として立ちつくした。その姿を見てぼくらは巨大魚が太郎であることは間違いないと思った。ぼくと寺崎はロープが緩まないようにゆっくりと竿を下ろした。それから三人でロープを手繰って寮長に近付いた。
「三人とも、ありがとう」
 寮長は湿ったジャンパーの袖で涙を拭った。
「太郎や。ほんまに太郎や」
 ぼくは巨大魚を一目見て分かった。脳裏に焼き付いていた姿そのものだった。
「ああ、太郎だ。あの太郎が今、俺たちに釣られて目の前に居る」
 寺崎も山林も感極まっている。太郎は実に大きかった。山林の背丈をもっと伸ばしたくらいある。それが今は暴れもせずに波の揺れに任せている。時々、鰭をゆったりと動かすくらいだ。ぼくは屈んで太郎の目を覗き込んだ。あの深い静かさをたたえた目だ。人の心の奥底まで見通している目だ。いっこうに苦しんでいる様子も、恐れている様子もない。また助けを求めてこびている風もない。それらを超越していて、それでも暖かさが感じられるものだった。ぼくらは勝負と考えたが、太郎はもっと広い心でぼくらに対応してくれていたような気がする。
「俺の作った針が痛いんじゃないのかな」
 寺崎が足を海水の中に踏み入れて太郎の口元まで手を持っていった。
「コラッ、テラ。針を外したら逃げるだろうが・・・と言っても食べる訳にもいかなし・・・」
 戸惑いがちに山林が言う。ぼくらは寮長の顔を見た。
「外してやろう。太郎は日土村の人々の希望なのかも知れん。居なくなったらがっかりするだろう。俺の気持ちも晴れたことだし・・・」
 寺崎は太郎の顔に片手を当てて針を抜いた。それから顔をゆっくりと押した。太郎は背が立てられる深さのところまで出ても全く慌てた様子はなかった。ゆったりと回れ右をして、悠然と沖へ泳いで行った。灯台から大きな拍手が聞こえてきた。
 ぼくらは長い間、太郎の姿が見えなくなった辺りを見つめていた。ぼくはその海面に寮長の妹さんの顔が見えてくるのを感じた。
 太陽は山際をはるかに離れた。輝きはさらに力強さを増していた。
           (了)

【奥付】
『イルカ越え』
      2006年発表
     著者 : 大和田光也