大和田光也全集第17巻
『新方丈記』

【はじめに】

 鴨長明は当時、頻繁に起きた大きな災害を外的要因として、自らの生き方を普遍化させるべく方丈記を表した。それらの災害は都の人々にとって非常な衝撃であり、人生観を変えるに充分な出来事だった。長明は常日頃抱き続けていた想念を内的要因に据え、災害を傍証として使い、新たな人生観を表出した。
 それは、当時の人々の人生に対する価値観の変革であったが、同時に、多くの人々の心の底流に流れていた共感を呼ぶ思想でもあった。だからこそ、現代までも読み継がれる古典となり得たのだ。
 価値観を変えるほどの契機となった大災害としては、大火事、竜巻、飢饉、大地震が挙げられている。さらに注目すべきは遷都を挙げている。天災と人災の境界は微妙なものだが、遷都は完全な人災といえる。
 今回の東日本大震災は現代の我々の価値観を変革させるに十分な衝撃となった。事実が明確になるにつれ、方丈記に記述された災害と様々な点で多くの共通点を見いだせる。天災によって起きた困難のみならず、人災である政府の対応の悪さによって塗炭の苦しみを味わわなければならなくなった方々の思いは、遷都で苦しまされた当時の都の人々が感じた悔しさと二重写しになる。
 鴨長明が悲惨な被害に遭われた人々の心を元に新たな価値観を創造たように、東日本大震災の未曾有の苦悩から、長明の隠遁生活と方向性は違うが、新たな人生の価値創造を作り上げていきたい。

     二O一二年新春  筆者


(目次)

【はじめに】
第一章【無常】
第二章【天災人災】
第三章【愚昧な指導者】
第四章【宗教者の使命】
第五章【政治家の使命】
第六章【人間の目的化】
第七章【人材】
第八章【民主主義の土壌】
第九章【人心の衰退】
第十章【人生】
第十一章【生きる力】
第十二章【生きる意味】


 第一章 無常

 海は太古の昔から、永遠に変わらないように見えるけれども、考えれば、海面から水分は常に蒸発し、上空で雲となり、やがて雨となって地上にそそぎ、また、海へと戻ってくる。海岸線も、百年二百年では変わらないかもしれないが、数千年、数万年のスパンでみれば、大きく変化をしている。いつまでも変わらないように思えるのは、一瞬の出来事をいつまでも続くもののように錯覚をしているにすぎない。世の中の全てのものは、変化変化の連続で、不変にとどまっているものなどない。あるとすれば、あらゆる変化をもたらしている時の流れそのものだろう。

 このごろは、気候変動もおかしい。農作物なども打撃を受けて値段の変動が激しかった。酷暑があり大雪があり、新燃岳は爆発的な噴火をした。これまでの常識が通用しなくなっている。それに鳥インフルエンザや口蹄疫と自然環境にも動物環境にも異常な状況があった。さらに、新型インフルエンザなど人間の生活を脅かすものもあった。世の中全体がリズムの狂った状態に覆われているような雰囲気だった。
 そんな中で東日本大震災は起きた。地震の被害の後には家畜や犬や猫が彷徨していたりするものなのに、あまりにも巨大な津波の被害に動物たちですら多くは犠牲になってしまった。亡くなったり行方不明になっている人々が住民の半分以上にも及ぶような地域もある。この惨状を目にして悲しまない人はひとりもいない。また、直接被害に合わなかった人も、被災の報道に接するたびに嘆かない人もいない。
 考えれば、被災された東北の方々は、厳しい自然風土の中で、誠実で人間性豊かな地域社会を築いてこられた。また、神社仏閣も多くあり、それぞれの教えに従って、人々の幸福と世の中の平和を祈っていた。中には、人間として立派に生きようと、煩悩を断ち切るためにさまざまなつらい修行をした人もいるだろう。また、医学で直せないような病に苦しんでいる人は、ひたすら病気平癒を祈っただろう。あるいは、信仰をすることによって永遠の幸福を得られると信じて、多くの供養を出して本尊を拝んでいた人もいるだろう。それほど信仰心がない人でも、折々には、先祖の墓に行っては手を合わしたり、初詣に行ったり、交通安全や安産の祈願に神仏をあがめることもある。これはすべて、人としての善良な心の表れだ。
 特に信仰心のない人もよりよく生きようと努力をしている。自分にとって、または家族にとって不幸に向かわしめるようなものに対しては拒否し、遠ざける。逆に、幸福を呼ぶと思えることに対しては、心を砕いて引き寄せようとする。母親として、父親として誠実に生き、子供には将来の幸福のために教育や生き方を身につけさせていく。子供は、口ではいろいろ不平を言いながらも、心の中では親の恩をしっかりと受け止めていて、それに応えるような将来像を描いて努力をしている。
 世の中には、悪人と言われるような人間がいるのは確かだが、それはほんのわずかであって、ほとんどの人は人間としてお互いに助け合いながら、幸福になろうとしてコツコツと努力を積み重ねている。
 行政や政治の分野においても、口に出して言うことは、国家の事業はすべて国民の幸せのためだと声を大きくして言う。原子力発電所を作るときも、絶対ということはこの世にないにもかかわらず、事故は絶対に起こらないというような言い方をした。そして、地域に経済的な豊かさを約束した。その時、誰ひとりとして、今回のような事故が起こる可能性があることも、それによって地域に莫大な損害を与えることも言いはしなかった。ただ、想定されるあらゆる危険性に対しては、十二分な備えになるように当時としては必要以上の人と力を尽くしていた。
 しかしながら、人々の生き方にしろ、原発の安全性への努力にしろ、ひたすら心を砕き、よりよい人々の幸福な人生と生活を目指していたにもかかわらず、東日本大震災は起きた。大地が揺れる被害に、大津波の甚大な被害が加わった。さらに原発の放射能漏れの深刻な被害が広範囲に渡って出てきた。
 死者の数は日が経つにつれてただひたすら増すばかりだ。地域内に何百人もの遺体が発見されているところもある。斎場の火葬が間に合わずに、一度、土葬にするところも出てきた。その亡くなられた方、一人ひとりとに、かけがえのない人生とかけがえのない周囲の人々がいることを考える余地をなくさせるほどの数にのぼった。結果的にだれにも知られずにこの世の生を終えてしまう人も多く出てくるに違いない。
 考えれば、自然は人々の生活を支え豊かにするために存在するものではなかったのだろうか。自然と人間はうまく共生して、お互いを守り合いながら行き詰まることなく、発展させる方向で考えていた。自然の美しさは、自然そのものの美しさと人為的なものとが共存することによって美しさがさらに増す。リアス式海岸の変化に富んだ美しさに、そこで生活する人々の家や白波を立てて走る船など、人間の生活を感じさせられるものが加わることによって、海の趣がずいぶん味わい深くなる。実際にその場に足を運んで自然に接するのはもちろん、映像なんで見ただけでも人の心は大変に癒され、故郷の懐かしさのような安穏な気持ちにさせられる。
 しかし、東日本大震災は、人間の生存を全く無視したかのように起きた。亡くなられた方々の人生など全く考慮していない。人間と自然とは本来、全く関係のないものであったと感じさせる。美しいリアス式海岸は、人間が勝手に美しいと思っていただけで、自然にとっては美しさなど全く意味をなさないものだ。ひっそりと咲く一輪の花に、可憐な美しさを感じるのも、自然とは関係のない人間の勝手な思い込みにすぎない。自然に意志などがあるというように考えること自体が、客観的に見れは、滑稽なことなのかもしれない。人間の意志など自然はまったく意に介しないし、それによって何らかの影響を受けるなどということはあり得ないことなのだ。
 大津波を受けて破壊され尽くした海岸や人々の生活の跡を見ると、以前の美意識をかきたてるような情景とは全く逆の悲惨なものになってしまっている。もしも自然が美しいというのなら、自然の営みも美しいはずだろうに、災害の跡は、目を覆いたくなるような惨状だ。自然は自らが美しくなろうとするような意志など、もともとなかったとしか言いようがない。
 それにしてふと考えれば、大震災の前も後も、太陽は輝き、地球はその回りを回り、さらに月は地球を回り、多くの星々も輝いている。宇宙のリズムが大震災によって変わったということはない。この宇宙のリズムそのものは、意志があるなしにかかわらず、人々に恵みを与える本源であることは間違いない。それが、どうしてこのような甚大な被害を与えることになったのだろうか。だれも予想もつかなかった。

 人々は、生活するために家を立てる。また仕事をするための建物なども建築する。小さな家から大きな家やビルなどさまざまな建物が長い時代にわたって存在し続けている。一見すると永遠に変化せずに続いているもののように思える。しかし、十年ぶりなどに訪れてみると、昔あった懐かしい家並みはなくなり、知らない家などが建っていたりする。あるものは、朽ち果てて新しく建てられる。あるものは大きな立派な家が小さな貧しい家になったりしている。
 住んでいる人も同じようだ。人々はいつまでも変わらないと思われがちだが、あの人が亡くなった、今度はこの人が亡くなった、と実際には結構、人々の変化もある。人が生まれたり死んだりするのは、ある意味で、人々の存在を永遠たらしめるもので、自然の道理かもしれない。それが、傍目には、変化の度合いが見えないのかもしれない。ちょうど、水鳥が悠々と水面を進むの姿は目にしたとしても、水面下のエネルギッシュな足の動きは見えないようなものだろう。

 自然には理不尽という言葉が通じないことをだれもが嘆いている。善人も悪人も、一人ひとりのこれまで生きてきた人生の意味も、全く無視してしまって人間に対しているのが自然というものなのだ。よりよく生きるために、多くの人が信仰心を持ち、さまざまな宗教施設では、大勢の宗教者が朝な夕なに、人々の幸せと安穏、平和を祈っている。ところが、今回の震災は、宗教などというものには、全く力のないことを証明したようにも思える。人が幸せになり、地域社会も平穏で素晴らしい世の中になると信じていたことはすべて自然の現実の前に、灰燼と帰した。すべての宗教は単なる思い込みに過ぎなかったのだろうか。
 結果的に、神も仏もいなかったことになる。信じる者は救われる、ということはあり得ず、信じる者も信じない者も救われなかった。
 こう思うと、救われる道はすべて閉ざされて、天に向かって恨みごとを言うわけにもいかず、言葉を飲み込むしかない。あるいは、地に伏して、絶望感に沈むしかない。しかし、よく考えてみると、果たして本当に一切の宗教的なものは自然に対して全く関係のないものだろうかと疑問に思う。

 今回の東日本大震災では実に多くの方々が犠牲になられた。犠牲者の数があまりにも多くて、現実のものとして認めのがたく、実感として受け止めることがなかなかできない。いったい、これらの多くの方々は、どこにいかれてしまったのだろう。また、どのような使命を帯びてこの世に生きていたのだろう。全く考えることができない。
 また、今回の津波の被害のすさまじさは到底、予測できるものではなかった。普通の民家は流され、破壊され尽くされた。コンクリートの建物も低いものは鉄骨だけになったものもあった。その様子をみると、家や土地は不動産というけれども、全く不動ではなくはかないものであることを思い知らされる。マイホームを建てるということは、生涯のうちに何度もあることではない。人生の大半の努力の結晶だ。それが、跡形もなく破壊された。そしてローンだけが残った人もいるだろう。いったい何のために、さまざまに悩みながら資金繰りをして家を建てたのだろう。その建てた家を見て喜んだのはなんだったんだろう。津波にまるでゴミのように流されていく家を見る時、また、亡くなられた方を思う時、世の中の無常が心にしみてくる。まるで朝顔の露のようなはかなさを感じる。たとえ、露は落ちてなくなり、花が残ったとしても、すぐに朝日に枯れてしまう。あるいは、花はしぼんでしまい、露が残ったとしても、夕方まで持つことはもちろんない。
 人も家もまるではかなさを競っているようで、さまざまのことに心を悩ませながら生きていることが、仮の宿の中でのことのように思えてくる。
 

 第二章 天災人災

 長く生きると、さまざまな出来事に出会う。その中でも二つの大きな大震災を知ることになったのは、特異な期間に生きていたといえるかもしれない。
 平成七年一月十七日に阪神淡路大震災が起きた。大阪市の北部にあるわが家もそれまでの地震の中では最も激しい揺れに襲われた。重い大きな仏壇が倒れた。ブラウン管の重いテレビが台の上から転げこ落ちた。
 平成二十三年三月十一日に今回の東日本大震災が起きた。その時、私は自宅に居て椅子に座っていたが、長い間、ゆっくりとした横揺れを感じた。私はひどいめまいを感じるメニエール病になったと思った。
 これらの地震には、日本中の人々が驚き、悲しみ、嘆きの淵に沈んだ。多くの人々は、どうしてこんなことが起きたのか、と答えのない思いにかられた。マスコミでは地震の起きたメカニズムや外面的な状況は詳しく報道するが、まさに運命的な大災害であるのに、どうのように運命的であるのかという説明はもちろんなかった。
 運命的という言葉の中には、自然と人間の関係性が認められているように思える。人々が、自然の出来事に対して、どこまでも人間とのかかわりを求めようとするのは当然のことなのかもしれない。表面的に考えても、人間は自然の空気を吸い、自然の中で育った植物や生物を食べ物として生きている。いくら人工的に育てられたものだといっても使用される水は自然のものであるし、餌のほとんどは自然の産物から作られたものだ。
 さらに、天気の悪い低気圧の時には気分が滅入る。潮の干満に人間の生死の時期が関係しているという人もいる。斎場に努めている職員の方に聞くと、不思議と人が多く死ぬ時期というものがあると言っていた。
 人間が自然を破壊していった時、どこかの段階から今度は人間の破壊へとつながっていくことは当然といえる。
 人間と自然の関係は、人間が勝手に科学的に実証できる面と内面的な面とをたて分けているだけであって、実際には、内面的なものと外面的なものとは連続してつながっているように思える。だから、人間は内面外面ともに自然に対して影響を与えているし、自然も内面外面ともに人間に影響を与えているといえる。
 今回の大震災が、人間の営みとは全く関係がないとはだれも言えない。もし、人類が地球上に存在していなかったとしても、今回の震災が寸分違わず同じように起きたと証明することはだれにもできない。もちろんそれは、自然の意志、などというように自然を擬人化したり、自然に人格を持たせたりするようなものの見方をする人に限らず、言えることではないだろう。
 それはあたかも一人の人間の心の状態と体の状態に似ている。自然と人間の関係に置き換えれば、人間が心であり自然が体であるといえる。
 一人の人間について考えてみると、心に元気がなく落ち込めば、髪の毛の手入れをするのも面倒くさくなり放っておき、汚くボサボサになる。爪を切るのもうっとうしくなり、長く伸びてしまう。心の状態に従って肉体もそれにふさわしいものとなる。また、その人の生活している空間、机や、部屋なども心と同じような状態になってしまう。こういうことは多かれ少なかれだれでも体験することだ。
 それでは人間と自然との関係に当てはめてみればどうなるか。人々の心の状態がむさぼりの心や怒りの心や愚痴の心が強くなってしまうと、いくら社会や政治体制といったような制度が合理的に整備されたとしても、あくまでもそれを扱うのは人間であるから、世の中全体が道理の通らない乱れたものになってしまう。そういう時、天災や天災から人災へと進んでしまうような災害もまた起きてしまう。人心と自然災害とを関連付けるのは、非科学的で宗教的のようであり、自然に対して無知な原始社会のことのように思える。しかし逆に、全く関係ないと言い切れる根拠もない。単純に考えても、人間の心が欲望によって、金もうけの材料として自然を利用し、破壊することによって、逆に人々が災害の犠牲者になるということはよくあるわけだ。これを現象のごく一部と考えれば、もっと深い根っこのところにおいて、今回の東日本大震災と自然破壊、ひいては人間の心のあり方と、完全に無関係であると言い切ることはできない。
 大きな地震の時にはまず不気味な地鳴りが低く鈍く伝わってくる。そして地上のすべてのものがまるで激しい波に揺れ動く小舟のように不安定な動きを繰り返す。壁は崩れ落ち、家々は紙細工のように敗れ崩れ、大切に育てていた鉢植えなどの植物は枝や葉が折れ、根があらわになり、鉢も粉々になってしまう。重いダンプカーでさえ、踊るように跳びはねる。こうなるとどこにも安全な場所がなくなり、逃げるところを見つけることができない。
 やがて今度は空に響く海鳴りがして、巨大な津波が押し寄せてくる。人間の生活のすべてを破壊しつくし、一瞬にして平穏な人生を過去のものにしてしまう。結果として避難生活を余儀なくされ、もっとも基本の食べるもの、飲み水さえ村全体町全体でなくなってしまう。
 津波の跡は、すべて塩害の残る荒地となる。春のために用意をしていた苗や種もことごとく失ってしまう。風が吹けばを砂土埃が舞い上がり少し前までは人々が平和に暮らしていた生活があったことさえ忘れさせる。
 自然の猛威を目の当たりにするとき、人々の心から温かい人間性も残される余裕もなくなる。
 大災害時における日本の人々の規範正しい行動は、世界から称賛された。しかし徐々に日が経つにつれて人々の我慢も限界をを超えてゆく。さらに火事場泥棒のような者も多くなるし、インターネットを通じてデマ情報や、災害を悪用した詐欺なども現れている。街角では救援募金と言っては騙して金を集めている者も出くる。他人の困っている状態に目をつけて悪事を働こうとする不道徳の者が多く出てくる。他人の不幸を踏みにじって犯罪を犯そうとする連中が多く出てくる。
 
 避難所での人々の生活は非常に厳しい。初めのころは、飲み水や食べるもの、着る物、寝具なども十分になかった。少しずつ支援の品物が届くようになってからも、今度は、避難生活の長期化が肉体的にも精神的にも非常に厳しい状況を被災者の方々に与える。被災者の生活が長く続くにつれ、また、いろいろと報道されるように、日本はもとより世界からさまざまな支援の手が差し伸べられるようになってきている。ところが、さまざまな支援物資や現金が未だかつてないほど全世界から集まってくるが、それがうまく現実の被災者に役立つように回っていかない。その大きな原因は、それを取り仕切る権限を持つ政治家や行政の関係者が実際の現場を掌握することをしないので、うまく配分できないままでいる。もっとも大切な現場を知らずして、物事がうまく運ぶはずがない。多くの人々の善意が現場を知ろうとしない者のために滞っている面が強い。緊急事態における高速道路の通行や、さまざまな非難指示や、勧告はボランティアができることではなく、権限のある者しかできないことだ。その権限を掌握しているのが政治であり行政だ。こういう大変な時に、明確になってきたのは、普通の時の選挙などを通じて立候補者は、国民のため、人々のため、平和と安全と幸福を守ることを最大の目標のように言っていたが、それはほとんどは本心ではなくして、当選するためのパフォーマンスであり、内心は、自分の欲と自分の政党だけがよければよいという、そういうものであることがはっきりしてきた。実際に選挙の時にはあたかも、自分が政治家になる信念は、自分の小さな欲望など捨てて、多くの人のため、地域のため、国のために尽くすことを目的に立候補したようなことを言っていたが、それはすべて観念的な、自分が権力を得る為の策略に使っていたことが分かった。そういう実際には我欲の塊なのだが、あたかも人のために尽くす人間のようなことを口先だけでいう政治家に共通していることは、現場に真正面から取り組んで現場に飛び込み、現場を知ろうとしないことだ。大切なことは、震災に対して全力で救援支援をするという、その言葉だけではなく、現実に、親兄弟を失い、避難所で不自由な生活をしている人、あるいは持病があって苦しみ何もなくても日常生活が苦しいなかで、日常的に飲んでいる薬さえもなくなった状態で避難所で寝ている人たち、そういう人たちのことを現場で理解し、すぐに支援するためにさまざまな障害があったとしても、それを現場第一主義で次々に解決してゆく人が実は、本当の意味で心から人々の幸せを願っている政治家であるといえる。それをせずに、口先だけの、言葉だけの支援などというのは、全く空虚な響きしか出てこない。国の政治の長が、そのような状態であれば、それ以下の者も、皆、同じような考え方になっているだろう。被災者にとっては、実に不幸な状況といえる。また、そのようなまやかしの言葉だけで、政治がやっていけるような状況になると、本当に現場を大切にし、困っている人に現実的に救援の手を差しのべる議員が隠れてしまうことになる。いわば悪貨が良貨を駆逐する、という言葉のような状況になって、優れた良い人物が少しずつ離れて居なくなり、いいかげんなパフォーマンスだけの議員が多くなるものだ。
 
 未だかつて経験したこともないような巨大津波が押し寄せてきた。どのような波でも防げないことはないであろうと思われたスーパー堤防までも、ズタズタにされ、津波は押し寄せてきた。波が陸地に盛り上がって押し寄せてくる姿は、まるで巨大な滝が、滝つぼへ流れ落ちてくるような様子だ。その大津波にのに込まれて行く建物や船や車の姿は、現実に起こっていることとは思えない情景を醸しだしていた。大きな船が堤防を乗り越え、陸地へと上がり奥へ奥へと進んで行った。車は次々とまるで木で作られた軽いミニチュアのように浮き上がりながら、流されていった。この波の威力に、ほとんどの家は耐えられなかった。波に当たるとすぐに破壊されて土台からは外れて、あちらこちらとぶつかりながら流されて行った。あるいは少しは波に耐えているように見えても、すぐにガタガタと一階部分が突き破られて、やがて家全体も流されて行った。鉄筋コンクリートの建物でも、波に耐えれているように見えても、波は一階から二階三階へ盛り上がり、窓やドアから建物中へ流れ込み、すべてを破壊して反対側へと抜けていった。
 すべてのものが破壊され流されていく様子をみると、何とも言えない虚しさを感じる。車一台にしてもそれぞれに苦労しながら経済的な負担を覚悟で購入したものだろう。また、陸地に乗り上げている船なども、生活をかけるような負担を覚悟で購入したものに違いない。そして、土台から外れ流されていく家々、中にはまだ立派な新築のようなものもあった。それはおそらく長期間のローンを組んで購入したものだろう。家は一生涯にそんなに何度も購入できるものではない。生涯の計画を立ててローンを組んだうえでのことだろう。それが、破壊され流されて行く姿は、家はなくなり、ローンだけが残るという厳しい現実を見ることに通じただろう。
 また、火災もいたるところで起きた。コンビナートの大火災も起きたし、一般の住宅の火災も多く発生した。風に吹かれて舞い上がる炎は、先端部分が吹きちぎられるように炎だけが天空にさまよっていた。消すための消防車も到着することができないところは燃えるに任せるしかない。見ているうちに、火は広がり建物が崩れ落ちて灰となってしまう。
 津波の激しさは町や村全体がほとんど破壊尽くされたところもあった。それ以外にも地域の一部分の場所が破壊されたところは多くあった。こういう情景を見るとき、人々は必死に働いて建てた家や、購入した車などがつぶれていく姿を見ると、何とも言えない虚しさ感じる。

 気のせいだろうが、大きな歴史に残るような災害が起こるときは、世の中が大きく変革してきている時のような気がする。人の心と自然現象と直接的に結び付けるのは、宗教的であるが、大きな自然現象の起こる前の道筋があるような気がしないでもない。
 何か原因ははっきりとしないが、人々の心の状態が不安や不満に陥ってくる。そういう状態を作り出すのに一役買うのがマスコミだ。マスコミが騒げば、人々の心がますます不安や不満の状況になる。そうなるとそれに並ぶように政治も乱れたものになってくる。そして、たいていは、社会を騒乱させる方向に向ける指導者に民衆の賛同が集まることとなる。そうすると現実に社会が良くなっていないにもかかわらず、指導者のまやかしの言葉で、あたかも社会が良くなっているかのような幻想を抱かせる言動が出てくる。社会全体がこのような状況になってくると正当なものが不当な扱いを受け、不当なものが正当な扱いを受けるような矛盾した状態にもなる。それに合わせるように、さまざまな自然現象が異常な状態になってくる。今までの気象記録にはなかったような現象も次々と起きてくる。ゲリラ豪雨などというようなわずかな地域に集中的に短時間に降る。あるいは観測史上初という雨や雪が降ってきたりする。人々は、何か世の中もおかしいけれど自然の営みもおかしい、というような気分になったりする。そうなると社会全体がまやかしの様相を呈して、有為な人材が世の中に埋まってしまったり、海外へ出て行ってしまったりする。さまざまな悪い状況に対して、さまざまに手をつが、それはすべて、空を打つようなもので、いっこうに現実の社会が良くなる気配にならない。そして、どのような政策をしようが、どのような手を打とうが、すべてがマイナスの方向へと働くようになる。そうすると、国も、指導者も、国民も、すべてが、疲弊した状態になってゆく。この流れの延長線上に大きな自然の大災害が起こっているようにも思える。

 国の舵を取る船頭である政治家が道理にかなった判断ができなくなって、混乱してしまうような状況下では、一見、自然災害と見えるようなものも人災に起因することが多くなる。もともと純粋な自然災害と純粋な人為的災害とを厳密に分けるのは難しいはずだ。今回の津波においても、過去の巨大津波の経験の生かしていた集落では、先祖の教えた高さ以上の土地に家を建てていたので、誰も犠牲にならなかった。もちろん、漁業従事者にとっては海から遠ざかることによる不便など、さまざまな弊害などはあるにしても、県全体が、安全対策をしっかりと強制力を持って実施しておれば甚大な津波の被害は減らせたことは間違いない。とするならば、そうしなかったことによって起こった被害は人災であるともいえる。
 優れた政治哲学を持たない、凡愚な政治家が国の中心にいれば、本来、防げる自然災害も人災となってしまう傾向はある。逆に人災を自然災害にしてしまう傾向もある。
公害の試金石となったイタイイタイ病、薬剤肝炎など人々の命を大切にすることを真剣に考えていない者が社会の指導的立場になると悲惨な犠牲者が出てくることが示されている。
 人的なものに限らず、口蹄疫や鳥インフルエンザなども行政の取り組次第で被害を拡大させてしまう。
 また、国の指導者層がしっかりしていなければ、犯罪も増えるし、国外からは領土の侵犯の恐れや、具体的な軍事的脅威も増えてくるのは当然だろう。そうすれば、本来、防げたであろう自然災害も人災として拡大をしてしまう。
 
 天災が人災になった最たるものが東京電力福島第一原子力発電所の事故だ。本来であれば津波が原発を破壊することがないように作られていたことは言うまでもない。しかしその津波が想定を超えるほど大きかったことが人災へと進んだ。
 世界にはさまざまな武力衝突や人災はあるが、原子爆弾と並んで、原発の重大な事故というのは、一地域一国の問題ではなく、世界に災害もをもたらす可能性がある。原子力は他のエネルギーとは原理を全く異にしていて、まだその扱いに十分に慣れているとはいえない。肉眼に見えないまま拡散していくものだけに、風評被害等も含めて住民の不安は増幅するばかりだ。しかも、関係者からのさまざまな事故についての発表は、一貫性を欠き、出てくる部署によって内容が違ったりする。それによってますます聴く人の不安が募る。
 食物は食べれるのか、水は飲めれるのか、空気は吸えるのか、などなど安心を与えてくれるような明確な答えがない。だから水のペットボトルは買い占めでなくなるし、保存のきく食料もコンビニの店から姿を消すということにもなってしまう。
 放射能から身を守るための対策方法にしても、花粉と同じようなものだから外出するときにはマスクをして、できるだけ素肌が見えないようにするとか、帰宅したときには外でよく着ている物をたたいて放射能物質を落として家に持ち込まないようにする、などと言う。まるで、広島、長崎に原爆が落ちたとき、大本営が、白い腹を着て光に当たるのを防げ、などと言ったことを思い出させるほど、少々、こっけいでさえある。このことが報道された世界の国からも、科学技術の最先端を行く日本が放射能を防ぐのに衣服を叩くというのはよほど重大な事態なのだろうと、揶揄されもした。
 福島原発の国際原子力事象評価尺度は、最悪のレベル七に引き上げられた。この評価は、一九八六年に旧ソビエト連邦で起きたチェルノブイリ原発事故と同じものだ。これで、レベル七の評価は世界で福島原発が二例目となった。家に入る前に衣類をパタパタと叩いて放射能を落とせ、というレベルでよいものだろうか。
 避難の方法にしても、避難指示や自主避難、屋内退避区域や計画的避難区域、さらに緊急時避難準備区域などと、細部にわたる具体的な内容が明確にならないままに言葉だけが次々と変わりながら官房長官やその他の関係者から発表される。そのたびに現場の住民の方々は怒りというよりもむしろあきれ顔になっている。百歳を超えるまで長年その地で生まれ育った方は、避難しなければならないことを苦に自殺をされた方も出た。

 原発の周辺や東京の水道水に規定以上の放射能が検出されたということで、乳幼児には飲まさないようにとペットボトルが配られた。農産物も出荷制限や摂取制限がなされた。さらには魚介類にまで被害が及んでいる。
 自然現象にも、また人為的なものにも、さまざまな災禍を及ぼすものがある中で、放射能ほど大きな災いをもたらすものはない。地球規模で、人々の生存の権利を脅すものだ。扱い方を間違えれば、人類の命取りにもなりかねない。真善美の価値基準は間違っていると言った人がいるが、まさに真はそれのみでは善悪に通じることを分からせるのが核融合に関することだろう。もちろん原発は平和利用ではあったが、それを操る人間の側のあり方次第では、原子爆弾と同じような脅威をもたらすことを理解しなければならない。
 原子力利用は、単なる一企業の扱いに任されるものではない。重大な事故が起これば世界中の人々の生存を脅かすことを考えれば、明確に一国の政治家の中心的な働きでなければならない。このような両刃の事柄を扱うには、単なる口先だけの政治家、まして、党利党略に振り回されるようなは国の指導者では危険すぎる。また、単なるお人よしの指導者もこの重責に耐え得ることはできない。
 国の中心者として明確な哲学を持っていなければならないし、また、生命尊厳と人々の人権尊重の念がなければ、国を引っ張っていくことはできないだろう。まだ科学技術があまり発達していなくて、間違った方向性をたどったとしても、途中で軌道修正すれば十分に間に合うような時代であれば、思考錯誤しながらでもやればよい。しかし現在の状況は、一度重大な間違いを犯すと、取り返しのつかないことになる。科学技術が良くも悪くも、非常に優れた国の指導者を要求しているともいえる。
 このような時代状況であるにもかかわらず、国の指導者を選ぶ基準は大変幼稚なものだ。これまでの選挙状況を見ても、ほとんどはマスコミによって形作られた流れに乗ってしまっている。これは、当然のことといえる。多くの人は、直接、政治家と身近に親しくしている人はほとんどいない。大抵の人は、マスコミの報道を選挙の判断の基準にせざるを得ない。そうすると、ある面でいえば、マスコミが日本の政治を動かしているといえる。おそらくマスコミの関係者の中には自分たちが政治を動かしているという意識を持った人もたくさんいるだろう。いわば、マスコミによって起こされた風に従って選んだ政治家によって日本の国は現在のような状況になったともいえる。ある人は現在の状況を憤慨して、「もう絶対にマスコミにはだまされない。自分の判断で選挙する」と言っていた人がいた。確かにそうだろう、マスコミからの一方的な報道によって投票行動が日本全体として決まるとすれば、現実に情けないことであるといえる。主体性のない日本の有権者の姿を表している。
 そろそろ、これまでの選挙における選択の方法を国民一人ひとりが考え直さなければ、日本の国全体が取り返しのつかない状況に陥るような気がする。


 第三章 愚昧な指導者
 
  人々の心の状態が、直接的あるいは間接的に東日本大震災やさまざまな自然現象にも影響しているというのはなかなか実感しづらい。現在の人々の心が悪いなどとは誰も思わないだろう。誰も悪い心になろうとして生きているものなどいない。それぞれがよりよく生きようと努力している。その表れとして神社仏閣は多いし、新興宗教もたくさん存在している。八百万の神と言われるくらい日本人は信仰深い。信仰する心は人為を超えたものに対する畏敬の念から出てくる。それだけ日本人は謙虚によりよく生きようとしている。さまざまな機会に、手を合わして拝む。年末年始、盆、先祖の法要。都会から一歩出ればいたるところある地蔵尊、また、建物を建てるときには地神祭などもする。きれいな心といえば、単純に道徳的な心の有り様よりもはるかに宗教的なものへの畏敬の念を持つことの方が心の状態として深い方向であるに違いない。
 宗教法人法に基づいた建物は非常に多い。またそこで宗教を生活の糧のして生きている僧侶なども多数いる。中には信者が姿を見るだけで合掌して尊敬の念を表すような宗教者もいる。これほど多くの神や仏が存在し、それを信仰する純粋な心の信者に満ち溢れている国に、どうして悲惨な大震災などが起こるのだろうか。もし、神や仏が存在するならば今回のような無残な仕打ちを東日本にするはずはなかったといえる。しかし、一方、客観的な日本の社会の、特にそう中で生きている人々の状況を見るならば、一概に信仰心に厚い純粋な心の持ち主の人々の集まりとはいえないものがある。
 考えれば、優れた人物の政治家が出なくなってから久しい。古い話だが、いにしえの子供たちの夢は、末は博士か大臣か、であった。ところがこのごろの総理も大臣も、二枚舌を使うご都合主義のいいかげんな人間の代表になってしまったような気配がある。常識的に考えれば分かるようなことさえ、かたくなに道理に反したことを言ったり行動したりする。少し今の立場を離れて頭を冷やして考えればわかりそうなものなのに、と国民のだれもが思うことが多い。あきれて物が言えないということさえある。
 また、宗教者にしても本来の宗教的精神とは似てもにつかない人間のきたない心を持った者が多くなったような気がする。何十年も宗門の内紛で争っているようなところもある。社会に危険を及ぼすテロを目的にしているようなものもある。さらには、権力によって守られようとしてどこかの政党に頭を下げて庇護をお願いするようなところもある。何よりもは宗教者本来の目的である、人々を苦悩から救うという行動を信念を持って生涯、貫き通すというような宗教者がほとんどいない。自己満足な荒行をして崇拝されて喜んでいるような宗教者では、現実に苦しみ抜いている人々を救う力などあるわけがない。宗教自体も一般企業のようになり、権力、金欲が目的になっている宗派や宗教者が目立つ。現在の宗教的事情は、政治家の事情とウリ二つのようにも思える。

 原発の建設のとき、政治的な力は非常に大きく影響する。福島第一原発を造る時も、後ろ盾をしたのは政治的な権力だ。当時は、いかにもどのような地震や津波が来たとしても大丈夫のように言ったのは東京電力の関係者に限らず、政治家の思惑も絡んでのことだろう。もしも今回の責任を徹底的に追及し所在を明確にするのであれば、建設時における場当たり的な説明をした者たちとそれを後ろで支えた政治家や政府を入れなければ片手落ちになるだろう。
 それにしても情けないのは、ずいぶん長い間、いいかげんな政治家に投票する有権者がいかに多いかということだ。何か大事件や問題が起きると、すぐに政府や関係閣僚の責任にするが、そういう人物を議員にしたのは有権者にほかならない。とするなら、政党や政治家が浮き草のようにふらふらとして自分のことしかは考えないような者が多くなったというのは、言い換えれば、同じようなは有権者が増えたことにほかならないだろう。政治家も政治家であるなら有権者も有権者だ。こういう政治家を政界の送り出す大きなは働きをなしているのは、紛れもないマスコミだ。特にテレビの影響は甚だしい。本来であれば現在のような状況になった大半の原因を作ったテレビ局の関係者は、現在の内閣を批判する前にそういう内閣をつくらせてしまったは大きな原因となった自らの報道に対して、平身低頭して謝るべきだ。それが物事の道理のはずだ。それをしなくて、厚顔無恥に百年一日がごとく、同次元のを批判を繰り返しているというのは、あまりにもレベルの低い報道関係者が多いということだ。

 戦前戦中に、マスコミは、もちろん強制的な働きはあったにしても、戦争遂行の風を吹かせた。そして敵味方を合わせればは数百万人の尊い命を落とさせる片棒を担いだ。ところが、終戦になると、今度は戦争責任者を追及することに狂奔するようになる。奇弁をろうして、あきれるような言動で、反戦主義者に転向するのだ。この身代わりようはまさに、現在のマスコミと全く同じ状況だ。
 あるものを、どこかが批判し始め、そのことが風になると思えば、すべてのテレビ局が同じような批判をキャンペーンのごとくやりだす。登場させる評論家と言われるような者も皆、局の意向に沿うた者、世間の風に沿うた人間を登場させてさらに風を強くさせる。放送局独自の良心に基づいた、また道理に基づいた判断しようとしない。風に反する報道して、世間から批判されることを恐れている。
 結局は、権力のあるものや強いものには逆らえないのだ。時の権力者といえどもそれに対して批判することが風になった時には、権力を批判することが無難なことは言うまでもない。逆に、正しいものを正しいと言い切ることに及び腰になって、自分の放送局だけが反対の報道することが、その反動を考えるとできない。信念も正義。感もあったものではない。よらば大樹の下、大きなものには巻かれる。テレビ局のすべてがこの流れの中にどっぷりつかっている。もっとも無難なところがどころか、ということをいつも恐々としながら探して、その道を進んでいるにすぎない。こんなテレビに影響を与えられれば当然、ふがいない政治家を選んでしまうだろう。
 今回の大震災の報道にしても、右往左往ばかりして、被災者の役立つような、現実に苦しんでいる立場の人々にしっかりと軸足を据えた報道はほとんどない。お互いの放送局が、無難なところばかりを垂れ流している。全く信念と正義なき報道姿勢を暴露しているといえる。震災があってから約一カ月を過ぎた現在までの報道を、一度初めから見直して、いかに自らの放送局が、本来のマスコミの使命である「人のため」の報道になっていないかを厳しく反省すべきだろう。言うまでもなく、電波は公共の財産だ。民放であろうが、国民の了解のもとにその電波を使わせてもらっているという最も大きな根っこを忘れ去っている。
 戦時中には一国を戦争に駆り立て、戦後は、愚かな政治家に国を任し、亡国に至らしめる風を吹かせているのが、今の日本のマスコミの、特にテレビ局の現状だろう。同じ方向を向くことに安心しやすい日本人の精神的特性を考えるならば、マスコミは逆にそのことにブレーキをかけるのが本来の働きのはずだ。
 
 悪知恵を働かせて金もうけをやろうという人間が、政治権力と結び付けば、国の疲弊に向かっていくことは間違いない。本来は、国の指導者になろうとする者は、このような輩に対しては、厳しく取り締まり、賞罰を明らかにすべきだ。それが、信念や哲学のないいいかげんな政治家が多くなっているので、丸めこまれてしまう。それだけならいいが政治家本人も開き直って、さらに権力を行使してそれを助けようとする姿は、国を滅ぼすとしか言いようがない。
 小さな悪人によって国を滅ぼされることはないがは、愚かな政治家によっては取り返しのつかない亡国の坂を下らなければならないということを感じさせられる。
 そういう権力者の心の中は、自分が一番偉いと思いあがっている。さらに、権力さえ握っておれば何でも自分の自由にできると思っている。実際には心が曲がり不正直であり、たいした知識も知恵もないのに自分はすべてに通達して物事の本質を知っていると思いあがっている。自分の慢心で心のがいっぱいになっている。そして本音は、見下している一般庶民からはなれて、上流階級の人間ででもいるような気持ちになって生活している。そして自分が優れた人物だと思いこんで、現実の世界の中であくせくする人間を本当は軽んじて、卑しんでいる。
 また私腹を肥やすのがさとい人間のくせに、世の中の人から尊敬されるようにしている姿は、まるで猫が獲物を狙っている姿と変わりはない。多くの人がこういう政治家の表面的な姿を見てだまされ、一時的に調子に乗って投票するのだ。
 低レベルの政治家は、自分の正当性を保つために、他の優れたは人物を中傷したり、時には攻撃点をわざわざ作為的に作り上げて、社会に向かって悪宣伝をしたりする。こういう政治家が生きていけるような日本の社会になってしまった。そして、利権を得ようとする者がこういう権力者に取りいって本来は国のため国民のために十分に働く力を持っている優れた人物を起用しないどころか攻撃してつぶしていく社会だ。いやしくも、一国の指導者たちが赤いものを黒い、黒いものを赤いというようなことはないだろう、と国民が思っているうちに、邪な権力者は社会を衰亡の方向へと導いていく。

 最近、日本には人物、力量ともに優れた指導者がいなくなった。たいていが軽くパフォーマンスだけの期待外れの人物になった。それらの方々に共通しているのは、外面がいかにも信頼のおける優れた指導者のような格好をしており、賢こそうな様子をしているが、その実、我欲が強く、表面的にはさまざまな大義名分を立てるが、根本において自分の欲望を満たそうとしている。どれだけうまく表面的に国民をだますことができるかがまるで現在の政治家の力量のようでもある。その姿は例えば猟師が獲物を狙って細目にして静かに近づいていくような姿に見える。いかに国民をごまかして、自分の利益になるかしか考えていない。
 いつも言葉では自分のことを如何に優れているかと宣伝し、それらしく外面を取り繕っていたり、また、パフォーマンスとして聖人のような行動をとったりするが、本心はむさぼりの心と自分よりも優れたものへの強い嫉妬心の塊にほかならない。格好だけは付いているが、国民のために本当になるような政策には何ひとつ手がつけられず、指導者としての信頼も全くなくなってしまう。今後の日本や国民の未来について質問されても全く明確な信念や哲学はは出てこず、まるで、物事をわきまえない幼児が怒られて右往左往するような様子だ。そういう自らの低いレベルの政治家であるのを隠すために、正しいもの、優れたものに対して誹謗中傷することには非常に優れた能力を発揮して旺盛にやっていいる姿は人間としての恥じをさらしているにすぎない。
 
 このような愚かな国の指導者の下では、統制された、実のある救援活動などできるわけがない。なんとか災難を逃れて着の身着のままで避難をしている人々に、追い打ちをかけるように救援の手が述べられていない。国内外をを問わず善意の方々からの物資や金品、また、実際の活動への大きな支援の輪が広がっているにもかかわらず、それを有効に動かすことができないでいる。ここにもちぐはぐな行政のドタバタ劇のようなものが演じている。現に苦しんでいる被災者への救援につながらない障害を自らが作っている。
 その間にも、入院患者の方が病院から避難所へ移送されてから、亡くなるということも多くなっている。また、避難所での厳しい生活に体調を崩している人も割合が多くなってきている。救援の手は、一刻も猶予のないところにきている。指導者層がドタバタしているうちに多くの被災者が命に及ぶような状況に刻々と近づいている。
 今回の東日本大震災の復興は、だれもが言っているが、実にちぐはぐで遅い。
 片付けの手の入らない被災地の中には、少し風が吹くと、乾燥した土埃が上空に舞い上がり、砂漠のような情景さえ見せている。その中を行方不明になった身内を探す人々はマスクをして目に砂ぼこりが入らないように苦労しながら歩いている。津波の被害は想像を絶している。被災者がわが家の位置を道路に残されたわずかな歩道の印から見つけたとしても、そこには全くわが家も壊れた跡さえもなかった。家が津波によって数十メートルひどいときは百メートル以上も壊れた家の残骸が流されていた。元の位置に残っているのはコンクリートの門柱の根っこの部分だけで、その上の部分もどこまで転がったかも分からないほど近くにはない。きれいに手入れをして植えていた垣根などは跡形もなく、他からは押し流されてきた廃材の下にわずかに千切れた根の一部が残っているくらいだ。家の中の家具などはまったく原形をとどめないものが多い。形はそれらしいものがあったにしても、中はバラバラになっている。屋根だけが津波に浮いてあちらこちらと流され、どこのお家のものかさえ分からないほど離れてしまっている。目に見えるものは破壊し尽くされたがれきの山ばかりだ。その中で声も出さずに黙々と自宅近くで行方不明者はを探していたり、生きていたあかしの品物を見つけようとしている人もいる。SF映画の破壊されつくされた街の様子もこれほどすさまじいものではないように思える。
 家が壊れてしまっただけではなく、それを修繕したり片付けたり捜し物をしたりしているうちにけがや体調不良になった人も多いだろう。津波が通った後にたたずんで多くの人々の嘆き悲しむ姿も広がっている。津波は時々は襲ってくるものだが、今回の巨大津波のようなものが現実に起こってしまうと、何かただごとでないような気がする。自然に意志も人格もないけれども、超自然的な力のなせる業ではないのかなどとも思ってしまい、疑い嘆く心がさらに深まってしまう。


 第四章 宗教者の使命
 
 よく考えてみると人間はもともと悪い心で他人を不幸にしてやろうなどとは誰も思っていないに違いない。総理にしろ大臣にしろ、各議員にしろ、それぞれは国民の幸福と平和とのために政治をしようとしているだろう。世の中の道理に基づいて政策をしようとしているに違いない。また、多くの宗教者は、人々から尊敬され、説法には人気もあり、信頼もをされている。中には、作家であった人もおり、人生の師匠として、生き方を正してくれる人もいる。また、人々の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、修行に励みながら、世界平和を願っている宗教者もいる。さらに、その姿を見ただけで掌を合わして拝顔したくなるような高貴な宗教者もいる。全体的にみれば日本の宗教者は一部のテロリストのような狂信的なものを除けば、人々の幸せのために、内面の充実のために大変に役立っているといえるのではないか。
 もしこれらの人が表面的な格好だけつけているのであって、内面は欲望の塊であり、自分のことしか考えていないのであれば、人々は誰も信頼を寄せたり著書を買ったり人生の指針を得ようとはしないだろう。何より、学問にも優れ、見識にも一角ならぬ人々が尊敬している宗教者は日本にたくさんいる。そのことは日本には非常に優れた宗教者がいる証拠にもなるだろう。もしもこういう人たちがいることを否定して、日本に真実の宗教者や優れたは人物がいないというのであれば、いったいどこが悪いというのだろうかと不審に思う。
 ただ、これほどの大きな自然災害が起きると、いったいどうして、もっと事前に被害を受けないような策をとることができなかったのだろうかと素朴に思う。それほど優れた宗教者や知識人や政治家がいたのであれば、なぜもっと早くからは自然の脅威を考え、人々に完全に生活できるような手が打てなかったのだろうか。そのような政策を実施できなかったのだろうか。どう考えても優れた人物がいる国で起きるべき自然災害ではないような気がする。特に原発の被害状況をみると、まさに人災であるようにも思える。日本には優れた人物がいるとするのは、あまりにもお粗末な結果ではないだろうか。さまざまなそれらしい批判をする有名人はいるが、実際に今回のような悲惨な出来事を止めることができなかったことを考えれば、宗教者、知識人、政治家は厳しく自己批判する必要があるのではないか。災害が起きた後であれば、さまざまに講釈するのはだれでもできる。起きる前に未然に人々の安全と幸福を守っていくのがそういう人々の使命だろう。優れた学者というのは、自分の知識欲だけを満たして喜んでいるような者をいうのではない。自分の得た知識をもとに人々にそれを還元してこそ本物の学者といえる。人々に役立たないようなは自己満足な学者などは、ニセ学者といえる。ましてや宗教者や政治家は人々の指導者としての責任は重い。

 一国の指導者といわれる者が、たいていの人はいくらなんでもそんないいかげんな人間がなれるわけはないと思っているので、さまざまな欠点はあったとしても根本的に間違ようなことはしないだろうという安心感を持っている。しかし、それは幻想に近い。国民全体を惑わしてしまうようなは一国の総理というものもいる。
 一国を惑わすような総理というのは、自分の考え方に偏狭な自信を持っている。
 政治家としての物事の考え方の中には大きく二つある。それはより多くの人を幸せにしてゆくのか、それとも少数の選ばれた人を優先するのかということだ。ほとんどの政治家は多くの人の幸せを考えるだろう。その中でも、マスコミなどにも取り上げられるように表面的に政策を進めていく場合と、見えないが実利を得るようながやり方がある。さらに、本当の目的は別にあるが、方法論として実施するものと、実際に必要性があり効果が出てくるやり方もある。どの方法をとるかというときの判断として、結果的に、国民は愚かの者が多く集まっているので、高尚な実利を伴うような政策は国民に理解されないと考えて、言葉だけが踊る現実に効果を上げることのできない策の方を取り上げてしまう。
 こういう政策の根底にあるのは、国民を知的レベルの低い、だましやすい愚かなものであると考えることだ。権力を握っている者にとって、国民が愚かであるほど政治を行いやすいことはない。とかく権力者が怖がるのは国民が賢くなることだ。逆に言えば権力者の側の考え方として、民衆は愚か者であるという意識があるということだ。国民には、高尚な善政などは、通じないし必要ないと思っている。そんなことをすれば豊かになった国民が権利意識を主張するようになってうるさくなる、というくらいにしか考えていない。だから、政策としては常に低レベルのものを選択して実施することになる。そしてそれが現場に対応したものだと主張する。
 さまざまな優れた政策提言やは国民の基本的人権にかかわる重要な意見が総理のもとに寄せられたとしても、まずは縄張り意識で自分の政党や自分の派閥に利益をもたらすものを大前提として考える。だからどんなに的確な意見があったとしても、まずそれを行っている人間を自分の縄張りの中に入れること考える。それができた時に初めて政策を実施することになる。
 当然とはいえ国の最高指導者というのは、自分や自分の気に入っている人間の集団を守り拡大しようとする。たとえ道理にかない、科学的に正しく、または、世の中の常識にかなった考え方だったとしても、それが自分の気に行った世界と離れたところの人間であったり考え方であったりするとそれらを排斥してしまう。そして自分たちの集団の方向性以外は、ことごとく無用の長物とらく印を押そうとする。もちろん、議会なので過半数を超えて勢力がある場合はますます慢心を起こして考えられないようなことをしてしまうが、過半数に満たなければペコペコと頭を下げて野党のもとへ日参することになる。ずる賢い指導者は、国民から、この自分の醜い権力欲を見抜かれないようにと、さまざまなパフォーマンスをするが、国民は実際には彼らの本質をやがては見抜くことになる。結論的には権力者というのは正確に有権者や民衆に真正面に向けなくなるものだといえる。思い上がっているが故に、自分のことを中心に考え、他の者を低く見てしまい、現実とかい離した考え方になってしまうのだ。
 大体において総理が言う事は、自分たちを信頼して、反対する意見を出す者に対して国民がそっぽを向くようにすれば、必ず理想的な豊かな生活と国になると主張する。ところが、いかにもいいかげんであやふやなことを言っているにもかかわらず、さも重大なもののごとく発表する姿は、まさに裸の王様そのものだ。二枚舌を平気で使い分けで、自分の本心をひたすら隠して、実際にはほとんどの国民は否定するようなことにも、状況に合わせてやっていく。だから一貫性もなく思想性もなくフラフラとあちらこちらと動き、その政策が現場まで降りるころには本来の目的も何も分からなくなってただ混乱とそれに乗じて暴利をむさぼる者を生むだけになる。自分の本質はすでに明確に国民から見抜かれているにもかかわらす、あくまでも権力者であるという格好をつけながら自分の気に入ったもの以外をかげで攻撃して醜い権力闘争にうつつをぬかしているというのが現実だろう。その権力闘争からすれば、津波や放射能によって、生活も人生のもすべてが狂ってしまい、どうしてよいかわからずに苦悩している方々の気持ちなんかは、頭の片隅にしか存在していない。
 本来一国の指導者であれば自分の考え方や、自分の所属する派閥や政党を超えて、国民の幸せのためになることであれば、何でも実施していくというのが当然だろう。結局は国民よりもなによりも、我が身がかわいいのだ。国民の人権や生命などは次の次なのだった。
 こんな指導者のに国の政策を託するならば、原発や地震対策にしても我が身の都合のよい方法や企業を選択し、いざ災害が起こったときにはその政策の本音が露呈することになる。自然災害によって多くの人の人命や財産や人生が奪われるのは、不可抗力なものではなく、一国の指導者層の根本的な哲学が貧弱であるからにほかならない。やはり、天災と人災に区別などはない。天災が起こったときに致し方のない災害であると言い訳をするのは、人災であること隠そうとしているにすぎない。
 
“権力の魔性”ということがある。権力を持つと人間は、すべてのものを自分の自由に動かそうとする精神状態になる。そしてそれに反抗する者に対しては自分の存在をかけてまで徹底して攻撃を加えるようになる。それは、正しいとかは正しくないとか、道理にかなっているとかかなっていないとか、そういうレベルのものではない。すべてのものを隷属させたい気持ちに心がとらわれてしまう。したがって、自分に反する意見の者には、あるいは自分に奴隷のごとく使えようとしない者には、ぬれぎぬを着せてまででも陥れようとする。そして自分がこの世界の中で最も正しいと思うようにする。自分がすなわち正義であり道理であり常識であるとする。さらにこの権力者の立場というものを永遠に失いたくないという気持ちが非常に強い執着心となって、それを脅かそうとするものに対しては有無を言わさず抹殺しようとする。この執着心は非常に強く、自分自身が年老いて体力的に無理な状況になってくると、自分の子供に権力を移行しようとまでする。いわば国民は、権力者の欲望を満たすための材料に使われるにすぎないことになってしまう。これは一部の民主主義の発達していない国の権力者だけにあてはまるように思うかもしれないが、すべての権力をもった人間に共通する精神状態だ。
 このような“権力の魔性”のとりこになった指導者に対して人々は頭を下げ、拍手をする状況を作ってしまう。そうさせる大きな力になるのはマスコミだ。今回の政権交代をさせたのは、民主党がすばらしかったわけでもなければ、他党の力不足でもない。中心的に力を発揮したのはマスコミだ。マスコミのおかげで政権交代がなされたといっても過言ではない。これはだれもが感じているところだ。そういう意味からすれば、現代社会においてはマスコミももうひとつの権力者であることを忘れてはならない。テレビに登場するコメンテーターと言われるような人間はテレビ局の意向に沿ったことを言う者しか登場させないのは言うまでもない。それらがテレビ局の意向に沿った風を国民の中に作ってゆき、時には激しく吹き荒れさせることもある。それに国民がだまされ、乗ってしまうと今回のような政権交代劇になってしまう。
 今マスコミは盛んに現政権を批判しているが、厚顔無恥、無神経なマスコミの愚行だ。空につばを吐きかけて自分の顔に落ちてきても平気な顔をして口害を振りまいている。大半の国民はこのマスコミの風に乗ってしまう。そしてその風に逆風を吹かせるような人間の言動は、封じ込まれ、世上からを消されてしまう。そして全体がひとつの方向に向いて進んでしまう。戦時中、強制的とはいえ、ありとあらゆる人や団体が、こぞって戦争を賛嘆したことにウリ二つだ。いっこうに反省をしていない。
 戦時中にしろ現在にしろもちろん、世の中には現状を憂いて、真実に世の中を良くしようとして踏ん張っている学者や政治家や庶民がいる。それらの人々は、非常な努力をして、一種の救国の一念で活動しているがは、いかんせん、強烈なマスコミや権力者の下ではいっこうに社会の主流にはなり得ない。マスコミが作った風、権力者の意向に沿わないが故に人々の目にとまる機会は極端に少なくさせられている。あるいはそういう良識的な人々に対してはよくないレッテルを貼り付けてできるだけ活躍をさせないようにするのが権力の特徴であるともいえる。
“権力者”という表現に対しては、何か古い時代の全体主義的な頃のイメージを受けるかもしれない。また、権力を持っている者とそうでない者という二重構造で社会を見る偏狭な考え方に基づいているようにも思われるかもしれない。しかしよく考えれば、現在の日本において本当の権力者はだれかといえば、有権者にほかならない。政治家はみな国民が選挙で選んだ。そうして当選した政治家によってさまざまな認可作業が行われて、その中に放送関係の政策も入っている。とするなら、テレビ局の認可もいわば間接的ながら有権者が行ってるといえる。とすると、現在の日本の状況は、有権者が自分で自分の首を絞めているにすぎないことになる。権力というものは人間が集団になれば常に存在するものだが、大切なことはその権力をすべての人間の幸せのために行使できるかどうかにかかっている。今の日本の権力構造は逆に多くの人々の生活を一部の人間のために犠牲にさせるような状況にある。こんな中で、どこから優秀な、真実に国民のことを考える政治家や指導者が出てくる要素があるだろうか。社会全体が今回の大震災を契機に、冷静になって考え直す必要があるだろう。ある意味でいえば、これまでの有権者の判断は、今回のような多くの尊い人命を失わさせるような政治や行政を認めてきたといえる。この大震災を契機に、真に反省すべきものは何かを国民一人ひとりが自覚をすることが最も大事ことだろう。
 
 時代は変わり、世の中が移っているということをしみじみと感じる。これから先のことを考える時、これまでのことがあまり参考にならないような気がする。特に人物についてだ。これまでの日本の国に出てきた優れた指導的人物が、これからも出てくるかどうかということについては、過去のことがあまり参考にならない。新しい指導者の人物像というものを考えていかなければ、過去の優れた人物を頭の中に描いているだけでは次の時代を担うような人物が出てこないような気がする。
 これまでの日本は、言うまでもなく世界に誇れるような見事な発展を遂げた。もちろんその間のさまざまなひずみは出てきたが、どうにか解決し乗り越えてきたことは事実だ。だが日本の現状を素直に見るとき、過去の栄光はすでに過去のものとなったのであり、再び同じようなは栄光は日本には来ないのではないかという気もする。
 何よりも考え方の頼りなさだ。総理にしろ、大臣にしろ、あるいは社会の中心的になっている人物にしろ、言うこと為すこと、おぼつかない人が多い。信念を持って時代社会がどのような風に吹かれようが、自らの道を進むという人が少ない。大切なことは、自らの信念を貫くことが、そのまま人々の幸福と連動することだ。このような共に生きて向上をしようとする人物が非常に少なくなった。これからの日本の舵をとっていける人物像は、その人の心の本質として、自分の幸福と他人の幸福が一致できるようなは生き方ができる人になるのではないだろうか。
 今の時代では、一生懸命に世のため人のために生きようとする人間も、投げやりにあきらめて自分のためにだけに生きていくような人間も、一緒くたにされているような状況がある。
 世の中全体の価値観が、浅薄のものになってきている。本来、日本の文化の中で世界に通用するような模範的な生き方や思考というものが、社会の中で価値を見いだされずに、目先のことだけが重要視されている。日本という国が解体されようとしているとも見える。それは悪い意味では、世界に対して存在価値のない、使命を果たすことのできない、あってもなくてもよいような国になってをしまうことだ。

 津波の被害は日変を追うごとにその規模の大きさがはっきりとしてきた。大きな被害を受けた所はリアス式海岸で、湾が陸地の奥の方まで波が上がってくるにつれて勢いを増すような地形になっている。波は海岸から湾の奥まで数キロにわたって押し寄せてきているところもある。波に飲み込まれたところはがれきの山が湾全体に広がっている。もし同じような高さの津波が来たとしても安全な所いといえば、山すそのわずかな土地しかない。とても今回のような津波を止めるほどの防潮堤を作るのは不可能に近いだろうから、故郷を津波に破壊された場所で再び生活を始めるのは難しいように思える。ただいろいろな方法が考えられているようだ。
 それにしても自然は美しく心が慰められるというが、津波も自然であるに違いはない。破壊し尽くされた津波の跡を見渡して、誰が自然は美しいというだろうか。だれが心が慰められるというだろうか。やはり、自然が美しいというのも、心が慰められるというのも、すべて人間の心が勝手に判断していることであって、自然そのものは美などとは関係のない存在なのだ。自然の作り出した造形、などという言葉は実に現実を無視した虚構にすぎない。そう思うと、自然描写に優れた小説や、心が晴れ晴れとするような自然の映像が、実に色あせて、まるで幼児がおもちゃの食器などを使ってままごと遊びをしているように思えてくる。
 人々の生活の基盤である住居が破壊され尽くされた跡地は、復旧作業が始まったとはいえ、まだほとんど手付かずの状態だ。もしまた片付いたとしても以前のようになるかどうかはわからない。避難所暮らしがいつまで続くかも分からない。
 原発事故については一応の事故収拾に向けた工程表を発表して原発が安定するためには六カ月から九カ月としたが、果たしてその通りに行くのか、これまでの経過を考えるとすぐに信じることはできない。数え切れない人々が言うにいわれぬ悲しみや苦しみをを背負いながら生きていかなければならないのに、その生活の場さえ不安定なことでは、悲しみが増えるばかりだ。避難所での人々の生活の様子を見るととても普通の健康的な状態には及ばず、体力の弱い人から体調を崩してゆきそうな状況だ。
 こういう状態の中では人々の心も破壊されてくる。さまざまなボランティアによって支援はされているが、何よりも先頭を切って実際に苦しんでいる人々の中に飛び込み、支援をしなければならないのは政治家や行政の側の役割であるはずだ。ボランティアの方が感謝されているというのは、政治家の無策の表れでしかない。こんな状態が続けば、人々の心に空虚な穴が徐々に広がってゆく可能性が大きい。国や県は物と同時に心の救済方法もしっかりと考える必要があるだろう。生活の場も心も震災前のような状態に戻ることはほとんどできないような現実があるのだから、それを物心ともに乗り越えて新しく出発できるような配慮を早急にしなければならないだろう。


 第五章 政治家の使命
 
 天災が人災になってゆく根本原因は指導者層の思想の貧困さによる。戦後の日本の発展の歴史を見るとき、時々の内閣がしっかりしている時期は経済、社会ともに大きくって発展をしている。また、自然災害が例え発生したとしても、その復興や、次に防ぐための政策を的確に打ってきている。国民の生命や財産、ひいては人生を失わせるような大災害を起こさせるのは、国の指導的立場である内閣全体が国民の幸福を政治の唯一であり最大の目的と心底から考えていない政治家が集まった時に起きるともいえる。こう言うと、次のような反論をするかもしれない。

 「日本は教育水準が世界的に高い国だ。特に政治的指導者層の人々は、優れた学問的な研究を十分に身につけた人が多い。いわば賢い人たちがほとんどだ。愚かな人間が政治家になっているということはそのまま信じられない。それぞれがそれぞれの得意分野を持ってそして内閣を作って、協力しながら国の発展のために尽くしている。原発をはじめ科学技術に優れた造詣を持った政治家もたくさんいる。また教育や文化、経済にも優れた学識を持った人ももちろん多くいる。一人ひとりの政治家はそういう優れた知識と知恵を持っている上に多くの人々から信頼され指名を受けて議員になっている。現にこういう人々が、国民のために尽くしたことは数限りないほどあるし、社会奉仕の一念に徹している人々も多くいる。こういう人々のおかげで悩みが解決しよりよい生活になったと喜んでいる人も多い。
 そういう優秀な人たちが集まって、さらに足らない時には各種委員会のようなものを作り、そこに人材をそろえて諮問機関として、ひとつひとつの政策に対してしっかりと議論をしたうえで議会に提出されるようになっている。その内容はそれぞれの国を代表するような専門家が何人も集まって考え討議し、さまざまに思慮をめぐらして国民のためとなる結論を出したものだ。それを批判する人間は逆に無知か認識不足なものではないかと思えるくらいだ。そしてそれまでできなかった政治上のさまざまな規制などを取り払い、国民の利益となるように作られた。その結果は、一時的にせよ、世の中の老若男女を問わず、拍手喝さいで、まるでこの世の中に救世主が出てきたがごとく、歓迎された。
 それだけ絶大な国民の信頼を得て発足した内閣は、非常に優れていることは間違いない。それををあたかも疫病神のごとく、批判することは、自分で自分の選んだ人をののしっているのと同じで、道理にかなわない。自分で自分を傷つけているのと同じだ。人間の生きる道からすれば、担ぎ出した人でありながら批判するのは、批判する方が罪が重いといえる。逆に、そういう批判ばかりをしてるからこそ、天災も起こってくるのではないか。指導者層が悪いという前に、選ぶ権利を持った人間の良識の無さこそ責められるべきだ。」

 こんなことを言う人がいるかもしれない。しかし、辛い蓼の葉ばかりを食べている虫は、その辛さが分からなくなってしまう。また、臭い便所の中に長くいる虫もその臭いが分からなくなってしまうものだ。一人の人間も、一国も物事の道理が見えなくなればこれと全く同じだ。正しいことを聞いても、逆に間違っていると思い込み、正しいことを言う人を爪弾きにし、できもしないことを言っている人間を正しいと思い込んでしまう。このような物事を見る、あるいは人物を見る目が迷い狂っていることこそ最大の罪であるといえる。何よりもあれほど正しく信頼がおけると思って政権交代した現状を考えれば、辛いものの辛さが分からず、臭いものの臭さが分からなかったことを自覚できるだろう。
 その考え方の基本的な誤りは、政治上の課題を解決するのに実際に現場で正しく政策の成果があげられるものと、言葉だけで途中で現場に届く前に立ち消えになってしまうとの区別がつかないところにある。それがわきまえられずに、最も大切な役立つ政策の方をやめてしまい、スローガンやパフォーマンスでしかない虚構のうほうを取Dり入れてしまうことにある。この判断が賢い人間の集まりである内閣で正しくできないのが不思議のように思うが、学問があり、知識があるのと、それを現実に役立たせるのとは全く違う判断力による。経済学博士が、決して金もうけに長けているわけではないのと似ている。
 的確な判断のできない内閣の政治家は自分たちがいつの間にか、権力を握ったが故に、物事の善悪や道理の判断に狂いが出てきていることを知らない。正邪、善悪よりも、自分たちの立場や利権を守ることを判断の基準にしてしまっているのだ。その結果は、たとえ正しく、良いものであったとしても、自分たちにとって不具合なものは、よくないものとして徹底して排斥することになる。これはひとえに権力を握った人間が無意識のうちに持ってしまう思考だ。全く物事の道理が分からなくなってしまった人間の怖さでもある。そこから出てくる言動は、妄語であったり、奇弁だったり、国民の幸福とは全く逆の方向に進むようなものになってしまう。そしてそのことに自分たちの集団として気がつかなくなってしまうことが最も怖いことだ。
 こういう時には物事の道理をわきまえた人たちが徹底的に追及して不適格さを自覚させなければいけない。ところが、そうする人間がいなく、あるいはいたとしてもマスコミなどに登場して世の中の人の目や耳に触れることがなく、世の中がこぞってこれらの愚鈍な政治集団を祭りあげてしう。祭りあげておいて、次にまた足を引っ張る。マスコミや有権者は、自らの信念なき愚鈍さもまた自己批判されるべきだろう。なにが、本当に国民のためになるのかを、風になど吹かれずに、頭を冷やして冷静に考えなければ、今後の日本の行く末はおぼつかない。

 物事には前兆というものがある。大きな事故や出来事がある前にはさまざまな小さな、それを予想されるような事柄が起こるのが普通だ。よく言われるのは、交通事故で大事故を起こした人は、必ずその前に何度かヒヤリとするようなことを起こした経験があるといわれるようなものだ。今回の大地震、それに続く大津波や原発の事故は起こるべくして起こったという人もいる。
 中間報告だが、亡くなられた方の死亡原因が警察署によって調べられ、結果が発表された。それによると今回の大震災での死亡原因の多くは津波による溺死だった。地震そのものによって亡くなられた方は非常に少なかった。この経過からすれば、十分な備えをしていれば亡くならなくてもよかった方々も多くいたはずだ。
 地震そのものの前兆は今後の研究によるが、それに対する十分な備えをするかどうかは、個人のレベルの問題ではなく、国や地方行政の問題が多い。特に原発への対応は国レベルでしなければ進めることはできない。そうすると、いいかげんな国の指導者が政権の座につけば、そのいい加減さの歪は必ず手を抜きやすいところへ現れることになる。これが大事故を起こす前の人為的な前兆といえる。こういう前兆が積み重なっていったときに、大事故また大災害へと結びついていく。それはやがては国自体の力をも大きく落としてしまう結果になる。無責任な指導者を国民が選ぶならば、言うまでもなくそれは、ひずみを受ける一部の人々の塗炭の苦しみを誘発するにとどまらす、全国民の大きな損失となる。
 この前兆は分かりにくいものかと言えばそうではない。大抵の人が、政権の状況を見た時に、こんな政権が続いていればおそらく取り返しのつかないことになるだろうというような予想は案外簡単にしている。今さらながら国の指導者を選ぶことがいかに重要であるかを国民全員が自覚をしなければならないのではないか。
 無責任な政権というは必ず、表立って攻撃されるようなことがないところで手を抜く。それが前兆となって現れる。優れた人物もこういう政権の中に入ると、その無責任さを手伝うような働きをするのは不思議としか言いようがない。優れた人物をつぶしてゆき、いいかげんな人間が幅を利かせるような国の中枢部となってしまう。こうなると、内閣自体の内部で世の中の常識や良識というものが全く通じない世界が作られてしまう。卑しい者同士がお互いに悪く言い合い、相手を辱めが合う状態になる。それを逆に皆が自由に発言できるので良いことだ、などと賛嘆する。そして団結して物事に当たろうとする人たちに対して、全体主義者などと批判をする。こういう政権に国を任せておけばまさに、天災も人災となって人々に辛酸をなめさせることになる。
 愚かな国の指導者は、あちらこちらと回って自分の考え方を演説するが、その考え方自体が国民を困らせ、いわば国を滅ぼさせるように害毒を振りまいているといえる。国の発展のために、また国民の幸福のために正当な意見を述べるものを徹底して攻撃して、自らの反価値な考え方を賛嘆するような愚かな人間を正当な国の考えとして評価をする。そのことに本人自身はまったく気づかないのが、権力というものを身につけた人間の魔性であるといえる。「人間としておかしい人物」を国の指導者として選んだ国民はまた国は、不幸としか言いようがない。国民自らが自分で自分の顔につばを吐きかけているようなものだ。そのことにいいかげんで気がつかなければ、まさに想定外の不幸の出来事が起こる根本の原因になってしまうだろう。
 このように考えてくると、やはり、国の指導者層の人間のありようは、自然災害の拡大にも密接に関連していると思える。二度と再びこのような言葉にもいい尽くせないような悲惨な、天災人災を起こさないための最も効果的な方策は、真にすぐれた政治家を有権者が選ぶことにほかならない。

 避難生活の現状は非常に厳しい。十分な飲み水や食糧がないという生活は、それこそ地獄のようなものだ。
 また原発事故による放射能漏れが農業へ及ぼす被害も甚大だ。出荷時期を迎えた農作物が出荷制限で売り出すことができず、どうすることもできない。放っておくと作物が伸びすぎて、結局、廃棄せざるを得ない。農業従事者にとって農作物はわが子のようなものだ。それを捨てなければはならないとなれば、身を切られるような思いがするだろう。それでもむなしく耕し肥料をやり水を与える。農家にとって耐えられない日々が続いている。
 また、放射能汚染によって規制がかけられた地域の人々は、住み慣れたわが家を捨て、一生懸命、耕してきた農地を離れて、別の土地へと避難していく。中には家畜を飼っていた人もいる。家畜の移動をどうするか大きな課題だ。農家の人たちは、出荷停止になった農作物を全部買い取って欲しいと言っている。また家畜についても国が買い取ること望んでいる。政府はスピーディーな対応が全くできていない。その間、苦しむのは現場の生産者の人々だ。打つ手打つ手が後手後手でいったい何がやっているのかと農家の人は怒りをあらわにしている。
 福島原子力発電というけれども、東北地方へ電力を供給していたわけではない。東京をはじめとした関東地方送っている。はっきり言えば原発周辺地域の人たちは、関東地方の犠牲になったといえる。どうして東京都内に原発をつくらないのか。ここには明確な差別意識がある。原発周辺地域の人々の経済的な潤いがあるので原発の建設は喜ばれている、という意見や現実も確かにある。しかし少し考えてみれば、これこそ差別であり、失礼な話だ。東京の人が使うのであれば東京の人が放射能の危険性も覚悟のうえで原発を建設するのは当然すぎるほどの話だ。
 とかく都会の生活者は、地方の生産物を当てにして成り立っていることが多い。これは一次産業に限らす、工業生産についてもいえる。過疎化した地方に支えられて過密化した都市の生活は可能になっているといえる。
 特に原発については恩を受けているにもかかわらず、周辺地域の人々への心ないを嫌がらせの言動が一部にあることには、許されない思いがする。避難地から転校した子供たちが、新しい学校で「放射能が移る」といじめを受けているところがあるという。また、ある避難者を受け入れている地域の役所では、避難してきたは人々に放射能測定を勧めているという。このことが問題視されるや「本人の健康のことを考えてアドバイスした」などと言い訳をしている。これなどは、上が上なら下も下だ、とあきれざるを得ない。
 長崎、広島での原爆の被爆者が、長い間、風評被害から耐えられないような差別を受けてきたことは知っての通りだ。国のために受けた原子爆弾によって、それだけの被害にとどまらず、敵国ならまだしも自国の国民からも人権を踏みにじるような差別を受けなければならなかったことは、言語に絶する苦しみだったろう。今回の被災者の放射能問題は、それと全く同じレベルの話だ。
 それでなくても被災された人はきつい避難生活を強いられているのにその上に、電力を犠牲になって供給していたところに住んでいる人間から感謝されるどころか、いじめを受けたのでは憤りが増すばかりだ。
 避難をするときに着の身着のままで逃げてきた人がほとんどで、現金や大切なものもほとんどなくしてしまった。また、お金はあっても商品が流通していず、買うこともできない。被災への支援活動は実に遅く、その間食べるものもなく寒さにうち震える状態が続いた。悲しむ声が、満ち満ちていた。
 どうにか立ち上がろうと気力を取り戻している時に、またまた、大きな余震が何度も襲ってきた。誰もが地震に対する精神的なストレスを激しくて、毎日が恐怖の中で暮らしているような状態だ。もう格好などを気にしていることもできず、見るのも気の毒なほど落ち込んでいる方々が多くいた。
 さらに、放射能に遮られたりもして、行方不明者の捜索も遅々として進まない。発見された遺体も誰なのかを確定するのが日を経るごとに難しくなってきている。また身元不明な遺体は、自治体が火葬して、後でDNA鑑定などによって本人の確認をしようともしている。地元の火葬場では間に合わず周辺の火葬場に依頼もするような状況だ。
 多くの人たちは体力が限界まで達して体調不良にさらされている。仮設住宅や長期間可能な避難場所に移れる人たちはまだわずかではあるが、恵まれている。一時的な避難所での生活もさまざま理由からできない人たちが、被災した町並みを見下ろす高台で生活を余儀なくされている人もいる。こういうところには救援物資もなかなか届かず、厳しい毎日の生活を送っている。寒さをしのぐためのたき火に、大切にしていた家の廃材を燃やさなければならないのも苦しい思いだろう。
 避難生活の中では多くのところで気の毒なことが起こっている。思いやりの深い人が、相手のためと思うがゆえに、自分を犠牲にして尽くすので、先に体力も落ち、疲労が重なっていく。温かい毛布が手に入ればまずは自分のことはさておき、愛する人にその毛布をかけてやるだろうし、少ない食事が手に入った時には自分よりも愛する人へその食べ物を渡してやるだろう。だから、子供のいる親は、先に子供のことを優先して与えてやるので、まずは母親から弱っていく。物事の不条理のような現場がいたるところに見えている。
 行方不明者の方がまだ一万数千人いる。その中には発見されたけれども性別も年齢も予想できないような方もいる。また、当然ながら津波の引き潮の時に海中へと深く流された人もいるだろう。時が過ぎればすぎるほど身元の確認も難しくなる。平時であれば、一人の方が行方不明になれば警察も捜索し、大騒ぎをするものだ。ところが震災においてはあまりにも人数が多く、悔しいことに数として数えられてしまう。
 さらにやっと発見された遺体の中でも、放射能を帯びているということで収容できないままになっている方もいる。その姿を見て、その遺体の方の父は、母は何を思うだろう。その子供はいったいその親の姿を見て耐えられるだろうか。生きていたときのその人の体の温かさ、言動の懐かしさ、愛情の深さを思えば、天と地を引き裂いても心が収まらないだろう。
 このような、人間が人間としてあるためのギリギリの線を行き来している時に、そこに少しなりとも明るい光を注いでくれるのが宗教者の使命ではないのか。震災から四十日以上が過ぎた。いったいこの間、宗教者はいわれる人は被災者のために何をしたのだろうか。この点は後々に厳しく総括されるべきことだと思う。神社仏閣はたくさんある。また多くの宗教施設もある。その専任の宗教者も多くいるだろう。人々が困っているときに救くうのが宗教者の役割ではないか。何もなくて、平和な時に、ニヤケた顔をして人の幸せと、他人への救いの手を差し伸べることをいかにも宗教者らしく説法した人間は、都合の悪いことになると一目散に逃げていって影を潜める。宗教者の前に人間として恥ずかしいレベルのものだ。こういう時に、それぞれの宗教の、また宗教者の本質というものが明確になる。利益にならないと判断した時には逃げていき、金が集められると思ったときには厚顔無恥に人の道を説くなど、反宗教者の典型ではないか。被災地が落ち着いた時には、またぞろ、「有り難い」話をするためにノコノコと出てくるだろうが、その姿はまさに、現今の無責任な政治家と同じだ。
 第六章 人間の目的化
 
 人は権威に弱い。特に日本人はその傾向が強いといわれている。確かにテレビや新聞雑誌などマスコミに出てくる人物は、それにふさわしい肩書を持っている。テレビにそういう肩書のあるコメンテーターが出てきて、それらしいことを言うと、それが正しいことのように思い込んでしまう。まして受け身の自分がコメンテーターよりもコメントしている事柄について知識がなければ、鵜呑みにするしかない。実はそのコメンテーターや評論家の言ってることが出来事に対して真正面からとらえた正確な判断であることは少ない。たいていは本人の自己顕示欲から出てきた偏向した考え方が多い。このことは、見方を変えれば、日本の社会の中から本当に有為な人材を見つけ出すことは至難の業だということだ。権威ぶった人間は、優れた人物を蹴落として、自分の考え方を時の流れにしようとする。それに対して肩書もない優れた人材は、マスコミに取り上げなければ、表に出ることはない。しかし、よく考えれば、現在のような日本の政治、社会・経済状況になったのは、権威ぶった人間の言いなりになったことから始まっている。だからこれからの日本の国民の義務としては、真に日本の国と国民を平和と持続的な繁栄へと舵取ってくれるのは誰かということをしっかりと見極める目を持つことが。逆に言えば、これまでのやり方で日本はだめになったのだから、目先の変化だけをマスコミにあおられて為すのではなくて、実質的に物心ともに豊かな国にするために大きくこれまでの常識を覆すようなやり方でなければいけない。
 今こそ憂国の士を見つけ、育てなければならない時代に入ったと言える。それは明治維新が起こったように、これまでの流れを変化だけをつけて引き継ぐというようなものではない。次元を異にした時代変革をなさなければならない。こういうと武力革命に似たようなイメージを持つかもしれないが、それは全く違う。これまでの流れを大きく変革していくのは、基本的なものの考え方である。国民全体が国を良くするためへの基本思想をこれまでと変えることだ。これまでは、あたかも自分でさまざまなことを判断していたようだが、今振り変えればほとんどはマスコミの影響下のもとに、主体性のない判断をしていたことを自覚しなければいけない。
 ひとつの大きく考え方を変えなければならない例は、目的感を明確にすることだ。それも、スローガンや、パフォーマンスではなくして実質的になしうるものでなければいけない。大原則として、人間を、国民を方法論化せずに目的論としてとらえることだ。これは政治に限らず、教育も、宗教も、あらゆる人間の営みの原点を人間のためにおくということだ。今までもそうだったではないか、という人がいるかもしれない。しかしそれは往々にしてだまされていたにすぎない場合の方が多い。よく言われることが国民の生活意識と永田町の意識とは完全に乖離しているなどはそのよい例だ。また、宗教にしても、人間の幸せのために宗教はある。本来、人間のための宗教であるにもかかわらずを、いつの間にか宗教的権威で、宗教的絶対者の前に人間がしもべのように方法論化されている宗教は、実は非常に多いのだ。このことは一応だれもが分かっている様で、実はいっこうに実現できない思考なのだ。この大震災を契機に、これまでできなかったこの基本の大原則の転換ができれば、震災の意義も大きく実を結ぶのではないだろうか。
 日本人のを良さでもあり悪さでもあるといわれているが、どうしてもひとつの方向に進んでゆくことを安心して肯定する。だから、世の中全体がひとつの方向に向かっている時、マスコミなどに登場する評論家などは、その逆のことを主張することはほとんどない。また、そういう人物をマスコミは登場をさせない。世の中全体が現政権を肯定している時には、こぞって肯定する人ばかりを集めて盛り上げる。次に批判するのが主流になってくると、またぞろ批判する人間ばかりを集めてきて得意になる。勇気を持って堂々と世の中の流れに反対すること言えるものが実に少ない。居たとしても、反対する理由が、打算的であったりして、逆に風の正当性を証明したりするほど幼稚であることもある。確かに、皆が盛り上がってる時にしらけさせるのは勇気がいるものだが、それを自身の信念に基づいて発表できる人物が少ない。これまでの日本の社会の状況を変革しなければ、同じ過ちを繰り返すだけではなくして、右肩下がりに国が衰えていく可能性がある。まず最初の基本的な変革こそこの点を中心に据えなければいけない。
 たとえ世間全体が西の方を向いていたとしても、東の方が正しいのであれば一人であったとしても東といえる信念のある人物を、社会が評価していけるようにすることだ。もちろん、これまでにも、いいかげんな指導者や評論家は、社会的な制裁を受けてきたことは確かだ。中には裁判沙汰になったりして、正邪の結果が法的にはっきりする場合もある。このように具体的な事柄が起こった場合の正邪の判定はもちろんだが、平常のマスコミの状況の中で評論家や学者、コメンテイターターと言われる者が発言した内容についても、検証する場を持つ必要があるだろう。言論の自由は、善悪を明確にする自由でもある。時々、裁判に訴えたときのみ、大騒ぎをしてマスコミが取り上げ、最終的なそのことについての判決については全く触れないということもよくある。これは裁判を利用した相手方への攻撃にほかならない。それは、訴えられた方に対して悪印象を及ぼし、訴訟起こした側がいかにも正しいイメージを与える報道になる。この効果を利用する者が随分多い。全く事実を知らない一般の人が週刊誌の記事を見たり、電車の吊り広告を見たり、テレビの一時的な報道を見たりするといかにも訴えられた方が悪いという気持ちになる。ところがこういう裁判においては、裁判が進んでいって、上級審にまで行き結審したときには訴えられた側が無罪であることが多い。マスコミは無罪の報道をほとんどしない。このことは裁判記録を見れば明確になることだ。
 言論の自由と言いながら、言論のテロリズムのようなことを許している状況が現在の日本の中にはある。正邪が明確になったにもかかわらず、報道のされ具合いによって結果的に正邪が逆転したままの印象で人々の頭の中に残ってしまうことは多くある。正邪を明確にし、賞罰を明らかにするのが人間社会の基本的なルールだ。社会全体がいわば、ルーズになった状態の中では、優れた指導者は活躍する場を失うしかないだろう。

 大地震の怖さは体験したものでなければ分からないという。悪くすると一生涯のトラウマになる。地震の揺れに対する恐怖心は、時として地震自体にプラスされて心の奥底にある恐怖心を呼び出させることもある。地震の揺れを感じた時、非常な恐怖を覚える子供たちの中には、親から虐待を受けていて、その恐怖心が地震の揺れによってよみがえらせられることもある。そして大人なってからも、その恐怖心は無意識の部分に染み付いていて、地震のたびに恐怖を味わうこともある。今回の東日本大震災は大地の揺れに巨大津波という恐怖をさらに増幅させるものが続いた。津波に流され、目の前で波に飲み込まれてゆく人々を見たことが、多くの人から語られているが、生涯の苦しみとなってゆく。
 初めは、マグニチュード八・八とされていたが、後に世界最大級の九・〇と判断された。最初は下から突き上げられるような衝撃があり、やがて立っていられないほどの横揺れが数分間続いた。このわずか数分間の間にどれほど多くの人が犠牲になる原因になったかと思うと、その時間は運命の時間とでもいえる。マグニチュード九・〇という巨大なエネルギーからくる大地の揺さぶりはすさまじく、この世の出来事とは思えなかった。山が崩れ、建物は倒れて所々から火柱が上る。コンビナートからは荒れ狂うような炎が長時間にわたって吹き出す。海は、本当に陸の方に傾いてしまったかのように海水が巨大な滝となって押し寄せてくる。陸は見る見るうちにすべての建物を破壊されながら海底のように深く海水に飲み込まれる。海水が陸地を次々と襲っていく姿は、大蛇が獲物を見つけて追い掛ける姿に似ている。船も車もあらゆるものが同じ方向に流されてゆく。それを高台から見守る人々がいる。女の子はまともに見ることができずに泣いて母に抱きつく。
 巨大な波に建物が破壊される音は地響きを伴って押し寄せてくる。家の中にいた人は建物とともにたちまちに押しつぶされて流されていく。外に走って出れば道路は地割れがして揺れ動く。背後からは想像を絶する水しぶきをあげて津波が襲ってくる。空にでも飛び立って逃げたいが羽がないのでそれもできない。魚であるならばそのまま海水の中に入って泳げばよいが、もちろんできない。津波の引いた後は無傷で残った建物はどこにもない。
 被災者の人が語る恐怖は、あまりにもすさまじく虚しささえ感じる。
 地水火風という四つの大きな自然の元素とでも言えるようなものの中で、水火風はよく災害をもたらすものであるが、地は安定したものの代表的なもののように思われる。しかし四つの中で一度で最も大きな被害を及ぼすのは、さまざまに取りざたもされている巨大地震だろう。これからもさらに続いて起きる可能性が指摘されているだけに、不安は増すばかりだ。このような大災害が起きると人々の心に虚しさを感じることが多くなる。それと同時に人生の価値とはいったい何なんだろうか、という思いも一層強くなってくる。そんな精神状態の中で今日、明日を生き抜いていく力を出していかなければならない。今ほど、被災された方、一人ひとりが生命力を強くすることが必要な時はない。また、すべての人が、歴史上最大といわれる大震災に最大の物心ともの支援をするときだ。


 第七章 人材
 
 批判だけするのは簡単だ。例えば一人の人間に対して、その人の欠点を上げるのはいくらでもできるし、誰でもできる。逆にその人の良さを言うことはなかなかできない。これと同じで、世の中の批判をするのは簡単なことだ。中には、批判ばかりを書き上げて、飯を食っている週刊誌がある。これなどは社会に役立つどころか、弊害をたれ流しているにすぎない。また、テレビに出てきて盛んに批判を繰り返すコメンテーターがいるが、それじゃその人に総理大臣をやらせて国のかじ取りを任せたならば、間違いなく国は滅びるだろう。そのレベルの批判しかできないのだ。意味がある批判は、現状をさらに良くするものだ。現状を悪くするような批判は、意味がないどころか社会の足を引っ張ることになる。そういう人物は、マスコミなども本来、取り上げるべきではないのだが、日本の現状のマスコミは逆に、こういう人物に飛び付いて表に出る場を与える。いわば批判にも善悪があるといえる。
 批判の善悪を見分けるのは、非常に難しい。ただ目安として考えれば、これまでの批判の取り上げ方によって、有権者は影響され、現在の日本の政治、社会、経済状況があるということだ。一言でいえば失敗だったということだ。だから単純に考えれば、マスコミも含めて社会の指導層の部分を総入れ替えすればよい。または、国民の側もこれまでの投票における判断基準を基本的に変えればよい。誰も日本の国が衰えていくことを望んでいる者はいない。国が平和で安泰で、経済が潤い、社会が豊かになることを望んでいる。そのためには、しっかりとしたは政治哲学とでもいうべき根本の国のあり方を確立する必要がある。そしてそれを体得した議員が選出されて国政を取っていくとき、一貫性のある政治を行うことができるだろう。国にも政治家にも政治的哲学の無さが、まるで浮草のような政策や言動になり、国民から信頼をされない。そして世界から呆られるように短期間のうちにコロコロと国家元首が変わってしまう。いったい誰がこのような優れた政治哲学を保った人物なのかを、政党の宣伝文句やマスコミの無責任な風に影響をされないよう、国民がしっかりした目で見分けることがいま最も重要だろう。それがひいては、さまざまな災難や自然災害を国として未然に防止することにもなるだろう。
 大切なのは政党でもなければ内閣でもない。重要なのは人物だ。どんなに理想的で素晴らしい政治理念を掲げる政党があったとしても、実際にその理念を現実に動かして実現するのは政治家だ。政治家が無責任でいいかげんであれば、マニフェストにどれほど素晴らしいことが書かれていたとしても全く意味をなさない。すばらしい政策を掲げても、それを現実に人々のために役立てるかどうかはそれを行う人にかかっている。なにはともあれ、どの世界でも人が大切なのだ。だから国会議員を選ぶ場合も、現在のように政党政治ではなくして、まず人を選ぶようにすればよい。どこの政党でも優れた人物ばいる。逆にどこの政党でも国のためにならない政治家もいる。それであれば一度すべての政党を解体して、有権者は人物本位で政治家を選ぶ。そして当選して集まってきた議員同士が徹底して話し合ってそこで共同してできる集団を作ればよい。そうすれば十分に働きのできる政治集団が生まれるだろう。今のように政党に偏り政党を中心に政治をすれば、根本的な政治変革は難しい。
 それに対してこのような選挙は、人物中心になるので、優れた人材が選ばれるだろう。政党に依存したような、金魚のフンのような政治家はいなくなり、税金の無駄遣いを排除することにもなるだろう。
 重要なことは、国会から無為無策の議員を排除することだ。議員には三種類ある。ひとつはぜひとも議員として居てほしい人物。二つ目は居てもいなくてもいい人物。三つ目は居ては困る人物。この三種類のうち居ては困る人物はもちろん居てもいなくてもいい人物までも国会議員として居させるのは、国の発展の足を引っ張ることになる。国会の状況をよく見ていればわかることだが、国の発展のために努力しようとする議員の足を引っ張りつぶしていこうとする議員がいる。こういう議員は国の敵であるともいえる。そういう議員に共通していることは、口先ではあたかも大義名分にのっとっているようなことを言いながらも、本心は、自分や自分に関係する人間のためだけを、その利益だけを目的に行動していることだ。いわば国を我欲を満たすための方法論にしている議員だ。こんな議員を国会においているということは国の損失に直結する。有権者がしっかりとした目で候補者を確認して、国に損害を与えるような議員を選ばないことだ。まずこれが国を発展させるための基本だ。こういう議員は、自分が国に損失を与えていることに対して全く悔い改めようとはしない。反省しようという気持ちなど全くない。初めから平気で国政の邪魔をする。それに対して全く申し訳ないという気持ちも起こさなければ、外面的にはまるで正義の味方のような様子を見せている。まさに、ペテン師の代表のような人間だ。
 日本人はお人よしだともいえる。島国で育ってきたから外国から攻められて、陸上の国境線でしのぎを削るということはなかった。その分、文化の違う外国との交流は少なかった。いわば身内の者だけの社会、文化を育てたといえる。だから、古典の表現の中には婉曲表現という、あやふやなものがある。これは物事をはっきりさせてお互いが衝突しないように、という配慮がいつのまにか言葉の中に出来上がったものだとも言われている。狭い範囲の長い人間関係においてうまく保つためには、お互いに攻撃をせずに、お人よしで付き合う方がよかったのかもしれない。
 しかし現代の政治の世界はそんなお人よしで国が発展できる状況ではない。国に役立つ人物と役立たない人物、さらには邪魔な人物をはっきりと見極めて、優れた人物の集団を国会の中心に据えなければ、これからの、さまざまな大変な課題のある日本の社会を率いていくことはできない。こういう内閣がしっかりと権力や権限を掌握して、国の発展のために行使していくならば、持続的な発展が可能な社会が築かれてゆくのではあるまいか。
 また、日本人は政治にかかわることを表面的に遠慮する性質があるともいえる。裏を返せば政治の話になると意見の違いによってお互いに衝突をせざるを得なくなるのでそれを回避しようという気持ちの表れでもある。テレビ討論などにおいても、討論とは言いながら徹底してお互いの言っている内容を検証するのではなくして、相違しているところにはあまり深入りせずに、問題提起の状態で終わらせている。だから、テレビを見ている人も、どちらが正しいのか分からないままで終わってしまう。それが報道の常道のようになってくると、ますます政治に対して明確な態度を示さないことが常識な人間のような錯覚に陥ってしまう。
 考えれば、どんなに神の恵みの素晴らしさを説教しようが、仏の教えの通りに慈悲ぶかい人生を歩むように説法をしようが、その時、戦争になり集まった人々の頭上でミサイルが炸裂すれば、神や仏の素晴らしさを説いたとしても全く意味ををなさないことになる。むしろしっかりと政治に対して意識と責任を持って、戦争に対して阻止する国の政策をしてくれる人物を国政に送り出すことが大切だろう。自己満足の、我田引水的な生き方で、政治に対してかかわることを否定的に考えるのは日本的というよりもむしろ幼児的と言わざるを得ない。日本の国に住んでいる以上、誰も日本の政治に対して責任を持つべきであり、それが国民の義務であることは言うまでもない。したがって宗教者であろうがどのような立場だろうが、積極的に政治に対してモノを言い、政治家に対して働きかけていくことが大切だ。
 これまでの日本の政治状況を見るとき、国民に時期をもたらすような政策をするものを引きずり下ろし、政界からは消そうとする働きが出ている場合がある。表には出てこないが、醜い権力闘争は、政治につきもののごとく続いている。国民はしっかりとこのことを見ておく必要がある。誰が真に国民のための政治を行おうとしているのか、誰が権力を利用して我欲を満たすための策動をしているのか。正確に見抜いて次の選挙の時には足を引っ張る駅員を決して当選させないことだ。また、マスコミは有権者が、正確な判断ができるような情報を十分に出すことが重要になる。偏向したものや客観性にかけた情報をテレビで垂れ流しをすることは、ひいては国益を損することにつながる。優秀な議員を国会に集めるという流れを一時的ではなくして、継続的に日本の政治の伝統にまで築き上げることができたなら、日本の国も大きく変わるだろう。
 何はともあれ、優れた人物をマスコミなどが総動員して見つけ出すことだ。そして議員として送り出す。議員には、「なりたい人間ではなくして、なってほしい人間」を選びたい。テレビ局が特集などを組んで、「議員になってほしい人を特集」とでも言えるような長寿番組を立ち上げて放映すれば、興味深く有権者も見ることができる。今は国を挙げて国のためになる人材を見つけ育てていく時代に入ったような気がする。
 こうしてしっかりとした国の体制が出来上がったならば、今回のような大震災に対しても、これほど右往左往して実際に困ってる人を支援することにつながらないことなどには決してならないだろう。これほど被災地で苦しんでいるのに、国の中枢が、的外れな議論や策を弄している姿は、危機管理の意識がないというよりも、人間的に人々のために尽くすという政治家の資質に欠けていると言わざるを得ない。

 大きな震災があると、人生を考えてしまう。この世の中というのは、ずいぶん暮らしにくく、人の世のはかなさと家など財産といわれるものの頼りなさもしみじみと感じられる。さまざまな人生の中でそれぞれの立場で、色々と心労が絶えないのが現実だ。ひとつひとつ挙げていけばきりがないほどだ。
 自分が大したものではないような人間だと思うと、景気のいい人間のそばに行くと気が引けて、大変うれしいことがあってもあまり表に出して心から笑うことも楽しむこともできない。また、つらく悲しいことがあっても、大声をあげて泣くこともできない。毎日の生活の言動は、気兼ねして、自由に振る舞うことができない。そんな親の心の状態を敏感に感じて子供たちも、何かいつも遠慮して怖がっているようで、喜怒哀楽をあまり現さずに、口数も少なくなってしまう。親から見てももっと子供らしく元気にはつらつと笑わせたりしゃべらせたりさせたいと思うほどだ。
 経済的に厳しくて、大きな立派な家など購入できない人が、自分の家よりもはるかに立派な家のそばに住んでいると、毎日、自分の貧しい経済状況を負い目に感じて、心では反発を感じながらも、表面的にはその家の人に対して媚びへつらうような態度になってってしまって、我が家に出入りをする。そして妻や子がその家のことをうらやましいと思っているのを感じるにつけても、また、その家の家人が自分たち一家のことを軽蔑してように言ったの、誰かから聞くにつけても、心はいつも動揺して、少しの間も安らかな気持ちになれない。
 もしまた、便利な所ということで人の多い家の建て込んだ街中に住んでいると、近所で火事が起こったりすると類焼をされる恐れが十分にあって、寝るときも気が休まらない。そうかと言って土地の広い郊外に住めば、買い物に行ったり、病気になった時に病院に行くのにも時間がかかり不便で仕方がない。
 また、金もうけがうまくて景気のよい者は、欲が深く、人間として付き合うのに楽しくはない。かといって、人間嫌いになって孤独に生活すれば、自分自身が侘しくなるし、他人から見ても変わり者のように思われて軽く見られる。お金がたくさんあれば、騙されて失うことはないだろうか、利殖を上げる方法はないだろうかとさまざまに心ないます。日々の生活に困るような貧しい生活ではひたすら我が身の運命の悪さを嘆きながら暮らさなければいけない。人に頼って生きれば、その人のしもべのようにならなければいけないことを恐れるし、誰かの面倒みると、ついつい格好をつけてしまい無理にでも助けてやろうと思って自分を犠牲にしてしまう。
 人口が少なく、人の出入りもあまりない田舎では、地域の習慣に従ってうまくやっていこうとすると自分の身が束縛されるように自由がなくなって息苦しい思いをする。そうかといって長年培ってきたその地の慣習に従わなければ、変人のように思われて仲間はずれにされる。
 一体全体、どんなところに家を構えて、周囲の人々とどのような関係で生活をすれば、少しの間でも安心できる日々になるのだろうか。
 故郷の田舎の生活が素晴らしいことを否定するわけではない。だが、人間関係が狭い上に長く続くだけに、一度こじれるとなかなか修復ができない。悪くすると一生涯、悪いレッテルを張られることもある。また、表立っては、皆で仲良くやっているようでも、心の中ではお互いに反目し合っている場合も多い。田舎暮らしはいいが、閉塞された人間関係は耐えられない、と言う人も多い。物事はなくなれば懐かしく美しく思い出す。「ふるさとは遠きにあり、思ふもの」と室生犀星が言ったのも一理ある。
 今回の震災で故郷が壊滅状態になった人が数限りなくいる。故郷の素晴らしく懐かしい思い出は、生涯の財産として心にしまっておきたい。ただ、現実はがれきが積み重なっている無残な状態だ。美しい思い出は思い出として、その現状を受け入れて、新しく出発をしたい。誰でもいつかは故郷は思い出の世界になってしまう。悲しいけれどもそれが少し早く来てしまった。
 人間にはさまざまな執着心がある。人はその執着心によって悩みが出てきているともいえる。よく考えると、その執着しているものは、無常を免れないはかないものであるともいえる。はかないものにいつまでも執着するのではなく、現実に、今を、明日を、未来をしっかりと大地を踏みしめるように進んで行きたい。


 第八章 民主主義の土壌

 良い社会を作ろうと思えば良い土壌が必要だ。同じ民主主義の制度が出来上がっていたとしても、そこにいる一人ひとりが独立してしっかりとした民主主義の意識がなければ、民主主義は衆愚政治になるということはよく言われることだ。民主主義の制度を生かすためにはそうすることのできるだけの見識を持った人が集まらなければ、制度の良さは発揮できない。
 いくら選挙制度が確立していたとしても、有権者の意識が低ければ真の民主主義とはなりえない。日本の国政選挙の投票率が五十%割れというのは、いかに有権者が社会的な存在として無責任であるかを表している。血のにじむような犠牲と努力によって、先人が勝ち取ってくれた権利を、それに対する感謝もなくいいかげんに対応している。投票率の低さには、政治への失望感や怒りから棄権する人もいるのも確かだ。しかし現実は、多くの棄権者は、投票よりも遊びや個人の好みの方を優先をしている。
 危ういことは、こういう無党派、無関心層が、マスコミ、特にテレビの影響によって作られた風に吹かれて投票行動をすることだ。今回の政権交代劇はその象徴といえる。結果はだれが見てもわかる通りだ。その責任を背負うべきは、風に吹かれて無責任な投票をした有権者も当然負うべきだ。現政権を罵倒すると同じくらいにその政権を選んだ人も総括されることが必要だ。政権交代によって国に莫大な損害を与えたとしたら、その政党に投票した人が国に損害を与えたことになる。現政権ばかりを批判して、現在のような状況にさせた有権者の認識とレベルの低さが批判されないのはおかしい。
 世界の多くの国には、この選挙権を得るために、血で血をを争うようなすさまじい闘争の上に権利を勝ち取っているところがある。それを考えれば、日本の有権者の無責任といい加減さは、恥ずかしいとしか言いようがない。議員にしろ、政党にしろ、マスコミにしろ、有権者を批判すれば、そのトバッチリは我が身に来ることを知っているから誰もしない。ここにも打算的な考え方がうかがわれる。はっきり言えばいいのだ。日本の国が傾きかけるようになった原因は、その政権に一票を投じた有権者のミスである、と。無責任な有権者がいくら多く集まって民主主義を築くといっても、所詮は、無責任な政治、社会、国しかできないだろう。だから、現在の政権が後退したとしても、有権者の良識が低い限り、またぞろ同じことを繰り返すしかないだろう。
 今回のような国の存亡にかかるような大災害の時に、さまざまなものの本質が表面に出てきて分かる。果たして真に住民のことを考え、現に今、困っていることに対して救援の手を具体的に差し伸べているのは誰なのか。震災とその後の復興の中で必ず明確にする必要がある。どこの政党が、どの議員が、どの団体が、口先だけでもパフォーマンスだけでもなく、現実に組織を効率的に動かして成果を上げているのかをしっかりと見定めておかなければいけない。そしてその事実を、内輪だけでしまっているのではなくして、広く全国に明確に発信をする必要がある。その手助けとなるのがマスコミだろう。ところがいまのマスコミの報道姿勢を見ていると、当たり障りのないところばかりを流して、あるいは皆が批判するようなところばかりを批判して無難な報道をしている。こういう時こそ、国民の前にさまざまな人物、団体の功罪を明確に報道するべきだろう。そうすれば、国民は次の選挙の時にその正しい判断を生かすことができて、表面的なパフォーマンスにだまされることがなく、的確な選択はできる。それが結果的には、新しい国づくりに結びついていく。
 東日本大震災は、未曾有の被害を受けたけれども、そこから結果的に未曾有の日本の発展ができたと言えるようにしなければ、あまりにも犠牲が多すぎる。特に原発問題については、実は日本のノドに刺さったトゲであることがはっきりした。いや、世界の原発を持つ国のトゲであることも明らかになりつつある。世界が、日本の原発事故の処理をどうするかをかたずを飲んでみているという状況だ。
 原発は、一株式会社の東京電力が建設したものではない。もちろん、国が重要な部分で後ろ盾になったからこそ出来たものだ。そういう背景にからすれば言うまでもなく原発事故は東電の責任であると同時に、国の責任でもある。多くの住民の方が、「安全だと言ってだまされた」と言っているのみても、国の責任は重い。もう一度、建設時の資料を基に、だれがどのように安全だと言って「だました」のか検証しなければならない。無責任なその場限りの言っぱなしで終わらせてはならない。発言の責任を追及することが大切だ。そうしなければ、軽くて薄っぺらな政治家や評論家がのさばり、ひいては国の損失に連なっていく。こういう時こそ、マスコミが建設当時のさまざまな記録ビデオを放映して、どのような言い方でどのような約束をしてどのような確認をしたのかを再度、明らかにすることが、視聴者にとっては非常に参考になる。
 放射能の被害に対する報道を見ていると、原発を建設する時と同じような過ちを繰り返しているように思える。もちろんパニックにならないようにすることは大事だ。しかし正確な被害の予想を知らせることが将来においてもっとも大切だ。だれでもテレビの報道を見ながら違和感を感じるのは、今回の事故が起こる前に何度か原発での事故の報道がなされた。その時にはほんのわずかの放射能が外部に出るかもしれないというだけで、各マスコミは大騒ぎをした。結果的には放射能漏れはなかったのだが、大々的な報道であった。それと比較して今回の原発事故の報道は、異常としか言いようのないほど放射能漏れの恐ろしさを声高に言わない。また、テレビなどに登場する専門家といわれる人物も、安心と安全を強調するためだけに登場している人がほとんどだ。本当にそうなのか、もしもこの後、年数が経るにつれて癌などの病気が多くの人々に出てきたとき、どのように言い訳するのか。その時にはまた手前勝手な言い訳をしてごまかそうとするに違いない。自分の身を守るためには自分で判断するしかない。視聴者はこういう思いを少なからず持っている。だからこそ買い占めにも走ることになるのだ。放射能は、規制値の何倍、と言いながら、その規制値の決め方に問題があった、と付け加えている。スピード違反を犯した人間が、制限スピードの数値に問題があったと言っているようなものだった。もし今回の事故が起きずに、軽い事故で制限値血を超える数値の放射能が屋外に出たとしたならば、現在の報道の内容とは全く別のものになってしまうだろう。また、以前のチェルノブイリ原発事故の報道番組では、周辺住民の非常に多くの健康被害を大々的に報道していたが、今回の事故があってからのチェルノブイリ原発事故をによる被曝の被害は、わずかに原発に近かった子供たちの甲状腺癌だけだと強調している。こういうことを視聴者はわかっているからこそ、東電や政府の発表に対して不信感を持っているのだ。
 簡単に考えてもは原子炉内で起こる核反応によってできるセシウム百三十七の半減期は約三十年だ。チェルノブイリ原発事故でも分かるように数十年間の、数十キロにわたる立ち入り禁止の状況になる可能性もある。アスベスト被害が何十年もたってから社会問題化してきていることをしっかりと学習しなければいけない。当座だけの行き当たりばったりの、ご都合主義の報道や解説をしてごまかせば、特に放射能が問題であるだけに長年にわたって苦しむ人々を作り出していく可能性は十分にあるのだから、国としてしっかりとした指導性を発揮して、後々に悔いを残さないようにしなければならないのは当然すぎるほど当然のことだ。
 
 避難指示が出ている区域で、自宅が津波に流され跡形もなくなった後にがれきの中から廃材を拾ってきて簡単な雨露をしのぐだけの小屋を立てて生活している老人がいる。役場の職員が、何度も非難するように勧めているようだが、本人はその小屋の方が気に言っていると見えて避難所にはいかない。職員も、その気持ちが分かってか、軽く非難を勧める程度にしかしていないようだ。放射能の測定はしていなかったが、何日も数住み続けると、受ける放射能の線量は健康を害する可能性があるかもしれない。放射線を浴びることについては、「もう八十歳なのだから、被曝の被害が出てくるまでには寿命をまっとうするさ」等でも言いたげな風貌だった。
 その場所は津波に襲われてはいたが、少し高台になっていて、がれきの広がる被災地を見渡すことができる。もちろん電気も水道も使えない。家族が避難所で生活をしていて、食べ物や水その他、生活に必要な品物はわずかずつだが届けに来ている。家族は実に心配そうだ。
 小屋の前には、石を組んでかまどを作っている。燃えるものはいくらでもある。老人はいろいろな道具などは、途方もなく続いているがれきの山の中から見つけている。なべやかまといったようなものもいくらでも見つけられるようだ。火を燃やし、水を沸かしてお茶を入れたり、吹物を作ったりして家族が持ってきてくれた食料を食べている。夜は一人で毛布の中にくるまって寝ているが、特に不安そうにもしていない。ただ、もし同じような津波が来れば、間違いなくその場所は波にを襲われる所だ。津波や放射能の危険があるにもかかわらず、老人は落ち着いて生活している。その姿からすると、老人はこの地で生まれこの地で育ったのではないかという気がする。
 テレビに映し出されるその老人は、年齢は八十前後のように見える。口元に笑みをたたえているように見えるのが不思議だ。今の生活を楽しんでいるようにも思える。これまでの人生を振り返りながら、過去と現在を交錯させながら生活しているようだ。おそらくこれまでの人生の中には、さまざまな心を悩ませることはあっただろう。時には、自分の運命の悪さも嘆きながら、それでも生きてきたかもしれない。食料を持ってきてくれる家族の中には、奥さんや娘さんもいたので、結婚して一家の柱として子供も育て、妻とも共に生きてきたのだろう。そしてこの場所に家族が楽しく住める家を構えた。
 大震災がなければ、予定通りの人生で満足して終えることができただろう。しかし、津波はこの老人一家の運命を大きく変えた。これまで生きてきた、働いてきた褒美としてもらうべき老後の人生が、完全に破壊され尽くした。誰かを恨もうにも、恨む相手が見当たらない。老人は、こんな津波がごときもので、これまで積み上げてきた自分の人生が、無にされてたまるかと思っているようだ。自宅の跡地に小屋を立てて住み着くのは、心の中で、津波が来ようが俺の老後は変えられないぞ、と大自然に向かって怒鳴っているようだ。口元に浮かんでいる笑みは、戦いに勝ったと満足を表しているのではないか。老人の姿からどことなくうれしそうな、楽しそうな、満足感のようなものが感じられるのは、その故のように思われる。
 人間にとって、安住の地はいったいどこにあるのか。セキュリティーの整った都会の豪邸に生活していても、四六時中不安に駆られながら憔悴して生活している人も多い。また、狭い二DKに祖父母、親子が重なりあうようにして生活しているにもかかわらず、明るい家族の愛情にあふれた食卓の笑い声が絶えない家庭もある。安住の場所であるのかどうか、外形から判断できるものではない。安住の地にするかしないかは、ひとえに、そこで生活している人の心の中の状態であるに違いない。とすれば、被災地での外面的には非常に困難な生活を余儀なくされている人々に、せめてもの内面の安住の地を味わってもらえるように、心の支援にも力を入れなければいけないだろう。


 第九章 人心の衰退
  
 マスコミにはさまざまな人物が登場し、それぞれが自分の考え方の正しさを主張する。特に政治に関する人は、全く反対の立場の人がそれぞれたくさんいる。それぞれが騒がしいほどに自分の立場の正当性を強調する。あまりにも多くの立場の意見がありすぎて、誰が正当な意見なのかは判断がしづらい。その時の一番の目安は、自分のことや自分の属している団体や政党のためではなくして、一人の国民の幸せを真に目的と考えているかどうかにある。政治家の中には若いころからお祭りが好きで、何かあると大騒ぎをするのが楽しみだという者がいる。こういう政治家は、国民のためと言いながらも実際には人前に出てお祭り騒ぎをするのが好きなだけの性格だ。自分の好きなことをやるのに、国民のためという大義名分を作ってそれを隠したり、正当化して行動したり言ったりしているにすぎない。また中には、自分の立ち場が変わると、例えば、大臣になるとか、野党から与党になるとか、とするとあきれるほど言う事を変えてしまう政治家がいる。こういう政治家は全く信用できない。なぜなら立場が変わることによってコロコロと言う事が変わるのであれば、投票した国民の思いがかなうわけがないからだ。
 多くの政治家がいる中で、だれが信頼できる人間なのかということを判断する場合、大変有効な方法は、客観的に正当な人物や団体や出来事に対して、その人間が一貫してどのように評価しているかということを調べると間違うことが少ない。当然ながら、その政治家が正当なものに対して評価する内容がコロコロと変わっているようであれば、信頼に値しない人物であるといえる。やはり、政治家を評価する場合、その政治家を映し出す鏡がなければ本当の姿が見えにくい。その鏡に当たるのが正当な人物や団体や出来事だ。これを判断基準にして政治家の言うことを過去にまでさかのぼって調べていけばその人間の本質は案外簡単に知ることができる。間違っても、一時のマスコミによって作られた風に乗って出てくる候補者に惑わされてはならない。最近の投票傾向として、気に入った政党であれば、人物はどのようなものでもよい、というような状況がある。これは、現在の政治状況を見れば、無責任極まりない有権者の判断方法であることが証明されている。
 大切なことは、優れた人物を選ぶことと同時に、国民の指導者として不適格な人物を政治の世界に入れないことだ。言うまでもなく、劣悪な政治家が大手を振って多数を占めるような政治状況をつくると、社会、経済、教育、等々すべてに非常に大きな代償を伴うひずみを発生させることになる。その上、大災害と言われるような天災を、結果的に人災にしてしまうような状況になってしまう。東日本大震災は、現状をみると、無能な政治家による人災に近い形をとりつつあるのが分かるだろう。原発を最終的に安全なものとして建設を許可したのは国や、当時の政治家にほかならない。
 国の発展、国民の幸せは、個々人の努力や、それぞれの会社の企業努力はあるが、それ大きく守り伸ばしていくのは政治を置いて他にはない。日常生活は、九十%以上は政治に何らかの形でかかわっているともいえる。政治に関係ないのは心の問題だけだと言えないこともない。いくら一人で山にこもった生活をしたとしても、国や地方の政治の枠内から逃れられるものではないのは当然だ。
 平和で安穏な生活の土台を確実にするためには、それができる力のある人物、団体を選出しなければならない。そうすれば国民一人ひとりの幸福の積み重ねの上に、国全体の発展がなされる。国民を犠牲にした国の発展というのは虚像であり、ごまかしだ。国民の幸せと国家の繁栄とがしっかりと結びついた政治をすることによって、自国に住むことに幸福度を高く感じることのできる。
 近年のさまざまな異常気象による災害は、これまでにない観測史上初ということが多く出てきている。また、政治はもとより、経済状況も未だかつてない厳しい状況にある。失業率は高い状態が続いているし、学校の新卒者の就職さえままならない状態が続いている。この十年間を見ても、日本の国は衰退の方向に入っている。まして、世界で最初の高齢国を宿命として受け入れなければならない状況にある。
 その中で、日本の伝統的なよい文化も廃れる傾向にある。世界で最も少子高齢化の国になると言いながら、名前だけの高齢者も多くいることが分かった。中には、死亡届を出さずに親の遺体を隠して年金をもらい続けていた子供もいた。伝統的な日本の家族の情愛からすれば考えられないことだ。
 また、日本のこれまで行ってきた教育の欠陥も明らかになってきている。数年に一回、先進国の高校生を対象に行われるアンケートがある。その中の項目で、周囲の人に気を使わずに携帯電話を使う割合が最も高いのは日本の高校生だ。そして親に対する感謝の気持ちが最も少ないのも日本の高校生という結果だ。「他人に迷惑をかけなければ好きなことをしてもよい」という誤った権利欲ばかりが鋭くなった人間が多くなった。「他人に迷惑をかけない」という基準が、実は自分に都合のよい基準であって、実際には他人にとっては大迷惑なのだが、本人は迷惑をかけずに自由にしていると思っている。こういう考え方や感覚を持った者が時代相として定着しつつある。

 国や政治が乱れるときは、その前兆として思想や文化がまず乱れるのは中国の楊貴妃の時代の例を出すまでもなくよくあることだ。国の中枢部分から腐敗堕落が進んでいくことももちろんあるが、国民全体の思想的惰弱さが、国家の頼りなさにつながることも事実だ。
 相手国が頼りないと分かれば、必ず周辺国はその国へ侵略的行為を行う。これもまた歴史の常套だ。北朝鮮、韓国、中国、ロシアと国境線でしのぎを削ったり、ミサイルの発射実験をしたりとさまざまな警戒すべき状況が出てきている。これは周辺国が悪いというよりもむしろわが国の国力の低下、なかんずく内閣の頼りなさがそうさせている。
 現在の日本の有権者の意識は、一時的にマスコミで騒いで風が吹くと調子に乗ったように政治意識が高まり、一時的に投票率が驚くほど伸びたりする。ところがしばらくするとまるで火が消えたように政治に対しては無関心になる。平素日常から、常に政治を監視する意識をしっかりと国民が持っていない国は、政治家を堕落させると同時に、国を衰微させることになる。国が衰微すれば、経済状況も悪化し現在のような若者の就職先も思うにまかせず、中高年の失業者が増えるというような状況になってくる。結果的にはしっかりとした考え方で政治家を選び、またはその後も政治を監視していかなかったがゆえのしっぺ返しにほかならない。
 個人の幸せを求めるのであればまず社会の安定と発展を考える必要がある。個人の、社会の中に置かれている義務と責任をもっと自覚する必要がある。誤った軽薄な自由意識と、ご都合主義の人権意識は、政治に対する目も曇らせ、国家を後退させる指導者を選ぶことになるだろう。
 自己中心的な見識のない有権者が、自己中心的な見識のない政治家を当選させるならば、その政治家が好んで呼び集める人間もまた同類になる。そうすると国全体が不見識きわまりない指導者で満たされ、不見識きわまりない政治をすることになる。これほど国民にとって不幸なことはない。個人の努力も会社の努力も報われずに悪戦苦闘をしなければならない世の中になってしまう。自らが選んだ政治家によって苦しみの綱にからめられ、長い間、無為無策という悪夢のような網にひっかかってしまうことになる。無駄な苦しみに、一度しかない青春を、人生を浪費しなければならないことは、不幸そのものだ。
 いま若者が、厳しい就職事情の中で、政治状況が、選挙というものが、直接自分の人生に大きな影響を与えるものだということを自覚し始めている。言うまでもなく次の社会は若者に背負って立ってもらうしかない。その若者が、マイナス面からの意識の変革ではあったが、真によい国をつくるためにはだれを、どこを選んだらよいのかという意識をしっかりと持とうとしているところにはは大きな希望がある。優れた政治家によって、優れた国家が建設されていくならば、そして政治に対して常に意識を持っている若者がいるならば、日本の国は永続的な発展の道を進むことができるだろう。

 住居は、自分の心に沿ったものが一番よい。
 体が元気に動く間は悔いのないように働き、命の露が消えそうになった時には、あの世に行くまでの老後を送るためにゆっくりと落ち着いて生活できる小さな住居を作りたい。言ってみれば旅人が一夜の宿のために作るような家であり、年老いた蚕が繭を作ってを自分のついのすみかとするようなものだ。このようなた家は大きくない方がいい。また部屋もあまり広くない方がよい。年を重ねると本当に一年一年が早く過ぎ去って、今にも死期が近づいてきそうな気がする。こういう気持ちにぴったりの家は、小さな庵のようなものが良い。それも、そんなに頑丈に作る必要もない。残りのわずかの年月に絶えられればよいのだ。無理なお金をかけて作ることなど考えたくない。住居のことでいろいろと悩んだりすることもやめたい。もし引っ越しをするようなことになったとしても、家具なども片手で持てる程度のものにしておいて、簡単にいつでもどこにでも引っ越し費用もかからずに行けるようにする。
 できれば故郷の近くの山あいがよい。東側にはひさしをつけてかまどを置き、炊事ができるようにする。炊事にはガスなどを使いたくない。薪がよい、炭がよい。南側には縁台を出して夏の暑い夕方などにはゆっくりと寝そべりながら涼みたい。前の庭は家の土地との境もなく裾野の方へとつながっている。同じように裏も山へと連なっている。部屋の中には簡単な寝床を作り、気が向けは布団を上げるし、気が向かなければ敷いたままにしている。誰か来たとしてもそんなことに気をつかうような気持ちは全くない。真ん中には小さなちゃぶ台を置く。この上でさまざまな手作業は全部やる。西の壁には適当な棚を作る。そこには小さなCDラジオでも置いておく。気が向けば好きなナツメロのCDを聴く。窓を開け放って音を出したとしても誰に気兼ねすることもない。部屋の中の音楽を聴きながら庭でまき割りなどもできる。CDに飽きればAMラジオを聴く。AM放送の音は、子供のころから聞いていた懐かしい音質だ。その音を聞くと、夕食を一緒に食べながらラジオを聞いた父親や母親を感じることができる。年を取れば取るほど、どういう訳か、ずいぶん以前に亡くなった両親が、身近に感じられるようになってくる。暗くなれば寝て、明るくなれば起きればよい。寝るのも起きるのも自然のままで、全く苦痛にはならない。
 裏山からはわずかな量だが、岩水が湧き出し流れている。それに竹で作った樋を添えて、甕の中に水をためる。裏山に登るまでもなく周囲にはいたるところに枯れ枝や枯れ葉がたくさんある。それらを集めれば、すぐに一日分の燃料になる。何年暮らしたとしても、枯れ枝は次々と落ちてきて、無くなることはないように思える。裏山は奥深くまで続いているが、縁側の方は前方が開けてなだらかに谷間が眺められる。
 春には近くの山から遠くの山まであちらこちらに藤の花が波打っているように咲いているのが見える。夕暮れ時などになるとまるで紫の雲が山肌にたゆとうているようだ。夏はホトトギスの鳴き声をよく聞く。まるで、幸せにあの世へ導いてくれるような美しい声の響きだ。秋にはヒグラシの声が周囲の木々からもの悲しく一面に聞こえてくる。蝉の一生ははかない。地上に出てからの期間は短かすぎる。ヒグラシの声は、短い人生を共有できるような同情心を起こさせる。この世は空蝉のごとくはかないものなのかもしれない。冬は懐かしく雪を見る。なぜか雪を見ると心が澄んでくるような気がして、体も軽くなる。
 特に何かを決めてやることもない。横になりたければ横になる。だれもいないから気兼ねをする必要もない。また、しゃべることもないので言葉に気をつけることもない。
 海が見たくなった時には、隣の山すそに行けばなだらかな山肌の先に青い海が見える。海は百年二百年で変わることはない。それに比べれば人間の生涯などは、一つの波が打ち寄せて返すくらいの時の流れかもしれない。海は永遠に続いている。それを思うとき、生きている時は自然の中に生きて、死ぬときも自然の中に死んでゆく人間の命はたとえどのような生き方と、死に方をしようが、それはそれであるがままの姿なのだという気持ちがする。
 自然は、素晴らしい音楽をいつも奏でている。木の枝を吹き抜ける風の音にはいつも驚かされる。まるで生き物のようにその時その時によって音の風情が違う。特に高い松の梢を吹く秋風は、時の流れの永遠であること感じさせる。耳を傾ければ自分の命が風に乗って山々を、果てには宇宙のかなたにまで運ばれていきそうな気がする。
 静かな夜には、窓から差し込んでくる月を眺めながら、これまで生きてきた自分の人生を懐かしく振り返り、思い出を刻んだ人々に思いを馳せる。どこからか聞こえてくる獣の声に、懐かしさがさらに深まってゆく。草むらからはさまざまな虫の声がする。幼いころは姉に連れられて、なすびをくり抜いた中にローソクを立てた明かりで、虫を捕ったことを思い出す。ローソクの揺れる明かりとそこに飛び込んでくる虫の姿は、あの世での幸せな遊びのようにも思える。
 夜明け方の雨の音は、実際に降っている雨の量以上の音がして、まるで木の葉を吹き抜ける嵐の音にも似ている。やがて明るくなると、山鳩がホーホーと鳴くのが聞こえる。ふと、優しい父の声や、母の声の響きを感じ、声の方を振り返ってみるが、鳥の姿も見えない。まるでこの世とあの世との間で生活しているような不思議な気持ちになる。
 こんな生活を思い描きながら生きて行くと、生と死は表裏一体のものであるように思われてくる。できれば、生も感動、死も感動、と言えるような生涯にしたくなってくる。
 

 第十章 人生
  
 政治と自然災害の関係は、近くは、災害の前後の、建物の建築許可や復興支援などに密接に関係している。遠くは、長い人類の歴史の中で、どのように自然にかかわってきたのかが根源的な課題としてある。特に今回の東日本大震災では、直接の災害とともに、そこから発生した原発事故という人災によって、長く塗炭の苦しみを味わう人々を広い範囲で非常に多く出すことになってしまった。原発事故は、人災と天災の区別をすることは意味のないことを教えている。そうすればなおさら、社会の指導者層に立つべき人間の資質が、災害の被害の大小に大きくかかわってゆくことが分かる。
 この大震災を契機に、有権者は災害などが起きたときに、本当に住民のことを考えて働いてくれるのは誰なのかということをしっかりとわきまえて投票行動をする必要があることを身にしみて分かった。それは災害時に限ったことではなくて、その政治家の口先だけやパフォーマンスに惑わされずに本質として国民の幸せをすべての中心に据えるという人物を選出することがもっとも大切だ。現在は、有権者には、マスコミや政治の宣伝用のパンフレットなどに惑わされずに人間を見抜く目をを持つことが必要になってきた。それが自分自身の社会的な満足への道であり、同時に国の発展をもたらすことにもなる。そろそろ、国民自身が目を覚まさなければならないのではないだろうか。そして、政治はだれがやっても同じだという無関心、無党派の人々もその無責任な心が自分自身の生活にもまた国全体のあり方にも、マイナスに働くと自覚して、積極的に政治にかかわるという意識を持たなければならないだろう。
 これまでの多くの国民の投票行動は、もちろん、国を良くしたいという気持ちから選択はしたのだったが、残念ながら、国に、また国民一人ひとりに、多大な損失をもたらすものとなった。世界には、日本と同じような経済状況のなから、見事に発展させた国がある。その国の指導的立場の人が、日本の現状を理解したうえで言った言葉は、「やろうとしている具体的な方策、方向性はほとんどわが国と同じです。ただ違うのは、それをを実行する人間が、実際に実現できる人間であるのか、できない人間であるのかの違いだけです」と言っていたのが印象に残っている。所詮最も大切なのは人だ。だれでも戦争を望んでいない。だれでも国が衰退することを望んでいない。だれでも自分も幸福になり他の人も幸福になり、そして国全体も発展することを望んでいる。そのためには日常的に、自分を取り巻く人々、さらに地域社会、そして国に対して、大いに発言をすることだろう。日本語の婉曲表現のように、人間関係の中に波風を立てないようにしようという時代はすでに終わったように思う。大いに政治についても経済についても文化についても意見を出し合う風潮を国民の中に作り上げていく中に新しい時代の日本の出発ができるのではないだろうか。

 長く生きて来ると、小難しい人生論や哲学などを勉強しなくても、人生とは何か、社会とは何か、国とは何か、といったような物事が自然と分かってくるような気がするのは面白い。仕事の現役時代、仕事の成果を上げるために必死に頑張った。それによって出世することにも期待した。また、周囲の同僚たちの手前、よい格好を見せたい気持ちもあった。何より、他の同僚たちに負けないように頑張った。今、定年になって、あの頃の事を振り返ってみると、ずいぶんつまらないことで力んだものだと思う。同じく定年になった同僚と会って話をすると思いは一緒だ。現役時代に、意地を張って必死になってやったことは、人生を豊かにさせることとは関係のないことだった。本当に豊かな人生を送るためには、もっと別なことに力を入れるべきだったことが実感される。
 職場の先輩には、亡くなった人も多くなってきた。同僚でさえも少しながら亡くなった人も早や出てきている。その方たちの葬儀には必ず参列させてもらっている。葬儀に出席して、思うことは同じだ。定年なって数年たってから亡くなると、職場関係の参加者は、ずいぶん減る。いったい、あれだけ一生懸命になって共に仕事をしてきた時のお互いの強い結び付きというのは、何だったのだろうかと思う。当然といえば当然かもしれないが、仕事上の付き合いであっただけだった。必死になって共に仕事をしてきたことが、空振りをしたような虚しさを感じる。
 また、必死になって財産を残した人もいるが、病気がちで入退院を繰り返したりして、苦しんでいる姿を見ると、金や財産などといったものは幸福な人生とはほとんど無関係であるのを感じる。金や財産は人生の悩みを解決することにはならないし、あればあったで、逆に悩みが増えることは、資産家の実感しているところだ。年に何回か資産を作り上げた方に会いに行く。会う毎に衰弱して小さくなっていく姿に接すると、金や財産のために大切な人生の多くの時間を費やしてしまうことなどは、ずいぶん損なことであるということがしみじみと感じられる。人の幸不幸は、いったい何で決まるのかをしっかりと押さえてうえで若いころから人生を歩まねば取り返しがつかない生涯になると思える。出世や大きな家に住むことや小遣いを多くすることのために日々を費やすことが、どれほど無駄なことであるのかが分かってきたような気がする。
 特に見栄のために、大変な無理をして大きな家を購入するなどということは、気の毒なほど愚かとしか言いようがない。同僚の中には、バブル期に一億近い金額の自宅を購入して、その後バブルがはじけて、三分の一程度の値打ちしかなくなくなった人いる。同時期に、給料も減り始めた。定年間際まで、ご夫婦で、ローンの返済に苦労をしていた。その方は人生の最も元気のよい大切な時期を、ひたすら高額のローン返済のために小遣いも極端に減らしてつらい日々を送らなければならなかった。一度しかない人生をそんなことに、すり減らして果たして死に際に納得できるだろうか。家は不動産というが逆に動産なのだった。
 自宅は、広い必要などない。寝床があって、家族が不便なく立ち居振る舞いができればそれでいいではないか。ヤドカリは、小さな貝殻を好んでその中に入り、それをわが家とする。これはヤドカリが自分の幸せとはどのようなものかしっかりとわきまえているからだ。カモメは海のそばに住んでいる。それは腹を満たしてくれる魚がいることを知っているからだ。決してもっと高い山を目指して飛び立ちはしない。これもまた我が身の幸せを分に応じて知っているからだ。
 人生を知り、世の中のことを知れば、立身出世を望んで、資産家になること目標にしてあくせく生きてゆくことよりも、本当の満足のいく幸福な人生を心がけて日々を過ごす方が、どれほど素晴らしいことだろうか。
 ふと考えれば、幸福感というのは、だれかと比較して感じられれるものではないか。金をためてやっと小さいながらも車を買うことができたときは車を持たない者に比べて幸せを感じるだろう。ところがその車よりも大きくて立派な車を持っている人間に出合ったとき、幸福感は消えて、劣等感に悩まされるだろう。それで無理をして相手の車よりももっと高価な立派な車を購入すると、優越感に浸れて幸福を感じるだろう。ところがそれ以上の高級外車に乗っている人に出くわすと、また不幸を感じてしまう。もちろんそれぞれの感情はこれほど単純なものではないのは分かっている。しかし、幸福感というものが、相対的なはものの上に成り立っていることが分かる。他人と比較して優越感を伴う時に幸福感を感じることが多いのも事実だ。とかく人間は、見栄のために人生をすり減らして使う。考えれば実体のない幻のために自分の人生を捨てているようなものだ。そんな虚しい幸福感を求めてあくせくと働いて人生を終えるとしたならば、何とつまらない人生であることか。人は幸福を求めて生きることは確かだ。ただ、その幸福の中身をしっかりと検証して、本当の充実した幸福感を得られるのかどうかを見極めて人生を生きなければならない。
 人間関係についても同じようなことが言える。職場においては、役職の上下でものをいう。不景気になって会社が倒産して新しく入社した中高年の社員は、年下の上司から指示をされる。中には生意気な若い上司が自分の親くらいの年齢の部下に対して横柄な態度で命令をするような者もいる。職場とは関係ない人間関係においては、相手が金持ちであるかどうかで関係性を決める場合が多い。それに応じた態度や言葉遣いが出てくるのは、こっけいなほどだ。それに乗っている車の価格によって相手の人間を判断する場合も多い。そんな軽薄なことがあるだろうかと思うかもしれないが、実際にはをよくあることだ。軽く見られたらいけないということで無理をして高級車を買うという者も少なくない。
 相手に対する率直な愛情と尊敬の念に従って、つきあうのが本来の人との付き合いというものだ。それを、外面に従って人を判断し、付き合い方を決めるというのは楽しい人付き合いにはならないだろう。付き合っていてお互いに心が豊かになるためには、裸の人間と人間としてお互いに敬意を表しながら接していくのが大前提だ。生涯において友人関係を持続できる友は、それほど多くはない。結局、人は、人の中でしか喜び楽しむことができない。お互いに人生のかけがえのない宝友として大切にしたい。
 やはり、人間の生きていくすべての境遇というものは、ことごとくその人の心からを出てくるものだ。心がもし安定して安らかで幸せを十分に実感できる状態でなければ、高価な宝石や車や衣服なども、幸せとは結びつかない、つまらないものになってしまう。他の家を圧するように見える立派な家を建てたとしても決して心安らぐものにはならない。むしろ、周囲からは貧しいと思われるような生活の中に、本当の人間としての幸せをかみしめることのできる人生がある。もし、このこと疑う人がいるならば、魚と鳥の様子をしっかりと見てもらえればよい。魚はいつも水の中にいるが、水に飽きることはない。魚でなければこの水中の楽しさを分かることができない。鳥は森の中に住むことを好む。その快さは鳥でなければ分からない。人が幸せを感じられるような生活もまた同じだ。少欲知足の人生の豊かさはそれを実践している人にしかわからないだろう。
 年々に人生の終わりの時期が近づいてくるのを実感できるようになった。そうするとますます、この世の生が、どのような意味があったのかということを、また、どのようなことが本当に人生にとって意義があったのかということを身にしみて感じるようになる。名誉や地位や金はあの世へ持って行くことはできない。どれほど多く、それらのものを生きている間に積み上げたとしても、死ねば全て無になる。
 三途の川を渡ろうろうとする時、岸辺で二人の年老いた鬼の夫婦に出会うという。名前を、老婆は奪衣婆(だつえば)といい、老人を懸衣翁(けんねおう)という。三途の川を前にした此岸で、二人は死出の旅路へと歩いて行く人を止める。そして奪衣婆は、死にゆく人に生きている間に為した事を訪ねる。その内容に従って高低の評価をする。決まると衣服をすべて脱がせて懸衣翁に渡す。懸衣翁は衣服を持ってそばに生えている高い木に登っていく。その人間の生前に行なってきた行為の評価に見合った高さに懸衣翁は衣服を引っ掛ける。良いことを多くした人ほど高いところに掛けられる。死にゆく人は、その衣服の高さで彼岸への行き先が決まってくる。高いところに衣服を掛けられ人は、元気いっぱい楽しい歌を歌いながら三途の川を渡っていく。逆に低い枝にしか掛けられなかった人は、肩を落とし、しょんぼりとして暗い三途の川の底へと進んで行く。
 今さら死後の世界のことを考えることもないが、できるなら、豪華な客船で多くの人と楽しく騒ぎながら、三途の川を渡りたいものだ。


 第十一章 生きる力
  
 人間には不思議で偉大な心の力が備わっている。それはどんな状況や場所であったとしても、希望を持つことができる力だ。たとえ客観的に見て絶望的な状況であったとしても、人間の心の力は、偉大だ。今から、ここから、新しい出発をして、未来の希望を開くんだ、という心を持つことができる。そして、その希望の心は自分ひとりに限らす多くの周囲の人々に同じような希望を与える。この心を信じて未来を切り開いていける人が、自分と同時に人々に希望の光を送る事ができる。

 物事には必ず、流れを変えてゆく転換点のようなものがある。どんなに厳しく、大変な災いであったとしても、どこかにそれを必ず転換して、幸福へと向かわしめるものがある。性格などでもそうだ、気が弱くて、人前で話などできず、自分の意見なども述べられない消極的な人は、それは欠点かもしれないが、逆に同じような弱い立場の人の心を理解できて、そういう人たちと共感して、励ますことができる。そうなれば、長所になる。百%悪いこと百%良いことはこの世にはないのではないか。悪いと思えることにも必ず、それがあったからこそ素晴らしい人生にすることができたと言えるような転換点があるものだ。絶対に乗り越えられないような苦難はこの世にはない。解決できない苦悩などもない。必ずどのようなひどい苦労であったとしても、解決をする糸口があるものだ。自分の人生にとって最大のマイナスと思えるようなことを最大のプラスにすることができるものだ。苦難が大きければ大きいほど、必ず大きく幸福へと転換ができると確信して、元気よく一歩でも進んで行くことだ。
 何よりもそうする勇気こそが人を転換点に立たせる宝物になる。勇気を出して、勇気をもって、最大のピンチを最大のチャンスに変えていこう。

 世の中にあって最も素晴らしいものは何か。それは人の心だ。この世のものとも思えないどんな素晴らしい芸術作品も、人の心から出てきている。まるで自然を制するがごとき建築物も、もとは人の心から出てきている。人の心は外からは見えないけれど、見える形となったものから考えれば、まさに、大宮殿が存在している。その大宮殿は、どのような暴力にも、どのような災害にも決して壊されることはない。心がある限り人はまた、外の見える世界に大宮殿を創造することができる。この大宮殿は、ある人には存在して、別の人には存在しないというものではない。人間であれば誰でも全員、心の中に築いているものだ。
 人生にはそれを形として引き出して来なければならない時というものが必ずあるものだ。そういう時に、胸を張って、わが心の宮殿を、また他の人の宮殿とともどもに共同して、築いて行く元気を湧かせていこう。

 人間が最高に幸せになることができるための最も大事なものはどこにあるのか。それは私たち自身の中にある。言い換えると、最高に幸せな人生にしていけるのは、自分にほかならない。自分にまたそれだけの力が備わっている。自分を信じることだ。自分の本当の力は、自分を信じることから出発する。自分が信じられなければ、何も始まらない。だけど、自分が信じられないようなそんな人間など本当はこの世のどこにもいない。人間は人間だ。人間の力は同じようにだれにでもある。その人間の力を信じ奮い立たせてゆく時に自分の環境も、自分の人生も、やがては、こんなに幸福になっていいのか、と言えるような境涯へとなってゆく。大切なことは、自分には厳然と素晴らしい人生を歩める、また他人も歩ませていける力を持っているということを信じ抜いて、行くことだ。
 人は一人で生きてゆくことのできる動物ではない。人の幸せは、みんなと一緒に生きていく中に感じられるものだ。もしもこの世の中に、たったひとりで、無人島で生活する人間しか居なかったでしたら、それは人とは言わない。単なる生き物だ。人は人の中で共に生きるからこそ人になれる。人は人の中で生きるからこそ、人の輝きを増すことができる。苦しい時ほど人は人と共に強く結び付いて、生きてゆくことだ。人はよりよく生きる術を人から授かる。いまだかつて、犬からすばらしい生き方を教わったという人は知らない。そうであるなら、わが人生にとって最も大切なのは、わが人生を素晴らしくしてくれるような根本の行き方教えてくれる、先輩だ。その先輩とともに皆で手をつないで生きてゆくところに、人の集まりの力もわいてくる。大変な困難を乗り越えて行くのも、先輩から教えてもらった人生の生き方だ。今こそ、人生の先輩の知恵を拝借し、自分自身もまた周囲の人々もさらには、地域の人々までも安穏で、満足のできる人生を目指して踏み出していこう。

 冬は必ず春となる。地球は太陽の回りを回るし、自転もしている。宇宙のリズムは変わることはない。どんなに厳しい冬だったとしてもいや、厳しければ厳しいほど暖かい春が必ずやってくる。未だかつて冬が秋になったということを聞いたことはない。最も多く苦しんだ人が最も多く辛い思いした人が、最も多く涙を流した人が、最も素晴らしい希望と勝利の人生を手に入れることができる。冬は必ず春となるのだ。

 その地において、災難を受けるというのは、ある意味において、すでに人生の中で決まっていたのかもしれない。今回の大震災を受けることになったのも、運命のごとく決まっていたのかもしれない。そうであるなら、震災を受けたという、結果にこだわらずに、これからは未来をどのように希望のある満足のできる生活に、人生にと変革していくか、ということが最も大切だろう。社会制度や、行政の問題は、それはそれとして、改善しなければならないが、現にこうして大変な震災後を受けたという事実が消えるわけではない。震災を受けだことをバネにしてそれが運命であるのであれば、よい運命に変えていけないことはない。自分にとって、また、周囲の人々にとって、被災をしたということが、よかったといえるような運命的な人生に進んでいこう。
 どんなに素晴らしい名刀を持っていたとしても、それを使うだけの剣術も持っていたとしても、それを使って最高の働きをさせる勇気がなければ何の役にも立たない。何事にもせよ、まず事の初めは、がんばろう、やっていこう、一歩でも進んで行こう、との心意気だ。その心意気があれば自分自身の才能や力量として持っている名刀と武術は見事に花を咲かせる。そうすれば名刀は自分にとって鬼に金棒をのようになるだろう。

 人の心の中は言うまでもなく、マイナスの面とプラスの面の両方を兼ね備えている。それがさまざまな条件の下でプラスになったりマイナスの働きとして出てきたりする。自分自身の心掛けや、訓練によっても、プラスの方向に出せるようになるだろう。しかし最もプラスマイナスに影響を与えるのは、やはり人との関係性の中においてだ。自分が最も強くプラスの面が出てくるのは、周囲の人たちから、こちらに対する思いやりの心を感じた時だ。立場を変えて考えれば、こちらが相手の最高のプラスの性格が出るように、働きかけてあげることは、自分の心をプラスに働かせる以上に、素晴らしいことだ。地域の人々の多くが、大変な苦しい状況に置かれている時、接する人々の中に、最高のプラスの心が、最高のプラスの生き方ができるように、力をださせてあげることが、最高に素晴らしいことだろう。
 考えてみると、人がどこに今住んでいるのか、ということは、単なる偶然でもないように思える。そこに住むようになったいきさつを考えれば、何かの縁があったから住んでいるのではないだろうか。たとえ、その場所が、どのような所であったとしても、自分が身をおいているところというのは、いわば、自分の相棒だ。たとえそこで災害を受けたとしても、自分にとっては意味のある場所だ。現実にその土地は流されて無くなってしまったとしても、やはり人間は、大地に立って生きなければならない。外形がどう変わろうが、心でしっかりと自分の存在している大地に根を張って、しっかりと地に足をつけて歩んでいきたい。

 蓮の花は泥沼の中から咲き出る。泥沼が深ければ深いほど、大きく綺麗な花が咲く。人生もまた、そうではないだろうか。苦しみが深ければ深いほど、大きな人生の花を咲かせることができる。泥沼が深いことを嘆くよりも、見事な味わいのある花を咲かすことを考えたい。太陽が出れば、すべての闇が明るく照らしだされる。どれほど闇が深かろうが、一度太陽が昇りば、闇が深かったほど明るく感じられる。明るく輝く太陽のように、また清楚に可憐に咲く、それでいて華やかな蓮の花のように、大きく深呼吸をするような人生にしていこう。
 人の心は移ろいやすい。例えてみれば、池の水面が、風によってさまざまに波立つように、また、見事に咲いた花といってもやがて色が衰えていくように、さまざまな決意はするがそれが一貫して長続きしないものだ。どんなつまらないことでもよい、青春時代に決めたことを生涯貫く人は素晴らしい。「源遠ければ流れ流し」ということわざもある。移ろいやすい決意だけれども、その決意の源が遠く深ければ、その志しは、人生において長くその人の生きざまとして続いてゆく。今回の震災は、「源遠ければ」と言えるような厳しい原点を人々の心の中に作ってしまった。それを良い流れにして、滔々と、幸せの大河にして、大海へと流させて行くこともできるだろう。どうせ「流れ流し」という影響を受けるのであれば、さまざまな困難の岩場を流れながらも、最後には泰然自若とした広い大海へと流れ続けさそう。

 人の心掛けというのは、非常に大切だ。同じような環境で生活していたとしても、ある人はその環境を嘆き、苦しむものとしてとらえる。あるいは愚痴と文句の対象としてとらえる。また自分が今のようになった原因をこれまでの環境のせいにしたりする。ところがもうひとりの人は、今の同じ環境に、感謝して、自分にとって最も成長させてくれる環境であると称賛する。そして、さまざまな環境条件を自分がよりよい生活を、より良い人生を送るための材料とする。自分が成長できる原因を今置かれている環境のおかげだと考えることができる。同じ環境に生活しながらもこのように百八十度違う捉え方をすることが実際にあるものだ。これから分かることは、環境が良いのか悪いのかは、実は客観的な尺度とは別に、そこで生きていくその人の心掛けが決めてゆくものなのだ。
 天国というも地獄というも二つの国があるのではなくして、私たちの心掛け次第によって、変わってくるのだ。そうであるならば、どのような厳しい、劣悪な環境であったとしても、私たちの心掛け次第で、それを天国のように素晴らしい地域にすることもできる。環境を嘆くよりも、環境をわが人生の糧として天国をこの世に作っていけるような、そういう心掛けで生きていきたい。
 決してヤケになってはいけない。投げやりになったら、何も創造することができない。忍耐強く、細心の注意を払いながら、また油断を配して、前に進んで行くことだ。自分も回りの人にも絶対に事故を起こさないようにあらゆる注意を払って生活していくことが、非日常的な生活の状態の中では特に大切になる。どこまでも平常心で、どこまでも体を大切に、どこまでも無事故に徹して、生活して行くことが大事だ。
 なにはともあれ、今は歯を食いしばって難に耐えるしかない。心が負けてしまってはいけない。心が負ければ、それがまた体の不調につながることにもなる。大変な状況だけれども、心をしっかりと踏ん張って、生きていくことが大事だ。何も恐れることも、怖じることもない。これほどのことがあったのだから、もう人生において最高に腹の座った人間として振る舞えばよい。これ以上のことがどこにあるというのか。『威風堂々』の音楽のごとく、胸を張って人生を生きればよい。

 本来、日本のどこの地域でも、今回のような大震災を受ける可能性はあった。そういう意味からすれば、東日本の方々が、いわば日本の代表として震災を受けられたともいえる。そうすると、日本を代表する被災者の方々が、厳然とこの大きな困難を乗り越え、お一人おひとりが、また地域としても勝ち越えられる姿こそが日本全体の誇りであり、喜びだ。どのような災難や災害があろうとも、朝になれば再び力強い明るい朝日が昇るように、すべてのことを弱気にならずに強気で踏ん張っていきた。そして、できるだけ早く、新たな晴れ渡る自分自身とともに、地域の復興を目指していきたい。
 状況が大変な時ほど皆と共々に手を取り合ってお互いを思いやり、励まし合いながら進んで行きたい。また、さまざまな出来事に対しては、互いに話し合いながら知恵を出し合って解決をしてゆく。こうした平常時では、あるいは都会の人間関係の薄い中ではとても結び合うこともできないようなお互いの協調の世界を作りながら、困難を乗り越えよう。被災しなければ経験することもできなかったような人間同士の団結の素晴らしさ、心通うことの喜び、そういうものを感じながら、進んで行く。またそういう共同の生き方ができるように、しっかりと環境を整えることが大切になる。

 なにはともあれ、負けないこと。何もなくとも人生は勝負であるともいえる。大きな苦難に会った時こそ胸を張って、元気よく立ち向かって行く勢いを出そう。そうして自分と同じように被災している人たちと手を結び心通わせることが大切だ。それは人のためであると同時に、自分のためでもある。暗やみの中で人のためにと思って灯をともせば、自分の足元も明るくなるようなものだ。こんな有事の際には、自分も他人もない。自分のためにすることがそのまま他人のためになるように、他人のためにすることがそのまま自分のためになるような行為が大切だ。そこにともどもに次の地域の発展を出さしていける原因を結ぶとにができる。そういう生き方をする人が多く被災者の中にいる。必ず見事に復興することは間違いないだろう。むしろ災害で苦労したからこそ、以前よりももっと素晴らしいふるさとそして素晴らしい人間関係の街を、村を作っていくことができる。長い目で見れば、今回の震災も大きく自分も、地域の人々も、また故郷もすばらしくなったと言えるようなもの作り上げていけるチャンスにしたい。いや必ずできる。それまでお互いに励まし合いながら踏ん張って進みたい。

 一瞬にしてすべての財産をなくされた方もたくさんいる。財産のみならず大切な大切な人をなくされた方も多くいる。もしも、このまま、その方々が、不運な人生をを引きずったとしたら、こんな不幸なことはない。何としても、不幸な出来事に遭ったからこそ、幸せになったといえるように転換をしていきたい。被災したことについても、本来であればもっと大きな苦しみに出合っていたかもしれないけれども、この苦しみで終えることができた、何よりも自分自身が今生きている、これは大きな希望にほかならない、そう思って前を向いて、未来の幸せを信じてまた、確信して進んで行く。素晴らしい人間とは、誰もが最も落ち込むような苦しい時に、希望を持って生きていけるようにする人だ。そんな人が一人いれば、親兄弟も親戚縁者も、さらに周囲の地域の人々も希望が出てくる、元気が出てくる、喜びが出てくる。一度しかない人生において、ひどい苦しみを味わったからこそだれも味わったこともないような幸せな人生にできるんだ、と勇気を持って進もう。

 震災で親兄弟子供を亡くされた方がたくさんいらっしゃる。そのことは嘆いても嘆ききれないし、生涯の悲しみになるだろう。けれども、人の命は、果たしてこの世限りのものなのだろうか。もしもこの世限りのものであるのならば、人はこの世においてよりよく生きようとするだろうか。むしろ、どんな無残で悲惨な生き方をしたとしても、この世限りであったとするならば、後悔もしないだろうし、悔やむこともない。ところが、人は、世界中どこの人々も、少しでも、この世をよりよく生きようと努力している。それを続けて亡くなっていく。これは人の命がこの世限りでないことを人間の命が、無意識のうちに自覚しているからにほかならないのではないだろうか。どこかでまた、必ず、亡くなられた方々の生命は存続していると思えないだろうか。そうして大切な人を亡くした苦しみを抱えながらも、それをを乗り越え、亡くなった人の分まで充実した生き方ができれば、おそらく、あの世から亡くなって方もエールを送ってくれるのではないだろうか。亡くなった方が喜ぶのは、生きている人がどうすることか。決して亡くなったことを生涯悲しんで、それによって楽しいはずの人生を悲しくすることを望んではいないだろう。生きている人が、元気で楽しく素晴らしい満足のいく人生を歩んでいくことが、最も亡くなった人の喜ぶことではないだろうか。そしてまた、そういう生き方をすれば、同じように大切な人を亡くした方々の心を勇気付けることができる。最高の追善供養というのは、このようなことではないのだろうか。

 日本は、すべてを失ったと思えるような敗戦の中から立ち上がり、発展をさせてきた。それは世界から見ても驚異的な発展であったと賛嘆されている。その中ではさまざまな苦難、物質的な面だけに限らず精神的な面でも言えることだが、それを乗り越えて発展させてきた。どのような絶望的な状況になったとしても、決して投げやりになったり、あきらめたり、開き直ったりするのではなくして、その中から新たな希望を創造し、そして、自信と勇気と信念を持って前進できる人が宝の人々だ。
 そうして、どのような厳しい状況の中にあったとしてもそれを希望へと転換していく根本は、自らも含め、人間の力を信じることだ。人間が本来持っている無限の可能性を信じることだ。それを信じ何があってもくじけない自分の生き方を持続するならば、必ずや新たな地平が新たな世界が開けてくる。
 自らの故郷を安穏な大地にしていくのは、そこに住んでいた被災された人々以外にいない。最もその地域のことをよく知り、愛着を持って未来のことも考えられるのは、そこに住んでいた人々の他にはいない。その思いを大切にして、今の苦しい時を、乗り越えて、見事な新生の故郷を作っていきたい。もちろんそれが同じ場所となるかどうかは別のことだが、心の中にある故郷の姿を形としてできる村や町にしていきたい。それができるのが最も苦しんだ人たちにほかならない。希望を絞り出すようにして作り出し、地道にコツコツと皆で力を合わせながら新たな心の故郷を現実の姿として作り上げたい。

 人生は生きている限り、戦いであるような気がする。大切なことは、生きている間にはさまざまな想像もできなかったようなこと、また、まさかと思っていたようなことが我が身の上に何度か起こってくるに違いない。そうした時にも、闘いつづけてゆく姿勢を放棄しないことだ。たとえ一時的に負けたようなことがあったとしても、次に勝てばよい。さらにまた負ければ、また次に勝てばよい。そしてやがて勝ち続けていけるような生き方をすればよい。勝つというのは自分に勝つということが根本になる。そして、自分だけの幸福から、他の人々とともに手に入れる幸福を目指して、進んで行きたい。自分だけの幸福が、小さな道であるならば、人とともに幸せをを歩む道は、大道に違いない。人生にはいろいろなことがあるが、今から、今日から、また戦って勝っていこう。そして常勝の人生を築いていこう。

 人生は止まるとよどんでしまう。常に前へ前へと進んでいかなければいけない。例えば、入れ替えのない溜まった水は、やがて腐っていくが、流れてゆく水はいつまでたっても腐ることはなく、新鮮な水をたたえている。人は常に、前を向いて、歩き続けることが素晴らしい幸福の人生を目指す生き方であるように宿命付けられている。いや前を向いて歩いていること自体が、幸福なのだ。新鮮な感覚で、喜び勇んで、まるで子供が新しいことに興味を持って、目を輝かせてそれをを成し遂げていくような、そんな人生でありたい。
 青春時代に今回の厳しい災害を受けた人も多い。青春期だからこそ大きなショックとなるだろう。しかしそれをこれからの長い人生に最大限に生かしきっていける武器にしていきたい。その被災体験という、最大の剣を持って生涯を休まずに先駆して走り続ける人になりたい。そして、あの二千十一年の日が東日本大震災を経験した青年が日本の次の時代の指導者となって、人の命を最も大切にし、人の命を手段としない目的とするような、そういう社会をつくってほしい。あらゆる分野に翼を伸ばして、飛び立ってほしい。
 人生を大きく変えていくような出来事出くわした時、大切なことは、どんなに厳しい状況に追い込まれたとしても、弱気になってはならないことだ。一番、状況を悪くするのは、弱気になったりあきらめたりして自分に負けることだ。最後の最後まで、希望を持ってそして勇気をもって課題に真正面からた取り組んで行くしかない。今目の前にある課題に全力で取り組み、ひとつひとつ打開をしてゆく。小さなひとつひとつの取り組みの成果が、積み重なって大きな成果となってゆく。そして何よりも、投げ出したくなるようなことがあったとしても最後までやり抜くこと、持続することが、大切だ。いくら、途中で頑張ったとしても最後のあと一歩のところで止めてしまえば、すべて何もできなかったと同じことになってしまう場合が多い。初めから終わりまで、いよいよますます心新たにしてやり抜くことだ。あとで悔いを残さないところまで、やり抜けば、必ずいい結果が出てくる。

 一面からいえば人生はあっと言う間に終わる。今、震災に直面してなすべきことをなさなければ、悔いを残して、人生を終えてしまうことにもなる。いつかまた、やろうとして、物事を先へ延ばすうちに、いつの間にか体も心も十分には動かすことができなくなってしまう。今の自分の体力・気力で、できる限りのことをやることだ。そうすることによって、一段でも二段でも階段を上って行くことができる。

 桜梅桃李という言葉がある。桜は桜らしく、梅は梅らしく、桃は桃らしく、李は李らしく、それぞれの特徴を発揮して働いていくということだ。決して、無理をする必要はない。地道に自分の特徴と力に応じてできることを見出し、自分と他の人のために取り組んでいくことだ。同じ震災を受けた一生ならば、自分を精いっぱい生かし切った人生にしたい。

 心は瞬間瞬間変わる。その奥低に、新しく何かを創造してゆく生き方を明確に据え付けてゆくことだ。毎朝目を覚まして、よし今日も何かを創造するために頑張ろう、そして自分の持っている力を全部出していこう、一歩なりとも復興への前進をしていこう、と心に言い聞かせることが元気と勇気のわく力になる。そして夜、一日頑張ったならば、自分で自分に、よくやった偉い、とほめてやればよい。未曾有の震災に出合って、自分自身よかったといえる活動にしていきたい。すべてのことに真剣に取り組むしかない。そうすれば勇気もわいてくる。強い力もわいてくる。また最も効果的な知恵も出てくる。真剣な人が強い。負けない。また後悔もしない。そういう人には周囲に希望や元気を与える。誠実な輝きやけなげな強さが放たれる。また、そういう人は、相手の気持ちをよく理解することができる。また何を悩んでいるのか何を求めているのか、どういう生活をしたいのかを知ることができる。震災の復興にあたる内外の人も皆、このような心意気で取り組んでいきたい。
 たとえ、どのような場であれ、どのような状況であれ、人は自分のなすべきことを自覚するときに、最も力を発揮する。それは為すべきこと上から言われた命令であったり、義務であるように受け止めるのではなくして、自ら進んでやる権利として行うことができるからだ。人は、受け身になって誰かから命令されたから仕方なくやるという行動の中には、楽しさや喜びもわいてこない。また、自分自身の才能や特徴も十分に発揮されない。逆に、自分から積極的に為すべき使命を探し出して、人々のために役立つことをしてゆくときに、周囲の人が喜ぶと同時に自分自身の喜びが湧いてくる。そういう自分になれるように自分自身を磨いていくことが大切だ。誰かと同じことをそのまま惰性的にやっていたのでは、力がつかなければ発揮もされない。常に自分自身と真剣に向かい合って、自らが一人となってもやり抜くことを見いだして行動することだ。多くの被災者の方には物質的にも経済的にも、これから一生涯、日の当たらないような生活をしなければなないような状況に置かれている人も多い。ただ、人の幸せは物やお金で決まるものではないのはよく言われている。物質的に厳しければ厳しいほど、精神的には豊かに生きればよい。そして必ず、平和で幸福な家庭を、生活を取り戻し築いていくと心に決めて生きていけばよい。むしろ、そういう生き方こそが一生涯の幸福のもとになる財産だ。特に若い人は、将来の夢や希望を震災によって粉々にうち砕かれた人は多いだろう。だけど、なんとしてもそれを乗り越えて、自分は震災にあったからこそ、最高の幸せな人生を築いたといえるように頑張りたい。


 第十二章 生きる意味

 あまりにも巨大であった東日本大震災は、いくら月日が過ぎようとも、現実に通って起こったこととして受け入れられない。特に亡くなった方々への気持ちは、夢であってほしいと思う。考えれば、この世で夫婦、親子、親戚縁者、友人などと縁をお互いに結んだ人々は、偶然に出会った人ではないのではないか。地球上には多くのは人々が生活している。人類の長い歴史を見れば、天文学的な人数になる。その中で、今の時代に、人間関係を結んだお互いの人というのは、出会う確率からすれば天文学的な数字で不可能に近いはずだ。間違いなく、何らかの縁があったからこそ出会えたに違いない。
 そうすると、そんな素晴らしい縁は、震災など不慮の出来事によってこの世での生命は亡くなったとしても、切れるものではない。一度は震災によって離ればなれになったとしても、必ずやまた、何かの機縁に、お互いが縁を結ぶことがあるだろう。何はともあれ、今、生命を保っている私たちが、前を向いて、未来へ向けて、希望を創造して進みたい。
 人生には悲しいことが多くある。悲嘆にくれて、立ち直れそうにないと感じるときもある。しかし、いつまでも悲哀の中に沈んでいたのでは、自分も他の人たちも、悲しみがまた悲しみを生むばかりになってしまう。悲哀は、乗り越えるためにある、とでも自分の心に言い聞かせて、新しい出発をしたい。悲哀を希望に変えて、悲嘆を勇気に変えて、前を見て進む。
 どのような悲惨な災害に遭遇したとしても、これ以上、人生において落ち込むことはないと思えるようなところから、まるで、湿った木から摩擦熱で火を出させるように、また、砂漠の砂から水を出させるような、そんな心構えで、生き抜いてゆく。状況は厳しければ厳しいほど、乗り越えられない苦難などないのだと、心に決めて踏ん張る。人の心の強さは、どのような自然災害をも乗り越えさせるエネルギーを持っている。
 何よりも、東日本大震災に対しては、日本全国から、全世界から支援の心や物も届いている。それぞれの地域の人も、外国の人も、さまざまな自然災害や課題で悩んでいるにもかかわらず、東北の人々を応援してくれている。いや、それぞれの方も、苦しいからこそ苦しんでいる東北の人々に対して心向けてくれるに違いない。苦しんでいる人、悩んでいる人を支援し励ますことこそ、人類愛の根本はに違いない。この震災で、どれほど多くの人が心からの支援を申し出たか計り知れない。それは日本中の人が驚くほどの数だった。人はやはり人とともに助け合いながら共存していくものだということを感じた。
 大きな災害が起きると、社会も人々の心も不安になってくる。その時に必要なのは希望の思想だ。人は肉体で元気に生きているようだけれど、心という心棒によって支えられてのことだ。その心棒は、勇気と希望と元気の思想によって力強く働くことができる。心棒さえしっかりしていれば、さまざまな困難があったとしても、やがて結果的には、すべてよい方向へと生かされてゆく。そして、再び皆が喜んで住めるような安住の地を建設できる。人は食事だけでは生きていない。心の糧もしっかりと食べていかなければ元気も勇気も出てこない。
 人は他の人を激励して、自分も元気になる。こういう災害時には、お互いがお互いを声を掛け合いながら励ましていきたい。言葉ほど心に力を与えてくれるものはない。言葉によって人々は安心もし、楽しくもなり、救われる。人間は言葉というもの持っているのだから、こんな時こそ最大限に生かして、目の前に居る一人を我が同士として大切にし、声の励ましを注ぎたい。
 生きる不安が大きければ大きいほど、生きる勇気を合言葉にしよう。さまざまな困難があればあるほど、ますます生きる勇気を心から取り出して、ますます元気に進んで行く。

「大悪起これば大善きたる」という言葉もある。最も悲惨な出来事があったならば、逆に最も幸福なことが必ずやってくると確信して、何があろうが、心に希望の灯を赤々と照らして生きてゆく。悪いことが起こったならば、必ずそれを良いことの方へ向けさせることができるものだ。そのためには、いつも前向きに、良い意味で楽天主義者で、道を切り開いてゆく。
 
 これほど大きな震災を受けた東北が、復興する中で、日本の中心的な働きをなす地域になってほしい。そうすればこれからの日本の将来にとって、どのような困難が来ようとも、動揺もしない安心した国づくりの基礎ができる。日本の社会に、安定した発展への大きな流れがをできる。遠くこそが、次の日本を背負って立てる地域と人々に違いない。

 人には、不満と報恩の生き方があるように思える。人としての後悔もしない生き方は報恩の心をいつも持つことではないか。人の心の大きな特徴は、恩を知ることに違いない。動物の中で恩を知るものがあるのだろうか。人の人である所以は報恩の心を持つことのように思う。今生きている私たちは、生きていることに感謝し、生かされている、ともとらえて自分の生命の使命を果たしていきたい。それが、自分ひとりがこのように生存するために、気の遠くなるような生命のドラマに対する報恩になる。

 誰かに頼ってもなかなか問題は解決しない。自分が進んでやれる範囲で行動していく。その中に状況が大きく変わってゆくカギを見いだすこともできる。状況が悪いからといって、何も自分からしなければ、状況は一向に変わらないものだ。環境を変えていくのは自分しかない、というくらいの気位で行動するなら、必ず環境は変わってくる。自分がまず一人立ち上がれば、不思議なことに周囲の多くの人たちが賛同してついてきてくれるものだ。周囲の人々に元気と勇気が送れるような自分の行動をまず始めることだ。

 人が集団で生きてゆく場合に何が大切かといえば、まず対話だ。勇気を出して周囲の人々と対話の花を咲かせることが、雰囲気を大きく変える。その場がどのような雰囲気になるかは、そこにいる人々の対話にかかっている。安心して温かい雰囲気になるには、そういうお互いの人間環境をつくる対話があってこそ初めてできる。こういう日常的でない状況における対話は、とにもかくにも心を開いて、率直に話し合うことによってお互いの心が共鳴しあってくる。そのためにも相手からではなくして自分の方から声をかけることだ。
 お互いに誠実な対話は、お互いを信じ合わせることにつながる。少しだけの対話ではなかなかは心が通じあわないことがあるかもしれないが、避難所をなどでは時間は十分にある。根気よく粘り強くお互いに話し合う中に、共感し楽しい雰囲気になる。特に心から落ち込むと、ふさぎがちになり、他人と話をするのもおっくうになるものだ。そういう人がいれば、話さなければますます落ち込んでゆく。周囲の人からって何かあれば声をかけるようにしてあげたい。

 人は本来裸で生まれてきた。長く生きている間に、財産や名誉などの肩書によって自分を飾ってきた。しかしそれらはよく考えれば、何かのきっかけに侘しく消え去ってしまうものだ。何もなくなれば、むしろ、これから新しい出発ができると思う。たとえどれほど多くの財産が失われたとしても、それを築いてきた自分は、厳然として生きている。それができた自分であるのであれば、これからもまた同じようなものを築いていけるだろう。財産は、自分を飾ったさまざまなものではなくして、それらを作り上げることのできた自分自身にほかならない。その自分自身という財産さえあれば、いくらでも、新しい生活を築いていける。

 とかく世の中に流れてゆくものは、マイナスなイメージのものが多い。世の中全体が不幸であるような錯覚さえ覚えさせる。だが、世の中はそんなに悪いことばかりではない。大きく幸福への道が開かれていることも多い。私たちの目が、どちらに向いていくかだ。さまざまな出来事に対して、前向きに、希望の持てる方向に、常に目を向けていけるような態度を身につければ、どのような困難な状況になったとしても、必ずどこかに、希望を見いだせるはずだ。

 さまざまな困難はあるけれども、永遠に続く困難などはない。困難はやがては、安楽へと転換していく時とチャンスがある。人の心の働きの中には本来、この転換をさせゆく力を持っている。震災で亡くなられた方々には大変に残念だが、それを乗り越えて、未来を開いていける力を持っているのもまた人の心だ。亡くなられた方は、確かに目の前からは無くなったかもしれないが、それぞれの縁のある人々の胸の中に、心の中には永遠に生き続けている。もし対話をしたくなれば心の中のその人とゆっくりと話をすればよい。もしその人の姿が見たくなれば、心の中に描き出されるその人を見ればよい。そして、その人に言えばよい。決して負けずに、希望持ち、勇気を出して、新しい人生を切り開いていくと。

 人はこの世に生まれてきた。それもどう考えても、偶然とは言いがたい。自分の一人の命が、この時に、この場所に存在するためには計算不能なほどのチャンスがなければでき得ていないことだ。そうすると生きているということは、必ず何らかの使命があると思える。使命のない命などはどこにもない。その使命を果たしゆく人生こそ、後悔のない人間の生き方だ。
 それが分からなければ、生きる目標を失い、さまざまな悩みや苦しみが出てくる。だれもがそれを経験している。生きるために苦しむ。苦しむために生きる。というような生きている意味がまるで苦しむためのような人生も現実にはある。
 明るくて幸せな人生というものはいったいどこにあるのか。人生の楽園はどこに行けば存在しているのか。そんなこと考えながら、迷って生きてゆく人生もある。
 しかし、考えれば人は大自然の中で生死を繰り返しながら生き続けている。いわば、人間も自然の中のひとつであることは間違いない。自然は、何があろうが、どのような変化があろうが、泰然自若として、定まったリズムに従って動いている。それは生々滅々を繰り返しながらも、厳然と存在し続けている。その存在は、存在していること自体に意義があるように見える。どう考えても、自然の存在が苦悩の対象になるようなものとは考えられない。
 人間の存在も本来ならば、自然の存在と同様のはずだ。そうであるならば、人は人として存在している、すなわち、生きていること自体に意義があるといえる。別の言い方をすれば、生きていること自体が楽しみであるはずだ。そう思える時、人間の、自然の真実の幸福な境涯になれるのではないだろうか。
 人は苦しむためにこのように生まれてきたのではない。遠大な過去から現在へ、さらに未来へと続く自分の生命の流れは、存在自体を喜び、楽しんでいけるものにほかならない。そうでなければこの壮大な生命のきずなは、全く意味のないものとなってしまう。それは、自然の存在の意味のないことを表していることに通じる。そんなことはまさにこの世にはあり得ないことだ。人は、生きていること自体が意義があり、楽しんでいけるものなのだ。だから、さまざまな苦悩は、あるいはさまざまな困難は、人生を楽しむための材料にほかならない。山があるからこそ、その山を苦労しながら登った楽しみが味わえる。苦しむこと自体が目的ではない。登頂してすがすがしい楽しみを得ることが目的だ。私たちの生命の存在も行き着く先は、使命を果たすことによって得られる楽しみを享受するためにある。どのような苦しみか、苦しみの種類などには関係ない。生きていることによって出てくるすべての苦しみは、生きることを楽しむことに転換していくのだ。
 自然は、生滅を繰り返しながら永遠に存在し続けている。もっと大きく言えば、宇宙は、星々が生滅を繰り返しながら宇宙の存在そのものは永遠に続いている。人の生命もまた同じだ。生死を繰り返しながら、永遠に命は存在し続けるに違いない。ただそれは、人間の目には見えないだけで、自然や宇宙の立場からみれば、太古から明らかなことだったのだろう。
       (了)

【奥付】
『新方丈記』
   2012年発表
 著者 : 大和田光也