大和田光也全集第21巻
あなたもだまされている
『間違いだらけの仏教選び』【下】

第Ⅱ章『仏教の真実』

(一)仏教の不思議

 世の中には、ふと考えると不思議に思えることが結構ある。そのひとつに仏教がある。仏教の不思議について、三点、考えてみたい。
 まず一つは、仏教はもともと釈迦という一人の人間が説いたにもかかわらず、今の日本には、数多くの宗派、分派に分かれている。そしてそれぞれが、自宗の正当性を主張している。このような状況は、果たして、仏教の本来のあり方からして、矛盾はしていないのだろうか。
関係者に尋ねてみると、たいてい、
 「仏の目指したものは一つで、それは山頂であり、そこに行き着くまでには、さまざまなルートがあってよい。それがさまざまな宗派になっている」という答えが返ってくる。一見、理にかなっているように聞こえるが、釈迦は後世の人々の信仰の形態として、このようなことを一度も教えたことはない。釈迦は非常に厳しく、教えた一筋の道を進むように説いている。
 釈迦が生涯に説いた経文はかなりの分量になるが、その根底には始めから終わりまで一貫した仏教思想に貫かれている。もちろん、ある経典では欲望を切り捨てよと言っているのに、別の経典では欲望は悟りを開く原動力であるなどと、相反する教えを説いているところもある。しかしこれは、説法した相手の心の状態を考えて教えを最も理解しやすくするために表面的に変えたものであって、根底の教えが変わったものではない。
 現在の仏教界はこれとは次元を異にした迷妄ぶりだ。たとえば、ある宗派は経文の文字を一字一字、仏と同じように大切だといっているのに対して、別の宗派は経文の文字などは月を指す指と同じで、本体の月を確認できれば不必要なものだと言っている。もし、この論争を釈迦が聞けば、呆れてものが言えないに違いない。釈迦はおそらく自分の教えが意図したものとはまったく異質のものになって伝わったことに愕然とするのではないだろうか。  
 仏教の創始者が考えてもいなかった状態になっているのに、仏教すなわち仏の教え、と言っているのは実に不思議なことだ。
 二つには、僧侶や仏教の信仰者が人を救わないことだ。これまでに一度でも僧侶から信仰を勧められたことがある人はどれだけいるだろうか。せいぜい、葬式か法要の席などで、形だけの法話を聞いた程度ではないだろうか。
 釈迦が仏教を広めた根本の目的は、苦しみ悩める人を救うためであったことは言うまでもない。仏教は、個人が悟りを開いて安心で幸福な境涯を確立するというのが、もちろん一つの目的ではある。しかし、それ以上に重要視しているのは、救われた人が今度は、他の悩める人を救うということだ。この救う人と救われる人の人間の連環によって世界に仏教が広まってきた。
 釈迦は、人の居ない山奥に閉じこもって修行をして、自分だけの利己主義的な幸福を手に入れることよりも、現実にさまざまな苦しみの中で生きている人々の中に入って、それらの人々と共に同苦し、共に生きる希望を見いだしていくことを仏教の目的とした。それなのに、現在の多くの仏教者といわれる人は一向に、人々の中に飛び込み、救済しようとしない。これも実に不思議なことだ。
 三つには、荒行をして仏教の悟りを得たとして、人々に手を合わされて尊敬されることだ。これはよくマスコミなどにも取り上げられるものだ。マスコミの視線も荒行を達成した者に対して、畏敬の念を持って報道をしている。しかしこれは、少し考えれば矛盾の最たるものであることが分かる。
 単純に考えて、もし、荒行を実践して悟りを開かなければいけないのであれば、仏教の修行をするには、暇と金と超人的な体力がなければいけないことになる。現実に苦しんでいる人は逆に、暇も金も健康もないからこそ苦悩を感じているのだ。釈迦の教えが、経済的に困難で働き詰めに働き、さらに病気で苦しんでいる人を仏教とは関係ない人間として、切り捨てるはずはない。
 また釈迦は、仏と凡人との間で、両者の橋渡しをするような立場の人間を認めていない。言わば、巫女のような存在だ。多くの人が僧侶を巫女と同じような立場だと勘違いしている。釈迦はそういう特権階級の存在を認めてはいない。むしろ仏である自分自身も、現実の中で苦悩しながら生きてゆく民衆も全く同じだと説いている。
 厳しい経済状況の現実から隔絶した山の中で、暇と金と健康を持て余した者が、仏の悟りを開いたなどということは、個人の趣味のレベルであって、普遍性を持つ釈迦の教えとは関係ないものだ。
 そうすると、多くの人から尊敬されている荒行達成者というのは、釈迦の教えに反したことをあたかも仏教のごとくに錯覚をしている者と言える。
 この三つは仏教についての不可解な点のほんの一部だ。仏教として当然のごとく受け入れている多くの事柄が、実は、釈迦の教えとは関係なく、後世の者が勝手に作り上げたものが非常に多い。
 どうしてこのような玉石混交の状態になったのか。その最も大きな原因は、仏教が日常的になじみのない仏教用語によって説明されるところにある。難解そうな仏教用語を使って説法されたり、書かれていたりすると、常識的に考えればおかしいと直ぐに分かるようなことでも、それらしく聞こえて、納得して信じ込んでしまう傾向にある。このようにならないためには、平易な日常語で仏教を説明することが肝要となる。
 本稿は、このような観点から、一般的でない仏教用語は一切使わずに日常の平易な言葉で、釈迦の教え即ち仏教について、その概略を明らかにしていくことを目的にした。
 釈迦の真意が、現在の日常語で表現できるのかどうか、という不安があるかもしれない。しかし、釈迦は苦しんでいる人を目の前にして、対話を通じて苦悩を乗り越える道を説いた。その言葉は、相手が最も理解しやすい会話体で説いた。これは経典の多くが対話形式、Q&Aという構成から成り立っていることでも分かる。一部のエリートや学者にしか理解されないような言葉は使っていない。
 あくまでも、釈迦の目的は、民衆を苦悩から救済することであって、経文を書くことではなかった。もちろん、釈迦の生きていた時代は、筆記用具などが発達していなかったのは当然だが、釈迦は生涯、悩める民衆あるいは道を求める弟子に対して相手の目を見ながら救いの教えを会話で説いていった。
 さらに、経典は後世に弟子たちが師匠である釈迦の教えを思い出しながらサンスクリット語などで書き上げたものだ。後に漢訳されて中国や日本、その他の国々へ流布してゆく。もし、仏教を説明するのに、難解な経文の言葉を使わなければ正確に表現できないというのであれば、漢訳の経文を引用すべきではない。翻訳時に間違いがあるかもしれないのだから、サンスクリット語の経文を引用すべきだろう。さらに、その経文といえども釈迦が直接書いたわけではなく、弟子たちが思い出した内容を書いているのだから、記憶に誤りがあることも考えられる。そうすると釈迦の教えは、五里霧中となってしまう。
 釈迦の希有な才能は、自らの教えを後世に長く伝えようとする強靭な意志に貫かれていたことだ。少なく見積もっても滅後、二千五百年先までも自らの教えが流れ通うことを念頭に置いている。その間に当然、言語や社会の状況も変わっていくことは織り込み済みで、どのような世の中になろうが、仏教がその時々の人々に、その時の言葉で正確に伝えられるように説かれている。これができたからこそ仏と言える。
 この釈迦の精神からいえば、現代において仏教を語るには、現代の誰でも分かる言葉で表現していくことが、まさに仏教の根本精神にかなったものだといえる。そうすることによって、今まで疑問も持たずに鵜呑みにしていた仏教の様々な事柄について誤りを正すこができ、仏教本来の素晴らしさを知ることができるに違いない。
 
   
(二)仏教と他の宗教との違い

 私たちの回りでは仏教やそれ以外の宗教といわれるものが、あやふやに混在している。
 赤ちゃんが生まれるとお祝いに神社にお参りに行く。成長して受験生になると合格祈願のために天満宮へ行き、合格祈願の札をかける。社会人になって、会社の研修会に行くと精神修養といって座禅を組む。やがて運転免許証をとると、交通安全のために不動尊へ参拝してお守りをもらい車のフロントにぶら下げる。結婚式は教会で行う。正月には初詣をし、盆にはお寺にお墓参りに行く。登山をしたりすると朝日に手を合わしてご来光を拝む。巨木には神が宿るとして、しめ縄を取り付けて礼拝の対象とする。そして亡くなった時には、僧侶を呼んでお経をあげてもらう。
 私たちの一生の間には、数多くの神や仏と出会うことになる。一見するとこの世は、無数の神仏で満たされているようにも思える。しかし、ほとんどの人が出会う神や仏がどのような由来を持ったものであるのか、どのような働きがあるのかについては無関心だ。宗教心があることは歓迎されることだが、礼拝している対象が何であるのか気にしないのはあまりにも人が良すぎるとしか言いようがない。宗教に対する無知から、悪意のある反社会的な宗教団体に甘い言葉で勧誘されて、結果的に人生を潰したり、犯罪に加担するということもある。
 また、悪質な営業マンが架空の旨い投資話を持ってきて、大変やさしく親切そうに勧めるので、その言葉を信じて、結果的に大損をするという被害が後を絶たない。宗教も同じような要素を持っている。もちろん宗教は投資とは違うが、「楽に金儲け」というたぐいの言葉には十分に注意する必要がある。
 だまされないためにも基本的なところで、仏教とそれ以外の宗教との違いはしっかりと押さえておくことが大切だ。
 両者の違いを一言でいえば、礼拝し尊崇する対象が、人間の内にあるのか外にあるのかだ。仏教にはさまざまな仏や菩薩が登場してくる。仏の中には、死後の世界において人々を幸せに導くというものもある。
 現実に生活している人々は、仕事、家庭、病気などで悩みが尽きない時、生きていくことと死ぬこととを天秤にかけると、死ぬ方が楽に思える時がある。生きていること自体がつらい時だ。そんな時の人の心には、この世は苦しみの連続にすぎない忌避すべきものだと感じ、幸せなあの世を切望する気持ちなりやすい。釈迦はこのような現実を逃避して別の世界に幸せを求めようとする心を満たし、来世を憧憬する心を持たせて充足感を得させるために一つの仏を創造した。
 しかし、本意は現実に今生きてる人が幸福になるための方法論として来世の仏を説いたものであって、死後に幸せになるのが仏教の目的ではない。だから、もともとは死後の世界の仏といっても、客観的実証的に仏という実体が存在するものではない。人々の心の中にある一面の働きを仏として表現したのだ。
 考えれば実に単純なことだが、経典の中に出てくるおびただしい数の仏は、すべて釈迦の心の中から創造されたものだ。それらの仏は、時間的には過去、現在、未来にわたり、空間的には全宇宙に広がっている。無数に近いこれらの仏は、人間界の外に実体として存在するものではなく、釈迦の境涯の深さと広さを表している。結論的に言えば、仏教上に登場してくるすべての仏や菩薩などはすべて一人の人間の心の中に存在しているものだ。
 そうすると、釈迦は仏なのか人間なのかといえば、当然人間だ。仏とは人間を基盤にして創り出されたものであり、人間の存在があるからこそ仏も存在できるという関係性だ。また、釈迦自身が言っていることだが、自分がどうして仏になったのかといえば、もっとも優れた人間としての生き方をしようと修行した結果だと理由を明確にしている。
 仏とは、もっとも優れた人間のことであり、真理を悟った人間のことであるともいえる。仏とは人間から遠く隔絶した存在ではなくして、人間が努力することによって到達することができるものだ。だからこそ釈迦は、説法を聞く人々に対して、
「あなた方を私と差異のない等しい境涯にする」と宣言している。この言葉には、釈迦が苦しんでいる人々と共に自分も同苦していこうとする精神にあふれている。
 思えば、苦しむ人間を救うのに、人間の苦しみの分からない者にできるはずがない。釈迦が時代を超えて多くの人々に尊崇の念をもたれているのは、取りも直さず釈迦が人間の苦しみの本質を身に体していたからにほかならない。
 このように仏教の本質的な特徴は、すべての教義や本尊はひとりの人間の心の中から出てきたものであるということだ。別の言い方をすれば、我が心は仏教のすべてを収めているといえる。だから、外にある仏像や曼陀羅に手を合わしているようだが、実は、我が身の心に合掌していることになる。
 このような、人間こそ仏であり、仏こそ人間であるという仏教に対して、他の宗教は、たいていは人間世界から離れた手の届かない絶対者を作り上げている。「作り上げている」という表現に引っかかる人もいるかもしれないが、絶対者といえども人間が頭の中で作り出したことはまぎれもない事実だ。絶対者の存在を認識するのも人間であるから、認識する主体の人間がいなくなれば、絶対者の存在も消滅する。
 目の前に見える物や現象に言語によって名前を付け、それによって認識するのとは違って、人間の観念が作りだしたものだから人間がいなくなれば無くなるのは当然だ。ところが信者には、意志的作為的に人間が作り出した絶対者をあたかも人間が存在しなくなったとしても実在する絶対的存在者のように錯覚をしてしまう傾向が強い。
 ここに、「信ずる」という信仰の要素が介在している。客観的に確認できないものを「有る」と信じるのだ。その結果は、本来、人間が作り出したものであるにもかかわらず、逆に人間の手を離れた絶対者として人間を支配する存在になる。例えば、人間が作り出したコンピューターに
よって人間が支配されるのと似ている。
 こういう仏教以外の宗教は、人間を方法論化するものが多い。本来、人間を幸せにするための宗教であったにもかかわらず、絶対者のために信者を利用したり、犠牲を強いることにもなる。信仰のために、人を殺したり、自らの命を断つ、ということもある。歴史上、宗教戦争は長期間に渡って起きたし、宗教的自爆テロは現在も続いている。これらは、甚だしい本末転倒の信仰といえる。
 時には、生きることのあまりにもの苦しさにこのような信仰に自己の救いを求めようとする者がいるが、はた迷惑としか言いようがない。自らの救いのために、他人を犠牲にする、というのはドグマを通り越して人間の敵としか言いようがないだろう。もちろん、そこまで宗教的な過激な行動に出る背景には止むに止まれぬ状況があることは理解できるが、他人の不幸の上に自分の幸福を築くというのは、反宗教的であることに間違いはない。
 絶対者の存在を祭り上げる宗教というのは、絶対者は信仰者の手の届かない存在であり、信仰者はそのしもべとなって仕えることになる。このパターンは、別の面からみれば、人間である信者の存在を軽くするものであり、それは、信者自身の主体性や責任感を軽減する。いわば、楽な信仰といえる。自分の人生を自らが判断せずに絶対者にゆだねるというのは気楽なことだ。
 絶対者に手を合わしてお願いをすれば、その願いがかなう。もしもこんなことが現実に起これば、世の中のほとんどの人間は、働きもせずにお祈りばかりをして人間社会は崩壊するだろう。交通安全のお守りをぶら下げた車とそうでない車の交通事故に合う確率を正確に出せば、絶対者の客観的存在など有り得ないことが分かるだろう。
 仏教は、このような絶対者の存在を否定する。ところが実際には仏教と他の宗教との違いが分からずに混乱しているのが現状だ。本来、釈迦の教えには無かったものが、後人の創作によって付け加わり、釈迦の真意から離れたり、反するものが仏教として当然のように認められていることが多い。
 
   
(三)仏教ではない仏教

 もし現在、釈迦が生きていて、仏教の現状を見たならば、おおいに驚きあきれて、
 「これはなんということだ。私の説いた教えである仏教が、名前だけはそのまま使っているが、内容は全く違った、仏教とは別のものになってしまっている。それを出家も在家もまったく疑問を抱かずに、ありがたいと言って手を合わせている。これほど奇怪千万なことがあろうか」と呆然自失するに違いない。
 最も釈迦が不審に思うのは、仏像や掛け軸に書かれた絵に手を合わせて拝んでいることだろう。釈迦が生きていた時代に本尊として仏像や仏の絵像があってそれを信者に拝ませたことはない。それどころか、釈迦は、仏像を作って拝んだり、仏などを絵に描いたものを拝んだりしてはいけない、と説いている。これらは拝む対象ではないと教えているのだ。むしろ仏の可能性を秘めた人間を拝みなさいと言っている。釈迦自身が自分の仏道修行として、人間を拝んだ体験も述べてもいる。どうしてなのか。理由は簡単だ。仏像や絵像よりも人間の方が比較にならないほど優れているからだ。
 人は多かれ少なかれ拝む対象によって人生が影響される。特に宗教的な目に見える形の本尊に限らなくても、個人の考え方の中でも、拝むような心で求めているものに生き方が影響されるのは当然だろう。
 教祖が、はりつけにされて殺されている姿を信者が拝んだとすれば、教祖をはりつけにした人間に対して憎しみが増大するだろう。そして、時には信者が集団となって武器を取り、宗祖を死に追いやった勢力に対して攻撃してゆくこともあるだろう。
 また、穏やかに微笑んでいる仏像を拝めば、同じように心が穏やかになる。しかし、苦しい時にいつも穏やかな顔の仏像を拝んで心を慰めたとしたら、自己満足して自分を納得させ、力強く現実変革をしてゆく力が出なくなることもあるだろう。あの世の救いの仏と言われるものを拝めば、死後の世界にあこがれを感じ、この世の不幸を諦めて自殺願望になる可能性もある。
 さらに、狐や狸や蛇などを真剣に拝むと、顔や姿形が拝んでいる対象に似てくるというのはよく言われている。
 拝む、という信仰心は人間として尊い。しかし、釈迦はそこに潜む落とし穴を厳しく見据えて後世の信仰者に仏教の誤った解釈をしないように忠告をしている。ところが結果的には釈迦の願いはかなわずに、「ありがたい」と言って仏、菩薩、如来などと言われるとあれこれ構わずに手を合わせる現状になっている。
 一見、ありがたく見えるこれらの像は、いずれも、一つの固定した心の状態を定着させているに過ぎない。喜怒哀楽のそれぞれの像の表情は、当然、それ以外の心の状態を表現することはできない。釈迦は心の状態は良きにしろ悪しきにしろ固定されているものではなく、瞬間々々目まぐるしく変転するものと説いている。それをある一つの仏像を拝んで、心を固定させようとすることは、心の優れた働きを抑圧することになる。この本尊としての仏像の欠陥を補おうとして、怒ったり、泣いたり、笑ったりした姿を一つの像として作ったりしたものもあるが、足し算で解決する問題ではない。
 もともと釈迦の教えに仏像や絵像を拝めば、それがなにか超人的な力を出して助けてくれるなどということは全くない。拝む、祈るという行為は、自己の心の中から最も優れた能動的な働きを顕現させようとするものだ。人間の心が本体であり、仏像や絵像は影にほかならない。だから釈迦はそれらは手を合わせて拝む対象ではないと戒めたのだ。
 時々、年末などに報道されることだが、仏像の掃除をするのに、僧侶がたくさん集まって経文を唱え、魂を抜いてから掃除をする。終わると、また、経文を唱えて魂を入れるという。これなど、釈迦が見たら、開いた口がふさがらないだろう。本来、仏教に物質的なものに魂が宿るなどという思想はない。まして、その魂を抜いたり入れたりするのに、経文を唱えるなどということは、釈迦が説いた経典の意義が全く分かっていないといえる。
 釈迦が生きている時に、死後の未来において自分の説いた仏教がわい曲されることを心配して様々な忠告をしているが、残念ながら心配していた通りになっている。仏教ではない仏教をありがたく拝む人々やそれを生活の糧にする僧侶がいくら増えたとしても、仏教の真実の素晴らしさはどこか遠くへ行ってしまうばかりだ。
 もちろん、美術品として鑑賞することと信仰の対象として拝むこととは別の次元の話だから、仏像や絵像の芸術的、歴史的価値を否定するものではない。
 
   
(四)僧侶とは何か

 よく荒行を成就した僧侶や高僧に対して、生き仏に接するように合掌をして拝む光景がある。また、僧侶が葬式などにおいては読経し、死者に対する扱いをさまざまに教えたりする。その後の法要などの取り行い方も指示をする。そうすると、僧侶というのは仏に近い者であり、死について普通の人には分からないことを知っているもので、死を扱うことができる選ばれた人のように思われる。
 ところが釈迦は、仏と普通の人との間には本質的には全く差がないと説く。そうすると、僧侶と普通の人との間に差がないことも当然となる。もし、僧侶になって修行しなければ仏教が分からないのであれば、暇と金のある人間の道楽になってしまう。もともと僧侶と普通の人との間の差は明確にあるものではない。頭を剃っているとか、袈裟を着ているとか、出家しているとか、こんな外形で判断できるわけはない。また、各宗派で決めている規定に従って僧侶という資格を得ているかどうかということなども仏教とは関係ない。僧侶の資格などというものを釈迦が決めるわけがない。
 それではどうして僧侶の存在があるのか、といえばその理由は簡単だ。僧侶たちが生活をするためであり、寺が金を儲けるためだ。簡単に確実に金を儲けようと思えば、今も昔も同じで利権や特権を得ることだ。
 仏教界は、普通の人には分からなくてできないことを僧侶にはすることができるようにした。こうすることによって、職業としての僧侶、企業としての寺院が存在できるようになった。この特権は釈迦の仏教とは関係なく、人間が意識的、意図的、江戸期には政治的に作られたものだ。
 当然ながら死後の世界のことは誰にも分からない。ということは別の面からいえば、どのように説明したとしても間違うことはないということだ。これに仏教の権威を“虎の威を借る狐”のように貼りつければ、これほど独占企業として安泰なことはない。結局、僧侶は資格が与えられた者以外はできない専門職として人為的に社会の中で作られたといえる。
 だから、葬式や法要のとき、僧侶によって戒名を書いてもらったり、引導されなければ死者が成仏しないとか、僧侶に読経・唱題してもらわなければ死者への供養にならないなどということは、僧侶が生活していくために都合よく作られた仕組みであって、仏教的には全く根拠のないことだ。人間の手の届かないところと人間との中間にあって、両者の橋渡しをするような僧侶の存在は、仏教上はあり得ない。
 もともと仏教は葬式や法要のためにあるものではない。現に、釈迦の説いた経文の中で、釈迦が導師となって葬式をしたとか法要を執り行ったという記述はほとんどない。もちろん、死後のことについて述べたところはたくさんあるが、それらは今生きている人間のあるべき姿を教える為のものであって、死者を送るためのものではない。
 寺や僧侶は、人々が死や死後の世界について分からなく、畏れをもっていることをうまく利用して、近世には社会的な制度なども都合よく作り、自分たちの立場を有利に築いた。その長い歴史が現在の人々の意識の中にも定着している。
 仏にすべての人がなり得る可能性を説いたのが仏教だ。そして、一人ひとりの心の中にある仏の可能性を自らが育て伸ばせよ、と教えるのが仏教だ。本来、仏教というものは僧侶とか宗派とか寺とか、そういった形にはめられた中にしか存在しないものではなく、すべての人々の心の中に息づくものとして説かれた。
 また、僧侶になるためには出家をしなければならなくて、その得度式のようなものもあるが、これもまた、仏教とは関係なく、後世の者が形式として作ったものだ。釈迦は出家しなければ仏教を悟ることができないなどとは言っていない。実際問題、仏道を求めて出家する者が増えたならば、現実の社会では働き手も減り、産業も発展しない事態になりかねない。現に、仏教関係者の多い国では科学や経済面の発展が遅れる傾向にあるとも考えられる。釈迦にとっては、仏教に熱心に修行する人が増えることによって社会の発展が阻害される、などということは全く想定外のことだ。
 真に出家しているかしていないかというのは、外形的な形や形式的な儀式によって決まるものではない。外形から見て、出家らしい頭髪や服装をしているからといって、本当に出家しているのかどうかは疑わしい。よく出家をして俗世間から離れるというが、たとえ山深い寺にこもろうが、陸から遠く離れた無人島でひとり暮らそうが、心が俗な欲求に振り回される状態では、出家とはいえない。出家しているかいないかは場所の問題でもない。
 僧侶の中にはいくらでも世俗的なものに執着している者がいる。いやむしろ、現在では一般的な見方としても、僧侶の外形をしていたとしても名誉や地位や金などを欲しがっているのは当たり前と思われている。出家という言葉はすでに形骸化しているとも考えられる。
 出家は形の問題ではなくして心の問題だ。一応、世俗的な欲望や本能や虚栄に執着する心から抜け出すことを意味している。確かに、私たちの日常において幸福感を阻害するものは、これらの限りない俗世の欲求の心が原因の場合が多い。しかし、釈迦の教えは、不幸感を作りだす自分自身の中にある欲望を切り捨てたり、それから逃げろ、と言っているのではない。人間の本能としてそれらを認めながらも、より大きな境涯になってそれらの小さな自己の心の働きを高い立場から見下ろすような境涯になることを教えている。これが出家の本来の意味だ。
 出家をして、世間の誘惑の多い環境から逃れるというのは、受け身の弱い精神状態だ。生活している環境に心の状態がマイナスに影響されるようでは、幸せを築くことはできない。むしろどのような悪い環境であったとしても強い心で環境をも変えていけるような生き方が仏教的といえる。環境の悪さを嘆いて不幸に沈むより、どのような環境であったとしても自分の心の強さによって、幸福に転換していくことが大切だろう。
 このことはよく蓮華の花にたとえられる。蓮華の花は、底の泥沼が深ければふかいほど、より美しい花を咲かせる。きれいな花を咲かせるためには、泥沼が深いことが必要条件となる。不幸は幸福になるための踏み台になる。この強さが仏教だ。
 仏教は、現実社会の中で、矛盾や不満に苦悩しながら生きている人々にこそ、実質的な出家をもたらし、希望への力を注入してくれるものだ。
 
   
(五)仏教の幸福観

 あらゆる宗教は何のためにあるのか。言うまでもなく幸せになるためにある。もちろん、仏教も人々が幸福になるためにある。この幸福ということは、言葉は一つだが、内容は非常に多岐に渡っている。細かく考えれば、すべての人、一人ひとりに、それぞれの個別の幸福があるともいえる。それは例えば、食事という一つのことをとってみても、健康な人には食欲を満たすという幸福をもたらすだろうが、消化器官の悪い人にとっては、痛みを予感させる苦痛でしかないだろう。また同じ麦飯を食べたとしても、現在の日本のたいていの人は、おいしくなくて楽しい食事にはならないだろうが、飢餓に苦しむ子供たちに食べさせれば、素晴らしい幸福をもたらすものになるだろう。
 また、自分の気に入った衣服を買い、それを身につけて繁華街を歩き、いい気分になっていた時、前から全く同じ衣服を身につけた人がやって来たとしたら、たちまち不快な気分になるだろう。ましやその相手が、自分の最も嫌いなタイプに思えるような人だったとしたら幸福感がずいぶん減ってしまう。さらに、久しぶりに贅沢をしようと思い、ホテルのレストランに入って食事をした時、近くの客に自分の食事内容が惨めに思えるような豪華な食事をする客がいたならば、期待した幸福感は消えてしまうだろう。同じように、家計をやりくりして子供のためにやっとピアノを買ってやり、ピアノが買えない家庭よりも豊かであると優越感に浸っている時、隣家がはるかに高価なピアノを買ったならば、優越感はしぼみ、劣等感からねたみの気持ちが出てくるだろう。
 子供の進学についても同じようなことがよくある。わが子が大学に合格して、不合格になった子供の親と比較して、幸せを感じた親が、うれしくなってあちらこちらと言い回っていた時、わが子の合格した大学よりも大幅にレベルの高い大学に合格した者に出会うと、それまで感じていた幸福感はたちまち失せてしまい、辱めを受けたように感じる。
 これらの幸福感は、他のものと比較することによって感じられるものだ。自分の方が比較する相手よりも優れていると思われる時に感じられる。見方を変えれば、相手が劣等感で惨めな思いをする、ということを喜ぶものであり、相手の犠牲、不幸の上に成り立つ幸福感と言えない事も無い。この幸福感の特徴は、他人との人間関係の中で感じられるということだ。私たちが感じるたいていの幸福感というものは、多かれ少なかれ、他人との比較によって出てきている。言わば相対的な幸福であり、周囲の状況の変化によって一瞬にして不幸に転換していく可能性を持っている。
 釈迦が説く幸福観はこのような相対的なものではない。そうかといって自己満足の幸福観では決してない。例えば、料理をしている時、包丁で指を切り血が流れ出したとする。客観的に体を傷つけ、痛みを感じているにもかかわらず、
「私は信仰しているから幸福だ。傷なんか、痛くないと思えば痛くない」などという類の信仰者がいる。これは失笑を買う事例だろうが、実際の私たちの人生においては、これに類するような考え方で生きている場合も多い。
 しばしば、宗教的な幸福感というものはこのような自己満足のように捉えがちだ。確かにそういう幸福感を求める宗教もあるが、仏教においてはまったく違う。
 仏教の幸福観は、自分の特質をしっかりと見極めて、自分にしかできないものを把握して、それを伸ばし続けていく人生のなかに見出すものだ。釈迦はすべての人、一人一人にこの世に存在している使命があると説いている。これは他の人と比較するものではなく、個人の生き方の完成を目指すものだ。
 人にはその人にしかないものがある。その人にしかできないことがある。これは、世界中に全く同じ人が二人と居ないことを考えればうなずける。しかし、自分にしかないものは一体何であるのかということを知ることは非常に難しい。一面から考えれば、それが分かれば、自分にとって最高の人生が歩めるともいえる。
 仏教は自分自身を正確に深く見つめることによって、自分にしかないもの発見させる教えである。自分では自分の顔が見えないように、いくら思索を練ったとしても自分を正確に見つめることは難しい。ところが鏡に映してみると明らかに顔を見ることができる。いわば、釈迦の教えは鏡のようなものだ。
 釈迦は自己発見のためには、古い自分を捨てて、新たな可能性のある自分にしなければならないと教えている。そうすると現在の自分を捨てて新たな自己発見をするためには、執着心の強い自分の弱い心に振り回されたのでは達成できない。自分の心をコントロールできる位置に自分自身を高めることだ。いわば、自分自身が自分の心を教育できる先生になることだ。そのためには、黙って座っていたり、山寺でお経をひたすら唱えたりしても、自分の先生になれるものではない。新しい自己の特質の発見のためには、嫌がる自分を厳しく指導して、人の波の中で激しく揉まれることだ。人は人によってしかは磨かれない、これが仏教の基本理念だ。
 釈迦は木の下で黙って座って悟りを開いたと物語のように作られているが、実際には、悩める人々の真っ只中に飛び込み、ともに苦しみながら、生きる希望の経文を説いていった。そうする行動の中で、釈迦自身が仏という特質を磨き光らせていったのだ。
 当然ながら、他の人にはない自己の特質を伸ばしていくのは、現実の社会であり、日々の生活の中に、あるいは仕事においてだ。第三者から見て、経済的に破綻して衣食住にもこと欠いている生活をしているのに、「私は信仰しているから幸せだ」というのは宗教に酔わされているとしか言いようがない。それは現実から逃避し、自分で自分をごまかして逃げているにすぎない。そういう信仰は積極的に現状に挑戦して生活を打開しようとする気力も失わせるものだ。
 釈迦の教えは観念論でも気休めでもなく常に生活、生計と密着している。宗教は形而上の神聖なものであり、生計は形而下の俗っぽいものであると言うのは宗教者の都合のよい逃げ口上だ。釈迦は、生計や病気のために苦しんでいる人を目の前にして、その苦しみを現実に乗り越えさせようとして、具体的な方途までも示した。
 たとえ現在は貧しくとも、自分の特質を生かすことによってやがて経済的に豊かになってゆくところに幸福を感じる。他人との比較によって優越感から幸福を感じるのではなく、現実社会の中で確実に成長している自己自身に対して満足感、幸福感を得ることができる。この幸福感は、他者との比較によって崩れるものではなく、永続性がある。
 使命に目覚め、果たして行くところに自己完結的な幸福がある。それは、自己満足でもなければ、相対的な幸福でもなく、言わば絶対的な幸福といえるだろうか。
 
   
(六)自己と環境

 人はさまざまな環境の中で生きていることは当然だが、その環境をどのように自己が捉えているかということもまた様々だ。よく言われることだが、同じ環境の中で生活していても、ある人は不満タラタラで不幸を感じている人もおれば、逆に、感謝の気持ちで、幸福を感じている人もいる。同じ二DKの家に引っ越したとしても、それまでの生活が非常に狭く劣悪な家であったとしたら、豊かな生活環境に喜ぶだろう。逆に、大邸宅に住んでいて、引っ越したとすれば、惨めさを感じるに違いない。
 これは、自己の置かれた環境をどのように捉えるかは、その人の心の状態によることを示している。その人の人生が幸福感に満ちていたか、逆に不幸を感じるものだったかは、自分の置かれた環境をどのように捉える心の状態であったのかによって大きく影響される。
 時に、どのような悪い環境の中で生活しなければならなくなったとしても、感謝の念を忘れずに生活していくとが大切だ、などと言われることがある。しかしこれは、往々にして諦めの心になり向上へのエネルギーを損ねることもある。逆にどのようなよい環境の中に生活するように変わっていったとしても、いっこうに満足できなくて、よりぜいたくな環境を求めて苦しむ人もいる。こういう人はどんなに良い環境になったとしても結局は満足できない人生を歩む。
 仏教における自己と環境の捉え方は、これらの二つの典型的な捉え方のどちらにも属さない。これらの二つは静的な捉え方であり、仏教は動的な捉え方をする。人間の心は常にダイナミックに動いている。あるときは満足するかもしれないが別の時には不満足にもなる。このように揺れ動く人間の心を向上させる方向に向かわせていくのが仏教だ。今は置かれている環境、立場を自分を生かすことのできる場と捉えて感謝し満足すると同時に、さらに自己の拡大を現実に達成するために環境に対して勇敢に働き掛けていく。現在に満足すると同時に未来を切り開いていくなかに環境とのかかわりを喜びとできる。
 自己は環境を変革する主体だ。環境を変革できるような能動的な自己になることを釈迦は教えている。環境は影であり、その影を作り出した本体が自己だ。本体が曲がれば、影が曲がるのは道理だ。曲がった影を本体にふさわしいものとして諦めるのではなくして、自己を常に向上させ変革していくことによって影を自由に作り上げていけるようにする。この自己変革の持続が、同時に環境の変革の持続へとつながる。そうすると日々、新鮮な気持ちで今の環境の中で生きていくことができる。それの積み重ねによって自分の思い描き、望んでいる環境を手に入れることができる。
 生活に満足するためには、環境が大切なのではない。そこに生きる主体である自己が環境を変革できるような自己になることが大切なのだ。環境を嘆くよりもダイナミックに挑戦できる自己を作り上げることに精進することが必要だ。これが仏教の神髄である。
 一人の自己の変革は、単にその人個人の環境を変革するだけにとどまらない。釈迦は、ひとりの人間の変革が、家庭、職場、国家社会へも影響与えていくことを説いている。仏教を個人的な救いや満足を得るための信仰と思いがちだが、そうではない。仏教ほど厳密に個人と社会との関係性を説いた宗教はないといえる。
 考えれば、どのような素晴らしい宗教があり、どれほど熱心な信仰を保った信者が多くいたとしても、戦乱の犠牲になってしまったら終わりだ。人間の幸せを求める宗教であれば、信仰者は人間への冒涜である戦争を阻止するために、社会的に力を持つのは当然だ。そうしなければ宗教による幸福は絵に描いた餅に等しくなる。宗教が信者の個人的なレベルで終始したり、信者の集団だけにしか通じないドグマで社会を無視あるいは、独善と偏見で解釈したとしたら社会の発展に寄与するどころか、害さえもたらす。仏教はこのような宗教とは対極をなすものであり、人々の社会活動と密接に関わりながら社会の繁栄を求めていくものだ。
 それでは、どのように社会や環境へ関わっていくのか。釈迦はその基本姿勢として慈悲を説いている。愛は、憎しみと相対関係にある。愛を注いだ相手が、それに応えなければ憎しみとなる。愛する対象に対して、自分の所有欲を満たし、自由にコントロールできるようになることが、無意識の中にある。自己を犠牲にする愛というものがあるかもしれないが、愛することによって犠牲者が出るというのは愛という行為の中に憎しみや人を傷つける要因が含まれていることを示している。
 また、愛する場合、往々にして相手に対して、優越感を持っている場合が多い。自分よりも相手が劣っているからこそ愛を感じる。また、変に自分に対して優しく接してくる者がいる時、その人と話し込み、長い期間付き合っていくと、相手が自分を見下していることに気がつく場合もある。愛を注いでいる相手が、自分より弱者であると思える間はよいが、実は強者であったと分かった時、愛は瞬間に憎悪へと変わっていく。これが個人対個人の場合はまだよいが、集団化してくると宗教戦争にまで発展し、愛の美名のもとに殺りくが行われることにもなる。
 これに対して仏教の慈悲は、慈父悲母といわれるように父性と母性の両方を兼ね備えたものだ。一面からいえば、父と母とは対極的なものだから、慈悲の概念の中には、愛に対する憎悪のような対立する感情はない。
 キリストは右の頬を打たれたならば左も出せと教えるが、釈迦は、教えに反抗して敵対した従兄を生きたまま地獄へと突き落とし、やがて懺悔し反省した時に成仏へと導いた。この二人の生き方は、どちらが周辺の人々さらには国家社会の変革をなし遂げることができるだろうか。キリストの生き方は浪漫主義的なドラマや小説では、感動を呼ぶかもしれないが、それはあくまでも虚構の世界だ。ロシアの小学校がテロ集団に占拠された時、「子供を殺すなら先に私を殺しなさい」と訴えた壮年がいた。テロリストは何の躊躇もなく、その壮年を射殺した。このテロリストのようなたぐいの人間は程度の差こそあれ、社会の中に少なからずいる。釈迦はテロリストのような人間への対応の仕方も説いている。もちろん武力を使うわけではないが、最終的に社会悪に勝利する道筋を示している。
 仏教は、現実離れした過去の浪漫的物語でも耳当たりのよい精神修養の話でもない。今を生きる自分と、それを取り巻いている社会、国家に対して積極的に働き掛けることによって、自己と環境をダイナミックに変革しようとするものだ。
 
   
(七)無常と神秘

 無常という言葉は仏教用語だが、一般的にもよく使われる。ただ、その意味はたいてい、この世のはかなさ、わびしさなどの感情を伴って使われる。確かに、お金や財産などといったようなものは経済的状況によっては大きく目減りすることもあるし、いつまでも元気でいてほしいと思う親もやがては年老いて行く。
「いつまでもあると思うな親と金」などと言われたりもする。そして、自分自身もやがては老化し、死を迎えなければならない。そう思えば、人生におけるさまざまな行いが虚しく思えてくる。どうしても無常という言葉の中には平家物語の書き出しのような感情がつきまとう。
 しかし、釈迦はもちろん無常は説いたが、それは主観的な感情を伴ったものではない。はかなさなどは後世の人が、都合のよい感情として移入したものだ。釈迦が説いた無常は、物事の実在する姿を客観的科学的にとらえた言葉だ。この世に存在する森羅万象すべては生々滅々を繰り返している。全く変わらないように見える海岸の大きな岩も、何百年何千年と波にさらされているうちに、形が変わっていく。地球上の地形も数億年もすれば、大きく変わっていくだろう。この世に永遠に変化しないものなど存在しない。だから釈迦は「常なるものは無い」という真理を説いたのであって、無常感を説いたのではない。
 さらに、単なる真理を説いたのでもない。真理はそれ自体に善悪はなく、人間のために利用して初めて価値を生むことになる。釈迦は無常を説きながら、その根底にあるものに目を向けさせようとした。それはたとえて言えば、宇宙は常に新星ができたり、寿命を終えた星が爆発したりと消滅の変化を繰り返している。しかし見方を少し変えれば、いくら消滅を繰り返そうが宇宙の存在そのものは全く変わらない。宇宙が無くなるということはありえない。宇宙の存在そのものは、有るとか無いとかという概念で捉えられるものではない。例えてみれば、大地とその上に生育する草木との関係に似ている。植物は新しく芽を出し育つものもあれば、寿命を終えて枯れるものもある。生まれたり滅したりを休むことなく繰り返しているが、植物を育んでいる大地は一貫して変わらないものだ。釈迦はこの世のさまざまな現象を植物に例え無常とした。そして無常を通して、変転きわまりない現象世界を生みだしている大地の存在を教えた。だから、無常は大地を教えるための方法論として説いたのだ。無常の世界の中で苦しむ人々が真に救われ、幸福になるためには、大地に人生の根を張らなければいけないと教えたのだ。
 年代には種々の説はあるが、三十歳で悟りを開いて、八十歳で入滅するまでの五十年間、釈迦が一貫して説き明かそうとしたのはこの大地であった。具体的な説き方は場所や、背景や、相手やその他さまざまな状況に合わせて、千変万化の多彩な手法で表現されている。それだけに膨大な量の経典になっているが、全編通じて教えたかったのはこの大地のことに他ならなかった。
 それでは、幸福の根源とも言えるべき大地とは一体何か。これが把握しにくいが故に、さまざまの宗派や学説が現れたともいえる。その大きな原因は、《存在》という言葉では捉えがたいところにあるといえる。実際の大地であれば目に見えて踏みしめているわけだからその存在は確認できる。釈迦の大地は、無常の世界を創り出し、支えている働きそのものを指しているわけだから、有るといえば有るし無いといえば無い。釈迦自身もこれを説明するのに、有るとか無いとかでは捉えられないが、それでいて、有るとか無いとかに表出してくる、と言っている。いわば、宇宙創造のビッグバンのエネルギーのようなものだろうか。エネルギーの存在は現象として現れてくる。現象がなければエネルギーもなかったことになる。現象があったということはエネルギーが存在していたことを意味している。
 釈迦にとっては無辺際な宇宙を観ることも、一個の人間を観ることも同じだった。宇宙のかなたへ限りなく突き進んで思考をめぐらすことは、一個の人間の心の奥底へ限りなく進むことと同じだった。釈迦が宇宙の根源に限りないエネルギーの存在を発見したことは、そのまま、人間の心の中に限りないエネルギーの存在を見いだしたことにもなる。
 釈迦は、心の中にある偉大なエネルギーを例えば仏Aと名付けた。また、そのエネルギーの存在を感知することのできる知恵を仏Bと名付けた。さらに、エネルギーを現実の人生や社会の中で発揮させてゆく行動を仏Cと名付けた。これらの三つの仏は、ひとりの人間の心の中にある可能性と働きを表している。それは老若男女を問わず、また民族や人種に関係なく、すべての人々が共通して持っている特質だ。その普遍性のゆえに、後世に広く長く流れ通う教えとなった。
 釈迦が多くの人々に苦悩からの救済のために教えた道は、三つの仏を自らの心の中に呼び起こし、力強く苦悩を乗り越える現実生活へと変革させることだった。それは、無常感で自己満足したり、諦めの感慨に浸って心を慰めたりするのとは、対極に位置するものだ。
 釈迦は、それまで誰も存在を知らなかった心中の宝を世界で初めて発見した。しかも、その発見を単なる発見として終わらせずに価値創造させる方法までも発明をした。釈迦が数千年過ぎ去った現在においても、地理的にも非常に広く尊敬の対象とされているのは、取りも直さず釈迦の発見が、世界的な大発見であったことを証明しているといえる。ただ残念なのは、現状は発見されたものを正しく理解できる者が減ってしまっている状況だ。
 「無常」と同じように仏教が誤解されている言葉に、「神秘性」がある。仏教寺院や仏像などにまるで何かこの現実の世界とは違う神秘的な世界が漂っているかのごとく説明する人がいる。仏教が現実から離れたこの世の世界ではない分野を扱うもののごとく思っている人もいる。ところが釈迦は、神秘性を否定している。神秘性によって物事を把握したり判断することは真実を見極める障壁になるからだ。釈迦は自ら説いた仏教を明鏡だと言っている。仏教は自分自身をありのままに映し知らせてくれるものであり、社会や世界の状況を曇りなく明確に映し出す働きを持っている。
 神秘性は、理解が及ばないところに出てくる。仏教を学習する中で、理解不能な壁に当たった時、さらなる釈迦の真意を求める道を放棄して、あやふやに解らないものとして神秘性の煙でごまかすことが多い。そこに、人の嗜好から来る別世界へのあこがれの感情を帯びさせた神秘性というものを仏教とは関係なく取り入れてしまったのだ。
 もちろん釈迦は、自分の教えの内容をすべて理性的に理解できるとは言っていない。もしそうなったら、それはすでに宗教ではないだろう。しかし、科学が発達し、物事をより理性的に捉えることができるようになればなるほど、仏教の解明が進んでいくことは事実だ。それほど釈迦は理性の極地に立脚していたといえる。
 神秘性は共通理解を得る人々の広がりは狭く、理性は普遍性を持ち共通理解できる人の広がりが大きくなる。特殊な神秘性を持った宗教は、特殊な限定された人々にしか信仰されない。時にその教団は反社会的な集団となってしまう場合が多い。反対に、理性的であればあるほど、普遍性も深まり、より多くの人々に納得と共感を持たせる。
 釈迦は理性と普遍性を最も大切にして仏教を説いたのだった。
 
   
(八)心について

 仏教において心というのは、一般的に使われる心という言葉の概念よりもはるかに広く深い内容を含んでいる。人の心の働きを外面の世界に近いところから表層として内面へ向かうにつれて深層と考えて分析をしてみる。
 まず、外界の世界が心の世界へ入ってくるための窓口になるのは、五官(目・耳・鼻・舌・皮膚)などだ。それらから入ってきた情報を最初に受け取るのはいわゆる五感だ。五感の層は病的なものは別にして、外からの刺激があったときに働きをなす。次に、五感によって感じられた情報をさまざまな観点から判断していくのは意識の層だ。この層では、知識や過去の経験や感覚が蓄積されていて、それをもとに自己との関係性も含めて総合的な判断ができる。さらに、外界からの刺激や情報が無かったとしても、自らの中でさまざまな思考や創作をすることもできる。
 その次の深いところにあるのが無意識の層だ。自己の意識的な操作ができないところで、親からのDNA的な要因の受け皿になっている面もある。顔形が意識に関係なく親に似ているように、無意識の層も人それぞれによって生まれながらにして特徴づけられている傾向が強い。「年を取って知らないうちに親に似てきていた」などというのは無意識の層が現実の生活や人生に影響していること意味している。
 次の深層は、人間としての命のDNAそのもの層だ。人間としての特徴、共通部分を湛えていて、外界の世界の刺激によって変化することはない。人間が赤ん坊の時からオオカミに育てられたとしたら、形態としてはオオカミと同じになるかもしれないが、紛れもなく人間にほかならない。他の動物とは、明らかに差異があり、人間としての可能性を擁している。その中には長い人類の歴史の積み重ねが集約されている。
 釈迦はこれらの層のさらに奥、根底部分に太陽のマグマのようなエネルギーがあることを発見した。この層では、人間とそれ以外の命との区別はない。すべての生あるものに本然的に存在しているものだ。それは、単にひとつの生命体に独立して限定された狭いものではなく、宇宙森羅万象と一体化したものだといえる。よく、「仏教では生物以外のものにも命が宿っていると考えている」と言われたりする所以だ。
 仏教ではこのような全体を心と表現している。
 釈迦の認識はさらに進んだ。釈迦が注目したのは、これらの心の各層はそれぞれが他の層から影響されずに独立して働いているのではなく、最深部のエネルギー源から表層の五感まで一貫した影響力の下に成り立っているということだ。そして、エネルギーを発揮させる様相によって、表層への大きな力となっていくことを見抜いた。その影響力は、これまで運命として諦めていた苦悩までも自らの心の中の力によって変革させることができるものだと確信した。さらには、生老病死という人間の根本の苦しみさえも乗り越える力になることを悟った。
 仏教は、心の持ち方次第で生活が良くなるとか、感謝の気持ちを持てば平穏になるとか、精神修養をして心を入れ替えれば幸福になるとか、このような次元の教えではない。釈迦が人々の救済に生涯を捧げたのは、どのようにしても逃れられない人間の苦しみを心の根底のエネルギーを表出させることにより、崩れざる幸福境涯の人生を歩んでもらいたいとの深い決意からの行動だった。釈迦は、「すべての人々の苦しみは自分の苦しみだ」と言っていることを考えれば、場所や時を超えて遠い未来の先までも人々を幸福道へと導くことを使命としていたことが分かる。
 心のエネルギーはいったい、どのようなところで発揮されるのか。釈迦はエネルギーの存在を単なる理論や観念で終わらせるのではなく、それが現実に働く場というものも明確にしている。
 時に忘れがちになるが、人間は、生きることのできる環境とのつながりの中でしか生存できない。空気、適当な気圧、日光、大地、食物のできる環境など、外の世界とおそらく無数に近いほどの結びつきの上に生きている。その外の世界と一時的には切り離せることはできたとしても、日常的に生存を続けることは不可能だ。いわば、環境と人間は一体不二の関係で共存している。もちろんこれは人間の命に限ったことではなく、すべての生物にいえる。釈迦はこのことを、心の根底のエネルギーは外界の環境と融合するような形で存在していると捉えている。
 一人の心のエネルギーが力強く働く場はその一人が密接なつながりを持っている環境の中にある。決して、亡くなって行くあの世でのことでもなければ、現実から逃避した別世界の話でもない。
 そのうえで釈迦は一人の人間が生存する場について考察をしている。まず一つには、具体的に地球上のどこかの国や土地で、ある一定の年代に生活しなければならないことをあげている。これは分かりきったことかもしれないが、他の宗教には現実を無視したり逃避したりして別の世界に存在の中心を据えるものが多いことを考えれば、極めて重要なことだ。
 二つ目には他の人間との関係の中で生きてゆくことだ。さまざまな社会体制や風習などがある中で生きてゆかなければならないことを明かしている。他の人々との関係性の中で自己が存在していることは紛れも無い事実だ。これも重要なことで、もともと釈迦が人々の救済の人生を歩む決意をしたのも、現実に苦しんでいる人々と親しく接したからだ。人間社会を離れて仏教はない。釈迦は生涯、人間の中に入り人間の中で死んでいった。そこにしか仏教の力を生かせる場はないからだ。人間社会から離れて山にこもったりして修行をするというのは、釈迦の教えに反している。
 三つ目には、人それぞれ個人によって生きる場が違うということだ。同じ環境の中で生活していても、ある人はそれを不満に思い、愚痴と文句を並べ、自分を不幸と感じるかもしれない。逆に別の人は、恵まれた環境と思え、満足と感謝の気持ちで明るく幸せに生きるかもしれない。人間は客観的に同じ生活環境だったとしても、人それぞれによって捉え方は千差万別だ。釈迦は同じ顔の人が一人もいないように、同じ環境で生活していたとしても、その人にとって生きている場というのは相違していると説いている。
 釈迦は、これらの三つの存在する場の中で心のエネルギーは力強く発揮され、自己も環境も変革することができると説く。釈迦の核心は、仏教はいかなる国や時代や社会、さらには個人差なども乗り越え、さまざまな形で感じている苦悩を幸福へと転換していく力であることを説くところにあった。
 仏教は一人ひとりが内蔵している宝石を現実に輝かせる力と方法を教えている。しかし、長い年月の間にその宝石の所在が忘れられてきた。時には政治体制の中に組み込まれたりして、仏教本来の姿から離れて、葬式や形式的な行事が仏教であるがごとく錯覚させるようにもなった。また、仏教の研究者や僧侶が、いたずらに経典を曲解して、自分の自己満足と功績を求めた結果、釈迦の真意から離れてしまった現状もある。
 釈迦は現実から離れた特別なこと説いているのではない。仏とは人間の優れた振る舞いであり、人間とは仏の根源であると言っている。その上で人間が幸福になるための道を説いた。もう一度この原点に返って、釈迦の教えを謙虚に学べば、そこに輝く宝石を発見するに違いない。
 
   
第Ⅲ章『釈迦の生涯』

(一)家を出る

 釈迦が生まれたのは、今からは二千五百年ほど前、インドの北方のネパールだった。当時インド周辺は、大小さまざまな部族が、独立した自治国を作っていた。ただ、国と国の境界が厳密に仕切られて交流ができない状態ではなくて、兵士ではない一般の民衆の行き来は、比較的自由にできた。
 人々の生活状態は、都市なども発達していて、人口の集中がある程度進んでいた。
 釈迦は、比較的小さい部族の王の子供として生まれた。勢力の強い大国の部族は、常に中小の国を自国に取り込もうとする動きをしていた。釈迦の国も、隣国の大国からの脅威をいつも感じて、肩身の狭い思いをしなければならなかった。
 釈迦は、小国ながらも国王と后の間に生まれた。しかし、母親は生後すぐに亡くなってしまった。幼少期は、叔母によって育てられた。彼は生母はいなかったが、恵まれた環境の中で成長していった。学問所のようなところでは、よく勉強ができる賢明な子供であった。また、物事を深く考えていく性向と感受性の強い性格を持っていた。表情は、まじめで、一見すると思い詰めているようにも感じられたが、自然や他人に対する慈しみの心を表すような優しい眼差しをしていた。
 王子なので、やがては、父親の王位を継がなければいけない。そのときのために、王として体も鍛え、訓練しておかなければならない。それで、武術や兵法などもしっかりと身につける必要があった。しかし成長するにつれて、彼は王という権力者になり、権謀術策使って、他国を攻めるというようなことは、自分には向いてないと考え始めていた。
 純粋な正義感と誠実な行動力は磨かれていったが、その目指す方向は、武力による覇権(はけん)ではなくて、人間の苦しみを克服するためにはどうしたらよいのか、という人類救済の目標へ向かっていった。
 幼くして母親を亡くさなければならなかったとのはどうしてだろう。父親は小国の王としのいつもさまざまな悩みに振り回されている。果たしてそんな人生でいいのだろうか。また、多くの人々も大小さまざまな悩みを抱えながら生きている。根本的には、誰も皆、いつかは死ななければならないという悲しみを抱えている。
 彼は自他ともに深く見つめていった時、「人間とは何か、人生とはどのように生きるべきか、幸福とは何か、人は救われるのか」という根本問題が頭の中に大きく広がっていた。
 やがて彼は結婚する。間もなく男の子が生まれた。もし自分が王位を継がなかったとしても、わが子が後を継いでくれる可能性ができた。彼はこれで、父親への、王位を継承しないという不孝は免れると思った。
 人間は、人間として生まれて最も幸せな人生を歩む権利を持っているに違いない。その権利とは、いったいどのようにすれば万人が手に入れることができるのだろうか。それをつかみ、人々を幸福へと導きたい。
 釈迦の出家への思いが募っていった。出家するということは、一時的には、妻や子、父親に対して悲しい思いをさせたり、期待を裏切ることになるかもしれない。しかし、後に悟りを開いて、すべての人を人間の根本的な不幸から救うことができるようになれば、妻や子を真実の幸福に導くことができ、父親への最高の孝養もできると思えた。
 ある闇夜のこと、釈迦は意を決して、城を出た。そして、見つけられて連れ戻されないように、できるだけ母国から離れたは遠い国へと旅立った。まだ、二十歳前半の若者だった。
 
   
(ニ)悟りを開く

 まず釈迦は、悟りを開くために、二人のバラモンの仙人を師匠として修行した。二人とも当時は、バラモンの悟りの最高の境涯を体得していた。弟子はそれぞれ何百人も持っていた。そのうちの一人は、「万物に対して一切、執着心を持たない」という境地に達していた。修業方法は座禅を中心に行われていた。釈迦は、どの弟子よりもまじめにまた、積極的に修行に励んだ。その結果、ずいぶん早く、師匠と同じ境地を獲得することができた。
 しかし、釈迦は満足できなかった。確かに、すべての物に執着しなければ、欲望から出てくる悩みは減少するだろうが、それは人間の苦しみのわずかな部分でしかなかった。しかも、それを人々に説いた時、個人的な自己満足として幸福を感じることはできるだろうが、すべての人に強要することは自由の束縛になった。何より、欲望を消してしまえば、働く意欲もなくしてしまうと思えた。釈迦は、一人目の仙人のところ去った。
 二人目に仕えた仙人は、「無我の境地」を悟った者だった。物事の真実の姿をとらえるためには、どうしたらよいのか。思索すること自体がすでに人為的であり、その思索によって得られる境地は、人為的にならざるを得なく、すでに真実から離れてしまう。だから、思索する自分自身をも無にして、無我の境地で物事を見たときに真実を把握できる。このようなものだった。
 釈迦は、二人目の仙人にも全力で仕えて修行した。その結果、他の弟子たちよりもはるかに早く師匠と同じ境地に達した。しかし、釈迦は無我の境地にも納得できなかった。無我の境地は、どこまでも、観念論だった。無我の境地になって真理を見たとしても、現実の生活の中に戻れば、苦悩が渦巻いていた。その苦悩を解決するためには観念論では何の役にも立たなかった。釈迦は、二人目の仙人のところからも去った。
 世間で、最高の悟りを得たと言われている二人の仙人に教えを受けても、万人を救える教えを得ることができなかったので、釈迦はバラモンに師事することをやめた。
 そして今度は、自ら悟りを開くために苦行することを決意した。彼は多くの求道者たちが苦行していた林の中へと入っていった。それからさまざまな苦行に、全力でに取り組んだ。苦行の目的は、汚れた肉体を苦しめ抜いて精神を分離させ、それで肉体に拘束されない精神の自由を得ようとするものだった。そのために、肉体を苦しめる非常に多くの方法が考え出されていた。
 例えば、食事を一切取らないこと。爪や髪の毛を切らないこと。片手を真上にあげたまま、何年も下ろさないこと。口や鼻で呼吸をしないこと、等々である。真剣に苦行に取り組むと、十人中九人は死んでしまった。汚れたは肉体を滅ぼしたわけだから、悟りを開いたことになる。しかし同時にこの世からも消えてしまったわけだ。
 釈迦は、多くの苦行者の中で、だれよりも激しく自分の肉体を痛めつけた。共に苦行をしていた者たちは、おそらく釈迦は死ぬだろうと思っていた。ところが、普通の者であれば死んでしまうような苦行にも耐え抜いて死ななかった。周囲の者たちは、
 「間違いなく釈迦は、生きながら、素晴らしい悟りを開くだろう」と多くの修行者が集まり期待をするようになっていった。
 ところがある日、釈迦は突然、苦行を止めてしまった。そして、
 「苦行によって悟りを開くことは、海に猿を取りに行くようなもので、全くあり得ないことだ。もともと、肉体を不浄なものとして忌(い)み嫌うこと自体が、すでに人間としての最高の悟りから離れてしまっている」と宣言をした。
 釈迦は苦行の林を悠然として出て行った。この時、釈迦の威厳にあふれた姿に感動して、苦行を止めて釈迦に従って行った者も多かった。彼らは、釈迦はおそらく、間もなく素晴らしい悟りを開くだろう、と期待をして付いて行ったのだった。
 釈迦は自分を慕ってくる人々と共に、さらに求道の旅を続けた。やがてガンジス川の支流のほとりにたどりついた。彼はそこで苦行で汚れきっていた体を清めた。だれよりも厳しい苦行に耐えた体は、まさに、骨と皮だけであった。すでに立ち上がることさえできないほど衰弱してきていた。そこに、地元の長者の娘が、牛乳で炊いた粥(かゆ)を供養として持参してくれた。彼はそれを食べて体力を回復していった。
 元気になるとまた、求道の旅は続いた。やがてブッダガヤーの地方に行き着いた。釈迦はそこに生えていた一本の大きな菩提樹の木の下で座禅を組んだ。夕暮れ間近のことだった。それから、静かにこれまでの求道のあり方を総括していった。釈迦の心に現れてきたのは、魔のささやきだった。
 「釈迦よ、お前は何と無意味なことをしていることか。全人類救済の悟りを開くなどと、そんな大それた悟りが、あるわけでもなければ、成就することなどできるはずがない。つまらない無駄骨を折るよりも、早く、故国に帰れ。そうすれば、妻や子も喜ぶし、父親も安堵(あんど)するだろう。親として子供として、立派に生きることのできない者に、どうして悟りが開けるだろうか。そんなことできるはずがないのだ」
 釈迦の求道に対する熱意をことごとく打ち砕くような誘惑や脅しや説得が、永遠と続いて行った。時間は流れてゆき、深夜を過ぎていった。釈迦は心の中で、必死になってそれらの魔の働きと戦った。そして、よく晴れた東の空が白みかけた時、釈迦は生命が歓喜に躍るような悟りを実感した。夜がすっかり明けた時、彼はゆっくりと立ち上がり、川で沐浴(もよく)をした。そして、共について来てくれた修行者たちに語った。
 「私は、ついに、悟りを開くことができた。その悟りとは、宇宙森羅万象すべてのものは、根本において一体不二の関連性の下に存在しているということだよ。この関連性が、本来の姿を保っている限り、存在しているものはすべて最も素晴らしい輝きを発揮するものなのだ。ところが現実には、さまざまな歪みにより、本来の最良の関連性から外れてしまうことが多くあるのだよ。ここに、多くの不幸の根本原因がある。私は、その歪んだ関連性を本来の関連性へと回帰させる方法を悟ることができたのだよ」
 釈迦は前日までとは明らかに違った覚者の風貌を身につけていた。修行者たちは皆、釈迦が仏の悟りを体得したと確信し、弟子としての礼儀をもって、その前にひざまずいた。釈迦は続けて言った。
 「だが、この悟りも実は観念にすぎないのだよ。真実の悟りは、悩める人々の中に飛び込んで行き、救済活動をすること自体の中に、深まっていくものだ。悩める人々と共に悩み、手を取り合って共に幸福への道を歩むところに、真実の仏が存在するんだよ。そこに求道者の最高の歓喜を得ることができるのだ。だから、究極の悟りとは、固定された到達点ではなくて、救済の過程そのものを言うんだ。仏は、仏の行動を為して初めて仏と言える。仏の行動をしない仏は、もともと仏ではないんだよ」
 釈迦の言葉には存在の真実の姿を述べる響きがあった。修行者たちは皆、真実の仏の弟子になれることを喜んだ。時に、釈迦は三十歳であった。
 
   
(三)布教

 ブッダガヤーで悟りを開いた釈迦は、最初の布教の地として、隣国のサールナートという町を選んだ。サールナートは、当時の宗教界、思想界の発信地として有名な町だった。物流や経済の中心的な町とは別に、最先端の精神性を競う町が存在したということは、インドという国がいかに人の内面を重視する国民性であったかが分かる。サールナートには、多くの宗教家、思想家、哲学者などが集まり、共同生活をしながら、活発に、法論を戦わせて、高低浅深を競い合っていた。
 釈迦は、多くの人々を救うためには、当然ながら、自分と同じ悟りに達した人たちをできるだけ多く育成しなければならないと思っていた。だから多くの修行者が集まっているサールナートを選んだのだった。釈迦は、この地で正式な初説法を行った。集まったのは、ブッダガヤーから従ってきた弟子たちと居合わせたは修行者たちで、百人ほどだった。この初説法で釈迦への評価は、非常に高まった。
 「今まで、会ったこともなかった深い悟りを開いた仏だ」という評判は瞬く間にサールナートの修行者たちに広まった。それからは説法会を開くたびに参加人数が急増していった。弟子入りする者も次々と増えていった。数年後には、千人近くが弟子となっていた。
 ここで弟子入りした人たちの中には、大富豪も多くおり、釈迦の布教活動を経済的に支援をした。また、評判を聞きつけて釈迦の親戚縁者たちも弟子入りしている。その中には、従弟のデーヴァダッタがいた。
 弟子たちの多くは、釈迦の悟りの根本である救済活動の行動へと進んでいった。活動の中心地は、サールナートから南西、中インドのあたりにあるヴァーラーナシーであった。ヴァーラーナシーは、中インドでは最強国の首都であり、交通の要衝地で経済活動も盛んで、人口も大変多かった。
 釈迦も、修行者や弟子たちを相手に説法することと同時に、人生に迷い苦しむ人々の中に飛び込み、一対一の対話を通して救済活動に励んだ。彼は、弟子の育成と一人ひとりの救済という二つの活動を車の両輪のごとく生涯を貫いている。
 千人近い弟子たちが、人口密集地の都市へ布教に行くわけだから、信者は急速に増えていった。そして一大宗教教団に発展をしていった。
 ヴァーラーナシーで、教団が発展し続ける基礎を築き得たと確信した釈迦は、少数の弟子とともに次の布教地へと向かった。釈迦の目標は、もちろん、一地域の人々の救済だけではない。空間的には全世界であり、時間的には永遠に、人々を苦悩から救っていくことだった。それぞれの布教の地で人材を育成して、未来において永く布教が進むような教団に組織が出来上がると次の土地へと出発して行った。こうしてインド中に仏教の流れを興せば、自分が死んだ後も、同じような原理で今度はインドから全世界へと仏教流布(るふ)が進むであろうと確信していた。
 釈迦が布教した中で、国全体が仏教を信奉するようになったものに、マカダ国というのがある。ガンジス川流域の広い流域を有している大国の一つであった。マカダ国では、王も信徒になった。さらに後年、釈迦が布教を進めるうえで大活躍をする弟子たちも、この時に門人となっている。また、釈迦がやって来るまでは、国の中心になっていたバラモンの多くの指導者が、釈迦との論争の末に全員、弟子となった。それぞれの指導者には数百人のバラモン教徒が門人としていたので、彼らも皆一度に弟子となった。
 釈迦の一貫した信念である、苦しむ人の救済という実践に数千人の弟子たちが、マカダ国のあらゆる所で精進をした。その結果、国民の多くの人々が釈迦の信徒となった。
 王は、大きくなった釈迦教団に、広大な竹林を修行の場として提供した。これが、竹林精舎(しょうじゃ)といわれるものだ。釈迦にとって国王が帰依者となり、全面的な支援をしてくれることは、仏教の布教に大きなはずみ与えてくれるものとなった。
 やがて仏教は、インド全体に大河の流れのように浸透していった。特に多くの信徒が誕生した国では、国民の三分の一が釈迦の門下となり、三分の一が釈迦の支援者となり、三分の一は釈迦のことを知らない、といわれるほど仏教が民衆の間に根を張っていた。この国は、日本の古典文学『平家物語』の冒頭でも有名な祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)という寺院も釈迦教団に寄進している。
 仏教は、釈迦の深い悟りと民衆救済への思いが、理想的な布教教団の体制を形作り、インド最大の宗教として定着していった。
 
   
(四)大難

 釈迦の布教が、全国的な大河のような流れになるにつれて、それに比例するように妨害する動きも次々と出てくることになった。代表的なものを列挙してみると次のようになる。
 一人の娘が反仏教集団の僧侶にそそのかされて、釈迦と肉体関係があったとあちらこちらで言いふらして、清廉潔白な宗教者としての釈迦の社会的な信用を失墜させようとした。
 釈迦が弟子をつれて、バラモンの富豪のところへ托鉢(たくはつ)の修行に行った。その家の女中が出てきて、腐った残飯を鉢(はち)の中へ入れ、「これが供養だ、食べよ」と言った。そして、主人が出てきて、「これは、前世にぜいたくな食事をして食べ物を粗末にした報いだ」とののしった。
 仏教をよく思わない国の王が、説法を聞かせてくれと言って釈迦と弟子たち五百人を城に招待した。ところが、王は釈迦たちを接待せずに、遊楽にふけっていた。そのため、釈迦一行は九十日の間、馬の食べる麦を食料として過ごさなければならなかった。
 釈迦の父親が国王をしている故国が、息子が仏教を広めているということを口実に、隣国の大国から攻められて滅ぼされた。その時、釈迦の一族も皆、殺害された。
 釈迦が弟子とともに、ある国に布教活動に行った。国王は反仏教者で、国民に一切の供養を禁じた。さらに、説法を聞く者には、罰金を科して邪魔をしたので、食事もできず、誰にも説法をすることができなかった。
 一人の遊女が、腹の中に鉢を入れて、釈迦のところへやってきた。そして、釈迦の子を身ごもったと言って誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)した。
 こんなことが釈迦の身の回りにはしばしば起こっていた。さらに、釈迦に対する迫害で最も激しかったのは、デーヴァダッタの反逆だった。デーヴァダッタは釈迦が悟りを開いてから間もなく弟子になった従弟だった。デーヴァダッタは初めのうちは純真な信仰心から釈迦の教えを忠実に実践し、教団の中でも幹部として力を持つ存在になっていた。
 デーヴァダッタを狂わせたのは、名聞名利の野心と権力欲だった。彼は釈迦の親戚であり、統率力もあったので、周囲の門下たちからも一目を置かれる存在であった。それで気を良くした彼は思い上がって、釈迦を失踪(しっそう)させ教団を乗っ取る事を画策した。ある時、多くの弟子たちが集まっている説法の席で、デーヴァダッタは釈迦に教団の運営を自分に任せるように迫った。釈迦はこれに対し、厳しく批判し、信仰心よりも野心があることを皆の前で叱責した。
 デーヴァダッタはこの時、親戚でもある自分に大恥をかかせたと恨みに思い、徹底した反逆の人生を歩むことになる。
 まずデーヴァダッタがやったのは、地元の国の王子に取りいることだった。現在の王は、仏教の慈悲を政治の根本理念において国を治めていたので、国民から非常に人気があり、長期政権となっていた。王子はいつまでたっても自分に王位が譲られないことを不満に思っていた。そこにデーヴァダッタは目をつけたのだ。
 デーヴァダッタは王子のもとへ行き、「王の悪評を教団の組織を使って流し、王位を王子に譲らねばならないようにする」と約束した。その代わり、自分にはしっかりと供養をお願いしたいと要求した。悪評が流れ始めると、王子は種々の大量の金品をデーヴァダッタに供養した。釈迦の弟子たちの中には、そんなぜいたくな生活をうらやましく思うような者たちも出てきた。デーヴァダッタはそれらの門弟を仲間に引き込んで、教団の切り崩しを画策した。逆に、釈迦は名利や欲望が仏道修行の障害になることを説いて、厳しく戒めた。
 王は悪評が流れてもなかなか退座しなかった。それでデーヴァダッタは王子に王殺害の謀略を授けた。王子はそれに従って、王をだまして地下牢に入れて、餓死させた。そうして、王子は王位を継いだ。新しい王は、デーヴァダッタを全面的に支援する信者となった。
 デーヴァダッタは城の兵士を使って釈迦を殺害するように頼んだ。しかし、兵士たちは釈迦に近づいたところ、全員が釈迦の覚者としての威厳に心を打たれて、殺害することができなかった。デーヴァダッタは悔しがって、今度は自分自身が釈迦を殺害する行動に出た。釈迦が崖の下で説法している時に、裏山から崖の頂きに上り、下の釈迦をめがけて大きな石を転がり落とした。石は途中で砕けてバラバラになり、命に及ぶことはなかったが、破片が釈迦の足の小指に当たり出血した。
 さらに、デーヴァダッタは、釈迦が弟子たちと布教の地へ行く途中で待ち伏せをしていて、凶暴な像に酒を飲ませ、釈迦一行に襲いかからせた。釈迦は逃れたものの、何人もの弟子が踏み殺されてしまった。
 結局、デーヴァダッタの謀略はすべて失敗に終わった。彼は、仏に反逆した罰により生きたまま、血を吐いて地獄に落ちた。それを哀れに思った釈迦は、神通力を使ってデーヴァダッタを救ってやった。また、デーヴァダッタにそそのかされて釈迦を迫害したは王は、後に改心して、釈迦滅後、仏典の収集に尽力することになる。
 釈迦はさまざまな迫害に対して、
 「難は大きければ大きいほど、素晴らしい仏であるということを証明してくれるんだよ。仏とは、いかなる大難が来ようとも、悠然として乗り越えられる人のことだ。それが真実の幸福者の姿だよ。そうだろう、幸せというのは何も苦難がないことではないのだよ。どのような困難がやってこようとも、それを乗り越えられる自分に変わることが幸福になるということなんだよ。そういう意味で言えば、私が仏であることを証明してくれたのはデーヴァダッタ以外に誰もいないね」と言った。
 
   
(五)入滅

 釈迦は生涯を布教と民衆救済のために旅を続けた。信者が多くなり、多くの寺院なども寄進を受けたが、そこを利用するのは雨期の期間だけであった。常に歩き常に説法をし、人々の幸せに奉仕する行動者であった。
 八十歳になった時、釈迦は自らの人生の終わりが近づいていることを自覚した。それでも、竹林精舎で雨期を過ごした後、北方への布教の旅へと出発した。目指す方向は、すでに滅ぼされていたが、故国であった。
 釈迦一行は、ガンジス川を渡ってさらに北の方向へと進んだ。その間にもそれぞれの地域で説法をし、また、会う人ごとに苦悩を乗り越え幸福へと進む道を教えた。釈迦に接した人々は皆、威厳の中に誠実さと温和さを供えた釈迦の人間性にひかれ、さまざまな供養をした。また多くの人が、釈迦一行を歓迎するための食事会を開いてくれた。まさに釈迦は、国民的に慕われる指導者となっていた。
 釈迦の体力はさらに弱まり、ガンジス川から数日間歩いて行った所の村で、体を動かすことができなくなった。多くの弟子たちが心配して集まった時、釈迦は、
 「弟子たちよ。よくお聞き。私はあなたたちに教えることはすべて教えた。私はあなたたちに隠しているものは何もない。これからは、今までの教えが私のすべてと思い、自分の責任のもとに、布教、救済活動をしていきなさい」と静かに語った。
 この後、釈迦は沙羅双樹(さらそうじゅ)といわれる二本の樹木の間に簡素な床を作らせ、そこに横たわった。釈迦は死が近づいているのを自覚していた。そこに一人の農夫がやってきた。農夫は、釈迦が近所に来ているということを聞きつけて、ぜひとも教えを受けたいと思って来たのだった。弟子は、臨終の近い師を守ろうと、農夫を止めて押し問答をしていた。それを聞きつけた釈迦は弟子に、止めなくてもよい、と言って農夫を近くまで呼んだ。そして、苦悩を乗り越え幸福へと進む道を説いた。農夫は歓喜して何度も感謝の礼拝をなして帰っていった。
 釈迦は臨終の直前まで一人の庶民のために尽くす生き方であった。
 やがて臨終の時がきた。沙羅双樹は開花の季節でもないのに花が咲き、満開となった。花びらは、人類救済の礎を築いた釈迦仏を賛嘆するかのように降り注いだ。偉大な釈迦の八十年の人生は終わりを告げた。
   (了)

【奥付】
あなたもだまされている
『間違いだらけの仏教選び』
  2014年7月発刊
 著者:大和田光也