大和田光也全集第22巻
『懺悔の寺』
名田庄村(なたしょうむら)は福井県と京都府が日本海側で交わる辺りの山間部にあります。村の面積は非常に広いのですが、ほとんどが山ばかりです。山の開けた所に村ができているのではなくて、山と山とのすき間に、人が家を建てて生活をさせてもらっているという感じです。だから、村の家々が一カ所に集まっているというのではなくて、転々と集落が山あいにできていて、それらが合わさって名田庄村になっています。
わたしは車で京都に行き、そこで所用を済ませました。それから京都市北部の北山杉で有名なところ通り過ぎ、さらに、かやぶき屋根の民家など、重要伝統的建造物保存地区の美山町を通って名田庄村へ向かって行きました。途中、国道から県道へと進み、さらに舗装もされていない林道を上っていきます。
道幅が狭くて、車が交差すると、どちらかがバックして空き地のあるところまで下がらなければなりません。ただ、林道を走っている間、前から車が来ることは一度もありませんでした。
上りきった所を日本海側へ少し下った所で車を止めました。そこからは人が二人並んで歩くのがやっとと思えるほどの山道が林の中へ通じています。わたしはバッグを提げて、山道を歩きました。道はかなり急な上り坂になって、山の頂上のあたりへ延びています。
よく晴れて、澄んだ青空から春の陽光が体にしみるように照らし、額にじわりと汗がにじんできます。そうかといって、両側から杉の木が生い茂っている薄暗いところで立ち止まり、風に吹かれると、冬の冷たさを感じます。
一時間ほど歩くと頂上近くに出ました。そして視界が急に開けました。遠く眼下には、山と山との間から流れ出した川に沿って広い水田が広がっています。田植えにはまだ早く、茶色の碁盤模様が海岸の方へと続いています。同じ田んぼなのにそれぞれの区画によって微妙な色の違いがあるのが不思議でした。川と田が末広がりに広がっている先に深いブルーの小浜湾が静かにたたずんでいました。
また、左手には父が戦後、中国から帰ってきた舞鶴引揚桟橋があるのですが、ここからは、山に隠れて見えません。
わたしはしばらく目の前に開けた、まるで絵はがきのような情景に見とれていました。 右手を見ると林の奥の方に古ぼけた門があります。わたしは地図で確認していたので、間違いなくその寺だろうと思いました。近づいてよく見ると、朽ちかけた木の門柱に〝名田庄山西願寺〟と墨で書かれているのが、どうにか読み取れました。
西願寺は、父が死ぬまで大切に身に着けていたお守りを授与してくれた寺でした。棺おけの中にお守りも一緒に入れてやろうかとも思ったのですが、あまりにも、肌身離さず付けていたので、逆に形見に取っておいたのです。
そんな大切なお守りを与えてくれた寺に、一度は行ってお参りしたいと思っていました。そして、父の追善供養でもお願いできれば、あの世の父も喜んでくれるのではないか、と思ったのです。
お守りを袋から出してみると、小さな木の板に、表には、〝罪障消滅〟裏には〝名田庄山西願寺〟と焼印されていました。寺の場所を調べると日本海に近い、かなり高い山の頂上あたりにありました。
ちょうどこの日、京都市北部に午前中だけで終えられる仕事が入ったので、ついでに、足を伸ばそうと思ったのです。
門をくぐって中に入ると、広い庭になっていて、左手は開けて見晴らしが良く、先程の絵はがきの続きのような風景が連なっています。右手には山肌に這い上がるように本堂が日本海を正面にして建っています。中央に横幅の広い木の階段が本堂内に上がれるように付けられています。本堂の板戸は開かれています。山寺というよりもはるかに立派なお堂で、建築材料をあんな狭い山道をどうして運んだのだろうと不思議に思えます。
庭から薄暗い本堂の中を見上げると本尊の仏像の頭部が何体か見えます。人影はありません。本堂の左横には生活空間である庫裏(くり)が廊下でつながっています。わたしは庫裏の玄関の前に行きました。しかし、そこには人が住んでいるという生活感がありません。ただわずかに、赤色のペンキが剥げ、錆が出ている郵便受けが、人の生活に結びついているように見えまし た。
「どなたか居ませんか?」
わたしは玄関の引き戸に手をかけました。おそらく鍵はかかっているだろうし、人は誰もいないだろうと思いました。ところが、戸はガラガラと軽く開きました。
「ハイッ、どちらさまですか?」
奥の部屋から声がしたので、わたしは驚いて立ちすくみました。部屋から障子を開けて出てきた人は、大柄な婦人でした。年齢はわたしと同じくらいに見えます。その婦人の顔を見た時、以前に会ったことがある人ではないか、というような気がしました。
わたしは知り合いのような気持ちになって、つい笑顔になりました。すると婦人も親切そうな笑顔になりました。
「どうぞ、中に入ってこちらに掛けてください。温かいお茶でも入れます」
土間の棚の上には、法事で使うための塔婆(とうば)の板や戒名を書く位牌や焼香用の道具などが置いてあります。また土間の中程に置かれた机の上には、案内書や申し込み書のようなものもあります。無人の寺ではないのかと心配になっていたのですが、法要なども行われている様子なので安心しました。お守りは置いていないかと探してみましたが、それらしいものはありません。
椅子に腰掛けていると、婦人がお茶を持ってきてくれました。
「どちらからお越しになられたのですか?」
「神戸からやって来ました」
「それは遠い所からご苦労さまでございます。諸精霊の追善でしょうか」
「ハイ、そうなんです。父の追善をお願いしたいと思って来ました。生前、父はこのお寺には何度か訪れていたと思いますので・・・」
「それはご孝養なことです。ですが、このお寺は、私の主人が住職をしていたのですが、五年ほど前に亡くしてからは、無住職の寺になっているのです。ただ、名田庄村には檀家の方がまだ居ますので、月に一回だけ、他の寺のご住職に来ていただいて、追善法要をしてもらっているのです。それでもよければ、この申し込み用紙に記入しておいてください。そうしていただければ、ご僧侶が来たときに塔婆に書写して法要を行います」
婦人の声には、年輪を重ねて、善いものも悪いものもすべてを包容するような響きがありました。
「ハイ、それで結構ですのでお願いします」
わたしは出された追善回向申し込み用紙に父とわたしの名前、住所などを書きました。裏にも何か書く欄があるのかと思い、裏返してみました。
仏は西に居ず
仏は東に居ず
仏は北にも居ず
仏は南にも居ず
ただ真仏は我に居る
太い活字で印刷されています。わたしはどのような意味なのかとしばらく読み直していました。
「義理の祖父の、先代のご住職が好きな言葉で、このように印刷しております」
婦人は相変わらず笑顔です。わたしは目を離して用紙を渡しました。それからポケットから父が持っていたお守りを取り出して机の上に置きました。
「これは父のものだったのですが、お寺の名前がこちらと同じです。この寺で授与していたものなのでしょうか」
婦人は少しあわてたように袋からお守りを取り出して裏と表をしっかりと見ました。そして笑顔が消えて、驚いたようにわたしの顔を見ました。
「これは確かにこの寺のお守りですが・・・ただ、戦時中に出征する知り合いの兵隊さんのために先代のご住職が作ったもので、戦後はわずかの親しい人にしかお渡しはしていません」
婦人は真剣な表情になりました。
「このお守りをあなたのお父さんが持っておられたのですか」
念を押すように言います。
「そうです。父は戦後、復員がずいぶん遅くなりましたが、舞鶴港に帰還しました。その時におそらく、間違いなくこのお寺に寄って、このお守りをいただいてから、和歌山に帰ったはずです」
婦人は目を丸くして、記入した書類の名前のところを見直しました。
「エーッ!それではあなたは、三輪崎(みわさき)に居た、あの森井亀男さんの息子さんですか・・・」
婦人は非常に驚いたようです。わたしもこんなところで故郷の三輪崎という地名が出てくるとは思ってもみませんでした。
「そうです。わたしが息子の森井満男です」
「やはり、そうですか、まあ、なんと・・・」
感動した婦人の目には涙さえ浮かんできています。わたしには父とこの婦人がどのようなつながりがあるのか分かりません。
「父のことをご存じですか」
「ハイッ、そうですともわたしの父は、亀男さんとは三輪崎小学校の同級生だったといっていました。その二つ上の学年には亀男さんの兄さんの熊男さんも通っていたそうです。よく三人で遊んだ、と何度も話を聞いたことがあります」
婦人の声が若返ったように明るく響きました。
「そして、熊男さん以外の、父も結婚し、亀男さんも結婚して、わたしや満男さんが、生まれたわけですねえ。それから、亀男さんが最初に中国大陸に出征して、父と熊男さんは二年ほど遅れて出征したんですが、なんと、同じ部隊に配属になって、戦地でもまた、三人でいっしょに活動したそうですよ。そして、復員して内地に帰ってきた時期は、逆に亀男さんが遅く、父や熊男さんが引揚げてから二年も後になったそうです」
わたしは、こういう事をまったく知りませんでした。父は過去の話をあまりしない人でした。特に、軍隊でのことは、一言も聴いたことはありません。婦人の話を聴きながら不思議な気持ちになりました。子であるわたしが聴かされていなかった父の足跡を耳にすると、なにか、他人事のように感じられるのです。
「亀男さんが三輪崎に帰ってからも、仕事で父がお世話になったのですよ。その後、不運な海難事故が起きましたけれど・・・だから、わたしと満男さんは、幼い頃には何度か会っているはずですよ。小学校は、わたしは分校の方に行きましたけどね」
海難事故という言葉の響きには、深い悲しみのようなものが感じられました。わたしにも辛い思い出があったので、事故の事を話題にする気にはなれませんでした。
「そうでしたか、わたしも、初めにお顔を見た時から、どこかで、以前に会っていたような気がして仕方なかったのです。これで謎が解けましたよ」
ずいぶん、話しやすくなるのを感じました。ほんとうに幼馴染のような気分になりました。
「亀男さんもわたしの父も、この寺の先代のご住職と仲が良かったのです。この寺は三輪崎の地元の寺と同じ宗派で、ご住職同士が行き来していましたので、亀男さんも父も先代と知り合ったそうです。それで、わたしはここの長男の元に嫁入りしてきたのです。仏さまが結婚相手を決めたようなものです、ホホホ・・・」
若々しい笑い声です。
わたしは父から西願寺のことは、まったく聞いてもいなければ、連れて来てもらったこともありませんでした。父は西願寺の話題を避けていたようにも思えます。
父のことを知っている人に出会えて、わたしはさらに父が懐かしくなりました。
「父が舞鶴に引揚げて来て、このお寺に寄った時の様子を、なにか聞いていませんか」
父は中国大陸への召集の前も、戦後復員した後も、三輪崎で漁師をやっていました。真面目な努力家で、小型ながら漁船の船主になり、一人、二人と船員も雇っていました。
また、たいへんな子煩悩でした。自分が貧しくて学校へもろくに行けなかったので、その代わりにと、わたしには大学まで行かせてくれました。わたしは卒業後、神戸の中堅の企業に就職し、今も勤めています。父のおかげで安定した生活を送っています。父のことを思うにつけ、わたしを徹底して守り育ててくれたことに感謝の念がこみ上げてきます。
「ハイ、先代も亀男さんのことが、たいへん気に入っていて、わたしが嫁いで来てからも、よく、あなたのお父さんのことは、話題に上りました」
婦人は遠いところを見るような目になりました。
「亀男さん達を乗せた引揚げ船が、舞鶴の桟橋に着いた時、三輪崎から奥さんや親戚の方が出迎えに来られていましたが、それを断って、この寺で一泊したそうです。」
「父は一晩、寺で何をしていたのでしょうか」
わたしは少し身を乗り出しました。
「その時は、何か苦悩することがあって、信仰心から、まず何よりも先に、この寺に参拝したようです。そして、先代のご住職の前でいろいろと話をされたそうです。その後、本堂では一睡もせずに写経したり、仏様へのお誓いや懺悔(ざんげ)文を書いたりして、一晩中、過ごしたそうです。翌朝、早朝に三輪崎の方に出発されたのですが、その時にお渡ししたのが、この〝罪障消滅〟のお守りに違いありません」
婦人は懐かしそうにお守りをさすっています。
少しの間、会話が途切れました。
日本海に面した西向きのガラス窓から差し込む日差しが、強くなってきたような気がします。
「アッ、そうそう、おそらく、あの夜、亀男さんが書いた懺悔録はご本尊様のお腹の中に残っているはずです」
塔婆の申し込み用紙を引き出しの中にしまってから婦人が思い出したように言いました。
「エッ、懺悔録?」
「そうです。仏様の前で懺悔する内容を文章に書いて、それを本堂の仏様のお腹の中に奉納するのです。そうすることによって、仏様がお腹に収められたということで、仏様が代わりにその罪を引き受けて、人々の罪は許されるという意義があるものなのです。本来は絶対に誰にも見せてはいけないものですが、もうすでにご本人も亡くなられていますし、息子さんのあなたがお父さんのことを身近に感じて、喜んでいただくためならば許されるだろうと思います。どうぞ、お上がりください」
庫裏で靴を脱いで上がり、そのまま廊下を通って本堂に入って行きました。お堂の中央には、小浜湾を見下ろすように大きな釈迦如来像が安置されています。左右には一回り小さな四菩薩が配置されています。
婦人は釈迦像の裏へと回りました。付いて行くと、仏像の背中のあたりが扉になって開き、仏像の体内に奉納する空間ができていました。確かにちょうど釈迦のお腹の辺りになります。中には蓋に年数を記入した木製の小箱がたくさん入っていました。
「そうだわ、亀男さんは復員した時に来て、その後、五年ほどして来た時にも懺悔録を書いて奉納したと聞いていますので、両方の年の用紙を取り出しておきます。懺悔録を書かれたのはこの二通のみだと思います。」
婦人はしばらく薄暗い釈迦像のお腹の中を探していました。しばらくしてから、チリまみれの茶色くなった二つの紙袋を取り出しました。そして経机の上に乗せて、釈迦像の前に置きました。
「どうぞ、ゆっくりと読んで下さい」
座布団を経机のそばに置いてから、婦人は庫裏の方へ行きました。
ガランとした広い本堂で、わたしは釈迦像に対面するような格好で座布団に座りました。
紙袋の表には奉納者の名前が書いてあります。間違いなく懐かしい父の手で森井亀男と書いてありました。わたしはまた、心に温かい父の慈悲心を感じることができました。読む前から心が満たされてくるのを感じました。
最初に、復員して五年ほど経った時のものだという紙袋の中から用紙を取り出しました。一枚の紙を二折にして入れていました。文章の量は少なく、次のように書いてありました。
懺悔録
ここに、自分の罪を正直に告白し、仏の許しを請うものである。
自分はまた大きな罪を犯してしまった。兄、熊男を殺させてしまった。兄はいつも船子を一人雇って一緒に漁に出ていた。自分はその船子にシケの日を狙って、兄を海に突き落として、事故死に見せかけて殺すように頼んだ。その船子は、実行した。自分は船子に大金の口止め料を渡した。
その上さらに、重罪を犯してしまった。
幼馴染の親友、川口寛治君を息子、満男を使って殺してしまった。川口君は無類の酒好きだった。漁の手伝いに自分の船に乗せていた。満男も一緒に乗せていた時、沖合いでフラフラになるほど酒を飲ませた。そして満男に、寛治君が海中に落ちるように誘導させて、殺した。もし、助かっても殺されようとしていたことに気がつかないようにする為だった。
二人とも、自分の引揚げが、二年遅れた事をよい事に、妻と密通していた。人として絶対に許せない行為だ。
だが、二人の命を奪ったことは、その罪、万死に値する。
懺悔滅罪
罪障消滅
わたしは驚いたというよりも、あまりにも唐突で、予想を超えた内容だったので、書かれている事実を受け入れることができません。
何度も読み返しました。
あの子煩悩な優しい父と殺人者の父とが、どうしても結びつきません。
母は小柄で小作な顔立ちでしたが、均整の取れた姿かたちをしていました。表情には、幼さの残る美人とでも言えるような魅力がありました。学校の参観日などで、教室の後ろに多くの母親が並ぶと、母の美しさが際立ちました。わたしはそれがうれしくて、自慢したい気持ちになりました。
その母がまさか、熊男伯父さんや川口さんと関係ができているとは、思っても見ませんでした。
しかし今、思い返してみれば、思い当たる節が無いわけでもありません。確かに、終戦から父が帰ってくるまでの間は、伯父さんや川口さんがしばしば、わたしの家に来ていたことを幼心にもはっきりと記憶しています。さらに夜、わたしが寝床に入る時にもまだ、二人のうちのどちらかが居たことも思い出されます。
そうすると同時に、幼いころの記憶の中から消し去りたい海難事故のことも思い出してしまいます。
わたしは船に乗るのが好きだったので、父は時々、わたしを乗せて漁に出てくれました。いつもは、川口さんと二人で漁をやっていました。父の所有の船だったので、幼馴染で戦友でもある川口さんを雇っていたのです。
川口さんは酒癖の悪い人でした。飲みすぎると暴れ回って、周囲にある物をやたらと壊したりしました。そのうえ、朝といわず昼といわず、いつも酒の臭いをプンプンとさせていました。父はよく、
「日当を出してやっているのに、酒を飲んで仕事をしない」
と嘆いていました。
その日は、天気もよく凪いでいたので、わたしを船にのせてくれました。川口さんは相変わらず酒の臭いをさせていました。どういう訳か父はこの日、新しい一升瓶の酒を甲板に置いていました。いつもは、船では川口さんに酒を飲ませないようにしていました。
港を出て漁場に着くまで、川口さんは座り込んで、うれしそうにコップに酒をついでは勢いよく飲んでいました。
漁場に近づいた時には、グタグタに酔っていました。
「さあ、もうじき、漁場じぁ」
と父が言うと、川口さんはフラフラしながら立ち上がり、船縁に両手をついて海を覗き込むようにしました。そして、船縁を力任せに叩き始めました。それを見た父は、
「満男、寛治にそれ以上、酒を飲ませないように、そいつの目の前で、海中に一升瓶を放り捨てッ!」
とわたしに向かって怒鳴るように言いました。
子供心にわたしも、これ以上飲ませてはいけないと思い、父の言うとおり、半分ほど残っている一升瓶を両手で持ち上げ、川口さんの目の前の海に捨てました。川口さんはそれを拾おうとするように両手を差し出し、体を船縁から大きく乗り出しました。
その時でした。確かにわたしの体は船縁に押さえ付けられるような遠心力を感じました。同時に、川口さんが危険な状態になる急操舵を父がしたのではないか、と不審に思いました。
川口さんは万歳をするような格好で海中に落ちました。それから二、三回、浮き上がって、恨めしそうな目をして両手をバタバタとさせましたが、やがて浮き上がってこなくなりました。
三輪崎は荒海の熊野灘を目の前にしています。漁師は皆、水死事故と隣り合わせに出漁しています。近辺の漁村を含めると毎年、出漁中の水死事故が起こっていました。
川口さんの事故も、そのうちの一つとして扱われました。
その後、この出来事については、父の生前中に一度も話題になったことはありませんでした。父からもわたしからも一切、口にしませんでした。わたしは、子供心にも絶対に言ってはいけないと思っていました。
しかし、わたしの心の奥底には、一体あれは何だったのだろう、という疑念と後悔の念が不治の癌細胞のように、こびりついていたのです。
この時、懺悔録を読んで生涯、解けないと思っていた疑いは明確に解けました。
しかし、わたしは懺悔録を前に、混乱する頭を抱え込むしかありませんでした。
ずいぶん時間が経って、わたしは懺悔録から目を離しました。そして後ろを振り向き、本堂の正面の開けられた戸口から見える小浜湾に目をやりました。ますます、絵はがきのような風景に見えてきます。わたしはその小浜湾が本物ではなく、絵はがきという写真であるように、いま目の前にした父の懺悔録が、父の実態ではなく、単なる作り話であるようにと祈る気持ちになりました。
わたしは何も考えたくなくなり、呆然として小浜湾に対面して座っていました。どれだけ時間が経ったかも分かりませんでした。できるなら永遠にこのまま消え去ってしまってもよいと思いました。
ふと気がつくと、絵はがきの小浜湾が夕暮れの気配を帯びてきているように見えます。
わたしは気だるさを感じながらも再び、釈迦像に向かい合い、今度は復員してきた時の父の懺悔録に目をやりました。これは四枚の用紙に文字を詰めて書いています。
懺悔録
ここに、自分の罪を正直に告白し、仏の許しを請うものである。
戦の場であるが故に、敵も味方も撃ち撃たれして死んで行くのは仕方のないことである。しかしながら、本来、殺すべきいわれのない民間人の命をもてあそび、殺してしまうことは、戦時とはいえ許されることではない。そのような、仏に許しを請わなければならないことは多々あれど、最も慚愧(ざんき)の念に堪えないことを記す。
戦闘がしばらく無く、少々退屈気味の時のことである。初夏の候であった。斥候(せっこう)班を組んで哨戒に出かけた。斥候班長は自分である。自分以外には、中国語ができる通訳兵一人と訓練の為に連れて行く初年兵三人だった。三人のうちの二人は兄である熊男と川口寛治君だった。
兄よりも自分の方が階級が上だったのは、兄は喘息もちで徴兵検査に何回か落ちたためだ。
中国の農村地帯の一家は土塀で広い範囲を囲み、中央に庭をつくって、それを取り囲むように住居を建てて一族が暮らしていた。斥候の途中で、怪しくもないどこにでもある農家の一族の家並みを見つけた。背後には大きな孟宗竹の林があった。平和そうなその情景を見たとき、自分の心の中にメラメラと訳の分からないすさまじい情念が燃え上がった。
「この家並みは怪しい。便衣隊(べんいたい)の仲間に違いない。徹底して調べろ」
と自分は命令した。便衣隊というのは隠れ兵士のことだ。門を打ち破って中に入り、銃を向けて一族全員を中庭の中央に集めた。子供から老人まで全部で十一名であった。
皆、口々に大声で叫んでいた。通訳によると、
「われわれは農民だ。便衣隊ではない。許してくれ」
ということだった。五戸ほどある建物を手分けして探したが、武器らしいものは見つからなかった。
「武器を隠しているな。どこに隠しているのだ?言わなければ射殺するぞ」
と脅すと全員が庭に正座して、頭を何度も必死で下げた。小さな子供も含めて全員を後ろ手に縛って数珠つなぎにした。その中から若い娘と父親のひもを解いて前に出させた。
「便衣隊でないというのなら、娘を犯せ。そうしなかったら全員射殺する」
と言うと、娘も父親もおろおろするばかりであった。自分は娘に銃口を向けて、
「早くやれ。そうしなかったら娘を射殺する」
と脅すと父親はぎこちなく、娘に手をかけた。娘も父親も泣きながらことを済ませた。
われわれ斥候隊はニヤニヤしながらそれを見ていた。二人をまた後ろ手に縛って数珠つなぎにした。
「まだ怪しい。もう少し、こらしめてやる」
こう言って自分は、全員を敷地の裏の孟宗竹の生えているところに引っ張って行かせた。
中国の孟宗竹は日本のとは違って非常に太く高く伸びていた。兄と寛治君、通訳ともう一人の初年兵の二人ずつで、かなり離れた二本の孟宗竹を向かい合うように曲げて先を地上まで下げさせた。二本の竹の三分の一ほどが交差するくらいであった。
それぞれ二人とも必死になってぶら下がっていなければ強い竹の弾力で跳ね上がってしまいそうであった。自分は一族の中から母親を引き出して二本の孟宗竹が交差しているところに仰向けに寝かせた。それから丈夫な綱を二本持ってきて、母親の左右の足首と別々の孟宗竹とを結び付けた。ここまでやると何をされているのか母親も、見ている一族も分かり、許しを請う叫び声が異様に響き渡っていた。
「離せ」
と自分が四人に命令すると、ビューンという音とともに、母親の体が逆さに宙に舞い上がった。そして頭上で切り裂くような叫び声とともにバキッという太い音がした。大量の血の雨が降った。
自分たちは頭から真っ赤な血に染まった。見上げると一本の竹には大腿部から千切れた脚がぶら下がっていた。もう一方の竹には一本の足に腸がたれ下がっている体がぶら下がって揺れていた。
「訓練だッ!初年兵三人で全員を銃剣で刺し殺せ」
さすがに真っ青になり震えている兄や寛治君と初年兵に自分は命令した。三人はがむしゃらに、泣き叫ぶ子供も含めて十名全員を刺殺した。三人の初年兵はこの時まで、まだ一度も敵兵を殺した経験がなかった。
部隊に帰り、自分は、便衣隊の一族を殲滅(せんめつ)した、と報告した。これは〝股裂き〟と言って、他の班でも隠れてやっていたことだったが、この時以来、自分の頭の中は血で染められ、自責の念に身も心も焼き尽くされるような苦悩を味わい続けている。
懺悔滅罪
罪障消滅
読み終えたわたしは、心臓がうずくような気持ちになりました。
自分自身が学校に行けなかったからと言って、わたしを大学に行かせてくれた優しい父と、懺悔録から浮かび上がる父とはあまりにも大きな隔たりがあることに愕然(がくぜん)とせざるを得ませんでした。
衝撃が強過ぎて、考えるべきことも思い浮かばなければ、考えを整理する方法も思いつきませんでした。
わたしは平衡感覚を失いそうになりながら立ち上がり、本堂の正面の階段に腰をおろしました。
小浜湾が夕日の中で輝いていました。海のかなたに、逆光になって船が通っているのが見えました。黒くゴマ粒のように見えます。そんな小粒な船の中に、人間がいることを思うと、戦後父が復員してきた時、大海原から見ればゴマ粒のような引き揚げ船に乗って、さらに小さな人間である父が、とてつもない大きな苦悩の過去を抱えて舞鶴桟橋へ帰ってきたのだという感慨がこみ上げてきました。
「庫裏の方に温かい葛湯(くずゆ)を用意しましたので、よければ飲んでください。何かつらいことが書いてありましたか」
婦人が庫裏の方から入って来て、わたしの様子を心配そうに見ています。
「いえいえ、どうか、この懺悔録はまた仏のお腹に納めてください。それから、もう、誰にも見せないでください」
「ハイッ、承知しました。今後一切、どなたにもお見せしませんよ」
婦人は父の懺悔録を再び釈迦像の中に入れてくれました。
わたしは自分の体が重くなったような気がしながら立ち上がり、婦人について庫裏へ行きました。
机の上に置かれた葛湯から、ほんのりと山草の香りのする湯気が出ていました。わたしはとても、何かを口にする気にはなれませんでしたが、葛湯の香りにひかれて、一口含むと、口中に薄い甘さが広がります。冷えきった心を温かくしてくれるような気がしました。
やがて、庭に面したガラス窓が、異常に明るくなり、金色に輝き始めました。
「今日は、特に夕焼けがすばらしいです」
「そうですか、もう日が沈む時間になりましたか。長時間、お世話になり、ありがとうございました」
わたしはバッグを持って庫裏の外に出ました。婦人も一緒に出てきました。
自然は留まることなく刻々とその様相を変えています。
夕日は小浜湾の彼方の水平線に沈もうとしていました。上空の所々に浮かんでいる雲の西側は、燃えるようにまぶしく輝いています。その余光が、本堂に庫裏に山々に照り映えています。
この情景を目の当たりにした時、宗教心の無い者でも、はるか西の方にすべての苦悩が消え去った、幸福の極みである極楽浄土の存在を信ずることができる様な気がしました。
帰りのあいさつをしようかと思った時、ふと婦人の名前を聞いていない事に気がつきました。
「あぁ、そうだ、あなたのお名前を聞くのを忘れていました。よろしかったら、お名前を教えていただけませんか」
わたしは少し気恥ずかしさを感じました。
「アラッ、マァーッ、わたしの方は森井さんが、わたしのことを知っているものだと思って、今まで話をしていたのですけれど・・・」
婦人の方を見ると、いかにも驚いたというように目を大きく開けて、わたしの顔を見ています。
「そうですか、すみませんでしたねえ」
「いえいえ、いいんですけど、わたしは川口の娘ですよ」
この返事を聞いた瞬間、わたしは衝撃と共に絶望感に襲われました。わたしは体が芯から凍えてくるのを感じました。それでも、なんとか最後に、人違いであって欲しいという一縷(いちる)の望みを託しました。
「・・・その、あなたのお父さんは、今もご健在なんですか?」
「エッ!ご存じなかったのですか?父はあなたのお父さんの船に乗せてもらっている時に、事故で水死しました。」
わたしは思わず腰を折って深々と頭を下げました。この婦人の父親を死に導いたことを心で詫びました。同時に、仏に許しを請いたい気持ちが体中に衝撃のように走りました。
「どうぞ、気をつけてお帰りください。国道に出る頃にはおそらく、真っ暗になっていると思いますので。今日は、懐かしい時間を過ごさせていただきました。これも仏様のお導きではなかったのかと思います。ありがとうございました」
婦人はわたしが頭を下げたのを別れのあいさつと思ったようでした。わたしはもう一度ていねいに頭を下げてから庭を横切って、小道の方へと歩きました。
水平線に接触しかけた夕日はさらに赤味を増して、最後の力を振り絞って輝いているようでした。
わたしには小浜湾から赤い炎が押し寄せてきて天空を被い、周囲の山々にも燃え移り、地獄の紅蓮(ぐれん)の炎に焼き尽くされるように感じました。
(了)
【奥付】
『懺悔の寺』
父の戦争の傷
2018年発表
著者 : 大和田光也
この作品は比較的最近に書かれたものですね。偉そうなことを言って申し訳ありませんが、過去の作品に比べると文章表現が益々洗練されて来ているなと感じました。
今世人界最後
がしました