大和田光也全集第23巻
『校門圧死事件』
(当小説はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません)
(一)
痩せて背の高い教頭の内田が憎々し気に頬をひきつらせて職員室に戻ってきた。そして力石のそばの椅子にドスンと座った。
「また、やられている。先日、三十万かけて修繕したところだというのに。どうも、異常な性格の生徒がいるねぇ。力石君、どうしたものだろう」
頑丈な身体つきをした力石は無念そうに腕組みをして立ち上がった。
「とにかく、現場を見てきます」
職員室前の廊下の突き当たりに職員用のトイレがある。力石は初めに男性用の便器を調べた。和式の大便用の底がこなごなに割られて抜けている。三器あったが、全部同じようになっている。次に女性の方を見るとまったく同様になっている。
「畜生、これでは使い物にならない。水を流せば階下に漏れる。誰がいったいこんな事をしたのだ、一度ならず二度までも。必ず捕まえて弁償させてやる」
彼はトイレのドアを力任せに蹴り上げた。
「犯人の予想はほぼついている。二年生のD組の哲弘の連中に違いない。あいつ等以外にこんな卑劣なことをする奴は本校の生徒にはいないはずだ」
吐き捨てるように力石は壁に向かって怒鳴った。
翌日から彼は毎日、昼休みになる直前に、哲弘の居るクラスにいちばん近いトイレに行き、大便用の中に隠れた。そして昼休みが終わって生徒が利用しなくなってから気付かれないように出た。生徒がもっとも無防備に会話をするのはトイレであることを彼は知っていた。本音の情報を収集するのに最も適した場所だった。
三日目だった。午前中の授業の終わりのチャイムが鳴ると、ドヤドヤと何人かのグループが入って来た。それぞれが勝手にしゃべっている中に、間違いなく哲弘の声が交じっていた。
「オイッ、また、やってやったぞ。あんなもの、何回でもつぶしてやる。センコーの奴、この二、三日オロオロしている。センコーを困らせるのにはなかなかいい方法だろう。それにしてもアホなセンコーばかりだ」
哲弘独特の人を小馬鹿にしたようなものの言い方である。
「それはいい。くだらない、服装と頭髪検査ばかりやっているセンコーにいい教師などいない。この学校の教師はアホばかりだ」
相づちを打つ通明の軽薄な調子の声も聞こえる。二人共、同じクラスで力石も授業を担当していた。哲弘が、何かと問題を起こすグループの中心者で、中年太りのような体形をしていた。道昭は小柄でやせていたが、いつも哲弘にくっついている調子のりだった。
力石はドアを激しく開けて飛び出した。
「コラッ、哲弘!やはりお前がやったのだな。許さんぞ」
血相を変えた力石の顔を見て、居合わせた数人が驚いて逃げようとした。ところが哲弘はそれを制した。それから、両手をポケットに突っ込み、反り身になって、敵意の目で力石を睨んでいる。
「逃げることはない。俺たちは何もしていない」
「何をとぼけている。今、職員の便所を潰したと言っただろう。今日こそは、はっきりと聞いたぞ」
一瞬たじろいだ様子を哲弘は見せたが、すぐに不服そうに眉根に皴を寄せて、口を尖らせた。
「いったい、このおっさん、俺たちに何の言い掛かりをつけているのだ。訳の分からないことを叫んでいる。なあ、みんな」
哲弘が大げさに周囲の者の顔を見回すと、誰もが同調する。
「やかましい。ごちゃごちゃ、言わずに生徒指導の部屋に来い」
力石が制服の上から哲弘の肩を鷲掴みにして出口の方へ引きずるようにすると、哲弘はよろけて倒れかけた。それを倒れさせまいと引き上げた時、制服の縫い目が大きくほころびた。
「アッ、服が破れた。おやじに言いつけて弁償させてやる。お前が引っ張るから破れたのだぞ」
哲弘の抗議には耳を貸さずに力石は引きずるようにして歩いた。生徒指導室に入ってからも哲弘はふんぞり返っている。
「正直に言ったらどうだ、いや、お前はすでに自分で潰したと言ったのだから、それを素直に認めろ」
念を押すように力石が言うが、哲弘はますます横柄な素振りを見せる。
「さっきから何を言っているのだ。俺は便器なんか潰してない。だいいち、俺は今初めてそのことを知ったのに」
「ふざけるな。お前は、何回でも潰してやる、とはっきりと言ったではないか」
「アホか」
「この野郎、先生に向かってアホとは何ごとだ」
力石はガツンと哲弘の頭を殴った。哲弘は少しも動揺を見せない。
「アホだからアホと言って、どこが悪い。あれは、黒板消しクリーナーの中に水につけたトイレットペーパーを詰め込んで潰した話だ」
「口から出まかせな嘘をつくな。それじゃ、どこのクリーナーだ。そこに案内してみろ」
哲弘は少々気怠そうに、それでも反抗的な様子を作って立ち上がった。それからゆっくりと歩き始めた。力石は少し離れて後ろから付いて行った。廊下を進んで行くうちに、午後の授業は始まっているのに、哲弘といっしょにトイレに居た連中が彼の周囲に集まって来た。授業も受けずに生徒指導室の外で待っていたのだ。そして何かボソボソと話をしていた。力石が注意をしょうと思って手を振り上げかけた時、哲弘がニヤリと唇を歪ませた。
「このクリーナーだ、俺が言っているのは」
指差したクリーナーのそばに寄って力石は蓋を開けてみた。何もない。
「このクリーナーの掃除は俺がやったぜ。誰か便所紙を詰めていた。臭かったぞ。使用済みとちがうか」
通明がひょうきんに言った。力石は顔をこわばらせた。
「お前ら今、打合せをしたな。コラッ、通明、ほんとうの事を言え。そうしないと承知しないぞ」
「なんというセンコーだ。掃除した者を怒るのか」
必要以上な大声で通明が言う。力石は次の言葉が出なくなった。他の連中を追い払って、二人が再び生徒指導室に戻ってからは、哲弘は薄笑いを浮かべるほど自信に満ちた態度になり、逆に力石は苦々しく口を曲げている。
「どちらにしろ、六時間目の授業に出す訳にはいかない。反省文をこれから書け」
「どちらにしろ、とはどういう意味だ。俺が便器とは関係ないのは、はっきりしたじゃないか。証人は何人でもいる。いっしょに居た誰にでも聞いてみろ」
「うるさい。黙ってクリーナーの反省文を書け」
勝者の寛容で哲弘は素直に鉛筆を取った。
一日の授業の終りのチャイムが鳴った。学校の建物全体が急に蘇(よみがえ)ったようにざわついた。
「無実の者に疑いを掛けておいて、謝りもしない。このままでは
絶対に済まさないぞ。おやじに言いつけてやる」
生徒指導室を出る時、哲弘が中年のような物言いで、うそぶいた。力石は無念の思いに頬をピクピクとさせていた。
(二)
数日後、四階の視聴覚教室の廊下の壁にカラースプレーで落書きが大書されていた。そこは校舎の最上階の端で、あまり生徒の通らない場所である。 スーパーレッドでけばけばしく見える。
《アホのハグキ》と書いている。
力石は絵のような字の前に立って拳を握りしめ、ブルブルと震わせていた。彼は普通にしゃべっても必要以上に歯茎が露わになった。笑うと前の歯茎の全体がむき出しになる。そのために面識のあまりない人は彼をいつもニコニコしている人だと誤解する。そう思われるのが嫌で、彼はたいてい不機嫌で不満そうな表情をしている。だから無言の時としゃべっている時のアンバランスは甚しかった。歯茎は彼が最も気にしていることだった。
力石は技術員室からシンナーを持って来て雑巾に湿し、力一杯こすってみたが消えない。次に磨き粉を取ってきてやってみたがだめだった。地肌がコンクリートでザラザラのためか、かえって色がにじみ汚くなった。
「畜生、壁全体を上塗りするしかない」
口の中でぶつくさと呟いた時、三階から三、四人の生徒が甲高い声でしゃべりながら上がって来た。階段下からは力石の姿は見えない。
「今日で五回遅刻したから、保護者の呼び出しだとよ、俺」
「お前は要領が悪いからだ。哲弘のやつなんか、もう十回以上遅刻しているけど、チェックはゼロだぜ。あいつは賢い。少しは見習ったらどうだ」
ほかの生徒の声に混じって軽率な調子の通明の声が聞こえた。
「ヘェー、どうしてそんな事できるんだ?」
「下足室前の遅刻チェックを逃げて、裏側の教室の窓から入るんだ。あそこには教師は誰もいない。何回、遅刻しょうが、教科担当のセンコーが来るまでに入っておれば、セーフよ」
「アー、そうか。そんな事をしていたんか」
「オッ、力石のハグキがあの落書きを見ているぞ。逃げろ」
先頭で通明が階段を上がって来て力石の顔と合うと、慌ててまた下に駆け下りた。他の者もそれに続いて逃げた。力石は憎々しさと不服さの入り混じった顔でしばらく突っ立っていた。
放課後の職員会議で彼は挙手をすると同時に立ち上がった。
「遅刻指導を徹底しなければなりません。指導は教師全員が意思統一して、生徒に徹底させる事によって効果が出てくるものと思います。中途半端では不公平になり、返って生徒に不信感をもたせ、逆効果になります。その意味で下足室前では抜け道が多過ぎます。八時四十分ちょうどに校門を閉めるようにしたらどうでしょうか。二年生はまもなく修学旅行です。列車は待ってくれません。その訓練も兼ねてピシッとやりましょう。本来は、こういう提案は、生活指導部から出されるものでしょうが、係りでもない私が見てもあまりにもひどい現状なので、あえて言っているのです」
この提案には意見が噴出した。結局、一時間半ほど話し合って決をとった結果、過半数をわずかに越える賛成で決定した。
校門での遅刻指導が始まると力石は当番に当っていない日でも積極的に門扉のそばに立った。少し油断すると、瞬時に門を閉めるタイミングを失ってしまう。ぎりぎりに流れ込んでくる生徒が閉まりかかっている鉄扉と門柱の間に殺到して切れ目がなくなり、閉めようにも閉められなくなる。
門扉は必要以上に丈夫な鉄骨作りで、二本のレールの上を車輪で移動させるようになっている。かなりの重量があり、特に動かし始めは両手に体重をかけるようにして思い切り押さなければ動かない。それで、もたもたしているうちに、とっくにチャイムは鳴り終わってしまう。
「これでは下足室前のチェックと変わらない。もっと厳しくしなければ何の意味もない」
力石は校門での取り締まりの状態を見てしばしば愚痴を言っていた。
やがて彼はチャイムが鳴ると同時に門扉の外に出て両手を広げて生徒を止めた。そしてその間に別の教師に門を閉めてもらった。これは力石がやるとうまくいったが、気の弱い教師では制止が効かなかった。
「とにかく時間には、きっちりと門を閉めるしかない。思いやりの気持ちも時と場合による」
周囲の教師に聞こえよがしの大声で彼は口癖のように言った。それでも数日、力石が門番に立たないと少しずつ閉める時間が遅くなった。
この日は、彼は一時間目に授業が入っていたが、無理をして指導に立った。ぐすぐすしていると自分が授業に遅れることになる。
「今朝はどんぴしゃりに僕が門を閉める」
当番に当っていた三人の教師に彼は歯ぐきを見せないように言った。八時四十分が近付くにつれて校門を通過する生徒は幾何級数的に増えてくる。そして二、三分前からピークになる。
「あと、二分だ。チャイムが鳴った瞬間に閉めるぞ。急げ!」
緊張の面持ちで走って来る生徒に向かって力石は大声で何度も怒鳴り続ける。
「あと、一分だ。少しずつ閉めていくぞ」
彼は門扉の後ろの端に行き、俯き加減になってかなりの力を入れて押した。そこは門扉を閉めるのには最も力の入れやすい場所だった。力石の力む様子とは対象的に門扉はゆっくりと動き始めた。それから力強く加速していった。
二人の生徒が横に並んで通れる程度まで閉まった時、彼は押していた鉄骨を今度は握り締めて尻餅をつくような体型で引き止めた。それでも門扉は惰力でさらに一人分ほど閉まって止まった。これを見た生徒は遅刻を逃れられるかどうかの瀬戸際なのを知って、顔色を変えてコンクリート制の門柱と門扉の隙間に殺到した。生徒にとっては遅刻が多くなって親が学校に呼ばれて説教されるのはたいへんな苦痛なのだ。
力石の位置からは門扉に縦に何本も通された幅広の鉄骨が視界を遮り、外側の様子が見えにくい。首を横に突き出して覗き込むようにすると、どうにか鉄骨と鉄骨の間からわずかに見えるくらいである。彼は三、四メ―ターほど門から離れて外側の様子を窺った。多数の生徒が我れ先に入ろうとするものだから、却って詰まってしまいもたもたとしている。その集団の後方に哲弘の姿が見えた。力石は腕時計の秒針にチラッと目をやると、急いで門扉の押せる場所に戻った。
「あと十秒、九、八、七・・・ゼロ!」
最後に一際大きな声を出した時、ちょうど八時四十分のチャイムが鳴り始めた。それと同時に彼は門扉を押した。三人が閉まりかかった隙間から身体を斜めにしながら必死で通り抜けた。すでに人間が通るには狭過ぎる状態になっていた。
「ヨーシ、これから遅刻だ」
彼は俯いて体重を腕にかけ、一息に押し切ろうとした。ところが門扉が動かない。それどころか逆に押し戻される。顔を上げて見ると両腕を門扉に掛けて力任せに開けようとしている生徒がいる。やがて頭と身体半分をねじ込むようにして門扉の内側に出した。
「ハグキのアホ、早よ、閉めよ!」
挑発的な言い方で目をつり上げているのは哲弘だった。
「この野郎!」
今度は力石は思い切り押した。その間に哲弘は身体だけは擦り抜けたが、制服の上着の裾が挟まれた。コンクリートの門柱には鉄製の門扉が当った時の為の緩衝材としてゴム製のクッションが取り付けられている。そこに引っ掛かっている。力石が力を緩めないこともあって、いくら引っ張っても取れない。やがて哲弘は身体全体を激しく動かせて外そうとした。するとボタンが全部バラバラと落ちてしまった。力石は門扉を少しだけ引いた。制服の裾が外れた。哲弘は憎悪を露骨に表して立っている。
「哲弘、お前は遅刻だ。二分でグランドを一周して来い。遅れたら、もう一周走らすぞ」
勝ち誇った声で力石が怒鳴った。哲弘はそれには従わずに校舎に入ろうとする。力石は襲いかかるように哲弘を追い掛け、羽交いじめにしてグランドまで連れて行き、尻を押し出すように足で蹴った。哲弘はグランドを走らずに今入って来た校門の方へ走って行った。
「俺は遅刻じゃない。門が締まる前に校内に入ったじゃないか。どうして俺だけ目の敵にするのだ。今度こそおやじに来てもらう」
門の所で力石の方を振り返り、両手で殴り付ける格好をして哲弘は怒鳴った。それから門扉を開けて出て行った。遅刻して押し掛けていた生徒が再び堰を切ったように入って来た。当番の教師は突っ立っているだけだった。
(三)
翌日、呼ばれて校長室に入って、力石は面喰らった。校長、教頭はもちろんそろっているが、それ以外に哲弘の父親、地元選出の地方議員、その秘書らしい男、それに哲弘本人もふんぞり返って座っていた。
「前回、息子からトイレの件で疑われたということを聞いた時は、先生方も一生懸命になって教育活動をなされているのだから、時には間違いもあると思って何も言いませんでした。むしろ、疑われるような事を口にする息子に注意しました。しかし、今回はあまりにもひどい。門が締まる前に入っておれば遅刻ではないと言っておきながら、服を引っ掛け破いてまで息子を遅刻にしていまい、その上、暴力的に走らせるなど異常としか言いようがない。放置しておく事は個人の問題を越えて社会的に許される事ではありません。ですから、正式に筋を通させてもらいます」
哲弘の父親は堂々とした、反面、威圧的な態度であった。議員を動かせるだけの立場があるに違いなかった。
「いったい何が言いたいのですか。筋を通されて困るような事は僕にはありません」
頬を引きつらせてかたくなに力石が答える。
「ほんとうに、そう思われているのであれば、あなたの考えが道理にかなっているのか、それともお父さんのおっしゃっている事が道理なのか、公平な第三者の判断を仰ぐことになりますよ。私どもはお互いに大人ですから説得の必要を感じていません。今日来たのも学校やあなたに抗議をしに来た訳ではありません。あなたの行為を確認し、それに対して管理職が適切な処置をとろうとしているのかを聞きに来たのです。その結果、お父さんが納得がいかなければ公にするだけです。それにしても、とにかく来てよかった。校長は何も知らなかったのですから」
議員が野太い声で言う。力石がいきり立って何か言おうとした時、校長の松岡が手を振って制した。
「力石君、君の言い分もあるだろうが、行き過ぎた面があったことも事実だから、謝るべきはあやまらねばならないよ。それに、今回の事件を校長としいて私はまったく報告を受けていず、知らなかったというのも遺憾なことです」
低いだみ声で諭すように言う。力石は黙って俯いた。彼は人情家であった。裏返せば人情に弱く脆い男であった。時には理性や信念よりも人情を優先させる感激家でもあった。
「申し訳ありませんでした」
しばらくしてから力石は顔を上げないまま、少々不敵に呟いた。父親は少し納得したような表情を見せたが、議員はあくまで事務的だった。
「そうですか、しかし謝ってもらっても仕方がないのです。心情的なものはどうにでも変わるものですから。それよりも事実を確認させてもらって、書類化しましょう」
議員が合図すると秘書が鞄の中から用紙を取り出す。哲弘親子がうなずいている。力石の行為だけを取り出して並べ立てると彼にとって不利なことばかりであった。出来上がった書類を読むと性格異常の教師像が浮かんでくる。しかしそれは事実ではあった。
「とんでもない事だ。教師と生徒の信頼関係が今最も叫ばれているなか、教育現場でこういうことが平然と日常的に行われているとしたら、市民の高等学校に対する期待を踏みにじっていることになる。許されることではない。私としましても、この事実については関係諸団体において問題にするつもりです」
面積の広い顔の議員はいかにも深刻そうに言う。松岡校長の顔色が少し青ざめた。抗議に来たのではない、と言いながら二時間近くも苦情を並べ立ててから三人は出て行った。
「力石君、私は君にいつも感謝している。いままで口に出さなかったが、君の人知れぬ苦労については充分に分かっているつもりだ。口は出すが、動かないし責任もとらない、こんな教員の多いいなかで、君は教育者としてのりっぱな信念から皆が避けることを泥を被ってでもやってくれている。それは何よりも、生徒指導部の係りでもないのに、学校の為に勧んで動いてくれているところによく表れている。私は内心、涙が出るほど嬉しく思っている。それだけに今回のことは残念だ。私が悪い。申し訳ない」
頭を下げながら松岡校長が感極った声を出した。力石はポロポロと涙をこぼした。
「校長先生、私はどんなことがあったって頑張りますよ。決めたことを守らせるのが教育だと思っていますから。いつも損する性格なんです」
握り拳で目をこすりながら力石が泣き声で言う。
「しかし・・・校長先生は今回の事を知らなかったと先方に言ったようですが、私は確か教頭先生には報告しておいたはずですが・・・」
力石は急に不審そうな眼差しになって松岡校長の顔を見た。
「そうそう、よく知っていた。だが、こんな場合は校長としては知らなかったことにした方が、学校にとっても君にとっても有利なんだ。そうだろう、内田教頭」
「はい、その通りです。議員相手には誠実なだけではこちらが不利になります。政治的な要素も必要です」
内田教頭が確信のある声を出す。
「あの様子ではいずれ、教育委員会からの事情聴取と処分の申し渡しがあるだろうが、我々三人は同類だ。力石君、これに懲りずにしっかり頑張ってくれ。責任は全部、校長の私が取る。安心してやってくれればいい」
松岡校長の話を聞きながら力石はまた目をしばたたかせた。
授業が終わり、クラブ顧問の柔道部の指導も済ませてから力石は帰宅する準備を始めた。職員室には彼以外には誰もいない。
「畜生!みんな、早く帰ってしまって。これでも教育者か」
彼はカバンを床に叩き付けて怒鳴った。それから校舎を出て、車を置いている所に行って驚いた。こぶし大の白い物がボンネットといわず窓ガラスといわず、一面にへばり付いている。よく見るとトイレットペーパーに水を含ませて丸めた物を投げつけていた。力石は犯人は哲弘や通明に間違いないと思った。力石は雑巾を車から取り出して拭いたが、乾燥してこびりつき、意外に落ちにくい。力を入れてこすると細切れの糸のようになって一面に汚れが広がる。
「哲弘の野郎、殴り飛ばしてやる。そして僕も学校をやめる。そうしなければ、この世の教育は廃れる」
力石は拭くのを諦めて吐き捨てるように言った。その時、額に何か水のような物が落ちてきた。とっさに上を見上げると、三階の教室の窓から慌てて頭を引っ込めた生徒がいた。チラッと見えたところでは哲弘のようだった。
「コラッ、なにをしてるんだ!」
全力疾走で彼は三階へ駆け上がった。額から垂れる水のようなものは感触から唾液だと分かった。足にさらに力が入った。教室に入ってみるとすでに誰も居なかった。窓のカーテンが破れて垂れ下がっている。転がっているジュースの空き缶からタバコの吸い殻がこぼれている。前後の黒板に所狭しと卑わいな落書きが書いてある。そのなかに一段と大きく、相合い傘の中に「テツ」「ミワ」と書いたものがあった。力石はそれらの様子を茫然と眺めながら立ちすくんでいた。
「誰がいったい、この状況を責任をもって改善しょうとしているんだ。こんな状態で修学旅行に行けば、わざわざ信州まで生活指導に行くようなものだ」
彼は自分に言い聞かせるように唸った。彼は肩を落として階段を降り、無数の白い紙片で汚れた車に乗って帰った。
その後、教育委員会から事情聴取等があり、最終的に呼び出されて、処分の申し渡しがあった。口頭注意の処分だった。次にまた同じような事件を起こすと重くなる、と脅された。彼は自分が生徒になったように感じた。現場の管理職である教頭、校長の処分はなかった。
力石は帰る途中、車を置いて駅の近くのときどき寄っている立ち飲み屋で酒を何杯もがぶ飲みした。
「お客さん、もう充分に効いているのじゃないですか」
酒屋の店主がこう言った時、力石は、力尽きた木登りが木から滑り落ちるように崩れて床にうずくまった。それから大の字になって鼾をかき始めた。店主が重い力石の身体を抱き起こしながら、自宅の電話番号を大声で尋ねると彼は鼾の切れ間に正確に答えた。
店主がその電話番号に連絡をすると母親がタクシーで迎えに来た。車の中で力石は母の膝にうつぶしてオイオイ泣いた。母親は息子の頭をいつまでも撫でていた。
力石は婚期はかなり過ぎていたが、まだ母親と二人で生活をしていた。今までに何度も結婚話もあったり、付き合った女性もいたが、彼が相手を気にいると相手は彼を嫌った。逆に彼が嫌った相手からは気にいられたりした。結婚はしたいのだが、いっこうに話がまとまるような相手が出てこない状態が長く続いていた。
(四)
哲弘の父親が学校にやってきて、力石に土下座をさせて誤らせた、というようなうわさが学校全体に直ぐに広まった。哲弘が通明を使って尾鰭をつけて広まらせている話だった。これによって哲弘の悪グループ内での立場が非常に強いものになった。
「この学校の悪の元凶は、すべて哲弘につながっている。悪事を起こす生徒を裏で操っているのは哲弘だ。必ず尻尾を掴んでやる」
力石は惨めな思いをさせられた腹いせの気持ちも手伝って、哲弘の居るクラスを重点的に監視するようになった。
もともと学校の公務分掌の中では、生活指導係りというのは最も教員が嫌う分掌である。だから、希望者だけでは係の人数が足りないので、不足分は順番で強制的に役割につくようになっている。そんな中で、力石のような教員は生活指導係りとして貴重な存在のように思えた。ところが実際には皆から生活指導の係には入らないようにされていた。
その原因は、彼が生活指導をやると偏執狂のようにのめり込んでしまい、次から次へと事件を起こしてくるからであった。それは確かに、正義からではあったが、そこまでほじくり出すと対応するのに日常の教育活動に支障をきたすほどになった。だから周囲の教員は、彼にできるだけ生活指導に関わらせないようにしていた。しかし、力石には目の前に転がっている問題に適当に目をつぶることができなかった。それは、数学を専門的に勉強してきたために、明確に答えが出ないことが許されない性分になっていたことにも関連するのかもしれなかった。
力石が授業のない空き時間に教室を見回っている時だった。哲弘のDクラスに行ってみると、体育の授業で、教室にはカバンなどが置いてあるだけで誰もいなかった。彼は教室の中に入ってあちこちと見ていると、机の中に携帯電話を忘れている者がいた。携帯電話は学校への持ち込みを禁止はしていない。修学旅行には持参することを禁止している。授業中の使用はもちろん厳禁である。ところが、机の中に隠しながら授業中でもよく使っていた。おそらく、そのまま忘れて体育の授業へ出たのだろう、画像が映ったままになっていた。
力石はそれを机の中から取り出した。色合いやストラップを見ると女子のもののようだ。覗き見するようで気が進まなかったが、写っている画像を見た。どうやら書き込みサイトのようだった。
《学校の事件簿『連続オナニー事件』が昨日またまたおこったよ》
この見出しを力石は見たがまったく何のことか想像もつかない。
《昨日の放課後の教室でのことよ。例のテー君やミー君たちがカー君を取り囲んで、いやらしい写真を見せて、無理矢理にオナニーをさせちゃった。例の液を自分で放出してしまったカー君は終わった後、青白い顔をして机にうつぶして泣いていた。これでクラスの四人がテー、ミーたちの犠牲になってしまった。一度、餌食になると、何度でもやられている。特にカー君はいつもやらされて、かわいそう。神様、助けてあげて・・・》
携帯電話の書き込みサイトでの中傷批判や人権侵害については、これまでに何回も問題になって、学校全体としてもしつこいほど注意を繰り返してきていた。この書き込みはそのような悪質なものではなかったが、力石は妙に気になって、発信元や日付を調べた。そうすると発信したのは手に持っている携帯電話であった。また、発信日は今日であった。力石の目が輝いた。
「これは見捨てておけないことだ。事実だとすれば、大変ないじめによる人権問題だ。事実を調べなければいけない。間違いなくあいつらが関わっているに違いない」
彼はうなるように言いながら、携帯電話を元の位置に戻した。
職員室に帰ってからD組の座席表を出して、携帯電話が置いてあった席の生徒の名前を調べた。亜矢という女子の生徒であった。この生徒は、まったく問題のない普通の生徒だった。
「・・・ということは、書き込まれていた内容はいいかげんなものではなく、ますます事実であることが濃厚だということだ。・・・それにしても、陰湿ないじめ方をする連中だ。絶対に許せない」
力石は握り拳で空を殴った。
放課後、携帯電話の持ち主と思えた亜矢を生活指導部室に呼び出した。力石はこれで簡単に事実がはっきりして、コーやモーと言われた生徒を厳しく処分できると思った。コーやモーは間違いなく哲弘の連中であると思えたので、便器破損の仕打ちができると思った。ところが亜矢はかたくなに事実を否定した。
「携帯電話は間違いなく私のものですけど、そんな書き込みなど絶対にしていません。それに、そんなことなど見てもいません。だいいち、テー君、ミー君やカー君なんて、だれのことか全然わかりません」
何度聞いても同じ答えを繰り返すだけだった。
「それでは、携帯を出せ。確認をするから」
と力石が厳しく言うと、大声で泣き出した。泣いている姿は事実を認めているに他ならなかったが、あまりにも大げさに泣くので、とりあえず帰宅させた。
職員室でD組の担任の阿部に事情を説明してから事実をはっきりさせる事に協力するように頼んだ。阿部は社会科の教師で力石よりも一回り年上だった。
「そんな現実にはあり得ないようなことを信じ込むなんて最低だな。まして、その根拠は無責任な書き込みサイトなのだから、あきれるよ。だけど、疑っているようだから、一応、クラスの全員にはそのようないじめがなかったかどうか調査はするがね。君の妄想癖には迷惑するよ」
阿部は憎々しげな表情で声を荒らげた。職員室で二人が言い争っているような雰囲気になっていたので、周囲の教員たちも初めは注目していたが、やがて、力石のいつもの性分から来ているとわかると、しらけて無関心な雰囲気になった。
就業時間が終わりに近づくと職員室から次々と教員が帰って行く。まばらになった時を見計らうようにして、英語科の女子教員の浅野が力石のところへ周囲をうかがうようにしてやってきた。彼女は二年D組の英語を担当していた。
「力石先生、先ほど職員室で阿部先生と言い合っていた件ですけどね。私は力石先生の言っていることが事実だと思います。どうしてかといいますとね、二年D組の私の授業は一時間目が多いのです。それで、今までに何度か教室に入ると、あの・・・精液のにおいがかすかにしたことがあったのです。私は、どうしてこんな教室で一時間目からこんなにおいがするのか、不思議でならなかったのです。その謎が先ほどの力石先生の話を聞いて解けました。おそらく前日の放課後にいじめがあったに違いありません。なんとかしないと、被害者の子の人権はズタズタに引き裂かれていると思います」
周囲に聞こえないように小声で言うと浅野はそそくさと職員室を出て行った。
――やはりそうか。絶対に許さないぞ
力石はまた両拳に力を入れた。
翌日の授業が終わってからの終礼の時、阿部が嫌がるのを無視して力石もD組の教室について行った。力石が教室に入るなり哲弘や通明が大声で冷やかし始めた。それにつられてクラス全体がざわついていた。阿部はなんとか静かにさせてから話をした。
「最近、このクラスの中でいじめが行われているという報告があった。それで、事実かどうか、調査をしてくれと言われているので、今から正直に手を挙げてくれ。これまでにいじめについて見たり聞いたりしたことのあるものは手を挙げてくれ」
教室の空気が一瞬、緊張したものになった。何人かの生徒の目がおどおどと周囲を見回していた。哲弘や通明、またその仲間と思える数人の男子生徒が教室内を威圧的に見回している。この様子を見て力石はますます事実であるという確信を持った。
しかし、いつまでたっても誰も手を挙げなかった。犠牲者が四人は居ると思えたが、まったく誰も反応を示さなかった。力石は亜矢の方を見たが、俯いてじっとしているだけだった。
「ないとは思っていたが、やはりなかったなぁ。これでいいね」
阿部は力石の方を見て、フンというような仕種をした。
「民主主義というのは、愚かな者が集まったら、最悪の状態になるのがよくわかったぞ!」
力石は大声で怒鳴った。すぐに、哲弘と通明が「帰れ」コールを始めた。するとクラス全体がそれに乗ってきて机をたたいたり足を踏ん張ったりして大騒ぎになった。力石は唾でも吐きかけたいような気持ちになって教室を出た。
次の日から力石は悶々とした日を過ごした。D組の生徒の中には勇気と正義感を持って事実を言える者はいない。また、担任もいいかげんな人間である。人権侵害の事実を表に出すためには、自分で事実をつかむしかないと思えた。しかし、簡単に事実を明らかにする方法は思い付かなかった。
彼は四六時中、いい方法はないかと考えた。普通に見回りに行ったのでは、当然、見張り番をつけているだろうから現場を押さえることはできない。教室の後ろには掃除用具を入れるスチールのロッカーが置いている。その中に隠れていようかとも考える。だが実際に入ってみると、力石の大きめの体では窮屈で到底長時間、隠れていることには耐えられそうになかった。それにもし見つかったとしたら、トイレの中に隠れていたのと違って、力石の立場は厳しくなることは間違いなかった。
彼はあれこれと考えて、結論的には、教員としての立場が危うくなるかも知れないような方法しかないと思えた。
D組の教室は担任が掃除を積極的に指導しないので、雑然としている。個人の持ち物やクラブ活動の道具などもあちこちに置いてある。掃除用具用のロッカーの上にも、今にもくずれ落ちてきそうなほど荷物が積み上げられていた。力石はそれに目をつけた。小型ビデオカメラならばその荷物の間に挟むようにして隠せば見つかることはないと思えた。教室内をビデオカメラで教員が隠し撮りをしたことが発覚すれば、悪質な内容であれば懲戒免職にもなりかねない。こういう事件は何度か起こり新聞ざたになっている。
彼がやろうとしていることは悪質とまでは言えないが発覚すればマスコミが喜びそうなことであった。しかし、いじめの事実をはっきりさせるためには、ビデオカメラで隠し撮りするしかないと思った。
D組の時間割を調べると、一週間のうちの一日だけ六時間目の最後の授業に体育が入っている日があった。彼はその時間にこっそりとビデオカメラを設置して、体育が終わって教室に帰ってきてから、終礼をやり、その後一時間くらいの放課後の様子を撮影できるようにした。
何回も、見つからないように、緊張でからだが震えながらビデオカメラを設置したり、回収したりした。しかし、それらしい映像はいっこうに撮影されていなかった。それでもあきらめずに彼は繰り返し、隠し撮りを続けた。
十回を超えた時だった。映像の中に、書き込みサイトにあった内容とほとんど同じ情景が写し出された。
「やはり、事実だったのだ!」
彼は小躍りして喜んだ。やらされていたのは色白の一見女の子のように見える和彦であった。周囲を取り囲んでいるのは哲弘や通明のグループであった。
「・・・なるほどな。和彦だからカー君、通明だからミー君、哲弘だからテー君。単純なことだったのだ」
書き込みに書かれた名前を思いだして彼は納得した。
力石は意気込んでビデオカメラを持って校長室に行った。そして松岡校長に映像を再生してみせた。
「これで哲弘を処分しましょう。できたら退学まで追い込みたいのですが、少なくとも、間もなく始まる修学旅行期間中だけでも停学処分にしておきましょう。こんな生徒を連れていったら、大事な行事全体がつぶされますよ。通明は悪いやつではありません。ただ哲弘にうまく利用されているだけの調子のりですから、そんなに厳しくする必要はありません」
力石は松岡に意気込んで言った。
「ウーン・・・」
力石は松岡も喜んでくれると思ったが、腕を組んでうなるだけだった。
「本校が荒れている元凶は、この哲弘です。こいつさえ学校から追い出せば、いつも校長先生がおっしゃっているような落ち着いて勉強をする雰囲気の学校になりますよ。いいチャンスです」
力石はさらに力を入れて言うが、松岡は逆に白けていくようだった。
「力石君、君の気持ちも分かるが、このことについては、すべて私に任せてくれないかね。いろいろ難しい問題が含まれている。君のためにも学校のためにも、どちらにも良いようにするので、このことは今のところ無かったことにしておいておくれ。頼みますよ。この学校を本当によくしてくれるのは君しかいないことは重々知っています。将来、悪いようにはしないから」
松岡は優しく諭すように言った。
「わかりました。もちろん、校長先生がすべての責任者ですから、その校長先生がおっしゃるのなら、僕は構いません」
いつものことだったが人情に弱い力石は素直に承服をした。
(五)
その後、日は過ぎていったが、盗み撮りのことについては松岡からいっさい何の動きもなかった。ひょっとしたら校長は、この件が公になれば校長としての自分の監督責任も問われるかもしれないと思って、このままもみ消すつもりではないのかとも思えた。力石はさすがに、松岡校長に対して不信感が出てきつつあった。
修学旅行の当日になった。行き先は毎年、信州へのスキー旅行と決まっていた。
駅の団体待合室には七時の集合時間の随分前から、スキーウエアの上着を着た生徒達が三々五々に集まって来ていた。それらの生徒一人一人に鋭い視線を投げ掛けているのは力石だった。哲弘のクラス担任の阿部が一人の男子生徒と楽しそうに立ち話しをしている。そこへ力石が掛け寄った。
「スキーウエアを着て来いと言ったのに、どうして着ないのだ?・・・それにパーマをかけて来たな」
力石はいきなり平手打ちを食わせた。通りがかりの通勤客は振り向いて顔を曇らせながらも、何も言わずに歩いて行った。
「阿部先生、確認し合った約束事は守らせてください。今すぐ、親を呼んで修学旅行には参加させずに引き取ってもらってください」
阿部は困惑している。
「確かにそういうことだが、しかし、あれは脅しであり、指導方法だろう。私のクラス以外にも違反者はたくさん居るじゃないか。それを全員帰宅させたら新聞沙汰の大問題になるよ。それでなくても君は教育委員会から指導を受けたところなのに・・・」
阿部が口を歪めながら言い訳がましくしている時、スピーカーから集合時間が近づいた事を知らせる業者の放送が入った。
「あなたのような教員が居るからこの学校は良くならないのです」
力石は駄々をこねる子供のように言い捨ててから、前方に走って行った。
六時間余り電車に乗って,その後バスに乗り替えて宿舎のホテルに着いたのは夕方であった。雪の状態は良好で、また空は日没後も透き通るような青さを見せていた。
第一日目の夜は最も忙しい。全体指導会、靴合わせ、部屋別ミーティング、夕食、入浴、室長会議等と、教師の方もゆっくりする暇はまったくない。トラブルも毎年必ずといっていいほどある。大抵は学校と業者とホテルとの連絡がうまくいっていない事から起こる。
女子の入浴の整理係に当っていた浅野が浴場に行ってみると男女の場所が逆になっていなかった。一般客が利用する時には女子用が男子用よりも狭くなっている。これは女性客は各部屋の風呂を使って、あまり大浴場には来ないことからそうしている。ところが修学旅行では部屋の風呂は使えない。同じ時間に一度に全部屋の風呂が使えるほどの給湯能力はないのだ。それで男子の三倍くらい時間のかかる女子を広い男子用に替えることにしていた。事前に業者には念を押していたのだが、通じていなかった。
浅野はホテルの従業員と共に慌ててのれんを入れ替えしたり、何台もの頭髪の乾燥機を移動させなければならなかった。
それぞれの教員がやらねばならない事を一応終えた時は午前十二時を過ぎていた。
「どうも大変にごくろう様でした。とりあえず、ラウンジの方に集まってください。夜食を用意させていますから。警備は業者にやらせます」
内田教頭が大様な素振りで言った。本来は校長が同行すべきだったが、風邪をこじらせたことによる体調不良を理由に代わりに教頭が参加していた。
教員の食事も生徒と同じものをいっしょに食べるが、それよりも豪華なのが夜食である。教頭はいかにも自分が夜食を用意させたように言っているが、費用は全部、参加教員の手当ての中から天引きされている。修学旅行中は四六時中バタバタしている中で、せめて夜食の時くらい美味しいものを食べてゆっくりしたいという気持ちから結構な金額を出し合っているのである。それだけに気分が開放される唯一の時間でもあった。
阿部が気が緩んだのも手伝って、今朝の力石のやり方を茶化し始めた。いかにも他の教員の笑いを得たい様子である。力石は食べかけていたフライドチキンを勢いよく皿に打ち付けて阿部を睨みつけた。
「あれほど今回の修学旅行では生活指導を徹底しょうと申し合わせたのに頭髪違反者が多く居る。こんなことは許してはいけません。違反者には明日の午前中のスキー講習は受けさせずに散髪屋に連れて行き、丸坊主にさせるべきだ。本来、参加させてはいけない生徒なのだから、そのくらい指導して当り前でしょう。特に阿部先生のクラスの今朝の生徒は茶髪のうえにスキーウエアも着ていない。彼を指導しない教師がおかしい」
太い声で力石が怒鳴った。くつろいでいた雰囲気が急に緊張した。彼は時々、自分の思考過程が同時に他人も共有しているものと思い込んで、突飛な結論だけを口に出すことがあった。そしてそれが周囲の者に理解されないと癇癪を起こす癖もあった。
「しつこいのだ、君は。いいかげん、うちのクラスの哲弘をいじめただろうに。私も、そのとばっちりを受けて迷惑したのだ。はっきり言ってやろう。君は迷惑な人間なのだ。どこか皆の目の届かないところに行ってくれ。そうでないとまた、教委から処分されるぞ」
日頃は気の弱い阿部だが、年下の者から皆の前で罵られたので急に顔色を変えて反発した。力石は阿部に掴みかかろうとして立ち上がった。その時、阿部の席の後ろのガラス窓を通して一人の男子生徒が走り去るのが見えた。
「アッ!生徒が抜け出している。捕まえねば・・・」
掴みかかる代わりに力石は大急ぎでラウンジを飛び出して、逃
げた生徒の後を追い掛けた。必死になって走ったが生徒を見つけ
ることはできなかった。力石の後に続いて出て来た教師は誰もい
なかった。
「方向からすると、どうやら女子の棟から男子の方へ帰ったようだな。部屋からの外出はとっくに禁止の時間になっているのに」
いつもの癖でぶつぶつとつぶやいた。女子と男子の部屋は棟で分けており、その通路には時間ごとに警備役を決めていた。午前○時までは教員が当っていたが、それ以降は疲れるので業者に頼むことにしていた。
力石は女子の棟を見に行った。通路のところに行くと警備役の業者が椅子に腰掛けて居眠りをしていた。業者といっても正式な社員の付き添いは二名だけで、後は人材派遣業者からその都度、人を集めていた。彼等の仕事は過酷であった。ゆっくり寝る時間など無かった。
「これだったら、何の役にも立たない」
吐き捨てるように力石は言って、警備役の肩をゆすって起こした。女子の棟の薄暗い廊下を見通すと生徒は誰も出ていないが、なにか風船のようなものが数個、ゆらゆらと動いている。近づいて拾い上げるとコンドーム風船だった。彼は全部拾い、パンクさせてごみ箱に捨てた。
「やはり誰か男子が来ていたな。捕まえてやる」
低い声で唸った。
彼がロビーに戻って捕まえる方法を考えていると、フロントの壁にある表示盤の二個所にランプが点灯したのが目に入った。そばに行ってみると、そこには三桁の数字が書き並べられていた。彼は目を輝かせた。
「誰かいる?」
小声で呼ぶと奥の部屋から年取った夜警員が出て来た。
「あの表示盤は何ですか」
「はい、あれは内線電話の利用状態を表示しています」
「やはりそうか。携帯電話は持参禁止にしているから連絡を取ろうとすれば内線電話しかないだろう。すると今はあの二つのランプのついている部屋同士で話をしているという事ですな」
「はい、そういう事です。フロントに掛かってきた場合でもすぐにどの部屋からというのが分かるようになっています」
夜警員は人が良さそうで、丁寧に答えた。
「それじゃ、ちょっとランプのついた部屋を見てきますのでマスターキーを貸してください。旅行業者には、いたずら電話をするので各部屋の電話回線は切ってもらうように言っておいたのですが、ホテル側に通じてなかったみたいですな。今のランプが消えたら全部の回線を切ってもらえますか」
力石が話しているうちにランプが消えた。
「はいはい、そうですか、それはどうも申し訳ありませんでした。何も聞いていなかったものですから」
マスターキーを力石に手渡すと夜警員は何ケ所かのスイッチを操作した。力石はランプのついていた番号の部屋には誰がいるのか書類を出して調べた。
「間違いない。こいつ等なら何かやる」
男子の部屋には哲弘と通明がいた。女子の方にはいくら口紅をつけるな、と言っても塗りたくって登校する恭子がいた。力石は哲弘が恭子と連絡を取って彼女の部屋に行こうとしているに違いないと思った。哲弘はおそらく、恭子に部屋の鍵を開けさせておいて、警備役の居眠りしている所を捜して通り抜けて行くと思えた。
力石は充分に時間を置いてから恭子の部屋の階へそっと上がって行った。廊下の端から見通すと恭子の部屋のドアの前に同室の二人の生徒が座り込んでいる。三人部屋だから中には恭子しかいない事になる。
力石は拳を握り締めた。それからドアの所まで一気に走って行った。二人の生徒は驚き慌てふためいたが、それでもドアをドンドンと叩いた。これは中の者に教師が来たことを知らせる合図であった。しかし、力石はほとんど同時にマスターキーでドアを開けて中に入った。中には、哲弘ではなく、通明が居た。恭子の肩に手を掛けて二人で煙草を吸っている最中だった。
「コラッ!おまえら、何をしている」
大声で怒鳴って近づくなり、彼は二人を殴りつけた。さすがに二人共、予想外のことに滑稽なほどうろたえて、神妙な顔つきになった。
「通明、お前は外出禁止の時間に部屋を出て、こともあろうに女子の部屋に入った。さらにその上に煙草を吸った。これは退学に近い処分ものだぞ」
ひょうきん者の通明がめずらしく肩を落としてうなだれた。それを見て力石は続けた。
「しかし、この事を知っているのは今のところ、俺しかいない。通明、よく聞け。教員用のトイレを潰したのは哲弘だろう。また、オナニー事件を起こしているのもお前たちだろう。正直に言えば今夜の事は見なかったことにしてやるがどうだ?退学になってしまったら元も子もないぞ」
力石はとっさに、盗撮テープが松岡に握りつぶされた時の為に言質をとっておくことを思いついた。通明の顔が引き吊った。今までの授業でも一度も見せたことがない、切羽詰まった表情だった。
「確かに最初の便器は俺が見ているところでバットで潰した。二回目は知らない。オナニー事件は全部、哲弘の命令でやっているだけだ。それに、今ここに俺が来たのも哲弘が、女子の部屋に見つからずにいけるかどうか試して来い、と言われて来ただけだ。タバコは吸ったが・・・」
俯いたままで通明は低い声を出した。
「やはりそうか・・・」
力石が大きくうなずいた時、入口から内田教頭が入って来た。
「力石先生、ここに居たのですか。ラウンジを出たまま帰って来ないので捜していたのですよ・・・オッ、お前達、煙草を吸っていたんだな」
吸い殻を見つけて内田教頭が怒った。力石から見なかったことにしてやるからといわれて言ってしまったことが報われないことになった。通明の顔が青ざめた。
(六)
スキー修学旅行では昼間の教員の仕事はほとんどない。十人に一人ずつ付き添うインストラクターがこまめに生徒の面倒をみる。教師が楽なのもスキー講習形式の修学旅行が多いひとつの理由である。
力石は深夜の指導で疲れ、自分の部屋で起床時間になっても起きずに眠っていた。昨夜は結局、喫煙が公になってしまって通明と恭子をロビーに連れ出して説教をしなければならなかった。終わった時は空が白みかけていた。二人については講習を受けさせずに部屋で謹慎させていた。
夕暮れ前に一日の講習を終えた生徒達がどやどやとホテルに帰って来た。それから着替えてから夕食の席についた。入浴は時間がかかるので食事の後にすることにしている。食事の席での生徒の話題はもっぱら通明と恭子の事だった。どこから漏れるのか、すでに全体に尾鰭が付いて知れ渡っていた。学校に帰れば通明は退学処分、恭子は無期停学だということまでささやかれていた。当の二人は、講習の間は部屋で謹慎させていたが、皆が戻れば自由にさせているのに、さすがに落胆している様子である。
満足そうな顔で力石は生徒を見回しながら飯をうまそうに食っていた。素晴らしい景色を眺めながら食事するのと同じようだった。
「これで全体が少しはビシッと引き締まる。修学旅行は遊びではないのだから」
力石は得意げに周囲の教員に吹聴していた。
入浴の時間になった。三十分ほど過ぎた時、女子の整理に当っていた浅野が顔色を変えて本部にしている部屋に飛び込んで来た。
「たいへんよ!誰かが女子の更衣室の写真を写したわ。すぐに来てください」
甲高い声で叫ぶ。そこに居合わせた力石と数人の教師が急いで女子の風呂場に行ってみた。風呂場に居た生徒は全員着替えて憮然として集まっている。そのなかで一人、顔を両手で被い、うずくまって泣いている生徒がいる。周囲の者が取り囲むようにして慰めていた。
「美和さんがはっきりと写っているに違いないのよ。なんてひどい事をするのかしら」
浅野が男子教員に抗議するように言う。力石は美和のそばに行って正座した。彼は教科の授業で美和のクラスを教えており、成績が優秀なのと古典的な顔立ちでおしとやかであったので好感を持っていた。
「美和、どうした?泣いていたら分からん。どこから写されたんだ」
ゆっくりと顔をあげた美和は感情的に悲しむ状態を越えて、ショックのあまりむしろ茫然とした表情になっている。
「あそこから誰かが覗いたとおもったらカメラのレンズが見えてシャッターを切る音がしました」
指差してから、また顔を伏せた。
「心配しなくてもいい、俺が必ずカメラを取り返してやるから」
立ち上がりながら力石は美和が指差した所を見た。そこは天井近くが目の荒い格子窓になっている。外側には人が横になれば入れる程度の空間があって、ちょっとした踏み台でも置けば覗ける高さである。一般客の場合は男子用であるので不具合は無いのかも知れない。修学旅行で女子用に使う場合はホテル側も心得ていて、普通は見えないように板を打ち付けるらしい。ところが今回は業者かホテル側の手違いで直前になって男女を入れ換えたので、目隠しをするのを忘れていた。
「こんな事、絶対に許せんわ」
「信じられんわ。ミワがかわいそうよ。もう、お風呂には絶対入らない」
「この学校の先生は男子ビシッと指導しないから、こんな事になるのよ。帰ってお父さんに言ってやる」
「もう、スキーどころではないわ。みんなで明日は学校に帰ろうよ」
次々に女子生徒が集まって来て、口々に抗議する。集団の興奮した雰囲気になりつつあった。
「とりあえず、生徒を部屋に帰して、部屋から出ないようにさせましょう」
力石が怒鳴りながら生徒を押し返し始めると他の教員も必死になって寄せて来る生徒を止めた。どうにか生徒が落ち着いたのは深夜になってからだった。それまでは教頭も含めて教師全員が廊下に立って、生徒が集まって暴走しないように指導しなければならなかった。何かあれば騒いでやろうという生徒がたくさん居るのだ。
美和は精神的にまいってしまっていたので大事を取って保険用の部屋に看護士付き添いで寝かせた。
善後策を検討する為に教員全員が本部に集まった時にはすでに午前一時を過ぎていた。誰もが疲れ果てた様子である。特に力石は夕食の時とは打って変わって苦悩の表情になっている。
「さて、たいへん複雑な要素をもった事件だとは思いますが、時期を失わずに対処しなければ取り替えしのつかない事にもなりかねませんので、深夜になって申し訳ありませんが、忌憚のないご意見をおっしゃっていただきたいと思います」
内田教頭が無理に力強い声を出した。重苦しく苛立った空気で、すぐには誰も口を開かなかったが、しばらくしてから浅野が口火を切った。
「この問題は軽く簡単に考えてはいけないと思います。また、めんどうくさく思う事も許される事ではないと思います。ひょっとすると一人の人間の人生が大きく狂うかもしれない大事件です。もしもその写真がばらまかれたり、インターネットで流れたらどうなるでしょう。たいへんな人権問題です。ふざけや冗談で済まされるような事柄ではありません。社会の風潮が人権軽視か、単なる軽薄かの区別がつかない状況だからといって、教育現場にまでその浸透を許してはいけません。むしろ時代に抗してでも人権を復権させるのが教育でしょう。その意味で今回の事は徹底した対処をすべきだと思います。そうしなかったら、生徒の信頼を失います」
学年で三分の二を占める男子教員を見回しながら厳しい口調で言った。一様に男子教員は複雑な表情になったが、力石だけは目を見開いた。
「その通りです。僕は日頃からいつも言ってるじゃないですか。徹底した生徒指導をするなかに教育はあると。中途半端は善良な生徒を犠牲にするのです。今回の事件の底流には本校の教師のいいかげんさが原因していると思います。はっきり言って僕は学年主任でもなければ、生活指導の責任者でもありませんよ。そしたら、目の前で何が起ころうと他の公務員のように自分の係の仕事だけをしていればいいのですか。僕はでしゃばりだと陰口をたたかれているのは知っていますが、教師としての良心がそれを許さないのです。だから昨夜も喫煙と不純異性交遊になりかねない現場を押さえたのです。修学旅行妊娠というのは表に出てこない社会問題です。人権問題です。表沙汰にならない事は見て見ぬ振りをするのが教育なのですか。今回は徹底した指導をすべきです」
ここで少し間を置いてから力石はまだ続けた。
「正直なところ、僕は恐れているのです。トイレの破壊から始まって陰湿な事がいくらでも起こっています。このまま放って置くとどういう事になるのか。また、そういう状況の中で果たして教師として自分は恥ずかしくなく生きているのだろうか、と考えると時々、激しい自責の念に襲われる事があるのです」
大抵の場合、力石の意見は過半数にそっぽを向かれることが多かった。しかし今回は女子教員の賛同を得た。男子教員は俯いているだけで意志表示しない。特に阿部などはあからさまに白けている。
その後、女子職員を中心に様々な意見が出たが、基本的な方向は力石と浅野の言った内容で一致した。男子職員が反対する余地はなかった。さらに具体的にどうするかで、明け方まで話し合った。
翌朝も素晴らしく晴れた。この季節に三日間も好天気が続くのは珍しかった。
朝食は予定通り済ませた。その後、講習には行かせずに男女を別々の大広間に集めた。不満を言う者もいたが、生徒は何かあるだろうと予想していたので大きな混乱はなかった。
女子の方は抗議集会ということにした。問題は男子の方である。とにかくカメラを回収する事を最優先にした。その為にはまず自主的に申し出させる事を考えた。
浅野が壇上に上がった。そして、今回の件について女性の立場からの訴えを始めた。がさつい男子生徒がふざける事もなく静まりかえっているのは不思議なほどであった。力石は最後列で鋭く目を光らせていた。彼は様々な状況から犯人の目星をつけていた。
・・・こんな事をするのはあいつしかいない。今度こそ化けの皮をはがしてやる
一睡もせずに考えた結論であった。はじめに着替えの場所を覗いて、誰が居るのか確認してから写している。そして美和がもっともはっきり写る状態の時にシャッターを切っている。このことは単なる面白半分の盗撮ではないと思える。美和を狙って写したに違いない。そう考えると、以前に額に唾を落とされて追い掛けて行った教室での落書きが思い出された。そこには傘の中にはっきりと「テツ」「ミワ」と書いてあった。おそらく、哲弘が、思いが募って自分で書いたものだろう。
彼は中程に座っている哲弘の後ろ姿を凝視していた。横には肩を落とした通明が居る。浅野の話は三十分弱続いた。心情のこもった話ぶりであり、内容であった。
「・・・もし、わたしだったら、自殺するかも知れません」
最後にこう言って浅野は壇上を下りた。次に内田教頭が立った。
「こういう事だから、写真を撮った者はすぐにカメラを自主的に出せ。これから各部屋を先生方に回ってもらってすべてのカメラを調べる。フィルムカメラはその場でフィルムを抜いて感光させてしまう。もちろん使いかけの物も全部抜く。どうしても写真が必要だというものは、そのカメラを教員が預かって学校に持ち帰り現像する。そうすればすべてが明かになるだろう。ただ、そこまで全員に迷惑をかけたくないだろう。またそうなれば学校としても厳しい処分をせざるを得ない。もう一度言う。できるだけ早く申し出よ。その時点でカメラを調べるのも止めるし、スキー講習を始める。それまではこの部屋から一歩も出てはいけない」
教頭は話し合った通りの内容を言った。場内が一度に騒がしくなった。教頭と力石と腕っぷしの強い数人の教師が生徒を押さえるために残り、他の者は分担して各部屋へ行った。始めのうちは単なる騒ぎであったが、一時間近くたつと徐々に全体的に憤怒の様相を表してくる。いたるところで写真を写した者への激しい罵りと教師のやり方にたいする不満が飛び出してくる。中には教師にくってかかる者も出始める。
力石は会場の様子を高鳴る心を押さえながら観察していた。時間が過ぎるにつれて急激に水嵩が増すように広間の中は危うい状態になってきた。日頃おとなしい生徒までが荒っぽくなっていた。一触即発の雰囲気があった。力石は、哲弘がいくら悪党でもこの雰囲気には耐えられないだろう、動くなら今だと思って目を凝らせた。
その時、哲弘が横に居る通明の方を向いて何か耳打ちした。チラリと見えた哲弘の横顔は別人のように引き吊っていた。今まで見せたことの無い緊迫した表情だった。やがて通明がゆっくりと立ち上がった。それから教頭の所まで歩いて行って頭を下げた。広間が急に静まった。全員が通明に注目していた。通明は涙をぽろぽろこぼしながら走って出て行った。
「それじゃ、これから二日目のスキー講習を開始するから全員、ゲレンデに行け。急いで出よ」
教頭がマイクを持って追い出すように手を振り上げた。
全員の生徒を講習に行かせてから、教員はロビーに集まって来た。日頃、やりたくてもできなかった徹底した指導ができ、しかも予想通りの成果が上げられた事を口々に喜び合った。通明が差し出してきたインスタントカメラを持って、内田教頭と力石と浅野が保険室に行った。美和は食事もせずに寝ていた。教頭が美和の目の前でフィルムだけを引っ張り出して感光させ、ごみ箱に捨てた。美和が笑って泣いた。力石は美和の美しさに身体が金縛りに合うように感じた。
(七)
修学旅行の教育効果は生徒の立場から見ると新しい、深い人間関係ができて歓迎されるものである。しかし、教師の側から見るとあまりかんばしいとは思えないのが実態であった。
その一つの表れに、行く前よりも帰って来てからの授業の方が随分うるさくなった。堅苦しくて嫌がられるほど厳しくしていた力石の授業でさえ、ざわざわした。彼は今までならこっぴどく叱りつけるのが常だったが、修学旅行から帰って来てからは怒らなくなった。生徒が不思議がるほどだった。また、あれほど信念に従って出しゃばっていた生徒指導にも消極的になっていた。
力石の頭の中は一つの事で一杯で、それ以外に考えたり行動したりする余地がなかった。
・・・あのフィルムに美和は写っていなかったはずだ。公序良俗に反するものが写っているフィルムは業者が焼き付けをしないことくらい生徒たちは知っているはずだ。あの時には収拾をつけるために黙っていたが、どうしてくれよう
この事ばかりを思い詰めていた。
通明は学校の処分を待たずに、両親が学校や美和に謝罪して自主退学した。力石は、通明は哲弘の為に犠牲になったと思っている。そらく、集会の時に耳打ちした内容はそれを強要するものだったに違いないと思えた。これで、便器の破壊を証言する生徒が居なくなったし、松岡が盗撮テープを握りつぶせばオナニー事件の首謀者を確定することもできなくなる。
力石はなんとしても哲弘を処分しなければならないと思ったが、通明が退学したので、新しい確実な証拠を再び捜さなければならなかった。
木曜の三時間目になった。力石はあらかじめこの時間が哲弘のクラスが体育で、自分は空き時間であるのを確かめていた。体育館一階の男子更衣室に力石はできるだけ人目につかないように入って行った。高い所に小窓があるだけなので薄暗い。彼は動悸がするのを感じながら哲弘の服を捜した。哲弘は何度も服装指導を受けているにもかかわらず、学校規定の学生服を着ていなかった。それだけに比較的簡単に見つけることができた。
震える手で力石は哲弘の上着を持ち上げた。そしてポケットの中を調べ始めた。両側の外ポケットからは定期入れ、単車のカタログ、カードなどが出てきた。内ポケットの一方にはライターとたばこが入っていた。たばこの種類を見るといつも教室やトイレに落ちているものと同じである。もう一方のポケットから大きめの分厚い折りたたみ式の財布が出てきた。金銭以外に多数の雑多な物が入っている。それを一つ一つ抜き出して調べた。その中にまた定期入れがあった。定期券の日付を見ると使用済みのものである。力石は不審に思って中を調べるともう一枚何か挟んでいる。それを取り出した時、彼は初めから捜していた物ではあったが、頭がくらくらとした。裸の美和が写っている浴場の写真であった。
「やはり思った通りだ。どこまでも悪の塊なのだ」
力石は唇を震わせて唸った。写真の周囲には細い金糸で何重にも縁取りがしてある。ぎこちないところをみると哲弘が自分で縫い付けたに違いなかった。用紙や印刷の状態を見るとデジカメ写真であるのが分かる。
力石は顔を半分そむけ、泣きそうになりながらもしっかりと写真を見た。彼にはその写真の美和が当たり前に写っているにもかかわらず、醜悪に見えた。修学旅行中に保険室に当てた部屋で笑って泣いた美和と結び付けることは人間に対する冒涜のように思われた。この写真を哲弘が大切に肌身離さず持っている事を考えると、憎悪とも嫉妬ともつかぬ激しい感情が力石の胸を張り裂けそうにした。
「こんな事が教育現場にあっていいものか。恐ろしいことだ。学校の処分などでは生温い・・・哲弘よ、お前をこの写真と共に葬ってやる」
力石はうなるようにつぶやくと写真を定期入れの中に戻し、上着を元のように台の上に置いた。それからまた目立たないように更衣室を出て行った。翌日から力石は今度は以前にも増して、校門での遅刻指導に熱心になった。ほとんど毎朝、門のそばに立った。
(八)
写真を撮られたミワと呼ばれている子は、藤川美和と言って校内では少々有名な女子生徒だった。どうして有名になったのかというと、年一回行われる作文大会で、最優秀賞をとったからである。文書を書くことが嫌いな生徒達が増えている中で、藤川美和は長文の作文をうまく書いていた。その内容は、図書館から発刊される冊子に全文が載ったので、多くの生徒たちが読んで感動し、話題に上ったものであった。
その作文の題名は『お母さんありがとう』というもので、内容は次のようなものであった。
私の両親は、私が小学一年のころ、離婚してしまった。そのころ私が何を思い、何を考えていたのかは自分でもほとんど記憶がない。でも、母から急に離婚の話を聞かされたときは、それまで両親はとても仲がよいと思っていたので信じられなくて大変なショックだったのは記憶に残っている。
私は幼かったこともあって、何も考えられなくて、涙が次々と出てきて、母の前で大泣きをしてしまった。今思えば、あの時、一番つらかったのは間違いなく母に違いがなかった。だから、しばらく時間がたって私が落ち着いてから、母が玄関先で声を出して泣いていた光景だけは今でもはっきりと覚えている。
私は一人っ子で、いつも母と一緒に過ごしていて、母が大好きだった。
母は離婚後も以前と同じように明るい。だれにも言えないことを心の中にため込んで、胸が痛くなるような思いをすることがあるのだろうに、私にはいつも明るく接してくれる。それを感じると母は素晴らしいなと思う。本当にこの母の娘でよかったと強く感じる。
ただ一度だけ母が耐えられないような状態になったときがあった。それは母の一番の理解者であった祖母が亡くなったときだった。母はその時からほとんど食事もとらずに毎日泣いていた。ベランダから外を見て、
「このまま飛び降りたい」と何度も言っていた。しかし私はそんな母を止めようとしなかった。これまでどれほど自分を殺して生きてきたのか、子供ながらにもその苦労が少しでもわかるような気がするから。
母がそうしたいのなら、周りのことなど気にせずに、行動してほしいと思った。それで母が幸せになるなら自由にさせてあげたいと思った。でも、もちろん、母は飛び降りなかった。そのうなだれた後ろ姿を見ると、私がいるから、踏みとどまって生きていてくれるのだなあと直感した。
母はこのことを乗り越えた後はまた明るくなった。いや、ずいぶん強い人になったと思う。その姿を見ると、弱い私にもあの強い母の血が流れていることを感じ、ずいぶん勇気づけられる。
母は、はっきりとものを言うようになった。良いことは良い、悪いことは悪い、言わなければならないことは、たとえ目上の人でも会社の上司でもためらわずに言っているようだった。そして、いざというときには自分の身を犠牲にしてでも子供の私を守る母のその強さに私は何度も感動した。
私は泣き虫だった。泣いている私を見ては母は私を抱き締めてくれた。その時の母のぬくもりは私を大変落ち着かせてくれた。その温かさを感じながら、私も母のように強くなろうと決意することもできた。
小学校高学年のころ、自分のお母さんについて書く作文の授業があった。そして授業参観の時にその作文を発表するものだった。私は何を書いたのかは、自分ではよく覚えていないが、母のことをすごくほめた内容だったらしい。母はそれが大変うれしかったようで、今でもよく、笑ってその話を持ち出したりする。私はそんな母を逆に抱き締めたくなる。
私は母が大好きだったけれど、それでも中学のころから何かにつけて母に反抗してしまう自分を、自分の中で発見をすることになった。母に対して申し訳なく思い悪いとは思っていても、自分でもよくわからないけれど、母のありがたみが分かっているのに、ついつい反抗をしてしまう時期があった。
時にはひどくけんかをして、そのまま寝てしまった。翌朝目を覚ましてみると、朝食、弁当、着替えなどいつものように母が準備をしてくれていた。もし私が母の立場であったとしたら、わが子といえどもあんなケンカをした翌朝には不機嫌に接するのに、と思って、母の胸に抱きついて、謝って泣きたい衝動にかられた。けれども、どういうわけかしらけた顔しかできなかった。
普段そんな状態なので、母の日や母の誕生日など特別な日くらいは素直に気持ちを伝えたいと思って、手紙を書いてプレゼントした。母は大変うれしそうな笑顔になった。私は母のその笑顔が好きで、いつまでもこの瞬間を大切にしたいと思った。その後私は年齢を重ねるごとに、自分でも不思議でならなかったが、母への反抗の気持ちは霧のように消えていった。そしてまた、母と一体不二のような気持ちになった。
高校になって、ある時、捜し物をしていた時、ふと母の持ち物を見ていると、あのころに書いた私の手紙を大切な宝物ようにしまっているのを見つけたことがあった。私は母の思いというものは私の想像を超えた深いものなのだと感謝した。
私がある程度、大人の気持ちが分かるようになったころに、父親との離婚についても話題になった。その時、母は、
「私の見る目がなかった。ごめんね」とすがすがしく言って私に謝った。
「お母さん、強くなったね」と私が言うと、
「だって、あの時、一生分、泣いてやったもの。もう涙を出す必要ないのよ」と笑いながら言った。
今、母は忙しい。毎日、パートタイムを朝も昼も夜も入れている。家にいる時間は本当に短い。それだけ働くのは、もちろん生活のためだし、なにより、私を大学に進学させてくれるためのお金を準備するためだ。
そのうえ、帰ってくるとすぐに家事をする。ほとんど四六時中休んでいる時などないように思える。もちろん私も家事を積極的にしているつもりだけれど、母から見るとまだまだ抜けていることが多いに違いない。
それでも、時々、母と買い物に行く時がある。デパートなどに行くと、私が見たい洋服を一緒にみてくれた上に買ってくれる。でも、母は自分のものはほとんど買わない。買わないというよりむしろ買えないのではないだろうか。本当はほしいのだけれど私のために我慢しているのだと思う。母が体を粉にして稼いだ給料の多くを私のために使ってくれているのだと思うと、私は申し訳なく思い、しっかりと勉強して、できるだけ学費の安い大学に行こうと決意をしている。
そして、働きだしたなら、最初の給料で何よりも母が欲しがっているもの必ず買います。
お母さん、私はあなたの子でよかった。幸せです。
この作文は、多くの生徒たちに読まれて大きな反響を呼び、生徒一人一人の心の中に人間としての生き方のすばらしさを感じさせることができた作品だった。
(九)
早朝に学校の近くを通る幹線道路で事故があった。交通事故は珍しい事ではなかったが、その影響が通勤時間にまで尾を引いて付近の道路が渋滞した。松岡校長もその渋滞に巻き込まれてしまい、途中で学校へ遅れることを電話連絡した。力石はいつも始業時間の一時間前には学校に着いていたので、多少の渋滞では慌てることはなかった。それでもいつもより二十分遅れた。八時二十五分になった時、彼は二階の職員室の窓から校門を見た。教師は誰も居ない。
「遅刻指導の先生はすぐに校門に行ってください」
力石は何度も大声を出したが、各学年から一名ずつの担当者は渋滞の影響かまだ誰も来ていなかった。
「これはたいへんだ。誰でもいいから代わりに校門に出てよ」
こう言って力石は近くにいた二名の教員をむりやり引っ張って行った。教員用の下足室で靴に履き替えながら、彼は事務室にあるチャイムに直結した時計と腕時計とを見比べた。それから秒針までぴたりと合わした。遅刻指導をする時にはいつもやっていることだった。
門のそばに着いてまた時計を見ると三十分になっていた。生徒はまだまばらにしか登校して来ない。どこの学校でも同じようなものだが、始業前の五、六分の間に千名ほどの生徒がなだれ込む。やがて三十五分になった。
「あと、五分で門を閉めるぞ、急げ!」
力石が両手を口に当てて道路に向かって大声で怒鳴った。見るみる生徒の集団の嵩が増してくる。指導に当っていた教員のうち誰が門扉を閉めるかは決まってはいない。だが、力石は無意識に門扉の後ろ端の方へ走った。三人の体格、腕力、それに遅刻指導の提案者であることを考えれば当然、自分が閉めるべきものと思い込んでいた。なによりも他の二人はまったくやる気なしの風体で手持ち無沙汰に立っているだけだった。
バス通学の生徒は一割いる。交通事情が悪かったり、雨の日には必ずといっていいほどバスは遅れた。バス利用者には、遅れる可能性があることを見越して一本早い便に乗れ、と指導はしていたが、実際には担任がバスによる遅刻はそれを確認して取り消していた。この事は生徒も知っていた。
美和はバス通学であった。彼女は指導を守って時間の早い便に乗っていたので、入学以来二年生の現在まで一度も遅刻をしたことがなかった。それどころか欠席、早退さえ全くなかった。もちろん体調の悪い時もあったが、学校は絶対に休むまい、と自分に言い聞かせて登校した。かなり悪い時などは家を出た後で、母親が心配になり担任に、大丈夫でしょうかと連絡を取ったことさえあった。美和は母が必死に働いて学費や生活費を稼いでくれていることを思うと、一時間でも授業を無駄にしたくなかった。
この朝はもたもたした訳でもないのにどうしてか、いつもの便に乗り遅れた。それで次に来たバスに乗った。今までにも稀にこの時間のバスに乗ったが、通常の運行ならば学校には充分に間に合っていた。
バスは途中までは順調に走った。ところが学校が近づくにつれて、事故の影響でノロノロ運転になってきた。美和は不安になってソワソワと前方の車や信号に目を向けていた。
「アラ、ミワじゃない?珍しいわね、このバスに乗るなんて」
振り向くと隣のクラスの恭子だった。就学旅行中の喫煙で停学になった後でも口紅を付けて、短いスカートをはいて学校へ来ていた。
「間に合うかしら?」
心配そうに美和が尋ねると恭子は余裕の笑みを見せる。
「そんなにイライラしなくたって大丈夫よ。このバスに乗っておれば授業に遅れたって遅刻にはならないから」
確かにそうではあったが、授業中に教室に入ることで教師やクラスの者に迷惑をかけることは美和にとっては大変に苦痛なことだった。学校の近くのバス停に着いた時は門の閉まる三分前だった。思い切り走れば時間に何とか間に合うと思った。彼女はバスを降りるなり疾走した。恭子は悠々と後を歩いていた。
「あと、三十秒だ!門を閉めてゆくぞ」
太い声を力石が出した。そしてゆっくりと門扉を動かし始める。生徒が最も慌てるのはこの時であった。門扉や門柱にぶつかるのもかまわずに全力で走り込んでくる。説教をされてグランドを走らされたり、親を呼ばれたりすることを考えれば少々痛い思いをしても門を通り抜けるに越したことはなかった。力石は門扉を途中で止めて時計の秒針を見た。
「あと、十秒だ!八、七、六・・・」
彼の声は大騒ぎをして門を通る生徒の声にかき消されもせず、道路までよく響いた。他の二人の教師は相変わらずぼんやりとポケットに手を入れて立っている。力石はふと不安になって、門扉から離れて外側の様子を見た。塊になった生徒が必死になって前の者を押しているなかに、弱そうな女子のところを無茶苦茶に押し退けて近づいた男子生徒がいる。哲弘だった。力石が教育委員会から処分を受ける原因となった遅刻指導の時、哲弘は閉まりかけた門扉を押し戻してきた。哲弘の居る位置を見れば、ちょうど門扉を締めると挟まれる状態になると思えた。力石は素早く門扉に戻った。そして俯いて腕に力を入れ、時計を見た。
「二、一、ゼロ。ヨシッ、閉めるぞーッ!」
チャイムがのんびりと鳴り始めた。 力石は哲弘に押し戻されないように全身の力で押した。積み重なった怨念が、今晴れる事を心に念じた。
閉切ろうとした時、哲弘の反発力でもない、またいつものクッションに当たって止まるのとも違った手応えを力石は感じた。と同時にあれほど騒がしかった周囲が一瞬、静寂に染まった。
彼は力を抜いて門扉から離れ、門柱を見た。口から大量の血を流している美和の顔がドサリと地に落ちた。門の外から悲鳴が上がり、すぐに校舎に広がり、悲鳴のるつぼになった。
だが、力石にはまったく聞こえなかった。静寂が続いていた。その静寂のなかで美和の顔が母親に変わった。悲しく笑っていた。彼は母親なら許して欲しいと祈った。
力石は崩れるように四つん這いになっていた。美和の倒れたすぐ後ろには哲弘が茫然と立っていた。
哲弘は女子を押し分けて進み、閉まりかけた門扉の直前で、目の前に肩で息している美和を認めた。哲弘は美和を押し退けて通れば間に合うと思った。しかし、それは彼女への思いからできなかった。その代わりに美和を遅刻させないように両手で押したのだった。
車で通勤していた松岡校長も渋滞で遅れたため、ちょうどバス停の所で、学校全体が異常な状況にあるのを見て取った。
彼は何を思ったか学校への道を逸れて車を走らせた。
「君子危うきに近寄らず」
松岡校長は日頃の信念に従った判断をした。
(了)
【奥付】
『校門圧死事件』
2018年発表
著者:大和田光也
ただ、良かれと思ってやった行為が悲惨な結果を招くとは、現実は残酷なものですね。不条理です。
今世人界最後
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