大和田光也全集第27巻
『いじめを知る・生徒の実感より』【上】
【目次】
(はじめに)
【上】
関わり度A
〈01〉~〈29〉
関わり度B
〈01〉~〈28〉
【中】
関わり度C
〈01〉~〈29〉
関わり度D
〈01〉~〈29〉
【下】
関わり度E
〈01〉~〈28〉
(おわりに代えて)
(はじめに)
いじめ問題は、時としてマスコミに取り上げられたりして、一時的な社会問題のようにとらえられがちである。しかし、いじめは学校においては、常態化している問題である。世の中で騒がれないからと言って、現実に沈静化しているわけではなく、放置しておいてもよいというものではない。いじめ問題は地下水が途切れず流れるようにいつも教育の底流に流れているものである。
以前のニュースに、高校でいじめをした生徒六人が「被害を受けた生徒の環境保護のため」に自主退学をしたと報じられた。この六人は一年半にわたって、同級生四人に腹を殴ったり、足をけったり、使い走りをさせていた。いじめは長期間、常態化していた。学校はこの間、まったくいじめに気がついていなかった。
この学校のある県は大都市圏ではなく、地方の、まだ住民の人間関係の深い所である。以前は、いじめは地域住民の人間関係の希薄な都市部で起きやすいと考えられていたが、現在では、全国どこでもいつでも起きている問題である。しかも、子供たちにアンケートを取ると、七、八十パーセントの者が、いじめに関係したことがある、と答える。いじめ問題は一部の特別なものではなくして、日本の教育の中心に据えなければならない課題である。
いじめは子供の心を傷つけ、人格を歪ませる。特に小中の教育現場におけるいじめは、受ける側が感受性が強く、人生の土台を作るべき時期であるだけに、その悪影響は、その子の将来の人生全体にまで及ぼしかねない。さらに特筆すべきことは、いじめの弊害はいじめられた者だけでなく、いじめた者にも心に深く傷跡を残すということである。また、直接いじめには関わらず、クラスの中で第三者的に見ていただけの者にとっても、良心の呵責に苦しみ続けるという大きな痛手を負わせることにもなる。このことは本書を読んでいただければ歴然とする。
いじめはこれほど教育の土台を揺るがしかねない問題であるにもかかわらず、残念ながら、一向に減らないというのが教育現場の実情である。しかも、学校においては、いじめ問題から逃げているわけではなく、さまざまな解決方法を考えながら取り組んでいるにもかかわらず、十分な成果が上げられていない。
いじめ問題の解決が困難な理由は、さまざまに挙げられるだろうが、最も基本的なところで、「いじめとは何か」が把握されていないように思われる。もちろん、いじめの実態の調査、掌握は大前提として大切なことは言うまでもないが、事実や現象をいくら並べてたてたとしても、表面的な理解で終わる限り、対症療法的な解決方法しか出てこない。このような対応では「一生懸命にいじめ問題に取り組んでいますが、一向に減りません」という状態になってしまう。対処すべき相手である「いじめ」の真実とはいったい何なのか。これを見極めて初めて根治へ向けての取り組みができるはずである。
いじめの真実は理論でとらえられるものではない。これまでにも多くの教育学者がさまざまな理論的裏付けを述べてはいるが、それは実際のいじめの現場ではほとんど役に立たないものばかりである。理論と現実とは天地雲泥の差がある。また逆に、感情的にとらえて対処すると、現場に混乱をきたしてしまう場合が多い。いじめの真実のとらえ方の困難さは、このように理論と現実、客観と主観のどちらからも把握しきれないところにある。
この困難ないじめの真実のとらえ方として、最も的確なのは、いじめられた者やいじめた者が、その現実を通り越して、自己を客観的に分析し、冷静にその時の状況や心情を見つめることができるようになってから把握された内容である。これらの、さまざまなケースの内容を調べるなかに「いじめとは何か」が明確に見えてくる。こうすることによって、多くのいじめの事実から真実を把握することができる。
いじめの真実が分かれば、おのずと根本的な解決方法は出てくる。それは、いじめ問題で苦しんでいる子供たち、保護者、教育関係者に確実な希望を見出させることになるに違いない。
本書は、このような趣旨から「いじめとは何か」が明瞭になるようにし、そこからいじめの本質を見据えた解決の方途を示唆できることを意図して制作したものである。
本書に書かれている内容は、筆者が長年にわたって教育に携わってきたなかで、見聞きしたりしたことを素材として、すべて創作したものである。できるだけ、課題が明確になるような構成にしている。参照し易くするため、いじめにどの程度関わったかで、A(関わり度強)からE(関わり度弱)まで五段階に編集した。
この書が、人知れず、あるいはどうしても解決できず、いじめに苦しみ悩んでいる関係者にとって、力強く乗り越えていく希望の灯を心にともすことができればと祈る思いである。
二〇二一年春 筆者 大和田光也
〖関わり度A〗
(01)
私は過去に、いじめられたことがある。しかし、逆にいじめたこともあった。いじめられる側、いじめる側の両方を経験した。
私の通っていた中学では、いじめが日常になっていた。常にいじめる者、いじめられる者が存在した。いつどんな時に自分がいじめる側、逆にいじめられる側の立場になるかは分からない。クラスの中には、地位のようなものがあった。そのトップに立つのが、クラスの中心的存在で、その子が動けばみんなが動く、いわゆる「強い子」と見られる者だった。そして逆の立場にいるのが、いつもおとなしく控えめで、自分の意見をはっきり言えない「弱い子」である。誰が強くて、誰が弱いのか、みんなが決めたわけではなく、暗黙の了解のようなものでできあがっていた。そんな中、私は強くもなく弱くもなく、ちょうどその中間のあたりにいた人間だった。だから怖かった。いつどんな時でも強い子に目をつけられるような行動をしてはいけないと、そんな気持ちを抱えていた。
こういう精神状態が続いていたので、人の目を気にしながら行動するというストレスが生まれ、それを自分の中では抑えきれなくなっていた。そして気がつくと、自分より弱い者をいじめていた。その子が、つらく苦しい思いをしていることが、自分を強い子にさせていった。強くなった自分がうれしかった。楽しかった。しかし、それも長くは続かず、気付けば私は強い子にいじめられていた。学校に行っても誰も話をしてくれない、落書きで悪口を書かれる、直接文句を言われる、などいろいろなものだった。本当につらかった。苦しかった。毎日が地獄のようだった。相談できる人もいなかった。
私は中学の時にこの二つの立場を経験した。この二つの経験を通して言えること、それは、いじめというものは、後になっても心の傷としての残る悲しいものだということであった。いじめられた側はもちろん、いじめた側にも後から生まれる罪悪感などによっていつまでも傷として残る。悲しい傷しか残さないのがいじめである。しかしこれをなくすには、どうしたらよいのか。私にはわからない。簡単に解決できるような問題ではない、ということが私に言えるたった一つの事だ。
(02)
いじめの問題は、私は非常に難しいことだと思う。小学校や中学校で、人と何かが少し違う子供に対して多人数で攻撃していじめる。それはやられた側にとっては何よりもつらい。少し、みんなより背が低かったり、少し頭が悪かったり、それを個性ととらずに、人とは違う欠点にする。それがあるだけで、集団から人間扱いをされないというのはあまりにもつらく苦しい。
実は私も小学校中学校といじめてきた立場だ。小学校の時、一人の女の子が転校してきた。頭がみんなよりよかったせいか、少し気取った感じがした。それが私たちのしゃくに障り、いじめられる側といじめる側の関係が成立した。「ワァー、この子のばい菌がうつる」といって周りではやし立てさせていじめてきた。もちろん助ける人などいなかった。今考えてみればつまらないことだったと思える。もちろんばい菌がうつる訳はなかったが、それでもその子はずいぶん傷ついたようだった。登校拒否にもなった。よく考えると、その子は、ばい菌がうつる、と言われて傷ついたのではないような気がする。誰も助けてくれなかったことこそが心に傷をつけたのではないだろうか。自分がこれほど苦しんでいるのに、周囲の誰も救いの手を差し伸べてくれない、この孤独な思いこそが彼女に学校に来させなくしたのではないだろうか、と思う。何がつらいといって、一人で苦しみに耐えなければならないほど恐ろしいことはない。
今私は人をいじめたり、ののしったりすることはほとんどない。それはいじめられた側の苦しさ、つらさを感じることができるようになったからだ。もし、その子が死んだりしたらいじめた側もひどく取り返しのつかない悲しい気持ちになるということが理解できるようになってきたからだ。
(03)
私は過去に人をいじめたり、人からいじめられたことがある。どちらも決して気分のいいものではない。もともとの原因は何だったのかは、今になって考えてみると、何も思い出せない。しかし、いじめられた時の記憶は確かに残っている。とてもささいな理由だったが、それを何日も何日も言われ続けた。とても悩んで家で一人で泣いたこともあった。先生に相談しようかと思ったが、告げ口したのがバレて、またいじめられるのを恐れて相談しなかった。そして数週間後、気がつくと私に対してのいじめは自然に無くなり、それから、私をいじめていた人が何も気にかける様子もなく私に話しかけてきた。不思議でいっぱいだった。この子らはいったい何なんだと思った。あとで分かったことだが、人をいじめる者は、私利私欲のために、自分の鬱憤やいらだちを晴らすためだけに、大人の見えないところでいじめを行っている。
また世間一般では、いじめは自分より立場の弱い人をいじめると言っているが、私は立場とは何なのかと思う。生徒一人一人は平等ではないのか。ちょっと自己主張の弱い人や大人数で騒ぐのが苦手な人をそれと正反対の者は「陰キャラ」と呼ぶ。そして、彼らはその人たちと仲良くなる努力もせず、陰で嘲笑している。このような事態をもはや食い止める術はないと私は思っている。いじめられた人の気持ちなんて、いじめた方にはわからない。一人ひとりが自分自身と真剣に向き合い、このいじめについて深く考える必要があると私は思う。
(04)
人間が最も行ってはいけない行動は人を傷つける行為だと私は思う。傷つける側は自分がされていないので、何も感じないが、傷つけられている相手は傷つける側が考える以上の苦痛に違いない。まして、いじめという集団での傷つける行動は、考えるだけで恐ろしいことだ。よく体の傷は消えるが、心の傷は消えない、というが本当にその通りだと思う。子供の頃、傷つけられた心は大人になっても、そのことを思い出すと昨日、被害にあったかのようにギシギシと傷つけられるのだ。
小学校の頃、私のクラスでもひどいいじめがはやっていた。上靴やノートを隠したり、机に悪口を書くといった、先生の気づかない陰湿ないじめであった。被害に遭っている子も、いじめている子も私は本当は知っていた。でも怖かった。注意して自分にいじめの矛先が向くのを恐れていた。だから私は黙って見ているだけだった。いじめられている子がどんなに苦しんでいたか、どんなに助けられたかったか。考え出すと本当に苦しくなってくる。
社会問題にさえなっているいじめ。全員が、いじめられている側の気持ちを考えられたら、いじめなんて存在するとは思えない。そして私のような、ただ黙ってその場を見ている人も、いじめの共犯者だと気づいてほしい。その時、いじめなどという残虐な行為はなくなると私は思う。
(05)
私は、いじめというものは、果たしてこの世から消えるのだろうかという疑問をいつも持っている。現に、今までいじめを見てきているし、されたこともある。日本人の傾向から考えられることは、少しでも人と違う、集団行動から離れている人間に対して敏感なところからいじめが起きているといえる。だから、集団になって一人をいじめるということにつながるのだと思う。いじめが悪いことだと知っている人間も、いじめられている子を助けることは困難である。なぜなら、自分が次にいじめられると思うからだ。やめさせる言葉を言ったらそれで集団から離れていかなければならないからだ。ましてや、いじめられている子とともに、いじめと戦うというようなことができるわけがない。
私も昔、いじめにあったことがある。今考えれば、人と少し違っただけの考え方を持っていたからだ。それもちょっとだけ独特であったに過ぎない。それだけなのに、周りから冷たい視線で見られたり、無視されたりした。いじめというのは、ほとんどが、いじめられる人が他の人に害を与えていないのにもかかわらず、攻撃されることが多いと思う。今では、そんないじめを受け、自分が悪いと思ったり、自信をなくしてしまったりして、心に消えない傷を受け、自殺までする人も少なくない。これでは何のために生きてきたのか分からないではないか。
私は、いじめが無くなるか、無くならないか、この先どうなるかは分からないが、大切なことは、一人ひとりはもっと自分を大事にできる人間にならなければいけないと思う。そうして、勇気を心に持たなくてはだめだと思う。いじめる側も、いじめられる側も、それを見ている第三者も、いじめは不幸でしかあり得ない。一人ひとりが、人間としての本当の幸福を手に入れるために、前に進む力と勇気と努力を持つことが必要である。
(06)
いじめとは人間にとって残酷なことである。ひどい場合には相手を死に追いやってしまう。
私は実際、小、中学校の時、いじめられていた。だけど学級全体で一人をいじめる形ではなかったので、それほど苦しくはなかったけれど、一人になるとどうしても孤独感を感じ、恐怖におびえていた。私の友達は、何で自殺したのかははっきり分からなかったが、十一歳という若さでこの世を去ってしまった。このことは私にとって、とてもつらかった。私も自殺しようと思ったが、自殺は自分はいいかもしれないが、自分の親や周りの人が悲しむものなので、私はその友達の分まで生きようと決意した。
いじめは、面白半分に始まる場合が多い。それは、成長の過程にある子供だから仕方がないことではあるが、人によって、傷つく程度が違う。冗談で受け入れ入れられる人、自殺という最悪の結末に行き着いてしまう人などさまざまである。いじめている人は、どうして面白半分にいじめて楽しいのか、私は疑問に思う。
この世の中に、欠点のない人間はいない。子供は、まだ心が未熟なため、少しのことでも傷つきやすいものだ。現在、いじめられている人もいるであろう。その人たちに、「いじめられ続けるのではなく、誰かに相談をして、いじめに立ち向かってほしい」と言いたい。最近は、子供のいじめのカウンセラーも増えてきている。絶対、一人で物事を解決することは、自分をより苦しめるだけになるのでやめよう。どこかに必ず助けてくれる人がいる。
いじめを完全になくすことはできないかもしれないが、子供たちが楽しめる空間を大人たちが作ってあげるべきだと思う。
(07)
私は今までに何度かいじめというものを経験してきた。どこからをいじめというのか分からないが、小学校の時、理由もなくみんなから嫌がられたり、避けられたりした。今思うとそれがいじめだったのだろう。また、私以外にいじめられている子も多く見てきた。私はかわいそうと思いつつも何も言えず、見ていることしかできなかった。
高学年になり、私はクラスでもかなり性格のきつい子と仲良くなった。私は人の顔をうかがってしまう性格だったので、毎日、びくびく過ごしていた。そんななかで、「次はこの子だ」と言うと、みんなが無視するようになる。なにもしていないのに・・・私は本当に胸が痛んだが、怖くて一緒になって無視してしまった。本当に後味が悪く、毎日が楽しくなくなった。しばらくして、ボスの存在の子が仲良くし出すとみんなしゃべり始める。その繰り返しだった。
中学に入りまた同じような事が起こった。私は本当に悩んだが、もう同じ事を繰り返すのは嫌で、勇気を出して電話で謝った。いじめに理由なんてない。本当にそう思った。
しかしある日、いつもいじめの先頭に立っていた子がクラスで「ハミラレ」たらしい。それからその子は、生まれ変わったように性格が変わった。大変良い子になった。
いじめはあってはいけないものだと思うが、その子はいじめられて初めていじめの怖さを知ったのだろう。私は今でもその子と仲良しだ。思っていることをしっかりと言い合ってこそ本当の友達だと気づき、言い合うようになった。誰もが自分を守るために人に合わせたりするが、一人ひとりが意思を表せば、いじめは起こらなくなるだろう。
(08)
シンデレラの話の中で、主人公のシンデレラが働いている家の者たちにいじめられるという部分がある。シンデレラの話は童話として子供たちの間に広まっている。幼い子供たちの間には、どのように捉えられているのだろうか。私は多分、「幸せになるための通過点で、悪いことじゃない」と捉えているように思う。
実際、私も過去に二回いじめられた。原因としては、私の性格が生意気だったことやいじめている子たちのストレス解消だった。いじめられている時は本当につらく苦しく、心の底から死にたいと思ったほどだ。後になって、この事実を知った教師たちは早く知らせてくれたらよかったのに、と言った。しかし、簡単には、助けは求められないのだ。教師や親に言ったら後でどんなにひどい仕打ちをされるか分からないし、また、友達がいなくなるかもしれないのだ。私も同じようなことを考えて一人で耐えてきた。
大人たちは子供たちがどのような状況に置かれているかを理解していない。だから子供たちが助けを求めないのだ。そして、一人で耐えているうちに死を選択する者も出てくる。大人は、いじめの原因が何なのかを追求するよりも、いじめ自体が悪いことを教えることや子供とのコミュニケーションを取って子供の置かれている状況を理解することが、いじめをなくす一歩になると思う。当然、いじめについてシンデレラの話の時にきちんと教えるべきだと思う。
(09)
私は昔、いじめられっ子であり、いじめっ子であった。幼稚園の時は、友達の輪に入られず苦労した。小学校高学年になるといじめたり、いじめられたりした。今の私は昔よりも物事をいろいろな面から見られる人間に成長した。私はいじめをするより、された方がマシだと思うようになった。なぜなら、いじめをする人間を見るとなんと醜いことかと分かったからだ。私は今までいじめてきた友達にあって、心から誤りたいと最近ますます思うようになった。私の経験からいじめは絶対にしてはいけないといえる。
まず最初にいじめられた時、だれもが思うことは、悲しいの一言であろう。いじめは自分の存在を否定されることと同じなのだ。そして心が殺されるのだ。殺された心はもう元には戻れない。ひどい時は心だけでなく、自ら命を絶ってしまう。私はいじめをする人に問いたい。あなたは完璧な人間なのであろうか、と。言うまでもなく欠点は誰にでもある。欠点があるからいじめるというならば、いじめている本人も誰かにいじめられても文句を言う権利はないだろう。本当にそんな理屈が成り立つであろうか。よく考えてほしい。いじめをしていい人間はひとりもいない。
いじめは何も生み出さない。破壊しかないのだ。他人を傷つけてまで、自分を守ることはしたくない。私は一度いじめられている子に手を差し伸べたことがある。その時のあの子の笑顔は忘れられない。欠点があっても他の長所で補えばよい。いじめをする人間は、長所を見つけることができない哀れな人間なのかもしれない。いじめという暴力で、欠点を攻撃するのでなく、長所を伸ばしてあげられる人間になれば、いじめなどしようとも思わなくなるだろう。いじめをするより、笑顔を作れる人間に皆がなってほしい。
(10)
いじめをしている子の中にも、これは悪いことだと分かっている子もいるだろう。心のどこかでそう思えても止められない。それはなぜなのか。私が考える理由は、自分を守るためだと思う。もちろんさまざまな理由が上げられるだろうが、これは私の実際の経験から言える。
私の中学ではいじめがあった。あまり詳しくは覚えていないけれど、いつもターゲットが変わっていた気がする。同じクラスやグループなどの集合の中で、昨日までいじめられていた子が今日からいじめる子になるのだ。その子はきっと二度と自分がいじめられないために、いじめるのだ。こんな悪循環がずっと続いていた。自分を守るために他の人を傷つけるということは何と悲しいことなんだろう、と今は思える。もっと皆が早く気がつけばよかったのだろうと後悔が残る。自分の心を自分で汚したのだから。
いじめは相手にも深い深い心の傷を負わせてしまうけれど、同時に自分の心がどんどん汚れて真っ黒になっていく。最後に心は真っ黒になって元に戻れないかもしれない。いじめを受ける方も、している方も鏡に自分の心を映して自分を見つめ直す必要がある。いつも心の点検をして汚れていたら何か良い事をして掃除していけばよいのだ。自分と向き合うことや相手と向き合うことを怖がっていたら何事も解決していかない。難しいことだけれど、前進することで変えられることがあると思う。人に優しく、自分に厳しくというふうにしていれば、お互いに成長していけるだろう。本当に大事なのはいじめという失敗をした後に、反省してどういうふうに行動するかだと思う。
(11)
「いじめ」という言葉を聞くと、私は中学三年の時のことを思い出さずにはいられない。人に嫌われるとはどういうことなのか、その恐ろしさを身にしみて感じた、苦痛の日々だった。
中学三年の十二月だった。クラスを牛耳っている女子のグループがあった。見事なまでの美人ぞろいだったが、彼女たちの行為は醜かった。実は私ももともとはそこに属していた。しかし、ワイドショーの芸能人の話か、人のうわさ話しかしない日々に疲れ、私はそこから出た。それから彼女たちの独断専行はエスカレートしていった。そしてついに、私は公然の場で彼女たちに対して怒りをぶつけてしまった。今思うと、受験前で気が立っていたからかと思う。そして、彼女たちからも私に対して敵意をむき出しにしてきた。私から始めたことだから、初めはけんかだったのかもしれない。しかし、大勢を相手に一人で刃向かうこともできず、次第にそれは「いじめ」へと形を変えていった。私と一緒にいてくれる友達もいたが、その子たちも私と居ることでいじめの対象となった。男子は、美人ぞろいのいじめっ子集団に対しては寛大だった。先生も、何も言わなかった。彼女たちの機嫌をとっているかのようにも見えた。私は、「早く高校生になりたい」と毎日、心の中でつぶやいた。
何度も何度も助けを求めた。けれどそこに助けの手はなかった。やさしい言葉をかけてくれる人もいたが、それ以上のことはなかった。だから私は勉強だけに専念した。そして黙って卒業の日を待った。
(12)
私はいじめられていた一人だ。小学校五、六年の頃、クラスの男子からいじめられていた。あの頃のことは、今も思い出したくない。でも忘れられないし、自分をいじめていた人のことは許せない。私の場合、かばってくれる友人や先生がいた。もしあの時、誰もかばってくれなかったら、今の私はいないかもしれない。
いじめの原因のひとつは、思いやりの気持ちがない人が増えてしまったことではないだろうか。このことは、小中学生だけでなく大人にも当てはまる。自分のことしか考えず、相手のことを考えない。相手のことを考え、もし自分がされた時のことを考えられれば、いじめはなくなるのではないか。また、いじめが起きた時、周りが気づき、やめさせなければならない。仮に止めさせられなくても、ひとりではないと思うだけで、いじめられている方は救われる。
いじめとは一種の犯罪ではないか。いじめる方は、相手の全人格を否定し、相手の「心」を傷つける。そして時には、死へと追い詰めていく。一度ついてしまった心の傷は、そう簡単に治るものではない。「いじめられた子にも悪いところがある」という人がいるが、私は絶対そうは思わない。むしろ、いじめられる側には何の落ち度もないと思う。そういう考えの人がいるから、いじめがなくならないのではないだろうか。
いじめからは、プラスになることは何も生まれない。いじめている人は今すぐやめてほしい。そして、自分の周囲で今、いじめが起きている人には、いじめをやめさせる勇気をもってほしい。
(13)
いじめ問題は現代の子供たちの間のとても深刻な問題となっている。近年ではそのいじめによって自殺を図ったり、あるいはそのいじめで殺されたりする例も出てきている。私はいじめということをする者たちがとても憎くて仕方がない。実を言うと私もいじめられた経験がある。その時の気持ちは今でも忘れない。とても惨めで、とても悲しく、とてもつらい気持ちである。いじめをする者たちにはいじめられている者の気持ちはおそらく分からない。いじめられている者が自分のつらさを表へ出した時に初めてその人のつらい気持ちに気づく。それが自殺であったりすると悲惨としか言いようがない。
では、なぜいじめをする者たちは事件になるまで、いじめられている者の気持ちが分からないのだろうか。答えは簡単である。考えないからだ。いじめを為す者たちは、今、自分たちがしていることがどれだけ残虐なことかということを全く考えようとしない。だから重大事になるまでいじめられている者の気持ちに気づかない。時には教師などが働きかけて、重大事に至るまでにいじめられている者の気持ちに気づかせる場合もある。しかし、不幸の極まりだが、いじめられている者が自殺した時に初めて気づく場合もある。そうなった後では手遅れだ。
世間ではいじめをする者も悪いがいじめられる者にも原因があるという人もいるが、それは間違いである。いじめられる者には何の責任もない。私たちがしなければならないのは、いじめられている者の助けとなり、いじめをする者たちにいじめられている者の気持ちを考えさせることである。現在、いじめ問題が深刻化しているのはそういったことをやるべきはずの人間が何もしなかったからだ。教師や親などが逃げずに、真正面から真剣に取り組まない限り、いじめ問題はもっと深刻になるだろう。
(14)
小学校の時から「いじめはいけない」と教えられ、クラスで話し合ったり、ビデオを見たり、いじめの悪さについてたくさん勉強させられてきた。しかし、自分の近くではいじめがなかったからなのか、どこか、世界の違う話だと思っていた。そんな私の気持ちが変わったのは中学三年生の時だった。
クラスでいつも一緒にいる子がいた。ある日、その子は教室で、みんなの前で二人の子に話しかけられていた。最初は聞こえないほどの小さな声だったが、だんだん大きくなって、「調子に乗るなよ!」などと怒鳴って、その子の髪を引っ張り椅子から引きずり落とし、頭から持っていたレモンティーをぶっ掛けた。誰も助ける人はいなかった。私も動けなかった。すべてことが終わってから「大丈夫?」などと声をかけ、一緒にいた。私はものすごく後悔をした。心が痛かった。なぜ助けてあげなかったのだろうか。なぜ「やめろよ」の一言が出なかったのだろうか。そんな考えばかりが頭の中をグルグル回っていて、後からどう思っても仕方のないことなのに、私は謝ることしかできなかった。その子は笑って「いいよ」と言った。私は泣きそうだった。
この時から私は、いじめが自分の近くにもあるということ、いじめがどれほど愚かで卑怯なことかを痛感した。いじめをなくすことなど本当にできるのかは分からない。マスコミや授業でどれだけ訴えても現状は変わっていない。しかし私は自分の周りだけでも守っていきたいと思う。友達がいじめられたら私は全力でその子を守ってあげようと心に決めている。
(15)
今、いじめによって苦しんでいる人がたくさんいるだろう。はっきり言って私は、小学六年生の時にクラス全体で一人の女の子をいじめていた。もちろん、話し合いになって、反省文も書いて、その女の子の自宅にも直接謝りに行って、その問題はすでに解決している。
しかし、私は問題として取り上げられるまでは全く罪の意識はなかった。私だけでなく、私のクラスの約三十人にもそんな意識はなかっただろう。つまり、いじめに参加している人は、かわいそうだからやめようなどという考えは、全くない。いじめられる側が何も抵抗できないのをいいことにただ自分たちが楽しいから、という気持ちでいじめをしている。いじめに参加していなくて、いじめられている人を助けてあげたいという人がいても、もし止めに入って逆に自分がいじめられたらどうしょうという考えが頭によぎって助けられなくなる。いじめる側からすれば、教師や親にさえバレなければ、何をしてもいいのである。
小さい頃、テレビでこんな事を言っていた。「いじめほど楽しい遊びはない。いじめは一人の人間を集中的に疎外することで、いじめる側の人間に優越感を与える遊びだ」いじめはなくならないかもしれないが、大事なのはいじめが早期に発見されることだ。
(16)
最近、いじめの問題が深刻化している。いじめのニュースを聞くたびに胸が痛くなり、思い出したくない過去が頭によぎる。
私が小学校に通っていた時期から、周りにはいじめがあった。初めはみんなきっと、面白半分だったのであろう。それは徐々にエスカレートしていき、中学生になってからも続いた。私の身近に起きたいじめは、集団で一人の子をいじめるのではなく、一人の中心的な子の意見に私たちは逆らえず、内心はいじめなんてしたくないのに、ずるずると引きずられてしまうものだった。私はいじめられるのが怖かった。だから、友達なのに、いじめられている子を避けてしまった時も多々あった。中学生の頭で、どうすればいいのか、本当に悩んだ。放課後は、いじめの中心だった子の目を盗んで、みんなで話し合った。泣いて帰ることなんて、当たり前だった。
その時、母は私の話を真剣に聴いてくれて、次の日、気晴らしといって、遊びに連れて行ってくれた。毎日のように悩んでいた私の頭の中は、パンク寸前だった。この時、母に連れ出してもらえて、母がいて本当によかったと思った。今、私が笑って楽しい毎日を送れるのも、母のおかげだと思う。
今日、問題になっているいじめでは、相談する人がいなく、一人でどうしょうもなく、自殺に追い込まれるケースが多い。「心に闇」を抱えている子供は非常に多くいるのだ。その子供たちをどうしたら助けられるだろうか。一番大切なことは、誰でもいいから「何でも話せる人」を見つけることだと思う。
(17)
おそらく今の子供のほとんどは、直接、間接を問わず何らかの形でいじめる側の立場になったことがあると思える。もちろん私もある。集団行動するのに、協調性がなく、明らかに愛想も態度も悪い個人に対し、同じようなその子に対する嫌悪感を持った者が、団結して、その個人に攻撃をするようになる。はっきり言って私はいじめる側に居た時は、自分が悪いとは少しも思わなかった。相手の気持ちを分かろうとも思わなかった。これがいじめの怖いところだと思う。多数派に居る者は、皆と一緒に、というだけで自分が正しいと思うし、安心もしてしまう。そして自分たちとは違う少数派の人々を拒絶し攻撃する。たとえ自分が悪いと思っていても、多数派からは抜け出すことは容易ではない。なぜなら自分自身が今度は少数派側に回されることになるからである。この悪循環はなかなか止まらない。
このようにしていじめとは、集団が異端である個人を認めずに排斥するために生じるものだと思う。だとすると、集団を重視する日本の社会は、個人を重視した社会に変換すべきなのだろうか。だが、個人主義の代表的なアメリカでもいじめは起こっている。このことだけではいじめは解釈できないようだ。
いじめが特に子供に多いのはもしかすると、いじめは人間の動物としての本能なのかもしれないとも思う。だとしたら、いじめをなくすためには、すぐれた人格教育が大切だ。成長の過程に居る子供たちだからこそ、相手の痛みや命の大切さについて教えこむ授業が必要だ。生きることと死ぬことをしっかり学び、一人ひとりが強く、やさしい成人になっていくことが必要である。
(18)
今の子供たちにとって、いじめは決して他人ごとではない。自分が直接いじめたり、いじめられたりしなくとも、それは子供の、特に学校生活において日常化しているといっても過言ではないからだ。
実際、私も小中学生の頃は自分のすぐ近くで、いじめが起こっていた。自殺までは行かなかったが、不登校になったり、転校した子もいた。なぜ、いじめは起こるのだろうか。私が今まで自分の周りで行われていたいじめを見る限り、その対象とされる子の大半がちょっと変わった子である。何をもって、変わったというのかは難しいが、例を挙げると、自己中心的だったり、出しゃばりだったり、デリカシーがなかったり・・・というような子がいじめられていた。だが、そのような欠点を持っているからといって、いじめが肯定されるわけではない。いかなる場合においても悪いのは加害者なのだから。
いじめが行われる大きな要因のひとつは、加害者側の優越感の獲得にあるのではないかと思う。自分より明らかに力の弱い者を虐げ、痛めつけることで、自分はこの子よりも強い、といったゆがんだ優越感を得ようとするのではないだろうか。また、別の理由として、人の痛みが分かる子が減っているということもあると思える。昨今の世間では、教師が、少しでも子供に手を挙げれば、親やマスコミが体罰だ、なんだと騒ぎたてる。それによって、生育の過程で、「必要な暴力」を受けずに成長してきた子供はきっと、ぶたれたり蹴られたりする痛みがわからないのではないだろうか。教育が、当たり障りのない無責任なものになって、知識だけが頭の中に入り、実感の伴わないものになっているような気がする。だから、いじめられる子の痛みがわからないのである。
(19)
私は小中高の学校生活を経験してきて、いじめという言葉の定義がいまひとつよくわからない。もしその定義が相手の嫌がることを言ったり、殴ったりまたは無視したりすること、というものなら、私は数多く見てきた。そして、小中高と進級するにつれてその数は減っているように思われる。
私は小学校六年生の途中までを田舎の学校で過ごした。そこでも悪口や暴力があった。しかしそれは陰湿ではなかった。私が六年生の頃、私のクラスで目のことでからかわれていた男の子が、ある時、先生にそのことを告げたのだ。そして先生はみんなの前で、「この子はいつも家に帰ってから、みんなに言われた悪口のことで泣いているから、これからは絶対にそういうことを言わないように」と率直に言ってくれた。この先生のたった一言で、みんなは二度とそのことは言わなくなった。私も含めて、みんな、そんなに傷ついているとは知らなかったのだ。
その後、都会の学校に転校した。ずいぶん雰囲気が違っていた。表面上は仲がよさそうなのに、陰では悪口ばかり言うのだ。全員がそういうわけではないが、田舎の学校よりもはるかに陰湿であった。今、いじめということが大きな問題となっているが、本当に解決するためには、外部からの指導ではなくして、内部の先生や生徒たち、本人がそのことを無くすために取り組まなければならないと思う。そうしなければ根本的なところでの解決はないような気がする。小学校の先生の一言で見事にいじめが無くなった体験からして、大切なのは内部の者がどれだけ真剣に考えるかにあると思う。
(20)
ここ最近、学校内のいじめというのは学校生活を送る上で必ず出会うもののようになってしまっている気がする。もちろん私も出会ったことがある。とはいっても現在、世間をにぎわせているような悪質なものではない。それでも、いじめはいじめである。私の出会ったいじめは、仲間はずれにするといったようなものだ。その子が近づくと汚い、臭い、などと言って離れていき、その子の触った物には触らない。まさに、ばい菌のように扱っていた。しかし、その子はそれで落ち込むというよりも逆にどんどんと近づいてきたりするので、どんどんと嫌われていった。
もし自分がその子の立場だったらと考えると、その子がどれだけいやな思い、悲しい思いをしてきたのかが分かり、とても申し訳なく感じる。しかし、今それに気づいても遅すぎるのだ。その子の心の傷はもう直せない。もしその時に、いじめがエスカレートしていたら、その子は自殺してしまっていたかもしれない。そう考えると怖くなる。
いじめの動機で一番多かったのは、力の弱い者、動作の鈍い者を面白半分にからかうというものだった。いじめをすることが面白いと感じる、という間違った感性を植え付けているのは、家庭や学校ではないだろうか。どこかに歪んだ性質があると思える。親にたくさんの愛情をそそいでもらい、学校で正しく教育を受けさせてもらっているなら、このようなことを思うはずがないのである。いじめられた子が死んでしまった時、いじめた側の子の親がいう言葉を聞いていると、親自身の考え方がおかしいということを感じることが多い。いじめは、子供たちだけの問題ではなく親や社会全体の問題なのである。
(21)
私には、いじめた経験も、いじめのようなことをされた経験もある。いじめの対象にした子はいつも、他の子とはどこか違う、変わった子であった。いじめる側の立場からすると、いじめはいじめではないのである。極端な例を除いて考えるが、少しからかう程度のつもりなのだ。しかし、いじめられている側からすると、とても深刻である。その深刻さをいじめる側が知らなければいじめはなくならない。しかし、思春期前後の不安定な子供は、自分でそのことを理解するのは不可能である。自分のことで精いっぱいなのに、他人にまで気を配ることなど到底できない。
しかし、私はいじめられる側にも問題があると考える。個人の欠点が問題なのではない。いじめられていることを公にしないからだ。やはり、いじめている者が一番気にするのは、いじめが親、教師にバレはしないかということである。教師や親がどれだけ注意していてもいじめは気づけるものではない。いじめを終わらせようと思えば、周囲の大人にいじめの実態を知らせることがまず、第一段階である。
親は一概には言えないが、教師はエキスパートであるはずだから、いじめの実態を訴えれば対処してくれるはずだ。それがチクリになってさらにいじめられるのは怖い、というのならば、反抗するか我慢するかしかないのである。ところが反抗できる子はほとんど実際にはいない。
いじめを無くすにはどうしたらよいだろうか。私の担任だった先生は、いじめていた子をみんなでいじめろ、と言った。結局できなかったが、それを聞いて、いじめていた子はいじめの恐怖を想像し、少し程度はましになった。いじめをなくすには、この方法は絶大な効果を発揮すると思う。また、気軽に相談できるところを増やすことだ。特別な部屋を設置しても、入るのを見られたらいやだと思うので効果は少ない。電話もうまく言えない。そこで私はメールを提案する。メールなら気軽に何でも話せるだろう。メールで相談できる所を作るといじめは減ると思う。
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私は正直なところ、いじめというものは無くなることがないものだと思う。いくら親や教師が、いじめをしてはいけないと子供に口を酸っぱくして言っても結局は誰かがいじめを受けていたら、一緒になっていじめてしまうものなのだ。
私が昔、通っていた中学校では人権教育の一環として、いじめについて考える時間があった。いじめられて学校へ行けなくなったり、自殺をしてしまったり、などという内容の記事を読まされて、授業を受けた。それを聞いて、他の人がどう思ったかは知らないが、私は、いじめはするものではないが、無くはならないだろうと思った。現に、人権教育を受けている私のクラスでもひどいものではないがいじめは起きていた。しかも、悪いことに授業で習った通り、いじめをしている者はそれがいじめだとは全く思っていなかったのだ。幸い、ひどいものではなかったので大きな問題にはならなかった。それにしても、いじめをしていた者が、平然としているのにはあきれた。何の痛みも感じていなかったのだ。結局、学校としては人権教育を一生懸命にやっていたが、私の中学生活は、いじめと共にあったといっても言い過ぎではない。
いじめというのは、それをやるのが好きで、本気になっていじめをしているのはほんのわずかの人数で、周囲の何十人もの者は、いじめを見て見ないふりをしたり、面白がって一緒になってやっているというものなのだ。それではどうしたらいいのか。答えは簡単だ。いじめを本気になってやっている数人に対していじめをやめさせたらいいのだ。それを変に広げて、クラス全体とか、学校全体とかの問題として、悪い者をうやむやにして、当たり障りのない教育をするから、一向にいじめをやめさせられないのだ。特に、いじめをしている子の親を厳しく罰しなければいけない。悪い自分の子供に対する考えを親が変えない限り、また同じこと繰り返すと思う。
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どこからがいじめなのか。友達同士のからかいというものもいじめに含まれるのか。よくそんな言葉を耳にする。私は、その被害に遭っている子が、いじめだと感じたら、もうそれはいじめであると思う。
私は小学生の時に、いじめというものに関わった。いじめられる方、いじめる方、の両方に関わった。私の仲のよかった友達の中では、いじめがぐるぐると順番に回っていた。いじめられる側に回った時、初めて自らの行った行動がどれほど友達を傷つけるものかを知った。
いじめる側の人間には、いじめられる人間の本当のつらさは分からない。だから、いじめというのは放っておくと、どんどんエスカレートしていく。初めはいじめている側が、少数であったのに、だんだんと人数が増えていってしまったりする。いじめには二種類の人間しかいない。する方とされる方。周りで見ている子は中立のようではあるが、それもいじめだ。助けなくては意味がない。助けがいないと、自殺に追い込まれてしまう人間もいる。
このような悲惨な現状を解決するには、やはり教師や親などの大人の力が必要であると思う。子供の発する危険信号に大人が早く気づいてあげることが大切だ。
(24)
この世の中で、他人の人権を侵害してもよいという人は誰ひとりいない。人権を侵害する最も悪質な例は、いじめであろう。近年、いじめの種類が多様化している中、子供たちの命に対する意識が薄くなってきている。むしろ、いじめ自体をゲームと考え、面白半分にする子供も少なくない。
いじめをされる苦しみ、悲しみは、された人にしか分かることができない。いじめは、いけない、するものではない、と多くの若者が言うが、そういうことを言う人たちに限って、いじめを軽視している、と私は思う。実際、私も人をいじめた経験があり、同時に、いじめられた経験もある。私がいじめをしていた時、いじめはいけない、と頭で分かっているのにもかかわらず、気に入らない人がいると、集団で無視をしようとしたりしていた。ところがある日、私が付き合っていた仲間が突然態度を変え、いじめの標的に私がなった。人から無視をされるという孤独感、陰で悪口を言われるという私の存在自体を否定された気持ち、短期間ではあったが、耐え難いものであった。自殺を考えようともしていた。いじめがなくなりつつあった頃、私は、自分が人にされたくないことは人にはしないようにしよう、と心に決めた。
いじめの本当の恐ろしさは、された人にしか分からない。本当にいじめはいけないと思うのであれば、自分がもしそのような状況になったら、と考えるべきである。いじめがいつまでたってもなくならないのは、他人の心の痛みや苦しみを理解しようとしないからである。いじめをなくすには、お互いがお互いの気持ちを分かり合うことが近道だろう。
(25)
いじめは、現在ではほとんどの子供が、小さい頃から体験したり、見たり聞いたりするものだろう。私も小学校の時は、いじめられていた。その時の相手の理由は、力の弱い者、動作の鈍い者を面白半分にいじめる、というものだった。私はその時、悪口を言われるのが特に嫌だった。いじめとは殴られたり、けられたりすることだけがいじめではない。悪口を言ったりすることも立派ないじめだ。外傷は時間がたてば消える。しかし、内傷はなかなか癒える事はなく、その人の心の奥に、ずっと居座り続けるのだ。
その時、私は小さいながらも自分を守ろうとした。どのようにしたら私はいじめられないのだろうか、どのように接していけば相手をいじめようとする気持ちにさせずに済むのか、と。今考えれば私自身、この年でよく考えたものだなあと思う。その時の相手は、私に対して、「担任の先生と仲良くしているから悪い」ということだった。いじめられなくなった今、その時の事は、耐える力が身についたのだとしか思わなくなった。なぜなら、今、私は彼らとは仲が良いからだ。
それにしても、いじめはよくない。当たり前のことだ。相手の気持ちが分からない子がやることだ。私としても、いじめたことがないわけではないが、いじめる子をしっかりと罰することが必要だと思う。いじめをした子に酌量の余地はない。いじめられた子は、関係する大人がしっかりと守るべきだ。いじめというのは大人が怒れば終わるものではなく、いじめた本人が、いじめをよく理解して、しなくなっててから初めて終わるものである。いじめは犯罪に近いものだと思う。
(26)
いじめは、許されざる行為だ。さまざまな手段で、ありとあらゆる人格を否定し、最終的にはその人格を破壊することもある。それがいじめというものである。軽いいじめならば大丈夫なのかと思う人もいるかもしれないが、軽いものでもいつかは大きくなり、相手の存在を否定するような行いにもなってゆく。
いじめを経験したことのない人には、いじめに打ち勝つことがどれほど難しく、大変なことであるか、分からないだろう。私が過去に経験したものは、孤立というものだった。一部の私を嫌っていた人たちが、私の友人を連れていってしまうのだ。話しかけようとしても、すぐに割込まれて連れていかれる。そうして私は孤立していった。大勢の人がいる中での孤立は本当につらいものだった。しかし、私の場合は、全員から攻撃を受けているわけではなかったので、心の支えもあり、いじめに強く対抗することができた。私の経験は非常に軽いものだった。しかし、それでも十分に辛いものであったから、真の孤独に陥った人の苦痛ははかりしれない。自殺まで追い込まれるのもまったく不思議に思えない。しかし、そんな苦しみを知ることなく、「いじめをやめよう」と軽くスローガンのように言ったり、「いじめられる方も悪い」などという人もいる。私には逆にこの言葉が腹立たしく思われる。一体、この苦しみの何をわかっているのか。いじめられる側のどこに悪い点があるのか。私はこれらの言葉が逆にいじめを広めている気がする。
いじめは絶対に許されない行為だ。戦争や犯罪と同じようにこの世界から撲滅すべきものだ。そのためには今のままではいけないと思う。加害者に何らかの法的罰則を与えるくらいの強制力は必要だと私は思う。
(27)
いじめの問題はずっと昔から課題とされてきた。しかし、どれだけ論議されてきても、今でも存在し続けている。子供たちの間でいじめがなくなることはないのだろうか。
私は小学生の時、クラスのあるグループの子が順番にいじめ、無視を受けるという体験をした。学校全体で一人の子をいじめるというものではなく、グループ内で仲のよかった子が突然話をしてくれなくなるというものであった。それが順番となり、どんどん入れ変わっていった。小学生の女の子の間ではこんないじめがよく起こされている。いじめは力の弱い者を作って、優越感を感じ、安心する。気にいらないことをすれば、陰湿なやり方で排除されていく。悪いことをしている、こんなことをしてはいけない、と思う子がいたとしても、次に自分がいじめを受ける立場になることを考えれば、いじめをやめさせることができなくなるのだ。
「いじめをする方も悪いが、いじめられる方にも問題がある」という人がいるが、いじめを受ける側にどんな問題があるというのか。その理由はたいてい、ただ、うっとうしいと感じる、めんどうくさいなど、ただそれだけのことなのだ。そんな理由で傷つけられた子や、耐えられずに自分の命を絶ってしまった子たちがあまりにもかわいそうだと思う。いじめを受ける子は、その事実を親教師には言えずにいることが多い。親教師が自分に気づいてくれる、見方になってくれるだけで子供は安心できる。自分を認めてくれる存在があるだけで、心強くなれるのだ。家や学校がそんな心を安らげれる場になれば子供は救われるだろう。
(28)
いじめは、現代社会で絶えることのない問題になっている。いじめが原因で自殺してしまう人も年々増すばかりだ。いじめは本当に人の心に深い傷をつけてしまう。いじめられている人は、親にも先生にも相談できず、友達も減り、解決する方法はどこにも見いだすことができないという状況がほとんどだ。
私もいじめられたことがある。それは突然だった。いつも一緒にいる友達のグループに、いつの間にか、ありもしない話が広がっていた。その日から、無視される日々が続いた。まるで私の存在が無視されているかのようで、本当に学校が苦痛だった。親にも相談できずに、毎日、部屋で一人で泣くことが当たり前だった。
現代のいじめは、これより比べものにならないほど、もっと陰湿で残酷なものだ。いじめは数人対一人なので本当に頼れるところがない。しかも、いじめる理由のほとんどが、気にいらないとか、面白半分に、というものである。そんな理由でいじめられ、自殺してしまう人の気持ちを考えることができれば、いじめはなくなるはずである。たとえ、いじめられる子に欠点があったとしても、いじめるという方法は明らかに間違っているし、欠点がない人などどこにもいない。それなのに、体を傷つけるだけでなく、心までも傷つけようとすることは本当に悲しく、憎いことである。いじめられた人は、成長した後も、心に傷が残り、問題を抱えてしまうことが少なくない。子供自身がいじめを無くそうとすると共に、親や先生といった立場である大人がいじめをなくすような環境をつくっていくことが大切である。
(29)
私の周りにも確かにいじめはあった。いじめは一人の子がし始めれば周りも面白がってやるという場合が多い。いじめられている側からすれば、いじめをしてくる人が増えていく、助けてくれる子が減っていく、というのは、どんなにつらいことだろうか。日々、恐怖が増幅してくる気持ちは、考えただけでも背筋が寒くなる。
中学生の頃だった。何かをされているというわけではないが周りにいた子が離れていき、独りぼっちになってしまった子がいた。その子は男子にからかわれても絶対に泣かなかった。みんなその子が嫌いなのではなく、苦手だったのだ。お昼ご飯の時、一人で寂しそうに食べているのを見て私は友達に相談してからその子に「一緒に食べよう」と誘った。食べだしてからすぐのことだった。男子にからかわれても絶対泣かなかった子が泣きだしたのだ。その姿を見て、誰にも言えず、ひとりで悩んでいたんだろうなぁ、と思った。とても苦しかったことだろう。
いじめをなくすのは難しいことだと思う。だからずっと昔から今にまで絶えずに続いているのだろう。そうであるなら、せめていじめられている子を救える相談相手が居ることが必要だ。また、周りに乗せられず自分の意思で行動し、いじめられている子のことを考えてあげられる子の存在が必要不可欠だろう。大人が無理に入っていっても逆効果になることもある。
何よりいじめている側が相手の立場に立って物事を考える必要がある。いじめはいじめられている側だけが変わったってダメだ。いじめている側、そして見知らぬ顔をしり、面白がって悪乗りしている周りの人、みんなが変わらなければならない
〖関わり度B〗
(01)
最近の小学生なら、ほとんど全員といっていいほど、何らかの形でいじめに関わっている。いじめる子、いじめられる子、いじめの状況を知りながら何もしない子、あるいは何もできない子、などがいる。私が小学生の頃、いじめは学校に行けば必ず起こっていた。私は母から、いじめを傍で見ているだけでも、それはいじめていることになるのだ、と言われたことがあった。当時、私はいじめを止めようとすれば、次は私がいじめられると思っていた。その頃の雰囲気では、いじめの相手はだれでもいいようなものだったので、いつ私に災難が降りかかってくるか知れずに怖かったのだ。
私は、いじめはいじめる方が悪いと思う。そして、いじめを行う子にはいくつかの共通点があったと思う。一つ目は、頭がよく、私学への中学受験をする子などであった。二つ目は、家で親から暴力を受けている子だった。そして三つ目には、教師や親の前ではおとなしいということだった。
子供は親を見て育つ。そのため、暴力的な親に影響されて暴力を振う子供ができるのかもしれない。そして、良い子として親の言いなりになって、そのストレスのはけ口としていじめを行うのかもしれない。はっきり言って、いじめは、今後ともなくならないと思う。そして、なくす方法もないと思う。ストレスを感じずにはいられない社会状況で、大人だけがそれに苦しんでいるのではない。子供はそれ以上にストレスというものに苦しみ、対処法に悩んでいると思う。大人が解決できないものを子供が解決できるわけがない。
(02)
私は直接、いじめにかかわったことはない。しかし、周りでそんな出来事が起こった、ということはあった。
小学校五年生くらいの時。同じクラスに少し、不潔な子が居た。といっても、給食の食べ方が下手で机にこぼしっぱなしだとか、今思えばただ、拭き取ればいいということ、そんなレベルの問題だった。だけど小学生というのは、どうもそういう小さなことでからかい合うものだ。汚い、だとか、気持ち悪い、だとかのちょっとしたことを言い合って、傷つける。そんなことから、的はその子に絞られ、エスカレートしていった。言葉の暴力を行う時もあれば、無視して仲間はずれにする時もある。きっと私の知らないところでも、もっとひどいことが行われていたのかもしれない。私はただ、見ているだけだった。というか、見ることさえしなかった。関わりたくなかった。ひどい話だ。優しい声をかけてあげれば、その子は少しでも救われたかもしれない。少しでも、元気を取り戻せたかもしれない。そう考えるとあの時の自分に、今さら後悔する。
大きいも、小さいもないかもしれないが、中学、高校、あるいは大人になってくるともっとひどいいじめが存在するのではないかと思う。相手の気持ちも考えられず、思いやりも持てないような人間に、これから先、出会うことがあるかもしれない。その時は、もう二度と同じ後悔をしないように、私もそんな人間と同じにならないように、正しい選択をしたい。優しい人になりたいと思う。そうすることで、一人でも助けることができたらいいなあ、と思う。
(03)
私は今までの学校生活の中で一度だけいじめを目撃したことがある。別のクラスの少し不良ぶった男の子が、そのクラスの気の弱そうな男の子を外見のことでからかっていた。私はそれを見て頭で考える前に、「やめなよ」という言葉が出た。大きな声で叫んだが、周りの人がざわざわしていたので届かなかった。先生を呼びに行こうとした時、それは終わった。その後、そのクラスの子に「どうして何も言わずに見ているのか」と聞くと、「あの子に目をつけられたら、自分が同じ目に遭う」と言った。きっと、いじめを周りの人が何も言わずに見ているのは、これが大半の理由だろう。本当は、いじめなんて関わりたくないが、自分がされるのはいやだから、従うしかないのだろう。
私はその気持ちが分からない。一人では怖いなら、みんなで止めればいい。いくら不良でも、そしてたとえそれがグループでも、二三十人が止めにかかれば止められるはずだ。
親は感情的になるだろうし、先生だって自分の立場があるから、大人なんてあてにならない。いじめをなくすことができるのは、それを目撃した周りの人たちなのだ。もしこの先、私がいじめを目撃したら絶対に止めに入る。何も言わずに見ているなんて、そんな人間になりたくはない。
(04)
私はいじめについて、「いじめたのは悪いが、いじめられた子にも問題がある」という言い方に少し同感するところがあった。もちろん、ひとりの人間を何人かの人間で寄ってたかっていじめるのはよくないことであるが。
私は中学生の時にいじめの怖さを知った。ある一人の女の子が何人かの女の子にいじめられていた。無視をされていたり、陰で文句を言われたり、時にはすれ違い様に暴言を吐かれていたりした。トイレに呼び出されて泣いて教室に戻ってくるのを見たことがある。周りで見ている私やクラスの友達はその子がかわいそうで仕方なかった。でも、その子にやさしくしたら、自分達まで巻き添えになってしまうのではないかという不安から見ていることしかできなかった。
こんなふうに何もしていない子を寄ってたかっていじめているのを見て私の考えは少し変わった。「いじめられた子にも問題がある」というのは間違いだと思った。誰か一人がある子の悪口を言い出したら、その子に対してあまり何も思っていなくても、その場の盛り上がりや仲間意識などで次々と広がっていってしまう。私も実際にそうである。でもこんな考え方は大人はしないと思うから、自分はまだまだ子供なのだと思う。と同時に、いじめを無くすためにはやはり、子供が精神的に大人になれるように親や教師がしっかりと教育することが第一だと思う。だから私もこれからは精神的に大人になれるようにがんばろうと思う。
(05)
誰でも今まで生きてきて、一回はいじめられたことがあると思う。特に女子の間では多いように感じる。一種のゲーム感覚でいじめをしているのだ。私も実際にいじめられたことがあるが、ゲーム感覚で行われているので、たらい回しのような感じであった。しかし私は「ハミラサレル」ことはあっても、他の友達を「ハミラス」ことはなかった。自分がされて嫌なことを友達にしてはいけないと小さい頃から母によく言われていたからだ。
人間は一人一人違っていて、全く同じ人なんてこの世には存在しない。自分とは違う何かを持っているから引かれ合うのだ。しかし、いくら仲の良い子供同士でも一つや二つ嫌に感じる部分もある。きっと向こうからしても、私に対して嫌な部分はあるはずだ。それは当たり前なのである。しかし、ちょっとした考え方の違いや態度などでいじめは発生してしまう。
よく思い出してみると、誰かをいじめたりするのは小中学生の頃がピークであった。今は、悪い噂を聞いたりしても特にいじめたり、陰口するとかはあまり聞かない。きっといじめをする世代の子供は思春期などで情緒不安定、かつ心が発達していないから欲求不満を晴らすべくいじめをしてしまうのではないだろうか。いくら学校の先生が、いじめはやめましょう、と言っても彼らはそれだけでは止めないだろう。いじめをする子たちは自分が逆の立場になった時のことを考えてほしい。いじめを受けたその日から大好きだった学校が大嫌いになってしまう。他人にそんな惨めな思いをさせないためには、やはり、親のしつけは大切だと思う。
(06)
私はいじめと言ってよいかは分からないが、幼稚園時代に似たような体験をしている。その頃の私は、言葉を発する時は、歌を歌う時だけという、極めて口数の少ない園児だった。当然のようにからかわれたり、靴を取られたりした。私ははっきり言って、こんなことしか記憶がない。それでも、いじめられるという劣等感によって、楽しい思い出はかき消されている。この頃の私は、反論するすべを知らなかった。ただ、やられているだけで、先生に泣きつけばいいと思っていた。
いじめられる方にも原因がある、とよく言われる。私はその原因が皆無ではないと思う。まったく意味のないいじめをするほど、人間はバカじゃないと思う。ただ、うっぷんばらしにするのはどうしても納得できない。モラルを無視した行為で人間じゃない。私が思うのは、いじめる側の人間は、自分がいじめられたくないという心理が働くため、いじめる対象を作り、その人がいることで、自分は大丈夫だとひそかに安心しているのではないかと思う。
人は変われる。たとえいじめられていても、付き合う友達、環境でいくらでも変われる。私はそんな人間のひとりだ。いじめられて、それがトラウマで、社会に出ていけない、そんなこと言っていたら変わらない。自分が変われば、周りも自然と変わっていくものだ。
もし周りにいじめられている人がいたら、大人たちは双方にとって暖かい人間関係になるように全神経を注いで環境を整えて欲しい。いじめられている人はたくさんいる。それ以上にいじめている人がいる。この対極した人間が、認め合えるようになればよい世界になると思わずにはいられない。
(07)
人間関係の中で、いじめは一番つらいものであると思う。私が小学生の頃、やはり、いじめがあった。少しではあるが、実際に経験したり、見たこともある。経験するのはもちろんのこと、いじめられている友達を見るのもつらかった。仲の良い友達と一緒に、私はそのいじめられている子を助けたこともあった。今、もしも誰かがいじめられていたら、私は堂々とかばってあげられるだろう。しかし、小学生であった私には、助けるという行為はとても勇気のいるものであった。
いじめたのは悪いが、いじめられた子にも原因があるというような考えは、どうなのだろうか。この考えは、普通は、間違いであるといわれるだろう。しかし、本当にそうであろうか。確かに、いじめという行為は決してやってはいけないことである。だが、自分たちでもわかっていない理由が、少しでもあるのではないだろうか。その理由とは、思っていることを上手に伝えることができない、ということである。まだ幼い子供たちは、自分の意思表示をはっきりできない。だから、いじめという行為に発展してしまうのだと思う。
これは、いじめる側に対してだけの問題とは限らない。いじめられる側も同じで、自分の思いを相手に伝えられないから、理解してもらえない。いじめというのは、お互いに必ず、こういった問題があるのだと思う。それを分かってあげないで、いじめた子をしかるのはよくない。親や先生は、子供の目線で考え、なぜそうなったのかという話を、しっかりと聞いてあげるべきである。
(08)
私は小学校低学年の時にいじめに遭ったことがある。今となっては、あまり細かくは覚えていないが、やはりとてもつらく、悲しく、悔しい思いをしていたのは忘れられない。そんなにひどいいじめではなかったのかもしれないが、私はいじめに大きさなんてないのだと思う。
どんなに周りから見たら些細なことでも、いじめられている本人はひどく傷つき、苦しんでいるのである。まず、私は、いじめを少しでも減らすには、いじめを受けている方の立場になって、その気持ちを考えられるようにならなければいけないと思う。そういうことを考えるように指導するのが、親であり、教師の役割ではないだろうか。
私は、いじめを受けた時、母に相談したことがあった。その時に母はこう言ったのだ。「自分がこんなにつらい思いをして、傷ついたんだから、他人にそんな思いをさせるのは絶対にしたらだめだよ」と。それ以来、私は人の気持ちを考えられる人にならないといけないと思い、いじめなんて、絶対にしないと決意した。だから、私にとってその母の一言は大きかったように感じる。親、先生に相談できる環境はとても大切なのではないかと思った。いじめは、いじめる方が百パーセント悪く、いじめる方の考え方をどう変えていくかが大切だと思う。
(09)
私は一度、いじめに近いものを経験したことがある。中学校三年生の時である。しかし、今もその時も、私に咎があったとは思わない。むしろ、いじめる側に矛盾した考えがあったと思う。
いじめる側には決まりがある。彼らは集団で行う。一人の人を多数で責める。集団で一人をいじめることによって、彼らは自分ひとりがいじめているのではないという一種の安心感を持つ。だからいじめることに対して責任も感じていなければ、罪悪感もない。それに対し、いじめられる側は、責められることも、傷つけられることも、一人ですべてを背負う。比べてみると、やはり、いじめられる側が受ける負担は計り知れないほど大きい。
「いじめはいじめた方はすぐに忘れるが、いじめられた方は決して忘れない」いじめについてよく言われる言葉だが、本当にそうだと思う。しかし、いじめられたことにより自分の一生が変わってしまうのかというと、これは本人次第である。
世界中、たくさんの人がいて、その中に自分と共鳴できる人が居ないなんていうことは絶対にないと私は思う。もし今まで仲の良い友達がいないのなら、これから出会うのだと思いたい。自分のことを分かってくれて、何でも話せて、親友と呼べる友達のもと、自分がその人にとって必要な人とされた時、きっと自分でも自分を認められる。そうすれば自信だって持てる。すると、いじめられても怖くない。いじめられた人にとって一番大切なことは、自分を認めてくれる親友を持つことだ。
(10)
いじめは本当にやってはいけないことだと思う。私は、直接何かをしたことはないが、仲間はずれにされている子を見て見ぬふりをしたことはある。それは、今も悔やんでいて、どうしてあの時、助けてやれなかったのだろうか、仲間はずれにしている子たちをどうして止められなかったのだろうかと、とても悔やんでいる。私はそのことを先輩に相談したりして、いろいろ元気付けてもらったことがあった。
「もう今は仲間外れにしてはいないのかい?」と聞かれて、「少しだけ」と答えた。先輩は、「ダメだよ。助けてやるんだ。それで君も仲間はずれとか、そんなつまらないことをしないことだ」と怒ってくれた。私は次の日、また仲間はずれになっているのを見て、仲間はずれにしている子たちに、「もうやめようよ。つまらないことするのは」と言った。これは大変、勇気がいることだった。もしかしたら自分も仲間はずれにされるかもしれない。でもそんなに自分のことばかりを考えている自分がいやになって、勇気を出して言ったら、「本当だね」とみなが言ってくれて、その仲間はずれになっていた子は無事、仲間に戻れた。やはり、一人を仲間外れにしているより、一人も外れることなく皆で居たほうが楽しいと思った
私は何かむかつくという理由で、嫌われている子を何度か見たことがあるけれど、助けられたのはこの一回だけだ。見て見ぬふりをするのもいじめのひとつだと思う。だから私は、いじめを見た時は、なるべくいじめがなくなるように努力している。今はまだ、力不足かもしれないけれど。いつかはすべてのいじめがなくなればいいと思う。
(11)
私が中学一年の頃だった。私のクラスにいじめられている女の子がいた。私の中学は二つの小学校からの生徒が通っていて、私はその子とは小学校は違ったので初めて知った子だった。私は同じ小学校だった子たちと一緒にいることが多かった。他の子もそうだった。クラスに慣れ始めてきた頃、私は休憩の時、いつも一人だけで席に座っている女の子に気がついた。友達と外でバレーをしに行くつもりだったので私はその子に声をかけようと近寄った。しかし友達に腕をつかまれ、そのまま外に連れ出された。あとで聞いた話だと、その子は小学校からいじめられていたという。それで同じ小学校から来た子たちは誰も声をかけなかったのだった。私の小学校の子たちもその様子にうすうす気づいていたらしく、その子と関わらない様にしていたらしかった。
「いじめたのは悪いが、いじめられた子にも問題がある」というのをよく聞く。確かに一対一ならあり得ると思う。しかし、いつの間にか一対クラスという状態になっている。どちらかが自分の都合のよいように話を広め、見方を作ったからだ。味方についた側の中には直接何かされたわけでもない、まったく無関係の人までいる。
私はこの状態に自分が当てはまっていたと思う。まわりの話だけで流され、いつの間にか「一対クラス」のクラスの中に入ってしまっていたのだ。あの時のことを思い出すと、罪悪感でいっぱいになる。今の自分ならあの時のように流されずに済むだろうか。意志の強い、心の強い人間になりたいと思った。
(12)
今になって私は思うが、人は年を取るにつれてだんだんと大人になり、いじめというものからも遠ざかっていくように思う。でも、小学生の頃は、一日一回はどこかでけんかをしていたような、そんな感じだったと思う。喧嘩といじめは違うのだけれど、大人に近づいても喧嘩はするが、次の段階ではお互いに話し合うことで分かり合って、次のよい段階へ進んでいることが多い。小学生の時は、単純な喧嘩が、そのままいじめに発展してしまったのを思うと、やはり子供だったのかなと思う。いじめも学年が上がるほどに少なくなっていった。
私がいちばん子供だなと感じたのは、中学一年生の時だった。静かでおっとりした感じの子がいた。何がきっかけだったのかは分からないが、いじめの状態が続くようになった。学校の配布物にまで「キモイ」と書かれるまでになった。その子はいつ頃からか、学校に来なくなってしまった。私がその子だったら本当に自殺を考えると思う。その時、その子のためにすぐに助け船を出してやれなかった自分が今思うと悔しい。それでも、なんとか学校に来てほしいという気持ちから、友達と二人でその子の家に行って、交換ノートをしてみないかと誘ってみたが、黙ったままで返事はなかった。その後、私はその子と二度と会うことはなかった。
このようにいじめによって人は人生をとても大きく変えられてしまう。大きく花開くはずが、小さくしぼんでしまう。その重みをいじめた側は分かっているのだろうか。責任を感じているのだろうか。きっと分かっていないと思う。人の人生を変えてしまうほどのいじめというものが、どんなに罪の深いことなのか、もっと学校でしっかりと教えるべきではないのだろうか。
(13)
子供たちの間のいじめという問題は、もはや子供同士の問題ではないだろう。現在、いじめというものはとても悪質であり、その数はたいへんに多い。実際、私自身もそういった経験がないわけではない。きっと今の子供たちの多くは、いじめの場面を見たり、またはいじめられたり、いじめたりした経験があると思う。
私にも経験があるが、いじめられた時、本当に誰も信用できなくて、周りの人が全員敵に見えてしまう。そういう時に一緒にいてくれて悩みを聞いてくれる人がいるのといないのとでは全然違うと思う。少しでも信用できる人がいると、苦しくても負けずに頑張ろうと思える。そうして、いじめに立ち向かう力を生み出してもらえると思う。逆に、そういう人が全然いないと、一人で全部を抱え込んでしまい、引きこもりになってしまったりするケースもある。だからこそ、周囲の人たちはそんな状況にいち早く気づいてあげてほしいと思う。いちばんその状況に気づいてあげられる人はやはり家族だ。身近にいてふだんの生活を共にしているのは家族だし、絶対に裏切らない存在である。やはり、最後は家族が最高の頼みとなる。
悪質ないじめをしている子供に対する指導は、思い切ったものにしなければ、中途半端では逆に、更なるいじめに発展してしまうことが多い。いじめた子への罰則などは、それぞれの学校によって、それぞれの地域によって、バラバラであるような気がする。もっと国が統一して、次には絶対に起こらないような罰則規定など考える必要があるのではないだろうか。
(14)
私はいじめ問題に関してよく理解することができる。それは、私も昔はいじめる側に加わっていた一人だからだ。
現在あるいじめを止めさせることは非常に難しいだろう。これは昔のいじめとは根本的に違うからだ。昔のいじめとは、言うならば縦社会のいじめであった。上の者がしっかりと人の動きを統制して秩序正しい集団にして管理しているから、いじめがあったとしても、現在のような陰湿で過激な状態にまではならなかった。
今のいじめはこのような昔のいじめとは全く違う。現在は横社会のつながりでいじめが形成されている。この横つながりの社会というのは非常にやっかいで、みんなが同じラインにいるため群れを統制するリーダーというものが全くいない。だから、昔のようにいじめが始まってもそれを止める者がいないので、いじめは際限なく続いていく。そしてなお悪いのは、ある一人がいじめを始めると回りの人たちも別に理由もなく何も考えずにいじめに参加する。そしていじめる人数が増えれば増えるほど、巧妙に集団でいじめを隠して、陰湿かつ残虐に続けるのである。
私は現在のいじめがこれほどひどくなって、歯止めがきかないのは、いじめ問題を指導する人間の力の無さだろうと思う。現在の子供はいじめ行為がどんな意味を持つのかは全く理解せずに行ってしまう。だから、子供たちにしっかりと自分のいじめるという行為について理解させ、子供たち自身がいじめられる相手に対してどんな影響を与えるのかということを身をもって分からせる指導力がなければ、いじめはいっこうに減らないだろう。
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私もいじめを経験したことがある。そこで、当時の経験を振り返りながら考えてみたいと思う。まずいじめはそもそも個人的な問題を発端として起こっている。つまり、誰かが誰かを気にいらない、だからチョッカイを出す、というものである。このレベルでは当事者同士が接触することを避ければ、ある程度回避できる。ところがさらに第三者がそれを知り、加担した時から、いじめは加速度的に深刻になる。行為そのものが大勢が参加することにより正当化され、異議を唱えようにも仲間はずれにされることが恐ろしくてできない。もはやここまでくると、回復不能であると私は思う。そして、いじめられた側に責任があるような話まで出てくるようになる。
ではどのような対策が必要か。いじめのない理想的なクラスなど夢物語だ。誰も知らないうちに、いじめは行われる。そのために、個人的な問題が起こった時点で対処すべきだ。いじめが個人対個人の状態の時にお互いの接触を避けるようにすると同時に、一対一の話し合いを持ってお互いにお互いの気持ちを言い合って理解できるようにすればいじめの意味がなくなってくるだろう。また、いじめられる側には共通していることは孤独であるということだ。だから必ずうわべだけの友人ではなく、何でも心の底からは話す事のできる友人を作ることが大切である。
実際は非常に複雑な問題であり、完全には解決する方法はあり得ないような気もするが、私は正直なところ、自分の親以外の大人はあてにならないと思っている。いろいろなよいことを言う人が多いが、本当にいじめられる側の子供の気持ちに立って、最後まで見方をしてくれるのはやはり自分の親にほかならないだろう。だから親には正直に何でも言えるような、日頃の親子関係がいじめを取り返しのつかない状態にまで進ませない防波堤になると思う。
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つい最近、新聞でいじめに関する記事を目にした。その事件は、小学校一年生が早朝に教室で首をつったというものだった。私は思わず息をのんだ。小学校一年生の子が首をつりたくなるようないじめとはいったいどれほどのものなのだろうか。その子は小さな体で一人そのつらさに耐えていたのだろうか。そんなふうに考えると胸が痛くなった。幸い、その子は命を落とすことなく済んだのだが、周りの人間はそこまで追い詰められていることに気づかなかったのか。その子の親は我が子の何を見ていたのだろう。
世の中では、悲しいことにいじめが絶えることがない。自分がされていやなはずのことをなぜ他人に対してするのかがいくら考えても理解することができない。また、いじめられている子の親の大半が、そのことに気づかないこともよくわからない。親たちは毎日、愛する子供の何を見ているのだろうか。ほんの少しの変化にも気づいてほしいものである。そうすれば結果的に、いじめも減るかもしれないし、子供は親に信頼を寄せ安心感を抱くだろう。子供にとって親とはとても大きな存在であることは間違いないから、親も常にそのことを感じていてほしい。
学校でのいじめを無くすためにあらゆる対策を取る事はもちろんとして、その根底にある家庭での親子関係も今は、いじめシフトにしなければいけないと思う。親が敏感にいじめに反応して、我が子に対しては、いじめる事もいじめられる事も絶対に許さないという毅然たる態度が必要だ。学校の今の状態は、いじめ非常事態なんだという認識が親になければいけない。うちの子に限って、という甘い判断こそが、問題である。
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いじめは絶対に許されないことである。ただ一人に無視されるだけでも辛いのに、学級全体で村八分にされるのは耐え難いものがある。まして、子供にとっての学校生活は大変重要なものだ。勉強をするだけではなく、友人を作ったり、行事に参加したりと社会性を身につける場でもあるからだ。そういう場でいじめを受けることで、人間不信になってしまう子供もいるのではないだろうか。いじめは子供の人生まで大きく左右する。
しかし周囲の大人はなかなか子供のいじめに気づかない。気づいても見て見ぬふりをすることすらある。大人はきっと、いじめられている子が本当につらくなったら言うはずだ、とか、そのうち終わる、などと考えがちなのだろう。しかし、それはただの希望的観測である。いじめられている子は、周囲の大人を頼ることでいじめがひどくなることを恐れてしまう。また、いじめられている自分を、醜く情けなく思っている場合もある。いじめられていることが恥ずかしくて、平気なように振る舞ってしまう。これも周囲の大人がいじめに気づきにくくなる原因のひとつではなかろうか。
学級全体でのいじめの場合、中心核の子供が必ずいる。大半はその子供に付きそう状態でいじめをしている。カリスマ性に弱い日本人の性格が、最近のいじめの形式を生み出したのだろう。とにかく、子供の将来まで危うくするいじめは絶対になくさなければならない。そのためにも、子供の様子が少しでもおかしければ、ゆっくり話を聞くなど、子供に目と耳を傾けるべきである。
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いじめという言葉を聞くと胸が痛くなる。最近ではよくテレビドラマなどで、学校生活の中でのいじめの状態などを演じたりしているが、テレビだから、特にかわいそうに作られているとか、そんなにひどいわけがない、などと思うこともあるかもしれない。確かにドラマでは少しオーバーにしていることが多いと思う。しかし、私はいじめというのは程度の問題ではないと思う。
私は中学生の頃、いじめというまでは行かないかもしれないが、いじめにつながる一歩に違いないというような行為をよく目の当たりにした。クラスで六人から八人ほどでいつも仲良くしている女の子のグループがいた。私もその子たちと仲がよかった。ある日突然、そのグループの中の子の一人が、教室に独りでいるのを見た。私は何気なくその子に声をかけたら、ものすごく元気がなかった。その後、そのグループの子たちが固まってヒソヒソと陰で何か話してはこっちを見ている。私はその子たちに呼ばれ話を聞いてみると、「あいつウザイから無視している。だから話しかけたらいけない」と言われた。私はその時、言葉を失ってしまった。六人という集団に圧倒され、すぐに否定することができなかったのだ。私はその時すごく嫌な感じだった。話しかけてあげたい気持ちはあったのに、私が裏切ると自分もいじめられると思ったのだ。
私が思うに、集団で弱い者をいじめるきっかけは、たった一人の人が小さな原因で誰かに不快を感じ、その個人の嫌悪感に多くの仲間を賛同させるように巻き添えにして一人の子を攻めている。実際、仲間についた人で本当にいじめている子を嫌っている人はほとんどいない。当時の私と同じ気持ち、いじめる側に立つことに嫌な気分になった人が多くいたと思う。集団でしか強くなれない人こそ弱いところがあると思う。自分が逆の立場に立って考え直すことが必要なのだ。
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今の子は誰もがいじめに関係したことがあるだろう。私はいじめといういじめには合ったことはない。しかし、いじめた経験はある。
いじめられている相手よりいじめている自分の方が、心は汚れていると自覚して自分が嫌にはなったが、ただ、いじめられたくない、という気持ちだけから誰かをいじめていた。昔の私は友達と面白半分のふりをして、いじめをやって、その場をしのいでいた。しかし、幼いながらも家に帰っては感じていた・・・罪悪感と自分の小ささを。
やがてそんな自分が嫌になって、正義感ではなくただの同情と、先生に見つかることを恐れる、というなんとも弱い心だけで、いじめられている子を何度もかばうようになっていた。やさしい心ではなく、弱い心で。
そんな心でかばっている時でさえ、いつも思っていたことがある。大人は子供の何を見ているのかと。いじめた子を怒る、それだけでは子供の心は動かせない。「相手の立場に立て」と言われても、そう簡単に子供は理解できない。「なぜ?」という果てしない質問のすべてに、大人は答えることができるであろうか。幼い頃によく思った。大人のお説教はただ正当で、しかしきれいごとばかりだと。
教師の中では、子供の異変に気付きながらも放置している人もいるだろう。たくさんの言葉を並べれば、それで子供に教育したつもりになる人もいるだろう。子供の知識を増やす、それだけが教育ではない。子供の人間らしい心を育てながら教師自身も育っていく。上に立つのではなく、等身大で子供と向かい合う、これが教師ではないか。私は教師を目指しているわけではなく、大きいことは言えないが、大人たちは子供の何を見ているのか、いじめは大人にも大きな責任があるのではないか。とにかく、言葉だけでは、今の子供の心には何も届かない。いじめは心の問題だ。大人は子供の心に響くようないじめ対策にしなければいけない。
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私はいじめを受けたことはない。しかし、いじめをする側に立ったことが一度だけある。小学五年生の頃、クラスの男子で一人の男子を無視したり、仲間はずれにしたりして喜んでいた時期があった。そのいじめはクラスで一番ケンカが強い男子が、そのいじめられていた男子のことが嫌いで、でもみんなはケンカが強い方に逆らえず、みんなでいじめていたというものだった。その子は不登校になり、しばらく学校に来なかった。私は、人として最低なことをしてしまったと深く後悔した。なぜいじめられている方の見方をしてあげられなかったのか、と自分が情けなく感じた。
いじめをする側は圧倒的に悪いが、いじめを受ける側にも何か問題があるはずだ、ということをよくテレビなどで耳にする。私はこれに反対だ。話し合いで解決することを大勢で暴力でいじめて、こんなもの完全にいじめる側が悪いと思う。
さらに言葉の暴力にはひどいものがある。私は肉体的暴力よりも言葉の暴力の方がいじめられている人を精神的に追い込んでいると思う。それによって自殺に結びついたりして、取り返しのつかない結果が最近多くなっている。最近の子供は、命の大切さをあまりにも知らなさすぎると思う。いじめによって自殺に追い込む。それは殺人と何ら変わりない。私は学校側がもっと命の大切さを真剣に教えるべきだと思う。
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私はいじめた経験がある。そして、いじめられた経験もある。いずれも小学校高学年の時のことで、その方法は、みんなで一人を無視する、というものであった。当時私は、特に何も大きな悩みも抱えず、ただ毎日が楽しくて仕方がなかった。小さなことに感動し、時には傷つくこともある。そんな普通の小学校生活を送っていた。だが、いつごろからか「シカト」と呼ばれるいじめがはやり出した。仲のよかった集団の、とある一人が対象になった。「あいつ、今日からシカトな」と朝登校してきた私にグループの一人が言った。私は特に何の疑問も持たず、その日からシカトに加わった。どうしてその一人が無視されるのかも、その子は今どんな気持ちなのかも、全く考えなかった。いつものメンバーが一人欠けている。その子が休み時間、一人で座っている。そういうのを見ていてただ楽しかった。一週間ほどで、飽きたのか、かわいそうになったのかは分からないが、「シカト」は解かれた。グループはすぐに彼を受け入れ、彼は少し遠慮をするようになった。
しばらく同じことが繰り返された。対象はもちろん毎回変わる。自分の番になるのが怖くてどうしょうもなかった。ある日、登校すると誰も話してくれなくなっていた。「ああ、私の番だ」と思った。初めは冷静だったが、慣れないことに私はすぐ寂しくてたまらなくなった。「最近遊びに行かないのねぇ」と親に言われるたび、たまらない感覚に襲われた。どれくらいの日数だったかも覚えていない。ただ、シカトが解かれた私は全く違う人間になっていた。遠慮をするようになり、輪の中心にはならないようになった。他人の機嫌ばかり気にする、弱い人間になった。
いじめが悪いことは分かっている。しかしいじめがなくなるとは思わない。いじめられた人の気持ちを分かっていながら、いじめを楽しむ者を、私は何人も見てきたからだ。いずれにせよ、人目を気にせず無邪気に笑える私はもう消えた。これだけは確実に言えることだ。
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いじめは人を殺す。たとえ暴力を振るったり、物で肉体を傷つけなくても、言葉や態度だけで人を死に追い込む力を持っているのだ。これほど残虐で悲しいことはないと思う。どうしていじめは起きるのだろうか。
原因は、必ずいじめる側にある。よく、いじめられる側も悪いといわれるが、そんなことは決してない。確かにいじめられる側も、悪態をついたり、誰かを知らないうちに傷つけている場合もあるだろう。しかし、だからいじめるというのは間違っている。どうしてまず、話し合いの場を持てないのか。いじめが起こるまでに解決する方法はきっとあるはずだ。
私は、ここで大人の力が必要になってくると思う。大人、特に先生は子供たちに、自分で考え行動することを求める。これは今の子供たちにとってとても大切だ。しかし、その、考え行動する場をつくり、子供たちの力を引き出すのが大人の役目ではないのか。自主性を考えれば「場」をつくること自体も、子供たちのためにならないというかもしれないが、いじめをしている子たちは、自分でも気が付かないうちに、いじめをやめさせる場を持ってくれることを求めていると思う。実際に、いじめていた子の反省文を読めば、「こんなことをしていて、よいのだろうか」と本人自身が疑問に思い、苦しんでいることが多いのだ。いじめは決していじめる側といじめられる側の子供たちだけの問題ではないのだ。必ず大人の関わりが必要だ。
残念ながら先生や大人の、いじめに対する対処の仕方は、ピントがぼけているとしか言いようがない。子供は心の中で、優しく大人が手を差し伸べてくれることと、大人を頼って甘えられることを求めているのだ。いじめを解決する第一歩は、大人が本来の大人になってくれることだ。
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私はいじめをする人間には、何か必ず問題があると思う。何かというのは、たいてい、嫌な事やむかつくことがあった時、八つ当たりとして、自分より弱い人間をいじめるのだ。それをすることによって気持ちが晴れるから、つい、やってしまうのだ。
では、いじめをする根本はどこにあるのか。私は家庭にあると思う。最近の親は勉強にうるさい。テストの成績が下がったぐらいで怒鳴る親がいる。親も親で、会社などで仕事の成績が上がらなければ怒られる。会社で怒られた親が、子供を怒鳴り、怒鳴られた子供が学校でいじめをする。
いじめられる子供はどこにぶつければいいのか。どこにもない。だから、いじめられる子の中には、死を選ぶ者もいる。学校の大半は、いじめに気づかない。いじめをする子供が大きくなって親になれば、同じいじめをする子が育つと思う。これでは、いじめは減らずに増える一方である。負の連鎖である。
どうすればいじめはなくなるのか。私にも分からない。でも、家庭でできることはたくさんあると思う。子供の様子をいつも見ておく。何かおかしく思ったり、学校のことを話さなくなったりした時は親が気づいてあげるしかない。いじめられている子供が、自分からいじめられているということは言えないのだ。このあたりの子供の気持ちを大人はしっかりと理解してやることがいじめをなくすまず第一歩だと思う。いじめをなくすには、周りが気づいてあげて、解決にもっていくしか方法はないのだから。
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いじめという行為が、昔と質が異なっているので、現代に生きる子供たちにはいじめによる心の闇ができていると思う。それは表面にあまり出てこないが、ほとんどの子供たちに広がっていると思う。遊ぶ場所が減り、習い事や塾などで、皆と一緒に遊ぶ時間が制約され、ストレスがたまってしまう。その欲求不満のうっぷんばらしとして、力の弱い者に矛先を向けてしまう。これが今のいじめの特質になっている。この状況は、多くの子供たちに共通したものである。昔の子供たちの状況とは考えられほど変化している。子供と子供の裸のぶつかり合いのようなものが日常的には全く無くなってしまっているのだ。生きた人間の、友達の重みのようなものが感じられない生育環境になっている。
それに従って、人権に対する感覚も薄っぺらなものになっている。この子供たちへの人権教育は非常に大切である。加害者へも被害者へも、人間の人間としての重みを感じさせることが大事だと思う。そうすることによって少なくとも、自殺にまで至るようないじめには歯止めがかかるに違いない。
具体的にどうしたらいじめを無くすことができるのか。私は自分の経験からして、まだ確固とした生き方の基本が整っていない年代の子供に、人権理論を説いても理解はできないと思う。人権という言葉そのものの意味も、頭では試験の答案のように分かっているが、実感としては理解できていない。だから、いじめることと人権の関係などは直接的には結び付いてこないのである。なぜ、いじめることが悪なのか、ということが子供にはなかなかは納得ができないのだ。冗談といじめの境界が区別できる子は少ない。
だから、高尚な理論や理屈は何の意味も持たない。それよりも徹底して、「いじめをすることは卑怯である」「卑怯な行為は恥ずべきである」と頭ごなしに、いじめ=悪いことだと叩き込む必要がある。しつけのようなものだ。物事がまだよく分からない子供に、納得させてしつけをする、などということは、出来がたいことである。子供には、正しいことは押しつけるということが、本人の教育のためにも大事だと私の経験から思う。
このように人間としての善悪をしつけとして身につけさせていくならば、いじめを行う時には罪悪感が生まれてくるだろう。幼少のうちに人間としての基本的な倫理観を体で覚えさせることが、いじめの問題解決への根本になると信じている。
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子供時代に受けるいじめというものは、その後の、その人の人生を変えてしまうといっても言い過ぎではないと思う。特に、小学校、中学校など、精神的にも身体的にもまだ成長不完全な時期におけるいじめは、たとえいじめが無くなった後でも、本人も気づかないかもしれないが、大きな心の傷が残るに違いない。いじめるという行為それ自体、大問題であるが、一番の問題はいじめられている側の心である。いじめられている人は、いじめられているという事実を他の人、特に親には言い出しにくいと思う。それに、小学生なんかであれば、他の人がいじめをしていたら、面白がってそれに参加してしまう場合が多い。なかなか止める人もいないのが現状で、だれにも頼ることができず、ひとり抱え込んで自殺する子が出てきてしまうというのも悲しい現実である。
いじめの問題で、もうひとつ重大な問題は、いじめに対する世間の見方である。信じられないが、「いじめられた方にも問題がある」というのは表立ってではないが現実にはよく言われている。世間の目は本当に冷ややかなもので、そのおかげでいじめられている側はなかなか立ち直れないのである。「私の兄を小学校の頃いじめていた奴らは、今は大学生活を楽しそうに満喫している。一方の兄は、その痛手から立ち直れずに部屋にずっとこもっている」これは以前に私の友人から聞いた大げさではない本当のことである。印象に残って今でも忘れられない。このような事にならないためには、もっと周りの人がいじめられている側の立場に立って、物事を考えなければならないと思う。
(26)
小中高校を通じて、最近、いじめが深刻化している。この原因は、マスコミなどで、いろいろと実態調査などされて書かれているが、私はそれだけではないように思う。それでは、本当の原因は何か、と聞かれても答えることはできないが、子供たちの心情は、とても難しいということだけは言い切れる。
例えば、クラスにムードメーカーのような存在感の大きい人が一人いるとする。その人をA君としておこう。A君のような人はたいてい何人かで構成されたグループの代表的な存在で、他の人たちは何とかA君に嫌われないように努力する。このような状況で、もし、A君がB君を嫌い始めたらどうなるのだろうか。答えは簡単である。A君のグループ全体でB君を嫌い始めるのだ。だから、ここにいじめの根っこのようなものができるわけだ。A君はB君を気の済むまでいじめ、A君のグループの他の人たちもA君に嫌われないようにB君をいじめる。このような例は、小中学校で最も多いものだと私は思う。
実際にはこんな状況でいじめが始まったりするのだから、マスコミなどに取り上げられるような単純な原因ではないのだ。子供の心というものは、本当に繊細で、本当に難しいものなのである。このことをしっかりと理解していない教師や親は、絶対にいじめを解決することも止めることもできないと私は思う。教師や親が極力、子供の気持ちになってやることが最良な手段ではないだろうか。
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今や子供たちだけではなく、大人たちにとっても深刻な問題となっているいじめは、昔と質が変わってきたように思う。昔のいじめの方がよかった、と言うわけではないが、今のいじめ方はあまりにもひどいと思う。いじめられている子を助けたり、かばってくれる人がいない。クラスの中でいじめがあっても、見て見ぬふりをする人が多い。それは生徒だけでなく、教師も見て見ぬふりをしていると思う。小中高と年齢が高くなるにつれて、生徒と教師が対等な立場、あるいは生徒の方が教師より上の立場となり、教師が生徒に対して威厳を示すことができなくなっていると思う。いじめている生徒を教師が指導できない状況が、今の学校の現状ではないだろうか。いじめの原因が教師だけにあるわけではないが、教師は生徒に見下されるのではなく、尊敬される立場になるべきだと思う。
私は、いじめはいじめられる方に原因があるのではなく、いじめる方に何らかの原因があると思う。家庭内のトラブルや、友人関係など心の悩みを抱えていると思う。そういう心の悩みをだれにも話すことができず、自分でもうまく解決できない子が、モヤモヤした気持ちのうっぷんばらしに誰かをいじめようとするのではないかと思う。
現代の子供たちの中には、自分の気持ちをうまくコントロールできない子がたくさんいる。学校生活の中で、そういう子供たちといちばん身近に接しているのは教師である。その教師が子供たちの心の異常に気付き、対処していくことで、いじめを減らすことができると思う。
(28)
いじめはダメなことだ、というのは誰もが知っていて当たり前のことだが、それが当たり前のように起こっているのはなぜだろう。私は小学校、中学校でいじめを見てきた。小学校では私も注意したりしたことがあるし、いじめなんてなぜするのだろうか疑問を持っていた。
しかし中学の時、休み時間にいじめをしている子たちがいて、一人の女子がその数人に囲まれていた。周りはざわざわして、終わりには人だかりができていた。私もその中のひとりでただ見ているだけで注意することができない。多分みんな私と同じで、注意した後に自分がいじめられるのが怖かったのだろう。それは休み時間終了とともに終わった。
この状態は何を意味しているのか。その場にいたみんながいじめをしてはいけないと思っているのだ。それなのにおかしなことだ。しかし、よく考えてみるとみんな自分のことを優先にして考えているのではないか。いじめている者は自分のストレス発散などが理由だろう。見ている側は自分もやられたくないから注意できないのだ。これを思うとなんて自分が情けないのだろうかと思う。
このことから言えることは、今のみんなには他人を優先に考えてやれるくらいの、優しさが、人間性がないのだと思う。これからは、どうすれば優しさが身につき、いじめを減少させられるのかを考えなければならない。人間関係の薄くなった現代に、他人のことを優先して考える心を育てるのは難しいかもしれないが、私はこれを真剣に実行することが、今のひどいいじめの現場を変える根本になるのではないかと思う。
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筆者略歴
高知県に生まれる
花園大学卒業
定年まで教育機関に勤務
専門は仏教文学
第6回問題小説新人賞受賞
(徳間書店)
https://prizesworld.com/prizes/novel/mons.htm
花園大学卒業
定年まで教育機関に勤務
専門は仏教文学
第6回問題小説新人賞受賞
(徳間書店)
https://prizesworld.com/prizes/novel/mons.htm
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