大和田光也全集第28
『いじめを知る・生徒の実感より』【中】

〖関わり度C〗
(01)
 子供の間のいじめが深刻な問題となっている。小中学校といじめという言葉を私は幾度も耳にしている。テレビでやっているようなひどい事はなかったと思うが、今になって考えればいじめの状態が日常的にあったような気がする。
 いじめとは誰がどのタイミングで判断するのだろうか。もちろん被害を受けた本人だと思うが、それは多かれ少なかれ、あいまいにされることが多い。私はそのあいまいな部分に疑問が出てくる。いじめはどんな場合においても許されることではないが、それを明確にするためには、被害者があいまいにせずに明確にいじめの現状を公にする必要がある。そうしないと、いじめた側の言い分が通ってしまう。いじめた側は、たいてい、いじめだとは認識していない。あるいは認識していても、はっきりといじめたとは言わないのが普通だ。単純に、友達の延長線上のこととして言い逃れるものである。大人や先生がいじめた子を追及して出てくる答えはほとんどこのようなものである。友達関係の中で起こった安易ないたずらを、受け取る側がいじめと感じたというものだ。
 もちろん、いじめられた側が悪くはないのは当然だが、それをはっきりと周囲の人に意思表示をしない、証明しようとしないのは、さらにいじめを進行させる原因になると思う。いじめられている子も、泣き寝入りせずに悪を明確にする義務はあると思う。

(02)
 いじめは、これから先、無くなるのだろうか。現在、いじめは増える方向にある。増えるだけではなく、いじめられる理由やいじめの内容もどんどんと想定の範囲を超えてひどくなっている。「そんな理由でいじめられたの!」「そんなことをされたの!」いじめられた子の親は、あまりにも異常な学校での出来事に驚いてしまうだろう。このように社会の変化とともに異常な状態に変わっていくいじめを果たしてなくすことができるのだろうか。
私は、いじめをなくす対策などは作れないと思う。作れるのなら、もっと前からできて、成果を上げていたはずだ。いじめをなくすことは難しい。本当にそう思う。なぜなら、いじめの理由が理にかなっていないからだ。いじめられた側が納得のいかない理由でいじめられる。言わば、理由なきいじめだ。理由がないのだから、理由を取り除いていじめをなくそうにも、その術がない。そのいじめは、人目のつかない所で行われる。そのような状態で、どこから解決の手をつけていくことができるだろうか。いじめられたら大人に言う、これはいちばんの近道かもしれないが、その近道を通るには大変な勇気を必要とするし、何より恐ろしいのが、近道を通った果てにあるものだ。大人に告げれば、いじめはひどくなる。いじめられた子は、必ずこのように思うだろう。そんな中で大人に言えるはずがないのである。
 なぜいじめというものが生まれてしまったのだろう。明らかに人間社会の中で反価値なものであるのにもかかわらず、さらにどうして次から次とマスコミで取り上げられるような状況になっていくのだろう。親の教育が悪いのか、学校に問題があるのか、それとも時代がそうさせてしまったのか・・・どちらにしても、本当に悲しいことである。

(03)
 いじめが起こる原因はさまざまである。面白半分や、うっぷんばらしをするためなどの理由だ。この理由のどこにも、いじめがいじめられる側にも原因があるということを感じさせるものはない。もし、いじめがいじめられる側に問題があるというのであれば、それは解決の難しいいじめ問題から大人が逃げるために言っていることに違いない。とても無責任である。決していじめられる子に問題はないのに、いつも口には出さないけれども、大人の心のどこかにこんな気持ちがあるような気がする。一人ひとりの人権を教えていかなければならない大人が、たったひとりでいじめと戦っている子の人権を認めようとしない心があるとすれば、それこそ大問題である。
 どれほど子供たちが大人ぶっていても、子供は子供だ。だから、やはり大人が正しい道に導いてやらなければならないと思う。そして、いじめが、「人権を侵害する行為」であることを明確に知らさなければならない。
 また、今のいじめがなぜ、村八分のような方法で行われるのか。それは「集団志向」に関係するのではないかと思う。皆と一緒に行動すれば、自分の責任は人数分の一になる。そして、皆と一緒にいじめをしないと今度は自分がいじめられてしまう、という集団の中に自分を埋没させてしまうのが、今の子供たちの、自分の身を守る普通の生き方になっている。さらに、一人を仲間外れにして、いじめればいじめるほど、集団の団結意識は強固なものになり、何か快い安心感が出てくる。言葉でコミュニケーションを取って、友情を深めていくということが苦手な子どもたちは、いじめをすることで、いじめる側のより強い絆を築こうとしているのだ。
 大人が、いやなものから目を逸らす傾向、日本人に根付いた集団志向。これらが未来を担う子供たちの世界にいじめという歪んだ形で出ているのだろうと思う。

(04)
 いじめはひどい事だと思う。私はいじめを実際に見たことや関わったことが今までに全くないので、いじめの話を聞く時は、恐ろしく思うばかりで、それ以外のことはあまり考えてみたこともなかった。しかし、他の人と話をしているとむしろいじめに関わってないという事は珍しいことであるのがよくわかった。だから、実際に現実を知らない私が、いじめについて考えてみるのも、ひとつの見方ではないかと思う。
 なぜいじめるのか。たいていは自分より、か弱い者、動作の鈍い者などを対象にする。つまり、自分よりも劣っていると見える人に対して面白半分に始めるのである。どうしてこのようなことをするのかと考えると、いじめる側の人間が、自分を他のものよりも位の高い立場にしたいという意思によって他の者を見下すのではないだろうか。そうすることによって自分の、悪い意味での向上心が満たされるのではないかと思う。ここには、いじめる側の弱さが潜んでいる。自分より下の者だと見下している人をいじめることにより、自分の自信のなさをどうにか乗り越えようとしているに違いない。いじめる理由がこのようなことではない場合、例えば、単なるうっぷんばらしにいじめることもある。この場合でも、いじめる側の人間は、同じ人間としていじめられる者に対して、真正面から向き合う力のないものである。それは弱さではないだろうか。
 いじめられる人はどうだろうか。自分の欠点をただ責めたてられるだけで、この人自体は何も悪いことはしていないのだ。いじめられたことへの怒りより、恐れの方が上回ると、しだいに落ち込んで行き、最悪の場合、自殺に追い込まれる。だが、本当は、いじめている人間の方が、自分よりも弱い人間だと分かれば、勇気が出てくる。誰かに相談する勇気、相手に対して刃向かう勇気は口で言うほど簡単には出てこない。しかし、怖いのは、相手の正体が分からないからだ。相手が自分よりも弱い人間であるならば、どのようにでも対応することができるに違いない。

(05)
 私は最近、いじめという問題から遠ざかっていた。私が通う学校では、そういった風潮は見られず、また私自身、被害者側からの独立を果たしていた。そんな中でいじめのことについて触れるということは、何か遠い世界の話のようで、いったい今、いじめはあるのだろうかと不思議に思う。
 いじめというのは、いじめられる側に問題があると言われた時代もあった。確かにそれは間違いではない。他人が不快に思う欠点がその人にあるのだから。だが、いじめる者も何らかの問題を持っている。これもまた間違いない。要は人間のエゴイズム、人の上に立ち、弱者を見下ろす、そういう一党独裁政治のような状態がクラスの中で起きている時に発生する。被害者側が強く、またグループという組織を持ち、ある程度の強さを持つなら、それは与党と野党のようになる。現に私が中学三年の時は、このような、まるで与党と野党が反発し合うような状態であった。その結果、嫌がらせを受けては担任に愚痴を言い、けんかに発展し、授業開始まで言い合いは続くし、相手グループの男子一人を私の友人たちが泣かさせてしまったり、とこんな中学三年の一年間になってしまった。
 強き者は弱き者をいじめては優越感に浸る。悪の根源はすべてそこにあると私は考える。ならば、弱き者を誰かが勇気をもって助け、強き者に反発する勢力をつくる。そして、こちらに刃向かうとどうなるか、と言わんばかりのひとつの党を作りあげていけばよい。きっと仲間はどこかにいるのだから。

(06)
 いじめというものは昔からあったと思う。しかし現代のいじめは、いじめという言葉では表せないのではないだろうか。集団で一人の子をいじめるといった行為はまさに最悪の犯罪であり、「いじめ」というありふれた言葉では表せないと思う。このような行為に歯止めがきかなくなってきていることに対して、親教師など大人がしっかりと考えていかなければならない問題だと思う。
 私は将来、小学校の教師として子供たちと触れ合っていきたいと思う。私の小学生時代には、いじめは無く、小さいながらにもお互いを分かり合って楽しく過ごしていた。確かに面白半分でからかったりということはあったが程度というものをみんなが知っていた。この程度というものを現代の子供は分かっていないのだと思う。それが今のいじめを残酷化している最も大きな理由ではないだろう。ものには程度というものがあり、それを超えてしまうと相手を傷つけたり、自分の思っている方向と逆のことが起きてしまったりする。からかいという行為も友達との間では遊びで済まされるかもしれないが、それも程度を超えてしまうといじめに変わる。
 今の大人に求められていることは、このような子供たちに、程度ということを口先だけではなく、子供と触れ合うなかで自然と体で覚えさせていくことだと思う。小学生ほどの子供に観念的なことを教えても理解できる者はほとんどいないだろう。だから遊んだり、会話したりするなかで、物事には境界線があり、それを超えるとどうなるのかということしっかり教えることがいじめを減少させる方法だと思う。そしてなにより、このように教えられる大人、教師を増やしていく必要があると思う。

(07)
 いじめには、いじめる側といじめられる側に特殊な事情がある。いじめを止めさせようとしない者もいじめている側に入れられることがあるが、それは現場を見たことのない人の言うことだ。なぜなら、いじめに反対する言動を取れば、自らもいじめられる側に入れられてしまう可能性は十分にあるからだ。だから、いじめる側に立つことに、または、いじめを止められないことに、実は非常に良心の痛みを感じているのだ。その痛みは後悔の心の傷となって、一生涯、残ってしまうこともある。まさに、いじめの被害者なのだ。
止めようとしないのは、止められる力がないからだ。同様に、いじめられる原因は、いじめられない力がないからだ。自己を主張できない人、または人に危害を加えることを恐れる人がいじめの対象となる。いじめても反抗しない方がいじめやすい。反抗しないからさらにエスカレートする。いじめられた後はさらに怖がって何もできない。悪循環になるのだ。
 いじめる側は、自分のいじめている人の苦痛の程度を知らない。しかし、苦しがっていることは知っている。いじめをする人も哀れである。人の苦痛が喜びとなっているからだ。こんな異常な精神状態は、いじめる人が望んでなったのではない。精神的に幼いために、自分が人間としての生き方からどれだけ外れてしまっているのかが自覚できないのだ。そして、そこから抜け出すきっかけも方法も力も無くなってしまっている。
私はいじめは当事者に責任も問題もないと思う。いじめをいじめにするのは、周りの大人である。子供とは大人ではない。つまり成長している途中である。大人でさえ過ちを犯すのだから、子供はなおさら間違えるであろう。その間違いを正すのが教育であり、大人の役目である。いじめられないような力を、また、いじめないような力をつけさせることが教育である。

(08)
 いじめという問題は、今日の社会ではとても深刻なものだと思う。しかもそのいじめの質が昔からするとずいぶん変わってきている。より悪質なものに変化してきている。
 昔からいじめというものはあった。しかしそれはまだ、親や教師の
手に負えるものだったように思う。しかし今日の学校でのいじめはそんなものではない。比較的おとなしく気が弱そうな子をターゲットにし、その一人の子を何人もで囲みお金をとったり脅したり、たいへん悪質なものになってきている。私はそのようないじめをする人の気持ちが全く分からない。なにも、抵抗できない人を多数で脅して何が楽しいのだろうか。何が強いというのだろうか。そういう人間こそがいちばん弱く、情けない人間だと思う。相手の立場になって考えたことはないのだろうか。だれにも言い出せずひとりで悩んで、最終的に自殺にまで追い込まれてしまうことも、マスコミではしばしば報道されている。今の世の中、良い子がいじめられて、つらい苦しい思いをさせられて、悪い子が大きな顔をして生きているのだ。まさに悪貨が良貨を駆逐しているのだ。
 いじめを受けている子が誰にも言い出せないのは、もっといじめられるという気持ちもあるだろうが、言ったところで何も解決できないことが分かっているからなのである。教師はいじめが分かっていても見て見ぬふりをして、あまり真剣に取り組んではくれないのだ。世の中全体が、この危機的な状況にあるいじめの現状をもっと深刻に受け止めるべきだと思う。学校という教育の場でも更に本気になっていじめという問題について考え、対処していくべきだと思う。いじめ問題は現在の教育において、絶対に避けてはならない問題だ。

(09)
 いじめというものは、高校生くらいになると、次第になくなっていくものだが、それまでは、いじめのない学校がないといっていいぐらい、どこの学校にもある。昔からよく、いじめが問題になり、学校の授業にまで取り上げて教育するところもあるのに、無くなりそうにない。いじめには、いじめられる子にも問題があるという意見が表面的にはないように見えても、正直な気持ちとしては多くあるような感じがする。しかしそれは単なるいいがかりに過ぎないと思う。欠点のない子供などは、この世に存在しないのだから、少し人より劣っている部分があっていいのだ。それでこそ、人間であると思う。
 いじめが起こる原因は、この当たり前だと言えるようなことが、理解できない子によって発生するのだ。ひどいいじめを受けた者は、一生、その心の傷を背負って生きていかなければならない。生きていく強さのない者は自殺をしてしまう。いじめには、人の人生を変えてしまうまでの力がある。非常に低レベルなことなのだが、受ける側の影響は極端に高レベルなのだ。
 楽しむために行く学校が、傷つけられるために行く学校になっては、学校の意味がなくなってしまう。誰しもが楽しいと思う学校にするために、いじめを出来るだけなくす教育が必要である。人間というものは誰しもが欠点を持ち、だからといってそれで人間の価値が下がるのではない。それを理解できない者、すなわちいじめる側の人間が価値の低い者になるということを、すべての子供たちや大人たちが理解できれば、いじめのない世界も夢ではないかもしれないと思う。

(10)
 社会的立場の弱い子供は地域全体で守る。そして、学校は立派な大人に育てるためにある。その教育機関で、いじめが起こることの悲しさは皮肉である。なぜに学級全体で一人をいじめるのか。それは現代社会の大学を格付けするように、学級の人間を学級内で格付けされているからなのではないだろうか。さらに、親がわが子を周りからいい子だと思われたいために、勉強のできない子とは遊ばないようにいい聞かされて育ってきた為かもしれない。人間の心と心のつながりの大切さが外見や表面だけで判断される現代社会のあり方が、まともに子供たちの学校にもはびこってしまっている。
 今の子供は、小さい頃から習い事やテレビゲームなどとやることが多過ぎて、他の人と話したり、仲間を作ったり、遊ぶことに精いっぱいになるような、そんな生きる喜びを感じることが少なくなってしまっている。そうかといって進歩してきた現状を変えることは難しい。学校教育では道徳の時間に先生が言葉で、優しくすることを生徒に教えて頭で理解させていることから、先生も生徒も分かったつもりになっている。そして頭ではいじめをしてはいけないと知っている。しかし、体で実感できていないので結局、いじめはなくならず続いている。そのうえ、親や先生に知られるといじめている子は悪い子のレッテルを張られることを恐れて、いじめの仕方がだんだんと陰湿になってしまう。
 いじめでつらい思いをする人がいないように、学校では、思いやりを実感させる体を張った教育をし、家庭でも子供に時間的精神的に余裕を持たせて親子でいじめについて話し合える環境を作ることが大切である。そして、もっと立場の弱い子に目を向けられるように子供たちの心をもっていくべきである。その子を取り巻く学校、家庭、地域といった外側からの教育と同時に、人間として優れた心を持てるような内面の教育を積極的に進めなければならないと思う。

(11)
 近ごろでは、虐待や体罰という言葉が世間にはびこっているような気がしてならない。なぜ、そのような事態が起こるかというと、つまるところ教育に問題があると思う。
 よくテレビのニュースなどでいじめに耐えることができず自殺に追い込まれてしまったなどというニュースを目にする。しかも、まだ生まれてから十年もたっていない子供がそのような状況に追い込まれるのだ。第三者の立場からすると、それはとんでもないことだと思う。世の中は異常なものになってしまった、などとただ嘆くだけではなく、なぜそのような事態が起こってしまうのかという実態に目を向けなければならないと思う。
私はいじめというものがどうして起こるのか、その原因は、全部と言わなくても親の責任が大きいと思う。いじめる人間が出てくるということは、それまでの自分の生きてきた過程に何かしら問題があったからなんだと思う。例えば、親の愛情の不足からなどで、子供が間違った道へ進んでしまうというケースが多いと思う。その結果、不満を誰か弱い者へと投げつけてしまうのだ。いじめられる側にも問題があるのではないかと言われるけれど、それはとんでもない間違った見方だ。よく、いじめられた現場を調べれば、いじめられる側には何の問題もないことがわかる。
 考えれば簡単なことで、いじめる子供を育てたのは、その親の教育にほかならない。いわば、親が他人の子供をいじめさせるような自分の子供を育てたのである。だから親は、自分の子供が人間として異常な行動をすることを止めさせると同時に、親自身の子供を育てる心のあり方も変えなければ根本的解決にはならないだろう。

(12)
 近年、いじめは増加する一方で、そのやり方などもさらに悪質化していると思う。昔のいじめというイメージは、三人ぐらいで一人の子をいじめていて、それを兄弟や友人が助けるという感じだ。しかし現代のいじめは、その比ではないくらい悪質で、残虐だ。いじめる側の人数はクラス全員、学校全体、あるいは職場全体でもあり得る。やり方は、集団で暴行、無視、使い走りなどである。やられた者は、反抗するとさらに痛めつけられ、いじめがひどくなるので、全く抵抗できずにやられっぱなしになるしかない。いじめていない人は、かばったら自分がいじめられると思い、助けようとしない。親たちも友人にも先生にも相談できずに追い詰められ、自殺という最悪の結果になることが、近年多くなっている。自殺して初めて事の重大さに気づいたところで、もう遅い。死んだ人は帰ってこない。いくら謝っても許してもらえない。いじめた人も心に大きな傷ができるだろう。
 いじめが無くならない理由として、いじめた者が自殺や何か刑事事件になるような大きな被害を受けてから気づくという、事の重大さが始めの段階で分かってないところにあると思う。この頃のいじめは非常に悪質で、いじめられている者に対して、本気になって自殺させてやろうと思うような場合もある。そのように思わせているのが個人ではなくして、いじめている集団だから、自殺させようという罪悪感がほとんど無責任なくらいに薄められるのだ。だから、自殺に追いやるような重大な事件になるまでも、面白半分でやっている場合が多い。ところが、いじめられている者はいつでも本気で傷ついている。同じ人間としてその傷を理解し得ないといじめがなくなる日は到底、やってこないだろう。

(13)
 いじめはどうしたらなくなのだろうか。今までにどれだけ多くの人達が多大な労力をつぎ込んで、この問題に取り組んできたことか。しかし、大きな成果を上げられず結果的にうやむやに終わってしまっているように思う。
 私は、いじめに関わりの濃い年齢を過ぎて、今振り返ってみると、いじめは年を取るにつれて、無くなるか、逆にエスカレートしてしまうかのどちらかだと思う。大人になってもエスカレートさせた人間は、いわゆる犯罪者の道を歩んでいくことになるだろう。
 今になって思うことは、いじめというのは透明なものではないかということである。それに大人が必死になって色をつけようとして頭を悩ませているのではないだろうか。色をつけるというのは、大人にはさまざまな立場があり、それを配慮しなければいじめというものにも向き合いえないことである。ともすると、色付けて見なければ、自分にとって不都合な事もあるのだろう。ありのままの姿として受けとめていくなかに本当の解決の道があるのではないかと思う。
 もう一つ。いじめている子といじめられている子の間にはそれほど距離がないと思う。これは他の友達も感じていたことだった。いじめを別の面から見れば、毎日いじめている子の姿を見ると、魅力を感じ、その子と仲良くしたいという気持ちが出てくる。それが、一緒になっていじめをすることに通じている。言わば、魅力を感じる子と話をして親しくしたいのだが、不器用でそれができないがゆえにいじめてしまうのである。だから、いじめる側の人間もお互いにコミュニケーションが言葉を通じてうまくできるようになれば、いじめは違った形になるのではないだろうか。
 大人は色々なことをいじめについて研究しているが、もっと身近にあって大切なものを見過ごしているような気がする。原理や教育理論ではなくして、いじめはもっと身の回りにある簡単なことなのかもしれないと思う。

(14)
 いじめがなくなるということは、あり得ないような気がする。私自身そう思ってしまうのはとても悲しいのだが、なくなる、と言い切れる人は世界で何人いるだろうか。おそらく、ほとんどいないだろう。それは、たいていこれまでの人生の中で、いじめられたり、いじめたり、またはそれを目撃したりしている中で、いじめは人間の本質みたいなものであって、人間が集団でいる限り無くならないのではないだろうかと思ったからに違いない。
 考えれば、もしいじめを完全に克服する方法があったとすれば、世界で戦争がなくなることを意味しているのではないだろうか。これだけ世の中が発展したといっても、世界ではいたるところで殺し合いがなされている。いつも戦争で犠牲になるのは、いま学校でいじめられている子と同じように、弱い立場の人間である。
人は争うことをやめない。争いが言葉のレベルで解決できるのはほんのわずかであって、ほとんどは大なり小なりいじめという実力行使になってくる。これまでの人類の歴史を見れば、人と人が争うということは、人間の社会の証明になっているように思う。だから争わなくなれば、人間社会の崩壊につながるような気もする。人それぞれが違った考え方を持った人間がお互いに他人とぶつからないわけがないと思う。人はいがみ合い、ぶつかり合いながらでないと生きていけないのではないかとも思う。
 いじめが起こるのは仕方がない、人間の本性である、と言っても、やはりいじめは最悪、最低のことである。いじめる人間は、己のことのみを考えた行動で、他人を痛めつけるわけであるから、とんでもない犯罪だと思う。人間社会は法律がなければ成り立たないと同じように、いじめを減らすためにも、「いじめ禁止法」とでもいうべき法律を作って強制的に処罰するしかない。

(15)
 私たち子供は、義務教育を受けなければならないため、学校という、同じ年の子供の集まる環境に毎日、通わなければならない。そんな学校という、多数の人間が集まる場所では、好きな人ばかり一緒にいられるわけではなく、クラスの中には、気が合わない人や、不快感を与える人がいるわけで、そんな中で人間同士の摩擦が起こるのは仕方がないことだと思う。これは、学校に限らず、大人なって社会に出ても同じように摩擦が起こる。しかし、大人たちは、子供の頃から学校や様々な場で社会生活をし続けてきて、そのような摩擦の対処の仕方を学んできているため、理性で感情をコントロールし、社会生活を営んでいる。
言うまでも無く今、学校に通う子供たちは、社会生活の営み方を学んでいる途中である。学校という場所は、単に学問を学ぶための場所だけではなく、人間としての社会生活に必要な社会のルールを学ぶ場所でもある。だからいじめについても大人になるために、教師がしっかりとした教育方針の下に対処の仕方を教えなければならない。
 私は、「いじめはやめよう。いじめられっ子の味方になってあげよう」という発言をする人は、偽善者にしか見えない。いじめられっ子にも問題がある、という考えは、とんでもない間違いだとほとんどの人が考えがちだが、そうも一概には言えないと思う。いじめる子にも問題はあるが、いじめられる子にも実際にはいろいろな問題がある。周囲の子が、いじめられる子の味方をしないのには、確かに次には自分が標的になることを怖がって避けていることはあるが、正直なところでは、いじめられている子に対して、不快な気持ちを持っていることも多い。だから、いじめられる子も、いじめられる原因を反省して、いじめる子以上に自分が強くなることが大事だと思う。学校では、いじめられる子に対しても、その子の将来のために、人間の集団のなかで生きる生き方を身につけさせてやる必要がある。これは現在の教師の大切な教育活動であると思う。

(16)
 うれしいことに、私の周りでいじめというものを見たり聞いたりしたことがない。小学校でも中学校でもみんな仲がよかったし、むしろ障害のある子には特別優しかった。みんなどこかに友達がいて、先生たちも良い先生ばかりだった。しかし最近、私の妹が、「それは運がよかったのよ」と言った。「無視されている子で何人も不登校の子がいるし、先生は頼りにならない」とも言ったのだ。年が三つ下の妹は、私の知らない学校生活を長々と話しをしてくれた。それは興味ある話でもあり、恐ろしい内容でもあった。その話を聞いて思ったのは、みんな何かしら誰かをいじめていたいのではないか、ということだ。いちばん驚いたのは、仲の良いグループの中で、一人ずつ、週代わりで無視し合うということをすることだ。仲の良い友達なのに、なぜわざわざその中から、いじめられる子を作るのだろうか。それもまた週代わりで。自分にも番が回ってくるというのに。
 そして、自分たちで始めたのにもかかわらず、いじめられる子の番になった子は、耐えきれなくて泣いてしまって、親が学校に怒鳴りに来たという。その子も今まで、いじめる子をやっていたのに、いじめられるとなると耐えられないというのはなんと勝手な話だと思う。また、親が来たことにも驚く。親が言うには、「なぜうちの子がいじめられなければいけないのか」というものらしいが、これも変な話である。近ごろこういった親をよく見ると妹は言う。不登校の子がいじめられた理由は、自己中、極度の自己中心的考えだからという。でも、もともと、そうなった原因は親にあるんだ、と妹は言う。今の親はおかしい。先生も生徒を疑っている。まず、このあたりから変えていかなければいじめ問題は解決しない。

(17)
 いじめの原因は何だろうか。ちょっと性格が合わないとか、面白半分とか、最初はこの程度の理由ではないだろうか。それが少しずつエスカレートし、別に嫌ってもいなかった周りの子たちまでがいじめに参加する。これが最初のパターンだ。集団で一人をいじめるから、罪の意識が低い。一緒にやらなければ、次は自分がいじめられる、そんな思いもあるだろう。そこが人間の弱く、醜い感情である。自分の心が成長した時、その人はいじめはしなくなるだろう。しかし、心が成長するには時間がかかる。だから、いじめを無くせるものなら無くしたいけれど、人間が存在する限りいじめはなくならない問題であろう。
 いじめは、ある日、突然始まる。昨日まで仲のよかった友達に無視され、避けられる。周りの子までも口をきかなくなる。だから、される人はなぜ自分がいじめられるのか分からない。そんなことが何人も何人も続いてきりがない。いじめを減らし、無くすには、自分が大人にならなければいけない。もし友達に悪いところがあれば、それを言ってあげることが必要だ。それを言わずにため込むから、友達も気づかずにいじめに発展する。そして同じことの繰り返しになってしまう。
 そうなる前に悪いところを優しく教えてあげればいい。それで直ればいいし、直らなければその子と深く付き合わなければよい。それができないのはまだ心が成長していない人だろう。自分と同じ人間なんて居ないのだから、合わないところがあって当たり前なのだ。そこは割り切っていかなければいけないところだと思う。みんながそういう考えになれば、すべてとはいえないが、いじめは減るだろう。

(18)
 いじめ問題については、人それぞれ、さまざまな意見があることだと思う。今では深刻な事例が多くなり、大人たちも手を焼いている。だが、これは大人がどうこうしてどうにかなるような問題ではないと思う。いじめとは一種の難病であり、とても分かりにくいものであるから。
 私はいじめとは、誰かの心ない一言から始まるのではないかと思う。例えばクラスの中で声の小さな子がいたとする。その子が何かしゃべっても周りはよく聞こえない。「もう一回言って」と誰かが言うが、やはり聞こえない。少しずつ周りもイライラしてきて「はっきりしゃべれよ」と言葉が荒くなる。そしてその言葉をきっかけに複数の子たちがあおるように攻める。この時点でいじめなのである。「どうせしゃべったって何も聞こえない」「話すだけでイライラする」と言って、一部の子が無視をし始める。そしてそれはクラス中に感染する。クラス中に広がった頃には、手がつけられなくなっている。みんなそのクラスの空気に酔い慣れてしまうのだ。
 このクラスで、いじめについて聞くと、みんな、「絶対にしてはいけない」とか「悪いことだ」と答えると思う。たいていの子はそうなのである。頭ではわかっている。けれど一度、クラスでいじめが始まると止められない。それがいじめという病気の最大の恐さなのである。ここでもし、自分があの子をかばったりしたら、今度は自分がいじめられるかもしれない。そんな恐怖心を次々と植え付けていく。「みんなやっているから」という風潮が漂うこの世の中で、自分の考えはこうであるということを主張できる勇気を持つことが、いじめという病気の一番の治療薬ではないかと思う。

(19)
 いじめは、程度の差こそあれ、ほとんどの人が経験をしたことがあるのではないだろうか。いじめの中にはいろいろなやり方がある。ほとんどの人は、仲良しグループからの無視や、リーダー的存在の子から悪口や嫌がらせ、靴を隠されたりなどである。だが、自殺に追いやられるような人権を無視したいじめは全国的に多いといってもやはりそれほど身近にあるものではない気がする。それは私自身が気づいていないのかも知れないが。
 公的機関が教育方針にいじめを減らすための何らかの対策を入れたとしても、いじめは表面的には少なくなっても無くなりはしないのではないかと思う。なぜなら、人は子供も大人も関係なく、勝手な基準で優劣をつけてしまうからである。かつての身分差別がそうである。身分の低い者の下に更に身分の低い者を置いて、まだ自分より下がいる、という優越感を与えて、身分制を保とうとしたのである。だから、今の世の中でも、大人でも子供でも、いじめる人はいるし、いじめられて追い込まれ、自殺という行為に至ってしまう人もいるだろう。
 いじめをなくすことはできないと言ったが、それでもなくそうと努力はしなければならない。その根本はやはり、世の中を変える必要があるのではないだろうか。ボタン操作で人を殺せるゲーム、爽快感を与える戦争映画、バーチャルな世界を現実と混同してしまうような世の中には、自分以外の人間も感情持った人間であるということを一人ひとりが改めて自覚することが必要である。誰もが喜びも悲しみも、痛みもつらさも感じる「人間」なのに、お互いの人権を無視した行為はどれだけ愚かでバカげた事かを真摯に再確認する必要がある。自分と違う人間も、自分と同じ「人間」である。このことをもっと確実に家庭や学校はもちろん、世の中全体で実感し合えることが大事なのではないだろうか。

(20)
 人の集団の中には、必ずカリスマ的な性質を持った者が存在する。これは老若男女関係なく、共同生活を送る集団ならばどこでも見られることである。先頭に立つ人間が現れ、それに従う。物事を合理的に効率よく処理するためには、当然の現象だ。史上最高のカリスマ性を持ったヒトラーは、その頭脳と話術で武力を得て、ユダヤ人を弾圧し、それによりさらなるカリスマ的な存在となった。ヒトラーのやり方に反発したかった人も、当然いるだろう。しかし、報復を恐れ従った。現代のいじめが深刻化する理由は、学級が小規模のナチスドイツと化しているからではないだろうか。
 いじめは基本的に多数から少数へと行われる。なぜその形態になるのか、多数派につけば自分がいじめられることはないからである。人間の自己保身欲がそうさせる。多数派の中の中心、つまりいじめの中心に刃向かえば自身の身を危うくするからだ。この心理が、いじめられる人間をさらに孤独な状態へと追い込む。
学校や家庭で教えられることは、「目上の人の言ったことはよく聞きなさい」ということが基本ではないだろうか。確かに必要だ。しかし、自分の人権、他人の人権を殺してまで従う必要はない。人権を侵害するものは目上でも何でもない。いつの間にかその性質が染み付いて、無意味な上下社会が生まれているのではないか。私たちがこれから考えていくべきことは、立場の上の人間が悪になった場合、下の者がどのように団結して、勇気を持って正義の集団に逆転させるかである。人権を何よりも高い位置に置けるような学校の集団作りが大切だ。

(21)
 ひとまとめに、いじめといっても、いじめには、さまざまな場合、条件、理由があるので、特に難しい問題だと思う。
 例えば、「ハミゴ」といわれる種類のもの。これはいじめであるという人もいれば、ただの仲間割れだという人もいる。小学校、中学校では、このハミゴと言うものがよく起きた。グループの中の一人が、仲間はずれにされるというものである。ハミゴの場合、される側に少なからず問題があることが多い。ハミゴにされる者は、例えばグループ内の一人を怒らせてしまった時など、怒った者が自分の見方を作るために、その子の悪口をグループ内に広め、相手を一人にさせるのだ。この場合は、長くは続かず逆に、標的がどんどん変わっていくことが多い。
このようなことが起こる原因のひとつに、人間の持つ優越感があると思う。小、中学の頃、グループ内に誰かが作ったわけでもないが、何か権力の順位というものがあった。上位の者が何か偉く、人より優れたところがあるわけではないが、不思議と確かな順位ができていた。そして、一番上の人は少なからず、何かの優越感を持つことができ、自尊心を満足させることができた。
一人をいじめるというのは、その何らかの権力を持った一人が行ういじめに、周囲が協力したり、逆らえない者がいる状態である。いじめられた方は、先生に告げ口したと言われたくないので言えない。子供たちの間では、先生に告げ口する行為は、情けなく、弱く、卑怯な裏切り者と同じになる。自らが自分の、友達の中における尊厳を振り捨てることに通じる。そして親にも、「私は皆からいじめられる情けない存在なのだ」と自分で認めてしまうのが恐ろしくて言えないのだ。それは子供でも持っている個人の最低限のプライドが許さないからである。大人がいじめに対応する場合、この子供の心理を絶対に理解して行わなければ、真実は明るみに出てこない。
私はいじめは、危害を加える方の親の家庭教育の仕方に、また、広く言えば、日本の平和ボケに原因があると思う。

(22)
 子供を守るのは難しい。それは彼らが私たちが思っている以上に素朴で純粋だからである。いじめられた者は、ほとんどの場合、誰にも相談できずに苦しむ。それは相談したらもっとひどくなると思い込んでいるからだ。それほど純粋な心の中にいじめという悪の恐怖は強く焼き付けられる。
 冷静に考えれば、いじめに対して強硬な姿勢で臨まなければ解決できないことぐらい子供だってわかっている。だが、そうさせないのは周りの環境にある。
 まず第一に、学級全体でいじめるという方法自体が、いじめを見えづらくする。全体でいじめ行為を行っているので、一人の声は届きにくくなる。また、一部がその行為をしている場合でも、普通はクラスメートは知っているが、知っているにもかかわらず、言えば自分がやられるという恐怖から言い出せずにいる。罪悪感はある。だが、他人のために、自分が犠牲になってまで、一人の人を助ける者がどれだけいるだろうか。
 よく、いじめを実際にしようがしまいが、いじめを知っていた者すべてが罪だということが言われたりする。私はこれは少々強引すぎると思う。次に自分に降りかかると思えば、誰がいじめの状況を目の当たりにして、そのことを先生などに報告できるだろうか。発生したいじめを生徒からの報告で発見し、解決しようとするのはあまりに道徳的過ぎて実戦的でなさすぎる。大切なのは、発生させないことが一番であるが、未熟な子供たちの集まりである限り問題が出てくるのは当たり前ともいえる。だから、大人が積極的に関わって、芽の段階で発見して、心に傷を残さないように手を打ってやることだと思う。

(23)
 人間ならだれでも、他人と対立したりけんかをしたりすることは当たり前である。しかし、多数の人間が、特定の一人に対して攻撃する、つまり、いじめることはあってはならないことで、「自分より弱いから」という理由でいじめるというのは人間として最低なことだと思う。いじめられた人間は、大人になってからでもずっと、その傷を心に持っていると思うし、他人に対する信頼感もなくなってしまう。いじめというのは、被害者の人生を変えてしまうものだと私は考える。
 では、いじめをなくすためにはどうしたらよいのだろうか。警察は事件が起こらないと動いてくれない、とよく耳にするし、学校の教師も「気づかなかった」と言う場合が多い。それなら、最近はカウンセリングを受ける機会も多くあるし、相談センターなどといった施設ができている。被害者はどうしても、一人で抱え込んでしまうことが多くなりがちだと思うが、まずは勇気を出して心の傷を、誰か信頼できる人に打ち明けることが大切だと思う。もちろん、被害者の家族や友達などが気づいてあげることが一番だと思うが、本人がいじめられていることを隠していれば、気づいてあげることができない可能性が高い。いじめられている子は、誰かに言えばさらにひどくなるという恐怖心と同時に、プライドや自尊心、親を苦しませたくない、といった気持ちが混じった感情になって、なかなか正直な自分を出せないものだ。
学校や社会が、いじめの問題についてもっと深刻に考えなければならない。起こってからでは遅いのだから、起こらないようにするための対策などを一人ひとりが考えるべきだと思う。そして被害者の立場の気持ちになって、サポートすることが、何より一番大切だと思う。
 いじめは子供の間だけの問題ではない。大人社会の影に違いない。そう捉えて深く考える必要があると思う。

(24)
 いじめは許される行為ではない。自分より弱い者を集団で痛めつけるなど最低の人間のやることだ。しかし、そのような最低の人間が近年急増しているのもまた事実である。いじめは強い者には逆らわず、弱い者を見下すという、人間の醜い面を鮮明に表している。
 なぜいじめはなくならないのだろうか。それは、いじめている側の人間に自覚がないからである。いじめの動機で一番多いのは、力の弱い者、動作の鈍い者を面白半分にからかうことである。「いじめているつもりはなく、ちょっとからかっていただけ」という言葉には、いじめる側の捉え方がよく表現されている。一番の問題はここにある。いじめている側はいじめをしているわけではないと思っているので、いくら、「いじめはよくないので止めよう」といってもなくならないのは当然である。いじめというのは、やられた側の心や体が傷ついた時点でいじめになる。他人をからかったりする人は、自分のしたことで相手がどういう気持ちになるかを考えてほしい。
 いじめをなくす、また減らすためには、どうしたらよいだろうか。そのためには子供たちに命の尊さや相手を思いやる心を教えなければならない。最近は屋外で遊ぶ子供も少なくなり、家族以外の人と触れ合う機会がほとんどないまま育つ子供がいる。そのため他人を思いやる心を知らない子供が多い。子供は共同生活の場で生きていくために、子供が幼い間に、共同生活のルールやマナーを教えていくことが、いじめをなくすために大切なことである。

(25)
 いじめという行為が年々深刻化し、陰湿になってきている。世間の大人たちから見れば、それほど、気になることではないかもしれないが、これは今、解決しておかなければ今後、その子供たちが大人に成った時に世の中はさらに崩れていくだろう。欠点を責め、集団で暴力を振う、物を隠す、陰口をたたく、挙げればきりがないいじめの手口。いじめる側もいじめられる側も心の闇は広がるばかりだ。
 私は、いじめの原因のひとつに表現力の欠如、コミュニケーション不足があると思う。以前テレビで、ある小学校教諭が「今の子供たちは、言葉で人に自分の気持ちを伝えることができない子が多い。いざこざが起こればすぐに暴力をふるったり、つかみ合いのケンカになってしまう」と語っていたことがあった。確かに、今はさまざまな科学が発達したことが災いして、お互いの目を見ての話し合いは少なくなっている。テレビやゲームに多くの時間が使われて、人と人との直接の触れ合いの機会は少なくなってきている。そのために人間を実感する経験が薄れて、人を思いやる気持ちが子供に育っていないのだ。
 いじめは子供たちにだけ原因があるのではないのだから、そういう土壌を作った大人たちがまず、社会の風潮に流されるのではなく、子供たちの見本となるような、思いやりの心を育てていくことが大事だと思う。例えば、学校で子供がさまざまな表現ができるような場を提供する授業を設けたり、親が子に本を読んであげてその感想を聞いてあげることによって、子供は自分の感じたり考えたりしていることが、尊重されているのだということを自覚する事ができる。これだけでも、子供は豊かな考える力と自分を表現する力がはぐくまれるはずだ。そうすれば、いじめという悪質な行動に至るまでに、いじめられている子も、いじめる子も自分の気持ちを誰かに表現することができ、前向きに解決する方法が多く出てくるだろう。
なによりも、子供たちは周りの大人を見て育っていることを忘れてはいけない。

(26)
 現在、学校教育を受けている私たちにとっていじめは身近な問題であると思う。私の通っていた中学校でも、いじめは存在していた。いじめの対象者を自殺に追い込んでしまうほど重いものではなかったが、運動が苦手な子をからかったり、無口な子やわがままな子を仲間外れにしていた。私自身も一度、仲間はずれにされたこともある。いじめというのは軽いものから重いものまでさまざまだが、いじめる側、いじめられる側のどちらにしても経験したことがある人は多いと思う。
 それではなぜいじめは起こるのか。その大きな理由は、いじめる側の人間が、思いやりを持っていないからだと思う。人を思いやるということは、自分の気持ちばかり考えるのではなく、相手の立場に立ち、相手の気持ちを考えることだ。私は小学生の時、先生に、「自分がされていやなことは、人にもしてはいけない」と教えられた。小さな子供でも十分わかるような単純なことだが、とても大切なことだと私は思う。単純だからこそ忘れがちだし、誰にでもできそうで実は難しい。すべての人間がこの言葉の通りに行動することができたら、いじめはこの世からなくなるのではないだろうか。私もこの言葉を忘れず、思いやりをもって人と接していきたい。

(27)
 いじめは単に子供の中だけで生じるものではないと思う。世の中には、「いじめ」と認識されない「大人のいじめ」が数え切れないほどある。例えば、けがをして身体障害者になった人は、よほど恵まれた環境でなければ、邪魔者として扱われ、仕事場から排除される。その人は現実を嘆くだろう。なぜなら、仕事場だけでなく、今日の日本の状況からみると、社会全体から排除されているように感じられるからだ。エレベーターのない駅、障害者を受け付けないホテル。点字ブロック上の自転車。これらはすべて弱い者に対するいじめだ。
 子供は周りの環境からすべてを学んでいく。その中で最も影響するのは、両親をはじめとする大人たちであろう。子供たちは、このような「大人のいじめ」が横行している社会を見てどう思うだろうか。その結果は、いじめが子供たちの中でも当然視されていくことになる。弱い者、自分と違う人間はとことん排除するという思考に結びつく。子供たちはまるで大人の世界を反映した小さな鏡だ。
 いじめをなくすにはどうすべきだろうか、そう腕を組んで頭を悩ます大人たちに、自分の姿をもう一度見つめ直してもらいたい。いじめは、子供の中だけの問題ではない。社会全体が心を改めることをしない限り、いじめはいつまでも絶えることはない。

(28)
 いじめという行為は大変、恐ろしいことだ。いじめられる子の心をずたずたに引き裂き、痛めつけ、どうしょうないところまで追い詰め、その環境からの解放を許さない。最近のいじめは昔からは想像もつかないほど陰湿で、残虐で、深刻である。私は、こんなにひどい行為がこの世の中に存在していいのか、と思う。大人たちは「子供の世界で起こっていることは子供だけで解決した方がよい」と言い張るが、実際そう単純なものでもない。確かに子供だけで話し合えるのに親がむやみに介入してきてことを複雑にしてしまう場合もある。しかし、親や教師が手を尽くしても解決できない難解な問題が出てきた時、それを子供たちだけに任せるのは非常に危険である。いじめられた子の心に傷を作り、また、私はいじめた子の心にも傷を作ってしまうと思う。
 いじめはどんな理由があるにせよ正当化される行為ではない。それを行ってしまった、という罪悪感が、将来、絶対に一生ついて回る。いじめられた子にも、いじめた子にも、そんな思いをさせないように、学校や保護者はいじめをさせない教育をするべきだと思う。「するな」と教えるだけでなく、させない教育環境づくりが今後、大事なポイントになっていくと思う。

(29)
 学校で過ごす時間が一番長い子供にとって、学校がいじめられる場になることは、大人が考える以上にとてもつらく、惨めだろう。実際私が通っていた学校でも、一人の友達に対して、皆で無視をするということが起こっていた。私はいじめる側にも立ったことがあるし、いじめられる側にもなったことがある。やはりいじめる側の気持ちとして、人をいじめることにより、自分が相手より偉くなった気分になれる。そしていじめている友達ととても団結できた気分になれる。しかしやっている時はそれが、どれだけばかばかしいことをしているのかは、本人にはわからないのである。自分のやっていることは正しいこと。それだけしか考えられないのだ。
私はここに大人がもっと子供に教えるべきことがあると思う。ただ学校でいじめはダメだ、人の気持ちになって考えろ、と言われても、子供は分からないと思う。私が思う一番良い方法は、やはり親から学ぶことだと思う。親が子供をどのような気持ちでここまで育ててきたのか、どれほど大切に思っているのか、そこまで戻って一から教え直す必要がある。自分に対して親がどれほど深い思いで育ててくれているのかを知ることはそのまま他人の大切さへの認識となる。そうすれば、いじめることによって他人の人間性を踏みにじり、自分が優位に立つということが、何と情けないことかと気づくことができるだろう。そしてもっと友達を尊敬しようと思うに違いない。


〖関わり度D〗
(01)
 いじめという行為は本当に卑劣で、絶対にやってはいけないことだ、と小学校や中学校で耳にタコができるぐらい言われてきた。確かにどんな理由があろうと、その子の人権を侵害することは誰人たりとも許されない。おそらく小中学生もみんなこのことを頭ではわかっているだろう。しかし、現実にはどうだろうか。昔からいじめはやってはいけないと言われてきたけれど、昔に比べていじめが減ったとは思えない。なぜいじめは無くならないのだろうか。私は、いじめる人がいじめられる人の気持ちを考えないからだと思う。また、クラス内でいじめが起きていても、それを止める勇気のある人がいないからだ。
 確かにいじめを止めさせようとすれば、次にいじめられるのは自分かもしれないと思うだろう。しかし、誰かが止めさせなければ、いじめはどんどんとエスカレートしていき、最終的には、いじめられた子が自殺や転校、登校拒否というような最悪の結末になってしまうのだ。
 いじめを止めるのは生徒だけではない。もちろん学校全体としても取り組まなければいけない。先生は、いじめをより早く発見し、何らかの対応しなければならない。といっても、その対応の仕方によって、いじめが続行してしまうこともある。そんな事がないように先生は配慮しなければいけない。生徒に二度といじめを起こさせないように、人権の大切さというものを十分に実感させるような教え方をすべきだと思う。
 人間の心は弱い。だからといって、一人を大勢でいじめるという行為はあってはならない。むしろ、一人ひとりが弱いからこそお互いに思いやり、助け合って生きていくべきだ。

(02)
 いじめ問題はいつの時代にも存在し、誰しもが、する側、される側の立場のどちらかに一度は立ったことがあるだろう。そして、いじめ問題は何回も繰り返し社会問題として捉えられてきたが、一向になくなる気配すら見せず、むしろ増える傾向にある。結果的に、いじめは解決することのできない問題として、取り挙げれば取り上げるほど無駄な努力が費やされるようにさえ感じられる。
 確かにいじめというのは、無くなるとは私も思わない。なぜなら、それは分別のついた大人たちの社会にも存在するものだからである。しかしなぜ大人たちの方は大きな問題にもならず、子供の問題ばかりが取り上げられるのだろう。自殺という最悪の結果が多いからか、いや、自殺も大人だってするし、更には悪くすれば犯罪に進むことも少なくない。大人の方も深刻な問題なのだ。
 学校では今日、いじめをなくそうとさまざまな努力をしてきている。しかし、大人がなくそうとすればするほど、子供の世界では悪い方に転がってしまう傾向がある。完全に無くすことは不可能と思えるから、減らしたり、いじめられている子を救う努力をすればいいのではないか。いじめられている方が悪いというのではないが、いじめている者ばかりを刺激し、さらに反発させるよりはいじめられている人の助けをしてやったり、少しでも逃げ道をつくってやれば自殺という最悪の事態は防げるかもしれない。そうして時間の経過を持たすようにすれば、いじめる側も、自分のしていることを反省して、いかにいじめという行為が、人間としてつまらないことであることかに気が付くのではないだろうか。

(03)
 いじめの問題が深刻になってきている。いじめというと、昔からあったものであるし、自然に出てくるようなものだと思うかもしれないが、いじめが深刻になり、自殺をしてしまう子供まで出てきている現在の状況では、放っておける問題ではなくなったと思う。そして、このいじめの中で問題なのは、いじめられて自殺してしまった子供の親や教師が、自殺という最悪の事態が起こるまで、そのいじめに気づいていなかったということが、見うけられる事だ。なぜそのようなことになるのかというと、いじめが陰湿になり、教師などに見つからないように、こっそりと行われているからだ。そして、いじめる側の規模が大きくなり、いじめられている子をかばう子もいなくなっていることがある。このようなことが、学校という特別な教育環境で起きていることが、いちばん問題だと思う。
 いじめが学校で行われている以上、教師や学校、国がいじめられている子を保護し、いじめが起こらないよう対策を講じなければならない。いじめられる側に問題があるということはなく、いじめる側に非があること、いじめは人の人権を踏みにじり、心に深い傷を残すものだということ、そして何よりいじめた側にも何かふっ切れないものが残る、ということをしっかり子供の心に残るように教えなければならない。人として、してはいけない行為だということを教師、学校が明確にし、子供たちに口先だけではなくして体で分かるように教えていくことが必要だと思う。
 いじめの被害を増やさないために、子供だけの問題だと思わず、親、学校、社会、国などすべての人々が取り組むべきだと思う。

(04)
 いじめは昔からあったはずだが、ここまで社会問題化されたことはかつてなかっただろう。いじめられている人は毎日、学校へ行くのが嫌で嫌で仕方がないだろう。しかし、親は、とにかく行け、とうるさい。  
たいていの場合、学校側や親がいじめに気づくのが遅い。学校側はまさか自分の学校にいじめがあるとは信じられないだろうし、いじめている側の親も自分のかわいい子供が人を傷つけているなんて夢にも思わないだろう。ここに大きな落とし穴がある。
 いじめはどこにでもあるのだ。誰かにいやな思いをさせたら、もうそれでいじめではないだろうか。小学校ではまだ何をしたら悪いことになるのかということが分かっていない子供がたくさんいる。そして中学、高校と育っていくなかで、ほとんどの子供は、してはいけないことを理解する。しかし、一部の者は小学生の気持ちのままで、人を傷つけても平気な状態の者がいるのだ。
高校生にもなるとほぼ、個人の人格が形成されてしまうので、いじめをする者を根本的に矯正させることは困難だろうと思う。やはり、小学校、中学校の間に、教師や親が子供としっかりと話し合う時間をもって、人間的に成長するのを手助けしなければならないと思う。
 結局は教育する側の意識の問題なのだ。身近に自殺する子供がいても、その子を取り巻く者たちが無責任な言葉や態度を言ったりしている姿には、怒りを感じる。もっと、いじめが目の前に存在しているんだという意識を持って、常に緊張して子供を見守らないといけない。手遅れになってしまったら、一生、取り返しのつかないことになるのだから。

(05)
 誰もがいじめというものを体験したことがあるだろう。もちろん、被害者だけでなく、加害者も含めての話だ。そのうちの大半の人は、加害者としてではなく、被害者にもなっているはずだ。いじめは、単に暴力という形もあるが、最も多いのは、言葉や態度によるものだ。
相手に危害を加えられる人は、そう多くはないが、言葉や態度は、その場の勢いや気持ちがあれば、すぐに参加でき証拠も残らないし、人数が多ければ何も気にしないですむ。いじめの理由が、あまりに軽いのは、この為す側の責任の希薄さから来ている。ちょっとした不満や不快感でもいじめの理由に十分になるのだ。このいじめに至るまでの過程を見ると社会問題に発展するまでに解決する道は何度もある。しかし、その指導は非常に難しい。例えば、ゴキブリのようなものなのだ。家の中で一匹のゴキブリを見つければ、十匹、百匹もゴキブリがいるような気持ちになる。いじめも一人の子がいじめていると周囲のすべての子、みんながいじめているような意識になってしまうのだ。だから、最初に悪口を言っていじめたいわば指導者と言えるような子供を厳しく注意したとしても、それと同じような子供がその他全員いるわけだから、解決にはつながらない。
 いじめとは解決が困難だ。いや、解決する手段なんてないのかもしれない。あえて言えば、もっとコミュニケーションの機会や時間を増やし、外面だけでなく、内面のもっと深くまでお互いに人間を知り合うことしか解決の道はないのではないだろうか。間接的ではなく、直接に相手と向き合い話し合い理解し合う、そういう出会いを最大限に利用することが必要だ。もともといじめは、子供たちのお互いの付き合いの浅さから生まれてきたものなんだから。

(06)
 現在、世界のいろいろな場所で、いじめは行われ傷つき泣き叫んでいる人がたくさんいる。見た目で分かる傷とは違い、心を傷つけるいじめという行為は、言うまでもなく最低である。いじめによって登校拒否になったり精神を侵されて正常でいられなくなったり、いじめを受けた人間は恐怖に迫られ、動けなくなるのだ。
 いじめを行う人間の心というのはどんなものかと何度も考えたことがある。クラスで苦しんでいる人を見て笑い、楽しみ、そしてまた何度もいじめを繰り返す。普通ではないだろう。だが、普通でない人間が今の世の中にたくさんいるのだ。ストレス発散やただの遊びでいじめを行い、その行為は時に人を死に追いやるのだ。いじめられている人々を救ったりする機関もあるにはあるが、私としては、いじめる側の人間をいじめという世界から切り離させる集団の構造を作らなければならないと思う。いじめられる人はいじめをする人をなくさない限り増える一方だろう。いじめではないつもりでも、その人が傷ついたならば、それはいじめになる。ささいなことであっても、人の心はとてもデリケートであって、傷つき苦しみに嘆くのだ。
だから、いじめというものに対処する前に、人の心というものをすべての人が学び、相手を思いやる心を身につけなければ、この先、いじめはなくならないだろう。世界中のいじめに遭っている人を一人でも多く救うために、一人でも多くのいじめている人間をその場から切り離す努力を私たち周囲の者がしなければならない。いじめに対し、皆が他人事だとは思わず、自分のことだと思い、取り組んでいくべきだと思う。

(07)
 子供の間のいじめというものは、よくもまあ、そんなに悪知恵が回るものだと思うぐらい巧妙に行われる。いじめる側の子は決して教師に見つからないように、自分がされる側に逆転しないようにとクラス全体を巻き込む。今のいじめの決まったパターンである。
どうしていじめという行動をとるのか。この理由が非常に分かりにくいと思う。なぜなら、いじめる者といじめられる者の間には、当然のようにお互いに別の考えや感情を持っている。ところが、子供の世界において、この二つの差はほとんど無いのが実際だ。それがいじめの原因になるのだから不思議である。この不思議さがいじめを解決するのに大きく邪魔をする。だからまず双方が自分の正直な心境を話さないことには何も始まらないのである。
 解決の道はなによりも早く、教師や親がいじめに気づくことである。いじめが始まると双方の子に明らかに心の変化が起きるはずである。そのわずかな変化にも周囲の大人たちは気づいてあげて欲しい。そして、その心の変化の原因がどこにあるのかを考えて欲しい。私はほとんどが身近なところにあると思う。例えば子供がいじめる側になる時には、その原因の多くは家庭の中にあるのではないかと思う。
 そこで問題に挙げられるのは親である。いじめる側の子と親は十分にコミュニケーションを取れているのだろうか。これが大きなポイントになると思う。なんといっても子供がいちばん親しみを感じ頼れるのは両親だ。また普段の様子を知っているのも両親だ。我が子がいじめをする子になっている、その変化を敏感に家庭で察知して話し合いをし、いじめに走らない心にしてやることが大事である。
 機を失せずに子供たちの周囲の大人が的確な対応をすれば、いじめはずいぶん減ると思える。

(08)
 いじめは本当に大きな問題だと思う。誰にだって欠点はあるのに、いじめる側の子の悪意のある感情を一方的に押し付けるということは不公平にもほどがある。いじめる側の子は面白半分やうっぷんばらしでも、いじめられる側の子はそれによって人生が変わってしまう。いじめられたことがトラウマで対人恐怖症になったり、引きこもったり、果ては自殺にまで至ってしまう。いじめる側の人は、事の重大さが全然わかっていないから、取るに足らない理由で相手の人生を変えてしまうことを軽い気持ちでやってしまう。
よく、「いじめられた子にも問題がある」と言うが、悪いのは圧倒的にいじめる方だと私は思う。でもいじめられる子にも問題がないわけではない。いじめに発展するまでにどうにかならなかったのか。たくさん居るクラスメートの中でその子が選ばれたことには少なからず何か理由があるだろう。それを改善しようと努力はできるはずだ。努力もせずに、相手が悪いと決めつけて自分の欠点に目を向けないのも問題ではないか。いじめられる子が悪いとまでは言わないが、少しは非があるだろう。自分が被害者だと思い込むのは、いじめの解決にはつながらない。いじめられる子は自分を見つめ直し改善する努力をし、いじめる子は事の重大さに気づいて相手の気持ちになって考えればいじめはもっと減るのではないか。一人ひとりがもっと思いやりを持てば、いじめを見て見ぬ振りをする子だっていなくなるだろうし、いじめる子もいなくなるだろう。

(09)
 いじめは年々深刻化している。昔はいたって単純ないじめ方、例えば物を隠すとかだったが、最近の子供は、どうしてそんなに悪知恵を発揮するのか、と思うくらい陰湿ないじめが多くある。
 親や先生はもっと周りに気を配るべきだと思う。いじめられている子は頼る人がいないし、親や先生に言うと告げ口されたとみなされ、もっと危害を加えられることを恐れてなかなか言い出せない。一人で悩み苦しんでいる。それなのになぜ親や先生は気づかないのだろうか。誰よりも早く、その子を産んだ親は異変に気づいてあげてほしいものだ。また、たとえ親が気づいてなくても学校という、いじめがあるその場所にいる先生は、絶対に気づくべきである。やはり先生は一番近い存在だから。
気づいても一方的に、いじめはいけない、と言うのではなくて、いじめた子の話といじめられた子の話を聞いてあげて、お互い納得のいく話し合いをしなければいけないと思う。ただ、先生だけが、あるいは親だけが片方だけに怒鳴っても解決はしない。
いじめはどんどんエスカレートしていくものだ。早く気づいてあげて早急に対処する必要がある。早く気づいてあげるためにも先生や親は子供たちともっとコミュニケーションを取るべきだ。そうすれば子供たちも心を開いて、傷が深くならないうちに解決への道が開けると思う。

(10)
 いじめとは、他人の短所を見つけ、それを自分の心の中で、相手への思いやりの気持ちで見つめることができずに、その短所を的にして言葉や行動で責めることである。
 人間というものには個性がある。また、それぞれ違った考えを持っている。こういう基本的なことから考えれば、いじめの原因は人として当然の「他の者との相違」ということから来ているのではないだろうか。人間はそれぞれ長所や短所を必ず持っている。他人の短所ばかりを見つけ、それに悪意をもって対応すれば、相手を苦しめる方向に進むのは当然である。逆に、他人の短所に目が向いても、それを自分が我慢し、その子が自分の短所を乗り越えられるように応援をしてあげれば、いじめは無くなるのではないか。だが、子供の場合、このような考え方をしない場合が多い。だからこそ、親はしっかり我が子を教育し、子供が理解できるように説明することではないだろうか。
 それができればいじめは少なくなるだろう。そして子供は他人の長所と短所を見つけ出し、短所に対して寛容の気持ちで対処し、長所については尊敬の念を身に付けるだろう。今日の世の中ではそれができない人が多い。
寛容の精神を人々が重要視しなければ、いじめはエスカレートするばかりだろう。また、自分が寛容の精神で生きなければ、子供、そのまた子供にも伝えることができない。今の人々が寛容の精神を根本にした社会を築き、その後に続く人々にも伝統的精神として受け継がれることを私は望みたい。この世からいじめで苦しむ人なくすために。

(11)
 いじめは現代の学校と子供の間で、切っても切れない関係にある重大な問題といえる。今の小中高くらいの親に言わせると、大抵、同じような言葉が聞かれる。それは「昔に比べると今の子供は陰湿だ」というような言葉だ。確かにその通りだ。今の子供は信じられないほど残虐で、陰湿な事をしてクラスメートをいじめる。実際に自殺に追い込まれた子供も多い。
 私の学校ではいじめはなかったような気がするが、友達の中には、ひどいいじめがあった学校に行っていた人もいる。まず何人かが一人の子をいじめ始め、それにさらに何人かが加わり、最後にクラス全体で一人をいじめる。そして集団でその子を無視し始める。私の友達が言っていたいじめはだいたいこのようなものであった。これは、現代のいじめの典型的な例といえるのではないだろうか。その一番の特徴は集団化であると思う。確かに昔から少なからず、いじめはあったのだろう。しかし、これほどまでに陰湿なものだっただろうか。集団で無視され、助けてくれる友達もいない、そこで親、教師が気づいてやればいいが、それもなされない時、子供は死んで楽になろうという最悪の道を選ぶのである。
 人間が存在する限り、いじめは決してなくならないと言う人もいる。私は確かにその考えは合っていると思う。人には、他人を傷つけることによって喜びを味わうという部分が少なからずある。私は、現代のいじめに立ち向かう一番良い方法は、親友を作ることだと思う。どんな時も支え合える友がいるということは、その子にとって何よりも心強く、自殺という最悪の状況を回避することにもなると思う。

(12)
 最近のいじめは昔のいじめよりもひどいものになっていると思う。最近のいじめというと、やり方が陰湿だ。誰もが見つからないようにこそこそとやり、大人たちの前では何事もなかったようにしている。だから、いじめを見つけるのが難しくなってしまう。そうすると、頼る人がおらず、いじめられている子は自分一人で抱え込んでしまうのだ。
こういった状況をなくすにはまず、子供たちにいじめについてよく知ってもらうことが必要だと思う。知ってもらっただけでは意味がないので、もしいじめられている人がいたら勇気をもって相談に乗ってあげたり、かばってあげる人が必要なのだということを教えておくべきだ。
 いじめられている人をかばうということは不安なことだと思う。もしかしたら自分も一緒にいじめられるかもしれないという不安だ。けれど、いじめられている人が悪くないならば、一人が味方につけば少しずつ正しい方に人が集まっていくものだと思う。だから、悪い方に流されるのではなく、自分の意見をしっかり持って、自己主張できることが大切だ。
 いじめ問題は本当に深刻な問題だと思う。喧嘩なら、相手と全身でぶつかることができるが、いじめは違う。いじめというのは体を傷つけるのではなく、精神を傷つけてしまうのだ。心に傷を負ったら、それがトラウマになり、立ち直れない人もいるだろう。だから、いじめという相手を傷つける行為が一刻も早くなくなってほしいと願っている。

(13)
 いじめと聞いてまず一番に思うのが、いじめた子の親はどんな教育をしているのか、ということだ。学校教育にも問題があるかもしれないが、その子が生まれた時から育てている親にも重大な責任があると思う。なぜなら無知の赤ん坊がどう育っていくかは、教育者と家庭環境に大きく影響されるからである。ずっと前に、オオカミに育てられた赤ん坊は、オオカミとして成長したという話を聞いたことがある。例えるならば、いじめる側の子供はオオカミのようなものである。両親の仲が悪く、さらに子供への愛情が欠けていて、兄弟にいじめられて心に傷を負っている。父親が母親に暴力を振るっているの目の当たりにする。このように子供がいじめに走ってしまう原因はいろいろ考えられる。
 また、親と教師の連絡が希薄になってきていることも原因のひとつになると思う。親は、子供の家での生活態度や性格などを詳しく学校へ伝える。教師は、子供の学校での生活態度や友達関係などを家庭へ伝える。それだけでも、いじめを未然に防ぎ、早期発見につながると思う。いじめの発見が早ければ早いほど、いじめが原因の自殺も減るだろう。
 いじめとは、いじめられた者の人生を大きく狂わす。人間は、喜びよりも苦しみや悲しみの方を覚えているものだ。故に、いじめられた者は、一生、いじめられたという傷を負って生きていかなければならない。やはり、いじめとは子供たちだけの問題ではなく、いじめの防止や解決、子供の人権擁護は教育者の手にかかっていると思う。

(14)
 いじめとは日本、いや、世界中の国の教育において、最も解決するのに困難な問題である。いじめは、昔に比べて多くなり、何よりいじめ方がひどくなったということである。これはもはや、学校で解決できる問題ではない。国が解決しなければならないと私は思う。
 そもそも、いじめというのはどうやって解決するのだろうか。いじめている人に、「いじめてはいけません」と言ったら、その人はいじめを止めるだろうか、いや、止めるはずがない。そんなことで解決したら、今この世の中にいじめは存在していないだろう。いじめとは、いじめられるからいじめる、というサイクルなのではないかと私は思う。自分より強い人にいじめられた人は、自分より弱い人を探していじめる。常に自分より弱い人をいじめるのである。その繰り返しが、今日のいじめの状態なのかもしれない。この状態は、変わることなく続くだろう。
 いじめとは本当に恐ろしいものであって、一時的なものではない。小学校の時にいじめに遭った人は、中学校、高校に入っても、いついじめられるか分からない、という恐怖心が奥深くに存在している。その恐怖心とは数年でなくなる問題ではない。数十年いや、一生抱えこむものなのかもしれない。大人になっても、他人と口がきけなくなったりもする。こんな大きな問題を国はいつまで野放しにしておくのか、一刻も早く、解決策を見つけてほしいと思う。

(15)
 どこからいじめになって、どこまでが喧嘩なのか。よくこの違いが問題になることがある。それは、いじめた側の子供たちと、いじめられた子供の間で大きな差が生まれるからだろう。いじめた側は、「ちょっと喧嘩になっただけだ」と言い、いじめられた側は、「いじめられた」というかもしれない。私は、いじめられた子がいじめだと感じたのなら、それはいじめなのだと思う。なぜなら、いじめられたと感じるためには、それなりの理由が必要だ。しかもいじめられたことを認めるということは、自分が人から好かれない尊大な人間だと認めることと同じことだ。そんな屈辱的なことを自分から進んで認める人なんて、ほとんどいないだろう。いじめられた子供が、いじめを感じ、それを口にして伝えてきたのなら、間違いなくそれはいじめだ。
誰にだって、みんなから好かれる自分でありたい、人から憎まれたくない、と思っている。大人でも、あの人は私を避けているのではないか、と悩む時があるだろう。人間のぶつかり合いをそれなりに体験してきた大人ですら悩んだり、ふさぎこむのに、それが子供だったら、心が壊れてしまってもおかしくはない。いじめられた子供の心が壊れてしまう前に、それを食い止めなくてはならない。それは大人の仕事なのだ。
 これ以上、いじめによる犠牲者を出さないためにも対策をしなくてはならない。子供の前で、父親が母親に命令したり、どなったりすることは、子供に弱い者いじめを教えることにつながると思う。教師の体罰と同じだ。まず大人が、子供の前での自分の行動を振り返り、反省することが解決への第一歩だと私は思う。

(16)
 いじめは昔からあったと聞いているが、現在の事態は深刻である。昔のいじめと現代のいじめは同じものではない。時代と共にいじめの状況も変化しているはずだ。対策を考える前にそれに気づくことが必要である。昔と同じ対策で現在のいじめを確実に減らせることは無理に等しいだろう。
 昔のいじめはその範囲が限られていることが多かった。一番小さな範囲のグループ内から、クラス内、学年内、最大の範囲でも学校内といった感じである。ところが、現在のいじめは広範囲である。パソコンやインターネットが普及して、今や幼稚園の児童や小学生でも使いこなせる。チャットや書き込みのウェブサイトに、今日あったことなどを日記のように、思い付いたままその時の気分で書き込む。人権を侵害するようなことを公共に広めることはどういうことかを知らない幼い子供たちは、当然誰かの悪口を書き込んだりもするだろう。その誰かがいじめの被害者であったりする。その子の顔も知らないネット上のメール友達も軽い気持ちでその悪口に加わる。面識のない人に自分の悪口を言われたらどうだろうか。悪口を書かれたその子の心には悲しさや悔しさや憎しみが傷となって刻まれていくだろう。悪口の書き込みが増えるたびに、その書き込みを人が見るたびに被害は増幅される。
 高度な情報化社会がいじめの深刻化の原因であると私は思う。いじめ防止のためにも情報機関の規制が必要だ。

(17)
私は、いじめをなくそうとしても、今の世の中ではなくすことができないのではないだろうかと思う。今、私たちの周りに人をかばうという行為ができる人がいるだろうか。私はほんの一握りの人間しかいないと思う。それではなぜ、みんな、人をかばおうとしないのだろうか。理由は簡単だ。トラブルに巻き込まれたくないからだ。もし、いじめられている子をかばったら、あとは自分がいじめられ、学校の教師や親にいろいろなことを言われたりすることが目に見えているからだ。
 いじめによって自殺した子が去年七人いたと警察庁が報告しているが、これは真っ赤なウソではないだろうか。なぜならいじめによる自殺者はもっといると思う。学校側がマスコミやテレビ局を恐れ、警察に報告せず、学校内だけで解決しているという場合があるのだ。警察も学校で、いじめがありますという報告を受けても対応しないといったケースが多数見られるのだ。私は、果たしてこんな世の中で、いじめはなくなるのかと不安に思う。いや、絶対になくならないと思う。
 いじめをなくす方法があるとすれば、一つしかないだろう。いじめている側にいじめられている側と同じことを味わわせる事だ。どれほど、いじめられるという事が、心に消えない傷を受けるものなのかということをいじめた人間本人に体験させることだ。授業で、人権を尊重しましょう、などときれい事を並べてもいっこうにいじめは減らない。今の子供の世界はもっと、ウジウジしたうっとうしいものだ。大人、教師が子供を甘く見てはいけない。

(18)
 今の社会では、いじめというものの捉えかたが、どんどん変わってきていると思う。昔のいじめは、大胆にかつ、子供らしく元気に、一対一の喧嘩の延長のような形だったと思う。そのようにすると、いじめられる側にも対抗心が芽生え、摩擦が解消すれば自然と仲良くできる。子供というものは、著しく成長していくものであるし、いじめとは言わないが、時には喧嘩したりすることで、人格を形成していくものだ。昔は、そのように、無邪気で活発な子供に育てられていたと思う。
 しかし、今は違う。太陽の下に出て、みんなで一緒に遊んだりする子供は少なく、家にひとりでこもって、テレビゲームをしたり、マンガを読んだりする子供の方が多い。その普段の生活が、子供の学校生活を変えた。いつも、家にこもったりすることで、友達とのコミュニケーションが取れなくなってきているのだ。またそれだけではなく、家に居ることでストレスをため、それを学校で発散している子もいる。そういった、個人の生活からくる、引きこもりやストレスによって、今の社会にはびこる、陰湿で残虐ないじめが生まれたと思う。
 いじめを完全になくすことはできない。しかし、この今のいじめを少しでも良い方向に改善することはできる。家族、先生、周りで子供たちを支える人たちの助けも確かにいるが、実際に、その問題に向き合っていかなければならないのは、私たち子供自身だ。強い気持ちを持って積極的に周りと向き合っていくことが、一番大切なことだと思う。

(19)
 いじめの動機は、実に身勝手なことから始まる。さまざまな動機があるにしても、それは全部、いじめられる側にとっては全く納得のいかないものである。
 どうしてそのような身勝手極まりない理由でいじめという行為になってしまうのか。それは、私は人間の弱さに根本原因があると思う。未成熟で、自分の心が弱いために、何かムシャクシャしたことがあった時、ストレスを感じて、それがいじめの動機となる。あるいは、日常生活に刺激がなく面白くないと言った時などに、自分のモヤモヤとした、はっきりしない感情、いらだちにどう対処してよいのか分からず、いじめをやって解消しようとする。いじめの相手は百パーセント自分より立場が弱いと思える人間だ。抵抗できない弱い者にうっぷんをぶつけてしまうのだ。さらに、周りの人間も弱いために、いじめはどんどん広がり、事態もひどくなっていってしまう。
 例えば、クラスの中心人物の一人がいじめを始めたとしよう。自分には、特にいじめる理由もなく、嫌ってもいないのに、中心人物がいじめているのだから、それにつきあわなくてはならない、という思いが頭の中に浮かんでくる。そうして、これといった理由もなく、いじめを始めてしまう人間がいるために、事態が悪化してしまうのだ。いじめを止められないのも弱さのせいだが、それ以前にまず、いじめをしている人間に流されない、という最低限の強さが必要だと私は思う。

(20)
 いじめというものは本当に虚しいもので、そこから何かを得るということはほとんどいないだろう。そして、ほとんどの人はただ悲しさだけが、ひどい時は生涯に渡って残ってしまう。
よく、「いじめる方も悪いけど、いじめられる方も悪い」と言うけれど、それは本当にそうなのだろうか。いじめる側の人は、だれそれの、こういうところが嫌い。だからいじめる、などと言うけれど、実際、それは話し合うことで解決できるし、いじめたところでその人の何かが変わる訳でもない。「キモい」「ムカツク」という理由でいじめるのなんかは論外だ。ルックスが少し違うだけで、まるで、人間じゃない扱いを受けるのはおかしい。それで「いじめられる方も悪い」とでもいうなら、その人の個性、あるいはその人自体の存在を否定することにもなるだろう。
 人間というものは難しい。とても複雑で、さらに人間関係なんかは複雑を通り越している。そんな人間関係の中で「いじめをなくせ」といわれると、それはとても難しいことだ。しかし、いじめを話し合うということに換えればよいということを、たくさんの子供が理解、納得できれば、何人の子の涙がこぼれ落ちずに済むだろう、と私は思う。人々がお互いに理解し合うことを積極的に進めれば、「いじめ」というものは消え去るだろう。

(21)
 いじめは近年、日本の各地で多発している。そして現在のいじめはやり方の陰湿さ、残虐さの点においても歯止めがない状態に陥っている。その結果、自殺に追い詰めてしまう場合もあり、本当に最悪な事態が起きているのだ。それではなぜいじめは起きてしまうのであろうか。いじめられる側が悪いのであろうか、それはとんでもない間違いである。どんなに他人とは違っていたり、欠点がある人間でも決していじめるなどということは許されないことである。悪いのは明らかにいじめている側だ。まず何人かが一人をいじめ始めると、なにも関係の無い者までがいじめに参加し、結果、クラス全員から一人が被害を受けるのだ。いじめには参加していないが周りで見ている者もいじめている人たちと同罪なのだと私は思う。そうして、いじめられている側は親にも言い出せず、教師にも相談できなくなり、一人で苦しんでしまうのだ。
 このような事態を防ぐには、私たちは何をすべきだろうか。やはり普段から親は子供の状態を気にかけて、教師は現在のクラスの状況がどのようなものなのかと気配りを日頃からすることが大切だと思う。そしてもし、いじめに遭っているのではないかと思える子供がいれば、教師から話しかけるように努めて、子供たちから頼りにされるような存在になるべきだ。
いじめは今後、減少していくだろうか。私は、しっかりとした効果のある対策を、子供を取り巻く周囲の人たちが取らなければ、いつまでも続くと思える。

(22)
 最近のいじめが深刻化しているのは、何が理由なのだろうか。昔から私が考えていたのは、例えば腕力の強いいじめる側の子供は、弱い子どもの思っていることがわからず、弱い子は強い子の考えが分からない、ということがあると思う。私は誰かをいじめたいとは思わないが、いじめられるのは絶対に嫌である。よく、いじめられた子供にも問題があるといわれるが、確かに原因の五%くらいは本人の性格や言動も関係しているかもしれないが、ほとんどいじめる側の問題である。
 人間は集団になると異常に自信を増す。増長するといったほうがいいかもしれない。一人が一人をいじめる、というのはあまり聞いたことはない。ニュースになるようないじめは、五~七人で一人をいじめ、他の者は皆、無関心を装うというものだ。だいたい人をいじめて楽しんでいるような子は社会人になっても周囲の人々に受け入れられるような人間にはなれないと思う。
小、中学校の頃はスポーツができた方が偉い、という不文律のようなものがある。学力差別はなんだかんだと言われるのに、なぜスポーツ差別のことは言われないのか、少々不思議である。しかし勉強と同じくスポーツも、できない子に「まじめにやれ」という押し付けは絶対にしてはいけないことである。
 いじめとは心の弱い、腕力や立場の強い人間が、両方とも弱い人間に危害を加えることである。いじめる者の心が弱い、というのは不思議に思うかもしれないが、実際のところ、弱いからいじめを通して自分の心を慰めるしかないのである。ほんとうに強い心の持ち主はいじめなどする訳がない。確かに勉強もスポーツもできなく、弱気な子をみると私でも少し見下すような心を持ってしまったこともあるが、いじめようとは思わない。普通の精神の持ち主ならいじめに至らないのが当たり前である。
心の教育だとか、命の大切さを教えるとか、大げさなことを言う前に、まず常識的な心の状態に保つことを教えた方がよいのではないだろうか。

(23)
 いじめはなぜ起こるのだろうか。そう考えた時に私がたどりつく結論は「ストレス解消」であるように思う。「つまらない学校生活を楽しく過ごすために」という理由でいじめは起こっている。
 あまり成績が良くないこと、動くのが早くないこと、身体的に欠点があることなど、悪い意味で特別視されてしまう子は学校にはたくさん居る。そういった、クラスで「浮く」人が、ストレス解消の道具にされてしまうのである。子供は自立がまだできずにいるので、孤独を恐れる。そして友達と群れて、抵抗できなさそうな誰かを狙っていじめる。この誰かは、実はだれでも構わない。自分よりも弱くて、いじめられている状況を打開できない人間をいじめることによって、子供は優越感を得たいだけなのである。
 いじめられる側にも原因があるということもいわれるが、私はそれにも一理はあると思う。しかし、それはいじめてもよい大義名分ではなく、あくまでも特質である。成績が良くないとか、体育が苦手だとか、給食を食べるのが遅いとか、背が低いとか、太っているとか、他人と異なる性質が、いじめてもよい理由になる訳がない。そんな特質を持っているからといって、だれもそれをいじめるという形で指摘してはならない。
 幼ければ幼いほど、子供は純粋で、それゆえに残虐である。小学校のいじめの現状を私は知らないが、私も含めた現代の子供には、他人の心を考える力が欠けていて、またそれを授業で教えられる機会は増えても、実感する機会が減っている。観念的な人権教育よりも、心を豊かにする人間教育が必要である。

(24)
 いじめは昔からあっただろう。しかし、必ずかばってくれる友達や、年長の子がいたはずだし、先生たちも見逃さなかったはずだ。現代のいじめは誰もかばう子がおらず、気づいてもらえない、という状況が増えているようだ。そのうえ、手口も陰湿で残虐である。原因のひとつはストレスだと私は思う。ストレスがたまると人はイライラするものだ。子供たちも同じなのだろう。そこに、例えば、自分よりも力が弱かったり、運動が苦手な子がいて、いじめてしまう。それが習慣的になり、先生も気づかなくて、周囲も止めず、さらに、いじめに加わる者も出てきてしまう。そして、より刺激を求めてエスカレートしてしまう。
深刻な状態になるまでに、どうして周囲の子が先生に言うなり、止めに入ったりしないのか。それは大抵、いじめの主犯の子が怖いからだ。また、自分もストレスがたまっていることもあるので、その解消方法が見られるのは悪い気分はしないだろう。自分のなかではいじめは悪いことだと理解してはいるが、それを他人がやるのであれば自分に責任が来ないので安心して見ていられる。止めに入って自分まで火の粉が飛んできたり、自分までいじめられたら、困るという気持ちから止められないのだろう。先生も多忙で特に小学校の先生などは、自分ひとりでいろいろな授業をこなさなければならず、準備に時間を取られると、クラスの中で起こる出来事に気がつかない。
 対策としては、教員を増やして、生徒と触れ合うゆとりを持たせたりして、生徒が先生に相談できる時間を持つことである。または、子供のストレスとどう向き合っていくのかを学校中や保護者、また子供自身と話し合ってみるのも良いと思う。

(25)
 いじめをなくすことはできるのだろうか。まだ精神的に幼い小学生に、いじめるという行為の本当の意味での残酷さを分からせるのは難しい。私もあの頃は分からなかった。いじめる理由は、そんなに大したことではない。いじめる側は、軽い気持ちでやっていることでもいじめられる側にしたら、自分の人生が変わるほど大きなことになる場合もある。そこをまず理解しなければいけない。されたらイヤなことは他人にしないという当たり前のことをもう一度考えることが大切だ。そして、いじめでは何も解決できないことに早く気づくことが大切だ。いじめには何の意味もない。たとえ、いじめられる側に問題があったとしても、いじめるという行為ではなく、もっと別の方法で直してあげるべきだ。
 いじめは大人が見ていないところで始まる。それを見つけることはとても困難だ。見つけられたとしても、それはもう、いじめられてから時間がたってからだ。その時点で助けようとするのでは遅い。いかに子供たちの中で陰湿に行われているいじめを早く見つけることができるかが重要になる。いじめられている子が気軽に相談できる人を子供たちの側に置くこと。そして、いじめる子の心の闇を取り除いてあげること。これらのことが問題解決への大きな課題であり、社会全体で考えていかなければならないことだと思う。

(26)
 いじめはどこの学校でも必ずある。数人の間だけの小規模なものから、クラス全員といった大規模なものまでさまざまだが、いじめを見たことがない、という人はめったにいないだろう。
 ではなぜ、いじめるのだろうか。面白半分やうっぷんばらしといった利己的な理由によるものが多い。いじめられた子はそんな理由で訳も分からずいじめられ、どうしょうもなく悩み苦しみ続けている。教師や親は、「いじめられる方も悪い」などと言っておらずに、子供が相談しやすい環境作りや、しっかりとした対処をすべきである。どんな理由であれ、いじめるという行為は決して許されるものではない。
 また、いじめる側の子を取り巻いている環境にも問題があるのではないだろうか。最近、「キレる子」が増えたといわれているのと同じように、いじめる側の子自身も何らかの問題を抱えているのではないだろうか。昔いじめられていた子が、いじめをする。本当はいじめたくないと思っているのにいじめてしまう。そういったいじめる側の問題を解決することもいじめを減らす大きな要因になるのではないかと思う。そのためにも、やはり、教師や親といった身近な大人たちが子供の相談に乗ってあげることがいちばん重要になると思う。

 (27)
いじめの一番の原因は、自覚の無さにあると思う。いじめが悪いことだということは、幼稚園児でも知っている。私自身、小中学校で何度もいじめはいけないことだと教えこまれてきた。しかし、いじめはなくならない。常にどこかの教室で起こっている。何度か、いじめの現場を見てきて、一つ思ったことは、自覚の無さである。いじめをする側は自分たちがやっていることをいじめだとは認識していない。もしくは対象になっている子を自分と同じ人間とは考えていないのだ。いじめではなく冗談だから、あの子は自分たちとは違うから、何をしてもいい、と考えている。
 中学校でいじめについてのビデオを見て、その感想文を書くという授業があった。出来のいい生徒は教室の前に出てその感想を読んだのだが、「いじめは絶対にいけないと思います」と発表していたのは明らかにいじめをしていた子だった。その子はいじめたつもりではなかったのだろう。「ちょっとグループで悪口を言ったり、面白半分にものを隠してみたりするぐらいで、本に載っているようなひどい事なんてしたことはありません」というような表現をする。
 教師が首を突っ込むと余計にこじれるのが、いじめの大きな特徴である。教師は生徒のほんの一部しか知らない。しかし教師として問題を解決しなければならない。だから、当人同士を仲直りさせようとして、事態はますます混乱する場合が多い。多分、一番いい方法は、生徒一人一人に、いじめを放っておかない、という強い意志を全生徒に持たせることである。生徒は常に教師を見定めている。甘いのか厳しいのか、減点するのか、口だけなのか、子供たちをよく見ているのかいないのか。
 学校という閉ざされた社会に入れば、大部分の子供は必死に自分を保護してくれる仲間を探す。そこで、落ちこぼれた子供、はみ出した子供がいじめに遭う。学校に来る限り、いやな子にも毎日会う。離れられないからますます嫌いになっていく。そこで折り合いをつけなければいじめが始まっていく。生徒に他の生徒とどのように折り合いをつけたらよいのか、人間の付き合いの仕方を教えれば、いじめはずいぶん減るだろう。

(28)
 私は、いじめについて、とても気にかかることがある。一つはなぜいじめが発生するのか。もう一つは、なぜいじめをする人は、平気でいられるのか。この二つである。
一つ目の、なぜいじめが発生するのかということだが、幸い私はいじめにあったことはないから、こんなことが言えるのかもしれないが、実際のところ、同じクラスメートがどうして、いじめ状態になっていくのか信じられない。小・中学校でも、いじめについて授業を受けたが、印象に残る言葉は「自分がされていやなことは、他人にはするな」である。まったくその通りと思う。親にもこのことは嫌になるくらい言われていたので忘れられない。私は、今までに何人か、いじめをされているのを見たことがあるが、それはたいてい、仲の良い友達同士だった。仲が良いのになぜ、そんなことが起こるのかいまだにわからない。
二つ目になぜいじめをする人は、平気でいられるのか、ということについてだが、どんな思いでいじめをしているのだろうと不思議に思う。いじめをしている側は、単純に遊び半分でしているのだろうか。もしそうだとすれば、本当にいじめている子の気が知れない。いじめをされたことによって、自殺とかにつながる可能性だってあるのが分からないのだろうか。大きな事件になれば、取り返しがつかなくなる。こんな単純な、それでいて深刻な状況が理解できないのか、とあきれるしかない。

(29)
 私は、いじめにはいじめられる側の人間に原因があるとは思わない。いじめとは完全にいじめる側に問題がある。
 いじめとは例えば、仲間はずれにしたりとか、みんなで一人の人間に悪口を言ったり、集団で無視したりと、いじめにもたくさんの種類があると思う。しかし、これらのすべてのいじめというのは、集団で同じ考えでいたいという思いや、自分が逆にいじめられてしまうのを避けたいと思う気持ちが原因で行ってしまうのだと思う。だから、いじめられる側には全く問題はなく、いじめる側の人間の幼い心が原因だ。だから、私は親や教師が、いじめられる側にも問題があるという考え方には納得できない。最悪の場合には、自殺という結末まで追い込んでいるのに、いじめられる側の人間も悪いと主張する人の気が知れない。
 このような、最悪の結末を導かないようにするには、まず、大人が子供たちに注意深く目をやることが大切だ。ぜひ子供たちの心の変化や日々の状況に気がついてあげるべきだ。これから大切になるのは、いじめに遭っている子供たちが、どのように解決していけるかを相談できるような環境を大人が整えていく必要があるだろう。そのように大人から、いじめに対して真剣に考えていくことによって、子供は大人を信頼し、相談もしやすくなる。なによりも大切なことは、子供と大人の信頼関係である。これがなければ、様々な策や方法を行ったとしても結局、また、形を変えていじめが発生するだろう。いじめ防止のためには、大人と子供が一緒に手を取り合って生きていくんだという暖かい心が必要である。