大和田光也全集第29
『いじめを知る・生徒の実感より』【下】


〖関わり度E〗
(01)
 どんな世代、どんな地域でも、いじめは絶えず起こっている。テレビや新聞でもよく取り上げられる話題のひとつである。誰もがよく知っている問題であるはずだ。しかし、それにもかかわらず、いじめをやめさせようと熱心に活動する学校は指で数えられるほどではないのだろうか。私が通った学校の体験からも言えるし、他の学校の友達から聞いた状況でも、そう言える。
 いじめられる子に問題がある、ということを否定する人が多数であると思う。しかし私はそうは思わない時がある。例えば、A子がB男を好きだが、なかなか行動に出せなくて、その悩みをずっとC子に相談してきた。一生懸命話を聞いてくれていたC子のことをA子は本当に信頼していたが、ある日、A子は別の友達からC子もB男が好きで、実はC子はB男にA子の悪口を言って、逆に自分が仲良くなろうとしていたことを知った。その日以来、A子はC子が大嫌いになり、時には無視したりしていた。
 これは一般的ないじめとは違うが、それに近いものである。何かすごく誰かを傷つけた人は、それに相当するしっぺ返しがやってくるはずだ。原因も知らずに一方的にいじめる方が悪いと決めつけるのは考えものである。もちろんドラマのような体罰的ないじめはよくないが、人間なんだから、たまにはそのようなこともあるのではないかと思う。
今、この問題が注目されているが、昔はいじめはなかったのかというと、そんなことはない。何にでもデリケートな今の世の中であるから、すぐいじめとみなされたりしてしまう。昔のように自由にしておけば、子供も自然と自分たちだけで解決しようという気になるのではないだろうか。

(02)
 いじめの対象になる子は、主に皆との協調性がない子や、内面的には明るい性格だが、それを外面的に表現できない子が多いと私は思う。こういった子供たちは当然、決して悪くはない。これは一種の特質や性格だといえるものだからだ。よく、このような理不尽な理由のために一方的にいじめに遭っているように言われることがあるが、実際にはそうとも限らない状況が多くある。例えば、A君という子がいて、この子は非常に明るい性格で皆とも強調できる。逆にB君という子がいて、この子はあまり明るい性格ではなく、他の子たちと自分から進んで話さない性格だとする。
 ある日、遠足の班を決める時、B君だけがひとり残ってしまったとする。すると、A君がB君に話しかけ、早く班を決めるように言う。だが、B君はあまり他の子と話さないので黙ってしまって、A君との関係が悪くなってしまう。これは、B君の方にも悪いところがあると私は思う。まず、日頃からベラベラと話さなくてもよいが、遠足などの行事の日に何かを決めることがあれば、最低限のことは他の子供たちと話をしなければいけないと思う。次に誰も声をかけてくれなかったりして、ひとり残ってしまったというのは、これは一種のいじめだろう。しかし、ここではA君という子から話しかけられているのに、B君は性格上、黙ってしまっている。このことだけを考えてみると、必ずしもB君が正しいとは思えない。
 いじめとはいじめる方が圧倒的に悪いが、いじめられる方にも少なからず悪い部分があると私は思う。

(03)
 いじめは悪、ということに反論の余地はないが、その悪というのが、いじめの加害者と断言することについては少し疑問がある。もちろん私も、いじめなどはあってはならないことだと思うし、加害者に問題があるというのは分かる。しかし、一番の悪はもっと他のものなのだ。
 まず、いじめをする『事』は悪である。だが、そのいじめをしている『者』については、悪とは言い切れない。いじめの加害者にも、いろいろな種類があり、面白半分に、とか、ストレス解消、などの理由でいじめを行う者たちもいる。これはまさに悪といって問題はない。だが、いじめをすることを、今までの仕返しとしてやっている者もいるのだ。今まで、その子がいじめの被害者だったのだ。それが仕返しとして加害者になったわけだ。もちろん「目には目を」といった理屈に賛同できないが、完全な悪と決めつけるのもどうかと思う。他にも、受け取り方の違い、というケースもある。私の経験から例を挙げると、誰かが何も考えずに先に出発をしたことを、その友人が「置き去りにされた」と受け取ったとすれば、先に出発した人にまったく悪意はないのに、友人は嫌がらせを受けたと捉えたのだ。こんなパターンが、いじめの発端になったということも実際にはある。
 つまり、いじめの問題においては、被害者も加害者も、紙一重の違いであるような気がする。どこかにボタンの掛け違いがあったのだ。だから、いじめの解決のためには、子供たち同士が意思疎通が不完全であるという『悪』こそなくさなければならないのである。

(04)
 いじめはなくならない。いくら学校で、いじめに関する授業をやったとしても、いじめを否定するポスターを見ても。人間というものは、自分より身分の低い人間を作ろうとする。それを見下すことで安心感を得ようとする。種族保存本能において、より優れた異性を手に入れようと他のものを蹴落として頂点に立とうとする。子孫を残すのは自分だという立場を確立しようとする。いじめとは本能的なものだ。人間がまだサルだった頃、生き残るため、子孫を残すために身につけた術だ。それを、止めろと言われただけで直るわけがない。
 それじゃあどうすればよいのか。それは、自分がいじめられないような人間になることだ。いじめのターゲットにされる人間、それは人に嫌われるようなことをする。または周囲の気にさわるようなことを平気で言う人間だ。そうすると、いじめられないためには嫌われなければいいのだ。世渡り上手になるしかないのである。いつの時代だって、要領のいい人間が生き残る。
 いじめを肯定するわけではない。いじめは絶対にしてはいけないことだ。そんなことは誰でもよく知っている。それが、動物的本能に負けてしまって、人間として、してはいけないことをやってしまう。だから、いじめをなくすためには、動物的本能に、人間的理性が打ち勝つことが必要だ。そんな人間になるような教育をする必要がある。そのための環境、学校、家庭を徹底して作り上げることがいじめをなくす一番の近道だと思う。

(05)
 まず、いじめにはある意味において生物学的なものを感じさせる。ただし、生物的な本能だから仕方ない、という意味ではなくて、本来の形が大いにゆがめられた、まさに獣のような残虐性となってしまっているのだ。野生動物たちは、弱い仲間を犠牲にしてしまう。自分の親を見失ったアザラシは、他の成獣たちに攻撃され、衰弱して死んでしまう。サルであったか、ライオンのたぐいだったか、リーダーの雄が倒された場合は、倒した新しいリーダーが以前のリーダーの子供たちを皆殺しにしてしまう。自分以外の遺伝子を認めないのは、獣どころか、昆虫のレベルでも同じだ。そして、群れにおいては、必ず誰が上位につくかで争いが起こる。皆が自分の強さを証明しようとする。そして、こうして強い自分の子孫を残すことで、弱い者は死ぬことになり、種の保存と進化がなされるのだ。ダーウィンの進化論である。
 つまりは、人間もまた、種の保存と進化の本能を持っている。同じような者たちが集まり、群れをつくり、異分子を拒もうとする。小さく言えば、仲良しのグループ、大きく見れば異星人が来れば地球は一致団結する、という発想も、同じ者同士で団結する理屈だ。そして人間は他の動物と違い、言語能力を得て数多くの群れの一部ではなく、唯一のお互いに複雑な意思疎通ができる群れに至った。文明は動物界と違い、肉体的に弱い者にも人間の計り知れない精神を見出し、生存を可能にした。それが人間の自然の不思議さだ。人間は本能的に優れることを求める。肉体的にも精神的にも、己の高め方を探している子供が、いじめの本能を演じるのだろう。大人は子供に違う形の、己の高め方法を教えなければならないだろう。

(06)
 いじめはどうして発生するのか考えてみた。私は幸い、いじめの少ない環境で育ってきた。いじめたこともいじめられたこともないので、いじめの実態があまりよくわからない。ただ、良いことではないのは確かだ。いじめに発展していく理由なんて、ほんのささいなことだと思う。周りと何かが違っていたり、癖や性格、そういったことが原因で発展していくのが大半ではないだろうか。だとしたら、明らかにいじめは人権侵害だ。
 もともと、人は誰ひとりとして同じ人など存在しない。みんな違っている。それが当たり前のことなのに、自分の憂さ晴らしのために人をいじめるなんて、人として間違っている。お互いの個性を尊重し合うことが必要だ。
 やはり、こういった優れた人格を形成していく基盤となるのは、小学生の頃ではないだろうか。小学校低学年の時から教師が一人一人と向き合って、人権問題に取り組めば、必ず生徒には個性を尊重し合う心が芽生えると私は思う。それに、いじめが発生するのも学校だから、学校側がなんとかしなければいけないのは当然である。子供のすてきな、今と将来のために、大人がしっかり子供と向き合わなければならないと思う。少しずつでもいいからいじめを確実に減らす方策を真剣に考える必要がある。

(07)
 ノーマナーは、環境から誘発されるという。ある治安の非常に悪い非行、暴力だらけの町で、その町の壊れた窓ガラスを全て修理し、壁の落書きを消し、美しく整備された状態にしたところ、その街での犯罪は大きく減り、市民の心は穏やかになった、という事例がある。要するに人の集団心理は、周囲の状態、雰囲気から判断し、流されやすくなっているのだ。例えば、授業中、一人の生徒の話し声が聞こえているだけでも、それを耳にした別の生徒たちは勝手に、今自分が話しても問題はないと感じ、安心して心が緩み、同じように話し出す。さらに、数人がしゃべり合い、リラックスしていることを感じれば、そこからどんどんと気が緩んで行き、授業を無視して自分のしたいことをしたり、眠ったりし始めることだろう。
 このように他人との相乗効果で、人のモラルへの関心は増減する。この例での一番の原因は、初めにしゃべり出した生徒ではない。初めに止めなかった教師の方だ。いったん止め損なうと、止めるタイミングを逃し、注意しにくくなってしまううえ、膨れ上がっただらける心はなかなか収まりがたい。
 ちょっとした兆候や小さな悪事につながることを見逃さずにしっかりと制止することで、意識は変わってくるのである。たいしたことではないから、その程度のことでいろいろ注意しなくていいから、といって関わりたくない他の生徒、教師、さらにはいじめられている本人も相手を止めようとする行動をしないところに問題を大きくする原因がある。
 面倒くさがらずに、怖がらずに、少しでもいじめにつながるようなことがあったら、早いうちに注意してやめさせる必要がある。少々厳しい位に対処することが、いじめをしてはいけないという意識を全員に持たせる環境づくりになっていくのである。

(08)
 私は、いじめなどという言葉とは、まったく無縁の世界で生きてきた。正直、なぜいじめが起こるのかは理解できない。そのためか、いじめに対してある程度、客観的な見方を持っている。私の考えは、いじめられる側より、いじめる側の方が圧倒的に悪いということである。
 原因は本人ではなく、その背景、つまり本人の家庭環境にあると思う。私の場合、時間さえあれば休むことなく、その日あったあらゆる出来事を親なり、友達なり、知っている人ならば誰にでも話す。この「話す」という行動が重要だと思う。せっかく面白いことがあったのに、だれにも話せずに終わってしまうと、非常につまらないし、すごくストレスがたまる。これはあくまでも推察だが、いじめの加害者は自分の正直な気持ちを信頼する人に「話す」場が持てない状態が続いてストレスがたまり、学校で起こった何気ない出来事がきっかけで、いじめに発展するのではないかと思っている。簡潔にいうと、寂しがり屋だ。誰にも相手にされない寂しさから、人目を集めたくて、そういう行動をしてしまうのである。だからこそ、親の責任は重大だと私は思う。
 人との違いを認め合うこと。これさえ分かっていれば、いじめや戦争は起こらない。国語の教科書にこのように書いてあった。確かにその通りだ。いじめの加害者たちも理解していることだろう。彼らは頭では理解していても、行動に移せない不器用な人間ばかりだ。彼らはいつでも救いの手を求めている。それを受け取るか、受け取らないか、周りにいる私たちの行動ひとつで、加害者や被害者の運命が決まるといっても過言ではないのだ。すべては周りにいる私たちにかかっている。

(09)
 いじめが起こると、だれが最初に気づき対処するだろうか。私たち生徒ではないかと思う。
 テレビでよく聞く言葉は、「先生なんだから、しっかりとしてくださいよ」などという先生への抗議の声である。しかし、私は子供の間でのいじめに、最初から先生が入れば悪化すると思う。生徒内で起こったいじめに、部外者の先生が入れば、ことを荒立ててしまう。必ず、誰かがチクったと言われるだろう。それでは、クラス全体がいじめの状態にある時、だれが助けることができるであろうか。きれいごとになるかもしれないが、勇気のある子が一言何かを言えば変わるのではないか。
 もともと、いじめの原因は何か。親からの体罰の腹いせや、ささいな喧嘩などいろいろある。しかし、単に、「キモイ」と言われていじめられる場合も多いのではないだろうか。「キモイ」は「気持ち悪い」の略語で、人を見ただけで「キモイ」とは失礼だと思う。冗談で言っていたつもりが、使い過ぎると、本気へと変わってしまう。それを言われ続けた子供は、どんどん自己評価を悪くしてしまい、思い詰めて、暗く何も言えない性格になり、さらに、いじめの対象となっていくのではないか。
 いじめがどのような結果をもたらすか、いじめている側は全く予想もできない。大したことではない、と思っている。そして、いくらいじめても相手は公な事件にはできないだろうと高をくくっている。このいじめる側の心のあり方を異常だと気付かせ、変えさせれば、ずいぶん、いじめはなくなるだろうと思う。

(10)
 いじめがあったり、問題が起こると親から発せられる言葉は大概、「学校はどんな教育を子供にして来ているのだ」「学校がしっかりしないから、非行する子が増えるのだ」といった、学校の教師に対する非難である。いじめが起こる原因としては環境が第一の要因として言えるではないかと思う。そういった問題の「場」となってしまった学校はもちろん、家庭も「場」の一つだろう。親は、「学校を信用して、子供を通わせている」と言う。しかし学校はあくまでも「学習の場」であり、しつけは家庭でするものではないだろうか。子供は親の鏡と言い、子供を見れば親がわかるという。
 いじめをしている子供の親は大抵が、「うちの子に限ってそんなことはない」と言う。いかに我が子のことを見ていないかが分る。子供とはいじめを面白半分ですることが多く、悪いと思っていないのだ。そういう意味では、我が子は悪くないと見る親と同じである。そういった子供の親は自分の子供の良いところしか見えず、悪いことを責めないのだ。
昔のいじめは、体でぶつかるようなはっきりしたものだった。最近の子供は頭が良く、ずる賢い。親と教師と世間にバレない方法ならばよいと思い、人を傷つけることを何とも思っていない。それは過保護が進むことによって、親に守られて、「傷つけられることの痛み」を知らない子供が多くなっているからである。傷みを知らない子供ほど怖いものはない。「バレたら謝ればよい」。人の心の傷は、謝られたくらいで治るものではない。いじめをなくすには、そういった考えを持つ子供を正し、親を正す、といった対策をしなければならないだろう。言葉で言うのは簡単だ。しかし行動に移さなければいじめがなくなることはない。

(11)
 私は基本的に人や物事に無関心で、いじめについても身近な体験談もない。悪口の言い合いや喧嘩は小学校三年生までは男女関係なくしていた。陰湿さなどは全くなかった。正々堂々と喧嘩をしていた。
 いじめる側の一人一人にしっかりとした良心、良識が備わっていれば何の問題も起こらない。いじめ問題の本質はこれに尽きる。はっきり言って、いじめられる子に問題があるだとか、あの子がやったから私もやらないといけなくなったとか、あるいは、うっぷんばらしとしてやったとか、いろいろ理由をあげるが、ただ単に、いじめる側の者に良心、良識のかけらもないところから起こることだ。いじめる側の人間はいじめという行為を行うことによって、自分には良心、良識がありませんということを表明しているだけなのだ。人をいじめて傷つけることにより、自らを下劣なものにしているということの方を周りが教えることが一番の防止ではないだろうか。
他人の人権を無視すればそれは自分の人権もいらないと言っていると見なすべきではないのか。どんな原因があろうとも、子供だろうが大人だろうが、罪は罪として償うべきである。いじめた人間は全員、公のすべての書類に、「私はいじめをしていました」と書くことを義務づけるくらいのことをしたらどうだろう。そうでもしないと正直、いじめはなくならないと思う。いじめることで自分のストレスが発散できるとかは、そんなことは釣り合わないくらい重いリスクにすれば半分ぐらいは減ると思う。他人の人権を尊重することが、自分の人権を確立するのだということをすべての人が意識することがいじめをなくすことにつながると思う。

(12)
 私は今まで生きてきた中で、いじめというものを経験したことはない。友達に裏切られたりはしたけれど、自殺を考えるほどのものではなかった。だが、裏切られた時はすごく苦しかったし、学校にも行きたくなかった。いじめはもっとつらく苦しいものだと思う。
 いじめられる原因がその本人には無いとは全く言えないと思う。性格が悪くて、友達に嫌われ、いじめられるという人は多いのではないだろうか。性格が悪いと自分では気づかないことがあると思う。いじめになるまで深刻化する前に、どうして言ってあげないのだろう。どんな人にも欠点はあるし、良いところもある。それを教える授業や学校の雰囲気をもっと考え、作っていくべきだと思う。学校とは、勉強する場所でもあるが、友達をつくり、信頼関係をつくり、協力性を養うところであると私は思う。いじめが起こることで、学校が存在する意義が分からなくなってしまう。教師は、問題が起こってからどうしょうと考えるのではなく、もっと日常的に生徒と深く関わるべきだ。
 いじめとはいつの時代からあるのだろうか。昔から続いているということは、人間の精神はそれほど昔と変わっていないような気がする。昔より悪質になっているのではないだろうか。便利になり、物が増え、何でもすぐ手に入るこの世の中、この世の中からいじめをなくすことはできるのだろうか。いつの日か、学校に通わず家でコンピューターで授業を受ける日がくるかもしれない。いじめはなくなるかもしれないが、私は友達と触れ合いのないのは嫌である。学校に拒絶感や嫌悪感を抱く人を少しでも減らせるよう、世の中全体が考えていくべきだ。

(13)
 私は今までいじめと呼ばれるほどの悪質ないじめを見たことはないが、一回きりの軽いいたずら程度のいじめは小学生の頃に何度か見たことがある。
 その時にいじめのターゲットとなっていたのは、たいてい自己中心的だといわれている子や、容姿があまり良くないといわれている子たちだった。いじめる側の子は自分の気にいらない者を排除しようとしてそのような子たちをいじめていたと思われる。いじめたのは悪いがいじめられる子にも問題がある、という言葉を聞くことがある。しかし、いじめられる子が持っている性格や容姿というのは、その子の個性である。たとえ良い個性でも悪い個性でも、個性を否定するということは人権を否定することであり、決して許されないことである。 人間は、どうしても自分の気にいらない者や自分と異なる者を排除しようとする傾向がある。それを乗り越えさせる心の教育が大切だ。
いじめは大人たちの知らないところでひっそりと行われる。だから未然に防ぐことが非常に難しくなっている。それだけに、いじめがエスカレートして取り返しのつかないことになる前に食い止めることが大切である。いじめられる子は、誰かに迷惑をかけたくない、大人にいじめのことを話したらいじめがもっとひどくなるという理由で、だれにも話せずに一人で抱え込んでしまう。まずは、生徒が教師に何でも話せるような雰囲気を作ることが大事だと思う。そうすることによって、いじめの早期発見につながり、取り返しのつかないことになることを防ぐことができる。いじめを無くす第一は、人と人との信頼関係を築く事から始めなければならない。

(14)
 私は今までの小中高校でいじめという深刻な問題に出会ったことはない。もちろん私もいじめに合ったことはない。だから私の思ういじめはドラマであるようないじめだ。しかし本当にいじめはなかったのだろうか。今考えてみればいじめはあったのかもしれない。ある子をみんな嫌っていた。私も友達もみんなその子のことを「キモイ」という対象でしか見ていなかった。このことは軽く考えていたが重要なことではないのかと思える。それは「いじめたのは悪いが、いじめられた子にも問題がある」ということに自分で賛成していたような気がする。
私は、いじめられる子にも少しは問題があると思っていた。いじめられるべき欠点があると思っていたのだ。しかしよく考えれば、欠点があるというだけでいじめられるというのはおかしな話である。欠点もその子の個性だと思うから。私や友達はその子の個性を否定していたのだ。私は無意識のうちにいじめの加担をしていたのだと思った。
 どうすればいじめがなくなるのだろうか。私は人間一人ひとりが他人の個性を尊重すべきことが大切だと思う。もちろん、相手の個性を尊重するだけで、いじめがゼロになるとは限らない。しかし、相手の個性を尊重することで、同時に、自分の個性も見詰められるように心の成長を遂げさせ、人間的に優れてくれば、いじめ現象はずいぶん減るだろう。そうして相手への思いやりの気持ちが強くなれば、いじめ問題にも、相手の立場になって考えることができるようになる。そして、相手を尊重する心がみんなの心に芽生えたならば、いじめはなくなるだろうと思う。

(15)
 いじめが起こる原因のひとつに、教師の体罰の横行があると思う。もともと子供は、教師からさまざまなものを得るために学校へ行っているのに、教師はその与えるものの中に体罰が加わってしまったために、子供にもそれが伝わり、いじめという形で再現されてしまっているのだと思う。教師に対して生徒は、ほとんどが弱者の立場にいる。教師が弱者である生徒に体罰を加え、それを見て今度は生徒たちが自分たちの中に弱者を作り、いじめをしている。そして教師がそれを見て注意したり悩んだり、果ては社会問題にもなっている。このサイクルを考えると教師の行動にいじめを助長する部分があることが分かる。確かに体罰を加えて指導しなければならないほどの生徒もいるかもしれないが、もっと前の段階で正しい指導ができなかったのかと思う。
一世代前で通用したことが今も通用するとは限らない。世代交代をした現代では家庭での教育の仕方も子供の環境も変わっていることを頭に置いて対策を考えてほしい。
 いじめの根本は教師にあるのではと言ったが、当然、生徒のなかにも問題はある。生徒達の話題に出てきそうなテレビや漫画の内容から、いじめを助長するようなものを見て、流行のような形でいじめが行われているようにも思える。生徒を取り巻く環境を、教師に限らず、現代のあらゆるメディアにも気を配って、根本的にいじめの元になるものをなくさないと、いじめは終わらないだろう。これらのすべては大人が作り出したものだという事をしっかりと社会は受け止めなければならないと思う。

(16)
 私はいつも、いじめという言葉について考えている。なぜ、人は人をいじめるのだろう。自分にとって、不都合なことがあったからか、それとも、ただ、おもしろいだけなのだろうか。そんな理由で人をいじめるのかと思うと、変な言い方になるが、そもそもいじめという言葉自体、存在することがおかしいのだ。
 私たち、人間は、幸か不幸か、思考能力を与えられた。生きている以上、何も考えないわけにはいかない。うれしいことを言われれば、それが表現され、いやなことを言われれば、それを表現する。しかし、それが、あまりにも度が過ぎてしまうとだめである。
地球に住んでいるのは、自分ひとりではないので、周りのことも考えなければならない。自分がやりたいからする。嫌だからしない。これでは人間社会は成り立たない。我慢というものが必要だ。いじめという行為は、自己中心的な我慢を知らない行為である。そして、また、自分ひとりでは何もできないという不安から、他人までをも巻き込む、卑怯な行為だ。
その巻き込まれた人にも問題がある。もし自分がいじめられる番になったらどうしょう、という不安から一緒になって人をいじめる。不安があるのは仕方がないが、やられている相手はどんな気持ちでいるか、それを考えたことがあるのだろうか。いや、ないからできるのだろう。
いじめの解決方法というのは非常に難しい。なぜかというと、他人ごとのように考えられているからだ。いじめはそんな簡単な問題ではない。とても深刻だ。人々の考えを変えていくことが、解決の第一歩だろう。

(17)
 今は、以前よりもだいぶ少なくなったいじめだが、なぜ、いじめというものが起こるのだろうか。何が悪いのだろうか。そして子供たちは、なぜ、欲求不満になるのか。考えなければならない問題は山ほどある。たくさんの問題が積み重なっていじめは起こるのだ。
 確かにいじめるのは絶対に悪いことだ。一対一でけんかをするならまだよいが、クラスで一人の子をいじめるのは最悪の事態である。私は中学生のいじめに関するアンケートの時、「いじめた子は悪いが、いじめられる子にも問題がある」と書いたことがある。そして、先生に注意された。私がなぜこういうことを書いたのかというと、小学生の時に、ある女の子がいじめられていて、その子に問題があったからだ。話しかけても無視をする。体育の着替えの時、自分が着替え終わったら窓を開ける。そして、クラス全員がその子を無視し始めた。やはり、少しは、いじめられる子にも問題があるのである。ただ、全員で無視をしたからいけないのだ。止める子もいない。もし、止めたら今度は自分がいじめられると思うからだ。
 いじめ、これはなかなか解決できない問題である。いじめている子の親は、もっと自分の子供に接して、話をしなければならない。いじめている子は親と接していないから不満がたまるのだ。そして、親は子供が悪いことをしたら、必ず怒らなければならない。無責任に放っておいてはいけないのだ。子供にしっかりと善悪のけじめをつけてやれば、少しずついじめはなくなっていくのではないだろうか。

(18)
 いじめはいじめる側の人間が、一方的に悪いと思う。よく、いじめられる側にもそれなりの原因や理由があるというが、実際のところはどうなのだろうか。いじめの動機の半分近くを弱い者を面白半分にとか、欲求不満のはけ口とかが占めている。いじめられる側に問題があるとは思えない。
 では、そのいじめをする子供はなぜいじめを行うのかということだが、それは人それぞれ異なると思うが、根本的に存在するのは、やはり家庭環境と学校生活へのストレスというものではないだろうか。いじめの動機の多くは、うっぷんばらしという身勝手なことが中心になっている。それを掘り下げていくと、親教師や友達との人間関係がくっきり浮き上がる。家では親にしかられ、学校では先生にこびを売り、友達の前では、みんなに合わせる。これでは、ストレスがたまらないほうが不思議だ。
 そうすると、解決法はどうすればいいのだろうか。私が思うには、子供のストレスを減らすように、学校でなんらかの行事を行うのが最も簡単な方法だと思う。週に一回行えば、子供のストレスも和らげられるだろう。これだけで解決するとは思えないが、多少はましになるのではないだろうか。

(19)
 私はいじめた経験もいじめられた経験もないが、いじめが現代社会において、どれほど深刻で解決しにくい問題であるかというのは知っている。現在のいじめの異常な残酷さやそのやり方は、許される程度を超えて、すでに歯止めがきかない状態である。いじめを止める人もいなくなり、一人がクラス全員からいじめを受ける、という状況のなかで、いじめに遭った子はその陰湿さに絶望を感じ耐えられず、ついには自殺という最悪の事態にもなっている。この悲惨な事実から目をそらしてはならないと思う。しかも、その状況は、事件が起こってマスコミなどで騒がれている時だけの事ではなく、日常的な学校生活において、いじめの状態が当たり前のこととしてあるのだから、事態は深刻である。
 いじめを減らすにはまず教師が生徒一人一人と積極的に話を交えることだ。そうして生徒達と信頼関係を築けば、悩みを打ち明けてくれるだろう。まして、自殺などという考えは決して出てこないはずだ。そのためにも教師の教育や、生徒と教師が交流を深める機会を増やすように心がけるべきだ。今の教師には生徒や親から信頼されるような人がほんとうに少なくなっている。むしろ、人間としておかしいのではないか、と思える教師がいっぱい居る。また親に関しては、子供の自主性をあまり制限せず、けれども責任はしっかりと感じさせていくような育て方をする必要がある。いじめ問題も結局は親の問題だ。いじめる子の親は、自分がわが子を使っていじめをさせているようなものだということを自覚すべきだ。
 しかしいくら対策を実行してもいじめは決して消えない。それは、いじめる理由があまりにも、どこにでもありふれているからだ。だから、何時どこで起こっても不思議はない。その理由を上げると、面白半分やうっぷんばらしが原因の大半を占めている。いじめのつらさを心で感じない人形のような子供が今の時代にはたくさん存在する。また、いじめる側の子の精神的苦痛が原因でいじめを行うケースもあるので、いじめをしている子供もまた被害者とも考えられる。
関係機関はいろいろと問題解決への指摘をしているようであるが、いくら指摘をしてもいじめが減少せねば意味がない。言い訳のような政策なら、しない方がましだ。学校にいるすべての人々は何らかの関連でいじめとつながっている。決して他人ごとと思わず、いじめの重さを見つめてほしい。

(20)
私は基本的に、いじめたのは悪いが、いじめられた子にも問題がある、というのは間違いだと思う。むしろ、それは見当違いだと思う。いじめについての書物を少し読んだが、いじめる子はいじめられる子そのものに対して、さほど憎悪だとかは嫌悪だとかは感じてない。いじめる側のストレスやうっとうしさなどを解消、発散させるための道具と見なされているにすぎない。発散するために、また、つまらない毎日を刺激的にするために、一人の人間が一人の人間を道具へと変えてしまう。なぜ、このような非人間なものがこの世に生まれてきてしまったのか。
私の住む街にはたくさんの公園がある。私も小さい頃はよく遊んだ。しかし、今は公園で子供たちを発見することがまれのように感じる。では、彼らはどこに行ってしまったのか。私の住む街にはゲームセンターやレンタルビデオショップなどもたくさんある。そのような店が立ち並ぶ大通りで、高価そうな自転車に乗った子供たちとよくすれ違う。その際に、子供たちの話題が自然と私の耳に入ってくるのだが、その内容はもっぱらテレビゲームやビデオなどである。テレビゲームは、正義の味方が悪を倒してゆくものや、ただひたすら何かを爆発させて得点を得てゆくものなどさまざまである。しかし、どれも現実味はない。虚構の世界だ。そのようなテレビゲームが大流行をするにつれて、子供たちは現実の世界で友達と語り合うことが少なくなった。現実の世界で虚構の世界に生きているみたいなものである。すると、人間というものは適応させようと働くのか、現実と虚構が入混ざり、分からなくなってしまうのではないか。
子供たちは混乱し、日常生活とゲームとを分離できていない。その混乱がいじめを引き起こす原因になっているような気がする。

(21)
 私自身、いじめにあったことや、いじめをされたことは、今まで生きてきたなかにはないが、身近ではいじめがあった。それは私が小学生の時で、私の隣のクラスでいじめがあったようだ。どんないじめだったのかは見ていないので分からないが、聞いた話によると相当ひどいものだったようだ。クラスの一部の子たちが徹底的に一人の子をいじめ、他のメンバーは完全に見て見ぬふりだったそうだ。よくあるいじめのパターンだが、ここで注目したいのは、いじめの第三者、つまり、見て見ぬふりをしたクラスのメンバーである。同じクラスの一員がひどくいじめられているというのに、助けてあげない。もちろん、いじめる子たちが悪いのは当然だ。しかし、なぜ第三者は何も行動を起こさないのか。
 いつの時代にもいじめはあった。しかしなぜ昔のいじめは今ほど陰湿ではなかったのか。それは、第三者が見て見ぬふり、ということをしなかったからなのだと私は思う。昔の子たちには正義感というものがあった。だから、いじめられている子供がいても、第三者がいじめっ子に対して立ち向かうことができたのだと思う。今の子供はそうではない。正義感はまるでないように思える。第三者は、いじめられている子供を助けようなどとは思いもせず、むしろ、そのいじめにかかわりたくないと思っているのだ。私は、この第三者の変化がいじめの深刻さを招いたのだと思う。時代の流れが、子供たちを変えてしまったのかもしれないが、いじめはひどくなる一方である。第三者が変わらないといじめはなくならないと思う。そのためには、やはり今の教育内容を大幅に変更し、道徳や人権の授業を増やす必要があると思う。

(22)
 私はいじめがどんなものか、テレビなどでしか見たことがないが、あってはならないものだと思う。動機を見ても、人の欠点や個性を認めもせず、全く無視したひどいものである。いじめの正当な動機なんてない。人をいじめて楽しむなんて、本当に最悪である。人の心は、他人が思うよりとても弱い。ましてや子供の心はとても弱いのだ。少しのことでも傷つくのに、いじめは計り知れないほどの傷を心に負わせるだろう。
 解決するには、命の大切さを子供に知ってもらうことが重要であると思う。いじめの深刻化のひとつに、テレビゲームの普及があると思う。最近のゲームには敵を殺すゲームや殴るという趣旨のものも多い。ゲームはゲームとして現実と切り離して考えられる子ならよいが、現実の生活でもゲームの影響を受け軽い気持ちで人を傷つけてしまう場合もある。そして、その場合の多くは、相手の傷の深さや大きさがどれだけのものかは分かっていない。心の傷は、いじめられた子が公に苦しみを訴えなければ分からないからだ。そして、そう簡単に他人に心の傷を見せることはできない。しかし、いじめられている子は、まずその勇気を持つことが解決への第一歩になると思う。そして、いじめをする子は命の大切さを知り、いじめをやめてほしい。命はひとつ。その命をどんな風に使うかは自由だが、傷つけたり失ったりするのは絶対にいけないと思う。同じ命なら笑って生きるほうが楽しい人生に決まっている。私は笑って生きたい。

(23)
 このごろ、人は自分がされて嫌なことを平気でやっていると思う。いじめもその中に含まれるひとつだ。実際いじめはかなり前からあることだ。それは奴隷制度だ。いじめとは少し異なるが、いじめの最初の姿といってもいいだろう。このことによって、人は昔から誰かの上に立ちたい、誰かより身分は高くしておきたい、そういった気持ちがあったことが分る。
 現在は、奴隷制でもなければ、みんな身分が平等とされている。しかし、心の中には誰かの上に立ちたいと思う気持ちがあるのではないだろうか。それが今問題となっているいじめなのではないか、と私は思う。だから、いじめはこれからも無くならないという結論になってしまう。でも私は、いじめはなくなってほしい。誰もがいじめをしなくなる方法、それは法律で定めること以外にないのではないかと思う。いくら親や学校の先生が厳しく監視していても、見えないところでいじめは行われてしまう。だから、法律で定めるといくら子供でもやってはいけないと思うだろう。子供というのは大人と同じである。口だけでいくら禁止したとしても、罰則規定のある法律でもなければ、守るわけがないのである。大人気ないかもしれないし、また、子供に法律違反による罰則など適用できないだろうが、それでは、いじめをした子の親に罰則を与えればよい。子供である自分がいじめをすると、親が厳しく罰せられると分かれば多くのいじめは無くなると思える。隠れてやるいじめも見つかればたいへんだと思って止めるだろう。子供だと思って舐めてかかってはいけない。子供は大人以上に現金なのだ。子供に対して大人が変に、希望的、理想的に対応すると、なにをやっても効果が薄くなるものだ。
 いじめは絶対にいじめる方が悪い。いじめている子は、いじめられる方にも原因があるから、いじめると言ったりするだろうが、それは間違っている、と大人は子供に明確に教えてあげなくてはいけない。教育する側の人間には、白、黒をはっきりつける責任感がなければいけない。いじめ問題には厳しすぎるくらいの対策をとって、ちょうど良いくらいなのではないだろうか。

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 最近、深刻化している子供の間のいじめの原因は、家庭環境の変化によるものだと考えられる。なぜなら、昔は他人のことを大切に思いやる心を親が子に普段から教えて、悪いことをすれば、それがどうしていけないことなのか理由をきちんと言ってから叱っていたように思う。しかし、最近の親たちは、子供がお店や他の公共の場で他人の迷惑になる行為をしていても、特に注意しない。それどころか、親自体が迷惑な行為を平気な顔をしてやっていることがよく見られる。親がそのようなことだから、最近の子供は他人を気遣う心があまり養われていないのだ。自分の思う通りにならなければ、思う通りになるまでわがままを言い続け、親が根負けして自分のいうことをいつかは聞いてくれると思っている。
つまり、最近の子供は、他の人間は自分の思う通りになると心のどこかで思い込んでいるのだ。だから、自分の感覚と異なるものを持つ者、自分より劣っていると思う者を自分の近くから排除する為にいじめをするのだと思う。それが、最初はいじめる者が一人から出発するが、徐々に大勢いになるため、ひどい時にはいじめられる者が一人でそれ以外全員がいじめる側に回ることもしばしばあるので、いじめを止められる者がいなくなってしまう。
 この問題を解決、改善していくためにはまず今、子供を育てている、もしくは今から子供を育てようとしている親たちが、しっかりと子供に命の大切さ、他人を思う心、我慢する忍耐力を教え、学ばせていかなければいけないと思う。そして家から出た子供を預かる学校の教師も、ふだんの学校生活の中で友人の大切さと友人関係のあり方を身につけさせなければならないと思う。この、いわば人間教育をまずしっかり行われなければ、子供の間のいじめは、ますますひどく、残虐なものになっていくと思う。

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 いじめが流行しているようだが、私には今ひとつピンとこない。実は私は小、中学校と、いじめらしいいじめがなかった素晴らしい学校でぬくぬくと育ってきたため、いじめというものがどういうものなのか実感がわかないのである。いじめと聞くとすぐに思いつくのが、「上履き隠し」であるが、これも実際に見たわけではなく、テレビによる知識である。だから私にいじめについて、とやかく言う資格はないが、私なりに対策方法は考えられる。
 まず第一に、いじめにつながる原因は、何らかの面で劣っているところがある子供がいることである。その子に対して「お前がだめだからいじめられるんだ。しっかりしろ!」と言っても何も始まらない。私は、この劣っている面が最も顕著に表れてしまうのが体育の授業であると思う。その中で、「あいつは運動ができないなぁ」とか「のろまだなぁ」とかいうことを気づかれてしまう子供が、よくいじめの対象になってしまう。そこで私は、提案したいのが「体育完全選択制」である。これは例えばあらかじめ体育の年間授業をAからDコースに分けて、Aはサッカーとか短距離走とか運動が得意な子供向け、Dは創作ダンスなど比較的運動が苦手な子でも、楽しめる内容にするコースである。こうすれば、それぞれのコースには、能力が同じような子が集まりを、優劣を気にすることも少なくなるであろう。
 これはほんの一例であって、それ以外にもこういう観点から考えればさまざまな方策が出てくると思う。要するに何よりも大切なのはいじめられる原因となる事柄、自他共に子供にある面で自分が劣っているということを感じさせない配慮をする心遣いを持つことである。

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 いじめの問題は、いじめる側が絶対に悪いと思う。最初にいじめを始めた人は、もちろん悪いが、それを見て一緒にいじめる人、見て見ぬふりをする人、どの人も同じぐらい悪い。中には、かばう人もいるだろうが、今度はそのかばった人がいじめられるということもあるだろう。こうなると、いじめられる方にも問題があるというのは、完全に否定される。すべて、いじめる側のエゴである。
 しかし、いじめるのが悪いと分かっていても、いじめは無くならない。毎年のようにいじめで自殺する人がいて、最近では、いじめで人を殺す、といういじめの域を越えて、殺人にもなる悪質ないじめが起こっている。もちろんテレビや新聞でも報道され、とても問題になった。それにもかかわらず、いじめは減るどころか、増えていると聞く。
 それに対して警察は何をしているのだろうか。いじめのなかには、本来、刑事事件になるべき事例がいっぱいある。子供の間の出来事だから、放置しているとしか思えない。子供のことであっても、しっかりと親の監督責任を問うべきである。事件が起こるたびに、いじめに対して対策をしなければならない、いじめをなくそうと言っているのに、しっかりと対策を立てていないから、いじめが減らないのだと思う。
 いじめ問題の対策に、のんびりと構えていてはいけない。教師や親は、何かおかしいと思ったらすぐに一緒に話し合い、情報交換して、いじめの早期発見をしてあげることが大事だ。また、周りの友達は見て見ぬふりでなく、かばってやったり、それが無理なら教師などに相談し、少しでも早くいじめを隠されたところから、公の場で明らかにすることが、いじめ撲滅につながると思う。師、親、警察、周りの友達が、一緒になって考えていかなければ

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 いじめが深刻な問題として取り扱われる今日、よくその原因としてあげられるのは、いじめられる子は暗くて協調性がないということだ。これは、はなはだ愚かな考えだ。こんなことを言うのは、今の日本をこんなにダメにして、そしてこのいじめの真の原因を作った大人たちだ。彼らの考えはまるで、子供が今の社会を崩し、自分たちはそれを建て直しているかのようだ。しかし、実際はまったく逆だ。まず、社会があり、大人たちがいて、その上で子供たちが成長するのだ。
世の中は時代が進むにつれて、便利になった。そのおかげで、今の子供は外で遊ぶよりも、家でテレビゲームをする子が多い。テレビの多角化により、テレビでいろいろな映像を放映するようになった。大人たちが言うには、今の子供たちがおかしくなったのは、あまりにも容易にテレビなどから不適切な情報を手に入れてしまい、現実世界と想像世界との区別がつかなくなる子がたくさん出てしまったからだ、ということだ。なるほど、このことも確かに原因のひとつかもしれない。しかし、大人たちはこの原因を挙げるだけで、効果的な解決策は打ち出せていない。なによりも、そんな、子供に被害をもたらすような商品を売って金をもうけているのが、今の大人ではないか。
 いじめ問題は、もはや日本だけの問題ではない。世界的なものだ。早急に対策をたてなければならない。それにはまず、先に挙げた「大人たちの意識」が何よりも大切だ。次の時代を担う子供たちが今のままでは、世界の未来の行く末が懸念される。

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 いじめの原因は、最近の子供たちはテレビばかりを見て、社交性がないからなど、いろいろなことが考えられるが、一番の原因は日本の集団性を重んじる教育にあると思う。日本では昔から生徒に同じ服、同じ髪形を強要し、突出した個性を認めようとせず、平等を重んじる。
 何よりも平等を重んじる教育になり、自分と違うものを排斥しようとする考えが、日本の教育全体に根付いている。そして、集団性を大切にするために、同じ価値観を押し付けられた結果、自分の本音が言えずストレスがたまり、うっぷんばらしとしての暴力につながっているのだ。そして、その価値観を共有できないものがいじめの対象になってしまうのである。人と違うのは悪いことだと思っている子供たちは、人と同じになろうとしてますます個性を殺し、その結果、ストレスがたまるという悪循環に陥っている。この問題をなくすためには、日本の伝統的な教育制度を見直すことが必要である。
 日本の教育にも良いところはあるかもしれないが、いじめの原因に現在の教育制度があることは否定できない。民主主義であり、個人の人権を尊重する社会なのだから、子供一人ひとりの人権を尊重し、人は能力に差があって当然なのだと教えることがいじめの減少につながっていく。
                         (了)

(おわりに代えて)
 すべての発端は無言電話からだった。当時、私が勤めていた学校は閑静な住宅地の中に建っていて、通ってくる生徒も比較的落ち着いて温厚な子供たちが多かった。校内で、“事件”といわれるようなものは年間通じてほとんどなかった。だから、生徒の懲戒処分を決める生徒補導会議も忘れるほど開かれることがなかった。生徒にとっても教師にとっても平和な学校であった。このような校風が校区内の中学や保護者の、学校への評価を高めて、受験生にとって人気のある学校であった。
 ある日、職員室の私の机のそばの電話機が鳴った。出てみると、事務所から「大和田先生へ、外線です」ということだったので繋いでもらった。私は自分の名前を名乗って、事務員から電話を代わったことを告げた。相手からの返事がなかったので、何度も名前を言った。ところがまったく反応はなく、しばらくしてプッツリと切れた。たまにはあることなので、それほど気にかけなかった。しかし、この時を契機として、しばしば私への無言電話がかかってくるようになった。
 事務職員に尋ねると、事務所で電話を受けた段階では、「山田」と名乗って、口ごもりながら私の名前を出したということだった。声から想像すると中年の男で、暗く沈んだ雰囲気が感じられる者のようだった。生徒でないことは間違いなかった。もちろん、山田という名前の人物は何人か思い当たるが、声の主とは全く結びつかない。いかにも、偽名くさい。
 こういう無言電話が一カ月ほど続いた後だった。昼前に職員室の私あてに、ピザが二人前三人前と届くようになった。もちろん私が注文したわけではない。これが、何度も続くので、その店と相談して、私あてに注文がきた場合は、相手の電話番号を聞いて、店側から再度、掛け直すようにお願いした。次に掛かってきた時に店員がこのように言うと、すぐに電話は切れて再び掛かっては来なかった。これでピザは届かなくなった。
 安心したのはつかの間で、今度は、店を変え品を変えて、次から次へと昼食が届くようになってきた。その都度、相手の店に事情を言って対策を取ってもらうようにしたが、ずいぶん手間のかかることであった。それでも、学校周辺の出前をしてくれそうな店がほぼ出尽くしてしまった頃に、どうにか収まってきた。
これで一安心かと思ったが、次には、さまざまな通信販売の会社から次から次へと品物が届くようになった。その中には車椅子さえあった。各通販の会社にはその都度、私あての注文はいたずらなので品物を発送しないようにと連絡をした。通販の会社はいくらでもあるので、その手間は非常に負担になった。時には、一日に四、五品が届くこともあり、やり場のない怒りに堪えられないような気になることもあった。さらに、学校周辺の外車、国産車の多くのディーラーから社員が、「車を買っていただけるそうで、ありがとうございます」と言って職員室の私のところへやって来た。もちろん私は、ディーラーに連絡などしていないので、どうしたのか尋ねると、私の名前をかたって「車を買うので学校に来てくれ」と電話があったということだった。
こんなことが半年ほど続いた。その間あいかわらず、無言電話も続いていた。電話については、あまりにも多くかかってくるので、事務員全員が、相手の言葉や声の特徴を覚えてしまって、その男から掛かってきた時は、不在を理由に、私に取り次がないようにしてくれていた。
最初にいたずら電話があってから一年ほどして、その間、ずいぶん苦しめられたが、どうにか収まった。私はこの間、いつ品物が届くかもしれない、いつ昼食が届くかもしれない、という不安な精神状態が常に続き、大変なストレスがたまった。楽しくやれていた授業にも力が入らずに苦痛にさえなっていた。精神的なものだけでなく、毎朝、目を覚まして学校に行くことを考えると、足が重くなり、食欲も減退してきていた。それだけに、いたずらが途絶えると職場へ向く足が軽くなった。犯人が誰かは分からなかったから、根本的に解決したわけではなかったが、とにかくいたずらが無くなったことで心に平和を取り戻すことができたような気持ちになった。
その後、三カ月ほどは何も無く過ぎた。いたずらで苦しめられたことが心から遠のいていくような頃だった。私の授業中に、消防車がサイレンを鳴らしながら校門を通り、玄関前に止まった。学校に火災が起きたと思い、学校中が騒然となった。私の教室の生徒たちも大騒ぎとなり、授業どころではなくなった。こういう時のために、年に二回、防災訓練をしている。マニュアルからすれば、すぐに全校放送を入れて、火災の発生場所と避難通路の説明して、グランドに出るように指示するはずであった。ところがいっこうに放送は入らない。そのかわりに、私の授業をしている教室に、教頭が顔色を変えて走ってやって来た。そして、
「大和田先生、火事はどこですか?」と言った。私は何のことだかわからないので、すぐに職員室に戻った。すると数人の消防士がいて、
「大和田先生ですね、火事はどこですか?先生の方から消防署に学校が火事なのですぐに来てくれ、と連絡頂きましたが」と緊張気味に言った。しばらく、ちぐはぐなやり取りになったが、いたずら電話であるというのがはっきりした。緊急電話に掛けると通報者の電話番号が分かるようになっている。ところが、私の名前をかたって掛けてきた電話は、消防署に設置している一般加入電話に掛かってきたということで、相手の電話番号は分からなかった。これには、私に対する強い悪意を感じた。それと同時に急激に気分が滅入ってしまうような悪い予感で頭がいっぱいになった。
予感は当たった。一週間ほどしてまた授業中に、今度はパトカーがやって来た。学校中が大騒ぎになったのは言うまでもない。
「ラグビー部の顧問をしている大和田だが、今、体育館でラグビー部員とバスケット部員が殴り合いの乱闘をしているので、すぐに来てくれ」という内容の通報だったという。消防署と同じく、加入電話への連絡だった。
 これを聞いた時、私は何かおかしいと思った。この学校にはラグビー部はなかった。今まで勤務してきた学校でラグビー部があったのは、大学を卒業して最初に勤務した学校だけであった。そしてそこでも、私はラグビー部の顧問をしたことは一度もなかった。しかもすでに二十年以上も前の話であった。
私は、いたずらの犯人は果たして誰なのか、あれこれと思い浮かぶ多くの人物を長い間、考え続けていた。しかし、確証につながるようなものは無く、ずいぶんピントボケしたような思いしか抱けなかった。また、疑心暗鬼になり、疑うべき人物で無い人まで疑い、自己嫌悪に陥ったりもしていた。だが、この時のラグビー部という言葉から、どうやら最初に勤務した学校に関係している人間ではないのかという思いがして、焦点が絞られるような気持ちになった。
 その後、救急車、消防車、パトカーと何度も繰り返し学校にやってきた。すべて私の名前での要請であった。その都度、学校全体で授業ができなくなり、混乱してしまった。生徒が落ち着いて勉強できることが伝統のようになっていたこの学校にとっては、いまだかつてない異常事態であった。校長、教頭も事態が深刻になりつつあったので、真剣に解決方法を考えてくれた。しかし、私個人の名前を相手が出してくるので、私と相手との関係がはっきりしないと効果的な手は打てなかった。私は何度も地元の消防署や警察署に足を運んで相談をした。私の名前からの出動要請に対しては必ず学校へ確認の電話を入れてもらうことと出動した時には学校近くからは警報音も止めて来てくれるようにとお願いもした。しかし署内での連絡や引き継ぎの不徹底で、しばしば警報音を校舎中に響かせてやって来た。
 正式な警察ざたにすると、事の展開によってはマスコミにも取り上げられる可能性もあり、それによって学校の評価が落ちることも考えられ、控えていた。しかし、収まる気配もないので、管理職から警察署へ業務妨害の被害届を提出した。
 これによって、消防署や警察署の電話の応対の仕方は変わったようだった。その変化から犯人は自分に捜査の手が伸びてきているのを察知したのだろうか、その後は全く緊急車両の出動がなくなった。
それでも今度も、私は安心することができなかった。犯人は、どうやら私の最初に勤めた学校の関係者で、ラグビー部の顧問と勘違いをしながらもこちらによほどの恨みを持っている者の仕業であると思えた。このままで終わるとは考えられず、また何かしでかすに違いないと思った。
 ただ私は、教員になってからの自分のやってきた教育活動を思い起こしてみても、これほどまでに恨みを買うような、相手の心を傷つけるような間違ったことはやっていないという確信があった。それだけに私に対する恨みは何かの勘違いではないのかという気がして、相手の男が分かれば、聞きただしてみたい気持ちになっていた。
 嫌な予感は的中した。それから一カ月ほどした月曜日の午前三時ごろのことだった。一週間の仕事始めの日の未明だから誰もがしっかりと睡眠をとっておきたい時間帯である。自宅の二階で眠っていて、遠くから近づいてくる消防車のサイレンの音で目が覚めた。その音はすぐに近づいて来て、私の家の玄関前で止まった。消防車は無線交信を大きな音量でやりとりしていて、家の中までもよく聞こえた。そして「通報者の大和田宅に到着しました」と隊員が答えている声が耳に入ってきた。私は飛び起きた。同時に家のチャイムが鳴った。急いで玄関に降りてドアを開けた。隊員が、「燃えているのはどこですか?」と緊張して言った。この時私は、例の男のいたずらが今度は自宅に及んできたのかと驚いた。電話がどこに掛かってきたのかを尋ねると、加入電話だという。これで間違いなく同じ人物の仕業であると確信できた。いろいろと隊員に説明しているうちにも、応援の消防車が次々と到着して来た。さらに近所の人や町会の防犯係の人まで集まってきて、私の自宅の周辺は大騒ぎとなった。
 これ以降、パトカー、救急車と、学校への緊急車両の出動と同じような状況が自宅で繰り返されるようになった。特に通報される時間が週明けの未明から早朝と決まっていたので、迷惑はこの上なかった。それは私の家族だけではなく、地域の人々に大変な迷惑をかけた。私に対して苦情をあからさまには言わないが、陰口はずいぶん言われるようになってきていた。それを思うと身が縮まるような気持ちになった。
 私も家族も毎週、週末になるとまた、緊急車両が来て大騒ぎになるのではないかという心配と不安でまともに眠ることができない精神状態になっていた。そして、食欲もなくなり、心身ともに不調な状態になった。気の優しい長男でさえ、「犯人を捕まえて殺してやる」と怒りをあらわにするようになってきていた。
私は家族の状況が限界に近づいているのを感じて、引っ越しの準備を始めた。
 こうしたなか、ある日、授業が終わって職員室に帰ると教頭が顔をほころばせて私の席のところへ走るようにやって来た。
「大和田先生、ついに犯人が逮捕されましたよ。やれやれ、これで長い間苦しめられましたが、一件落着ということになりました。よかったですね」と弾んだ声で言った。どういうことか事情を聴くと、私が最初に勤めていたA校のある所轄の警察署から、こちらの学校に電話があったのだった。話の内容は、A校の教員に執拗な嫌がらせ電話があり、警察が捜査したところ、Bという男を犯人として逮捕した。その男の自宅を捜索して通話記録を調べたところ、A校やA校の教員以外にも何度も同じ電話番号に掛けているのが分かった。不審に思った警察がその電話番号に電話をしたところ、こちらの学校につながったということだった。そこで教頭がこちらの状況や私の自宅の件も話したところ、B男が為した事とパターンが全く一致しているのが分かった。警察は状況から判断してほぼ百パーセント、こちらの学校や私への嫌がらせ電話の犯人はB男であると言い切ったそうだ。これを聞いた私は危うく涙をこぼしそうになった。
 翌朝の新聞にこの事件の記事が掲載された。それは大要、次のようなものだった。

 《某署は無職B男容疑者(三十六)を偽計業務妨害と消防法違反の疑いで送検した。かつて通っていたA校や、同校の教諭宅が火事で燃えているなどと虚偽の一一九番通報したのをはじめ、注文されていないピザやすしを同校に配達させるなど悪質な嫌がらせを繰り返していたという。
 調べでは、B男容疑者は午後二時ごろ、消防本部に「学校が火事だ」と虚偽の通報したほか、以前にも「先生が生徒を殴った」などと虚偽の通報し、消防車や救急車の出動で同校の授業を妨害した疑い。また、市内のピザ宅配店と寿司店、百貨店などに計二万五千円分の商品を勝手に注文して同校に配達させて業務を妨害。さらに先月十二日未明、市内に住む同校教諭宅の虚偽の火災を消防本部へ通報した疑い。
 同署によると、B男容疑者は、十九年間にわたって、同校の九教諭の自宅にひぼう中傷する電話をかけていたという。嫌がらせ電話を受けた教諭宅の通話記録からB男容疑者を特定したという。
 調べに対し、B男容疑者は「在学中、いじめに遭っていたのに教師は対応してくれなかった。その時のいじめの影響で現在も仕事ができずに家に閉じこもっている。学校側は、いじめられていることに対して、助けてくれるどころか、こちらを悪者にして、退学を仕向けた。高校を恨んでいる」と話しているが、容疑は否認しているという》

 私はこの記事を読んで、心が動揺した。これまでは犯人に対して憎しみしかなかったが、最後の部分を読み、彼は被害者であり私は加害者ではないのか、と衝撃を受けた。すでに二十年も前のことなので、B男という名前に記憶はなかった。さらに「退学を仕向けた」という事柄については全く見覚えが無かった。
私はA校の頃の生徒名簿を探し出して調べてみた。すると確かに、私が一年生の時に担任をしたクラスの中にその名前があった。彼について何か思い出そうとしたがだめだった。それでその担任の時のクラス写真はないかと古い書類の中を探していると運良く見つかった。B男の顔を見た時、かすかに思い出した。確か、その子はヒョロリとした体型で、あまり物も言わず暗いイメージの生徒であった。おとなしくてほとんど目立たない生徒で、一年間担任をしたが思い出すようなエピソードは全くなかった。この期間にB男が退学をしておれば、私の記憶に残るはずだが、それもなかった。新聞記事では何年生の時に退学したとは書いていなかった。私はこのクラスの担任を終えた後、他の学校へ異動になった。同時に住所も変わった。
B男のその後のことが気になったので、A校に電話をしてみた。電話口に出てきた教頭に事情を説明すると「転勤になった先生にまでご迷惑をかけていたのですか。本校も大変な状況が続きましたが、犯人逮捕でやっと救われたという気持ちになっているところです」と安堵感をにじませていた。
B男のその後のことも聞いた。それによると、私が担任をした一年の時は問題もなく進級して二年になった。いじめは二年になってから始まった。そして、いじめが理由であったのかどうかははっきりしないが、書類上は、一身上の都合で自主退学になっていた。おそらくB男は、いじめが問題になった時、いじめられている自分が悪者にされて、退学させられたととらえたのだろう。
二年生の時の担任の名前を聞いた時、私は今回のことで持ち続けていた疑問の霧が晴れるのを感じた。その担任は名前が私と非常によく似ていて、一緒に勤めていた頃には、何につけても二人がお互いに間違われることがしばしばあった。その担任は体育の教師で、ラグビー部の顧問を長年やっていた。そしてその担任もB男を担任した後、別の学校へ異動になっていた。おそらくB男が、二年の時の担任の移動先を尋ねた時、事務員か、本人かが私とその担任と間違えて、結果的に私の赴任先の学校と自宅の住所を知ることになったのだろう。
長話の電話を切った後、私は何とも言えない虚しさを感じた。
大変な迷惑をかけられたB男であったが、彼に対する怒りは薄れてきた。彼がいじめられている時の、教員や親にも誰にも分ってもらえない、苦しい気持ちを思うと胸が締め付けられた。そして、直接的には私の責任ではなかったが、教育者としての懺悔の念をしみじみと感じた。そして、この一念は、生涯消えないシコリのようになるだろうと思えた。
          二〇二一年春   筆者 大和田光也