大和田光也全集第8巻
 『宮沢賢治 誰も書けなかった実像 改訂版』【下】

第Ⅲ章 【壊】

(一)祈り

 賢治の日蓮信仰の現実を理解するうえでポイントになるのが祈りの姿勢である。彼は多くの箇所で祈りの類の言葉を書いている。それは、
「わたしはいまこころからいのる」(賢治)
というように作品の中にも又、
「願わくは此の功徳を普く一切に及ぼし我等衆生と 皆共に仏道を成ぜん」(賢治)
というように書簡類の中にも多くある。これは法華経化城喩品の、
「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」(法華経)
を訓読したものであるが、何カ所かに同じ言葉を書いている。
 これらの祈りの類の言葉に込められた賢治の心情には並々ならぬものがある。それは軽い気持ちで人々が「世界中が平和でありますように」とか「幸せになれますように」と祈りをささげるのとは異質なものである。賢治の祈りは日蓮の教えを深く信じた上で出てきている。
 日蓮は祈りについてさまざまな表現で多く書いている。例えば、
「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも 日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(日蓮)
とある。日蓮仏教における祈りは、自然の変わることのあり得ない運行がたとえ逆になったとしても祈りがかなわないことはないのである。日蓮の祈りは、単なる願望やスローガンではなく、天地がひっくり返ったとしても必ず成就するものなのである。そして、その祈りを成就させるために、
「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(日蓮)
という厳しい姿勢があった。この文は日蓮が、迫害に合おうとする信者たちの無事を祈っている姿勢である。それは信者自身の祈りと共有するものである。
 賢治はこれらの日蓮の祈りを真正面から信じて実践をした。祈りを具体的に表現したのが唱題行である。祈りを込めた唱題をすることが、賢治の日蓮を信じる証だった。だからこそ、外部の人間から見れば、奇異の目で見られるのもかまわずに唱題行を続けたのである。この行動は一見すると彼が、周囲の者が自分をどのように見ているかということに無関心になってドグマの世界に入っているように思える。しかし彼は自分を冷静に見る客観的な目はいつも持ち続けていた。
「南妙法蓮華経と唱えることはいかにも古臭く迷信らしく見えますがいくら考えても調べてもそうではありません。どうにも行き道がなくなったら一心に念じあるいはお唱ひなさい」(賢治)
と書簡に書いているように、彼にとっては決して狂信ではなかった。一般的に言われる狂信者ではなかったからこそ、文学者になり得たとも言える。彼は祈りを込めた唱題によって願いがかなう、ということを鋭い理性で深く検証した結果、信じるに至ったのである。
「されば法華経の行者の祈る祈は響の音に応ずるがごとし、影の体にそえるがごとし、すめる水に月のうつるがごとし、方諸の水をまねくがごとし、磁石の鉄をすうがごとし」(日蓮)
というように唱題する者には祈りのかなう幸福が確実に身についてくることが確信できたのである。
 祈りを込めた唱題行の持続のなかで、
「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき、『充満其願・如清涼池・現世安穏・後生善処』疑なからん」(日蓮)
という法華経薬草喩品の文の通りの絶対的幸福境涯に到達すると信じていた。それはまた、
「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を」(日蓮)
というように仏になる修行であった。
 このように絶対的に叶う日蓮仏教の祈りではあったが、賢治はまた、「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」(日蓮)
という日蓮の祈りが叶うための不合理なような条件もしっかりと押さえていた。だからこそ、たとえ願いが叶わなかったとしてもすさまじい情熱をもって信仰を貫いたのである。
 前出の「南妙法蓮華経と唱えることはいかにも古臭く迷信らしく見えますがいくら考えても調べてもそうではありません。どうにも行き道がなくなったら一心に念じあるいはお唱ひなさい」という言葉の中には、賢治の祈りに対する深い理解と確信が表されている。「いかにも古臭く迷信らしく見えます」とあるように、南無妙法蓮華経という題目を唱えることを現実の日常生活の中に取り入れることは、抹香(まっこう)くさいものであろう。また、当然ながら南妙法蓮華経と声を出すだけで祈りが叶ったり、利益があるというのも実に迷信くさいものである。賢治はこのような見方をされるということ理解したうえで「いくら考えても調べてもそうではありません」と唱題による祈り、願いの成就を確信し友人に勧めている。賢治が一般社会の常識的な見解を覆してまでも信じ得た理由は、「いくら考えても調べても」という語に込められている。ここには日蓮仏教を研究し抜いた上で結論として導き出された結果であることがよく分かる。
 彼にこれほどの確信を持たせた日蓮仏教の教えは何だったのか。その一端を見て見たい。例えば、人間と環境のあり方についてである。
「夫十方は依報なり、衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし、身なくば影なし正報なくば依報なし、又正報をば依報をもつて此れをつくる」(日蓮)
とあるが、ここでいう正報というのは人間のことであり、依報というのは環境のことである。自然も含めて環境というものはそこに住んでいる人間によって決定づけられる。人間がいなければ環境という概念もない。いわば、「我思う故に我あり」にひっかけて表現すれば、「意識する人間がいるが故に環境が存在する」といえる。その自然や人間社会も含めた環境というものは、人間のあり方によってまるで物事の影のように変化するものである。
 逆に、人間の生命は言うまでもなく自然環境が存在したからこそ発生でき得たのである。この人間と環境の関係について日蓮は端的に、「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(日蓮)
と書いている。衆生というのは人間であり、浄土・穢土というのは環境である。考えれば、地球上に住む人間の心のあり方が結果的には今日の環境、自然破壊へとつながっている。逆に言えば心のあり方を変えれば、自然環境を守り、人間の生存を助ける働きになるわけである。このように人間の心によって環境が変わってくる。だから、
「ただ心こそ大切なれ、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたる・ほくちに・火をうちかくるが・ごとくなるべし」(日蓮)
と心の有様の重要性が書かれている。この環境を変えていく心の状態も祈りの本質である。
「心は工なる画師の種種の五陰を画くが如く」(日蓮)
とある。五陰というのは人間を構成している要素のことである。心のあり方によって、五陰を優れた画家が描くように、客観世界を変化させることができるという意味である。その心とは祈りの心である。
 賢治はこの日蓮仏教の祈りを信じ、実際の行動に移した。その確信が強かったが故に、外見的な奇異さを自覚しながらもそれを乗り越えて祈りの姿勢を貫いたのである。賢治の祈りの姿勢は、作品にもよく出ている。
「雲からも風からも 透明な力が そのこどもに うつれ」(賢治)
とある。「雲」と「風」は自然環境であり依報にあたる。「透明な力」というのは透明という言葉で分かるように具象的な雲や風の力ではない。自然環境を存在させている根源の力であり、「正報をば依報をもつて此れを」造ったエネルギーのことである。そして「そのこども」は正報を意味している。賢治はまた別のところには、
「これらは皆一握りの雪で、南妙法蓮華経は空間に充満する白光の星雲であります」(賢治)
とも表現している。「透明な力」は題目の働きである「白光の星雲」なのである。そして、「うつれ」とは賢治の、真剣に農業に励むこどもに限りない大自然の力を与えよ、という祈りである。
 日蓮信仰を貫いた賢治の後半生とその間に書かれた作品は、深い祈りの人生であり祈りの作品であったといえる。


(二)仏国土

 日蓮仏教は、閉ざされた世界で社会から断絶して修行し、悟りを開こうとするものではない。逆に対人間、対社会を非常に意識した宗教である。
「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(日蓮)
とある。自行というのは、自分ひとりの個人の幸福、悟りを求めての修行である。化他というのは、他人に対して働きかける即ち、信仰を他人に勧めていく修行、折伏である。そして「亘りて」とはこの二者が常に一体不二であるということを意味している。この化他のスケールは大きく、
「わづかの小島のぬしらがをどさんを、をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき」(日蓮)
とあるように単に一国にとどまるようなものではない。この部分は、天皇を「わづかの小島のぬし」とは何ごとか、と戦時中には墨を塗らされた部分である。一人の人間の信仰がそのまま社会に影響を与え、大きくは国や世界にまでも波動を起こす。これは、釈迦が、
「我滅度後、後五百歳中、広宣流布於閻浮提、無令断絶」(法華)
と説いている「広宣流布」という大きな布教の流れを受けたものである。広宣流布というのは日蓮仏教が、多くの人たちに広く知れ渡り、社会や国に信仰する者が充満して来ることである。
「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(日蓮)
とも書いており、信仰者が次々と増加して行き、日本中に広宣流布することは、弓で放った矢が必ず大地に落ちるように確実になし得ることであるとしている。賢治もこの教えを信じ、父親をはじめ何人かの友人に日蓮仏教への勧誘をしている。そして、
「私は愚かなものです。何も知りません。ただこのことを伝えるときは如来の使いと心得ます」(賢治)
とあるように、彼自身も仏である日蓮の使いとして尊い働きができること喜んでいた。
 賢治はこの日蓮仏教への勧誘の流れが大きく広がっていき、やがて仏国土が建設されると信じていた。仏国土というのは日蓮仏教が広宣流布した理想的な社会であり国のことである。賢治は仏国土の建設を真剣に実現しようとしていた。そのひとつの表れとして、文学作品上には「ポラーノの広場」や「イーハトブ」という観念上の仏国土を創造した。さらに現実的には羅須地人協会を設立し、理想的な人間の関係と人間社会のあり方を試みている。賢治は仏国土の一つの姿としては、
「そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えば、もう元気がついて明日の仕事中からだいっぱい勢いがよくて面白いような、そういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう」(賢治)
と表現している。また、「イーハトブ」は、
「それはまことにあやしくも楽しい国土である」(賢治)
「罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいに輝いている」(賢治)
と書いている。賢治の理想郷においては、罪や悲しみでさえも輝くとあるのは、日蓮仏教における仏国土だからである。日蓮は、
「此の文は煩悩即菩提生死即涅槃を説かれたり、法華の行者は貪欲は貪欲のまま瞋恚は瞋恚のまま愚癡は愚癡のまま普賢菩薩の行法なりと心得可きなり」(日蓮)
と教えている。一般的に大乗仏教にも通じることであるが、人間にはさまざまな煩悩があるがゆえに、菩提、即ち悟りを開ける、仏になれるということである。なぜかといえば、人間は煩悩があるからこそそれを乗り越えようとして求道心が出てくるのであり、また、煩悩が仏道修行のエネルギーとなるのである。もともと、煩悩のない人間というのはあり得ない。小乗教において戒律を作り、煩悩をひとつずつ消していけば悟りが開けると考えたのは錯覚にすぎない。もし完全に人間から煩悩を消滅させたとしたら、それは悟りではなくして、死を意味するのである。
 このことは釈迦も、どうして小乗教を説いたのかと理由を述べるところで明確にしている。だから、罪を犯した煩悩や、四苦八苦の苦しみ悲しみというものは、仏道を成就させる宝のようなものである。したがって、それらが「聖くきれいに輝いている」のであり、それによって「楽しい国土」になるのである。
 この仏国土について日蓮は、
「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(日蓮)
と書いている。人間である正報が変わることによって、自然環境である依報も変化していくという日蓮仏教の原理の上から、信仰する者が増えることにより、気象の状況が人間に脅威を与えるものから人間の生活を豊かにする方向に変化していく。「義農の世」というのは中国古代の伝説上の帝王、伏義と神農が造り上げたとされる理想的社会のことである。そこでは人心が治まり、自然の天地も平穏な運行を行い、人々は幸福を満喫できるとされている。そして、さまざまな災難から逃れられ、長生きができる。「人法」というのは人間とその人間が保っている思想哲学宗教のことである。仏国土においては人も思想も安定した永続性を持ったものになる。さらに日蓮は仏国土について、
「三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」(日蓮)
と書いている。同じような内容であるが、心が禅定であるというのは、安心安定して揺れ動かないということである。仏国土は、個人の理想的な信仰がやがて、社会、国を理想的にし、ついには自然環境までも人々の価値を創造する方向へ変化させる、その結果として出てきた理想郷である。したがって日蓮はまた、
「命限り有り 惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(日蓮)
と信仰者が目指すべき道を明らかにしている。賢治もこの日蓮の教えに従って「ポラーノの広場」や「イーハトブ」を夢見た。この観点からみれば賢治の文学作品の中には仏国土を渇仰(かつごう)する精神が底流に流れているものも多い。
 賢治の日蓮仏教への信仰が並々ならぬものであったことは、この仏国土の創造が単に文学作品上での観念の世界にとどまらず、現実に築こうとしたことから十分にうかがわれる。
 果たして仏国土はどこにあるのか。日蓮は、
「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(日蓮)
と説明している。浄土・仏国土という理想郷は、現実の汚れたこの世から離れて、どこか遠くの別世界に存在するものではなくて、人間が生活している現実の中にこそ存在しうるのである。現実を離れて異次元の世界に仏や浄土が存在するという考え方は、釈迦の真意でもなければ日蓮仏教にも反する。それを日蓮は、
「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ。これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ」(日蓮)
と明確に述べている。環境を苦しみの続く穢土にするのか仏国土にするのかは、実はそこに住んでいる人間の心によって決定される。この思考の原理に疑いを持つものは結果的に仏国土を得られず悟りも開くことができずに苦しむ凡夫となる。逆にこの原理を悟り、幸福を満喫できる仏国土を現実の、今の場に築こうとする者は悟りを開いて仏道修行を成就することができる。
 賢治はこの日蓮の教えを実行に移した。観念世界の仏国土から、現実の大地の上に仏国土を築こうとしたのである。それが羅須地人協会であった。そこで彼が講義した教材の「農民芸術概論綱要」には次のように記している。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな時代は世界が一つの意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである我等は世界の真の幸福を索ねよう 求道すでに道である」(賢治)
 これを読むと賢治が日蓮仏教の本質まで正確に把握していたことがうかがえる。日蓮は、
「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(日蓮)
と、個人と社会、国家、世界とのかかわりのあり方を述べている。「静謐」というのは世の中が平和で穏やかに治まることである。個人がいくら平和や幸福を願ったとしても、それが個人的なものである限り、社会全体が戦争状態にでもなれば無残にも失ってしまうものである。日蓮仏教は単なる個人の幸福を目標にした、ある意味で社会状況も無視した自己満足な世界を説いているではない。自分の幸福を求めるのであれば、まず四表すなわち周囲を平和にすること考えなければならないのは物事の道理である。個人の幸福と社会国家の幸福は一体不二であるといえる。それを賢治は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と書いたのである。
「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」というのは、正報である人間の心の有り様が、依報である周囲の社会、国家、自然、さらには宇宙にまで、依正不二の原理で変革していく力になることである。これは、「地獄即寂光、娑婆即仏国、煩悩即菩提」に通じる日蓮仏教の神髄である。それを賢治は才知ある文学者らしく宇宙にまで広げた。宇宙と我は、宇宙即我、我即宇宙で互いに分かつことのできなく影響を与え合う当体であるというのは日蓮の仏教哲学の基本的思想である。例えば、
「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり」(日蓮)
とあり、阿仏上人という一人の人間は大自然の縮図であり、それがそのまま、日蓮仏教の真髄であると述べている。人間は小宇宙であるともいわれる所以である。このこと賢治は「銀河系を自らの中に意識して」と表現している。さらに、「これに応じて行く」とは、宇宙を存在せしめている根源的なものに自我を合致させていくところに本来の人間の有り様に導いてくれる、ということである。これが人間としての「真の幸福」であり、そういう人々が集まることによって仏国土が築かれるのである。
「農民芸術概論綱要」の中には、賢治の日蓮仏教に基づいた理想的な仏国土を現実の身近な農村の上にまず実現してやろうとの意気込みが溢れている。


(三)雨ニモマケズ

 「雨ニモマケズ」は昭和六年、賢治が亡くなる二年前に手帳に書かれたものである。文学作品として意識して書いたというよりもむしろ、率直な感情を自分の最も表現しやすい詩の形式でメモしたという感じのものである。それだけにこの時期の賢治の真情が素朴に記述されており、賢治の人生と日蓮信仰を理解するうえで極めて重要な作品である。
 直截にいえば、日蓮信仰を始めてからこの世の生を終えるまでの半生は、「雨ニモマケズ」に始まり「雨ニモマケズ」に終わったといえる。彼は亡くなる五年ほど前からは妹の若き命を奪った同じ肺病との闘いであった。日蓮信仰に基づき、この世で成さなければならないと考えていたことは心からあふれるほど持っていた。しかし、肉体は緩急を繰り返しながらも衰弱する一方であった。そこに彼の無念の思いが感じられる。
《雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ》 (賢治)
という冒頭の部分には、「丈夫ナカラダ」を持てなかった彼の残念な心が、願望の気持ちを含む表現の中にひしひしと伝わってくる。彼は、「からだが丈夫になって親どもの云うとおりも一度何でも働けるなら、くだらない詩も世間への見栄も、何もかもみんな捨ててもいいと存じおります。病気は今度も結核の兆候は現さず、気管支炎だけがいつまでも頑固に残って、咳と息切れが動作を妨げます」(賢治)
とも書いてる。いかに彼にとって肉体をむしばまれることが、人生観に影響を与えるほどの重みであったが分かる。彼は病気と闘う根本に日蓮仏教を据えていた。それは、天地が入れ替わったとしても、
「法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(日蓮)
の信仰であった。彼は、
「諸仏菩薩を念じて誠心誠意きっと快復の上奮闘可致候」(賢治)
と信仰の力での病気平癒を確信している。病気について日蓮は、
「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し、いかなる病さはりをなすべきや」(日蓮)
と書いている。祈りがすべて叶う本尊に病気平癒を祈るならば、どのような病気も退散してしまう、との大確信が表現されている。賢治は純真な信仰心で病を乗り越えようとした。
 しかし病状の進行を止めることはできなかった。やがて、
「次ニ小生儀起床歩行ニ勉メ候ヘ共、息切レ甚シク辛ク十数歩ニ達スルノミニ有之丈夫ノ方ヨリ見テハ情ナキモノナレド如何トモ仕方無之候」(賢治)
という状態になるほど病気は悪化していく。
「雨ニモマケズ」の冒頭部分には、祈りとしてかなわないことがないはずの日蓮仏教に失望と諦めの気持ちがわずかなりとも表れている。「丈夫ナカラダヲモチ」の言葉の中には、
「うまれでくるたて こんどはこたにわりゃのごとばかりで くるしまなぁよにうまれでくる」(賢治)
という妹の言葉と共通した情感が流れている。今世は不幸にも病気に負け、思い通りにはいかなかったが、来世においては願いが叶い、他人のためにも尽くせるような健康な体になりたい、という心情である。これは日蓮仏教とは相入れない思想である。日蓮の思想は、
「即身成仏と申し一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ」(日蓮)
と書いている。あくまでも今世において、最高の幸せの境涯、成仏を成すことが日蓮仏教の神髄である。このことを知悉していた賢治だっだが、信仰の初期の「即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です」「謹みて帰命し奉る 妙法蓮華経。南妙法蓮華経」(賢治)と燃え立つばかりに我が命を信仰にささげる決意で修行に励んだ頃の心の状態とは、明らかに後退をしている。さらに、「煩悩即菩提」という教えから考えるなら、病気という煩悩があるからこそ、その苦しみを乗り越えようとして信仰に励み、菩提、幸福の境涯になるわけであるから、病気はむしろ悟りを開くための動機として感謝の対象でさえもある。日蓮が、
「浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」(日蓮)
と教えていることにも賢治の心は離れてきている。また、賢治が信仰に命を燃やしていた時の言葉には、
「唯楽ハ之レ妙法蓮華経ノ楽、苦ハ之レ妙法蓮華経ノ苦ニチガヒアリマセン」(賢治)
と、さまざまな苦楽があったとしてもすべてを信仰で乗り越えようとする積極的な挑戦の姿勢があった。それは日蓮の、
「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」(日蓮)
という教えの通り、何があっても最後は信仰の力で「自受法楽」即ち最高の幸福を求めようとする求道の心があった。その力強い信仰の心が「雨ニモマケズ」には流れていない。
 さらに、病気という一つの現象にとどまらず、その延長線上に考えられる、より根本的な生死の問題についても、始めのころの賢治は、
「ああ、生はこれ法性の生、死はこれ法性の死と云います」(賢治)
と死さえも感動を以て捉えていた。これも日蓮の、
「いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり」(日蓮)
という教えからくる確信であり、賢治の信仰の哲学の深さを示すものでもあった。ところが、病弱な自己の人生を無念に思う「雨ニモマケズ」の冒頭部分からは日蓮信仰への疑いとまではいかないが、絶対的な確信が薄れてきていることは確かである。
《慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ》(賢治)
 ここから浮かんでくる人物像も日蓮仏教とは離れたものである。「慾ハナク」と書いているが、日蓮は、
「普賢経に云く『煩悩を断ぜず五欲を離れず三昧に入らざれども但誦持するが故に』」(日蓮)
と法華経の結経である普賢経を引用して大乗仏教の神髄である欲望を滅することはなくても悟りを開くことができると書いている。さらに、
「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり煩悩即菩提と開覚するを焼則物不生とは云うなり」(日蓮)
と書いて、欲望があるからこそ成仏できるとしている。この、人間の本能や欲望と悟り、そして成仏の関係は日蓮仏教の柱であるので、表現をさまざまに変えながらも日蓮遺文のなかには数多くみられる。そうであるのに賢治は「慾ハナク」と書いた。「雨ニモマケズ」からうかがえる人物像は、賢治の理想とする人物像とは考えられない。彼が目指していた人物像は、やはり、日蓮仏教からくる宗教変革と仏国土建設の達成へ向けて突き進む、いわば革命家としての姿であろう。
 ところが人生の終わりに近づいた時点で、「慾ハナク」と書かなければならなかったのは、この時の賢治の正直な心の表れであろう。たとえて言えば、自然豊かな故郷から遠く離れた都会に仕事に出て来た者が、若いころから壮年へと何かに追われるように働き詰めて、そして老年になった時、どうしょうない懐旧の念を伴って思い出される故郷の姿に似ている。「雨ニモマケズ」に描かれた人物像は日蓮信仰の炎に燃え上がって、やがて火が下火になり残り火としてくすぶっている時にふと、懐かしく思い出された、我が心のふるさととも言える人物像なのである。それは彼の身も心もこよなく慰めてくれるものであった。それは逆に言えば、現実の今の自分が、この詩によって表現された人物像とは違うものであるということを表している。
「決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」というのも同様で、このような単純な好人物のような姿は日蓮仏教の中からは浮かんでこない。日蓮は、
「是より後も御覧あれ日蓮をそしる法師原が日本国を祈らば弥弥国亡ぶべし、彼の了性と思念とは年来、日蓮をそしるとうけ給わる、彼等程の蚊虻の者が日蓮程の師子王を聞かず見ずしてうはのそらに、そしる程のをこじんなり」(日蓮)
と自身を批判する者に対しては蚊や虻がライオンを相手にしているようなものだと激しい憤りをもって書いている。さらに、
「権実二教のいくさを起し忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心、妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて大白牛車に打乗つて権門をかつぱと破りかしこへ、おしかけ、ここへ、おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ或はひきしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる」(日蓮)
と布教の状況を戦にたとえて勇敢に攻め込んでいる様子が躍動的に描かれている。この日蓮仏教の信仰者の姿からは「雨ニモマケズ」の賢治の憧れた人物像は全く結び付いてこない。
《野原ノ松ノ林ノ陰ノ
 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ》 (賢治)
 賢治の心に叶ったこの住居は、方丈記の、「その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわずかに方丈、高さは七尺が内なり」と鴨長明が好んで住居としたものに共通する情感がある。相違するところは、長明の住処は彼の嗜好から出てきた自分だけが楽しむためのものであるのに対して、賢治の小屋は、この後の詩文に続くように、他人に救いの手を差し伸べるための拠点の意味合いを持っている。この点からすると、日蓮の住居に通うものがある。日蓮が佐渡に流罪されたときの住居は、
「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし」(日蓮)
と表現されている。また後年、身延に隠棲した時の住居は、
「此の山の体たらくは西は七面の山、東は天子のたけ北は身延の山、南は鷹取の山、四つの山高きこと天に付き、さがしきこと飛鳥もとびがたし、中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候、昼は日をみず夜は月を拝せず冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし」(日蓮)
と書いている。日蓮のこれらの住居は、単なる隠棲の場でもなければ、趣味のすみかでもない。布教への激しい闘争の拠点であり、信者の人材育成の場であった。けっして侘びしく趣のある静かなものではなかった。
 賢治の小屋が、日蓮が住んだものと全く同じ意味合いかというとそうではない。共通した要素はあるが、詩の表現には寂しさと諦めが漂っている。仏国土建設への燃え上がるような情熱から出てくる表現ではない。賢治の小屋は、長明と日蓮の物との中間的なものであった。
《東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ》 (賢治)
 ここの部分は釈迦の「四門遊観」に倣っている。「四門遊観」というのは、釈迦が出家する以前、悉多太子の時、王城の四門から遊びに出て、人生に生老病死の四苦があることを知ったことである。東門から出遊して老人を見、生あれば老あることを知り、南門から出遊して病人に会い、生あれば病やること知り、西門から出遊して死人を見、生やれば死あるを知り、最後に北門から出遊して、端然威儀具足した出家僧に合い、その姿も心も清浄なのを見て出家得度の望みを起こした故事である。日蓮はこのことについて、
「三十成道の妙果を感得して三界の独尊、一代の教主と成つて父母を救ひ群生を導き給いしをばさて不孝の人と申すべきか」(日蓮)
と書いている。父の王は息子の釈迦が出家すること厳しく反対したが、結果的に悟りを開いて親を仏道に導いたのであるから、親孝行であるとともに、衆生を救う偉大な仏となる出来事となった。「四門遊観」は人間救済の出発点であった。
 賢治の四門も、救済に関連しているが、いかにも弱々しく消極的である。仏教における慈悲とは大きな隔たりがある。
「章安大師云く『仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり』」(日蓮)
とあるように、慈悲というのは、相手の誤った考えを破折し、仏教の教えに導くことにある。そのためには一時的に相手に対して反価値のように見えることがあったとしても、結果的に相手を幸福にするために強いて「彼がた為に悪を除く」のである。このような人間救済への強力な意思が賢治の言葉の中からは出てこない。逆に、「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」という日蓮仏教に反した方向性を持っているといえる。さらに日蓮が、
「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし」(日蓮)
と戒めていることにも反するものである。
 たとえこの詩文が、文学作品としての文学性を重視した心情から出てきた表現であったとしても、明らかに日蓮仏教に対して、その目標に手が届かなかったことからくる敗者のわびしさが流れている。
《ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ》  (賢治)   
 賢治が信仰に燃えたっていた時、目指していた仏国土は、「吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世」となるはずであった。そしてその仏国土を建設するためには、「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(日蓮)とあったように依正不二の原理で信仰の力によって自然現象をも人間の幸福のために最も良い形で働きをなしていくようにすることができるはずであった。ところが「雨ニモマケズ」に至って、日蓮仏教の法力もむなしく、ただ、「ナミダヲナガシ・オロオロアル」くことしかできなくなったのである。
 この部分に、苦しむ人々と同苦する仏の生き方を見いだすこともできなくはない。しかし、仏教における同苦は、
「一分の科なき身が十方の大阿鼻獄を経めぐるべしいかでか身命をすててよばわらざるべき涅槃経に云く『一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり』等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(日蓮)
とあるように、苦しむ民衆と同苦して、人間救済のめに身命をかけて仏教を説いてゆくところに主眼がある。単なる同情で人間を救うことはできないというのが日蓮仏教である。ところが賢治の詩文からは、消極的な諦めに近い同情心しか伝わってこない。
《ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ》  (賢治)
 ここの部分は、東西南北へ人々の幸福のために尽くすのだが、相手にされない姿が描かれている。これは、法華経常不軽菩薩品に説かれている不軽菩薩の姿を彷彿とさせる。しかしやはり、法華経や日蓮仏教における不軽菩薩とは本質的に異質なものとなっている。不軽菩薩はすべての人間の心の中に仏が存在するので、会う人ごとに相手の心の仏に向かって礼拝する修行をした。その結果として、暴言、打擲、迫害を受けた。しかし結果的にその礼拝行のおかげで、優れた仏の境涯を得ることができるという悦びへと結びついている。
 賢治の言葉からは、人々の幸福のために真剣に尽くしたものが、当然の報いとして得ることができる果報、幸福境涯というものが浮かんでこない。ただ、ナルシズムに近い自己満足の姿だけである。それは外道と違って、因果律を厳しく定める内道である仏教の本流に反したものである。
「雨ニモマケズ」における「ワタシハナリタイ」と望む「サウイフモノ」は、日蓮仏教の信仰者としての延長線上に現れてくるものではない。むしろ、日蓮仏教への絶対的な確信から常識的な信仰になり、熱に浮かされていたような状況から冷たく醒めたような心情から出てくるものである。明らかに、日蓮信仰への確信が揺らいでいると言える。
 その揺らぎとは、「日蓮遺文に書かれていることは宗教的理想であって、現実に生きている人間には有り得ない事ではないのか」という信仰の根源に根ざすものである。
「雨ニモマケズ」が書かれた手帳のすぐ後には、次のように書かれている。
《南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如来
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩》 (賢治)
 これらは、日蓮が本尊に書き入れるように指示された言葉である。賢治は「雨ニモマケズ」に現れた心情に陥りながらも、なおかつ日蓮仏教に信仰心を寄せている。ここには彼が、日蓮の教えのように願いや祈りが叶わなかったとしても、それでも信仰心を持ち続けていこうとするひたむきな姿勢を伺うことができる。


(四)不軽菩薩

「雨ニモマケズ」が書かれた手帳の六十ページほど先に次のように書かれている。
《あるひは瓦石さてはまた
 刀杖もって追われども
 見よその四衆に具われる
 仏性なべて拝をなす
 不軽菩薩》 (賢治)
 さらに、これが書かれた手帳の次のページには、未定稿の文語詩「不軽菩薩」の原型が書かれている。賢治が信仰を貫きながら人生の終わりに近づくに連れて不軽菩薩に心が引かれたことがわかる。
 賢治が、理想的な人物像として具体的に生きるうえで模範としたのは不軽菩薩であった。
 不軽菩薩は、法華経常不軽菩薩品に描かれた修行僧である。威音王仏の時代、という釈迦がこの世に生まれるはるかかなたの大昔に出現して、一切衆生に仏性があるとして二十四文字の法華経を説いて、衆生を礼拝し軽んじなかった。だから不軽菩薩と名付けられた。二十四文字の法華経というのは、
「我深敬汝等、不敢軽慢、所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏」(我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず、所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)(法華経)
のことである。人々は不軽菩薩を軽蔑し、杖で殴ったり石を投げつけたりして迫害を加えたが、不軽菩薩は礼拝行を止めなかった。この時、不軽菩薩を軽んじた人は、千劫という長期間の間、無間地獄に落ちたが、法華経を聞いた縁によって救われた、という故事である。
 賢治はこの不軽菩薩をテーマにした未完の詩「不軽菩薩」を残している。
《あらめの衣身にまとひ
 城より城をへめぐりつ
 上慢四衆の人ごとに
 菩薩は礼をなしたまふ》 (賢治)
「上慢四衆」というのは、慢心を起こして思い上がっている出家、在家の男女のことである。彼らに対して不軽菩薩は説法をしても通じないと知りながらも、すべての人間の心には仏が存在すると確信しているので、会う人ごとにその人の心の中の仏に対して礼拝をした。この箇所からイメージされる不況菩薩の姿というものは、「雨ニモマケズ」の「サウイフモノ」を彷彿とさせる。
《(われは不軽ぞかれは慢
  こは無明なりしかもあれ
  いましも展く法性と
  菩薩は礼をなし給ふ)》   (賢治)
「無明」というのは物事をありのままに見られない迷いの心であり、真理を見極められないことである。人々は皆、無明だから不軽菩薩の礼拝行の意味が分からない。しかし不軽菩薩は、どのような人間であろうとも必ず成仏する可能性を持っているのだから、「展く法性」即ち心の中の仏、悟りを顕現することができると、礼拝をなすのである。
《われ汝を尊敬す
 敢えて軽賎なさざるは
 汝等作仏せん故と
 菩薩は礼をなし給ふ》(賢治)
 無明の相手に対して軽蔑せずに、尊敬するのは、
「我不敢軽於汝等、汝等皆当作仏」(我れは敢えて汝等を軽んぜず、汝等は皆な当に作仏すべし)(法華経)
とあるからである。どのような迷妄な人間であったとしても必ず縁に接することによって仏になることができる。いわばすでに仏なのである。だから不軽菩薩は仏を礼拝するように人々を拝んだのである。賢治が「デクノボー」といわれても人々の幸せのために働きたいという気持ちの淵源はここにある。むしろ「デクノボー」の言葉に誇りさえ感じられるのは、取りも直さず仏の所作であるからにほかならない。
《(ここにわれなくかれもなし
  ただ一乗の法界ぞ
  法界をこそ拝すれと
  菩薩は礼をなし給ふ)》  (賢治)
「法界」というのは宇宙の森羅万象のすべての現象のことであり、そこに貫かれているものが仏教の本質である。こういう仏教の本質論から言えば誰とか彼とか、老若男女の区別など全くない。すべての人々が仏であると悟れば、誰にでも手を合わすことができる。
《この無智の比丘いづちより
 来たりてわれを軽しむや

 もとよりわれは作仏せん
 凡愚の輩をおしなべて
 われに授記する非礼さよ
 あるは怒りてむちうちぬ》  (賢治)
 ここは礼拝された人々が不軽菩薩に対して無明の故に、迫害をする箇所である。常不況菩薩品に記されている、
「是無智比丘従何所来、自言我不軽汝、而与我等授記、当得作仏、我等不用如是虚妄授記」(是の無智の比丘は、何所より来って、自ら『我は汝を軽んぜず』と言って、我れ等がために『当に作仏することを得べし』と授記す、我れ等は是の如き虚妄の授記を用いず)(法華経)
という部分を典拠に創作されている。「授記」というのは、仏が優れた弟子に対して未来において成仏すること保証することである。本来であれば、授記を受けることは、最高の誉れである。ところが、授記を与えてくれる相手が、外見的にりっぱに見える仏ではなくして、「あらめの衣身にまと」った「無知の比丘」と見える不軽菩薩だったので、「お前のような者から授記を受けなくても、もともと自分は優れているので成仏するのだ。それを、愚かな者と一緒にして授記を与えるなどというのは失礼この上ない」と怒っているのである。そして鞭で不軽菩薩を打擲(ちょうちゃく)する者もいた。それでもなお相手を礼拝し続けたのである。
 詩「不軽菩薩」は未完ではあるが、そこから見えてくる「賢治の不軽菩薩」像はまたしても、法華経や日蓮仏教から出てくる本来の不軽菩薩の姿とは異なっているのである。法華経において釈迦は不軽菩薩のことを、
「爾時常不軽菩薩豈異人乎、則我身是」(爾の時の常不軽菩薩は豈に異人ならんや、則ち我が身是なり)(法華経)
と明かされ、不軽菩薩は釈迦の過去世における修行時代の姿であると示されている。法華経は因果の理法が基底に流れている。過去の因によって現在の果があり、現在の果を因として未来の果がある。日蓮は不軽菩薩について、
「日蓮も又かく責めらるるも先業なきにあらず不軽品に云く『其罪畢已』等云々、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし」(日蓮)
と書いている。この文にあるように、不軽菩薩が礼拝行をして罵詈打擲の迫害を受けたのは、過去世において正法を誹謗した因によりその結果として罰を受けたのである。そして礼拝行という仏道修行をすることによって受けた罵詈打擲を因として「其の罪畢え已って」(罪を償い終えて)、そして仏という果を得たのである。それは日蓮も同じで「かく責めらるる(佐渡流罪)」のも罪障消滅のためである。このことをさらに日蓮は次のように述べている。
「当世の王臣なくば日連が過去謗法の重罪消し難し日連は過去の不軽の如く当世の人々は彼の軽毀の四衆の如し(中略)いかなれば不軽の因を行じて日連一人釈迦仏とならざるべき」(日蓮)
 不軽菩薩にしろ日蓮にしろさまざまな迫害は、素晴らしい境涯を開くための因であり、結果として思い通りの仏の悟りを開いている。これに対して賢治はどうであったのか。
「雨ニモマケズ」を読むと、全ての人々の成仏、幸福を願って迫害にも屈せず礼拝を続けた不軽菩薩の精神を彷彿とさせるものがあるが、しかし「不軽の因を行じて」いるはずなのに、最後の部分である「ミンナニ デクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」(賢治)を読むと日蓮や不軽菩薩が得た「仏」を求め期待していないことが分かる。奉仕することに対する代価、報酬を初めから放棄している。
 法華経、日蓮遺文は全編通じて、単純な犠牲精神を教えた箇所は一箇所もない。否むしろ、善行をなせば因果の理法の必然として善果が得られるのだから、そうなるように修行しなさいと説く。さらに日蓮は、善行が善果に繋がらないのは宿業(宿命)であるから唱題、折伏を行じることによりそれを転換して、善果が得られるようになるための信仰であると明確に説いている。
法華経にしろ日蓮遺文にしろ徹底して精読していた賢治は不軽菩薩の意義は十二分に理解していたのに、なぜ結果を求めなかったのか。それは現実の賢治の肉体と生活の状態から放棄せざるを得なかったのである。肉体は結核菌によって確実に冒されてゆき自由に動けなくなり、経済的にも実家に頼らざるを得ない状況になってくる。この現実を直視する時、真摯な賢治は客観性の無い、観念的自己満足的な善果を言い訳のように表現することをしなかった。
「かなしいかな 前障いまだ去らざれば また清浄の光明なく 人を癒やさんすべもなし」(賢治)
このようにむしろ素直に我が身の現実を認めて、それでもなお菩薩道を歩んだのである。
賢治にとって、菩薩行もまた折伏行と同じく、ある意味で挫折したといえる。彼は純粋に法華経を信じ日蓮の教えを信じていたがゆえに、さまざまな障壁があったにもかかわらず、教えの通りに実践をした。そのために肉体も酷使した。そしてその結果は、いずれも釈迦や日連の教えの通りにはならなかった。
 反面から言えば彼は日連や釈迦に裏切られたともいえる。本来、釈迦も日連も何のための信仰かといえば、人間の苦悩を乗り越え、根本的な生死の苦しみさえも解脱(げだつ)して絶対的幸福境涯になるのが目的である。ところが賢治の心身共の苦悩は一向に解消することはなかった。それなのに彼はなおも日蓮仏教の実践を貫いた。
「当起遠迎、当如敬仏」(当に起って遠く迎うべきこと 当に仏を敬うが如くすべし」(法華)
この文の通り、死の前日にも農民の肥料の相談に乗っている。この日は急性肺炎で症状は非常に悪く、父政次郎は最悪の事態を考えるほどであったが、午後七時頃、訪ねてきた農民に対して、衣服を改め玄関の板の間に正座して相談を受けたという。
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは、いかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候けるぞ」(日蓮)
釈迦が世に出現した究極の本意、目的は、高尚そうな仏教学や現実から遊離した空理空論の説法ではなく、一人の人間としての「人の振舞い」を説くことであった。賢治はこの「人の振舞い」を死の直前まで貫いた。彼は何の果報も求めない仏道の行者であった。


第Ⅳ章 【空】

(一)仏教文学
 
 仏教文学という研究分野がある。あまり一般的ではないが、仏教文学界という組織もある。仏教文学の定義は千差万別で、研究者の個人の判断に任さされているともいえる。研究者も、興味を示す人も少ないので、厳密な言葉の定義などはあまり意味がないのかもしれないが、大きく分類すれば三つに分けることができる。
 第一には、仏教の経典や宗祖の教本そのものを仏教文学であると考えるものである。経典にしろ教本にしろ、言葉を使って伝えたい世界を表現していることは間違いない。その世界が宗教的なものであったとしても、より効果的に読者に伝えようと思えば、言語の使い方をさまざまに工夫をして書かれることは言うまでもない。理性に訴えるために、研ぎ澄まされた言葉でもって明瞭に世界が表現される場合もあるし、また、感情に訴えた方がより的確に表現される場合は、言語の音楽性も考慮して読者の感性に直接働きかけるような言葉遣いにもなる。本来は、宗教的世界を教えるための方法論としての言葉であったのが、言葉そのものが精錬されて深い文学性を持つようになった。
 確かにさまざまな経文や教本を読むとき、信仰心とは関係なく、文学的表現に感嘆することが多々ある。法華経を優れた文学作品であると考える研究者もいるくらいである。ただ、賢治は法華経や日蓮遺文を文学作品とは一切考えていなかった。それらを文学作品と同等に見ることは、聖に対して俗を持って解釈するような一種の冒涜と思えていたのである。賢治にとっては仏教は、あくまでも自らの人生も生命も賭けて悔いのない純粋な信仰の対象であった。
 ただ、彼の書いた作品の中には、数は多くはないがこの第一類に属する様なものがある。例えば、「法華堂建立勧進文」や「不軽菩薩」などの作品があげられる。前者は日蓮の存在の由来と意義を述べて、日蓮という仏の素晴らしさを述べたものであり、後者は不軽菩薩の修行の姿を賛嘆したものである。いずれも詩が書かれた目的は、仏や菩薩の優れた特質の宣揚にある。さらに使われている用語は仏教関係の言葉で占められている。
 賢治自身が、これらの作品を書く時、詩としての優れたは文学性を意識するよりも、経文のように仏の賛嘆を第一義としていた。だから、別の面から言えば賢治の狙い通り、文学的レベルは高くないものになっている。
 第二には、作品全体の中で、適度な仏教用語を使って、適度な部分を占めて記述されているものである。これが最も多い。仏教説話から平家物語や方丈記までもその範疇に入るだろう。研究者の中には徒然草や源氏物語までも入れる者もいる。確かに、少しでも仏教用語や仏教関連の事柄が記述されていると第二類の仏教文学の中に入るとすると日本文学の中ではかなりの作品が仏教文学になってしまう。当然、どの程度のレベルで線を引くかは大切な課題になる。
 賢治の作品の中でもこの部類が最も多い。「二十六夜」のように仏教説話に近い作品も多くある。これらの作品は仏教の布教や人々の信仰心を増すことを目的に書かれたものである。
 賢治は日蓮仏教の布教を自身の生きている意味、使命と感じて、そのために自らの文才を最大限に利用しようとして、短期間の間に膨大な原稿を書いた期間もあった。それらの作品では、意図が直截になればなるほど、文学性よりも布教の効用が優先されたのは致し方のないことである。文学を、布教のための方法論として書いているが故に、やはり第一類と同じように作品そのものの文学性としては低いものとなっている。
 また、第二類の賢治の作品の中には、文学世界の完成を目的にして、そのための方法論として仏教関係の事柄を取り入れているものがある。この傾向の作品も非常に多い。ここに賢治文学の真骨頂があるともいえる。例えば「永訣の朝」の最後の部分で、
「どうかこれが兜卒の天の食に変わって やがてはおまへとみんなとに 聖い資糧をもたらすことを わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」(賢治)
とある。ここでは仏教世界を述べて終わりにしているが、決して仏教への勧誘や賛嘆をしているわけではない。賢治の妹に対する死後の世界までも貫く深い思いやりの心が表現されている。それは単に仏教から離れた表現でつづるよりも、はるかに賢治の時間的空間的広がりの大きな感情が読者に伝わってくる。この表現により「永訣の朝」は文学世界の優れた完結を見ることができたのである。
「方丈記」の最後の部分も、
「ただかたはらに舌根をやとひて 不請の阿弥陀仏両三返を申してやみぬ」
と書かれている。ここでも、仏道修行によって悟りを開き、すべての事象を迷いなく透徹して見抜く目が備わった者の表現ではなく、どのような場所でどのような生き方をしようが、結局、悩める人間としての鴨長明の真実の姿が表現されている。もちろん読者に念仏を勧めているわけでもなければ、悟りの世界の賛嘆をしているわけでもない。それゆえに、「方丈記」の文学世界はますます魅力的なものとなったのである。
 第三には、直接、仏教関係の言葉や事柄は出ていないが、作品の底流に仏教思想が流れているものである。これは仏教が一度、作者の中に入り、そこで消化されて血や肉となって作者の存在に同化して再び、文学作品として現出してくるものである。広い意味で言えば、仏教が人々の生活の中に定着し、文化にまで昇華された時代に出てくる文学作品は、この分類に入れられる。したがって古典文学の多くのものがこの中に入ってくる。ただ、第二類と同じように仏教文学の範囲をどこまでにするかという線引きを明確にすることはできないであろう。
 賢治の直接仏教に関係のない作品でも、第三類を広く解釈すればほとんどこの分類に属することになる。仏教文学の目から見れば賢治の、一見、仏教とは関係ないように見える作品にもいたるところに仏教思想があふれている。
 例えば「風の又三郎」の中には、
「僕たちの方ではね、自分を外のものと比べることが一番はずかしいことになってゐるんだ。僕たちはみんな一人一人なんだよ」(賢治)
とある。これは、日蓮が「無量義経六個の大事」の中で書いている、
「是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり」(日蓮)
などが根拠になっている。仏教を保った人間の生き方がどのようなものであるかを説明している。人間一人ひとりの個性は千差万別である。仏教を保つことによってそれらが何か一つのものに統一されるのではなくして、桜は桜、梅は梅、桃は桃、スモモはスモモとそれぞれの個性、人間性がありのままの姿で、最高に生かされ発揮される。このことが無量義経の「量」の意味することである。無作三身とは、
「はたらかず、つくろわず、もとの儘と云う義なり」(日蓮)
ということで、自分の本来のありのままの姿を意味している。それは他人との比較によって自分の姿を取り繕ったり、自分の優越性や自己顕示欲を満足させたりするものではなく、かけがえのない自分にしかないものを発揮していく生き方が仏教にかなっているという教えである。賢治の生き方にも共鳴するものが、又三郎の会話の中に表現されているといえる。
 さらに、「雨ニモマケズ」の詩の中には、仏教用語や関連した事柄は全くないが、法華経常不軽菩薩品に出てくる不軽菩薩の生き方が二重写しになっていることは誰もが認めるところである。
 賢治の作品を仏教文学という観点から観たが、作品の多くに仏教の影響が大きく出ているといえる。ただそれは、賢治が仏教の信仰によって文学的才能が開花し、多くの作品を書いたというよりも、もともと備わっていた文学的素養が、仏教を借りて発揮されたと言った方が正しいだろう。


(二)「春と修羅」序

賢治という文学者は特異な文学者であることは今さら言うまでもない。それは、難解な詩と簡略な詩が混在していることにも表れている。彼の詩は大変わかりやすい、小学生でもよく理解できる詩があると同時に、現在まで完璧には解釈出来得ていない難解なものもある。この二つの分野の詩を正しく関連付けることが、賢治の、作品にとどまらず人間を理解するうえで必要不可欠である。例えば、第一詩集「春と修羅」における最初の「序」と題名がつけられている詩は非常に難解なものの代表であるが、それとだれでもよく知っている「雨ニモマケズ」はいくら関連付けようと思っても関連付けられない気がする。しかし、賢治の心の奥底を覗く時、全く矛盾がなく二つが結びつくのである。
 この二つを結び付けるものが法華経であることを指摘する人はいる。だが、法華経を一般的なレベルでいくら研究しても二つの詩は結びつかない。やはり、二つの詩を結び付けるのは日蓮仏教なのである。「序」が書かれた時期は、賢治が日蓮信仰に情熱を燃やしていた時期である。文学に対しても日蓮仏教から大きな影響を受けていた。
 賢治の作品には、難解なものと平明なもの、また、ひとつの童話においても少年少女的な読み方と深い哲学性を見いだす読み方というように二面性をもっているものが多い。このような二面性が日蓮遺文集にも見いだすことができる。日蓮遺文集を読むとき、「御義口伝」といわれる難解な法門と、分かりやすい消息文が混在している状況は、「序」と「雨ニモマケズ」が一人の作者の作品の中に存在していることと共通している。
「御義口伝」は釈迦の法華経を日蓮仏教から解釈すればどのように読むべきかを、弟子の日興に口伝されたものである。それを日興が書き残したのである。この遺文を読解できるかどうかが、日蓮仏教を理解できているかどうかの判断基準ともなる、非常に難解な遺文である。逆に消息文には例えば、「上野尼御前御返事」のような、当時の難しい法門などとは関係のない婦人でも十分に理解できるやさしい表現で書かれたものもある。ただしやさしい表現の中に深遠な仏教の法門が沈められているのは、賢治の童話と共通している。
 賢治がこの二極にあるものを同時に持つことができたのは、日蓮仏教の本格的な実践を通して体得したものが二つを結び付ける働きをしたからにほかならない。端的にいえば、二つの詩の相違は、表現しようとする本体は同じだったが、「理」と「事」の立場の違いである。「理」「事」というのは、理の一念三千と事の一念三千ということである。この二つの違いについて日蓮は、
「一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(日蓮)
と書いている。この遺文の部分は、日蓮仏教の本質を明快にしたところである。「序」は理の一念三千を表現したものであり、「雨ニモマケズ」は事の一念三千の表現といえる。この二つの詩は日蓮仏教の一本の太いパイプによって結ばれている。
 また、仏教文学における文学と仏教の関連を考えるとき、賢治の「序」は実に異質な存在である。これまでの仏教文学という言葉の概念からはとらえられない全く新しい仏教文学の世界を現出している。
「序」の詩について日蓮仏教的な観点から見てみる。
《わたしといふ現象は
 仮定された有機交流電灯の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)》(賢治)
書き出しのわずかな分量の言葉の中にも見事に日蓮仏教の精神があふれている。この四行の言葉が理解できなければ恐らく、この後の詩句は表面的な解釈になってしまうだろう。
まず、「私という現象は」といいう表現は、自己を客観視して、しかも現象という言葉からも分かるように単なる賢治の個人の個性や特別な存在といったような個別性を超えた普遍化された自己という表現になっている。ここで特に、自己自身を、すなわち人間も現象と捉えたことは非常に大事なポイントである。日蓮仏教においては人間の生命的存在は現象なのである。長い連続した生命の流れの中で、この地球上に生命体として発生するのは、大きな生命の流れの中のひとつの現象の表れなのである。したがってこの一行は宮沢賢治という一個の人間の主観から飛び出して、自己を客観化し、さらには生命の普遍化への道のりの出発を表したものである。
すなわち、生命は永遠なものであり、宇宙の存在とともに絶対的な存在として在り続けているものである。その存在は、有るとか無いとかでとらえられるものではない。西洋式な有無によって物事をとらえるのでは、仏教を理解することもできないし、賢治文学を深いところから味わうこともできない。
 賢治は、自分の命は宇宙の絶対的な生命の存在のひとつの現象としての現れである、と書き出しているのである。さらに賢治個人を象徴として表現しているだけで、背後にはすべての生命体を含んでいる。たとえて言えば地球という大地の表面にさまざまな植物や動物などの生命体が存在しうるように、しかもそれらは生々滅々を繰り返しながらも存在し続けているように、宇宙生命とでもいえる大地の上に賢治という一個の生命体としての現象が生じているのである。その宇宙生命とでも言えるものが日蓮仏教で説く本体にほかならない。
 次に、「仮定された」と続く。この仮定は、日蓮仏教の生命観から出てきた言葉である。日蓮仏教においてはわれわれの生命は仮に和合して形として見えるようになったと説いている。すなわち絶対的存在としての宇宙の生命体が、具体的なさまざまな動物や人間や魚等々千差万別の生命体に仮に形を整えて表れてきているのである。
 ここで、賢治の心の中の広さというものは、ただ単に自分の個別性から離れて人間的な普遍化された状況になったのみにとどまらず、すべての生命体へ平等な愛情を注いでいるのである。考えれば、人間のみが生命体でないことは言うまでもない。もしも人間の生命だけを優先するような考え方の者が増えてくると、さまざまな自然破壊の問題が出てくるであろう。他の生命体の犠牲の上に出来上がる人間の幸福は、いつの日かしっぺ返しを食らうことにもなる。ある意味でいえば、賢治は現在の人類社会が突き当たっている壁をも大きく突き抜けた境涯であったともいえる。
仮定されたとは、仮に人間としてさまざまな要素が集合し合って出来上がったということである。
「有機交流電灯」という言葉は、ひとつの言葉として理解してはいけない。これは日蓮仏教における生命のとらえ方のひとつを表現したものである。有機、交流、電灯のそれぞれ一つひとつが生命の存在のあり方を表現している。有機というのは、生命体の特質を表現している。生きているものが無機質ではないことは言うまでもない。とするならば、この宇宙も無機質なものではないといえる。
 日蓮仏教の生命観というものは、宇宙即我、我即宇宙なのである。さまざまな生命体は小宇宙である。宇宙と小宇宙とは一体である。お互いにさまざまな影響を相互に及ぼしながら存在している。その交流を、交流と表現した。直流は、プラスとマイナスが固定している。それに対して、交流はプラスとマイナスがお互いに入れ替わる。地球上のひとつの小さな生命体も大宇宙の大きな生命体と常に交流しながら存在している。いや宇宙の大生命体があるからこそ小さな生命体も存在しうるのである。これは二つのものが本体は一体であることを表している。
さらにそれらは、単なる理論的な存在ではなくて、生きて活動し、光として輝いている電灯なのである。電灯は単なる理屈でもなければ単なる無機質なものでもない。実際に活動し、さまざまなものにも悩んだり、また喜んだりしながら生きている人間の実像を表している。
次の四行目には
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
とある。この行は、前の三行を言い換えた表現である。前の三行もこの一行も、生命とは何かを表現したものである。( )でくくられているのは、同じ内容を短い表現で言い換えたことを表している。この手法は法華経にはよく使われている。一度、表現したものを、二回目には短い言葉でより分かりやすく同じことを書いているところが非常に多い。
「あらゆる」という言葉の意味しているものは何か。法華経は釈迦の説いた経文の全体の流れの中での位置付けからすると、円経といわれる。円経というのは、円が丸いことを意味しているように、欠けたところのない、欠点のない、全体を含んだ経文ということである。いわば、海がさまざまな大小の川から流れ込むすべての水を受け入れるようなものである。釈迦の説いたすべての経文が法華経の中には入っているということである。さらにそれは末法においては日蓮仏教を意味する。別の観点から言えば、一切の経文は日蓮仏教を出ることはないということである。
 日蓮仏教は生命の本体を説いたものであるがゆえに、「あらゆる」という言葉の中にはすべての生命体を余すところなく含めているということを意味している。
 「青い照明」「透明」というのは、あやふやなところがない明確な、という意味に使っている。生命というものの存在を時として、何かわけのわからない、不合理な、つかみどころのない世界のものであるかのように言う場合がある。しかし、釈迦や日蓮が説いた生命観は明瞭、明確である。
 特に法華経における生命観というものは実に論理的なものである。それは一念三千論といわれ、一分のすきもない生命論である。まさに透明という表現がぴったりの生命観なのである。
 次に、「幽霊」という表現だが、これも仏教の生命観を表した言葉である。法華経のなかで、生命とは何かを端的に表した部分が無量義経徳行品にある。この品の中ほどのところに三十四個の非という漢字を使って述べられているのがそれである。参考に始のところだけを書き出す。
「その身は有に非ず 亦無に非ず 因に非ず 縁に非ず 自他に非ず 方に非ず 円に非ず 短長に非ず 出に非ず 没に非ず 消滅に非ず」(法華)
と長く続いてゆく。初めのその身という言葉は生命の姿そのものを指している。三十四個もさまざまな角度、さまざまな次元からの否定がなされると、もう、幽霊としか表現のしようがないことになる。そして、その本体は、ひとつという単純なものではなく、さまざまな要素が重なり合い、結びつき、関係し合って成り立っている。それを複合体といったのである。
 ここの部分はもう一歩深く考察してみる必要がある。それは日蓮仏教の生命論の理論的な裏付けとよく似ているからである。すでに解説をしたが、一念三千論を再度、確認したい。
「あらゆる透明な」というのは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏という十界の様相を指しているといえる。この十界論は明快な分析である。そして、この十界にそれぞれまた十界が互具して百界となる。十×十は百というように透明な論理といえる。
次にそれぞれの界に十如是が備わっている。十如是というのは方便品第二に説かれるものである。生命の存在を十の次元からとらえたものである。相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等。この十の生命のとらえ方は、生命を立体的にとらえたものである。そしてこの十界互具と、十如是が掛け合わされて百界千如となる。さらに、これらの生命が実際に活動する場はどういうところなのかを三つの観点からとらえていく。それは国土世間、五陰世間、衆生世間の三世間である。このように一つの生命体は、三千というあらゆる要素を取り入れて成り立っている複合体と言える。(あらゆる透明な幽霊の複合体)なのである。
冒頭の四行は、仏教用語はまったく使わずに、日蓮仏教の生命観を表現したものである。そして、技法においては論述したり、単なる宗教的讃嘆をするのではなく、詩的、文学的に昇華させた表現となっている。続いて、
《風景やみんなといっしょに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち その電燈は失われ)》
とある。「風景やみんなといっしょに」とある部分は、生命の存在が、他のものから切り離されてそれのみで存在するものではないことを意味している。環境や、その他の生命の存在との関連の中で自分自身の生命も存在していることは言うまでもない。さらにまた、大きく言えば、宇宙生命とでもいうべき絶対的存在の中に、さまざまな無限の生命の存在がありうるともいえる。
仏教の中の教えに「依正不二」という経文がある。生命存在の本質を見極めていくならば自分自身の生命と周囲の環境や他の生命とは一体であることがわかる。それが不二である。賢治自身の生命も周囲の風景やみんなと一緒に、一体となって存在しているのである。
「せはしくせはしく」というのは、森羅万象すべてのものの存在の有り様を示している。およそ、この世に存在するすべてのものは変化の連続であるのが真実の姿である。諸行無常という言葉を出すまでもなく、この世に永遠不滅の絶対的な存在というものは、存在そのもの以外にはありえない。しかも、よく見れば、一瞬たりとも同じ姿をとどめていることはない。
海岸に波が打ち寄せ、何万年という長い間に削られる岩にしても、一見すると、百年二百年では変わらないように見えるかもしれないが、真実の変化の相は一回の波で岩はわずかに削られているのである。その繰り返しが大きな変化へと続いている。すべてのものが、一瞬たりとも同じ様相を保っていないことを、せわしくせわしくと表現したのである。まさに、存在物はせわしく変化しているといえる。
 それらが、明滅しながら存在しているのである。有無の概念は西洋的な考え方である。物事の存在があるかないか、のどちらかでしか捉えられない狭い把握の仕方である。それ対して仏教は、あるなしを超えた存在をとらえている。この明滅は、明はあることを意味し、滅はないことを意味しているが、これらの明滅は、西洋的な完全な有無ではない。だからこそ、その後に続く、「ともりつづける」という言葉に続くのである。
 科学が発達するにつれて、絶対的無というものはあり得ないことが証明されてきた。以前であれば真空といえば完全に何もない空間であると考えられた。しかし実際にはさまざまな電波や、電磁波や、その他さまざまな宇宙線が飛び交っているのが分かった。また、磁場や引力の影響も、その空間には働いていることも分かった。これらは、世の中に存在するものが有ると無いとかという二極的な単純なとらえ方では真実を把握できないことを意味している。
西洋哲学の根底にある、それはキリスト教的発想から出てきているものであるが、あるなしの物事の把握の概念は一面的なものといえる。それに対して、仏教の存在の把握の論理というものは格段に深く高く、真実のものごとの存在の把握に迫るものである。なによりも、物事が存在する、その大前提である存在させうる空間こそは、有るとか無いとかに影響されない永遠的な存在である。
「いかにもたしかにともりつづける」という行はこのこと表現している。「たしかにともりつづける」この言葉を言い換えれば、間違いなく永遠に存在し続けるものがあるということである。さまざまに千変万化の変化を繰り返しながらも、他ならぬその千変万化を繰り返す「場」は永遠不変である。生命の存在は、宇宙の存在が無始無終であるように、有無の概念を超えて存在している。
有無として捉えられる生命の外面的な様相はさまざまに変化させながらも生命そのものの存在は永遠に宇宙の存在とともに続いている。それが、「いかにもたしかにともり続けている」ところである。
「因果交流電燈」という詩句は、非常に大切なポイントである。特に因果という言葉は十分に注意する必要がある。因果という言葉を賢治は法則として把握している。それは言うまでもなく、日蓮仏教の因果論である。物事のすべては、原因があってその結果が存在しうる、この法則から逸脱するものはありえない。おおよそ、すべてのものの存在のありようというものは、原因と結果の永遠の連続であるといえる。因果律を無視した存在というものはあり得ない。
もし、因果律を無視して起こっているように思える現象、あるいは存在があったとしてもそれは実は、もっと広く深く観察する眼が行き届くならば、結局は因果律の法則のもとに成り立っていることがわかる。「交流電燈」については同じ言葉が前のところにも出ていだが、いずれにしても、この宇宙における物事の存在というものは常に変化、変化の繰り返しであるといえる。それを交流電燈と表現した。
「ひとつの青い照明です」という言葉も前に出てきた一行と全く同じである。賢治は、色彩でいえば青く澄んだもの、どちらかといえば寒色系が好みであったような気もする。おそらく寒色系は、賢治の心の状態とあい通じるものがあったに違いない。それは明晰な頭脳と明晰な事物への判断を意味している。
(ひかりはたもち その電燈は失われ)とある( )は前に出てきたものと同じように使われている。前の行を次元を変えた表現でまとめている。「ひかり」というのは賢治自身の生命の現れを意味している。そして「電燈」というのは、それを生み出した本体といえる。したがって、この行は、ひとつの生命が発生すれば、それは表面的に見れば、それ自身が主体的自主的に生命活動を開始する。その状態はあたかも、電燈は失われ、という表現から想像される状態である。すなわち、胎内の子供が外部の世界へ生まれて出てくる、そして、母親と子供のからだがつながれていた臍の緒が切られる。これが「電燈は失われ」である。子供は独自に栄養を取り、独立した生命体として成長していくのである。続いて、
《これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクを連ね》
「これらは」というのはもちろんこの詩集「春と修羅」に表現されたものである。それがおそらく二十二カ月前からペンで書き始めたのだろう。「過去と感ずる方角」という表現の中で、「感ずる」というところは一般的には理解しづらいだろうが、日蓮仏教の時間論からすれば、当然な表現といえる。
物事には、始めと終わりがあるようであるが、深く思索してみると、この宇宙には始まりもなければ終わりもないことがわかる。宇宙が終わったらどうなるのか、これは絶対に考えられないことである。宇宙が絶対無になることはありえないからである。すべての存在が完全に無くなるわけがない。個別的には地球が誕生し、そして発展し、やがて熟して、最後になくなって終わってしまう。
この現象は、一見、始めと終わりがあるように思えるが、地球の終わりは新しい何かの出発にほかならない。宇宙の全体的な物質的なエネルギーといったようなものは不変なのである。地球が終わったからといってそれによって地球の存在そのものが絶対無になることはない。
例えば質量不変の法則がそうである。また、太陽が核融合反応によって物質が光のエネルギーに変換されて放射されているが、太陽が自らを削りながら出した光のエネルギーは百%、いずれかの惑星なり宇宙空間でエネルギーとして補給されている。すなわち太陽自体はエネルギーを失うだろうがそれと全く同じエネルギーを他のものが得ている。全体としては一切不変である。
 生命も生老病死という存在の変化のあり方を繰り返しながらも全体的には永遠不変のものである。そうすると、過去とか現在とか未来とかといったような概念は的確にこの時間の流れを表現し、把握する言葉とはなりえない。過去がすなわち現在なのであり、現在がすなわち過去でもあるのだ。同じく未来も過去であり、過去も未来なのである。日蓮は、
「夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり、過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」(日蓮)
と書いている。このことを久遠元初即末法と説かれている。もっとも遠い、これ以上遠いことはないものが久遠元初である。そして、最も近い現在が末法である。さらに、末法は、尽未来際と表現されているが、未来永遠をも意味する。宇宙の真実の姿というものは、過去も現在も未来も、混然一体となって存在している。まさに、時とは物理的に測られるものではなくして「感じる」ものなのである。したがって、二十二カ月前から詩を書き始めたにしても、それはその時に生きている人間が過去と感じる、というだけのことである。
「紙と鉱質インクをつらね」という表現の中には、紙や鉱質インクも、一見無機質のように見えるが、仏教の生命論から言えばすべて命あるものとしてとらえている感覚がうかがえる。命ある紙や鉱質インクによって賢治の詩の世界が描かれているのである。続いて、
《(すべて私と明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)》
 ここの( )の使われている意味も今までと同じである。今述べてきた事柄が全部、命ある賢治と一緒に明滅、すなわち存在し続けたということである。それらは、「みんなが同時に感ずるもの」すなわち、すべての生命体、すべての存在は、日蓮仏教の存在観からすれば何ら差がなく同じものであるから、一緒に感じられるものである。
それは、さまざまな個性を持った生命体、中でも人間にとってみても、確かに一人ひとりの個別性はあるが、その根底には生命の存在というすべてに共通した大前提が存在している。その次元では、まさに、感じるものは同じである。すなわち「みんなが同時に感じる」のである。したがって賢治が自分の個人的な感じを表現したとしてもその表現された根底に共通した絶対的な存在の生命観というものを持った上での表現なので、普遍性を持った表現であるということがいえる。「同時に感ずる」というのは非常に高度な普遍性を表している。続いて、
《ここまでたもちつづけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケッチです》
 最初の行の、「たもちつづけられた」という表現は、単に自分の書いた文章を二十二カ月間保っていたというのでは、言葉の表現と表現されている内容とに違和感を感じる。そういう単純な意味であるならば保ち続けるというのは不適切と感じられる。仏教において保つというのは、生命を保つ意味である。生きながらえているという意味である。すなわち、生命を保ち続けてきた、と考えるのが適切である。そしてそれは、「かげとひかりのひとくさり」という言葉は、影というのは自然や環境を意味する言葉である。また、光というのは物事の本体を表すものである。だから、切り離すことができないもので鎖と表現した。それらをあるがままの姿で表現した詩であると言っている。それが心象スケッチなのである。
 この「心象スケッチ」という言葉で賢治の詩の解答を得たように考える研究者がいるが、彼の言う心象というのはそんなに単純なものではない。少し前の表現の中に、みんなが同時に感ずるもの、とある。もしも研究者が言うように、心象スケッチが単純なものであったとしたら、みんなが同時に感ずるもの、とは言えないはずである。個性的なものであるはずだ。賢治の心象というのはそうではない。
 物事の存在を把握する深さというものはどのような段階を持っているのか仏教の中で考えてみなければ、賢治のいう心象を理解することはできない。
 仏教においてはまず、認識することを識という。順番に並べていくと、第一が眼識、第二が耳識、第三が鼻識、第四が舌識、第五が身識、第六が意識、第七が末那識、第八が阿頼耶識、第九が阿摩羅識、の九つである。これを九識論という。
人間の認識のレベルを外側の感覚から内側の生命の存在の根底にまでさかのぼっていく認識論である。賢治がいう心象というのは最も深い、最後の九識の要素がある。このように解釈すると、それは考えすぎである、あるいは、仏教的解釈に偏りすぎる、と批判されるかもしれないが、次の行に進んだときに、心象という言葉の意味を表面的な、辞典に乗っているような解釈をしたならば、理解ができないことになる。間違いなく、賢治は物事の認識を九識論の中に見いだしているのである。
賢治が認識している心象の世界では、個別性や個性性といったようなものは意味のないものとなる。生命の存在そのものの絶対的な普遍性に行き着くレベルである。だからこそ、共に点滅しながら同時にみんなが感じることができるのである。
 この後に続く詩句を見た時に賢治の文学的な世界の広さを明確に知ることができる。それは文学的という言葉で限定されるようなものではない。まさに、彼の境涯は宇宙大に広がっている。それは取りも直さず日蓮仏教の深遠さである。続いて、
《これらについて人や銀河や修羅や海胆は
 宇宙塵をたべまたは空気や塩水を呼吸しながら
 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
 それらも畢竟心のひとつの風物です》
 人、銀河、修羅、海胆、という言葉ば何の関連性もないように思えるが、実はそれらのすべては、生命の存在という観点から考えれば、いずれも次元をことにした、それぞれの代表的な生命的存在として挙げているということが理解される。
 今までにも何回も述べてきたように仏教においては、この世に存在するもの、宇宙の存在そのものも当然であるが、すべて生命的存在なのである。そしてそれぞれが、十界互具一念三千の当体である。それは、生きているがゆえに、宇宙塵を食べ、空気や塩水を呼吸しながら、と表現されてる。これらの存在の様態に対して、さまざまな人が、さまざまな存在の本質論も考えるであろうが、というのが、「それぞれ新鮮な本体論も考えましょうが」である。そして、結局のところそれらはすべて認識論であるから、「それらも畢竟心のひとつの風物です」ということになる。
「春と修羅」序の前半部分を読むと、賢治の、文学と宗教のとらえ方が、未だかつてない融合性を持っていることがわかる。「序」で表現された世界は、日蓮仏教の世界である。言うまでもなく「序」は文学であり日蓮仏教の世界は宗教である。いずれも文字によって表現されているが、明らかに文学と宗教の相違がある。賢治は日蓮の宗教世界を見事に文学として表出したのである。
「これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です」(賢治)
と言った彼の心意気が分かるような気がする。一面から考えれば、文学も宗教も絶対的存在である宇宙の実相を悟り、その一部、あるいは本質を表現したものであろう。この世界の、宇宙の根源は、時空間的に永遠の広がりを持っており、到達点というものがない。否、到達点が出発点であるような時空間である。そう考えれば、われわれが存在しているこの世界は、浪漫的であり魅力的な未知にあふれている。それを文学的手法によって描いたとすれば、紛れもない、宇宙的スケールの文学になるだろう。「序」はこれまでの仏教文学の範疇では捉えられない新次元の文学であるといえる。
「序」については、これまでさまざまの人が、さまざまの解釈をしている。そしてそれぞれの人が自らの解釈を賢治の真意に沿ったものであると確信をしている。これほど長年にわたり、さまざまに解釈される詩は日本詩史の中ではほとんどないのではないか。それほど「序」は無限の広がりの可能性を持った詩であるといえる。これからも、愛好家、研究者が新しい解釈を提案してくるに違いない。賢治は詩人冥利に尽きるのではないか。
 詩の後半は、同じ仏教的な解釈の繰り返しになるところが多いので省略する。

(三)信仰の行方

 賢治は、幼いころから家族の影響で宗教というものに触れてきて、信仰心がはぐくまれていた。十六歳の時、前にも引用したが、
「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」「仏の御前には命をも落とすべき準備充分に候幽霊も恐ろしく之無く候何となれば念仏者には仏様という味方が影の如くに添いてこれを御護り下さるものと承り候」(賢治)
と書いている。彼は、幼少のころから客観的に存在を証明できない、目に見えないものに対して親近感を持っていた。そして、絶対的な偉大な存在というものに自己を従属化、あるいは同一化させることによって安心感、幸福感を得ることができたのである。それだけ繊細な感受性を持っていた。
 別の面からいえば、自分を、人間を離れた絶対的存在に依存する傾向が強かったともいえる。小さくてひ弱な一個の人間として何にも頼らず、信仰を持たずに生きていくということは浮草の如き人生の不安を強く感じさせるものであった。二十歳の時には、
「この旅行の終わりのころの頼りなさ淋しさと言ったら仕方ありませんでした。富士川を越えるときも又黎明の阿武隈の高原にもどんなに一心に観音を念じても少しの心のゆるみより得られませんでした」(賢治)
と書いている。彼の信仰心、依頼心というものは成人しても強く残っていた。むしろ、思春期、青年期の精神の不安定さと結びついて強烈なものへと進んでいった。彼は信仰に対して、「心のゆるみより得られませんでした」とあるように、現実に信仰の結果として自己変革なり、利益なりが明確に出てくることを期待もし、確信もしていた。彼にとっての信仰とは単なる自己満足の心の慰めでも、形だけの参拝でもなかった。確かな絶対者の力を信じるものであった。そして、それに一生涯を、命をも捧げていく決意があった。
 このような土壌のもとで日蓮仏教と出会うことになる。日蓮仏教はまさに賢治が求めた信仰のすべての要素を満たしていた。彼は、
「末法の唯一の大導師 我等の主師親 日蓮大聖人に帰依することになりました」(賢治)
と、日蓮仏教が最高の信仰であると書いている。「主師親」というのは三徳のことで、主人の徳は衆生を守る力、働きのことであり、師の徳は衆生を指導する力、働きのことであり、親の徳とは衆生を慈愛する働きのことである。この三徳が具備されているのが仏である。彼はこれまでの信仰で抱いていた物足りなさは日蓮仏教に至って大きく変わり、十分に納得と満足を得ることができた。だからこそ、
「今日私ハ改メテコノ願ヲ九識心王大菩薩則チ世界唯一ノ大導師日蓮大上人ノ御前ニ捧ゲ奉リ新ニ大上人ノ御命ニ従ッテ起居決シテ御違背申シアゲナイコトヲ祈リマス。サテコノ悦ビコノ心ノ安ラカサハ申シヤウモアリマセン」(賢治)
という気持ちになったのである。「九識心王」というのは、前述した仏教における認識論である。九識は生命がものごと認識する働きを九種類に分けたものである。九種類の最初は五感で、順次、意識、無意識へと生命の働きの本源へと深化させていく。最後は第九識で、阿摩羅識と言い、生命の根源の清浄なものである。「心王」とは生命の働きの中心的な存在という意味で王とつけている。したがって、「九識心王」とは仏の生命である。これについて日蓮は、
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(日蓮)
と書いている。
 賢治は、日蓮に「御前ニ捧ゲ奉リ・大上人ノ御命ニ従ッテ・決シテ御違背申シアゲナイ」と並々ならぬ決意を書いている。彼は日蓮に対して自分のすべて、命までも捧げて、日蓮の教えの通りに寸分も違わない人生を送ることを誓ったのである。どうしてこれほどまでに日蓮に傾倒していったのか。その理由は彼が求めた信仰の理想像にあった。幼いころからのさまざまな信仰体験や、法華経と出会い感動したことは、確かに信仰心を増幅させるものではあったが、いわばぼんやりとした信仰心で、明確な信仰活動、さらに現実的具体的な目標などに結びつくものではなかった。一般的に考えられる信仰心に近い程度のものであった。ところが、日蓮仏教に出会うことによって一般的な信仰のレベルを超えて一見、異常なほどの、狂信と見えるほどの信仰へと進んでいった。それは日蓮仏教が、彼が渇仰して止まなかった、彼にとって最適、最高の教えであったからにほかならない。
 日蓮仏教を彼が最も優れていると確信した最大の理由は、日蓮仏教が実証主義であるということであった。このことについて日蓮は、
「 日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(日蓮)
と書いている。この文は仏教判別の原理を説いている。ある仏教教団の内実を判断する場合、まず一つには証文が真実であるかどうかということである。教団が拠りどころとしている経文が、本当に釈迦の教えであるのかどうか、である。釈迦は「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)(涅槃経)と遺言を残して、後世の人間が釈迦の偉大さを借りて作りだした教えなどに従ってはならないと戒めている。
 二つには道理である。その経文が釈迦の教えの中で最も優れた哲学性を持ったものであるかどうかである。釈迦は、「四十余年未顕真実」(無量義経)といって、法華経以外には釈迦の真実の悟りを表出していないと明確にしている。法華経までの教えを権経即ち、仮の教えであり、法華経こそが実経即ち、真意の教えであるとしている。よりどころとしている経文が、道理の最も深い釈迦の教えであるかどうかの検証である。
 三つには現証である。仏教の判別の最終段階は教えの通りに実践したとき、教えの通りの現実の成果が出るのかどうかである。信仰の功徳が、自己自身の中に、又実際の生活の中に第三者から見て客観的に現れるかどうかである。仏教の本来の目的は信仰する者を幸福にすることであるから、どんなに優れた経文があったとしても幸福にならなければ、その教えは、無価値であるといえる。
 この三つの仏教判別の原理は一般的に宗教全般についても当てはまる。さまざまな宗教のレベルを判断する時、まず教義が明確な形、例えば文字、教典などとして存在しているのか。次にその教義の内容は学問的に道理に照らして矛盾がなく、深く真理を説いているのか。最後には、どんなに厖大な教典があり、それがどんなに哲学性が深くても、実際に信仰を実践してみて客観的に何も良くならなければ、すなわち現証が無ければ、全く宗教の意味をなさない。
 日蓮仏教は現証を最も重んじた。日蓮は、
「嵩霊法師等は正法を謗じて現身に大阿鼻地獄に堕ち舌口中に爛れたりこれは現証なり」(日蓮)
「一切は現証には如かず善無畏・一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様・実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」(日蓮)
と信仰の結果は、善悪ともに明確に目に見える形で顕現することを教えている。そして、仏教界の現状として、
「されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり、像法には教行のみ有つて証無し、今末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり」(日蓮)
と書いている。釈迦在世から一千年の正法時代は、釈迦の教えが十分に人々の間に浸透し、それを正確に継承する者もいたので、経文もあり、それを修行する者もあり、そしてその結果として現証を得ることができた。それから次の一千年の像法時代は経文はあり、修行する者もいるが、釈迦の影響力が薄れて現証を得ることはできない。さらにそれ以降の末法においては、経文はあるけれども修行する者もなければ、当然、現証を得ることができる者もいない。日蓮が、「行ずる者がいない」と言っているのは、僧侶や信者は多いが、仏教の真実の修行をしている者がいないということである。
 これらの状況を具体的にいえば、宗派や寺院や個人が勝手に都合のよい仏道修行の方法を作って行じているものは多いが、釈迦の真意に反しているがゆえに、全く実証は表れてこない。また、人々に信仰心があるといっても、盆や正月に参拝をして手は合わしても、願いが叶うなどとは本気になっては思ってはいない。あるいは、安産祈願や交通安全にお参りし、お守りをもらったとしても、それによって本当に守られるとは思っていない。気休めか自己満足程度に考えている。これは、賢治が少年期に歎異抄を読んで仏に守られているように感じたり、法華経に接して感動している状態でもある。
 賢治は年を経るごとにこういう信仰状態に物足りなさ、また真実の釈迦の教えと違うのではないかという疑問を抱くようになる。そういうなかで日蓮仏教に出会うこととなる。日蓮は、
「此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(日蓮)
とあるように、仏教が僧侶の側も信者の側も形骸化してしまった状況の中で、唯一、現証を伴う、末法に生きた仏教として立宗したのである。下種というのは、末法の衆生は釈迦仏教とは全く関係の無い者であるから、時にふさわしい、新しい仏教の種を人々の心の中に植えることである。
 賢治は、この日蓮仏教のダイナミックさに自分の求めていた宗教、頼るべき絶対者を見いだしたのである。日蓮は自己の教義の絶対性を、
「当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(日蓮)
「種種の大難、出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難、風の前の塵なるべし」(日蓮)
と述べている。賢治はこの日蓮の大確信を自分の信念として激しい信仰活動に身を投じていった。
 本格的な日蓮信仰に入った二十四歳のころから体が病気にむしばまれ始める三十二歳の頃まで、賢治は日蓮仏教に身命をささげた。
「末法の大導師 絶対真理の法体 日蓮大聖人を 無二無三に信じてその御語の如くに従ふことでこれはやがて 無虚妄の如来 全知の正遍知 殊にも 無始本覚三身即一の 妙法蓮華経如来 即ち寿量品の釈迦如来の眷属となることであります」(賢治)
と書いているように、その信仰の姿勢は日蓮の教えの通りに修行することによって日蓮と同じ境涯になろうとした。その徹底ぶりは、
「けれども慈悲心のない折伏は単に功利心に過ぎません」(賢治)
と述べて信仰に勧誘するにしても純真な仏教精神からでなけれはならないとまで、純化させている。こういう賢治の純粋で過激な信仰活動は、信者以外の人からは敬遠されがちなエピソードも多く出てきたが、それはすべて日蓮の教えの通り実践しょうとした結果だった。日蓮は信仰の姿勢について、
「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(日蓮)
と書いて、一日中、布教に尽くすように教えている。また遺文のなかには、
「されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ」(日蓮)
「身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必ず仏となる」(日蓮)
と、仏道修行のために命を捨てて励むように教えている箇所はたくさんある。命をも捨てると覚悟した賢治にとって、周囲の者たちが自分に対してどのような見方をしようとも、それによって信仰の信念が弱まったり変わったりすることはなかった。このような異常なほど激しい信仰活動の中でこそ彼は、
「サテコノ悦ビコノ心ノ安ラカサハ申シヤウモアリマセン」(賢治)
といえる信仰の、人生の喜びを感じることができたのである。
 この、いわば信仰活動の絶頂期ともいえる時期は肉体の衰弱とともに終わりを告げた。そして「雨ニモマケズ」に至る頃には、日蓮信仰から離れることはなかったが、冷静に日蓮信仰を総括できる状態になっていった。
 総括の基軸はやはり、賢治が日蓮仏教に傾倒した理由でもある
「法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(日蓮)
という実証主義であった。日蓮の教えの通りに実践をしてきて果たして、祈り、願いは成就したのかどうかである。
 まず、折伏行については、彼は彼なりに親や友人へ日蓮信仰を勧めた。その結果は何人かは入信をした。しかし、日蓮のいうような、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり」(日蓮)
という状態になったのかというと、全く状況は違う。彼の周辺のわずかな人数が信仰をたもっているだけで、しかも、そこから日蓮がいうような信者の広がりはない。ましてや、
「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(日蓮)
といったような状況とは天地雲泥の差であった。「大地を的とするなるべし」と日蓮は言っているが賢治の周辺の現実の中にこの言葉を確信させるような状況は、兆しさえどこにもなかった。折伏行が進んだ結果として、
「諸共に梵天帝釈も来り踏むべき四海同帰の大戒壇を築こうではありませんか」(賢治)
と希望を燃やしていた大戒壇ももちろん建築されることもなかった。父親と激しい争いにまでなった折伏行であっだが、結果には日蓮が予言している状況にはまったくならなかったのである。
 次に、広宣流布、仏国土の建設はどうであったのか。日蓮は、
「法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(日蓮)
と仏国土の出現も疑う余地のない未来の事実であると書いている。そして仏国土は、
「吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となり」(日蓮)
と書いているように自然環境も人々の生活を守り支援する働きの状態になるはずであった。ところが実際は、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」というように、天候不良に悩まされ、それに対応した肥料設計やアドバイスをするのに病弱な体をさらに酷使することになった。
 日蓮は、いかなる地獄のような国土であったとしても、そこにいる人間が日蓮仏教を保つことによって依正不二の原理により仏国土に変換できると教えている。仏国土建設のこの日蓮の教えも現実の賢治の生活の場においては、全く別次元の世界の事柄であるのみならず、逆に国土は賢治や農民を苦しめる災いをもたらすことが多かったのである。
 さらに病気については、日蓮は、
「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」(日蓮)
と書いて、題目を唱えて祈るならば、どのような病気も必ず治ると言い切っている。賢治は日蓮の教えの通りに、
「諸仏菩薩子を念じて誠心誠意きっと快復の上奮闘可致候」(賢治)
と真剣に祈るが、病状は悪化をたどっていった。亡くなる数年前頃からは、あまり体を動かすこともできなくなり、仕事も信仰活動もままならず病床につくことが多くなっていた。賢治にとって人生の最大の障害であった病魔にもまた勝つことがなく負けてしまったのである。
 このように実証主義仏教に心を燃えあがらせて信仰を貫いた賢治だったが、結局は何も実証を示すことができなかった。祈り、願いはかなわなかったのである。日蓮は、
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」(日蓮)
「御いのりの叶い候はざらんは弓のつよくしてつるよはく、太刀つるぎにて、つかう人の臆病なるやうにて候べし、あへて法華経の御とがにては候べからず」(日蓮)
と祈りのかなわないことを日蓮の所為にしてはいけないと述べている。信仰する者の信仰心が弱いからだと言っている。ここに至って賢治は、我が信仰の歴史が、日蓮仏教が、いかなるものであったかを冷静な目で見ることができたのである。
 賢治は臨終の時、
「二階で『南妙法蓮華経、南妙法蓮華経』という高い兄の声がするので、家中の人たちが驚いて二階に集まると、喀血して顔は青ざめていたが合掌して題目を唱えていた」(賢治)
という状態の中で、父親から遺言を聞かれて、
「国訳妙法蓮華経を一千部おつくりください。表紙は朱色、校正は北向氏、お経の後ろには『私の生涯の仕事はこのお経をあなたのお手元に届け、そして其の中にある仏意に触れて、あなたが無上道に入られますこと。』ということを書いて知己の方々にあげてください。」(賢治)
と言った。日蓮は末法における時期相応の仏教は、
「問うて云く末法に於て流布の法の名目如何、答えて云く日蓮の己心相承の秘法此の答に顕すべきなり所謂南無妙法蓮華経是なり」(日蓮)
と明確に南妙法蓮華経でなければならないと遺文の中のいたるところに書いている。日蓮仏教にとって法華経はどのような位置付けになるかといえば、
「末法は本門の弘まらせ給うべき時なり、今の時は正には本門・傍には迹門なり」(日蓮)
とこれも明確に書いている。日蓮仏教に当てはめて解釈すれば、本門とは南無妙法蓮華経であり、迹門とは法華経のことになる。傍は修行において補助的な役割をするものであり、正は修行の主体のことである。さらに、
「所詮末法に入つて天真独朗の法門無益なり助行には用ゆべきなり正行には唯南無妙法蓮華経なり」(日蓮)
と天台宗の法華経の修行方法である天真独朗との関係も明示している。ここで明確なように、日蓮仏教における法華経は、南妙法蓮華経を理解するため、あるいはその法力を引き出すための手助けの役割をするものにほかならない。具体的には南妙法蓮華経と唱題する前段階に助行として読誦するものであるにすぎない。このような日蓮の教えからは、人々への布教や救済の活動として、法華経を印刷して配布することは的確な方法ではない。むしろ釈迦の法華経と日蓮仏教の違いを判然とさせていくことが、日蓮の真意であったはずである。
 日蓮仏教と法華経の関係、位置付けを熟知していた賢治であるにもかかわらず、法華経配布を遺言したことは、彼の半生に渡った日蓮信仰への総括であった。
 日蓮は信仰を保った者が死を迎えた時のことを、
「ただいまに霊山にまいらせ給いなば、日いでて十方をみるがごとくうれしく、とくしにぬるものかなと、うちよろこび給い候はんずらん」(日蓮)
と書いている。死出の旅は、はるか彼方まで見渡せる山頂に、朝日が昇り、この上なく清清しく嬉しくなり、これほど素晴らしいものであれば、どうしてもっと早く死ななかったのかと喜びあふれる、と宣言している。果たして、賢治は、南無法蓮華経と最期に唱えて彼岸へと旅立ったとき、何を感じたことだろう。


(四)文学の行方

 賢治全集を数年あるいは十数年の時を隔てて何度か読んできた。その都度、しみじみと残念に思うのは彼の早逝である。創作活動する文学者には三つのタイプがあるような気がする。ひとつは若い時に華々しくデビューして活躍するが、その後続かなくなる人。二つには生涯を通じて着実に描き続ける人。三つには若いころは全く表には出てこないが、熟年になり優れた作品を発表する晩成型の人。賢治はこの中の三つ目のタイプに属する。それも、全く文学とは縁遠い人が、何かを契機に壮年になってから急に作品を書くというのではなくて、幼少年のころから文学的な才能を育みながらさらに熟成させて、年を重ねてから完成された作品を発表するタイプである。
 彼の若き頭の中で創造された一つの原型はどのような形にでも進化、発展させる可能性を多く秘めていた。例えば次の「永訣の朝」の一部分は他の作品にも転化されていることなどはよく知られているところである。
《わたしはまがったてっぽうだまのやうに
 このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
 蒼鉛いろの暗い雲から
 みぞれはびちょびちょ沈んでくる》(賢治)
 この部分は他の作品では次のように表現されている。
「チュンセはまるで鉄砲丸のやうにおもてに飛び出しました。おもてはうすくらくてみぞれがびちょびちょふ降ってゐました。」(賢治)
 この二つの部分の関連は、外形的、固定的なものであるが、それ以上に種子と花の関係に例えるのが適当と思える作品が多くある。賢治がこの世で残した作品はすべて種子であるともいえる。その種子にはさまざまな可能性を秘めているしまた、さまざまに変化させる要素を持たせる試みがなされている。そこには仏教に通達した賢治の、通常の作家にはできない、これまでの文学の次元を大きく広げていくような作品の萌芽がいたるところに発見される。
 日蓮仏教が外へは宇宙・森羅万象すべてのものへ光を当て、内へは生命の本源を照らし出しているように、賢治の残した文学は、あらゆる方向に無限の広がりを持って開花する可能性を秘めている。全集に満ちている断片、異稿、未完の作品は驚くべき多彩な内容に広がっている。そのうえ分量としても膨大なものである。その一つひとつが将来、大きく花を咲かせるはずだった。
 それらの作品に接する時、若々しくエネルギッシュな生命力に満ちた魂を感じずにはいられない。まるで、夢や希望にあふれた少年の命に触れたような思いがする。それにその夢は、単なる根拠のないはかない感じのものではなく、間違いなく何百倍何千倍にもなって成就するものと実感させられる。
 彼の作品は小さく小賢しく完成させられた世界ではない。未来に大きく広がっていくべき原始の世界であった。
 仮定は詮無きことではあるが、もしも賢治が八十歳、九十歳と生きることができたならば、無数の種子を、無限大の花々に咲き薫らせたことであろう。それはわずか三十七歳までに書かれた作品が全集の如き膨大な分量であることを考え合わせれば、想像を絶するものになったと思われる。さらに内容的にも充分にその後の日本文学の次元を大きく広げるものになったであろう。
 優れた文学が台頭するためには、優れた宗教的土壌が必要である。このことは世界の文学の歴史を俯瞰するとき、誰人もうなずくに違いない。ヨーロッパはキリスト教文明の中から偉大な世界文学が誕生したし、アジアは仏教を原点として多くの宗教文学が広まった。もちろんその中には、宗教との葛藤が大きなテーマになったものもある。いずれにしても文学の精神的背景が深ければ深いほど文学の豊かさと広がりが増してくることは歴史的事実であろう。
「源遠長流」(源遠ければ流れ長し)という言葉もある。一人の作家の文学作品がどのような「源」を持って生まれたのかは、作家と作品を判断する上で重要な要素になる。賢治の「源」は日蓮仏教への信仰であり、それが彼の文学的才能と相まって作品世界を大きく深化させたた。賢治自身、それをよく理解し、「これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です」と宗教の必要性を説いている。
 軽薄で、まるでテレビゲームのような文学が横行している現代において、賢治のようなバックボーンを持った文学は敬遠されがちに思われる。ところが、今もなお長い年月を隔てて賢治を愛する人々が多くいる。日本文学の廃退が叫ばれて久しく、今では指摘をする人さえもいなくなったような現状の中で、文学的良心を持ち続けている方々が存在していること自体、文学界に対する救済のように思える。
 それにつけても、早逝した賢治の文学の流れを継いで、現代に「源」のある文学を蘇生させる文学者の出ることが期待される。それはちょうど賢治が、当時の文学界といわれる一種の流行とは全く無関係、無関心に彼独自の文学世界を創造したように、現今の人気や商業主義に毒されることなく、五十年後、百年後にも敬慕の念をもって読み継がれるような文学作品の出現である。そしてそれが現代の、日本の文学界に消滅してしまった《大河の流れ》になることが、不毛の大地を緑豊かな本来の自然の姿に転換することになるのではないだろうか。
                        (了)

【奥付】
『宮沢賢治 誰も書けなかった実像 改訂版』
真実の賢治を明らかにする
    2014年10月10日 発行
     著者 : 大和田光也