大和田光也全集第17巻
『新方丈記』

【はじめに】

 鴨長明は当時、頻繁に起きた大きな災害を外的要因として、自らの生き方を普遍化させるべく方丈記を表した。それらの災害は都の人々にとって非常な衝撃であり、人生観を変えるに充分な出来事だった。長明は常日頃抱き続けていた想念を内的要因に据え、災害を傍証として使い、新たな人生観を表出した。
 それは、当時の人々の人生に対する価値観の変革であったが、同時に、多くの人々の心の底流に流れていた共感を呼ぶ思想でもあった。だからこそ、現代までも読み継がれる古典となり得たのだ。
 価値観を変えるほどの契機となった大災害としては、大火事、竜巻、飢饉、大地震が挙げられている。さらに注目すべきは遷都を挙げている。天災と人災の境界は微妙なものだが、遷都は完全な人災といえる。
 今回の東日本大震災は現代の我々の価値観を変革させるに十分な衝撃となった。事実が明確になるにつれ、方丈記に記述された災害と様々な点で多くの共通点を見いだせる。天災によって起きた困難のみならず、人災である政府の対応の悪さによって塗炭の苦しみを味わわなければならなくなった方々の思いは、遷都で苦しまされた当時の都の人々が感じた悔しさと二重写しになる。
 鴨長明が悲惨な被害に遭われた人々の心を元に新たな価値観を創造たように、東日本大震災の未曾有の苦悩から、長明の隠遁生活と方向性は違うが、新たな人生の価値創造を作り上げていきたい。

     二O一二年新春  筆者


(目次)

【はじめに】
第一章【無常】
第二章【天災人災】
第三章【愚昧な指導者】
第四章【宗教者の使命】
第五章【政治家の使命】
第六章【人間の目的化】
第七章【人材】
第八章【民主主義の土壌】
第九章【人心の衰退】
第十章【人生】
第十一章【生きる力】
第十二章【生きる意味】


 第一章 無常

 海は太古の昔から、永遠に変わらないように見えるけれども、考えれば、海面から水分は常に蒸発し、上空で雲となり、やがて雨となって地上にそそぎ、また、海へと戻ってくる。海岸線も、百年二百年では変わらないかもしれないが、数千年、数万年のスパンでみれば、大きく変化をしている。いつまでも変わらないように思えるのは、一瞬の出来事をいつまでも続くもののように錯覚をしているにすぎない。世の中の全てのものは、変化変化の連続で、不変にとどまっているものなどない。あるとすれば、あらゆる変化をもたらしている時の流れそのものだろう。

 このごろは、気候変動もおかしい。農作物なども打撃を受けて値段の変動が激しかった。酷暑があり大雪があり、新燃岳は爆発的な噴火をした。これまでの常識が通用しなくなっている。それに鳥インフルエンザや口蹄疫と自然環境にも動物環境にも異常な状況があった。さらに、新型インフルエンザなど人間の生活を脅かすものもあった。世の中全体がリズムの狂った状態に覆われているような雰囲気だった。
 そんな中で東日本大震災は起きた。地震の被害の後には家畜や犬や猫が彷徨していたりするものなのに、あまりにも巨大な津波の被害に動物たちですら多くは犠牲になってしまった。亡くなったり行方不明になっている人々が住民の半分以上にも及ぶような地域もある。この惨状を目にして悲しまない人はひとりもいない。また、直接被害に合わなかった人も、被災の報道に接するたびに嘆かない人もいない。
 考えれば、被災された東北の方々は、厳しい自然風土の中で、誠実で人間性豊かな地域社会を築いてこられた。また、神社仏閣も多くあり、それぞれの教えに従って、人々の幸福と世の中の平和を祈っていた。中には、人間として立派に生きようと、煩悩を断ち切るためにさまざまなつらい修行をした人もいるだろう。また、医学で直せないような病に苦しんでいる人は、ひたすら病気平癒を祈っただろう。あるいは、信仰をすることによって永遠の幸福を得られると信じて、多くの供養を出して本尊を拝んでいた人もいるだろう。それほど信仰心がない人でも、折々には、先祖の墓に行っては手を合わしたり、初詣に行ったり、交通安全や安産の祈願に神仏をあがめることもある。これはすべて、人としての善良な心の表れだ。
 特に信仰心のない人もよりよく生きようと努力をしている。自分にとって、または家族にとって不幸に向かわしめるようなものに対しては拒否し、遠ざける。逆に、幸福を呼ぶと思えることに対しては、心を砕いて引き寄せようとする。母親として、父親として誠実に生き、子供には将来の幸福のために教育や生き方を身につけさせていく。子供は、口ではいろいろ不平を言いながらも、心の中では親の恩をしっかりと受け止めていて、それに応えるような将来像を描いて努力をしている。
 世の中には、悪人と言われるような人間がいるのは確かだが、それはほんのわずかであって、ほとんどの人は人間としてお互いに助け合いながら、幸福になろうとしてコツコツと努力を積み重ねている。
 行政や政治の分野においても、口に出して言うことは、国家の事業はすべて国民の幸せのためだと声を大きくして言う。原子力発電所を作るときも、絶対ということはこの世にないにもかかわらず、事故は絶対に起こらないというような言い方をした。そして、地域に経済的な豊かさを約束した。その時、誰ひとりとして、今回のような事故が起こる可能性があることも、それによって地域に莫大な損害を与えることも言いはしなかった。ただ、想定されるあらゆる危険性に対しては、十二分な備えになるように当時としては必要以上の人と力を尽くしていた。
 しかしながら、人々の生き方にしろ、原発の安全性への努力にしろ、ひたすら心を砕き、よりよい人々の幸福な人生と生活を目指していたにもかかわらず、東日本大震災は起きた。大地が揺れる被害に、大津波の甚大な被害が加わった。さらに原発の放射能漏れの深刻な被害が広範囲に渡って出てきた。
 死者の数は日が経つにつれてただひたすら増すばかりだ。地域内に何百人もの遺体が発見されているところもある。斎場の火葬が間に合わずに、一度、土葬にするところも出てきた。その亡くなられた方、一人ひとりとに、かけがえのない人生とかけがえのない周囲の人々がいることを考える余地をなくさせるほどの数にのぼった。結果的にだれにも知られずにこの世の生を終えてしまう人も多く出てくるに違いない。
 考えれば、自然は人々の生活を支え豊かにするために存在するものではなかったのだろうか。自然と人間はうまく共生して、お互いを守り合いながら行き詰まることなく、発展させる方向で考えていた。自然の美しさは、自然そのものの美しさと人為的なものとが共存することによって美しさがさらに増す。リアス式海岸の変化に富んだ美しさに、そこで生活する人々の家や白波を立てて走る船など、人間の生活を感じさせられるものが加わることによって、海の趣がずいぶん味わい深くなる。実際にその場に足を運んで自然に接するのはもちろん、映像なんで見ただけでも人の心は大変に癒され、故郷の懐かしさのような安穏な気持ちにさせられる。
 しかし、東日本大震災は、人間の生存を全く無視したかのように起きた。亡くなられた方々の人生など全く考慮していない。人間と自然とは本来、全く関係のないものであったと感じさせる。美しいリアス式海岸は、人間が勝手に美しいと思っていただけで、自然にとっては美しさなど全く意味をなさないものだ。ひっそりと咲く一輪の花に、可憐な美しさを感じるのも、自然とは関係のない人間の勝手な思い込みにすぎない。自然に意志などがあるというように考えること自体が、客観的に見れは、滑稽なことなのかもしれない。人間の意志など自然はまったく意に介しないし、それによって何らかの影響を受けるなどということはあり得ないことなのだ。
 大津波を受けて破壊され尽くした海岸や人々の生活の跡を見ると、以前の美意識をかきたてるような情景とは全く逆の悲惨なものになってしまっている。もしも自然が美しいというのなら、自然の営みも美しいはずだろうに、災害の跡は、目を覆いたくなるような惨状だ。自然は自らが美しくなろうとするような意志など、もともとなかったとしか言いようがない。
 それにしてふと考えれば、大震災の前も後も、太陽は輝き、地球はその回りを回り、さらに月は地球を回り、多くの星々も輝いている。宇宙のリズムが大震災によって変わったということはない。この宇宙のリズムそのものは、意志があるなしにかかわらず、人々に恵みを与える本源であることは間違いない。それが、どうしてこのような甚大な被害を与えることになったのだろうか。だれも予想もつかなかった。

 人々は、生活するために家を立てる。また仕事をするための建物なども建築する。小さな家から大きな家やビルなどさまざまな建物が長い時代にわたって存在し続けている。一見すると永遠に変化せずに続いているもののように思える。しかし、十年ぶりなどに訪れてみると、昔あった懐かしい家並みはなくなり、知らない家などが建っていたりする。あるものは、朽ち果てて新しく建てられる。あるものは大きな立派な家が小さな貧しい家になったりしている。
 住んでいる人も同じようだ。人々はいつまでも変わらないと思われがちだが、あの人が亡くなった、今度はこの人が亡くなった、と実際には結構、人々の変化もある。人が生まれたり死んだりするのは、ある意味で、人々の存在を永遠たらしめるもので、自然の道理かもしれない。それが、傍目には、変化の度合いが見えないのかもしれない。ちょうど、水鳥が悠々と水面を進むの姿は目にしたとしても、水面下のエネルギッシュな足の動きは見えないようなものだろう。

 自然には理不尽という言葉が通じないことをだれもが嘆いている。善人も悪人も、一人ひとりのこれまで生きてきた人生の意味も、全く無視してしまって人間に対しているのが自然というものなのだ。よりよく生きるために、多くの人が信仰心を持ち、さまざまな宗教施設では、大勢の宗教者が朝な夕なに、人々の幸せと安穏、平和を祈っている。ところが、今回の震災は、宗教などというものには、全く力のないことを証明したようにも思える。人が幸せになり、地域社会も平穏で素晴らしい世の中になると信じていたことはすべて自然の現実の前に、灰燼と帰した。すべての宗教は単なる思い込みに過ぎなかったのだろうか。
 結果的に、神も仏もいなかったことになる。信じる者は救われる、ということはあり得ず、信じる者も信じない者も救われなかった。
 こう思うと、救われる道はすべて閉ざされて、天に向かって恨みごとを言うわけにもいかず、言葉を飲み込むしかない。あるいは、地に伏して、絶望感に沈むしかない。しかし、よく考えてみると、果たして本当に一切の宗教的なものは自然に対して全く関係のないものだろうかと疑問に思う。

 今回の東日本大震災では実に多くの方々が犠牲になられた。犠牲者の数があまりにも多くて、現実のものとして認めのがたく、実感として受け止めることがなかなかできない。いったい、これらの多くの方々は、どこにいかれてしまったのだろう。また、どのような使命を帯びてこの世に生きていたのだろう。全く考えることができない。
 また、今回の津波の被害のすさまじさは到底、予測できるものではなかった。普通の民家は流され、破壊され尽くされた。コンクリートの建物も低いものは鉄骨だけになったものもあった。その様子をみると、家や土地は不動産というけれども、全く不動ではなくはかないものであることを思い知らされる。マイホームを建てるということは、生涯のうちに何度もあることではない。人生の大半の努力の結晶だ。それが、跡形もなく破壊された。そしてローンだけが残った人もいるだろう。いったい何のために、さまざまに悩みながら資金繰りをして家を建てたのだろう。その建てた家を見て喜んだのはなんだったんだろう。津波にまるでゴミのように流されていく家を見る時、また、亡くなられた方を思う時、世の中の無常が心にしみてくる。まるで朝顔の露のようなはかなさを感じる。たとえ、露は落ちてなくなり、花が残ったとしても、すぐに朝日に枯れてしまう。あるいは、花はしぼんでしまい、露が残ったとしても、夕方まで持つことはもちろんない。
 人も家もまるではかなさを競っているようで、さまざまのことに心を悩ませながら生きていることが、仮の宿の中でのことのように思えてくる。
 

 第二章 天災人災

 長く生きると、さまざまな出来事に出会う。その中でも二つの大きな大震災を知ることになったのは、特異な期間に生きていたといえるかもしれない。
 平成七年一月十七日に阪神淡路大震災が起きた。大阪市の北部にあるわが家もそれまでの地震の中では最も激しい揺れに襲われた。重い大きな仏壇が倒れた。ブラウン管の重いテレビが台の上から転げこ落ちた。
 平成二十三年三月十一日に今回の東日本大震災が起きた。その時、私は自宅に居て椅子に座っていたが、長い間、ゆっくりとした横揺れを感じた。私はひどいめまいを感じるメニエール病になったと思った。
 これらの地震には、日本中の人々が驚き、悲しみ、嘆きの淵に沈んだ。多くの人々は、どうしてこんなことが起きたのか、と答えのない思いにかられた。マスコミでは地震の起きたメカニズムや外面的な状況は詳しく報道するが、まさに運命的な大災害であるのに、どうのように運命的であるのかという説明はもちろんなかった。
 運命的という言葉の中には、自然と人間の関係性が認められているように思える。人々が、自然の出来事に対して、どこまでも人間とのかかわりを求めようとするのは当然のことなのかもしれない。表面的に考えても、人間は自然の空気を吸い、自然の中で育った植物や生物を食べ物として生きている。いくら人工的に育てられたものだといっても使用される水は自然のものであるし、餌のほとんどは自然の産物から作られたものだ。
 さらに、天気の悪い低気圧の時には気分が滅入る。潮の干満に人間の生死の時期が関係しているという人もいる。斎場に努めている職員の方に聞くと、不思議と人が多く死ぬ時期というものがあると言っていた。
 人間が自然を破壊していった時、どこかの段階から今度は人間の破壊へとつながっていくことは当然といえる。
 人間と自然の関係は、人間が勝手に科学的に実証できる面と内面的な面とをたて分けているだけであって、実際には、内面的なものと外面的なものとは連続してつながっているように思える。だから、人間は内面外面ともに自然に対して影響を与えているし、自然も内面外面ともに人間に影響を与えているといえる。
 今回の大震災が、人間の営みとは全く関係がないとはだれも言えない。もし、人類が地球上に存在していなかったとしても、今回の震災が寸分違わず同じように起きたと証明することはだれにもできない。もちろんそれは、自然の意志、などというように自然を擬人化したり、自然に人格を持たせたりするようなものの見方をする人に限らず、言えることではないだろう。
 それはあたかも一人の人間の心の状態と体の状態に似ている。自然と人間の関係に置き換えれば、人間が心であり自然が体であるといえる。
 一人の人間について考えてみると、心に元気がなく落ち込めば、髪の毛の手入れをするのも面倒くさくなり放っておき、汚くボサボサになる。爪を切るのもうっとうしくなり、長く伸びてしまう。心の状態に従って肉体もそれにふさわしいものとなる。また、その人の生活している空間、机や、部屋なども心と同じような状態になってしまう。こういうことは多かれ少なかれだれでも体験することだ。
 それでは人間と自然との関係に当てはめてみればどうなるか。人々の心の状態がむさぼりの心や怒りの心や愚痴の心が強くなってしまうと、いくら社会や政治体制といったような制度が合理的に整備されたとしても、あくまでもそれを扱うのは人間であるから、世の中全体が道理の通らない乱れたものになってしまう。そういう時、天災や天災から人災へと進んでしまうような災害もまた起きてしまう。人心と自然災害とを関連付けるのは、非科学的で宗教的のようであり、自然に対して無知な原始社会のことのように思える。しかし逆に、全く関係ないと言い切れる根拠もない。単純に考えても、人間の心が欲望によって、金もうけの材料として自然を利用し、破壊することによって、逆に人々が災害の犠牲者になるということはよくあるわけだ。これを現象のごく一部と考えれば、もっと深い根っこのところにおいて、今回の東日本大震災と自然破壊、ひいては人間の心のあり方と、完全に無関係であると言い切ることはできない。
 大きな地震の時にはまず不気味な地鳴りが低く鈍く伝わってくる。そして地上のすべてのものがまるで激しい波に揺れ動く小舟のように不安定な動きを繰り返す。壁は崩れ落ち、家々は紙細工のように敗れ崩れ、大切に育てていた鉢植えなどの植物は枝や葉が折れ、根があらわになり、鉢も粉々になってしまう。重いダンプカーでさえ、踊るように跳びはねる。こうなるとどこにも安全な場所がなくなり、逃げるところを見つけることができない。
 やがて今度は空に響く海鳴りがして、巨大な津波が押し寄せてくる。人間の生活のすべてを破壊しつくし、一瞬にして平穏な人生を過去のものにしてしまう。結果として避難生活を余儀なくされ、もっとも基本の食べるもの、飲み水さえ村全体町全体でなくなってしまう。
 津波の跡は、すべて塩害の残る荒地となる。春のために用意をしていた苗や種もことごとく失ってしまう。風が吹けばを砂土埃が舞い上がり少し前までは人々が平和に暮らしていた生活があったことさえ忘れさせる。
 自然の猛威を目の当たりにするとき、人々の心から温かい人間性も残される余裕もなくなる。
 大災害時における日本の人々の規範正しい行動は、世界から称賛された。しかし徐々に日が経つにつれて人々の我慢も限界をを超えてゆく。さらに火事場泥棒のような者も多くなるし、インターネットを通じてデマ情報や、災害を悪用した詐欺なども現れている。街角では救援募金と言っては騙して金を集めている者も出くる。他人の困っている状態に目をつけて悪事を働こうとする不道徳の者が多く出てくる。他人の不幸を踏みにじって犯罪を犯そうとする連中が多く出てくる。
 
 避難所での人々の生活は非常に厳しい。初めのころは、飲み水や食べるもの、着る物、寝具なども十分になかった。少しずつ支援の品物が届くようになってからも、今度は、避難生活の長期化が肉体的にも精神的にも非常に厳しい状況を被災者の方々に与える。被災者の生活が長く続くにつれ、また、いろいろと報道されるように、日本はもとより世界からさまざまな支援の手が差し伸べられるようになってきている。ところが、さまざまな支援物資や現金が未だかつてないほど全世界から集まってくるが、それがうまく現実の被災者に役立つように回っていかない。その大きな原因は、それを取り仕切る権限を持つ政治家や行政の関係者が実際の現場を掌握することをしないので、うまく配分できないままでいる。もっとも大切な現場を知らずして、物事がうまく運ぶはずがない。多くの人々の善意が現場を知ろうとしない者のために滞っている面が強い。緊急事態における高速道路の通行や、さまざまな非難指示や、勧告はボランティアができることではなく、権限のある者しかできないことだ。その権限を掌握しているのが政治であり行政だ。こういう大変な時に、明確になってきたのは、普通の時の選挙などを通じて立候補者は、国民のため、人々のため、平和と安全と幸福を守ることを最大の目標のように言っていたが、それはほとんどは本心ではなくして、当選するためのパフォーマンスであり、内心は、自分の欲と自分の政党だけがよければよいという、そういうものであることがはっきりしてきた。実際に選挙の時にはあたかも、自分が政治家になる信念は、自分の小さな欲望など捨てて、多くの人のため、地域のため、国のために尽くすことを目的に立候補したようなことを言っていたが、それはすべて観念的な、自分が権力を得る為の策略に使っていたことが分かった。そういう実際には我欲の塊なのだが、あたかも人のために尽くす人間のようなことを口先だけでいう政治家に共通していることは、現場に真正面から取り組んで現場に飛び込み、現場を知ろうとしないことだ。大切なことは、震災に対して全力で救援支援をするという、その言葉だけではなく、現実に、親兄弟を失い、避難所で不自由な生活をしている人、あるいは持病があって苦しみ何もなくても日常生活が苦しいなかで、日常的に飲んでいる薬さえもなくなった状態で避難所で寝ている人たち、そういう人たちのことを現場で理解し、すぐに支援するためにさまざまな障害があったとしても、それを現場第一主義で次々に解決してゆく人が実は、本当の意味で心から人々の幸せを願っている政治家であるといえる。それをせずに、口先だけの、言葉だけの支援などというのは、全く空虚な響きしか出てこない。国の政治の長が、そのような状態であれば、それ以下の者も、皆、同じような考え方になっているだろう。被災者にとっては、実に不幸な状況といえる。また、そのようなまやかしの言葉だけで、政治がやっていけるような状況になると、本当に現場を大切にし、困っている人に現実的に救援の手を差しのべる議員が隠れてしまうことになる。いわば悪貨が良貨を駆逐する、という言葉のような状況になって、優れた良い人物が少しずつ離れて居なくなり、いいかげんなパフォーマンスだけの議員が多くなるものだ。
 
 未だかつて経験したこともないような巨大津波が押し寄せてきた。どのような波でも防げないことはないであろうと思われたスーパー堤防までも、ズタズタにされ、津波は押し寄せてきた。波が陸地に盛り上がって押し寄せてくる姿は、まるで巨大な滝が、滝つぼへ流れ落ちてくるような様子だ。その大津波にのに込まれて行く建物や船や車の姿は、現実に起こっていることとは思えない情景を醸しだしていた。大きな船が堤防を乗り越え、陸地へと上がり奥へ奥へと進んで行った。車は次々とまるで木で作られた軽いミニチュアのように浮き上がりながら、流されていった。この波の威力に、ほとんどの家は耐えられなかった。波に当たるとすぐに破壊されて土台からは外れて、あちらこちらとぶつかりながら流されて行った。あるいは少しは波に耐えているように見えても、すぐにガタガタと一階部分が突き破られて、やがて家全体も流されて行った。鉄筋コンクリートの建物でも、波に耐えれているように見えても、波は一階から二階三階へ盛り上がり、窓やドアから建物中へ流れ込み、すべてを破壊して反対側へと抜けていった。
 すべてのものが破壊され流されていく様子をみると、何とも言えない虚しさを感じる。車一台にしてもそれぞれに苦労しながら経済的な負担を覚悟で購入したものだろう。また、陸地に乗り上げている船なども、生活をかけるような負担を覚悟で購入したものに違いない。そして、土台から外れ流されていく家々、中にはまだ立派な新築のようなものもあった。それはおそらく長期間のローンを組んで購入したものだろう。家は一生涯にそんなに何度も購入できるものではない。生涯の計画を立ててローンを組んだうえでのことだろう。それが、破壊され流されて行く姿は、家はなくなり、ローンだけが残るという厳しい現実を見ることに通じただろう。
 また、火災もいたるところで起きた。コンビナートの大火災も起きたし、一般の住宅の火災も多く発生した。風に吹かれて舞い上がる炎は、先端部分が吹きちぎられるように炎だけが天空にさまよっていた。消すための消防車も到着することができないところは燃えるに任せるしかない。見ているうちに、火は広がり建物が崩れ落ちて灰となってしまう。
 津波の激しさは町や村全体がほとんど破壊尽くされたところもあった。それ以外にも地域の一部分の場所が破壊されたところは多くあった。こういう情景を見るとき、人々は必死に働いて建てた家や、購入した車などがつぶれていく姿を見ると、何とも言えない虚しさ感じる。

 気のせいだろうが、大きな歴史に残るような災害が起こるときは、世の中が大きく変革してきている時のような気がする。人の心と自然現象と直接的に結び付けるのは、宗教的であるが、大きな自然現象の起こる前の道筋があるような気がしないでもない。
 何か原因ははっきりとしないが、人々の心の状態が不安や不満に陥ってくる。そういう状態を作り出すのに一役買うのがマスコミだ。マスコミが騒げば、人々の心がますます不安や不満の状況になる。そうなるとそれに並ぶように政治も乱れたものになってくる。そして、たいていは、社会を騒乱させる方向に向ける指導者に民衆の賛同が集まることとなる。そうすると現実に社会が良くなっていないにもかかわらず、指導者のまやかしの言葉で、あたかも社会が良くなっているかのような幻想を抱かせる言動が出てくる。社会全体がこのような状況になってくると正当なものが不当な扱いを受け、不当なものが正当な扱いを受けるような矛盾した状態にもなる。それに合わせるように、さまざまな自然現象が異常な状態になってくる。今までの気象記録にはなかったような現象も次々と起きてくる。ゲリラ豪雨などというようなわずかな地域に集中的に短時間に降る。あるいは観測史上初という雨や雪が降ってきたりする。人々は、何か世の中もおかしいけれど自然の営みもおかしい、というような気分になったりする。そうなると社会全体がまやかしの様相を呈して、有為な人材が世の中に埋まってしまったり、海外へ出て行ってしまったりする。さまざまな悪い状況に対して、さまざまに手をつが、それはすべて、空を打つようなもので、いっこうに現実の社会が良くなる気配にならない。そして、どのような政策をしようが、どのような手を打とうが、すべてがマイナスの方向へと働くようになる。そうすると、国も、指導者も、国民も、すべてが、疲弊した状態になってゆく。この流れの延長線上に大きな自然の大災害が起こっているようにも思える。

 国の舵を取る船頭である政治家が道理にかなった判断ができなくなって、混乱してしまうような状況下では、一見、自然災害と見えるようなものも人災に起因することが多くなる。もともと純粋な自然災害と純粋な人為的災害とを厳密に分けるのは難しいはずだ。今回の津波においても、過去の巨大津波の経験の生かしていた集落では、先祖の教えた高さ以上の土地に家を建てていたので、誰も犠牲にならなかった。もちろん、漁業従事者にとっては海から遠ざかることによる不便など、さまざまな弊害などはあるにしても、県全体が、安全対策をしっかりと強制力を持って実施しておれば甚大な津波の被害は減らせたことは間違いない。とするならば、そうしなかったことによって起こった被害は人災であるともいえる。
 優れた政治哲学を持たない、凡愚な政治家が国の中心にいれば、本来、防げる自然災害も人災となってしまう傾向はある。逆に人災を自然災害にしてしまう傾向もある。
公害の試金石となったイタイイタイ病、薬剤肝炎など人々の命を大切にすることを真剣に考えていない者が社会の指導的立場になると悲惨な犠牲者が出てくることが示されている。
 人的なものに限らず、口蹄疫や鳥インフルエンザなども行政の取り組次第で被害を拡大させてしまう。
 また、国の指導者層がしっかりしていなければ、犯罪も増えるし、国外からは領土の侵犯の恐れや、具体的な軍事的脅威も増えてくるのは当然だろう。そうすれば、本来、防げたであろう自然災害も人災として拡大をしてしまう。
 
 天災が人災になった最たるものが東京電力福島第一原子力発電所の事故だ。本来であれば津波が原発を破壊することがないように作られていたことは言うまでもない。しかしその津波が想定を超えるほど大きかったことが人災へと進んだ。
 世界にはさまざまな武力衝突や人災はあるが、原子爆弾と並んで、原発の重大な事故というのは、一地域一国の問題ではなく、世界に災害もをもたらす可能性がある。原子力は他のエネルギーとは原理を全く異にしていて、まだその扱いに十分に慣れているとはいえない。肉眼に見えないまま拡散していくものだけに、風評被害等も含めて住民の不安は増幅するばかりだ。しかも、関係者からのさまざまな事故についての発表は、一貫性を欠き、出てくる部署によって内容が違ったりする。それによってますます聴く人の不安が募る。
 食物は食べれるのか、水は飲めれるのか、空気は吸えるのか、などなど安心を与えてくれるような明確な答えがない。だから水のペットボトルは買い占めでなくなるし、保存のきく食料もコンビニの店から姿を消すということにもなってしまう。
 放射能から身を守るための対策方法にしても、花粉と同じようなものだから外出するときにはマスクをして、できるだけ素肌が見えないようにするとか、帰宅したときには外でよく着ている物をたたいて放射能物質を落として家に持ち込まないようにする、などと言う。まるで、広島、長崎に原爆が落ちたとき、大本営が、白い腹を着て光に当たるのを防げ、などと言ったことを思い出させるほど、少々、こっけいでさえある。このことが報道された世界の国からも、科学技術の最先端を行く日本が放射能を防ぐのに衣服を叩くというのはよほど重大な事態なのだろうと、揶揄されもした。
 福島原発の国際原子力事象評価尺度は、最悪のレベル七に引き上げられた。この評価は、一九八六年に旧ソビエト連邦で起きたチェルノブイリ原発事故と同じものだ。これで、レベル七の評価は世界で福島原発が二例目となった。家に入る前に衣類をパタパタと叩いて放射能を落とせ、というレベルでよいものだろうか。
 避難の方法にしても、避難指示や自主避難、屋内退避区域や計画的避難区域、さらに緊急時避難準備区域などと、細部にわたる具体的な内容が明確にならないままに言葉だけが次々と変わりながら官房長官やその他の関係者から発表される。そのたびに現場の住民の方々は怒りというよりもむしろあきれ顔になっている。百歳を超えるまで長年その地で生まれ育った方は、避難しなければならないことを苦に自殺をされた方も出た。

 原発の周辺や東京の水道水に規定以上の放射能が検出されたということで、乳幼児には飲まさないようにとペットボトルが配られた。農産物も出荷制限や摂取制限がなされた。さらには魚介類にまで被害が及んでいる。
 自然現象にも、また人為的なものにも、さまざまな災禍を及ぼすものがある中で、放射能ほど大きな災いをもたらすものはない。地球規模で、人々の生存の権利を脅すものだ。扱い方を間違えれば、人類の命取りにもなりかねない。真善美の価値基準は間違っていると言った人がいるが、まさに真はそれのみでは善悪に通じることを分からせるのが核融合に関することだろう。もちろん原発は平和利用ではあったが、それを操る人間の側のあり方次第では、原子爆弾と同じような脅威をもたらすことを理解しなければならない。
 原子力利用は、単なる一企業の扱いに任されるものではない。重大な事故が起これば世界中の人々の生存を脅かすことを考えれば、明確に一国の政治家の中心的な働きでなければならない。このような両刃の事柄を扱うには、単なる口先だけの政治家、まして、党利党略に振り回されるようなは国の指導者では危険すぎる。また、単なるお人よしの指導者もこの重責に耐え得ることはできない。
 国の中心者として明確な哲学を持っていなければならないし、また、生命尊厳と人々の人権尊重の念がなければ、国を引っ張っていくことはできないだろう。まだ科学技術があまり発達していなくて、間違った方向性をたどったとしても、途中で軌道修正すれば十分に間に合うような時代であれば、思考錯誤しながらでもやればよい。しかし現在の状況は、一度重大な間違いを犯すと、取り返しのつかないことになる。科学技術が良くも悪くも、非常に優れた国の指導者を要求しているともいえる。
 このような時代状況であるにもかかわらず、国の指導者を選ぶ基準は大変幼稚なものだ。これまでの選挙状況を見ても、ほとんどはマスコミによって形作られた流れに乗ってしまっている。これは、当然のことといえる。多くの人は、直接、政治家と身近に親しくしている人はほとんどいない。大抵の人は、マスコミの報道を選挙の判断の基準にせざるを得ない。そうすると、ある面でいえば、マスコミが日本の政治を動かしているといえる。おそらくマスコミの関係者の中には自分たちが政治を動かしているという意識を持った人もたくさんいるだろう。いわば、マスコミによって起こされた風に従って選んだ政治家によって日本の国は現在のような状況になったともいえる。ある人は現在の状況を憤慨して、「もう絶対にマスコミにはだまされない。自分の判断で選挙する」と言っていた人がいた。確かにそうだろう、マスコミからの一方的な報道によって投票行動が日本全体として決まるとすれば、現実に情けないことであるといえる。主体性のない日本の有権者の姿を表している。
 そろそろ、これまでの選挙における選択の方法を国民一人ひとりが考え直さなければ、日本の国全体が取り返しのつかない状況に陥るような気がする。


 第三章 愚昧な指導者
 
  人々の心の状態が、直接的あるいは間接的に東日本大震災やさまざまな自然現象にも影響しているというのはなかなか実感しづらい。現在の人々の心が悪いなどとは誰も思わないだろう。誰も悪い心になろうとして生きているものなどいない。それぞれがよりよく生きようと努力している。その表れとして神社仏閣は多いし、新興宗教もたくさん存在している。八百万の神と言われるくらい日本人は信仰深い。信仰する心は人為を超えたものに対する畏敬の念から出てくる。それだけ日本人は謙虚によりよく生きようとしている。さまざまな機会に、手を合わして拝む。年末年始、盆、先祖の法要。都会から一歩出ればいたるところある地蔵尊、また、建物を建てるときには地神祭などもする。きれいな心といえば、単純に道徳的な心の有り様よりもはるかに宗教的なものへの畏敬の念を持つことの方が心の状態として深い方向であるに違いない。
 宗教法人法に基づいた建物は非常に多い。またそこで宗教を生活の糧のして生きている僧侶なども多数いる。中には信者が姿を見るだけで合掌して尊敬の念を表すような宗教者もいる。これほど多くの神や仏が存在し、それを信仰する純粋な心の信者に満ち溢れている国に、どうして悲惨な大震災などが起こるのだろうか。もし、神や仏が存在するならば今回のような無残な仕打ちを東日本にするはずはなかったといえる。しかし、一方、客観的な日本の社会の、特にそう中で生きている人々の状況を見るならば、一概に信仰心に厚い純粋な心の持ち主の人々の集まりとはいえないものがある。
 考えれば、優れた人物の政治家が出なくなってから久しい。古い話だが、いにしえの子供たちの夢は、末は博士か大臣か、であった。ところがこのごろの総理も大臣も、二枚舌を使うご都合主義のいいかげんな人間の代表になってしまったような気配がある。常識的に考えれば分かるようなことさえ、かたくなに道理に反したことを言ったり行動したりする。少し今の立場を離れて頭を冷やして考えればわかりそうなものなのに、と国民のだれもが思うことが多い。あきれて物が言えないということさえある。
 また、宗教者にしても本来の宗教的精神とは似てもにつかない人間のきたない心を持った者が多くなったような気がする。何十年も宗門の内紛で争っているようなところもある。社会に危険を及ぼすテロを目的にしているようなものもある。さらには、権力によって守られようとしてどこかの政党に頭を下げて庇護をお願いするようなところもある。何よりもは宗教者本来の目的である、人々を苦悩から救うという行動を信念を持って生涯、貫き通すというような宗教者がほとんどいない。自己満足な荒行をして崇拝されて喜んでいるような宗教者では、現実に苦しみ抜いている人々を救う力などあるわけがない。宗教自体も一般企業のようになり、権力、金欲が目的になっている宗派や宗教者が目立つ。現在の宗教的事情は、政治家の事情とウリ二つのようにも思える。

 原発の建設のとき、政治的な力は非常に大きく影響する。福島第一原発を造る時も、後ろ盾をしたのは政治的な権力だ。当時は、いかにもどのような地震や津波が来たとしても大丈夫のように言ったのは東京電力の関係者に限らず、政治家の思惑も絡んでのことだろう。もしも今回の責任を徹底的に追及し所在を明確にするのであれば、建設時における場当たり的な説明をした者たちとそれを後ろで支えた政治家や政府を入れなければ片手落ちになるだろう。
 それにしても情けないのは、ずいぶん長い間、いいかげんな政治家に投票する有権者がいかに多いかということだ。何か大事件や問題が起きると、すぐに政府や関係閣僚の責任にするが、そういう人物を議員にしたのは有権者にほかならない。とするなら、政党や政治家が浮き草のようにふらふらとして自分のことしかは考えないような者が多くなったというのは、言い換えれば、同じようなは有権者が増えたことにほかならないだろう。政治家も政治家であるなら有権者も有権者だ。こういう政治家を政界の送り出す大きなは働きをなしているのは、紛れもないマスコミだ。特にテレビの影響は甚だしい。本来であれば現在のような状況になった大半の原因を作ったテレビ局の関係者は、現在の内閣を批判する前にそういう内閣をつくらせてしまったは大きな原因となった自らの報道に対して、平身低頭して謝るべきだ。それが物事の道理のはずだ。それをしなくて、厚顔無恥に百年一日がごとく、同次元のを批判を繰り返しているというのは、あまりにもレベルの低い報道関係者が多いということだ。

 戦前戦中に、マスコミは、もちろん強制的な働きはあったにしても、戦争遂行の風を吹かせた。そして敵味方を合わせればは数百万人の尊い命を落とさせる片棒を担いだ。ところが、終戦になると、今度は戦争責任者を追及することに狂奔するようになる。奇弁をろうして、あきれるような言動で、反戦主義者に転向するのだ。この身代わりようはまさに、現在のマスコミと全く同じ状況だ。
 あるものを、どこかが批判し始め、そのことが風になると思えば、すべてのテレビ局が同じような批判をキャンペーンのごとくやりだす。登場させる評論家と言われるような者も皆、局の意向に沿うた者、世間の風に沿うた人間を登場させてさらに風を強くさせる。放送局独自の良心に基づいた、また道理に基づいた判断しようとしない。風に反する報道して、世間から批判されることを恐れている。
 結局は、権力のあるものや強いものには逆らえないのだ。時の権力者といえどもそれに対して批判することが風になった時には、権力を批判することが無難なことは言うまでもない。逆に、正しいものを正しいと言い切ることに及び腰になって、自分の放送局だけが反対の報道することが、その反動を考えるとできない。信念も正義。感もあったものではない。よらば大樹の下、大きなものには巻かれる。テレビ局のすべてがこの流れの中にどっぷりつかっている。もっとも無難なところがどころか、ということをいつも恐々としながら探して、その道を進んでいるにすぎない。こんなテレビに影響を与えられれば当然、ふがいない政治家を選んでしまうだろう。
 今回の大震災の報道にしても、右往左往ばかりして、被災者の役立つような、現実に苦しんでいる立場の人々にしっかりと軸足を据えた報道はほとんどない。お互いの放送局が、無難なところばかりを垂れ流している。全く信念と正義なき報道姿勢を暴露しているといえる。震災があってから約一カ月を過ぎた現在までの報道を、一度初めから見直して、いかに自らの放送局が、本来のマスコミの使命である「人のため」の報道になっていないかを厳しく反省すべきだろう。言うまでもなく、電波は公共の財産だ。民放であろうが、国民の了解のもとにその電波を使わせてもらっているという最も大きな根っこを忘れ去っている。
 戦時中には一国を戦争に駆り立て、戦後は、愚かな政治家に国を任し、亡国に至らしめる風を吹かせているのが、今の日本のマスコミの、特にテレビ局の現状だろう。同じ方向を向くことに安心しやすい日本人の精神的特性を考えるならば、マスコミは逆にそのことにブレーキをかけるのが本来の働きのはずだ。
 
 悪知恵を働かせて金もうけをやろうという人間が、政治権力と結び付けば、国の疲弊に向かっていくことは間違いない。本来は、国の指導者になろうとする者は、このような輩に対しては、厳しく取り締まり、賞罰を明らかにすべきだ。それが、信念や哲学のないいいかげんな政治家が多くなっているので、丸めこまれてしまう。それだけならいいが政治家本人も開き直って、さらに権力を行使してそれを助けようとする姿は、国を滅ぼすとしか言いようがない。
 小さな悪人によって国を滅ぼされることはないがは、愚かな政治家によっては取り返しのつかない亡国の坂を下らなければならないということを感じさせられる。
 そういう権力者の心の中は、自分が一番偉いと思いあがっている。さらに、権力さえ握っておれば何でも自分の自由にできると思っている。実際には心が曲がり不正直であり、たいした知識も知恵もないのに自分はすべてに通達して物事の本質を知っていると思いあがっている。自分の慢心で心のがいっぱいになっている。そして本音は、見下している一般庶民からはなれて、上流階級の人間ででもいるような気持ちになって生活している。そして自分が優れた人物だと思いこんで、現実の世界の中であくせくする人間を本当は軽んじて、卑しんでいる。
 また私腹を肥やすのがさとい人間のくせに、世の中の人から尊敬されるようにしている姿は、まるで猫が獲物を狙っている姿と変わりはない。多くの人がこういう政治家の表面的な姿を見てだまされ、一時的に調子に乗って投票するのだ。
 低レベルの政治家は、自分の正当性を保つために、他の優れたは人物を中傷したり、時には攻撃点をわざわざ作為的に作り上げて、社会に向かって悪宣伝をしたりする。こういう政治家が生きていけるような日本の社会になってしまった。そして、利権を得ようとする者がこういう権力者に取りいって本来は国のため国民のために十分に働く力を持っている優れた人物を起用しないどころか攻撃してつぶしていく社会だ。いやしくも、一国の指導者たちが赤いものを黒い、黒いものを赤いというようなことはないだろう、と国民が思っているうちに、邪な権力者は社会を衰亡の方向へと導いていく。

 最近、日本には人物、力量ともに優れた指導者がいなくなった。たいていが軽くパフォーマンスだけの期待外れの人物になった。それらの方々に共通しているのは、外面がいかにも信頼のおける優れた指導者のような格好をしており、賢こそうな様子をしているが、その実、我欲が強く、表面的にはさまざまな大義名分を立てるが、根本において自分の欲望を満たそうとしている。どれだけうまく表面的に国民をだますことができるかがまるで現在の政治家の力量のようでもある。その姿は例えば猟師が獲物を狙って細目にして静かに近づいていくような姿に見える。いかに国民をごまかして、自分の利益になるかしか考えていない。
 いつも言葉では自分のことを如何に優れているかと宣伝し、それらしく外面を取り繕っていたり、また、パフォーマンスとして聖人のような行動をとったりするが、本心はむさぼりの心と自分よりも優れたものへの強い嫉妬心の塊にほかならない。格好だけは付いているが、国民のために本当になるような政策には何ひとつ手がつけられず、指導者としての信頼も全くなくなってしまう。今後の日本や国民の未来について質問されても全く明確な信念や哲学はは出てこず、まるで、物事をわきまえない幼児が怒られて右往左往するような様子だ。そういう自らの低いレベルの政治家であるのを隠すために、正しいもの、優れたものに対して誹謗中傷することには非常に優れた能力を発揮して旺盛にやっていいる姿は人間としての恥じをさらしているにすぎない。
 
 このような愚かな国の指導者の下では、統制された、実のある救援活動などできるわけがない。なんとか災難を逃れて着の身着のままで避難をしている人々に、追い打ちをかけるように救援の手が述べられていない。国内外をを問わず善意の方々からの物資や金品、また、実際の活動への大きな支援の輪が広がっているにもかかわらず、それを有効に動かすことができないでいる。ここにもちぐはぐな行政のドタバタ劇のようなものが演じている。現に苦しんでいる被災者への救援につながらない障害を自らが作っている。
 その間にも、入院患者の方が病院から避難所へ移送されてから、亡くなるということも多くなっている。また、避難所での厳しい生活に体調を崩している人も割合が多くなってきている。救援の手は、一刻も猶予のないところにきている。指導者層がドタバタしているうちに多くの被災者が命に及ぶような状況に刻々と近づいている。
 今回の東日本大震災の復興は、だれもが言っているが、実にちぐはぐで遅い。
 片付けの手の入らない被災地の中には、少し風が吹くと、乾燥した土埃が上空に舞い上がり、砂漠のような情景さえ見せている。その中を行方不明になった身内を探す人々はマスクをして目に砂ぼこりが入らないように苦労しながら歩いている。津波の被害は想像を絶している。被災者がわが家の位置を道路に残されたわずかな歩道の印から見つけたとしても、そこには全くわが家も壊れた跡さえもなかった。家が津波によって数十メートルひどいときは百メートル以上も壊れた家の残骸が流されていた。元の位置に残っているのはコンクリートの門柱の根っこの部分だけで、その上の部分もどこまで転がったかも分からないほど近くにはない。きれいに手入れをして植えていた垣根などは跡形もなく、他からは押し流されてきた廃材の下にわずかに千切れた根の一部が残っているくらいだ。家の中の家具などはまったく原形をとどめないものが多い。形はそれらしいものがあったにしても、中はバラバラになっている。屋根だけが津波に浮いてあちらこちらと流され、どこのお家のものかさえ分からないほど離れてしまっている。目に見えるものは破壊し尽くされたがれきの山ばかりだ。その中で声も出さずに黙々と自宅近くで行方不明者はを探していたり、生きていたあかしの品物を見つけようとしている人もいる。SF映画の破壊されつくされた街の様子もこれほどすさまじいものではないように思える。
 家が壊れてしまっただけではなく、それを修繕したり片付けたり捜し物をしたりしているうちにけがや体調不良になった人も多いだろう。津波が通った後にたたずんで多くの人々の嘆き悲しむ姿も広がっている。津波は時々は襲ってくるものだが、今回の巨大津波のようなものが現実に起こってしまうと、何かただごとでないような気がする。自然に意志も人格もないけれども、超自然的な力のなせる業ではないのかなどとも思ってしまい、疑い嘆く心がさらに深まってしまう。


 第四章 宗教者の使命
 
 よく考えてみると人間はもともと悪い心で他人を不幸にしてやろうなどとは誰も思っていないに違いない。総理にしろ大臣にしろ、各議員にしろ、それぞれは国民の幸福と平和とのために政治をしようとしているだろう。世の中の道理に基づいて政策をしようとしているに違いない。また、多くの宗教者は、人々から尊敬され、説法には人気もあり、信頼もをされている。中には、作家であった人もおり、人生の師匠として、生き方を正してくれる人もいる。また、人々の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、修行に励みながら、世界平和を願っている宗教者もいる。さらに、その姿を見ただけで掌を合わして拝顔したくなるような高貴な宗教者もいる。全体的にみれば日本の宗教者は一部のテロリストのような狂信的なものを除けば、人々の幸せのために、内面の充実のために大変に役立っているといえるのではないか。
 もしこれらの人が表面的な格好だけつけているのであって、内面は欲望の塊であり、自分のことしか考えていないのであれば、人々は誰も信頼を寄せたり著書を買ったり人生の指針を得ようとはしないだろう。何より、学問にも優れ、見識にも一角ならぬ人々が尊敬している宗教者は日本にたくさんいる。そのことは日本には非常に優れた宗教者がいる証拠にもなるだろう。もしもこういう人たちがいることを否定して、日本に真実の宗教者や優れたは人物がいないというのであれば、いったいどこが悪いというのだろうかと不審に思う。
 ただ、これほどの大きな自然災害が起きると、いったいどうして、もっと事前に被害を受けないような策をとることができなかったのだろうかと素朴に思う。それほど優れた宗教者や知識人や政治家がいたのであれば、なぜもっと早くからは自然の脅威を考え、人々に完全に生活できるような手が打てなかったのだろうか。そのような政策を実施できなかったのだろうか。どう考えても優れた人物がいる国で起きるべき自然災害ではないような気がする。特に原発の被害状況をみると、まさに人災であるようにも思える。日本には優れた人物がいるとするのは、あまりにもお粗末な結果ではないだろうか。さまざまなそれらしい批判をする有名人はいるが、実際に今回のような悲惨な出来事を止めることができなかったことを考えれば、宗教者、知識人、政治家は厳しく自己批判する必要があるのではないか。災害が起きた後であれば、さまざまに講釈するのはだれでもできる。起きる前に未然に人々の安全と幸福を守っていくのがそういう人々の使命だろう。優れた学者というのは、自分の知識欲だけを満たして喜んでいるような者をいうのではない。自分の得た知識をもとに人々にそれを還元してこそ本物の学者といえる。人々に役立たないようなは自己満足な学者などは、ニセ学者といえる。ましてや宗教者や政治家は人々の指導者としての責任は重い。

 一国の指導者といわれる者が、たいていの人はいくらなんでもそんないいかげんな人間がなれるわけはないと思っているので、さまざまな欠点はあったとしても根本的に間違ようなことはしないだろうという安心感を持っている。しかし、それは幻想に近い。国民全体を惑わしてしまうようなは一国の総理というものもいる。
 一国を惑わすような総理というのは、自分の考え方に偏狭な自信を持っている。
 政治家としての物事の考え方の中には大きく二つある。それはより多くの人を幸せにしてゆくのか、それとも少数の選ばれた人を優先するのかということだ。ほとんどの政治家は多くの人の幸せを考えるだろう。その中でも、マスコミなどにも取り上げられるように表面的に政策を進めていく場合と、見えないが実利を得るようながやり方がある。さらに、本当の目的は別にあるが、方法論として実施するものと、実際に必要性があり効果が出てくるやり方もある。どの方法をとるかというときの判断として、結果的に、国民は愚かの者が多く集まっているので、高尚な実利を伴うような政策は国民に理解されないと考えて、言葉だけが踊る現実に効果を上げることのできない策の方を取り上げてしまう。
 こういう政策の根底にあるのは、国民を知的レベルの低い、だましやすい愚かなものであると考えることだ。権力を握っている者にとって、国民が愚かであるほど政治を行いやすいことはない。とかく権力者が怖がるのは国民が賢くなることだ。逆に言えば権力者の側の考え方として、民衆は愚か者であるという意識があるということだ。国民には、高尚な善政などは、通じないし必要ないと思っている。そんなことをすれば豊かになった国民が権利意識を主張するようになってうるさくなる、というくらいにしか考えていない。だから、政策としては常に低レベルのものを選択して実施することになる。そしてそれが現場に対応したものだと主張する。
 さまざまな優れた政策提言やは国民の基本的人権にかかわる重要な意見が総理のもとに寄せられたとしても、まずは縄張り意識で自分の政党や自分の派閥に利益をもたらすものを大前提として考える。だからどんなに的確な意見があったとしても、まずそれを行っている人間を自分の縄張りの中に入れること考える。それができた時に初めて政策を実施することになる。
 当然とはいえ国の最高指導者というのは、自分や自分の気に入っている人間の集団を守り拡大しようとする。たとえ道理にかない、科学的に正しく、または、世の中の常識にかなった考え方だったとしても、それが自分の気に行った世界と離れたところの人間であったり考え方であったりするとそれらを排斥してしまう。そして自分たちの集団の方向性以外は、ことごとく無用の長物とらく印を押そうとする。もちろん、議会なので過半数を超えて勢力がある場合はますます慢心を起こして考えられないようなことをしてしまうが、過半数に満たなければペコペコと頭を下げて野党のもとへ日参することになる。ずる賢い指導者は、国民から、この自分の醜い権力欲を見抜かれないようにと、さまざまなパフォーマンスをするが、国民は実際には彼らの本質をやがては見抜くことになる。結論的には権力者というのは正確に有権者や民衆に真正面に向けなくなるものだといえる。思い上がっているが故に、自分のことを中心に考え、他の者を低く見てしまい、現実とかい離した考え方になってしまうのだ。
 大体において総理が言う事は、自分たちを信頼して、反対する意見を出す者に対して国民がそっぽを向くようにすれば、必ず理想的な豊かな生活と国になると主張する。ところが、いかにもいいかげんであやふやなことを言っているにもかかわらず、さも重大なもののごとく発表する姿は、まさに裸の王様そのものだ。二枚舌を平気で使い分けで、自分の本心をひたすら隠して、実際にはほとんどの国民は否定するようなことにも、状況に合わせてやっていく。だから一貫性もなく思想性もなくフラフラとあちらこちらと動き、その政策が現場まで降りるころには本来の目的も何も分からなくなってただ混乱とそれに乗じて暴利をむさぼる者を生むだけになる。自分の本質はすでに明確に国民から見抜かれているにもかかわらす、あくまでも権力者であるという格好をつけながら自分の気に入ったもの以外をかげで攻撃して醜い権力闘争にうつつをぬかしているというのが現実だろう。その権力闘争からすれば、津波や放射能によって、生活も人生のもすべてが狂ってしまい、どうしてよいかわからずに苦悩している方々の気持ちなんかは、頭の片隅にしか存在していない。
 本来一国の指導者であれば自分の考え方や、自分の所属する派閥や政党を超えて、国民の幸せのためになることであれば、何でも実施していくというのが当然だろう。結局は国民よりもなによりも、我が身がかわいいのだ。国民の人権や生命などは次の次なのだった。
 こんな指導者のに国の政策を託するならば、原発や地震対策にしても我が身の都合のよい方法や企業を選択し、いざ災害が起こったときにはその政策の本音が露呈することになる。自然災害によって多くの人の人命や財産や人生が奪われるのは、不可抗力なものではなく、一国の指導者層の根本的な哲学が貧弱であるからにほかならない。やはり、天災と人災に区別などはない。天災が起こったときに致し方のない災害であると言い訳をするのは、人災であること隠そうとしているにすぎない。
 
“権力の魔性”ということがある。権力を持つと人間は、すべてのものを自分の自由に動かそうとする精神状態になる。そしてそれに反抗する者に対しては自分の存在をかけてまで徹底して攻撃を加えるようになる。それは、正しいとかは正しくないとか、道理にかなっているとかかなっていないとか、そういうレベルのものではない。すべてのものを隷属させたい気持ちに心がとらわれてしまう。したがって、自分に反する意見の者には、あるいは自分に奴隷のごとく使えようとしない者には、ぬれぎぬを着せてまででも陥れようとする。そして自分がこの世界の中で最も正しいと思うようにする。自分がすなわち正義であり道理であり常識であるとする。さらにこの権力者の立場というものを永遠に失いたくないという気持ちが非常に強い執着心となって、それを脅かそうとするものに対しては有無を言わさず抹殺しようとする。この執着心は非常に強く、自分自身が年老いて体力的に無理な状況になってくると、自分の子供に権力を移行しようとまでする。いわば国民は、権力者の欲望を満たすための材料に使われるにすぎないことになってしまう。これは一部の民主主義の発達していない国の権力者だけにあてはまるように思うかもしれないが、すべての権力をもった人間に共通する精神状態だ。
 このような“権力の魔性”のとりこになった指導者に対して人々は頭を下げ、拍手をする状況を作ってしまう。そうさせる大きな力になるのはマスコミだ。今回の政権交代をさせたのは、民主党がすばらしかったわけでもなければ、他党の力不足でもない。中心的に力を発揮したのはマスコミだ。マスコミのおかげで政権交代がなされたといっても過言ではない。これはだれもが感じているところだ。そういう意味からすれば、現代社会においてはマスコミももうひとつの権力者であることを忘れてはならない。テレビに登場するコメンテーターと言われるような人間はテレビ局の意向に沿ったことを言う者しか登場させないのは言うまでもない。それらがテレビ局の意向に沿った風を国民の中に作ってゆき、時には激しく吹き荒れさせることもある。それに国民がだまされ、乗ってしまうと今回のような政権交代劇になってしまう。
 今マスコミは盛んに現政権を批判しているが、厚顔無恥、無神経なマスコミの愚行だ。空につばを吐きかけて自分の顔に落ちてきても平気な顔をして口害を振りまいている。大半の国民はこのマスコミの風に乗ってしまう。そしてその風に逆風を吹かせるような人間の言動は、封じ込まれ、世上からを消されてしまう。そして全体がひとつの方向に向いて進んでしまう。戦時中、強制的とはいえ、ありとあらゆる人や団体が、こぞって戦争を賛嘆したことにウリ二つだ。いっこうに反省をしていない。
 戦時中にしろ現在にしろもちろん、世の中には現状を憂いて、真実に世の中を良くしようとして踏ん張っている学者や政治家や庶民がいる。それらの人々は、非常な努力をして、一種の救国の一念で活動しているがは、いかんせん、強烈なマスコミや権力者の下ではいっこうに社会の主流にはなり得ない。マスコミが作った風、権力者の意向に沿わないが故に人々の目にとまる機会は極端に少なくさせられている。あるいはそういう良識的な人々に対してはよくないレッテルを貼り付けてできるだけ活躍をさせないようにするのが権力の特徴であるともいえる。
“権力者”という表現に対しては、何か古い時代の全体主義的な頃のイメージを受けるかもしれない。また、権力を持っている者とそうでない者という二重構造で社会を見る偏狭な考え方に基づいているようにも思われるかもしれない。しかしよく考えれば、現在の日本において本当の権力者はだれかといえば、有権者にほかならない。政治家はみな国民が選挙で選んだ。そうして当選した政治家によってさまざまな認可作業が行われて、その中に放送関係の政策も入っている。とするなら、テレビ局の認可もいわば間接的ながら有権者が行ってるといえる。とすると、現在の日本の状況は、有権者が自分で自分の首を絞めているにすぎないことになる。権力というものは人間が集団になれば常に存在するものだが、大切なことはその権力をすべての人間の幸せのために行使できるかどうかにかかっている。今の日本の権力構造は逆に多くの人々の生活を一部の人間のために犠牲にさせるような状況にある。こんな中で、どこから優秀な、真実に国民のことを考える政治家や指導者が出てくる要素があるだろうか。社会全体が今回の大震災を契機に、冷静になって考え直す必要があるだろう。ある意味でいえば、これまでの有権者の判断は、今回のような多くの尊い人命を失わさせるような政治や行政を認めてきたといえる。この大震災を契機に、真に反省すべきものは何かを国民一人ひとりが自覚をすることが最も大事ことだろう。
 
 時代は変わり、世の中が移っているということをしみじみと感じる。これから先のことを考える時、これまでのことがあまり参考にならないような気がする。特に人物についてだ。これまでの日本の国に出てきた優れた指導的人物が、これからも出てくるかどうかということについては、過去のことがあまり参考にならない。新しい指導者の人物像というものを考えていかなければ、過去の優れた人物を頭の中に描いているだけでは次の時代を担うような人物が出てこないような気がする。
 これまでの日本は、言うまでもなく世界に誇れるような見事な発展を遂げた。もちろんその間のさまざまなひずみは出てきたが、どうにか解決し乗り越えてきたことは事実だ。だが日本の現状を素直に見るとき、過去の栄光はすでに過去のものとなったのであり、再び同じようなは栄光は日本には来ないのではないかという気もする。
 何よりも考え方の頼りなさだ。総理にしろ、大臣にしろ、あるいは社会の中心的になっている人物にしろ、言うこと為すこと、おぼつかない人が多い。信念を持って時代社会がどのような風に吹かれようが、自らの道を進むという人が少ない。大切なことは、自らの信念を貫くことが、そのまま人々の幸福と連動することだ。このような共に生きて向上をしようとする人物が非常に少なくなった。これからの日本の舵をとっていける人物像は、その人の心の本質として、自分の幸福と他人の幸福が一致できるようなは生き方ができる人になるのではないだろうか。
 今の時代では、一生懸命に世のため人のために生きようとする人間も、投げやりにあきらめて自分のためにだけに生きていくような人間も、一緒くたにされているような状況がある。
 世の中全体の価値観が、浅薄のものになってきている。本来、日本の文化の中で世界に通用するような模範的な生き方や思考というものが、社会の中で価値を見いだされずに、目先のことだけが重要視されている。日本という国が解体されようとしているとも見える。それは悪い意味では、世界に対して存在価値のない、使命を果たすことのできない、あってもなくてもよいような国になってをしまうことだ。

 津波の被害は日変を追うごとにその規模の大きさがはっきりとしてきた。大きな被害を受けた所はリアス式海岸で、湾が陸地の奥の方まで波が上がってくるにつれて勢いを増すような地形になっている。波は海岸から湾の奥まで数キロにわたって押し寄せてきているところもある。波に飲み込まれたところはがれきの山が湾全体に広がっている。もし同じような高さの津波が来たとしても安全な所いといえば、山すそのわずかな土地しかない。とても今回のような津波を止めるほどの防潮堤を作るのは不可能に近いだろうから、故郷を津波に破壊された場所で再び生活を始めるのは難しいように思える。ただいろいろな方法が考えられているようだ。
 それにしても自然は美しく心が慰められるというが、津波も自然であるに違いはない。破壊し尽くされた津波の跡を見渡して、誰が自然は美しいというだろうか。だれが心が慰められるというだろうか。やはり、自然が美しいというのも、心が慰められるというのも、すべて人間の心が勝手に判断していることであって、自然そのものは美などとは関係のない存在なのだ。自然の作り出した造形、などという言葉は実に現実を無視した虚構にすぎない。そう思うと、自然描写に優れた小説や、心が晴れ晴れとするような自然の映像が、実に色あせて、まるで幼児がおもちゃの食器などを使ってままごと遊びをしているように思えてくる。
 人々の生活の基盤である住居が破壊され尽くされた跡地は、復旧作業が始まったとはいえ、まだほとんど手付かずの状態だ。もしまた片付いたとしても以前のようになるかどうかはわからない。避難所暮らしがいつまで続くかも分からない。
 原発事故については一応の事故収拾に向けた工程表を発表して原発が安定するためには六カ月から九カ月としたが、果たしてその通りに行くのか、これまでの経過を考えるとすぐに信じることはできない。数え切れない人々が言うにいわれぬ悲しみや苦しみをを背負いながら生きていかなければならないのに、その生活の場さえ不安定なことでは、悲しみが増えるばかりだ。避難所での人々の生活の様子を見るととても普通の健康的な状態には及ばず、体力の弱い人から体調を崩してゆきそうな状況だ。
 こういう状態の中では人々の心も破壊されてくる。さまざまなボランティアによって支援はされているが、何よりも先頭を切って実際に苦しんでいる人々の中に飛び込み、支援をしなければならないのは政治家や行政の側の役割であるはずだ。ボランティアの方が感謝されているというのは、政治家の無策の表れでしかない。こんな状態が続けば、人々の心に空虚な穴が徐々に広がってゆく可能性が大きい。国や県は物と同時に心の救済方法もしっかりと考える必要があるだろう。生活の場も心も震災前のような状態に戻ることはほとんどできないような現実があるのだから、それを物心ともに乗り越えて新しく出発できるような配慮を早急にしなければならないだろう。


 第五章 政治家の使命
 
 天災が人災になってゆく根本原因は指導者層の思想の貧困さによる。戦後の日本の発展の歴史を見るとき、時々の内閣がしっかりしている時期は経済、社会ともに大きくって発展をしている。また、自然災害が例え発生したとしても、その復興や、次に防ぐための政策を的確に打ってきている。国民の生命や財産、ひいては人生を失わせるような大災害を起こさせるのは、国の指導的立場である内閣全体が国民の幸福を政治の唯一であり最大の目的と心底から考えていない政治家が集まった時に起きるともいえる。こう言うと、次のような反論をするかもしれない。

 「日本は教育水準が世界的に高い国だ。特に政治的指導者層の人々は、優れた学問的な研究を十分に身につけた人が多い。いわば賢い人たちがほとんどだ。愚かな人間が政治家になっているということはそのまま信じられない。それぞれがそれぞれの得意分野を持ってそして内閣を作って、協力しながら国の発展のために尽くしている。原発をはじめ科学技術に優れた造詣を持った政治家もたくさんいる。また教育や文化、経済にも優れた学識を持った人ももちろん多くいる。一人ひとりの政治家はそういう優れた知識と知恵を持っている上に多くの人々から信頼され指名を受けて議員になっている。現にこういう人々が、国民のために尽くしたことは数限りないほどあるし、社会奉仕の一念に徹している人々も多くいる。こういう人々のおかげで悩みが解決しよりよい生活になったと喜んでいる人も多い。
 そういう優秀な人たちが集まって、さらに足らない時には各種委員会のようなものを作り、そこに人材をそろえて諮問機関として、ひとつひとつの政策に対してしっかりと議論をしたうえで議会に提出されるようになっている。その内容はそれぞれの国を代表するような専門家が何人も集まって考え討議し、さまざまに思慮をめぐらして国民のためとなる結論を出したものだ。それを批判する人間は逆に無知か認識不足なものではないかと思えるくらいだ。そしてそれまでできなかった政治上のさまざまな規制などを取り払い、国民の利益となるように作られた。その結果は、一時的にせよ、世の中の老若男女を問わず、拍手喝さいで、まるでこの世の中に救世主が出てきたがごとく、歓迎された。
 それだけ絶大な国民の信頼を得て発足した内閣は、非常に優れていることは間違いない。それををあたかも疫病神のごとく、批判することは、自分で自分の選んだ人をののしっているのと同じで、道理にかなわない。自分で自分を傷つけているのと同じだ。人間の生きる道からすれば、担ぎ出した人でありながら批判するのは、批判する方が罪が重いといえる。逆に、そういう批判ばかりをしてるからこそ、天災も起こってくるのではないか。指導者層が悪いという前に、選ぶ権利を持った人間の良識の無さこそ責められるべきだ。」

 こんなことを言う人がいるかもしれない。しかし、辛い蓼の葉ばかりを食べている虫は、その辛さが分からなくなってしまう。また、臭い便所の中に長くいる虫もその臭いが分からなくなってしまうものだ。一人の人間も、一国も物事の道理が見えなくなればこれと全く同じだ。正しいことを聞いても、逆に間違っていると思い込み、正しいことを言う人を爪弾きにし、できもしないことを言っている人間を正しいと思い込んでしまう。このような物事を見る、あるいは人物を見る目が迷い狂っていることこそ最大の罪であるといえる。何よりもあれほど正しく信頼がおけると思って政権交代した現状を考えれば、辛いものの辛さが分からず、臭いものの臭さが分からなかったことを自覚できるだろう。
 その考え方の基本的な誤りは、政治上の課題を解決するのに実際に現場で正しく政策の成果があげられるものと、言葉だけで途中で現場に届く前に立ち消えになってしまうとの区別がつかないところにある。それがわきまえられずに、最も大切な役立つ政策の方をやめてしまい、スローガンやパフォーマンスでしかない虚構のうほうを取Dり入れてしまうことにある。この判断が賢い人間の集まりである内閣で正しくできないのが不思議のように思うが、学問があり、知識があるのと、それを現実に役立たせるのとは全く違う判断力による。経済学博士が、決して金もうけに長けているわけではないのと似ている。
 的確な判断のできない内閣の政治家は自分たちがいつの間にか、権力を握ったが故に、物事の善悪や道理の判断に狂いが出てきていることを知らない。正邪、善悪よりも、自分たちの立場や利権を守ることを判断の基準にしてしまっているのだ。その結果は、たとえ正しく、良いものであったとしても、自分たちにとって不具合なものは、よくないものとして徹底して排斥することになる。これはひとえに権力を握った人間が無意識のうちに持ってしまう思考だ。全く物事の道理が分からなくなってしまった人間の怖さでもある。そこから出てくる言動は、妄語であったり、奇弁だったり、国民の幸福とは全く逆の方向に進むようなものになってしまう。そしてそのことに自分たちの集団として気がつかなくなってしまうことが最も怖いことだ。
 こういう時には物事の道理をわきまえた人たちが徹底的に追及して不適格さを自覚させなければいけない。ところが、そうする人間がいなく、あるいはいたとしてもマスコミなどに登場して世の中の人の目や耳に触れることがなく、世の中がこぞってこれらの愚鈍な政治集団を祭りあげてしう。祭りあげておいて、次にまた足を引っ張る。マスコミや有権者は、自らの信念なき愚鈍さもまた自己批判されるべきだろう。なにが、本当に国民のためになるのかを、風になど吹かれずに、頭を冷やして冷静に考えなければ、今後の日本の行く末はおぼつかない。

 物事には前兆というものがある。大きな事故や出来事がある前にはさまざまな小さな、それを予想されるような事柄が起こるのが普通だ。よく言われるのは、交通事故で大事故を起こした人は、必ずその前に何度かヒヤリとするようなことを起こした経験があるといわれるようなものだ。今回の大地震、それに続く大津波や原発の事故は起こるべくして起こったという人もいる。
 中間報告だが、亡くなられた方の死亡原因が警察署によって調べられ、結果が発表された。それによると今回の大震災での死亡原因の多くは津波による溺死だった。地震そのものによって亡くなられた方は非常に少なかった。この経過からすれば、十分な備えをしていれば亡くならなくてもよかった方々も多くいたはずだ。
 地震そのものの前兆は今後の研究によるが、それに対する十分な備えをするかどうかは、個人のレベルの問題ではなく、国や地方行政の問題が多い。特に原発への対応は国レベルでしなければ進めることはできない。そうすると、いいかげんな国の指導者が政権の座につけば、そのいい加減さの歪は必ず手を抜きやすいところへ現れることになる。これが大事故を起こす前の人為的な前兆といえる。こういう前兆が積み重なっていったときに、大事故また大災害へと結びついていく。それはやがては国自体の力をも大きく落としてしまう結果になる。無責任な指導者を国民が選ぶならば、言うまでもなくそれは、ひずみを受ける一部の人々の塗炭の苦しみを誘発するにとどまらす、全国民の大きな損失となる。
 この前兆は分かりにくいものかと言えばそうではない。大抵の人が、政権の状況を見た時に、こんな政権が続いていればおそらく取り返しのつかないことになるだろうというような予想は案外簡単にしている。今さらながら国の指導者を選ぶことがいかに重要であるかを国民全員が自覚をしなければならないのではないか。
 無責任な政権というは必ず、表立って攻撃されるようなことがないところで手を抜く。それが前兆となって現れる。優れた人物もこういう政権の中に入ると、その無責任さを手伝うような働きをするのは不思議としか言いようがない。優れた人物をつぶしてゆき、いいかげんな人間が幅を利かせるような国の中枢部となってしまう。こうなると、内閣自体の内部で世の中の常識や良識というものが全く通じない世界が作られてしまう。卑しい者同士がお互いに悪く言い合い、相手を辱めが合う状態になる。それを逆に皆が自由に発言できるので良いことだ、などと賛嘆する。そして団結して物事に当たろうとする人たちに対して、全体主義者などと批判をする。こういう政権に国を任せておけばまさに、天災も人災となって人々に辛酸をなめさせることになる。
 愚かな国の指導者は、あちらこちらと回って自分の考え方を演説するが、その考え方自体が国民を困らせ、いわば国を滅ぼさせるように害毒を振りまいているといえる。国の発展のために、また国民の幸福のために正当な意見を述べるものを徹底して攻撃して、自らの反価値な考え方を賛嘆するような愚かな人間を正当な国の考えとして評価をする。そのことに本人自身はまったく気づかないのが、権力というものを身につけた人間の魔性であるといえる。「人間としておかしい人物」を国の指導者として選んだ国民はまた国は、不幸としか言いようがない。国民自らが自分で自分の顔につばを吐きかけているようなものだ。そのことにいいかげんで気がつかなければ、まさに想定外の不幸の出来事が起こる根本の原因になってしまうだろう。
 このように考えてくると、やはり、国の指導者層の人間のありようは、自然災害の拡大にも密接に関連していると思える。二度と再びこのような言葉にもいい尽くせないような悲惨な、天災人災を起こさないための最も効果的な方策は、真にすぐれた政治家を有権者が選ぶことにほかならない。

 避難生活の現状は非常に厳しい。十分な飲み水や食糧がないという生活は、それこそ地獄のようなものだ。
 また原発事故による放射能漏れが農業へ及ぼす被害も甚大だ。出荷時期を迎えた農作物が出荷制限で売り出すことができず、どうすることもできない。放っておくと作物が伸びすぎて、結局、廃棄せざるを得ない。農業従事者にとって農作物はわが子のようなものだ。それを捨てなければはならないとなれば、身を切られるような思いがするだろう。それでもむなしく耕し肥料をやり水を与える。農家にとって耐えられない日々が続いている。
 また、放射能汚染によって規制がかけられた地域の人々は、住み慣れたわが家を捨て、一生懸命、耕してきた農地を離れて、別の土地へと避難していく。中には家畜を飼っていた人もいる。家畜の移動をどうするか大きな課題だ。農家の人たちは、出荷停止になった農作物を全部買い取って欲しいと言っている。また家畜についても国が買い取ること望んでいる。政府はスピーディーな対応が全くできていない。その間、苦しむのは現場の生産者の人々だ。打つ手打つ手が後手後手でいったい何がやっているのかと農家の人は怒りをあらわにしている。
 福島原子力発電というけれども、東北地方へ電力を供給していたわけではない。東京をはじめとした関東地方送っている。はっきり言えば原発周辺地域の人たちは、関東地方の犠牲になったといえる。どうして東京都内に原発をつくらないのか。ここには明確な差別意識がある。原発周辺地域の人々の経済的な潤いがあるので原発の建設は喜ばれている、という意見や現実も確かにある。しかし少し考えてみれば、これこそ差別であり、失礼な話だ。東京の人が使うのであれば東京の人が放射能の危険性も覚悟のうえで原発を建設するのは当然すぎるほどの話だ。
 とかく都会の生活者は、地方の生産物を当てにして成り立っていることが多い。これは一次産業に限らす、工業生産についてもいえる。過疎化した地方に支えられて過密化した都市の生活は可能になっているといえる。
 特に原発については恩を受けているにもかかわらず、周辺地域の人々への心ないを嫌がらせの言動が一部にあることには、許されない思いがする。避難地から転校した子供たちが、新しい学校で「放射能が移る」といじめを受けているところがあるという。また、ある避難者を受け入れている地域の役所では、避難してきたは人々に放射能測定を勧めているという。このことが問題視されるや「本人の健康のことを考えてアドバイスした」などと言い訳をしている。これなどは、上が上なら下も下だ、とあきれざるを得ない。
 長崎、広島での原爆の被爆者が、長い間、風評被害から耐えられないような差別を受けてきたことは知っての通りだ。国のために受けた原子爆弾によって、それだけの被害にとどまらず、敵国ならまだしも自国の国民からも人権を踏みにじるような差別を受けなければならなかったことは、言語に絶する苦しみだったろう。今回の被災者の放射能問題は、それと全く同じレベルの話だ。
 それでなくても被災された人はきつい避難生活を強いられているのにその上に、電力を犠牲になって供給していたところに住んでいる人間から感謝されるどころか、いじめを受けたのでは憤りが増すばかりだ。
 避難をするときに着の身着のままで逃げてきた人がほとんどで、現金や大切なものもほとんどなくしてしまった。また、お金はあっても商品が流通していず、買うこともできない。被災への支援活動は実に遅く、その間食べるものもなく寒さにうち震える状態が続いた。悲しむ声が、満ち満ちていた。
 どうにか立ち上がろうと気力を取り戻している時に、またまた、大きな余震が何度も襲ってきた。誰もが地震に対する精神的なストレスを激しくて、毎日が恐怖の中で暮らしているような状態だ。もう格好などを気にしていることもできず、見るのも気の毒なほど落ち込んでいる方々が多くいた。
 さらに、放射能に遮られたりもして、行方不明者の捜索も遅々として進まない。発見された遺体も誰なのかを確定するのが日を経るごとに難しくなってきている。また身元不明な遺体は、自治体が火葬して、後でDNA鑑定などによって本人の確認をしようともしている。地元の火葬場では間に合わず周辺の火葬場に依頼もするような状況だ。
 多くの人たちは体力が限界まで達して体調不良にさらされている。仮設住宅や長期間可能な避難場所に移れる人たちはまだわずかではあるが、恵まれている。一時的な避難所での生活もさまざま理由からできない人たちが、被災した町並みを見下ろす高台で生活を余儀なくされている人もいる。こういうところには救援物資もなかなか届かず、厳しい毎日の生活を送っている。寒さをしのぐためのたき火に、大切にしていた家の廃材を燃やさなければならないのも苦しい思いだろう。
 避難生活の中では多くのところで気の毒なことが起こっている。思いやりの深い人が、相手のためと思うがゆえに、自分を犠牲にして尽くすので、先に体力も落ち、疲労が重なっていく。温かい毛布が手に入ればまずは自分のことはさておき、愛する人にその毛布をかけてやるだろうし、少ない食事が手に入った時には自分よりも愛する人へその食べ物を渡してやるだろう。だから、子供のいる親は、先に子供のことを優先して与えてやるので、まずは母親から弱っていく。物事の不条理のような現場がいたるところに見えている。
 行方不明者の方がまだ一万数千人いる。その中には発見されたけれども性別も年齢も予想できないような方もいる。また、当然ながら津波の引き潮の時に海中へと深く流された人もいるだろう。時が過ぎればすぎるほど身元の確認も難しくなる。平時であれば、一人の方が行方不明になれば警察も捜索し、大騒ぎをするものだ。ところが震災においてはあまりにも人数が多く、悔しいことに数として数えられてしまう。
 さらにやっと発見された遺体の中でも、放射能を帯びているということで収容できないままになっている方もいる。その姿を見て、その遺体の方の父は、母は何を思うだろう。その子供はいったいその親の姿を見て耐えられるだろうか。生きていたときのその人の体の温かさ、言動の懐かしさ、愛情の深さを思えば、天と地を引き裂いても心が収まらないだろう。
 このような、人間が人間としてあるためのギリギリの線を行き来している時に、そこに少しなりとも明るい光を注いでくれるのが宗教者の使命ではないのか。震災から四十日以上が過ぎた。いったいこの間、宗教者はいわれる人は被災者のために何をしたのだろうか。この点は後々に厳しく総括されるべきことだと思う。神社仏閣はたくさんある。また多くの宗教施設もある。その専任の宗教者も多くいるだろう。人々が困っているときに救くうのが宗教者の役割ではないか。何もなくて、平和な時に、ニヤケた顔をして人の幸せと、他人への救いの手を差し伸べることをいかにも宗教者らしく説法した人間は、都合の悪いことになると一目散に逃げていって影を潜める。宗教者の前に人間として恥ずかしいレベルのものだ。こういう時に、それぞれの宗教の、また宗教者の本質というものが明確になる。利益にならないと判断した時には逃げていき、金が集められると思ったときには厚顔無恥に人の道を説くなど、反宗教者の典型ではないか。被災地が落ち着いた時には、またぞろ、「有り難い」話をするためにノコノコと出てくるだろうが、その姿はまさに、現今の無責任な政治家と同じだ。
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